胸のくるしみ
 それはふとした瞬間にやってくる。
 胸がとつぜんくるしくなるのだ。
 学校で勉強をしているとき、家で本を読んでいるとき、布団に横になっているとき。そのくるしみはぼくの予定など関係なく、場所や時間を選ばずにとつぜんやってくる。
 もう二週間にもなる。毎日胸を押さえてくるしむぼくの姿を見て、友人は心配をしはじめた。
「大丈夫か? 病院には行ったのか」
「行ってない。行きたくない」
 病院にいくのは怖かった。
 こどものころ入院をしたことがある。一週間に一度採血の時間があった。空の注射を腕につきさして血を抜きとるあれである。
 ぼくの担当の看護婦は新人だった。注射をする経験がほとんどなかったのだろう。なかなか血管にささらずに何度も何度も痛い思いをした。
「だいじょうぶ、こわくないからね」
 と満面の笑みで注射の針をブスブスとつきさす看護婦さんの姿がトラウマになっている。病院に行くのが怖いのはそれが理由だ。
「病院が怖いのはわかってるが、お前ほんとうにつらそうだぞ」
 それは自分が一番よくわかっていた。
 最近は胸がくるしいだけではなく、食事ものどをとおらない。ろくに食事をしていないので3キロも痩せた。
 風邪ではない。のどの痛みやせきはないし、熱もない。体温計で計ると35度2分だった。むしろ低すぎるくらいだ。
「やばい病気だったらどうするんだよ。行ったほうがいいって。覇気が感じられないし、お前かなり変な顔してるぞ」
「顔はもともとこんなだ」
「お前の家の近くにあったよな。ナントカっていう診療所。帰りに行ってみなよ」
 そういえば数ヶ月前に近所にできたそうだ。ナントカ診療所。
 ほんとうは気が進まなかったのだけれど、そのあともしつこく言われたので帰りがけに寄ってみることにした。
 この状態が続くのはさすがに嫌だったから、薬をもらって楽になりたかった。
 もし採血されそうになったら逃げればいい。

 その診療所はうちからわずか数百メートルのところにあった。
 近所のひとたちが通う小さな診療所。
 わりと最近たてられたので、建物内は清潔感がただよっていた。汚らしい病院というのもあまりないかもしれないが。
 先生は若くて顔の整ったひとだった。主婦からの人気が高いらしい。うわさでは先生に会うためにわざわざ事故を起こす主婦もいるのだとか。
「きみの病状は深刻だね。これはとても恐ろしい病気だよ」
 先生は眼鏡をくいと右手で直しながらそう言った。
「最近きみのような患者さんがあとをたたなくてね」
「ほかにも悩んでいる方がいると?」
「そうなんだ。とは言っても、実は昔からある病気なんだけれどね。この病気の怖いところはどんなに健康的な生活をおくっていても回避ができないところにあるんだ」
「確かにぼくの健康状態はきわめて良好でした。腕立てふせも毎日3回やっていましたし。いきなりこんな症状がでてきたので驚いています」
「だろうね」
「早くもとの生活に戻りたいので薬をいただけないでしょうか」
 先生は急に下を向いた。言ってもいいものかどうか悩んでいるようにも見える。なにもない部屋のすみっこを見ていて、ぼくと視線を合わせようとしない。
 数秒の沈黙のあと、意を決したようにこちらを向いてこう言い放った。
「残念だけれど、薬はあげられない」
「え、どうしてですか」
「非常に言いにくいのだけれど」
「言ってください」
「じゃあ言うね」
 先生はためらわずに言った。
「薬がないんだ」
 ぼくは驚愕のあまりことばがでなかった。
 薬がない。
 それは、しばらくの間このくるしみを味わいつづけなければならない、ということを意味していた。
 公園のトイレで紙がないことに気づいたときのごとく絶望的な顔をしていたからだろう。先生はあわててつけたした。
「薬はないけれど、治る可能性がまったくないわけではないんだ」
 ぼくは胸をなでおろした。まったくこの先生びっくりさせるのが上手である。
「人間の自然治癒能力はきみの思っている以上にすごい。だから自然に治る可能性はゼロではないんだよ。むしろ自然に治るのを待つ以外にはなにもできないんだ」
 けしてわたしが無能だからではないよ、とつけたしながら先生はそう言った。
「でも治らない可能性もあるんですよね。その場合はどうなるんですか」
「一生その病と付き合うことになる」
 部屋が静寂につつまれた。この胸のくるしみを永遠に背負っていかなければならないかもしれないのだ。あくる日もあくる日もこのくるしみを抱えて生きていく。考えただけでもうつになりそうだった。
「実はわたしも、きみと同じ病にくるしんでいるんだ」
「先生もですか?」
「うん。20年前に発症してね。いまだに治らずくるしんでいる。ときどきあまりのくるしさに涙がでるときもあるよ」
 そう言うと先生は窓の外をぼんやりとながめはじめた。遠くを見ているその横顔はどこかはかなげで悲しそうだった。

