クレインズカラー 〜世界の色と千羽鶴〜 |
〈第一章〉 「東条、今日は頼みがあってな」 雪も降り積もる冬の出来事。入院していた前の病院から急に転院の令が下り、2日前にここに搬送されてきた。 「なんですか? 先生」 高校生に髭が生えたような顔立ちをしているこいつは、患者の目の前で堂々と一服している。 病院内では普通は禁煙だと思うが。 「この病院にはあと3人患者がいてな。どいつも気難しい奴ばっかりでさ。俺の代わりにそいつらの管理をしてくれないか?」 本気で言っているのか? それは医者であるお前の仕事だろう。 「なぜ俺が?」 「お前、確か、医者を目指しているらしいな。患者の管理なんて、なかなかてできるものじゃないぞー。それに――早く退院したいんだろ?」 医者は煙を撒き散らす筒を片手に、含み笑いを浮かべる。 確かに俺は医者になりたい。長い間病院と関わってきたし、医学の勉強だってしている。 「では、管理すれば退院させてくれますか?」 じゃあいますぐ退院させてくれよ――と言いたい気持ちを抑えて、大人の態度で臨む。 もともと俺の病気は入院してどうにかなるものではない。だから、一刻も早くここを出たかった。 その時、医者の白衣の右ポケットから電子音が鳴り響く。 携帯の電源くらい切っとけよ......。 「はい、何でしょう?」 出るのかよ! ここは病院だぞ……。 「はい、はい、ええ。承知しております」 携帯電話に向かって頭を下げている医者の姿は、普段の馴れ馴れしい態度とは違って何とも滑稽だった。 「はい、無事に届きました。はい、では失礼します」 電話が終わるといつものふてぶてしい顔に戻り、新しい煙草に火をつける医者。 だからここは病院だって……。 「それで、先生。退院の件は――」 「あ、ああ……考えとくからさ」 ――こいつ本当に医者かよ……。 そんなこんなで上手く懐柔されてしまい、気づくと俺は最初の患者の部屋の前に立っていた。 扉越しからでも分かるくらいにアルコールの刺激臭が鼻をつく。 恐る恐る扉を開くと、視界に飛び込んできたのは一人の少女。 カーテンの隙間から溢れる日溜まりに当たって、肩まで伸ばした髪が燦然と輝いている。 純真無垢な彼女の瞳は真っ直ぐに俺の姿を捉えていた。 「我に何か用か?」 身長は150ないだろうか……。 幼い姿からは想像もできない口調に、意表を突かれてしまう。 「あ、ああ。医者に頼まれて君の管理役を務めることになった東条光だよ、よろしくね」 ベッドの横に腰を降ろして目線を合わせ、ありきたりな自己紹介を済ませる。 「こ、子供扱いするでないっ!」 ええー! つい目の前の幼女を凝視してしまう。 じゃあ何扱いすればいいのだろう……。 周りを見渡す。壁は白で統一された、俺の個室と同じ簡素な造りだった。 ここまで白一色だと不安すら覚える。 「東条……光と言ったな」 彼女の柔らかそうな唇が動く。まだ熟れきってない果実のような、薄桃色――いや、淡い赤だろうか。 「そうだよ。君は?」 「冬音だ。霜月冬音(しもつきふゆね)」 冬の音と書き冬音と読むらしい――心の中で彼女の名前を反芻する。 「いい名前だね」 本心を告げるとうるさい! と言ってうなだれてしまった。なるほど、確かに気難しい子だな。 「光は――我の管理とやらをするのか?」 「管理なんて大層なことはできないけど、冬音ちゃんの友達にはなってあげられるよ」 「ふ、冬音でいい。それと子供扱いするな!」 「ご、ごめん」 「あ、謝らなくてもよい! よろしく......」 転院2日目。 ――気難しい友達ができた。 ※ 俺は冬音のいる002号室を後にして、次の患者の待つ、004号室へと向かった。 ちなみに真ん中の003号室は俺の部屋だ。 ――そういえば冬音はどこが悪いのだろう……。 点滴こそしていなかったものの、彼女の右腕には痛々しいほどの腫れやほくろが見られた。 ――ほくろは注射を頻繁にしている証だ。注射をしすぎて血管が使い物にならなくなる人もいるらしい。 一応管理をする立場として、医者にカルテでも見せてもらうとしよう。 少し廊下を歩くと、二人目の部屋に辿り着く。 004号室をノックするが一向に返事がない。 扉をよく見ると『睡眠中』と書かれたプレートが掛かっていた。 『睡眠中』なんてプレート初めてみたぞ……。 しかも手書きで書かれた可愛い丸文字。 『起こさないで下さい』というプレートはホテルなどで見かけるが、睡眠中とは。起こすこと事態はいいのだろうか。 とは言えやはり寝ている子を起こすのは気が引けたので、先に005号室に行くことにした。 扉をノックすると、蚊の鳴くような声で返事が聞こえる。 「失礼します」 中にいたのは髪の短い女の子。 整った容貌で、人形のようにちょこんとベッドに座っている。 色白――いや、白というべきか。ガラス細工のような透明かつ繊細な四肢に目を奪われてしまう。 彼女はこちらを見ているようで、どこか違う景色を見ているような虚無の視線を俺に送ってきた。 「俺は東条光。君の管理をたのまれたんだ」 「……」 「君の名前を教えてもらえるかな?」 「……」 返事がない――ただの美少女のようだ。 「......メモリー」 メモリー? この子のあだ名だろうか……。 「メモリーっていうの?」 彼女は表情を一切変えることなくゆっくりと頷く。 「……」 「……」 駄目だ、会話が続かない。俺が次の言葉を模索していると、メモリーは枕の横に置かれていたノートらしきものを開く。 黙々とペンを動かし、何かを書き込んでいる。 「それは何?」 「……日記」 日記か――俺のことを書いているのだろうか。だとしたらかなりまめな日記だな。 「メモリーは何歳なの?」 「……17」 日記から一瞬目を離し、こちらを見つめてくる。 微動だにしない彼女の視線に耐えきれず、少しだけメモリーから目をそらした。 同い年か――高校生にしては少し背丈が小さめだが、ついつい目でなぞってしまう体のラインには十分な魅力を感じる。 スレンダー体型とは彼女のような子のことを言うのだろう。 「じゃあ俺はこれで」 「......バイバイ」 メモリーは一切表情を変えずに手を振ってくれている。元々会話能力が日本人平均より低い俺にとって、初対面の無口な少女は高すぎるハードルだった。 それにしても、冬音にメモリー。何が病気なんだ? 素行はともかく、いたって普通の女の子に見える。 ――医者に聞いてみるか。 俺は病棟の中央に位置するナースステーションへと足を運んだ。 ※ ナースステーションでは医者が煙草をくわえながらテレビを見ていた。 床にはビールの缶が転がっている。 野球観戦をしている姿はまさに親父であった。 「先生、冬音とメモリーに会って来ました」 「おお、どうだった?」 なんでこいつはこんなにフランクに接してくるんだ? 俺はあまりこういうタイプの人間は好きにはなれない。 「どうと言われましても――2人はどこが悪いのですか?」 医者は突然テレビを消し、こちらを向く。さっきとは別人のように、目には真剣さが宿っていた 「知る必要はない」 先程の陽気な声色とは打って変わった低い声。口元からは既に笑みが消えている。怖い。そう思ってしまうほどの威圧感が俺を包む。 「どうしても知りたいのなら本人に聞きな。いずれ分かるとは思うが」 「は、はあ」 医者の口からは言わないらしいな。 ――当然と言えば当然か。患者の個人情報を漏洩させてしまうと、面倒なことになるらしい。 プライバシーの侵害と言えば、大抵のことは黙らせることができる社会。 かくいう俺も黙ってしまう。 「神崎秋には会ってないのか?」 おそらくもう一人の患者のことだろう。 「扉を叩いても返事はなく、『睡眠中』のプレートが掛かっていましたので――まだ」 「そりゃあ寝てるんだろ」 いや、それくらい分かるよ。 医者は俺に3人の基本的な情報資料を渡して病棟の外へと去って行った。 資料とはいっても名前、年齢くらいしか 載っていない1枚の紙切れ。 資料じゃない。もはやメモだよ。 資料によると冬音は12歳らしいな。小学生? 中学生くらいだろう。 まあ、子供扱いされるのは嫌な年頃だな。次に会うときはもう少し気をつけよう。 早く管理を終えて退院したい――そんな気持ちで胸が一杯だった。 ふと、机に目を落とす。乱雑した資料の中で、明らかに異彩を放っている茶色のフレーム。 「先生、これはなんですか?」 写真立てには、医者と思われる男の隣りに、制服を着たポニーテールの女性が立っている。か、可愛い。 「もしかして、恋人ですか?」 日頃の恨みだ。少しからかってみる。こいつに恋人などできるはずがない。 「! こ、東条には、関係ない。ガキが......」 慌てた口調とは裏腹に、物憂げな顔つきで写真立てをパタン、と閉じてしまった。ほ、本当に恋人だったのだろうか。 真相は闇の中......。 ※ 次の日、することもないので冬音の部屋で時間を潰していた。 「冬音はこんな場所にいて暇じゃないのか?」 「入院しているのだから、しかたあるまい。それに、それは光も同じじゃろ? 暇だから暇つぶしの令を与える!」 俺は生まれて初めて12歳の女の子から命令を授かった。なかなかこんな経験はできないだろう。 暇潰しか。何も思い付かないので、与太話でもすることにしよう。 「病棟に友達とかいないのか?」 「我以外の患者はコロコロ変わるし、メモリーとは会話が続かないのじゃ」 冬音はそんなに長い間入院しているのか。 メモリーのことはなんとなく想像がつくが……。会話を続けられないのは、俺だけではなかったようだ。 「神崎秋はどんな子?」 「話を聞くより、会いに行けばよいではないか」 「昨日何度か尋ねてみたんだが、ずっと寝てるみたいで会えなかったんだよ」 「秋は寝たら起きんからのお……」 そんなレベルじゃないと思う。