或る怒り
  もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。――ソロモン


 時計の針は午前十一時を回ったところである。
 ――皆出ているな。
 彼は布団から身を起こした。
 食パンを一枚オーブントースターの中に入れてツマミを回した。それまでのあいだ特にすることもない彼は、パンに焼き目がついていく様子を見つめ続けた。ねじを回したブリキ玩具のような駆動音を立てて次第に熱を帯びはじめ、トースター内部はオレンジ色の光で占められていく。焼く前は指で押さえると凹凸ができるほどの食パンも、しばらく経過すると焦げ目が付きはじめ、焼き上がる頃にはもう柔らかさは失われていた。
 焼けたトーストを皿に乗せ、台所の引き出しからサンリオのキャラクターが描かれた柄付きのスプーンを一つ取り出し、最後に冷蔵庫からイチゴジャムの瓶を取り出した。ジャム瓶の蓋はかなり固く閉められていたが、もう何年も前に成人を迎えた彼の腕力ならば、開けることは造作もないことである。焼き目の上に平坦にジャムを塗っていった。
 リビングには四脚の椅子とテーブルがある。彼が座った隣の椅子には新聞が二つ折りで置かれていて、彼はパンをかじりながら折り込みチラシを確認した。彼の母がすでに求人情報のチラシを最上面に乗せていたようだ。彼はそれだけを抜き取って残りを折り曲げ、古新聞を溜めるワゴンの中に放り込んだ。そして彼は、飲み物を一切用意することなくパン一枚全てを食べ終えると、シンクの中に皿を入れて、再び自分の部屋へと戻った。
 ベッドの上に腰を下ろして、パソコンの電源を入れた。デスクトップ画面が映し出されるその間に、彼は例の求人広告に目を落とした。長方形に区画された求人情報にはパート・アルバイトや派遣社員の文字が並び、どの求人にも申し合わせたかのように、笑っている社員の写真が添えられていた。しかし彼は、例えばマクドナルドやブックオフのような有名なロゴマークばかり無意識に目で追ってしまう。他の求人にも目を向けてみるのだが、それらは彼が見たことも聞いたこともないような会社ばかりである。彼自身が今まで生きてきたなかで、何ら関係のないところで動き続けてきた会社に、今さら興味を抱くことはできなかった。彼の母が薦めてくる仕事は、例えば正社員を目指せるようなものであったり、勤務地が近くて通勤にストレスを感じにくいところであったりするのだが、彼が母に言われたまま履歴書を書こうとしても、職歴欄や志望動機欄を最後まで書くことができず手を止めてばかりだ。
 パソコンのブラウザを開いて、スレッドのまとめサイトに目を通す。「画像で笑ったら寝ろ」のスレッドに貼られている画像は、ほとんど見たことのあるものだった。隣国との領土問題についてのスレッドは、批判的というよりはむしろ差別的な書きこみが、相変わらず延々と縦に連なっていた。動画サイトにアクセスしてジャズを聞いても、頭のなかで幸福なお調子者が左右にスイングを繰り返しているばかりで、彼自身の心情とそれらの音をうまく結びつけることができなかった。
 母親が仕事から帰ってくる時間は夕方の六時ごろである。それまで彼はまた静かに眠ることにした。カーテンを閉めた状態で照明を落として昼を夜にする。豆電球の光だけが部屋を薄く照らしている。天井をじっと眺めていると、目の端で電源を入れたままのパソコン画面がスクリーンセーバーに変わったことに気づいた。
 眠くは無かった。しかし体は動かない。自分の肢体がベッドの底へと沈みこんでいくように思えた。天井と壁との境目を目でたどっていくと、自分の部屋がとても狭いことが分かる。そしてこれ以上広がっていくことはないのだと、彼に突き付けているかのようである。働いたことのない男の若者に与えられる場所は、せいぜい四畳半程度のものでしかない。自分の部屋を人差し指でなぞっていくと、彼が小学生の時に友人とよく遊んだ「陣地ゲーム」を思い出した。相手の陣地を奪って自分の陣地を大きくしていくゲームだ。自分が持っている陣地はなんと小さなものだろうか。