 真っ赤に燃える夕日を横に浴びながらぼくは歩いていた。
 結局薬も助言もなにももらえなかった。これからぼくはどうすればいいのだろう。
 するとだしぬけに後ろから声をかけられた。それは聞きおぼえのある女性の声であった。
「こんばんは」
 ふりかえると、やはりそこには見知ったひとが立っていた。
「あ、こんばんは」
 すこし前にとなりに引っ越してきたその女性は、ビニール袋を手に持っていた。近所のスーパーで買い物をしていたのだろう。
「晩ご飯の買いだしですか?」
「うん。今日はカレーなの。じゃがいもいっぱい買ってきたんだ。たくさん入ってるのが彼の大好物なの」
 ほほえみをうかべながら嬉しそうにそう言った。
 彼女はまだ若い。ぼくと年齢はほとんどかわらない。20かそこらのひとが結婚だなんて、自分にはちょっと考えられなかった。
 もともとは遠距離恋愛だったらしい。結婚を期に、旦那住んでいるこの土地で一緒に住むことになったのだという。
 彼女と一緒に歩きながら話をした。帰る方向は同じだ。聞いてもいないのに旦那のことを話しだしたりする。
「彼ったらいつも寝坊するの。たまに顔にらくがきしたりするんだけど、気づかずに出かけちゃう」
 いたずらが好きらしい。新婚カップルがやりそうなことだ。
「そうそう、あした箱根に行くの」
「新婚旅行ですか」
「うん、そう。といっても日帰りなんだけどね。家のローンがあるから節約中なの。でも温泉に入るのはすごくたのしみ!」
 子供が遊園地に行くときのように瞳をきらきらさせながらそう言った。
 彼女の旦那はよく笑うひとだ。彼女もそうだが、とても笑顔が似合う。笑いあうすがたを遠くからながめていてもふたりはお似合いだなといつも思う。温泉でたのしそうにしている姿がかんたんに想像できる。
「あ、うちのひともう帰ってきたみたい」
 彼女の家の玄関には光が灯っていた。
「じゃあまたね」
「はい。また」
 ぼくらは家の前で別れた。
 家の中に入っていく彼女のうしろ姿をながめた。
 胸がくるしみだした。
 彼女と話しているときは平気だ。どきどきと心臓が高鳴るのは感じるが、胸が締めつけられるようなことない。
 けれど彼女のことをどこかで想うたびに、息がつまるようなくるしみがぼくを襲ってくるのだ。

 旦那とぼくは毎日学校で会っている。
 彼とは昔からの友達だ。今日だって心配をして声をかけてくれた。けれど以前のように笑いあうことはできなくなってしまった。
 彼のことが嫌いになったわけではない。しかし彼を見ると、そのうしろに彼女の姿が見えてしまうのだ。
 昔からよくあそぶ仲だった。ついこの間まで一緒にでかけていたりした。
「結婚してもお前とはばっちりつるむつもりだから覚悟しろよ」
 そう言って彼はぼくの家のとなりに引っ越してきた。最初はうれしかった。しかしそのせいで彼女と出会ってしまった。
 彼はぼくのきもちを知らない。知ることもない。

 胸をおさえながらリヴィングルームに入った。電気をつけようとしたとき、それが目にはいった。
 窓から光が差し込んでいた。光のもとを目でたどると、その先には隣の家の窓が見えた。
そこから光がさしこんでいるのだ。
 その窓にはカーテンがかかっている。
 カーテン越しにふたつの影が見えた。影絵のようにはっきりと見える。
 そのふたつの影は抱きしめあった。見つめあうふたつの影。やがてふたつの影は唇と唇とをかさねあわせた。
 胸のくるしみはさらに増していった。   
 彼女にはたいせつなひとがいる。
 この想いが叶うことはない。
 はやく彼女のことなんて忘れてしまいたい。
 ぼくのこの病はいつになったら治るのだろうか。先生のようにずっと想いつづけるのだろうか。
 暗い部屋の中でぼくは泣いた。
のぼる
2012年10月20日(土) 14時24分57秒 公開
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No.2  のぼる  評価:--点  ■2012-10-23 23:39  ID:/H.KPsVwOeE
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>>新地さん

読んでいただきありがとうございます。

>この主人公は作中行動を起こさないのですが、恋を打ち明ける機会はないわけではなかったと思います。

機会はあったかもしれませんが、相手はすでに結婚しています。打ち明ける必要性はなかったのです。
うまく文中で伝えることができていなかったのかもしれません。
精進いたします。
No.1  新地  評価:30点  ■2012-10-21 10:02  ID:gSHgE5Ogf4w
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拝読しました。
どの部分も自然な言葉で綴られていてとても読みやすかったです。
ただ三段落目からは、二段落までの流れをうまくついでいないような気がしました。
読んでいたときに思ったことをそのままお伝えすると、先生との対話のところで、ああこの主人公は鬱なのだな、心の病だから薬が無いのだなと想像しました。
三段落目で欝ではなく恋だったと分かるのですが、二段落までの印象が三段落から変わるのにうまくついていけませんでした。
この主人公は作中行動を起こさないのですが、恋を打ち明ける機会はないわけではなかったと思います。
なぜ行動を起こさないのか、それを理由づける主人公の性格が分かる挿話があると、すこし違うのではないでしょうか。
総レス数 2  合計 30

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