軽く20時間は寝たままだぞ……。 「神崎秋はもうどれくらいここにいるんだ?」 「そうじゃのう、秋がこの病院に来たのは2ヶ月前のことじゃ」 2ヶ月か、結構最近のことだな。 人差し指を口に当てて答える冬音は、とても可愛いらしい。口が裂けても本人には言えないが。 「じゃあ、神崎秋の様子見てくるわ」 「 もうちょっとここにいてもよいのに......」 「なんか言ったか?」 「な、なんでもないわ! さっさと行ってくるがよい!」 冬音は布団を被ってしまった。 なんで怒ってるんだ......? 〈とある調査@〉 この病院は変だ。 ナースステーションとは名ばかりにナースが一人もいない。 医者も知っている中では奴しかいないので、俺は奴のことを先生、とか、医者、と呼んでいる。 単に本名を教えてくれないというのもあるが……。 ――次に病室だ。 相部屋ではなく全て個室。 まるで患者同士の交流を絶つかのように。さすがに考えすぎか。 部屋の内部は全て同じ構造、配色やベット、テーブルの位置まで一緒だ。 それともう1つ。最近入った情報だと、患者は俺含めたったの4人しかいないらしい。 そんなことってあるか? これは医者にいろいろ問い詰める必要があるな。 ※ 翌日、俺は自分の部屋を出て、神崎秋の元へ向かった。 005号室の扉の前まで来ると、昨日とは2つほど違う所を見つけた。 まず『睡眠中』のプレートが掛かっていない。 ――起きているのだろうか。 そして部屋の中から歌声が聞こえるのだ。ドア越しに漏れる女声に、しばし耳を傾ける。 バラードだろうか。 草原を駆け巡る一陣の風のような、何処までも澄み渡る美声に耳を奪われてしまう。 時間が止まったような――永遠とも思える一瞬に身を預け、気付いた時には一曲分聞いてしまったようだ。 俺はノックも忘れて勢いよく扉を開け放つ。 腰のあたりまで伸ばした長い髪は宝石のように煌めいており、大海原のように奥ゆかしい瞳に溺れてしまいそうだった。 少女はゆっくりと言の葉を紡ぎ出す。 「あの……新しい先生ですか?」 驚いているのか? まあ、いきなり知らない男が飛び込んで来たのだから当然の反応か。 「ご、ごめんね俺は東条光医者に頼まれて君の管理をすることになったんだよろしくね」 目の前の美人を目にして、ついつい舌が回らず、早口になってしまう。 冬音やメモリーも相当の美少女だったが、大人の女性としての優艶さならこの子が1番だろう。 視線を顔から下にずらすと、2つの豊満な丘が俺の理性に攻撃を仕掛けてきた。 冬音やメモリー、もちろん俺も病棟の中なので、パジャマのような服を常に着用している。 ちなみに男子が青、女子がピンクらしいな。どちらも大差ないが。 パジャマ程度の薄い防護服では彼女のふくよかな魅力を隠し通せるはずもなく、扇状的な曲線が出来上がってしまっているのだ。 「ああ、そうでしたか。私は神崎秋、よろしくお願いします」 神崎さんは丁寧にお辞儀をしてくれたが、結果的に双丘を強調させる悩殺ポーズと化してしまっている。し、刺激が強すぎる。 「さ、さっきの歌上手だね」 なんとか会話を繋げて気を紛らわそう。 ――頑張れ、俺。 「あわわっ、聞いてたんですか?」 「うん、思わず聞き入っちゃったよ」 神崎さんがあわあわと手をばたつかせて恥じらっている。なんとも微笑ましい光景だ。 顔を熟れた林檎のように真っ赤に染めているのだろうか……。 「か、歌手を目指しているんです。大勢の人に私の歌を聞いて貰えたら嬉しいなって……」 「そっか、神崎さんならきっとなれるよ」 口先からの言葉ではない。彼女の歌には周りと違う、輝きが秘められていた。そう、ダイヤモンドの原石のような。 「東条君は――おいくつですか?」 「あ、俺?君と同じ17だよ」 「そうでしたか。は、はあ……」 『どうして私の年齢を知っているのだろう――』そんな神崎さんの心の声が聞こえてくる。 「先生から聞いたんだよ、年齢」 「あわわっ、そうでしたか」 「よろしく、神崎さん。じゃあ、俺は戻るね、またね」 「はい、東条君」 神崎秋――少しオドオドしてるが、普通の女の子だな。 俺は005号室を出て、自分の部屋へと戻った。 子供扱いされると怒り出す口調が変な幼女――冬音。 無口でひたすら日記の上でペンを走らせている少女――メモリー。 歌が上手く、抜群のプロポーションで20時間睡眠が基本――秋。 管理をする立場から、病気の詳細が気になるが、いずれ分かるだろう。 ベットに寝そべり、頭の中で情報を整理する。が、脳の処理能力を越えたせいか、急激に睡魔に襲われた。 もうこんな時間か。俺は抗うことなく、眠りについた。 ............。......。 〈とある調査A〉 「俺はいつになったら退院できるんですか?」 医者のゴミ溜めのような机を叩く。ナースステーションにて、俺と医者は口論中だった。 「ちゃんと管理してたらな」 俺の病気は現代の医学でどうにかできるものではなく、いくら入院しても意味はないのだ。出来るなら今すぐにでも帰りたい。 「管理くらい看護師に頼めばいいじゃないですか」 この病棟に看護師がいないことを分かった上で問う。 「そのうちな」 こいつは頼むだけ頼んで肝心な所は何も教えてくれない。自分勝手な奴だ。 「管理はな、身体的な面に加え患者の心の状態もよく観察しておくことが重要だぞ」 言っていることだけはいつも正論。駄目だ。今は無理だな。 「わかりました。とりあえず3人の病気について探ってみます」 「いずれ分かるさ……」 不敵に笑う医者に軽く会釈をしてナースステーションを去る。 今日新たな決意が芽生えた。 医者のカルテを盗み見してやる。 〈第二章〉 ある日のこと。自分の部屋で朝食を済ませてメモリーの部屋に向かう。 ――病院食というのは旨くない。 前の病院での話。俺はまともな病院食だったから良かったものの、隣の患者はお粥に水を入れたようなご飯を食べていた。 患者ごとに食事制限などで食べる食事が違うのだ。 他にも、俺が鳥の唐揚げを食べている横で鳥ササミの生茹でを食べている子や、デザートの代わりに野菜炒めが配られた子などがいた。 病院食なら話の種は尽きない。 話す友達と、コミュニケーション能力が無かったので誰にも披露できずにいるが……。 そんなとりとめもないことを考えているうちに、メモリーの部屋に到着。 「おはよう、メモリー」 メモリーは俺の顔と日記を交互に見ている。 「……東条――光?」 なぜ疑問形……。俺はいつでも東条光だぞ。 名前を忘れてしまったのだろうか。 「昨日会ったばかりじゃないか、メモリー」 「――そうみたいね」 まるで他人事のようにさらりと答える。 他人事。まさか……。 「なあ、メモリー。俺が何で毎日会いに来てるか憶えてるか?」 メモリーは日記を開いて注視している。 まるでもう1人の自分と会話しているかのように。 「……憶えてない」 そのまさかだった。メモリーは昨日の記憶がない。 日記は趣味ではなく、必要性があったのだ。 「そういう――病気なのか?」 「……もって2日」 〈記憶障害〉 それも重度の……。 彼女の瞳に光がない理由がなんとなく分かった気がした。 人間とは、記憶によって形成される。記憶がないということは、今まで存在していなかったことと、同義であろう。 どれほど辛いのだろう。分かち合えない痛みに、自分の無力さを感じてしまう。 「そっか、大変だな。自分のことどれくらい憶えてるんだ?」 励ましすらまともにしてやれない自分。 「……基本的な言語能力と自分の病気のことのみ」 彼女すら自分の本名を知らなかった。だからメモリーと呼ばれているのか。 「……ヒカルのことは憶えた。明日になっても忘れないようにする」 か細い腕でガッツポーズをとるメモリーは、とても小さく、儚げだった。 「そっか、無理するなよ」 メモリーの髪を優しく撫でてやる。予想より遥かにさらさらな髪。 記憶が存在しない生活なんて想像がつかない。メモリーと違って弱い俺には、きっと耐えられないだろう。 メモリーは、自分の両親のことは憶えているのだろうか……。 メモリーの持っている日記に目を落とす。親のことが書いてあったりするのか? もう一人の彼女は、答えてくれなかった.......。 ※ 「メモリーの病気くらい知っておるわ」 冬音は存在しない胸を張って誇らしげに答える。 「知ってるなら教えてくれれば良かったのに……」 冬音が口を開く前に、病室のドアが開かれた。 「霜月ー採血するぞ」 医者が注射器を片手に入ってきた。 話の途中だったのに......。 「医者か……。ホレ、早くしろ」 冬音が差し出した腕に不釣り合いなほど大きい注射針。 「痛くないのか?」 注射の経験があまりない俺してみれば見ているだけで耐えられない光景。 「注射などで喚く我ではないわ! 子供扱いすんな!」 「動くな霜月。針が揺れるだろう」 自分の度胸を鼻に掛ける冬音を医者が押さえつける。 「先生。メモリーの病気が分かったぞ」 「そうか、これで退院に一歩前進だな」 医者が白い歯を出してにっこりと笑う。 本当かよ……。 退院ってそういうものなのか? 絶対に違う気がする。 医者は血を採った試験管を掲げ、腰を上げた。 ふと俺は、血の赤と林檎の赤の違いという、とりとめもないことについてしばし考えてしまう。 一体何が違うのだろうか。所詮赤だろ? 同じにしか見えない俺は、おかしいのだろう。 「じゃあな、東条、霜月」 医者は軽い足取りで002号室を後にした。 「あの医者は若造でな。前は、歳老いた医者が我の面倒を見てくれていたのじゃ」 ――昔の病院を遠い目で懐古する冬音を見ていると、聞かずにはいられなかった。 「冬音はいつから入院してるの?」 