平成元年のドッジボール |
*** 1989年について書く。 1月7日、昭和天皇、崩御。小渕恵三内閣官房長官の発表により、年号は「昭和」から「平成」に改められた。これにより、「昭和」は64年と7日間の長い長いときを経て幕を閉じ、時代は「平成」へと移ることとなる。「平成」はまだ終わっていないので振り返ることはできないが、「昭和」という時代を振り返って、僕が感想文を一本書くとしたら、それは、「いろいろあった。」というたった8文字(句読点含む)に集約される。なぜなら、僕は昭和50年の生まれであり、長い長い昭和時代のその殆どを、リアルタイムで生きてはいないからだ。 2月9日、漫画家、手塚治虫氏、死去。日本漫画界、ならびにアニメーション界のパイオニアであった同氏の逝去に、日本国民の多くが心を痛めた。だが、これは僕にとっては割とどうでもいいことだ。なぜなら、手塚氏の作品の多くは、僕の胸の中で、今でもまだ、脈々とその拍動を止めていないからだ。 2月15日。ソビエト連邦軍がアフガニスタンより撤退。政治のことはよくわからないが、戦争や殺戮によって生じた憎しみは、新たな憎しみしか生まない。だからまあ、これは割と良いニュースだったのかもしれない。でも、あまり詳しくはわからない。 2月26日、その前年に完成した東京ドームにおける最終公演にて、フォークグループ、「オフコース」解散。小田和正氏の美声による、♪さよなら、さよなら、さよなら(アーアアー)、もうすぐ外は白い冬ー♪の楽曲がもう聴けないのかと思うと非常に残念に思えたが、実はそんなことはなく、この日以降も、人生のありとあらゆる場面で、僕はこの曲を耳にすることになる。当時はそんなことなんて考えもしなかった。 3月29日、東京都足立区綾瀬にて、女子高生コンクリート詰め事件、発生。そのあまりの陰惨さと、16歳から18歳という、当時としては若い少年たちによる犯行であったことが、世間を大きく賑わせ、各種週刊誌は連日トップで、この事件を報じた。この事件について僕は格段の関心(とは言っても、単なる好奇心ではなく、たとえばカポーティの『冷血』に通じるような、宿命的関心だ)を寄せてはいるものの、本稿とは無関係なので、それについてはここで筆を止める。 4月1日、消費税導入。都会ではそろそろバブル経済のお祭り騒ぎにも終焉がちらほら見え隠れしていたのかもしれないが、あいにくと、僕が生まれ育ったT県U市の田舎町までは、まだその終焉の足音は聞こえてきてはいなかったような気がする。バブルで成り上がった建設業の裕福な子女が、僕が進学した私立中学校では幅を効かせていて、回転寿司チェーン店の一介の店長ですら、年収が一千万円を超えていた時代だった。 4月27日、松下電気工業創業者であり、「経営の神様」と称された、松下幸之助氏、死去。僕はビジネスの世界には興味がなかったし、今もあんまり興味がないので、これも僕にとっては、割とどうでもいいことだ。ただ、戦後の復興期における偉人がひとり亡くなったのだな、とは思う。 6月18日、ミャンマー軍事政権が、その国家の英語国号を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更。「ビルマ」といえば、映画「ビルマの竪琴」の記憶が深いが、あまりそれも問題ではない。ただ、以前よりは幾らかましになりつつあるようには見えるものの、アウン・サン・スー・チー女史による民主化運動などを眺めて感じるには、あまりこの国家の体質は変わっていないように思えてならない。 6月4日、中国、北京にて、天安門事件発生。天安門広場に10万人を超える人々が集い、中国共産党政府による武力弾圧にて、正確な犠牲者の数は不明だが、巷では400人とも1000人とも言われる、多くの市民たちの命が、銃撃や撲殺、または装甲車両による轢殺等にて、奪われる。実に痛ましい事件だ。しかも、「正確な犠牲者の数は不明」というところがまた、いかにも中国らしい、と僕は思う。聞くところによると中国では、そのあまりに広い国土と、領土紛争のため、今でも正確な人口統計が取れていないらしい。また、一人っ子政策のため、そもそも戸籍を持たない者も多いと聞く。戸籍を持たない人生について、僕はときおり、思いを馳せてみる。つまり、生きているのか死んでいるのかすら公式な記録はなく、死んでもただ、無が無に還るだけの人々のことについて――しかし、彼らとて、名や姓を持ち、僕と同じような肉体や肌の色や感情を持つ、生身の人間なのだ。