INUと猫
 薄藍色の闇を遍く透過させたカーテンが憂鬱そうに垂れ下がっている。鈍よりとした痛みが断続しながら意識を波打つ。
 朝の気配が闇の中を漂い始めていた。枕元に置かれた電波時計で時刻を確認する、午前五時二七分。喉がひりついて痛い。ベッドの下に落ちているペットボトルを拾い上げる。勢い曲げた腕の関節に疼くような痛みを覚えた。もう片方の腕にペットボトルを持ち替えて、濁り澱んだ清涼飲料を攪拌させる。水泡は浮き沈みを繰り返す。それを目にする度に、軽い眩暈と妙な心地よさを覚えた。
 生温い液体を喉に流し込む。徐に喉が水垢のような滑りで覆われていく。俄か気管に異変を感じて、喉元を押さえると、白濁した痰が口外に飛び出した。突然のことに、胸が早鐘を打ち始める。汗が染み渡ったT−シャツを脇に脱ぎ捨てて、指先で動悸のする胸に触れた。微かに熱を帯びている。そのまま黙想に入り、呼吸を安定させると、しだいに平生の静けさを取り戻していった。眼を開くと、枕辺に果てた痰の空寂しさ漂う。
 脱ぎ捨てたT−シャツで痰を丹念に拭取る。善く善く視れば、細長く赤い糸のようなものが僅かに混じっていた。凡そストレスが原因なのであろう、自律神経系の病気に悩まされていた時分もそうであった。付随して、軽い血痰のようなものが出ていたのだ。
 下腹部に力を込め、疲弊し切った体を起こす。腹筋に攣ったような痺れを感じ、息が微かに漏れた。寝汗の纏い付くベッドから降り、不格好に立ち上がる。
 勢いカーテンを引き開ける。眼前に青い靄が広がる。一呼吸置いて、錆び付いた窓を押し開く。朝ぼらけ独特の風がひと吹きした。野鳥たちは翼を並べて、夜明けの空を自由に飛び回っている。時折耳に響く彼らの囀りが、鈍磨した意識を冴え渡らせる。
 老人の如く佇んでいる箪笥から、長袖のT−シャツを取り出す。素早く真ん中の穴に首を通し、同様に右と左の穴に両腕を通した。箪笥の上から、乱雑にばら撒かれた紙幣を数枚抜き取り、ジーンズの狭小なポケットに無理やり押し込む。床に落ちていた家の鍵を手探りで見つけ出し、六畳間を後にした。
 表へ出ると、破屋寸前の家々が窮屈そうに立ち並んでいた。貧乏臭いと言えばそれまでだが、それらの寂寥な外構えからは一種の日本的な風情を感じる。一軒一軒眺めていくと、中には外壁から何までひどく荒廃したようなものもあった。犇き合う家々の中で、唯一その家のみが広くゆったりとした土地を有していた。広大な庭には、人の背丈程の向日葵や名も知らぬようなエキゾチックな毒々しい花々が散在し、自分が恰も異国に居るかのような気持ちにさえなった。
 その付近は往来と道路の境界線がなかった。家と家とが差し向かい、列が続くようにして構成されたその狭小な空間は、車一台通るのが精一杯であったのだ。
 視線を遠くすると、小さな猫が路傍で死んでいるのが分かった。徐に近づき、全身を隈なく眺め廻した。腹部から臙脂色をしたリール如き細長い腸が飛び出し、それが頭部付近にまで伸びている。思いのほか、出血は少なかった。車に轢かれ、その重さがために圧死したのであろう。
 どれ程の時間そこで佇み、絶命した猫を凝視し続けていたのか分からなかった。車のクラクションが鳴り、気がついたときには無神経なほど強烈な日差しが肌をじりじりと照付けていた。

