転覆 |
電車は目的地のT山駅へ向かっていた。 読み終えた文庫本をバッグにしまい込んで、窓の外に視線を向けた。薄明の空が青く澄み渡っている。周囲のけたたましさが嘘の様であった。それだけに、その風景が一際鮮明に意識された。 左右わずかに揺れるのを感じる。不意にバランスを崩してしまい、隣に立っていたサラリーマンらしき男性にぶつかった。吊り上った三白眼、諌められたのだった。自分はすみませんと呟き、肯くように何度も首を振る。 顔面に張り巡らされた血管が熱を放つのが分かる。俄かに心臓は波打つ、自分は些細なことで差し迫った緊張感を覚える人間であった。 周囲の人々は、未だに首を振り続ける自分を不可思議そうに覗き込み、この顔の不器量さも手伝ってか嫌悪に満ちた視線を向ける。 只管に、叫びたい衝動を覚えた。叫ぶことのできない状況に、無理やりにでも心臓を押さえつけるしかなかった。自分には精神的な疾患があるに違いない。そう何度も唱えることで、少し気を紛らわせることができた。電車に乗っている間、それをずっと繰り返し続けた。 扉が開くとともに、重圧感が徐々に和らいでいくのが分かった。外から清風が吹き寄せる。歩を進めながら、心臓を押さえつけている右手を徐に離した。熱の引いていくのが分かる、そして次第にはっきりしていく思考の中で、明らかに自分は逸脱した人間だと思った。どうして自分は普通に振舞えないのだろう。自分は劣等者であった。 高校に入学してちょうど一年が経とうとしていた。その頃の私は、所詮何をしても無駄なのだという、強い虚無感を抱いていた。私の通う高校の偏差値は35程しかなかった。当然、進学は望めないであろう。偏差値35という二桁の数字が頭の中を支配し続けていた。当時の私にとって、偏差値は人間の価値を測る尺度でさえあり得た。そして自らがどれだけ他人に劣っているのかが、歴歴として理解できた。自分は世間という組織から貶められる立場にあった。 或る日に、図書室を訪れた。それは日課で、私はいつもその場所に訪れて必ず何か一冊の本を借りて行った。その日の前日には、確か梶井基次郎の『檸檬』を借りていたと思う。表題作の『檸檬』は、まるで当時の私の心境を映し出した様なものであった。無気力、退廃、憂鬱――えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。偏差値35から来る、強い敗北感だけでなく、別の何か。将来に対する不安でもない何か別の、広い狭い、覆い被さって来るもの。『檸檬』の一文は、まさに私のその何かを端的に表していた。 室内を一目に見渡すと、木製の矩形テーブルが廊下側に所狭しと配置されていた。対して窓側は、余裕のあるゆったりとしたスペースを有している。窓際に歩み寄る。窓越しに外を眺めると、微雨がしめやかに降り注いでいた。さらさらとした雨音が静けさに溶け込んでいる。それらの雰囲気は底流する不安感を落ち着けた。 窓は蒸気で白く曇っていた。私は瞼を落とし、人差し指で表面を滑らかになぞった。ジムノペディ。半透明な旋律が意識に漂う。心の奥底で澱んでいた憂愁が、溢れるかのように上がってきた。いっそのこと、このまま感傷に呑み込まれてしまいたいたかった。 私は視野の片隅に映る自分の姿を発見した。眼窩は確かに落ち窪んでいる。 廊下側へと歩を進める。六つある内の一番遠い、左端に位置するテーブルまで歩いた。テーブルの下から籐椅子を引き出して深々と腰掛ける。そして、自分の体を乗せた椅子ごと180度反対方向に動かした。ちょうど目の前に、小さな文庫本をぎっしりと詰め込まれた本棚が立っているのを確認した。 不意に静けさが煩わしくなった。空漠としているのにも拘らず、重く圧し掛かる沈黙。何処までも追いかけてくる――えたいの知れない不吉な塊。我慢ならない。私は書架の方へ、身を乗り出すようにして飛び出していた。 俄か眼前に文庫本が迫っていた。『土の中の子供』中村文則、そういえばこの作品は何年か前の芥川賞受賞作であった。――土の中の子供、というタイトルに一抹の不安感を覚えた。一度そう感じてしまうと、自分の中で何か重い黒いものが膨張していくような気がした。そしてその雰囲気はしばらくの間、自分の周りに漂い続けた。 視線を徐に離していった。その際、わずかな緊張が鼓動の音と混ざり合っているのを感じた。胸の痛みが酷くなる。もはや私には目を閉じることは許されていなかった。ゆっくりと首を横に曲げていく。視界から本棚が消えていった。変わりに、静謐な空気感に包まれた籐椅子が現れた。目の前にあの本はない。一呼吸置いて、安堵の息を洩らした。 もうあの本はない。何度か呟いた後、自分は歩きだしていた。5歩程進んで、さっきの本棚と3歩程隔たれているところで止まった。 『堕落論』坂口安吾。タイトルからは、異様な、正常ではない臭いが立ち込めていた。