匿名希望の殺意 〜アノニマスレポート〜
 会社にいつもより遅れること十五分。山本大貴がタイムカードを押すと会社の二階の窓からは、部下の林浩二が白い息を吐きながら走っている様子が見えた。すでに時計は、八時半の定時を過ぎてしまっている。
「残念だな、林、遅刻だぞ。それにしても、お前が遅刻なんて珍しいな、何かあったのか」
 くそがつくほど真面目な林は、五年目になるというのにいまだに1時間前に出勤をしていた。そんな林が遅刻をしたのだ、よほどのことがあったに違いなかった。
「課長。今日、東西線で人身事故がありませんでしたか」
「ああ、確かにあったな。だがそれがどうかしたのか、変な言い方だがそんなことは、珍しいことでもないだろ」
 大学を出て会社勤めをするようになり十数年、今朝のような遅延の文章は、何十回と見てきた。目の前で見ない限りは、悲惨な事故も遠い国の紛争のようなものだった。そのうえ五分刻みのダイヤのために遅延が五分以上ならダイヤが1周していまい後から乗るものは、誰も気にしなくなる。
「今日の事故の事故は、あの大野歩美が轢かれたんです。ついに四人目が殺されたんですよ」
 興奮気味の林が大きな声で言うと十人ほどの同僚が残らず振り向いた。林は、普段は真面目なのだがこういった事件となると人が変わってしまう。一言でいえば、事件オタクなのだった。
「四番目ということは、あと何人残っているんだ」
「児童誘拐殺人のペド野郎が二人と連続殺人犯が1人の計三人です。どちらも指名手配中で逃亡中ですから今度は難しいと思いますよ。今までは、最低でも居場所だけは、分かってましたからね」
 有能な分こういったところが林は、玉に傷だった。黙っていれば女にも困らなそうな容姿をしているにも関わらずに浮いた話の1つもないのは、この趣味が原因であろう。
「分かったからとりあえず落ち着け。それに遅刻に対して謝罪の一言でもあっていいとは、思わないのか」
「すみません。つい興奮してしまいました」
「分かればいい。早く仕事をしろ」
 正気になりおずおずと仕事を始めた林を見ていると、四人目でこれなのだから七人全員が殺される日には、林の首を切る覚悟が必要であると山本は、思わずにいられなかった。
 そもそも事の発端は、1年ほど前にとあるインターネットの掲示板に“手配書”が貼り出された事だった。七人の犯罪者とその罪状を書き連ねた手配書は、初めのうちは、面白おかしくさまざまな場所に転載された。誰もが犯罪をしていながら平穏無事に生きている彼らのことが許せなかったのだろう。
 そんな事件が様相を変えたのは、半年前の公金横領犯の殺害からだ。大通りを一つ外れた通りで彼は、車にはねられて死んだのだ。当初、人目撃者が一人もいなかったために警察は、ひき逃げとして捜査をした。
 しかし1週間後には、二人目の被害者となる集団暴行殺人犯の少年がコンビニの前で刺されて殺された。そして1か月後には、無免許運転で児童をひき逃げした少年が真昼の公園で鈍器により殴られて死亡したのだ。
 このころになるとネット上では、手配書が再掲されるようになり次は、誰が殺されるのか議論が交わされるようになった。実行犯は、英雄視されるようになり世間が彼の殺人を正当化しようとしていた。
 一連の事件は、殺意を持った人物と実行犯の匿名性から外国語で名無しを意味する言葉を使って、アノニマス事件と呼ばれるようになった。そして最近になると手配書に名前がなかった犯罪者たちが次々にリストアップされだしたのだ。
 殺意は、群衆により肯定されただ実行のみが待たれるようなりつつあった。今日の四人目の大野歩も間違いなく墓穴を先に用意された人物である。
「人を呪わば穴二つ。くわばらくわばら」
 自分の恐ろしい考えにはっとして山本は、誰にも聞こえないように小さな声でつぶやいた。