このことを思うとき、僕はひどく陰惨な気分になる。たぶんまともな感覚を持っている人間だったら、誰だってそうだろう。 6月24日、歌手、美空ひばり、死去。僕は美空ひばりには会ったことがないのであまり悪口は言えないが、少なくとも僕にとって、美空ひばりは、遠い「昭和初期の大スター」というだけで、その歌声に、特に感銘を受けた記憶はない。 7月11日、歌手、中森明菜が、当時恋愛関係にあった、同じく歌手、近藤真彦の自宅にて、自殺未遂。僕は特にどちらのファンでもなく、強いて言うなら当時は南野陽子のほうが好きだったから、当時はこの事件にあまり関心を寄せなかったが、中森明菜の、ときに鋭く、そしてときには人生の諦念にも満ちたような悲しい眼差しは、僕の中の何かを強く、激しく、揺り動かす。しかしそんなことに気づいたのはごく最近の話だ。したがって、この事件も、当時の僕にとっては、割とどうでもいいことだった。 7月16日、指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン、死去。カラヤンと言えばベルリンフィルハーモニー管弦楽団であり、ベルリンフィルと言えばカラヤンである。僕はカラヤン指揮による、ベートーベン交響曲全集と、ホルスト「惑星」のCDを持っている。クラシック音楽というのは不思議なもので、よほど注意深く聴かない限りは、最初に聴いた演奏が、そのリスナーにとっての「本流」になることが多く、その後に聴いた演奏は、「亜流」と感じられることが多いと思う。ベートーベン交響曲各種も、ホルスト「惑星」も、僕は何遍も他の優れた指揮者による演奏を聴いたが、やはり、ベートーベンと言えばカラヤンであり、ホルストと言えばカラヤンである。まさに「王道」と呼ぶに相応しい名演をカラヤンとベルリンフィルは残した。録音としてはまだ聴くことはできるものの、その情熱溢れる魂が消えてしまったことは、個人的に、とても残念に思う。 11月4日、オウム真理教による、坂本堤弁護士一家殺害事件、発生。オウム真理教と言えば、まだ当時、現在知られているような陰湿なカルト教団というイメージは薄く、学研の雑誌「ムー」などには必ず麻原彰晃を中心としたオウム真理教の活動が、ごく普通に掲載されていた頃だ。僕は当時オカルト関係の話が大好きだったので、よく中学のそばにあり、今はTSUTAYAに変わってしまった大型書店で、「ムー」を立ち読みしていた。「ムー」の隣にはいつも、オウム真理教の機関誌が、ごくごく普通に並べられていた……そんな時代である。当時は新興宗教ブームであり、バブル経済により金銭的に満たされた人々の心に生まれた空虚を、いんちきくさい宗教が埋め、その有り余った金を吸い上げている真っ只中にあった。街を歩いていれば、「あなたの幸せを1分間お祈りさせて貰えませんか?」などといういかがわしい勧誘も多かったが、当時僕はまだ14歳で、金もなければ名誉もないただのヤンキーだったので、誰かが「僕の幸せ」を一分間祈ってくれるということが純粋に楽しかったのと、その珍妙な行動に好奇心が湧いたので、よく、JRのU駅前のロータリーなどで、一日に何度も、「幸せをお祈り」して貰ったものである。この「幸せお祈り教団」は、オウム真理教とは全く別の、おそらくは無名の新興宗教団体である。当時はまさか、後にオウム真理教が、あれほどの事件を起こす教団であるとは、思いもよらなかった。 11月10日、ベルリンの壁、崩壊。何遍も繰り返すようで悪いが、僕は政治については無知だ。だが、行きたいところに行けないっていうのはあんまり好きじゃないし、人に言動を制限されることは嫌いだ。僕は自由と解放を愛するいち市民だ。従って、この地球上からひとつの大きな「壁」が取り払われたということは、まぁ弊害もいろいろあったみたいだけれど、トータル的に見たら、それはそれなりに、良いことなんじゃないかと思う。壁に向かってハンマーを振りかざす若者や、壁の上に登って歓声をあげている人々をニュースの映像で見て、僕もその「お祭り騒ぎ」に参加したいな、などと思ったこともまた、事実だ。今の僕の書斎には、ベルリンの壁の破片が飾ってある。「自由と解放」――僕はそれを、強く愛する。 12月3日、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領とソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し、「冷戦」の「終結」を宣言。