よく分からないが恐ろしく緊急の事態
   1 夜の携帯電話・扉

 夜の街を、携帯片手に走る男がいる。僕だ。
「まあ、とにかく待ってろよ! 急いでそっちに行くから!」
「分かった。早く来てくれ。じゃないと本当にマズいことになっちまう……」
ようやく電話を切った。ここから杉田のマンションまでは、電車を二本乗り継ぐわけだが、その乗車時間だけでも三十分。おまけに僕のアパートも杉田のマンションも、駅から一キロほど離れていた。

 ――テレビを見ながらゴロ寝……。もうすぐ九時ってころだった。CMが続いて寝ぼけていた。
 そこへ着信音。ベートーベンの『運命』が急に鳴った。僕はコロコロ着信音を変えるのだが、これは失敗だった。ビックリしすぎて神経に障った。発信者は杉田だった。
「マズい! 木下! 助けてくれよ!」
「なんだよいきなり! それにしても久しぶりだな。元気か、嫁さんは?」僕はいたずら好きで快活な杉田の冗談だと思い、杉田のフリに乗るのをやめ、普通の挨拶を返した。
「それどころじゃないんだよ!」
「分かった分かった。何があったんだよ?」
「あのなあ、俺……」杉田はやけに重苦しい。
「何だよ」僕は半分笑いながら言った。
「景子をなあ……」
僕の胸は徐々に高まり、何か不穏な気配を感じはじめていた。
「景子を……」杉田は息を殺し、声をひそめた。
「……どうした?」
「……殺したくなっちまったんだよ!」
 はじめ、意味が分からなかった。でも、何か悪いことが起きてしまい、それに対して杉田が腹を立てているのだろうと思った。
「待て待て、意味が分からんぞ。どういうことだ? 嫁さんが何かしでかしちゃったのか、景子さんが?」と、僕はたしなめるように訊いた。
「いや、何もしてない」
「待て、景子さんはどこにいるんだ」
「リビングでテレビ見てる……な」
「なんで、その……殺したくなっちゃったんだよ?」僕は本気にすべきか冗談にすべきか分からなかった。杉田がどの程度本気なのか、まだつかめなかったからだ。
「あのなあ、それは――」
そこで杉田は言葉に詰まった。よほど言いたくないことがあるのだろうと思った。杉田は景子さんを深く愛していた。それはもう溺愛というべきものだった。
 とりあえず、僕は杉田を励ますなり心を落ち着かせるなり、話をしようと思った。だが、僕が声を出したのと同時に杉田は話しはじめた。
「まあ――」と、僕。
「なんだか知らないけど、果物ナイフで刺し殺したくなっちまったんだ」と、口早に杉田は言った。
僕は一瞬青ざめ、冷たい汗をかいていた。それは不意に聴いてしまった呪いの言葉のようだった。僕の意識の底に沈みこみ、これからずっと、僕はその呪いに苦しめられるだろうと思った。
「やめろよ――変な冗談」
「いや、冗談なんかじゃないんだ。俺も初めてなんだ、こんな気分」
「やめてくれよ」
「だから、俺が景子を……しないように、止めてほしいんだ」
どうやらこの話は、本気にすべきらしい。
「お前、大丈夫か頭? どうしたんだよ!」
「分からないけど、どうしようもないんだ。俺が教えてほしいくらいだ。助けてくれ!」
「分かった分かった。でも、どうすればいいんだ?」僕は自分の息を落ち着かせながら訊いた。
「とにかくここに来てくれ。少しでもこの場が変われば、この気分も収まると思う。ああ……でも早くしてくれないと、俺、本当にやっちまいそうだ……」
「待て! 今すぐ出るから、できるだけ他のことを考えろ!」と、僕はズボンをはいてシャツを羽織り、財布を探しながら言った。「お前が外に出るってことはできないのか?」
「いや、できない」
「なぜ?」
「その前に――殺しそうだ……」
「……」