 車が走る音が窓から入り込んでくる。家の側に大通りが走っているのだ。けたたましいエンジン音を響かせる自動車が時々家の前を通り過ぎていく。自動車が接近するにつれて音量が大きくなって、やがて過ぎ去っていくにつれて潮が引くように消えていく。その音を聞いた彼は、体をうつ伏せにして枕に顔を埋めた。
 目を開けても閉じても見えるのは闇ばかり。外界から遮断され、必然的に彼の意識は自分の奥底へと向かう。彼には学もなく、哲学的なことは何も知らない。しかし学が無くとも、想像力を働かせて自分の心を捉えることは誰にでもできる。そして彼は、自由に空想を膨らませるその一人遊びが好きだった。第三者から「月並みだ」「くだらない」と言われる心配もない場所で。広大な空の下に、砂丘の上に佇む自身の姿を彼は捉えた。暗褐色の砂が風で舞い上がって、暗緑色の空へと広がっていく。そのあおりを受けて、黒い外套が汚れていく。この砂上で立ち続けていると、外出していないという理由で長らく風呂に入っていない自分の肌が、ますます汚ならしいものになっていくことは必至だったが、たとえコートの繊維の微細な隙間に砂が入り込んで洗っても取れなくなってしまったとしても、彼はその場を動こうとはしなかった。いや、違う。動けナイのだ。前に踏み出そうと足裏で地面を蹴ろうとしても、砂はその柔らかさで足を沈めようとする。彼が小学生の時、夏休みに連れて行ってもらった海水浴で、ビーチサンダルを履いて歩くのがとても重く感じられたときの感覚と同じである。足が付かないほど深い沖合の方まで浮輪で進み、高い波に呑まれて海水を思いきり目鼻から飲みこんで苦しんだ記憶もあって、彼はこの年になっても海水浴と聞くと嫌な気分になる。砂と風は、圧倒的な奔流となって彼を前へ押し流そうとしている。その奔流がむしろ障害となっていることも知らずに。
 その時、耳からまたしても大きなエンジン音が聞こえてきた。この街には悪いものが蔓延っているのだろうかと彼は思った。とても煩い。心の中で叫ぶ。煩い、煩い! 去れ! 去れ去れ! 砂と風は未だに自分の下から離れようとしない。去れ! 去れ去れ! 再び足を動かそうとした。砂が靴の中に入り込もうとする。彼は向かい風の力を押しのけようと体を前に傾ける。前は見えない。数歩先の地点までが限界だ。目を大きく開けると忽ち砂が入ってくるため、細目にして睫毛で目を守りながら進むしかない。一歩前に進むと、砂地を深く抉り抜いたような足跡が一つできた。その足跡には、砂地の表面よりもなお赤黒い褐色の砂があった。続いて左足を踏みしめる。再び足が沈む。砂は風で舞い上がって全身に打ちつけて彼を攻撃するのみ。仰向けになったまま敷布団を思いきり殴りつけた。手の側面に鈍い痛みが走り、彼を発奮させる。鞭を打たれた馬と自分を重ね合わせる。血を滾らせる腿と関節、胴体を支える骨と蹄。その脚が砂地を蹴って、後方へと塵煙霧を巻き上げながら進む様をより具体的にイメージする。筋肉の動き、血の流れ、関節の動き、蹄鉄の蹴り、それら全てを鮮烈に思い描く。両手で枕を掴み、自分の体を上下に動かす。殴るように拭きつける風は勢いとどまることを知らない。彼は駿馬の嘶キを耳元で確と聞きながら前進する。一瞬でも気がゆるむと後ろへ吹き飛ばされかねない。唇に付いた砂の味は強烈に苦い。先が一歩も見えないという事実そのものが、彼を絶望の淵へと叩き落とそうとする。さらに悪いことに、彼は熱くなった首筋に冷たい雨粒が落ちたことに気づいた。それに気づいたとたん、雨足が一瞬で強まる。風に煽られて彼の顔にも水が吹き付ける。砂も雨水を染み込ませて例外なく黒くなった。何か暴力的なものが砂を一瞬で黒くしたのだと彼は思った。足首から水が流れ込んで蒸れはじめ、足指の間が汗ばんでいった。馬の嘶キは未だ耳に残っている。喉から絞りだされたような甲高い声もまた暴力的だ。胴体を槍で突いたときも馬は甲高い声を出すのか。そのときの嘶キは、どれだけ自分のいのちの声に近づいたものなのか。暴風雨に阻まれて彼は砂に両手を突く。人差し指と中指の間に黒い砂が入り込む。血を流した馬はまだ走り続けているだろうか。泥で汚れたままの尻尾を後ろへと靡かせているだろうか。陰茎から迸った精液が赤き大地に沁み込んでいっただろうか。耳の穴に風が勢いよく出入りするせいでもう嘶キも聞こえなくなる。しかし彼は両手両足を砂に埋めたまま彫像のように風雨を凌ぐ。もう人間の力では一歩も進むことは叶わない。しかし彼はそんな状態でもなお、目を見開くことで自然に立ち向かった。砂埃が容赦なく眼球を痛めつける。毛細血管が浮き出て充血しはじめ、生理現象として涙が一筋落ちる。布団と自らの体が摩擦して腹部が熱を帯び始める。彼はその熱によって、自分の体温を自覚することができた。冷たい風雨に打たれながら行われたベッドの上の肉体運動は、物理的な摩擦熱を契機として、汗によって生理的な熱も発散され、その熱を自分が生きている証拠とした。冷たいベッドが自分の体温で暖められたことを、彼は全身の肌で感じ取った。


枕から顔を上げると、唇から唾液が少しだけ滴っているのに気づいた。枕にも唾液の染みが一つできていた。
布団の上で彼は膝を曲げて正座になり、両膝の上に手を置いた。カーテンの隙間からは外の光が見えて暗い部屋を照らした。彼はベッドから降りてカーテンを開くと、大通りを走る車が一定の速度で並んで走っていた。水でも飲もうかと思い、彼は求人広告を手にとって自分の陣地から抜けだした。
 その足で台所へ向かい、水を飲んだあと、彼はなんとなく包丁を手にとって、エンジン音の海を泳ぐように、外の世界へと踏みだした。


時乃
2012年10月08日(月) 16時35分39秒 公開
■この作品の著作権は時乃さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
引きこもりがちな若者が夢を見て、そのまま外へ出ていくお話です。中央部分が、今回特にどういう評価を受けるか気になります。

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