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 久しぶりに夕刊を買った。やはり事件に対して興味がないと言えば、嘘になるのだろう。家路についた山本が駅の売店に行くといつもなら売れ残っているであろう夕刊がほんの数部を残すだけになっていた。
 見出しは、「アノニマス事件犯人の素顔」「五人目の殺害は、起きるのか」の二つであった。車内を見渡すと誰もが新聞を広げている様子は、二〇年ぶりに見たような気がする。最近は、携帯にかじりつくものばかりで新聞、それもタブロイド紙を読んでいるものなど滅多にいなかった。
 夕刊の記事によると四人目の大野歩美は、電車内で痴漢をされたと何人もの男性を脅して金銭を要求した疑いがあり、昨年の三月に起訴されたものの証拠不十分により無罪となったらしい。起訴は、三人の男性による連名のものであり、全員が金銭の要求を断ったために痴漢として逮捕をされて職を失っていた。
状況証拠によれば彼女は、真っ黒で三人の男性は、それぞれ事情聴取に際して恐喝と金銭の要求があったことを供述していた。それだというのに疑わしきは、被告人の利益にという司法の原則のために無罪になった。
そんな大野歩美も今日殺されたのだが、朝のラッシュの雑踏の中だというのに目撃者や監視カメラの映像さえなかったらしい。予想される犯人像は、計画的で冷酷、社会的に不適合な人物だとのことだった。
ここに林がいたらなんと言うのだろうと山本は、考えずにいられなかった。少なくとも山本が考える犯人像にピッタリな人物は、大野歩美その人であった。考えの通りなら今回の事件は、他殺でなく犯人本人による自殺ということになる。
突拍子もない思い付きであったが間違いとも思えない。もし彼女が自殺であった場合に犯人となるのは、彼女の死を望んだ群衆で二つ目の墓穴に入るものは、彼らの良心の切れ端だ。
今のところ五人目が殺される確率は、手配者の所在が不明のために低いらしいので林の首を切らずに済むのがせめてもの救いであった。

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 ところが4人目の殺害から三ヶ月もたたないうちに二人が殺されてついに残すところあと一人となってしまっていた。林は、いよいよ狂ったかのように最後の一人の殺人を今か今かと待ちわびていたし、世間のほうでも実行犯は、完全に英雄になっていた。
 そのうえ先日殺害された児童誘拐殺人犯により一人娘を殺された父親は、こう言ったのだ。
「あの糞野郎が殺されて嬉しいです。のっぺら坊さんには、感謝をしていますが、できることなら自分の手であいつを裁いてやりたかった」
 のっぺら坊とは、実行犯が必ず人目のある場所で犯行を行うにも関わらず顔が誰にも目撃されていないことからつけられた俗称である。何でも罪を犯した者がそののっぺらな顔を覗き込むとそこに過去の自分の罪が映るらしく、懺悔を拒否すると殺されるのだそうだ。 
 いつの間にか仕事帰りに夕刊を買うことが山本の習慣になっていた。電車の中を見渡せば、アノニマス事件以前には、見られなかったであろう新聞や週刊誌に食いつく人々が大勢いる。かくゆう山本もその一人であった。
 読むペースが遅いために夕刊をじっくりと読んでいるとちょうど家の最寄駅に着くのだ。今となっては、それまで何をしてこの時間を過ごしていたのかたった三ヶ月まえのことだというのに思い出すのが難しい。
山本の家は、会社から電車で四〇分ほどの駅前の公営住宅である。しかしその日は、どうも様子がおかしかった。明らかに記者やカメラマンと分かる格好をした人々が山本のお隣さんである田村さんの家に押しかけていたのだ。
「ただいま」
 そんなご近所さんを横目に山本が家に入ると奥から妻の美樹が出てきた。エプロンをしており何やら台所から香ばしいにおいがしたことからどうやら料理中であったと推測できた。
「おかえりなさい。ねぇ、聞いてよ。おとなりの田村さんどうやらあの事件の最後の被害者らしいのよ。人がいいけど、どこか疑りぶかくっていつもなにかに怯えていたのは、そのせいだったのね」
 おいおい「おかえりなさい」なんていつ以来だよとツッコミたい気もしたが今は、田村夫妻のことが気になった。
「あの事件ってアノニマス事件のこと?」
「そう、そのアノニマス事件の最後の被害者らしいのよ」
「そうかじゃあ田村さんの娘さんと息子さんは……」
 山本は、そこで言葉に詰まってしまった。
「それよりも料理中だったんじゃないのか油の音が聞こえるぞ」
 山本が話をそらすと美樹は、「いっけない」と言って慌てて台所のほうへ戻っていった。
 最後の事件ついては、一昨日に林と飲みに行ったときに耳にタコができるほど聞かされたのでよく覚えている。
お隣の夫婦の子供が殺されたアノニマス事件の最後の一件が起きたのは、一六年前の暑い夏のことだった。田舎の祖父母のところへ孫をつれて帰郷した時の出来事で少し目を離したすきに小学生の娘と息子がいなくなってしまったのだ。
 日がくれれば帰ってくるだろうと考えていたが何日待っても帰ってこず。二人が次に目撃されたのは、失踪場所から二百キロもはなれた山の中で失踪から半年後のことであった。死因は、栄養失調で手足には、骨に食い込むほどの強さで縄が巻かれたままだった。
 幸いにも犯人は、すぐに見つかった。しかし警察が彼の家に押し入った時には、すでにもぬけの殻で逃走をしたあとであったらしい。そして以来十六年にわたって殺人犯の伊庭吉郎は、逃げ延びていた。
 十六年前か。俺は、大学の三年生で初めてできた彼女に浮かれってたっけと物思いにふけっていると「ご飯できたからはやくして」と美樹にどやされた。