そんなわけで、何と答えていいか分からないまま、僕は静まった住宅街をバタバタと駆け出したのだった。

   2 電車での移動・変換

 駅まで走り、改札をくぐってホームへ駆け上がった。日曜、夜のホームは人もまばらでシンとしていた。そこに立って電車を待っていると、さっきまでの切迫した状況がウソのようだった。まるで別の世界にいるようだ。
電話の内容を振り返ってみた。あらためて思いだすと、信じられないことばかりだ。改札をくぐったあとからは現実味があった。ふと僕は、野口五郎の歌を思い出していた。
   かいさーつぐーちでー、きみのことー
続きが分からなかった。「ものでしたー」は覚えているのだが。あと、やはり「熱いコーヒー飲みませんか」の部分。
 ……と、電車が来るアナウンス。電車は来た――普通に来た。下車する客も乗車する客ものんびりしている。僕もそれにあわせるようにして乗車した。席はガラガラ。長い座席の中ほどに、デンと腰かけた。向かい側の窓には僕が映っていた。その僕に、僕は問いかけた。
「何なんだよ、これ?」
すると、それに僕が答える。
「いつものことだろ」
それで終わり。とにかく、今回のミッションは、これなのだ。
《なんだかよく分からないけど、急に嫁さんを殺したくなっちまった杉田のマンションに行って、それを止めること》
僕自身意味がよく分からなくても、今僕がしなければならないのは《これ》なのだ。途中でやめるわけにはいかない。何かあったとき、着信履歴で僕は重要参考人として出頭させられるだろう。犯行直前に、容疑者と何を話したとか、あなたが容疑者の要求通り止めに行っていれば、犯行は起こらなかったかもしれないのに……とか。
 かと言って、当然ながら今の段階で警察に連絡する気にはなれなかった。だから、やはり奇天烈ながら、僕は杉田のマンションに行って止めようとしなければならないのだ。まあ生きてること自体がよく分からないミッションとも言えるだろうし。ハハハ……。

 僕はもはや焦ってもいなかった。よく言うところの、「焦ったってしょうがない」や、「心配してもしょうがない」をこれほど実感したことはなかった。中学時代からの友人が殺人をしそうだという事態にあっても、これは真実なのだ。むしろこんな事態だからこそ、真実だと感じたのだろう。あまりにも、やるべきことがハッキリしている――急いで行って、止める。淡々と行動するのみ。
 乗り継いだ電車はさらにすいていた。杉田は郊外の外れに住んでいた。誰もいない車両で、やはり僕はど真ん中に座った。数分後、気になったというより、寂しさで杉田に電話をかけた。
「もしもし……」杉田はやはり息を詰めている。
「もしもし、今向かってるから。あと五分で電車降りるから」
「急いでくれ! 頼む、もう限界が来そうだ」
僕は、何か他のことを考えさせた方がいいだろうと思った。
「お前は今どこにいるんだ?」
「え?」
「今、どの部屋にいるんだ?」
「キッチンだよ」
「なんでそんなところに?」
「知らない。ここであんなこと思いついちまって、もう一歩も外に出られないんだ」
「そうか――とにかくそこでじっとしてろよ。ところで、今日何かあったのか?」
「知らん。いつも通りだった」
杉田はさっきからずっと息苦しそうに話していた。僕はその切迫した気持ちにはどうしても共鳴できなかった。
「いつも通りってことはないだろ。そうだとしても言ってくれよ」
「それどころじゃないんだ!」
「いいか、お前を落ち着かせるために訊いてるんだぞ。他のことを考えたらいいと思って――」
「今はそんなこと考えられない!」
その時、僕は悟った。杉田は『衝動』を抑え込むのに必死だったのだ。少しでも油断したら、行動に出てしまいそうだったのだ。
「分かった。お前はとにかくじっとしてろ。急いで行くから」
「頼む……」
 電話を切ったあとは、さすがに僕も息が荒くなっていた。だが、ここではやはり焦ってもしょうがない。電車を出たらとにかく走ろうと思い、背筋を伸ばした。