「我は12歳の春に高熱を出してな。それ以来ずっとここに居るのじゃ」 今は11月の半ば、およそ半年といったところか。 「そんなに長いのか。大変だな」 微妙な沈黙……。 続ける台詞が浮かんでは消える。 俺はこの少女や、メモリーになんて言ってあげればいいのだろうか。 慰め? 励まし? そのどれも彼女の前では気休めだろう。 「秋の元に行ってやれ。我はここにいる」 優しく微笑む冬音に感謝しながら、005号室へと向かった。 ――メモリーや冬音のことを少しだけ知り、自分の退院のことばかり考えていたことを少し反省する。 ※ 「東条君、こんにちは」 神崎さんはいつもの優しい笑顔で迎えてくれた。 今日こそは彼女の病気について何か分かるかもしれない。 「星が……星が見えるんです」 「星?」 「とっても綺麗で――あわわっ、何でもありません」 神崎さんは虚ろな目で呟いていた。 星……? 彼女は精神病の類なのだろうか、それともただ寝惚けているだけなのか。様々な考察が頭の中で交錯する。 「今日は歌わないの?」 「あわわっ、東条君の前でそんなことっ!」 頬に手を当てて右往左往する神崎さんは、相変わらず微笑ましい。 「神崎さんの歌また聞きたいな」 「ええ! わかりました。東条君がそういうなら――いいですか?」 上目遣いで俺の了承を待つ神崎さん。 女の子が男を手なずけるのに使う技が上目遣いだと聞くが、この子の場合は素なんだろうな。 「是非お願いしたいな」 「それでは、頑張ります」 昨日と同じアカペラ。いや、彼女の歌には伴奏などなくても、十分に聞き手の心の奥まで届くような魅力があった。 ――彼女の奏でる旋律に陶酔する。優しい歌が俺の体内を巡り、汚れを取り除いてくれるようだ。 「どうでしたか?」 「とても良かった。神崎さんなら絶対デビューできるよ」 お世辞ではなく心からの賛美。逸材――とは、この子のことを指すのだろう。 「東条君に言われると――自信がつきます」 「早く退院できるといいね」 ――返事がない。 「神崎さん?」 神崎さんの方に目をやると、すやすやと赤子のように寝息をたてていた。 寝てる? さっきまで普通に話していたのに……? 20時間睡眠。突発的な眠り。星。 ――まさか。 ※ 「神崎秋はナルコレプシーだろう?」 「正解。予想よりだいぶ早いな。正解にたどり着くまでに、もっと掛かると踏んでいたんだが。彼女は一度寝ると1日起きないことも珍しくない重度のナルコレプシーだ」 医者が煙草に火をつけながら得意気に答える。 ナルコレプシー、通称居眠り病。 日中にも関わらず、突如耐えきれない眠気に襲われる病気のことだ。本人にも自覚がなく、ただの不真面目として片付けてられてしまう人がたくさんいるが、れっきとした病気だ。 『星が……星が見えるんです』 ――あの時の言葉はナルコレプシーの症状だったのか。 ナルコレプシーは入眠直後、レム睡眠に突入するため、幻覚などを見ることもあるらしい。その幻覚はとてもリアルで、たまに現実との区別がつかなくなる患者もいると聞く。 「なぜナルコレプシーの患者を入院させておく? 入院の必要性はあるのか?」 リタリンと言う中枢神経賦活薬を服用すれば、日中の眠気は防げるらしい。 幻覚については、アナフラニールなどの薬が効くとされている。 「それは俺が決めることだ。東条には関係ない――だろ?」 そう言われてしまえばそれまでだが……。 俺の仕事は管理。入退院を決めるのは奴だ。 それでも、納得がいかない。あの子はこんなところで燻っていてはいけない。オーディションを受ければ、すぐにでも歌手になれるだろう。 「あの子は歌手になりたがってる」 「ナルコレプシーは周りの協力がいるからね。彼女の場合は重症だから特に……」 周りから見ればただの居眠り。だから重要観察ってことか……。 歯がゆい気持ちを抑え、次の問いに移る。 「話を変えます。メモリーは――退院できるのか?」 文字通りあの子は何も知らない。数日ごとに新しい命を授かっているかのように。そんな彼女には、外の世界を――未来を見せてあげたい。 「さあね。あの子も相当症状が重いからね」 医者は煙を吐きながら、平然と答える。 確かに、1日しか記憶を保てない少女が社会復帰するには途方もない努力と歳月がいるはず。悔しいが、医者の見解は正論だった。 冬音の病気についても聞くつもりでいたが、この調子では教えてくれないだろう。 「悪い、東条、電話きたからちょっと待ってろ」 いや、お前が待てよ。 「はい、はい――え?」 医者の顔から血の気が引いていくのが分かる。 何かあったのか? いや、そもそも誰と話しているんだ? 「いや、しかしその件は――早まった?」 仕事の上司か? 前の電話の相手と同じように、敬語を用いている医者を横目に見ながら思案する。 「承知しました。ではまた後ほど、失礼します」 電話を終えた医者は、急いで荷物をまとめ始める。 「東条、急用ができた。留守番頼む。またな!」 医者は子供のように手を振りながら、病棟唯一の出口へと、にわか雨の如く走り去っていく。本当に騒がしい奴だ。 冬音のことは自力で調べるしかないな。 いつの間にか俺は自分の退院のことなど忘れ、3人のことばかり考えていた……。 ※ 004号室にて――。 「やあ、メモリー。調子はどう?」 「……ヒカル――?」 俺の名前を呼ぶメモリーの手に日記はない。 「お、おお! 俺のこと憶えててくれたのか?」 「……約束したから」 確かに忘れないと言ってくれた。 「でも、どうやって」 「……名前くらいなら、頑張れば3日くらい。それに、ヒカルだから」 頑張れば――か。一体どのくらい頑張ってくれたのだろう。 「そっか、確かに覚えやすい名前だからな」 「......ばか」 メモリーは悲しげに俯いてしまう。お、怒らせたかな。 「ご、ごめん! ありがとう、メモリー」 顔を上げて、微かに笑うメモリーがとてもたくましく見えた。 「......ヒカルはほんとばか」 さっきまでとは違い、その顔は笑っている。女の子らしい笑顔。 「そ、そうか? 俺、馬鹿かなあ?」 「......うん。センセイも言ってた。ヒカルばかって。ここに書いてある。」 な! あいつがそんなことを。メモリーに言われるのはいいとして、あいつに言われるのは癪に障る。 「……ヒカル、ワタシ少し寝たい」 時計に目をやると22時。 高校生にしては早い就寝だが、疲れているんだろう。なんてったってメモリーが記憶したのだから。 「分かった。じゃあまたね――って」 もう寝てるし……。速さだけなら神崎さんにも負けていないな。 ――帰ろうとしたが、足を止める。いたいけな少女の寝顔が気になったわけではない。 いや、まあ、多少は気になるが……。 机の上に無造作に置かれている物が、俺の足を掴んで離さないのだ。 ――メモリーの日記。 一体何が書かれているのだろう。 あれを読めば彼女の秘密が分かるかもしれない。そんな気がしてならなかった。 俺は管理をする立場だからメモリーのことを知るべきだ。 自分にそんな言い訳をして、罪悪感を揉み消そうとする。 散々迷った挙句、音をたてないように日記を手に取った。 『コウゴウヒカルに会う。とてもいい人』 最初に会った時に書いていたのはこれか。自分の顔が少しにやけているのが分かった。いい人、か。 しかし、肝心のメモリーの管理をすることについては書かれていない。だから思い出せなかったんだ。 暫く日記を流し読みするが、特に目立った文章は見当たらない。 夕食のメニューや検査の内容など、病棟のありふれた出来事が記されているだけだった。 ついに最初のページに辿り着く。後ろから読んでいたため、これが最後だ。 『ワタシの親死んだワタシ病気なった入院』 …………。 え? 文面を疑う。 嘘だろ? 殺された――だと。 頭痛が襲ってくる。吐き気がする。目眩がする。悪寒がする。 人間はショックを嫌う生き物だと言われている。 壮絶な体験をすると、そのことから逃避するように記憶が飛ぶことがあるらしい。まるで、パソコンが処理落ちして再起動するかのように……。 それが記憶の能力ごと消し飛んでしまったとしたら。 ――メモリーは両親が死んだショックにより、記憶障害になった。 そんな仮説が頭をよぎる。メモリー。 眠れる少女に布団を掛け直してやり、004号室を後にした。 ※ ある日のこと、俺は神崎さんにある提案を持ちかける。 「神崎さん、CDを応募しよう!」 「……」 あれ? 失策だったか? 「あわわっ、あわわっ、そ、そんな!」 今までで1番慌てている様子。あたふたとしている神崎さんが平常心に戻るまで、5分はかかったか。 ――最高記録だな。 「落ち着いた?」 「は、はい、もう大丈夫です」 気を取り直して作戦内容を発表する。昨日一晩考え抜いた至高のアイデアだった。 「神崎さんは歌手になりたいんだよね?」 「はい!」 長い髪をサラリと揺らしながら、自信のこもった声を上げる神崎さん。 「ここで歌を録音して、レコード会社持ち込みに行くのはどうかな?」 「あわわわわっ、そんなっ」 神崎さんが再び混乱するのを必死で宥めながら続きを話す。 「歌手になるにはいずれ通る道なんだよ! やろうよ、神崎さん」 「――東条君が。東条君が手伝ってくれるなら、やってみたいです」 そんな、手伝うに決まっているじゃないか。恥ずかしくて口には出せないが、心の中で返答する。 「でも東条君、どうやってレコード会社に送るんですか?」 盲点だった……。 俺たちは入院している身分なので、録音をしたとしてもレコード会社に送る手段がない。 一晩の計、破れたり。 「――そうだ! 医者に頼んで送ってもらおう」 正直奴に頼み事をするのはとても嫌だが、神崎さんの夢のためだ。つまらない自尊心など捨てよう。 …………。……。 ※ 「え? 俺が届けるの? やだ」 前言を撤回したい。カムバック自尊心……。 医者は昼飯のカツカレー弁当を食べながらきっぱりと拒否。 「ふ、ふ、ふざけるな――でございます」 暴言と敬語が織り交ざった新たな文章を発掘してしまった。くそ、医者の野郎――ある意味予想通りの反応だったが。 「え? 俺にメリットないし面倒だ」 少中学生並みの生意気な言い訳をする医者を、冷たい視線で見下ろす。 「どうしても、駄目ですか?」 すると、神崎が上目遣いでお願いを始めた。 自覚症状がないって怖いな。 上目遣い攻撃が微妙に効いているのか、医者は渋い顔をしていた。やはりこいつと言えど男。 断り辛くなったんだな、しめしめ。 「じゃあ、交渉しないか?」 医者は苦し紛れに代替案を持ち掛けてきた。 交渉だと? 嫌な予感しかしないな。 大人――特にこいつのようなやつとは交渉するものではない。大抵甘い蜜に見せかけた毒を掴まされるのがオチだ。 「録音機器の用意からレコード会社に配送まで俺がやってやる。その代わりデビューした暁にはファーストシングルの売り上げの半分を渡して貰おうか」 またまた前言撤回をしたいと思う。毒に見せかけた毒だった。 こいつ。鬼畜にもほどがある。これが俗に言う出世払いというやつか。 「分かりました! よろしくお願いします」 神崎さんは迷う素振りも見せず、嬉しそうに深々とお辞儀をしてしまう。 「交渉成立だな」 金の亡者め。こんな大人にはなりたくないものだ。 「それで、録音機器はいつ貰えるんだ?」 「ほれ、これに録音していつでも持ってこい」 医者が白衣の左ポケットからボイスレコーダーらしきものを取り出す。 いや、なぜ常備している。お前はこれで何を録音しているんだ。 「じゃあ、神崎さん。また後日録音しよう!」 「はい!」 神崎さんがデビューする日が待ち遠しい。ステージで歌う姿を想像せずにはいられなかった。 ――彼女ならできるさ。 〈第3章〉 「みんなでプレイルームに集まろう」 冬音が『こいつ、頭がおかしいのか? 何を言っておるのじゃ』とでも言いたそうに俺を蔑視しているが、構わず話を続ける。 「別に冬音や他の2人も外出は禁止されてないだろ?」 プレイルームとは、ナースステーションの西側に位置する大広間のことだ。 普通の病院なら患者同士が集まってテレビを見たり雑談をしたりしている光景を見かけるのだが、ここのプレイルームは言うなれば廃墟だ。 「我は自分の部屋で構わんのだが……」 「皆で集まったほうが楽しいって。な?」 他の2人には既に話を通してある。あとは冬音の承諾のみだった。 「光がどうしてもと言うなら――痛っ! あー、持病の腰痛があー」 もはや仮病にすらなっていない演技を始める冬音。 「年寄りかよ! ほら、行くぞ」 冗談がお気に召さなかったのか、冬音の表情に陰りが見えた気がした。そう思いながら冬音の手を握って外へ連れ出す。 少し強引過ぎたかもしれないが、冬音はちゃんとついてきてくれた。 「光のバカ」 冬音は肩をすぼめて小さくなっている。元々小さいが。 プレイルームでは、メモリーと神崎さんが待っていた。 「お、遅れてごめん」 「大丈夫ですよ、東条君」 「……うん」 冬音は借りてきた猫のように大人しくなり、俺の陰に隠れている。 「メ、メモリーに神崎、秋では、な、いか、霜月冬音だ。よ、よろしくだ」 緊張のあまり、カタコトになっている冬音。 「何度か顔は合わせましたよね? 改めてよろしくお願いします、霜月さん」 「……フユネのことは日記に書いてあった。よろしく」 殺風景だったプレイルームに、病棟の患者が全員集合した。こうして見ると普通の女の子のグループと何も変わらない。 「いいか、皆。これから毎日ここに集まること」 個室を回る手間が省けるし、何よりこの子達にはお互い友達になって欲しかった。 「集まって何をするのじゃ?」 盲点だった……。 「その顔は何も考えてない顔じゃな。まあよい、これから意見を出し合って決めるとしよう」 冬音の指揮でプレイルームが議会と化す。12歳とは思えない迅速な対応とリーダーシップだな。 さっきまで俺にすがりついていたのに……。 「雑談とかはどうですか?」 「うむ、それではもの寂しいのう。何かしながら雑談というのはどうじゃ?」 「それなら俺は、目的のあることがいいな」 「……目的?」 メモリーが無垢な瞳でこちらを見つめる。 「野球とか、サッカーとかはどうじゃ?」 「いや、プレイルームでプレイできる範疇を超えてるだろ」 「冗談に決まっておる! 光はバカじゃのう」 分かり辛い冗談だな。というか、そんなに俺は馬鹿なのか? メモリーにも言われた気がする。 「あの……」 冬音との抗論に夢中なあまり、神崎さんが話し掛けてくれていたことに気づけないでいた。 「おおっ、ごめんごめん。何? 」 「皆の健康を祈って千羽鶴を折るというのはどうでしょう?」 ............。......。 ――次の日、医者が文句を垂らしながら折り紙セットを買ってきてくれた。 ※ 「千羽鶴はな、首を折っちゃ駄目なんだぞ」 早速俺たちはプレイルームに集まって、作業を開始していた。 ちなみに、首を折る千羽鶴は優勝祈願などの場合だ。健康になって欲しい人に首の折れた千羽鶴を渡すのは縁起が悪いとされている。 「……ヒカル、鶴折れない」 「すいません――私もいまいち……」 鶴の折り方からか。道のりは遠いな。 俺と冬音で分担して鶴の折り方を一通りレクチャーしてやると、2人はすぐに会得したみたいだ。 メモリーは日記にメモしているし、神崎さんは既に1羽目に取りかかっている。 俺も頑張らなくちゃな。目の前の折り紙に手を伸ばす――すると。 「おい、光。灰色の折り紙は使わないじゃろ」 しまった! 急いで灰色の折り紙を手離す。が、もう遅いか。 「……フユネ、なんで?」 「私も知りたいです」 「うむ、教えてやろう。黒と灰色は葬式の色とされるからじゃ。 また、金、銀は祝儀の際に用いる色じゃ。どちらも入院患者に贈るには不謹慎じゃろ? 諸説あるがな」 「……すごいフユネ」 「あわわっ、尊敬です!」 もちろんそれくらいの知識、知らなかったわけではない。 ――大失態だ。このままやり過ごせたらいいが。 「す、すごいなー冬音は」 「お主もまだまだ未熟じゃのう」 「そ、そうだな」 俺の顔は明らかに引きつっていたに違いない。このままやり過ごせればいいが......。 「ヒカル、できた」 メモリーが微笑を浮かべながら見せてくれた折り鶴はまだまだ拙いが、彼女にとっては大きな一歩だろう。 「自分たちの健康を祈って千羽鶴を折るなど、何とも珍妙な光景じゃ」 確かに珍妙だが、楽しい。入院しているとは思えないくらい。 「できました!」 「遅っ!」 神崎さんの折り鶴は寸分の狂いもなく、『完璧』の一言が似合うくらい見事な出来栄えだった。 少し時間がかかり過ぎているが……。 「光、ちと忘れ物をした。我の部屋までついて来い」 冬音がおもむろに席を立ち、俺を連れて行く。 部屋の中まで来た時、冬音はいきなりこちらを振り返り、手の中の物を見せつけてきた。 「我の自信作じゃ!」 眩しい笑顔の冬音に、少し見とれてしまった。 神崎さんほどではないが、美麗な折り鶴。 「すごいな。この調子で頑張ろう」 ふと、冬音の顔から笑みが消えた。 「――光は、色が……分からないのじゃな」 ――こいつ。さっきの灰色の折り紙の件で勘づいたのか……。 今、冬音の手に乗っている1羽の鶴は、葬式の色だったのだろう。 「ああ。俺は生まれつき全色盲なんだ。色覚――色を判別する器官が人より劣っているらしい」 俺の目に映る世界は黒と、白と、灰色で構成されている。いわゆるモノクロ。 林檎も、血も、俺から見たら同じ黒だ。 「そうだったのか……。隠しているみたいなので、他の2人には言わないでおくぞ。我が光の世界に色を付けてやるから、安心するのじゃ」 隠しておく理由は特にないが、なんとなく知られたくなかった。優しくされるのに慣れていないからか。 だから、より一層冬音の優しさが心に染み渡る。 俺は冬音に対して心を開きつつあった。 ――なんて自己分析をしてみる。 「では、湿っぽい話は終わりにして、プレイルームへ帰ろうかのう」 こうして4人でずっと鶴を折っていられたら……。 いつしかそう思うようになっていた。 〈とある調査B〉 午前3時を回った所で、ベッドから起き上がる。医者は眠りに落ちた頃だろう。 ナースステーションに看護師はいないので、侵入は楽だった。 真っ暗な病棟の中、微かな光を灯して捜索を開始する。棚の上、机の中、カルテのありそうな場所を片っ端から漁る。 すると、カルテかどうかは分からないが、資料らしきものが4冊見つかった。 1つずつ見てみることにしよう。 まず1冊目。 表紙には〈記憶〉と書かれてある。メモリーに関しての資料なのか……。 『人間の記憶は無限か』と書かれている。カルテというよりは、論文に近い。 難しい単語の羅列ばかりで17の俺には到底理解できない――が、カルテではないことは分かる。 2冊目。 〈睡眠〉というタイトルの資料に目をやる。これは神崎さんのだろうか。 『人間と睡眠』という書き出しに続いて、理解し難い日本語が並べてある。 俺は悪寒を覚えながら、3冊目に手を伸ばす。 〈色覚〉これは俺のことだな。 『人間の色覚』この資料は予備知識があるので比較的平易な文章となっていた。 早々に俺についての資料を閉じ、次へと移る。これを読めば冬音の病気が分かるのか......。 思い切って資料を開けようとした時。 ん? 明るい。 どうやらナースステーションの照明を誰かが付けたようだ。 ――誰が? 「よう、東条」 …………。……。 