 片手に大ぶりなスコップを携えて歩く。もう片方の手にはビニール袋と、その中には水を含ませた雑巾がある。猫を葬ってやろうと考えたのだった。保健所に依頼するのは少し気が引けた。そして、何より自分の手で葬ってやりたかった。
 猫が絶命した場所に戻った。しかし、肝心な猫の死体がなくなっていた。血の跡もない。狐に抓まれたような感覚を覚えた。
「兄ちゃん、何佇んでんの?」
 濁声に反応して振り向くと、五十くらいの精悍な顔つきをした男が立っていた。
「え、い、いやああああの・・・・・・」
 反応に窮し、しどろもどろに返答していると、男は諒解したかのように頷いた。
「あぁ、猫ね。もう俺が処分してやったよ」
 処分、という物言いに少し腹立ちを覚えたが、ここまで丹念に清掃してくれたのだ。兎にも角にも、感謝の念に尽きない。
「あああ、ありり、あがとうございます」
「ん? 何どもってんの? 兄ちゃん、まさかくるくるなんか?」
 男は人差し指を頭上で廻し、対峙する自分を恰も精神異常者であるかのように扱う。
「くるくるっくるくくるっくるるるく・・・・・・」
 男は混乱している自分を睨み付けて、足早に去っていった。
 自分には吃音症の気があった。中学生の時分に自意識が昂じて以来、他人と話すと必ずと言っていい程どもってしまう。赤面症も伴って、周囲からはよく白眼視されたものだ。
 路傍には石塊が転がっていた。下腿を後ろに向かって、膝が九十度曲がる程度に上げる。そのまま力を込めて石塊を蹴りつけた。しかし、石塊は動かず、踝をアスファルトの固い地面に勢いぶつけてしまった。ゴリッと骨髄にまで響く音がして、痛みが踝を襲う。右足を引き摺りながら歩き、自宅へと進んでいく。
 自宅に着いた頃には、空が雲がかっていた。上がり框に腰を下ろし、膝頭を掴んで、ボロボロのスニーカーをゆっくりと取り外す。靴下を脱ぎ捨てると、右の踝が蒼く腫れあがっていた。立ち上がると、痛みが下肢を走り回る。歩くたびに鈍痛がする。冷蔵庫の上部を開けて、氷を数個取り出した。指先がじんじんと冷える。そのまま踝に押し当てた、段違いに冷たい。骨髄に痛みが響く。
 氷が指の間を抜けていった。表面が液体化し、滑り気を帯びたそれは床に落ちた。床一面にあった雑誌や単行本の一部に水がかかる。『rockin‘on2月号』の表面を溶解した氷が滑っていく。そのまま斜めに滑り、『事件に走った少女たち』の処で留まった。
 冷蔵庫を開け、『MIU』とラベルに書かれた飲料水を取り出した。キャップを廻し、口に付けて、一息に呷る。熱気と唾液で混濁した喉を一直線に通っていった。ベッドを上り、錆び付いた窓を押し開く。風が起こるのを予期したが、無風であった。疲労や虚しさがドッと押し寄せてきた。ベッドに体を委ねる。瞼を落とす。微睡んできた。踝の疼きが頭の中を揺ら揺ら回っていた。
 雨の音が聞こえる。深閑とした部屋に音が遍く。小さな音波がひっきりなしに続く。心地よいリズムであった。それは踝の疼痛と相俟って、よろめく不安を落ち着けた。
 意識は徐に薄れていく。訪れる睡魔に意識を委ねた、夕立が過ぎていく音の中で。
 
山田花子アンダーグラウンド
2013年01月14日(月) 10時55分41秒 公開
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No.4  山田花子アンダーグラウンド  評価:--点  ■2013-01-30 16:12  ID:L7Ej4Yn/HiQ
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すみませんでした。改善します。
No.3  マルメガネ  評価:30点  ■2013-01-16 21:46  ID:pf.5tNfpXhQ
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拝読させていただきました。するりとした表現がいいです。
話も普通の日常でのできごととして書かれているのがいい。
No.2  詩葵  評価:30点  ■2013-01-16 15:04  ID:L6TukelU0BA
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こんにちは。読ませていただきました。
私もこれくらい自然な表現ができたらいいのに、なんて思いながら読ませてもらいました。
私にも吃音の友人がいるのですが、よくこんな感じで詰まっています。
お話自体は普通なのに面白く読めたのは主人公の設定や表現のためでしょうね。
最後の終わりかたもスッキリしていて好感が持てました。
ありがとうございました。
 

No.1  帯刀穿  評価:20点  ■2013-01-15 18:33  ID:DJYECbbelKA
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非常に整っていた。表現力もあり、行き過ぎて堅苦しい感覚もなかった。
練習用として記載したのだろうから、何の問題もない。
ストーリーではないので、普通ということで。
総レス数 4  合計 80

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