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 最後の一人の伊庭が飛び降り自殺をしたのは、その三日後の土曜日の事であった。林は、有給をとり、新聞や週刊誌は、店頭から姿を消した。
 次の日の朝に山本がいつものように新聞を取りに外に出ると田村夫妻がスーツ姿で扉をあけて出てきた。
「おでかけですか」と山本が聞くと「今日は、事件のことで記者会見を開きます。一二時からですのでどうぞ見てください」とだけ言って何事もなかったかのように行ってしまった。
 行く予定であったゴルフの打ちっぱなしをキャンセルすると山本は、お隣さんの記者会見が始まるのをそわそわしながら待った。そして一二時になりニュースが始まるとすぐに記者会見の中継に画面が切り替わった。
「おい、美樹。はじまるぞ」
山本が告げると美樹は、洗っていた皿を放り投げるように置いて居間にやってきた。テレビの中で田村夫妻の夫にマイクが手渡されると2人は、背筋をぴんとのばして正座をしてまるでありがたいお話でも聞くかのような姿勢になった。
「まず初めに感謝の言葉を述べたいと思います。伊庭吉郎を殺してくださった日本国民の皆様ありがとうございました。おかげさまであの子たちもあの世で喜んでいることでしょう。私たち夫婦は、あれ以来長いこと犯人を捜し続けてきましたがついに見つけることができないまま昨年に時効を迎えました。それとここで一つ告白をさせていただきます。」
 会場がにわかに色めく、早く口を開けと言わんばかりの無言の圧力が田村夫婦に向けられている。
「私たち田村剛と田村睦美は、アノニマス事件の犯人です」
 先ほどまでの圧力が嘘のように消え去り、ただ静寂のみがそこに残った。
 狂気の宴が始まる。そこにいた記者たちは、林のように狂いだし我先にと手を高く挙げマイクとカメラを手に田村夫婦に迫る。テレビの画面がまるで曇ってしまったのでは、ないかと思うほどの熱気が会場には、充満していた。夫妻がお互いに抱き合って顔に光る物が見えたと思った瞬間、画面は、花畑とお決まりの文字の並んだものになってしまった。
 