〈第4章〉 ある日の朗らかな朝。俺はナースステーションにて冬音の背中を濡れタオルで清拭していた。 「ま、前を見たら八つ裂きだからなっ!」 どうしてこんなことになっているのか……。それは医者の一言から始まった。 ――簡単にまとめるとこの病院にはお風呂がないので、入浴の代わりに濡れタオルで体を拭くらしい。その仕事を俺にやれと強要してきのだ。 反論はしたが、『退院』と耳元で囁かれては従うしかない。 「光よ、さっきから背中ばかりではないか」 「せ、背中以外も俺がやるのか!?」 止めてくれ。自分を抑えられる自信がない。 ふ、冬音の……。 「ま、前はさすがに……」 「こ、これを使えばいいではないかっ」 冬音は白い鉢巻きを指す。なるほどなるほど、これで目隠しをしてやれということか。 ――無理です、冬音さん。 「は、早くしろ! 風邪を引いてしまう!」 ど、どうする……俺。 据え膳食わぬは男の恥。 ――いや、食ってしまっては問題だが。 …………。……。 諦めて鉢巻きを結び、タオルを手に取る。視界が遮断されているため、体の位置がよく分からない。 「この辺か?」 「ぜ、全然違うわいっ! お主、神様から授かった両目はどうした!」 あなたが封印しました。 「こ、ここかな?」 ――何かが触れた。どうやら冬音の体に到達したようだ。 あ、柔らかい……。 「どこを触っとるんじゃああああああ!」 ふぐっ! 12歳の渾身のアッパーカットが俺にヒットする。 め、眩暈が……。 …………。……。 ※ ――目を覚ます。あれ、ここは。 「あ、東条君。よかったです」 目の前には神崎さんの笑顔が――ん? 目の前というよりは……。上。 「あわわっ、東条君が廊下で倒れてたので、つい――すいませんっ!」 これは、いわゆる膝枕。ふくらはぎの肉感に、俺の後頭部が非常事態宣言を発令している。 女の子の甘い香りが訴えかける――『理性よ、消えろ』と。 き、消えたら困る! 消えてたまるか! 「も、も、もう大丈夫だよありがとねっ」 急いで飛び起きる。ふぅ、危なかった。 あの場所は男子高校生にとっては危険過ぎる。 ふと、記憶が蘇る。そうだ、俺は冬音のアッパーカットを受けて気絶していたのか。 「本当ですか? ならよかった」 豊かな胸に手を当てて、安堵している神崎さん。 「じゃあ、プレイルームに行く? もう皆集まっているだろうし」 ――千羽鶴を完成させなきゃな。 「そうですね、行きましょう」 冬音……怒ってないといいけどな。 ※ プレイルームにて、気絶した経緯を神崎さんに話すと、『いいなあ......』と言って眉をひそめていた。 ――いいのか? そんなに俺を殴りたいのか!? 「まったく、光はスケベじゃの」 鶴を折りながら、冬音が愚痴る。 顔を赤らめて――いるかは俺には分からないが、愛らしい顔をして照れている冬音。 そこまで怒っているようには見えない。 あと俺はスケベではない。 「……ヒカルはスケベ?」 「あわわっ、東条君はそんな人じゃありませんよね?」 非常に答えにくい質問を前に、適当に笑ってごまかす。 「そ、そうだよー」 「体を拭いてもらうなんて羨ま――あまり東条君を困らせちゃ駄目ですよ、霜月さん」 頬をぷくっと膨らませる怒りの仕草も、神崎さんが実践してくれると見事に本来の意味を成さなくなるから不思議だ。可愛い。 ――ちなみにパジャマ越しから存在感を主張する双子の凶器は見ないようにしている。鼻からありったけの血を吐き出して、スケベの称号を正式に授与するのは御免だからな。 「そんなに羨ましいなら秋も今度やってもらうのがいいぞ」 な、な、なんてことを言い出すのかこの幼女! 「是非そうさせ――羨ましくありません!」 今日も平和だな……。 「うわっ、メモリーすごいな」 さっきから会話に入ってこないと思っていたが、ここまで進歩するとは……。 メモリーの横に置かれた、山のように積まれた折り鶴が彼女の努力を物語る。 「メモリーちゃんすごいです!」 「なかなかやるではないか、メモリーよ」 照れている! 日に日に感情表現が豊かになってきているメモリーを見て、親のような気持ちになってしまう。 彼女はできない理由を病気のせいにせず、日記1つで立ち向かっている。 「学校みたいで――楽しいですね」 神崎が哀歌を歌うかのように呟く。 「私、病気のせいで学校も休みがちで、たまに行っても途中で寝てしまったり、いじめられたりで友達出来なくて……」 『ナルコレプシーは周りの協力がいるからね』 奴の言っていたことを思い出す……。 神崎さんは優しすぎる。いじめの標的となるには十分すぎるくらいの。 「我も、卒業くらいしたかったのう」 「……日記には、学校のことは書かれていない」 俺を含め、ここにいる全員が病気のせいで教育課程に穴が空き、なにより友達と呼べる繋がりが欠如していた。 傷を舐め合うと言うと、聞こえは悪いかもしれないが、俺たちは互いに向けて慰安の折り鶴を折っている。そんな気がしてならなかった。 ※ ある日のこと。遂に歌を録音をすることになった俺と神崎さんは、005号室に集合していた。 「レコーディングする曲とか考えてある?」 「は、はい。実は――1曲作ってみたんです」 ――へ? 驚きのあまり声が出ない。 この短時間で機械や楽器もなしに作曲してしまうとは……。本当に歌手になれるんじゃないか。 「す、すごいよ!」 「皆で千羽鶴を折ることになって思いついた曲なんです」 「曲名は?」 「『CRANE』です」 なるほど、和訳すると『鶴』か。期待と興奮で胸が一杯になる。 「じゃあ、早速始めようか」 「よ、よろしくお願いします!」 ボイスレコーダーを取り出し、準備を済ませる。 「いくよー」 録音のボタンを押すと、彼女は歌い出した。 思わず感嘆の声を上げてしまいそうになり、慌てて口を押さえる。 『生きる希望を1羽の鶴に乗せて飛び立つ』 そんな思いが込められている優しい歌詞とは対照的に、激しい曲調。 束縛されてきた鶴が外の世界を求めて逃げ出すかの如く、疾走感に溢れる歌だった。彼女には伴奏など必要ない。改めてそう感じた。 「――どうでしたか?」 神崎さんは録音が終わると、捨てられた子犬のようにビクビクしながら俺の感想を待っている。 もっと自信を持ってもいいのにな。 「これならデビューできる!」 「ほ、本当ですか、ありがとうございます!」 歌っている時の神崎さんは、絶壁に咲く一輪の花のように、凛然としているが、今は柔和な微笑みを浮かべていた。 「じゃあ、俺は医者に渡して来るね」 …………。……。 ※ 「録音した音源持って来たぞ」 「おう、任せろ。約束は守ってやる」 医者は渋々レコーダーを受け取ると、ポケットに入れた。 「1つ気になるんだが、一般人が音源を持ち込んでも、向こうは受け入れてくれるのか?」 門前払いということもあり得るだろう。レコード会社だって暇ではないのだ。 もし白衣の医者が少女の歌を持って来たら――俺なら追い帰してやる。いや、通報してやる。 「俺は東条と違って一般人ではない。安心しろ」 「……変人か?」 どこからどう見てもこいつにコネがあるとは思えない。 「東条は口が悪いな。大丈夫だって言ってんだろ」 ――頼むあてはないし、この男を信じるしかないか。 「神崎……デビューできるといいな」 ――今誰が喋った? この場には俺と医者しかいないはずだが……。 まさか、幽霊? 「東条、お前が考えてることは大体想像はつく。そんなに変か?」 医者の口から出た言葉とは信じ難い……。 「ああ。金目当てなんだろ?」 「はあ、もうそれでいい。なあ、東条。テストしてやるよ」 「テスト?」 「ああ、お前が医者としての資格があるかどうか先輩の俺が当ててやる」 いや、まだ医者ではないから資格などないが......。 「わかった。よろしくお願いします」 医者はビールを片手に、語りだした。 「患者がある重病に侵されている。生存率が絶望視されるほどだ。お前なら、どうする?」 「――どうするって、治す努力をするさ。当たり前だろ?」 「そんな患者の手術をするか? 手術をしなければ一年間は生きられる。手術すれば、1パーセントは助かる」 難問だな。敗北が分かっている試合を受けるかどうか、ってことか。 「助かる可能性があるなら、俺は諦めたくない。患者が手術を望むなら、全力で受けるさ」 「そうか......。いい心掛けだ。が、若いな。失敗すればお前の実績にも黒星がつく」 「実績なんていらない。患者を救えるかどうかじゃないのか?」 「ああ、そうか。失格だな......」 医者は、正解を教えずに、病棟を出ていった。 ※ 俺がこの病院に来て、早くも1ヶ月経った。 退院なんてものは頭の片隅にもなく、ただただ冬音たちと過ごす毎日の尊さを噛み締めていた。 日を追うごとに折り鶴と思い出が増えていき、それと引き換えに一緒にいられる時間だけが減っていくような気がした。 まるで壊れた砂時計のように……。逆さまにしても、決して元には戻らない。 「これで965枚じゃ!」 「随分折りましたね」 「……圧巻」 3人の美少女が折り鶴の絨毯に見とれてしまっている。 冬音曰く、虹色らしい。 虹か……。一度でいいから青空に掛かる光景を見てみたいものだな。青空すら見たことのない俺には、夢物語だが。 「あと少しで完成だな。出来たら打ち上げでもするか?」 「……ウチアゲ?」 「完成を祝うパーティーみたいなものじゃ」 「いいですね、やりましょう!」 神崎さんが目を輝かせている。 「どこでするか」 せっかくの打ち上げ、いつものプレイルームというのはな……。 「医者に外出許可でもねだってみるか?」 一瞬でプレイルームが凍りついた。俺、何かまずいこと言ったかな……。 