   3 実際の現場・運命

 電車が速度を落とすと、僕はドアの前に立った。陸上大会のスタート前のようだ。ドアが開いた瞬間に僕は一気に全速力で走った。改札で素早くSuicaを叩きつけ、そこから杉田のマンションまで速度を緩めずに走った。人はほとんどいなかったが、途中で街路樹や標識の柱に当たりそうになった。そして実際、よけきれずに一度肩を鉄柱にぶつけた。しかし、かまわず走った。暗さに腹が立ったが、これがミッションなのだ。そしてやはり、友人を殺人者にはしたくなかった。
(杉田、殺すなよ……殺すなよ……!)
 エレベーターを待たずに、マンションの五階まで階段をのぼった。杉田の「甘い生活」の砦であった505の前に来ると、すぐさまインターホンを探した。さすがに焦っていて、無駄な動きが多かった。見つけると僕はそれを連打して叫んだ。
「木下です! 開けてください! 奥さん!」
叫んでから、隣近所に怪しまれるのではと思ったので、分別のある呼びかけをした。
「開けてください。大丈夫ですか?」僕は助けに来た者なのです。不審な者ではありません!
……返事がない。
「木下です! 景子さん、開けてください!」僕はやはり大声を上げていた。
 すると、ようやくドアが開いた。
「なんだ、木下じゃないか? 大声あげて……どうしたんだ?」
出てきたのは、チェック柄のパジャマを着た杉田だった。はじめは不審な客だと思って、警戒して開けたようだった。だが訪問客が僕だと気づいて、すぐに以前と同じ好青年に戻った。あいかわらずのスポーツ刈りで健康そのものに感じられた。それを見るなり、僕は口がきけなくなってしまった。杉田は笑いかけている。何が起こったんだ?
「アレ? お前……?」と、ようやく僕は声を出すことができた。
 その直後、杉田の目が開き、小刻みに震えだした。
「ど、どうしたんだ?」僕は杉田の肩を支えようとした。ところがその前に杉田は血を吐き、崩れた。その後ろに女がいた。突然暗闇から現れたので、僕の背筋は凍りついた。ずっと杉田の後ろにいたのだろう。別人のようだったが、それは奥さんだった。奥さん、つまり景子さんは、白目をむいて倒れた杉田を見ていた。恐怖に震えながら僕も下を見ると、杉田の背中には、果物ナイフが刺さっていた。僕は叫び声を上げ、地べたに尻もちをついた。
 それと同時に、景子さんは杉田の背中から、両手で思いっきりナイフを引き抜いた。
   杉田の声にならない断末魔
そして、僕へと視線を移した。その目は何を意図しているのかまったく分からなかった。僕は体を動かすことができなかった。動かそうとすると震えが大きくなるばかりで、そのまま気を失ってしまいそうだった。僕は恐怖でその場から逃げたいのと、気を失いたくないのとの狭間で、その均衡を保つのに精いっぱいだった。自分がここで死ぬのだという思いが、だんだん形を伴って感じられた。
 景子さんは、僕から視線をそらさずにしばらく突っ立っていたが、やがて思い出したようにナイフを握りなおした。それから、その切っ先を自分に向け、パジャマ姿の腹に思いっきり刺した――僕を見つめたまま。そして景子さんは杉田の上に倒れ込んだ。僕は二人から目をそらすことができなかった。

 やがてマンションの住人たちが騒ぎ立てはじめた。そのうち警察も来るだろう。とりあえず安心はしたのだが、残念なことに僕は意識を失うこともできず、あいかわらず震えつづけていた。僕の空っぽの頭の中には、「事情聴取で僕が言うことを、警察は信じてくれるだろうか」という考えが、いつのまにか湧き上がっていた。
(了)
大田村偉斗
2012年11月14日(水) 02時18分56秒 公開
■この作品の著作権は大田村偉斗さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
友人が殺人をしてしまいそうだと電話をかけてきました。僕は急いでそれを止めに向かいます――。
よろしくお願いいたします。

この作品の感想をお寄せください。
No.3  マルメガネ  評価:30点  ■2013-01-12 21:34  ID:pf.5tNfpXhQ
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 拝読させていただきました。
 最初からするりと引き込まれるところがいい。実行犯が杉田自身かと思わせぶりなところもいいですね。
 今後の作品を期待しています。
No.2  大田村偉斗  評価:0点  ■2012-11-25 03:31  ID:hfygoTzF6io
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昼野さん、ありがとうございます。

確かに、もうちょっと発展させても良かったかとも思います。自分はある程度のとこで切り上げがちだとも認識していましたし。
これは少し前に書いたものだったのですが、もっと切迫したものもアップしていきたいと思います。
No.1  昼野陽平  評価:30点  ■2012-11-24 17:55  ID:/M49zwFIFX6
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読ませていただきました。

理解しがたい不条理な暴力、みたいな感じですかね? 最後まで飽きずに読めました。
もうちょっとはちゃめちゃやってもいいかな、とも思います。

自分からは以上です。
総レス数 3  合計 60

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