さすがに政治に興味がない僕も、これにはちょっとどころかかなり驚いた。なぜって、これまでオカルト好きだった僕がずっと信じて、特に小学校の頃などは、布団に入っても怖くてなかなか寝付けなかった、1999年ノストラダムスの大予言、核戦争による人類滅亡、という大シナリオが、ここで大きく狂ってしまったからだ。でもまあ、気を落ち着かせて考えてみると、そんなものなんだろうな、と当時の僕は思った。当時の流行歌であった、BO0WYの♪そう、終わりは、当たり前のように来るものだし♪なんて歌を口ずさみながら、僕は静かに、冷戦の終結を見守った。 12月20日、アメリカ軍、パナマ侵攻。どうやらアメリカという国家は、常に「敵」を持たないと政権の維持が難しいらしく、今度は中米パナマにその矛先を向けたのだと思った。パナマは中南米における麻薬ルートの拠点として悪玉に挙げられ、冷戦時代に抱え込んだ数多くの兵士を持てあましたアメリカは、「世界の警察」の名の下に、パナマ国防軍を粉砕、解体させ、ノリエガ将軍の身柄を国内に移送し、禁固40年の判決を下した。当時の僕は、アメリカという国に心底うんざりしていた。自国が最も世界で優れていて、「正義の鉄槌」を振るえるのはアメリカのみである、という、傲慢な思い上がり(ネオ・コンサーバティブ。略してネオコン)が、中学生の僕にも目に見えて明らかだったからだ。アメリカに対するその印象は、今でもあまり変わっていない。 12月22日、ルーマニア、チャウシェスク政権崩壊。ルーマニアの国内事情については詳しくないが、射殺されたチャウシェスク氏の遺体の写真が、新聞及び週刊誌各誌の紙面を飾ったことを、僕はよく覚えている。結局のところ、もう既に述べたかもしれないが、暴力は新たな暴力しか生まないのだ、と僕は強く感じた。 12月29日、東証の大納会にて、日経平均株価が史上最高値の、38915円87銭を記録。これ以降、バブル景気は大きく傾き、日本経済は崩壊へ向かう。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代の終焉の足音は、もうすぐそこだった。 以上が1989年について、僕が知っていることのほぼすべてだ。僕は当時中学2年生で、T県U市にある、とある糞くだらない私立中学に在席はしていたものの、あまりに下らないのでそろそろ退学しようかと思っていた時期にあり、実際に、12月で同校を退学し、翌年1月からは公立中学に席を移している。なぜって? 学校の屋上に大きなスローガンが掲げられており、そこには、 「一 人 は 一 校 を 代 表 す る 」 なんて文字が刻まれていたからだ。冗談じゃない。僕は何もこんな糞田舎の私立中学を代表するために入学した訳じゃないし、そもそも、もし本当に一人が一校を代表するのならば、じゃあ一校は僕の何を代表してくれるのか? と、吐き気がした。この私立中学に入学したことは、僕が現在に至るまで、その半生で数多く犯してきた過ちの中でも、間違いなくトップクラスにひどい過ちだった。 最後に、ひとつだけ、たいせつなことを書き忘れた。 11月某日、T県N市の渓谷から、ひとりの男が身を投げて死んだ。明らかに自殺であったが、遺書はなかった。このことは、田舎であるT県ではほんの小さなニュースになり、当時の僕の周囲では、うんざりするほどの大ニュースになった。時はバブル絶頂期、男は比較的広い庭付き一戸建ての家をT県U市郊外に所有し、一男一女に恵まれ、優しく美しい妻を持った、さる大企業の中間管理職社員であった。家のローンを除けば借金もなく、もちろん生活にだって困っていなかった。死ぬ理由なんて、何もないくらい平凡で完璧な人生のように思えた。 死んだのは、僕の父だ。 *** どんなところにだって、光が射せば影ができる。 ちょっとここまで書いた内容を振り返ってみると、その大半が、誰かが死んだり、殺されたり、そんなことばかりを取り上げていたみたいで、さすがにちょっとこれは、フェアではないような気がする。 だから少しだけ、1989年にあった、良いことも羅列してみよう。 ああ、こんなエピソードがあった。 1989年に、♪そーれそーれ鉄骨飲料♪、というCMで有名になった、「鷲尾いさ子と鉄骨娘」がいた。その頃は、普通になんかおちゃらけた、どうでもいいようなCMに見えたが、僕はその翌年の1990年に、偶然、数週間を鷲尾いさ子さんとともに、イギリスの田舎にある語学学校でともに過ごすことになる。