「と、とても心躍る提案じゃが奴が許可するとも思えんいやでも一応聞いてみないことには始まらないしなそうと決まれば皆で医者の元へ向かうのじゃ!」 そんなに嬉しいのか。……落ち着け、冬音。 「そうですね、行きましょう!」 「……レッツゴー」 みんな乗り気なようだな。まあ、無理もない。学校にすら通えなかったんだ。 「外出か。 一日くらいなら、許可してやるぜ」 いつから聞いていたのか、医者がひょっこりと顔を出した。 いや、そもそもどこから沸いて出たのか……。 「千羽鶴が完成したら1日だけな」 プレイルームが歓声に包まれた。 ――マジ!? 予想外の人間味に溢れた発言に開いた口が塞がらない。 「またしても東条が思ってることは分かるぞ。失礼だな、俺だって人間だ」 いつの間にか心を読まれている。 「医者よ、感謝する!」 「ありがとうございます!」 「……ハッピー」 どういうつもりかは分からないが、とりあえず――外出権、ゲットだぜ! ※ 俺たちは矢の如く35枚を折り終え、あっという間に千羽鶴は完成した。 「ついに出来ましたね」 神崎さんが額の汗を拭う仕草をする。 ――元々彼女が出した意見で、ここに1000羽揃ったんだよな。 「……完成、嬉しい」 メモリーの艶やかな嬌笑には、可愛らしさと美しさが兼ね備わっていた。 ――メモリー。最初のほうはどうなるかと心配していたが、最終的には1番折った数が多いのでは。そう思わせるくらいの努力だったな。 「感激じゃ!」 冬音の瞳から一滴の涙が頬に伝う。 ――思えばこの千羽鶴のことがあったから、冬音に俺の病気がばれて2人の距離が縮まったんだな。結果的にはよかったのかも知れない。 一生の思い出になるような、そんな幸せに包まれた瞬間。 ――世界が色付いてきた。 妄想と言ってしまえばそれまでだが、それでも、妄想せずにはいられなかった。 「さあて、打ち上げに行くか!」 「「「おー!」」」 ※ 翌日の朝。駅前の公園に腰掛けながら欠伸を1つ。 なんで同じ病棟からなのに待ち合わせにしたんだ……。 かれこれ30分近く待っている。 こ、こ、これじゃあまるで、デ、デートみたいじゃないか。 「光っ」 「遅れてすいませーん」 「……お待たせ」 ――いつものパジャマではなく女の子らしい服。 メモリーはふんわりとした雰囲気の青い(本人談)ワンピース。林檎の髪飾りが特徴的でチャーミングだ。 神崎さんは意外にも大胆なホットパンツ。胸に加えて妖艶な美脚が露わになっている。 冬音はひらひらとした赤い(これも本人談)ミニスカートが、お花畑を舞う1匹の蝶のようで、あどけなさと美しさを兼ね備えている。 彼女の姿は、いつもの冬音からは想像もできないほど優雅だ。 3人とも素敵で、『色』が見えないのが何とも惜しい。 今更だが、自分の病気を呪った。 「どうしたんだ? その服」 「さっき3人で購入したのじゃ。似合うか?」 「あ、ああ。とっても可愛いくて驚いた」 だから待ち合わせにしたのか。 「そういえば、お金はどうしたんだ?」 3人が押し黙る。 謎の沈黙。 「ま、まさか……盗んだとか?」 「み、店からは盗んでないわ! ただ、医者の財布から少し……」 なんだ、それなら何も問題ないだろう。 …………。……。 「じゃなくて、駄目だろ!?」 いくら奴とはいえ、盗みはいけない。 いや、ばれたら殺されるじゃ済まないだろう。人体実験に使われるかもしれない。 「あんまり東条君をからかってはいけませんよ、霜月さん」 冗談かよっ! 相変わらず分かり辛いな。 「医者から前借りしたのじゃ。5倍返しの約束でな」 多重債務者の始まりを垣間見た気がした……。 「気を取り直して、行こうか」 「どこへ行くのじゃ?」 盲点だった……。 「……ヒカル、あれ食べたい」 クレープ屋か。昔、家族で一緒に食べた記憶がある。 「いいよ、皆で食べるか」 ワゴンの店員に4人分の代金を支払い、クレープを受け取る。焼きたて生地の香ばしい香りが食欲をそそった。 「お、おいしい! ありがとうございます、東条君」 「……ありがと、ヒカル」 喜んでくれたのなら幸いだ。 確かにずっと質素な病院食だったから、新鮮でおいしいな。 「なあ、光。この美味な甘味は何じゃ?」 「え、クレープだけど……」 「なるほど、くれーぷというのか。こんなに美味しい食べ物生まれて初めて食べたぞ」 冬音に至ってはクレープを知らない様子。 そんなに絶品と思ってくれるなら、買ったかいがあるというものだ。 「……ヒカル、ワタシの少しあげる」 メモリーが無表情でクレープを俺の口元に近づける。 こ、これは、か、か、か、関節――じゃなくてか、間接キスではないか。 「お、おう。ありがとな」 少し――いや、かなり照れ臭いがメモリーのせっかくの好意を無駄には出来ない。 腹をくくってメモリーのクレープにかじりついた。 苺のクリームが口の中に広がる。 「うん、美味しいよ」 「あわわっ、東条君。私のも食べて下さいっ!」 神崎さんが慌てて俺にクレープを差し出す。 「ありがとう、神崎さん。うん、美味しいよ」 神崎さんのクレープは、バナナとチョコレートの甘さがたまらなかった。 「おい、光! 我のクレープとやらも食べて――食べろ!」 冬音は俺にクレープを差し出す――というより口にねじ込む。 「ごぼっ、むぐっ、お、美味しいよ、ありがとう」 神崎さんのクレープがまだ残っているのに、キャラメルの風味が参入してきた。 3人は大声を上げて笑い出す。 ――楽しい1日は始まったばかりだ。 ※ クレープを食べ終えた俺たち4人は、通りの向こうのデパートへ行くことになった。横断歩道を渡ろうとした時、 「光、待つのじゃ!」 冬音に服の袖を掴まれた。 「信号――赤じゃぞ」 ――そっか、しばらく外に出ていなかったから忘れていた。 以前は母親が寄り添って、信号機の色を教えてくれていたからな。 「ありがとな、冬音」 「礼には及ばぬ。我が光の世界に色を付けてやると言ったではないか」 色が分からなくても伝わるほどの優しい笑顔。 「病気のこと。秋とメモリーに話さなくてよいのか?」 冬音が後ろでキョトンとしている2人に目をやる。 「――そうだな 」 隠しておく必要もないし、俺自身のこともちゃんと話さなくちゃな。 決意を胸に、2人に全てを打ち明ける。 「神崎さん、メモリー、実は――」 2人に病気のことを説明すると、鳩が豆鉄砲を食った様な顔をしていた。 ――そう、大抵の人は驚く。色の存在しない世界など、想像出来ないからだ。 「そうですか、東条君がそんなに大変な苦労を……気付かずにいてすみません!」 「そ、そんな苦労してないし、言わなかったのは俺だから大丈夫だよ」 ペコペコと何度も謝る神崎さん。 ――もっと早く言えば良かったな。 「……ヒカル、一緒に頑張ろ」 メモリーの言葉には、確固たる意志が籠っていた。 「そうだな、頑張ろう」 メモリーや神崎さんと本当の意味でかけがえのない友達になれた気がした。 「お、おい。メモリー、秋、光……。我は病気のことをまだ話していないが――」 「……大丈夫」 「言わなくても霜月さんは大切な友達ですよ」 「無理に聞いたりしないよ、冬音」 かつて冬音が俺にしてくれたように、優しく笑みを返す。 しかし、言葉とは裏腹に、冬音の病気はやはり気になってしまうのだが……。 冬音だけには、目立った症状が見られない。 俺の場合も普通は気付かれないから、なんとも言えないが。 「ありがとう――なのじゃ」 冬音に少しだけ明るさが戻ってきたようだ。 ――その日俺たちは、普通の少年少女のように、外の世界を満喫した。 ※ 帰り道、神崎さんが寝てしまったので、俺は年頃の女の子をおぶっていた。 「大丈夫か、光?」 「あ、ああ。全然平気だ」 重たくはなかったが、背中に当たる柔らかな感触を気にしないようにするので精一杯だ。 気にしないように意識するだけで、既に気にしてるのだが……。 「……今日のこと、忘れたくない」 メモリーは、明日になれば今日の出来事を忘れてしまうだろう。 十分理解していたつもりだが、胸が痛くなる。 「ちゃんと日記に書いておくのじゃぞ」 「……うん、そうする」 メモリーや神崎さんは、俺なんかよりずっと辛いだろう。 日々、病気が無ければ……と懇願していたに違いない。 それに、冬音だってきっと。 他人に言えないような苦悩を抱えているような――そんな気がする。 いつか冬音の悲しみも一緒に背負ってやれたらいいのに。 「でもメモリー、今日は楽しかったでしょ?」 「……うん、ありがとう、ヒカル、フユネ」 あっという間に1日は終わり、カラスの群れが宵を告げる。 「綺麗な夕焼けじゃ」 俺には一面灰色の空にしか見えないが、冬音が言うのだからとても美しいのだろう。 普段は不便なく生活できているので何とも思わなかったが、少し寂しくなる。 ――冬音と、同じ空を見たかった。 「光、橙の空じゃ」 「そっか、橙か……」 灰色の空を仰ぎ見て、橙色の空を見る。 「ヒカルとフユネ、お似合い」 「な、な、何を言っておるのじゃ、メモリー!」 今、冬音の顔が紅潮していれば――。 そんな願いを抱きながら2人の追いかけっこを眺めていた。 「おかえり、東条、霜月、メモリー、神崎は――寝てるのか」 病院の前には、夕焼けを眺める男の姿。 どことなく、哀愁が漂っている。 「お迎えとは似合わぬことをするのう」 確かに似合わない。不自然さを通り越して恐怖すら感じた。 「ああ、早く報告したいことがあってな。霜月、お前を集中治療する」 ――医者が何を言っているのか、その時の俺には分からなかった。 ※ 医者の衝撃発言から1週間が経った。 あれから一度も冬音と会うことが出来ていない。 集中治療と銘打っておきながら、扉の前には警備員が1人佇んでいる。 黒服にサングラスと、病棟には場違い過ぎる格好だった。 冬音――。 