自分はこの不自然な書を紐解くのに躊躇していた。しかし、その書から溢れるのは、得体の知れない何かでも、不安にさせるような何かでもなかった。黒く美しく澄んだ退廃、という形容が一番適切かもしれない。 悩んだ末、自分は書を徐に棚に戻した。 {お前、本当は読んだことあるだろう} 黙れ。 {なんで嘘つくんだ? ほら、さっきだって『土の中の子供』に過剰反応してただろ?} お前には関係ない。 {何をカマトトぶってるんだ? あぁ、そうか。お前は怖いんだな、逃げ込む世界を失ったことが} ・・・・・・ {だから、『堕落論』も『土の中の子供』も読んでいないことにした。違うか?} ・・・・・・ {お前は本が読めなくなったんだ。『檸檬』だって昨日読んだんじゃないんだろう? 既に読んだことのある本をお前は、恰も初めて借りたかのようにして・・・・・・} ・・・・・・ {お前は本が読めなくなった。本はお前にとって、負の象徴だった。そして、1ヶ月前、お前は現代文の偏差値で70・6だった。嬉しかったか? だろうな。劣等感に固められた未来や過去を、初めてぶっ壊せたのだから。決して他人には分からないだろうよ、その喜びは} ・・・・・・ {そしたら、お前本が読めなくなったじゃねぇか。70・6だという自負自負自負自負自負自負の眼でお前は本を読んだ。つまらないんだろ。どいつもこいつも結局は不幸自慢、病気自慢がしたいだけ。かといって、ファンタジーやSFなんか、たかがフィクションと哂って。リア充は死ね。ハッピーエンドはクソくらえ。そんで、何も読めなくなった} ・・・・・・ {ダメ人間が。怖いくせに。ほら、いつもいつも電車でビクビクオドオドしてるじゃねぇか。本が読めてたときは、少しはマシだったろ。読むふりしやがって} ・・・・・・俺は {俺は? で、その続きは何? 70・6を取ったんだ。みたいなこと? 勘違いも程々にしやがれってんだ} ・・・・・・ {何も言えない? あーもう馬鹿馬鹿しい。お前とはもうこれっきりだよ。でもなぁ、小説ってのは単純なものじゃない・・・・・・今のお前に言っても無駄か。けどその自負は破れるよ、いつか。お前は小説書いてけちょんけちょんに貶されるんだ。怒るなよ? それがお前の実力なんだ。そんときに分かるし、小説も本当の意味で『読める』ようになる。だから、今のうちは、せいぜい喜べるだけ喜んでいろよ。不吉な塊もいつかは取れるし} 佇んでいた。誰もいない図書室に自分は一人佇んでいた。これからも一人であるということに、既に自分は気づいていた。そして、私は小説を書こうと思った。 |
山田花子アンダーグラウンド
2013年01月30日(水) 16時09分09秒 公開 ■この作品の著作権は山田花子アンダーグラウンドさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.4 山田花子アンダーグラウンド 評価:0点 ■2013-04-21 08:42 ID:BrBj.1iOdwk | |||||
感想ありがとうございました。 頑張ります! |
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No.3 コウ 評価:50点 ■2013-04-12 17:18 ID:HjmDzY7pCj6 | |||||
楽しく読ませていただきました。 小説として綺麗にまとまっていると思います。 文章も洗練されていて、読みやすかったです。 |
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No.2 山田花子アンダーグラウンド 評価:--点 ■2013-02-01 14:33 ID:L7Ej4Yn/HiQ | |||||
すみませんでした。 改行気をつけます・・・・・・ |
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No.1 天祐 評価:20点 ■2013-01-31 21:20 ID:ArCJcwqQYRQ | |||||
拝読しました。 ちょっと失礼な感想かもしれませんが、狭く浅い印象です。 主人公は矮小な世界にただ浮かんでいるだけにすぎず、そこに物語がかんじられませんでした。 狭い世界なら深く深く心情を掘り下げていくとか、どこかでお話に拡張性を持たせていけるともっと読者は引き込まれるのではないでしょうか。 つぶやきがただのつぶやきで終わってしまっている感じがしました。 あと、トップページの文章作法を確認されましたか。 一読することをお勧めします。 以上、個人的な感想でした。 次回作もお待ちしております。 |
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