individual rule |
おそらく、どんな文豪であっても完璧な小説というものは、存在しないし、存在してはならないと思うんですね。それが、尺度となってしまうからですし、ものの捉え方、考え方、表し方、それらを限定してしまうことこそ、最も恐れなければならないことだと思います。 2011年の中学入試問題として、竹田青嗣『中学生からの哲学「超」入門−自分の意志を持つということ』 筑摩書房から引用し、出題されたものを読みました。 それによると、互に批評しあうということは、自己ルールを交換しあうことだというんですね。自己ルールというのは、「良い・悪い」と「美醜」というふたつの価値感で、それらは、高校生くらいまでに形成されるというのです。 で、批評し合うことで、互いに自分の眼鏡のくもりや、歪み、色のつき具合なんかを初めて認識する。そして、それを微調整していくのだ、みたいなことが書いてある。 そして、設問は、なにかを批評し合うことによって、自分の偏りであるとか、傾向みたいなものがわかったとき、どうしたらいいのか、ということでした。それを筆者の考えをもとに答えを導き出しなさい。 そんな設問でした。 しかし、どうも誘導尋問のような気もしないではないのですが、これはテストですから、頭のいい子は、こういう答えを望んでいるのだろう、となります。自分なりの考えがあり、ちょっと異議を唱えたくとも、減点の対象になってはたまりませんから、模範回答を出して、それはむろんひっこめる。 しかし、まあ人格形成の大切な時期ですから、あまりにも偏りがあり過ぎると判断した際には、微調整なりをしてゆくべきなのでしょう。 それは人として生きてゆくための、いわばグローバルスタンダードみたいなもので、それを基準にすればいいのだなと表面上は、合わせてゆく。つまりは、協調性というものを学んでゆく。 これの模範回答は、むろん、偏りがあったならば、微調整をしてゆく、ということなのでしょうが、あくまでもそれは、表面上のことであって、つまりは、理解できない他者という存在も例外ではなく確かに在るという認識を持つこと、そして、そういった自分とは異なる人たちともなんとか折り合いをつけて共に生きてゆくために協調し合ってゆくことが大切であることを学ぶこと。 たとえば、食人族の子どもと自己ルールを交換しあった場合、ありえないと全否定するのではなく、それを理解すること。 他者を知ること。それは即ち、己を知ることにほかならない。 ということですね。ですが、歯ではないのですから矯正ということはありえない。問題は、根っこなのです。 他人の自己ルールと自分のルールを照らし合わせてみて、自分の偏向やら問題点を知り……。 しかし。 たがいの自己ルールを突き合わせてみて、多くの人たちが、白といっているのだから、自分は黒と思っていても、白だと言おうということ。あるいは、擦り合わせて灰色という答えを出すべきだ、ということにもなりはしないでしょうか。 それはさておき、世の中には、自分と正反対な考えを持っている人などざらにいるわけです。価値観は、ひとそれぞれ異なって当然なのですし、人と自分が異なる自己ルールを持っているとわかったとしても、そのことを認識することは重要ですが、擦り合わせやら微調整するのは非常に難しいことだと思うのです。それほど乖離しているわけです。 大多数の自己ルールが自分と異なるのだから、自分の自己ルールは誤っていて、大多数の自己ルールが正しいのだとすると、長いものには巻かれろ的に微調整することが得策でしょうが、どちらが、正しい、誤っているというレベルではなく、異なる自己ルールを有する物同士が、個々人の自由を侵すことなく、どのようにしたら互いに快適に暮らしてゆけるのか、そのことこそを考えなければならない。 要は、微調整やら擦り合わせなどといった単純な話では済まされないことなのです。ですから、世の中から差別やら排他やら、さらには戦争が後を絶たないわけです。微調整やら擦り合わせで済まないから、それでは民族ごと、国家ごと皆殺しにしてしまおう、という結局は、武力で解決することしか人類には出来なかったわけです。言うことを聞かないのなら、ぶっ殺せ。ですね。 |
拓海
2012年11月05日(月) 00時34分15秒 公開 ■この作品の著作権は拓海さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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