「東条君、先生の姿が見当たりません」 「……ナースステーションにもいない」 医者もあの日から姿をくらましている。 決して陽の当たらないプレイルームの千羽鶴が、悲愴の色を浮かべていた。 「冬音が心配だ。会いに行こうと思うんだが……」 「どうやってですか?」 「メモリーに神崎さん、落ち着いて聞いてくれ。俺はずっと皆で退院する方法を考えてた。けどそれは叶わない。この病院はおかしい」 最悪の予想が当たってしまった場合、ここは病院ですらない。 「……何が変なの?」 ――もう言ってもいいか。 これから俺たちは立ち向かわなくてはいけないのだから。 「この前、ナースステーションに侵入した時のことだが……」 「ええ!」 「……ヒカル大胆」 大人の事情など、分からない。分かりたくもない。もしかしたら何も知らない男子高校生の分際で、否定すべきことではないのかもしれない。一人の少女と腐った世界――天秤に掛けたらどちらに傾くのか。 いや、違う。天秤に掛けていいはずがないんだ。奴は――この世界は間違っている。 〈とある調査C〉 「こんな夜中に何やってんだ? 早く病室に戻れ――と言いたいところだが、そうもいかないか」 医者は口調こそ柔和なものの、眼から冷然たる黒い妖光を放っていた。 返す言葉を失い、必死でカルテを片付ける。 「冬音の資料。見たか?」 「ま、まだです」 奴にこれほどの気迫があったとは。正直侮っていた。 怖い。本能が告げる――逃げろ、と。 「教えてやるよ、霜月の秘密」 「え?」 ついつい間の抜けた声が漏れてしまう。 「俺が来なければ見てたんだろ? だったらもう教えてやる」 意外な言葉に耳を疑う。 理屈はよく分からないが、断る理由はない。 「その前に1つ。メモリーの両親が死んでいるのは知っているか?」 「あ、ああ」 日記の最初のページ。 『ワタシの親死んだワタシ病気なった入院』 「メモリーの両親はな、殺されたんだ。霜月の前任の老いぼれ医師によってな」 ......。あまりにも突飛すぎて、状況が飲み込めない。 「奴は研究のためならなんでもする男でな。」 「じゃあ、ど、どうしてメモリーは記憶障害に?」 「メモリーは両親を失った後、老いぼれ医師にある薬を投与されて記憶能力を失ってしまったんだ。表向きには、両親が何者かに殺されて、ショックで記憶を失ったことになっている」 記憶能力喪失は、両親が死んだショックが原因じゃなかったのか……。 「奴が投与した薬によって、メモリーの記憶力は無限レベルにまで跳ね上がる予定だった。が、試作段階でな、記憶障害になってしまった……」 真相を知る。 なんだよ、それ。ふざけんなよ……。 「ふ、冬音は?」 「霜月はな。〈不老〉なんだよ。歳を取らない」 ………………。は!? 「おっと、冗談じゃないぞ。霜月の本当の年齢は70歳だ」 嘘だ。 あり得ない。 そんなことが、そんな病気があるはず――。 「ああ、体の組織が12歳の状態のままを維持する病気など存在しない。しかしそれが自然発症じゃないとしたら? 霜月もまた、前任の老いぼれ医師が霜月の体に老化を止める薬を――不老不死の薬を投与した」 不老不死だと……。 そんなこと出来るわけが――。 「語弊があったな。その時の薬は未完成だった。ファンタジーなどでよくある永遠の命とは違う。外見は12歳のままだが、内部組織は着実と衰退していく。歳を取らないのではなく、外見を留める薬になってしまった」 『年寄りかよ! ほら、行くぞ』 ――いつの日か冬音に口にした失言を思い返す。 あの時、冬音の顔が一瞬曇った気がしたのは思い過ごしではなかったのか……。 「霜月はこの病院に来てもう58年になるな。毎日採血してるのは、被験体のデータを取って、薬を完成させるためだ」 12歳の春に高熱を出して以来、この病院にいるって言っていた冬音。 あの時はたったの半年と思っていたが……。 58年。 視界が霞み、頭痛に襲われる。 「な、なんのために?」 俺はようやく口を開くことが出来た。 「目的? 俺は察しの通り医者じゃない。前任の医師と同じ国に飼われている科学者さ」 驚きを越えて怒りが込み上げてきた。 激しい動悸。 「東条の前でよく電話してたろ? 俺はニュースに出るくらい有名な政治家共の犬でね。前に言ったろ? 一般人ではないと」 ああ、変人などではない。奴には大き過ぎるコネがあった。 そう言えば、前に医者は、電話で『早まった』とか言ってたな。 「国は何を早めたんだ?」 「集中治療だよ、東条。――いや、本格的研究と言うべきだな」 「国が不老不死の研究のために冬音を?」 「東条、俺は国を裏切れない。例え飼い主がどんなにクズの集まりだろうとも、従うだけだ。決して望んだことじゃない」 「そんな口先だけの言葉、信じられるか!」 こいつの言っていることは、ただの責任逃れ。理想を振りかざすだけで、やっていることは汚れきっている。 「ではなぜお前にこの真相を話したと思う?」 それは、俺も気がかりだ――なぜ? 「真実を知ったお前は行動を起こすだろ? 元々この計画、俺は反対だった。東条、俺を止めてくれ」 医者はさっきまでの鋭い眼光とは逆に、寂し気な眼差しをしていた。 「あくまでも善人の立場にいたいわけだな。ああ、言われなくてもそうするさ。冬音が、冬音が何をしたって言うんだ! こんなくだらない研究ごときで1人の人生を奪っていいわけないだろ!」 憤怒、やるせなさ、悲しみ、全てを目の前の哀れな飼い犬に向けて吐き出す。 夜半の満月に向かって咆哮する獣の如く、野生に身を委ねた。 「その言葉、上の人間にも聞かせてやりたいよ、残念だ」 医者は右手を挙げて手を振ると、漆黒の闇へと溶け込んでいった。 ――始めよう。戦いを。 〈第5章〉 「そ、そんな……」 「……フユネ」 全てを話すと、2人は呆然とその場に立ち尽くしてしまった。 不思議だった。何故患者の俺に少女らの管理を任せたのか。大事な資料が簡単に手の届く場所に置かれていたのか……。 ――謎が解けた。 全ては医者の造り出した舞台。俺と少女達を出会わせ反旗を掲げる勢力を作り出し、国の計画を潰して欲しかったのか。 俺や冬音はただの操り人形に過ぎなかった。 いや、医者すら人形なのかもしれない。 国家という至大な権力に支配された傀儡。 悪いが同情はできない。 この計画にどれほどの陰謀や闇が渦巻いているのかは知らないが、こんな不条理許されていいはずがない。 奴の望み通り、行動を起こすのだ。 「と、東条君!」 「は、はいっ?」 考えに耽っていたせいか、神崎さんに呼ばれているのに気付かなかったようだ。 「ごめん、考え事してて」 「あまり、気負わないで。私たちがついてるから」 「……そうだよ、ヒカル」 神崎さんとメモリーが俺の手を強く握りしめる。普段なら緊張して熱くなってしまう所だが、自然と俺の心は平常へと向かっていった。 「ありがとう。メモリー、神崎さん。おかげで冷静になれたよ」 ――そうだ、まずは冬音を助けなければ。 「早速だが、2人であの警備員の注意を引けないか? 俺に考えがある」 我ながら拙過ぎる計画だが、躊躇っている時ではなかった。二人に作戦内容を説明すると、自信のないような、不安を帯びた表情を浮かべる。 「うん、分かったよ。東条君」 「……がんばる」 少女達を信じよう。 「解散後、カウント20で動く。いいな?」 2人は頷くと、警備員の傍へと移動した。 18、17、16……。 ――息が詰まる。 遊びではない。一歩一歩と警備員に悟られないように距離を縮める。 10、9、8……。 待ってろ、冬音。冬音に会いたい。 あの太陽のような笑顔の裏には、1人の少女に背負わせるには理不尽で重過ぎる過去があった。 5、4、3……。 ――いつか冬音は俺の世界に色を付けてくれると言ってくれたな。 じゃあ、俺は。全部一緒に背負ってやるよ。 この気持ちに気付けずにいた。冬音が好きだっていうこの気持ち。 2、1……。 ――歌声が聞こえる。 いつの日か聞かせてくれたバラード。ただ、以前とは違い、そこには確固たる『強さ』が伺えた。 瞬間的に警備員は歌声のする方に頭を向ける。 再び前を向いた時には俺の拳は届いていた。 ドスッ――。 鈍い音が病棟に響く。 「うぐ……」 低い呻き声と共に警備員は地に伏せた。 「ふう、1発で決まった」 戦闘経験など一度もないが、神崎さんとメモリーのおかげで切り抜けることができた。 警備員の懐を漁り、拳銃を盗む。これは後々使えそうだ。 初めて持った鉄の凶器の重さに、これからすることの大きさを感じる。 もう、後には引けない。 「や、やった!」 「……ヒカルすごい」 2人はすぐさま俺の方へ駆け寄ってくる。 「2人共、病棟の出口で待機しててくれれ。俺は冬音を迎えに行く」 「……分かった」 「待ってますね」 やっと、会えるね、冬音。 ※ ふう......。 深呼吸をしてから扉を開ける。 「冬音!」 寝ている体を起こし、抱き締める。強く、強く。 「バ、バカ! いきなり何をするのじゃ!」 冬音は最初のうちはもがいていたが、やがて動かなくなり俺の体に手を回してきた。 「――どうして言ってくれなかったんだよ」 この一言で全てを理解したのか、12歳のか弱い体が小刻みに震え出す。 「い、言えるわけなかろう。き、嫌われ――」 「んなわけねーだろ!」 今までより、一層腕に力を込める。 「好きだよ、冬音」 「ひ、光……。こんな我を、好いてくれるのか?」 目には大粒の涙を溜めていた。58年分の苦しみが溢れ出す。 「当たり前だろ? 大好きだよ」 「わ、我も……ひっく、光が、大好きじゃ!」 俺たちは愛を確かめ合うように口づけを交わす。触れ合った部分から、互いの境界線が消えていく。 甘く――とろけそうだった。 「冬音、ここから逃げるぞ」 「うむ。