 二日後の朝刊には、こう書かれていた。
〈田村剛、睦の夫婦は、一六年間児童誘拐殺人犯の伊庭吉郎を殺害するために探していたが昨年時効を迎えた時に伊庭の捜索を諦め、それ以降は伊庭を精神的に苦しめるために伊庭を捜索する過程で情報を得た逃走犯や重罪犯を手配書の形式をとって殺害したと供述している。
 自宅を捜索したところ六件の犯行を裏付ける物的証拠が見つかり近く殺人罪として立件される見通しである。なお伊庭芳郎の自殺については、殺意は認めたものの犯行が確認できないために現在どの刑罰を適応するのか検討中である。〉
 
 山本がいつもの時間に家を出ると外に記者とカメラマンがいた。
「すみません。田村剛、睦美夫妻についてのお話を伺いたいのですが。彼らは、どのような人物でした?」
「おとなしい人物でとてもあんな事件をするような人には、思えませんでした」
 それだけ吐き捨てるように言うと早足で山本は、会社へと急いだ。
 
サニー
2013年01月19日(土) 14時06分18秒 公開
■この作品の著作権はサニーさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
こんにちは、サニーです。

年末年始が忙しかったので久々の投稿となります。
今回の作品には、副題がついていますがこれは、一度副題を付けたかったというどうでもいい理由で付けてあります。

ご感想とご指摘をお待ちしています。

この作品の感想をお寄せください。
No.7  青空  評価:40点  ■2013-12-08 22:03  ID:wiRqsZaBBm2
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テーマと設定がよかったかな。展開が気になったので読めました。
もっと、膨らませると肉付けがしっかりとできて、かなり膨張できるかも知れないですね。三展開を五展開にすると犯人に肉がついて、もっと怖かったかも知れないですね。
No.6  サニー  評価:--点  ■2013-02-05 15:31  ID:gLIHkLer5N6
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おさん、天祐さん
感想ありがとうございます。

林にせっかく事件オタクという設定をつけても使い切れないのは、実力の不足によるものだと思いますorz
それにお二人に言われた通り人物同士の関係づけが弱すぎです。
本当になぜ書いているときは、気づけないのか……

次の作品では、もっと人を動かしてみます。
ご指摘ありがとうございました。
No.5  天祐  評価:20点  ■2013-01-31 21:08  ID:ArCJcwqQYRQ
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拝読しました。
わかりやすく丁寧に進行していくお話はとても好印象です。
だからこそストーリーの平坦さが際立ってしまったように思います。

くだんの夫妻を冒頭から主人公と親密な関係で登場させておくとか、夫妻と林君になんらかの関係性をもたせるとかいろいろな仕掛けをして、伏線を最後に一気に回収するとインパクトが全く違うのではと思います。

上手な方だと思います。
伸び代の大きさを感じました。

次回作を楽しみにしております。
No.4  お  評価:30点  ■2013-01-31 11:37  ID:L6TukelU0BA
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どうもです。
最後があっけない感じは確かにですね。ミスリードが特にあるわけでなく。お隣夫妻の印象づけもとくにないし。そういえば、林君、どこ行った?的な。
山本夫妻の普通さが良いですね、
No.3  サニー  評価:--点  ■2013-01-31 06:42  ID:gLIHkLer5N6
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帯刀穿さん
山田花子アンダーグラウンドさん
感想ありがとうございます。

「驚きというよりあっけない幕切れに感じた」
いつも同じことを言われているような気がします。今度は、きれいに終わらせるように注意をします。

「ラスト、思わずニヤリとしてしまいました」
ありがとうございます。アルジェリアでのガスプラントテロ報道での記者の態度が問題視されていますが当事者は、どのような気持ちなのでしょね、

No.2  山田花子アンダーグラウンド  評価:50点  ■2013-01-30 16:15  ID:L7Ej4Yn/HiQ
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ラスト、思わずニヤリとしてしまいました。
No.1  帯刀穿  評価:40点  ■2013-01-20 17:06  ID:DJYECbbelKA
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堅個な文章で、かなり読みやすい。必要以上に文章を飾らず、それでいてほんのりとした色づけという意味での修飾された文がよかった。
ストーリーもまた、この長さにしてはきちっとしており、ショートとしての位置づけはよかった。ただ、驚きというよりあっけない幕切れに感じたのは、個人的な印象だろうか。
総レス数 7  合計 180

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