空蝉



 初秋。
 涼やかな風が夏の残滓であるじめじめとした湿気をそろりそろりとどこかへ追いやっている。
 雲は高く、空は蒼い。地上では、熱気を取り払われた景色が輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
 私は涼気の中を泳ぐような心持で自宅の庭を散策していた。夏の暑さからようやく解放された庭木たちがほっと深呼吸をしているように見える。枝葉の狭間をすり抜けていく秋風はさぞ心地好いだろう。
 紅葉にはまだ早い。庭の奥のほうに頭を出している楓の木も、目を凝らしてみてやっと色づいているかなというのがわかるような具合だ。じつは私は、赤や黄色に色づく木々たちをどうも好きになれない。いかにも枯れていくという情景が私にはうそ寒く感じられるのだ。
 自分が年を取っているからそう思うのではない。いつからかは忘れたが、幼い時分から私はそれがあまり好きではなかった。やがて葉が枯れ散り、冬日に晒されてか細い影を地面に落とすことになる木々の姿を思ってしまうからだろう。うらさびしい景色はノスタルジックではあるが、自分が在るべき世界としては心元無く感じるのだ。
 松はいい。ぴんと張った葉の一本一本まで力強く、雪をかぶってなお折れることはない。だから、松はいい。下から見上げれば葉の隙間からとがった光がぱらぱらと降り注ぐ。それを浴びるのがまた、良いのだ。
 そうしてしばらく松枝の下にたたずんでいた私だったが、ふとその幹に目をやるとそこに面白いものを見つけた。それは空蝉だった。
 小さな琥珀色の造形。背中はきれいに縦に割れている。中身はとうにどこかでその儚い生涯を終え、朽ち果てていることだろう。私は空蝉を見るたびにその皮肉さに笑わずにはいられなくなる。
 生命の残滓にすぎないその小さな物体が秘めている矛盾。つまり、ぬけがらだけが形を留め続けていくことの無常がなんとも滑稽ではないか。
 私は目の前の空蝉をつまんでみた。予想通りの頼りなさでそれは私の手の内に転がり込んできた。いつもであればすぐにそれを枝葉に戻すのだが、私はふと遊び心にとらわれて、妙な気を起した。そのぱっくり割れた背中を覗き込んでみたくなったのだ。好奇心、というほどものではない。そこに何があるか、いや、そこに何もないことは容易に想像できた。それでもその中を見てみたくなったのだ。つまりはただの戯れだった。
 抜けがらをつまんだ手を目の前にかざす。左目を閉じて、右目で中を覗き込んで見た。そして私は吸い込まれた。そう吸い込まれたのだ。
 私の意思は空蝉の中にいた。そこは窮屈で自由の利かない世界だった。空蝉の透明な目を通して外の世界が見える。それは不自然に歪んだ、まるで澱の中から外を覗いたような景色だった。蝉はこの視界から逃れるために脱皮したのではないだろうかと思われるほど、不自然な世界がそこにあった。見えるものすべてがいびつに歪む世界がそこにはあった。そして、私は世界とはそういうものなのだろうと理解した。いや、理解させられた。
 視界には大きな鉤爪のついた両腕もあった。それを使って土を掻きわけ、木の根にすがりつく。彼らはそうして世界から身を隠し、ひたすら外へ出る機会を覗い続けるのだ。そして窮屈な体の内側には無数の管の痕が這っている。これらのすべてを断ち切って蝉は殻を脱ぎ捨てたのだろう。それにはどれほどの覚悟が必要だっただろうか。それでも脱ぎ捨てなければならない、その運命に抗うことなどできない彼らは何を望んだのだろうか。
 七年も八年も真っ暗な土の中で過ごし、決死の覚悟で地面に這い出てそれまでのすべてを脱ぎ捨てる。この堅く窮屈な殻から解き放たれた彼らを待つのは熱い太陽と広い広い空、そして七日間という残酷な時限なのだ。
 空蝉を残して彼らは飛び立つ。そして、命の限り叫び続ける。「私はここにいる。ここで生きている」と。死ぬ間際まで、地面でのたうちまわりながらも叫び続ける。「生きている。まだ、生きている。ほら、まだ鳴けるのだ」と。そして、死ぬ。
 死んだ彼らはたちまち土に帰っていく。彼らは消える。空蝉は残る。
 私は空蝉から目を引きはがした。手が震えていた。私は気づいてしまったのだ。この空蝉と自分との違いに。空蝉をもたない私はこれまで何かをなし得たのか。私は何かを残して死ねるのか。そもそも私は生きていると声を張り上げることができるのか。出来ているのか。
 秋風が私の首筋をそろっと撫でた。背筋を悪寒が走りぬける。私は身震いした。そして、空蝉を地面に放り落とす。松枝から漏れる光にそれは一瞬きらりと輝いた。私は地面に転がったそれを右足で踏みつぶした。


 
 
 



天祐
2012年09月26日(水) 00時15分15秒 公開
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■作者からのメッセージ
旧作です。すこし手直ししました。
読んでいただいた方に深謝です。

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No.1  蜂蜜  評価:40点  ■2012-10-03 15:42  ID:p72w4NYLy3k
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お久しぶりです。拝読しました。

一見すると、地味でケレン味のない作品ですが、注意深く読んでみると、深い……そんな魅力のある作品でした。

>中身はとうにどこかで〜

この一文がとても好きでした。
蝉の脱け殻について思いを馳せることはあっても、その先のたましいまで思いを馳せることは、難しいです。天祐さんならではの、細やかな感性を、僕はここに感じました。

過去に比べたらここTCも、だいぶ閑散としているようにみえるかもしれませんが、いえいえ、そんなことはありません。かたちはかわっても、運営者がかわっても、古参投稿サイトとしての、TCのカラーは、いまだに息づいています。

今後とも、互いに切磋琢磨できることを祈ってます。
総レス数 1  合計 40

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