光よ、医者は研究目的だったのじゃろう?」 「冬音は気付いてたのか?」 「58年もいれば気付くわい」 冬音は言葉の勢いとは逆に、暗く沈んでいた。 「なあ、光。窓からは逃げられないのか?」 冬音がベッドの横の窓を見ながら問いを投げる。 「駄目だ。出たところで病院は塀に囲まれているため外には出られない。正面入口からの強行突破しか道はないな」 この前外出した時に見た記憶が正しければ、この病院は高くそびえ立つ黒い壁に囲まれており、一点だけ検問所のような門があった。 「正面突破以外、道はないようじゃな」 「ああ、でも大丈夫。俺が必ず守るよ」 「バカ! 恥ずかしいことを――よ、よろしく頼むぞ、光」 冬音の小さな手をしっかりと掴み、2人の元へ向かう。 ――もう放すものか。 ※ 俺は3人の少女を連れて、病棟の出口まで来ていた。 「開けるぞ」 鍵くらい掛けておけばいいのに。いや、わざとだろうな。 病棟を出ると、出口が見えないくらい長い通路が続いていた。 「警備の人達いませんね」 「……罠?」 罠かもしれない――けど。 「戻れないだろ?」 「そうじゃな」 10分、いや、20分は走っただろうか……。 「警備員、いませんね」 「不気味......」 長い廊下が続くだけで、誰もいない。馬鹿にしているのか、舐められているのか。 ――それとも。 「……ヒカル、出口」 ようやく外に出られるのか。 ついに俺達は人形劇の舞台から飛び出した。 ※ 外へ出る。冬の凍てつく冷気が体を包み、不気味なほどに白く煌々と光を放つ満月が俺達を照らしていた。 「月――久しぶりに見るのう」 冬音の言う久しぶりとは、一体どのくらいの時間なのだろう。途方もない歳月が この病院によって奪われてしまったからな。 ――そろそろ返してもらおうか。 俺達にとっての最後の障害が目の前で電話をしている。 「はい、では、それで通しておいて下さい。それでは、お元気で」 医者は通話中も俺に銃口を向けているので、動くことができない。 「なあ、先生。外出許可――出してくれませんかね」 こいつが冬音を、冬音の人生を。 憎悪で胸が燃えるように熱い。 どす黒い憎しみは、俺の理性を焦がし尽くそうとしていた。 落ち着け。落ち着け。落ち着け。 本能で戦って敵う相手ではない。 話していれば、必ず隙を見せるはず。その時を待つんだ。 「通路に警備員を置かないなんて、随分と余裕ですね、先生」 「ああ。お前たちが警備員に捕まって、反逆が終わってしまうと困るからな」 舞台を飛び出せたと思ったら、それすら人形劇の一環だった。 「……き、貴様」 冬音の歯ぎしりが聞こえる。俺は懐の銃を取り出そ――。 「動くな、光」 くそ……。なかなか隙を見せない。 しばしの間、睨み合いが続く。 「東条君、どうします?」 神崎さんがひそひそ声で相談を持ち掛けてきた。 「奴をどうにかして倒さなきゃ出られないな」 まったく勝機がないわけではない。 奴は俺達を撃てないはずだ。大事な被験体を傷つけると、それこそ国に消されてしまうだろう。そこを上手く突けば......。 「……先生、どいて。邪魔」 「我は先を急ぐのじゃ!」 しばし睨み合いが続く。パジャマ一枚で冬の風に晒され、皆の体力や集中力も限界が近いようだった。 銃口からは一度も目を離していないが、避けられる自信はない。 「霜月、外に出てどうする?」 俺は医者が冬音に視線を移した瞬間、拳銃を取り出し後ろ手に隠す。 ――気づかれてはいないみたいだな。 「ふ、たわけ。若造。ここよりマシじゃ」 いつも通り小さな胸を張る冬音からは威厳を感じた。さすが、貫禄があるな。 「反逆が成功して欲しいんだろ? だったらそこをどいてもらおうか、先生」 奴の表情が一瞬だけ歪んだのを俺は見逃さなかった。 ――狙いは今しかない。 イメージする。銃を取り出して発砲。 3秒、いや、2秒で済ませる。 警備員から奪った銃の安全装置を、後ろ手で外す。 「いや、俺は国の人間だ」 医者がメモリーに銃口を向ける。 今だ! ――パアンパアンッ! 乾いた二発の銃声。 ――二発? 「春花! おい、メモリー!」 「弥生ちゃん!」 隣では、メモリーの右肩からどす黒い液体がとめどなく流れ出している。 ――絶望の色。 な、何が起こった……。 「お前が俺の隙を伺ってたのはバレバレだよ」 「ど、どうしてメモリーが?」 「お前の弾丸を避けてから弥生に発砲した」 嘘だろ......。そんな芸当が可能なのか? 「東条、俺は一般人ではない。戦闘だって政府直属の戦闘組織で学んでた時期があってな」 そんな、そんなことって......。 「こんな幼稚な逃走劇――成功するはずないだろ?」 医者は優しい目つきで俺を諭す。 俺たちは舞台から出ることができないのか……。 深呼吸......。落ち着け、考えろ。考えろ。 「く、国の計画には反対するのに冬音は譲れないのか?」 無駄だと分かっているのに、高校生の稚拙な頭脳で噛みつく。 「霜月は58年間の人生を俺たちによって奪われてしまった。上は睡眠、記憶、視覚よりも特別な、〈不老〉という価値のあるデータを欲しがってる。あと少しだけ間違いに付き合ってもらおう。と、思っていたのだがな......東条。俺はどうやら人間だったみたいだ」 「ど、どういうことだよ、先生。何がお前を動かすんだ? 腐った国の奴等の犬になってまで、何がしたかったんだよ......」 しばし沈黙が流れる。吹き荒ぶ冬の風だけが、虚しく音を奏でていた。 やがて、医者は口を開く。 「俺は昔、愛を誓った恋人を自分の手術で亡くしてしまった。治らない病気だったんだ。悔しかった。あいつが日に日に弱っていく様を、見ていることしか出来なかった! 自分の信じてた医療技術なんて、なんの役にも立たかったんだ!」 医者の悔しさが伝わってくる。 やはり写真立ての中で笑っていた女性は、こいつの恋人だったのか。 「そんな時だ。老いぼれ医師に会ったのは......。奴は俺に不老不死の研究を勧めてきた。全てを失った俺に躊躇いは無かった」 そんな過去があったなんて......。 こいつは恐ろしいほどに、『人間』だった。 「東条、俺は間違っていない。が、お前も間違っていない。それなら俺はお前らに懸けようと思う。俺はもう、何も失いたくないんだ!」 こいつ、どうする気だ......? 「打って悪かったな、メモリー。急所は外しておいたから、東条に治してもらいな」 医者は銃を捨て、地面にひれ伏してしまう。 「神崎秋、オーディション受かったぞ。早速二次審査行ってこいよ」 負けを認めたというのか? いや、こいつに限ってそんなこと、でも。 「東条。お前が何を考えているか、当ててやろう。こいつが負けを宣言するはずがない。そんな馬鹿な......。だろ? 負けじゃない。夏乃を守れなかった俺の、最期の救いなんだよ。どうか、一発で仕留めてくれよ?」 医者は俺の拳銃を見つめる。それだけで、何を望んでいるのかが分かってしまった。 「霜月。国には、お前が死んで研究が終了したと伝えた。お前らの今後については心配するな。俺にはいろんな所に『コネ』があるからな。俺がこんなこと言う資格ないが、幸せになれよ」 ......そうか。こいつは道を違えてしまった。誰しもに訪れる『死』を、乗り越えることが出来なかったんだ。 再び俺は医者に銃口を突きつける。 「――なあ、東条。お前も医者になるんだろ?」 「ああ、なってやる。お前みたいな医者にはならないさ」 「そっか、頑張れよ」 医者は己の運命を決めたように、ゆっくりと瞼を閉じる。 鈍い銃声が冬の夜空を切り裂いた。 ............。......。 〈終章〉 ――あれから5年の月日が流れた。 あの後、メモリーの傷もなんとか治し、俺達3人は すぐに退院することが出来た。 医者の部下と名乗る男が、俺達に数え切れないほどの金と進学証書をくれたので、退院後の生活について、困ることは無かった。 奴の机の中からは遺書も見つかっていて、最初からこうなることが分かっていたのかもしれない。 結局奴の人形劇団から抜けられなかったってことか。 今日はとあるパーティーに招待されて豪華な会場に来ていた。 天井を見上げると、絢爛としたシャンデリアが垂れ下がっており、周りを見渡すと、テレビで見たことのある人間が何人もいる。 ――そう、今日は『CRANE』のシングルCD発売記念パーティーだった。 仲良く録音をしていた5年前を思い出す。 あれから神崎さんとメモリーには、数回しか会えていないので、ステージ上でドレスを着こなしている女性をすぐに認識出来なかった。 以前とは比べようもないくらい大人の魅力が滲み出ている。 胸も一段と成長したんじゃないか……。 彼女の後ろには、見覚えのある千羽鶴が掛っていた。 「皆さん、本日は私のためにお集まり頂きまして、心から感謝を申しあげます」 相変わらず謙虚な奴だな。 彼女の隣にはスーツを着た女性が目に涙を浮かべている。 そういえばメモリーは神崎さんのマネージャーをしているらしいな。 一日のスケジュールを全て忘れてしまうので、世話が焼けると神崎さんが言っていた。どちらがマネジメントされているのか......。 メモリーは普通の女の子ように表情が豊かになっている。よかったな。 「なあ、光」 「なんだい?」 「千羽鶴、とっても綺麗じゃな」 「ああ、とっても綺麗だ」 ――世界に色が、戻ってきた。 〈完〉 |
闇狐
2012年10月08日(月) 19時49分44秒 公開 ■この作品の著作権は闇狐さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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