最初に教室で見かけたとき、あれ、どっかで見たことある女性だな、すごく綺麗な方だな、と思ったら、クラスの自己紹介で、 “My name is Isako Washio. My occupation is an actress.” って、はっきり言っていたから、間違いなかった。鷲尾さんとはその後何度か日本語で話す機会もあり、一緒にランチを食べたりもした。当時の僕はもうすでに童貞ではなかったけれど、うまくすれば一発やらせてもらえるんじゃないかとすら思ったが、世の中そんなに甘くはなかった。 連絡先を貰ったのだけれど、僕はイギリスの寄宿学校に入学する手前の準備期間として数週間その語学学校にいただけだったので、あわただしくて無くしてしまった。それ以来、鷲尾さんとは一度も会っていない。 鷲尾さんと話した内容は、秘密だ。誰にだってプライバシーはある。 *** なにかがおかしい。 どんなに1989年を振り返っても、他に特にこれと言って、ハッピーなエピソードが出てこないのだ。僕はこれまで、1989年について、主に殺人や死についてしかフォーカスして来なかったけれど、これではしょうがないので、1989年に生まれた有名人でも挙げてみよう……と思って年鑑を捲ってみたのだが、1989年生まれの人なんて、まだ若すぎて誰も名を成してなかった。残念だ。今後の活躍に大いに期待しよう。 *** 1989年について考えるとき、僕は小中学校時代によく遊んだ、ドッジボールのことを想う。両サイドに分かれて、内野と外野がいて、ボールをぶつけて全員を外野に追い込んだら勝ちの、あのゲームだ。 僕は球技全般は苦手で、ドッジボールも上手にキャッチすることも投げることもできなかったが、不思議と反射神経や動体視力だけは高かったので、ひょいひょいとボールを避けまくり、だいたい、いつも内野の最後の一人になった。 正式な競技としてプレイしていたわけじゃないから、その日集まった人数を適当に、ふた組に分けて、内野と外野はじゃんけんで決めて、遊んでいた。敵陣の内野や外野から、ボールがびゅんびゅんと飛び交い、ひとり当たっては「死」に、また一人当たっては「死」に、そして最後は大抵、僕ひとりになったが、僕もやがては追い詰められ、当てられて「死」んだ。 1989年という年は、そういった、「死」のボールが、目に見えないところで世界中を飛び回っていたように思える。ボールは地球上をぐるぐると飛び交っているし、そもそもひとつとは限らない。そしてボールを当てられた人間は死に、生き延びた人間だけが、今日という日を生きている。誰が誰に向かってボールを投げているのか、それは、わからない。ただ、気がついたときには死んでいる、それだけのことだ。 懐かしの1989年……あの頃僕が行き交った人々、言葉を交わした人々、友情や愛を分かち合った人々のうち、何名かは死に、何名かは生き残り、そして、大多数の人々については、僕は今、彼ら(彼女たち)がどこで、何をやっているのか、知るすべはない。 1989年について考えるとき、僕はドッジボールのことを想う。そして世界中をいまだに飛び交っている、無数のボールについて想う。それは果てしのないゲームだが、そこに賭けられているものは、ほんものの、肉体と感情を持った、人間のたましいだ。今日もどこかで誰かが、ボールに当たっている。誰かが誰かにボールを投げつけている。 それは、人類史上、延々と繰り返されてきた営みであり、1989年は、たまたまそれを僕に思い起こさせてくれたきっかけに過ぎない。 1989年のドッジボール。 |
OB
2012年11月11日(日) 19時13分31秒 公開 ■この作品の著作権はOBさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.1 com 評価:30点 ■2012-11-30 09:09 ID:L6TukelU0BA | |||||
平成生まれなので、昭和にロマンを抱きながら読めました。 僕は将来、10代の頃に書いた文章を読んで恥ずかしくなりそうです |
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総レス数 1 合計 30点 |
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