夜が白み始めた頃に鉄塔を登り始めた。何度か風に煽られ危うく足を踏み外しそうになりながらも、自分を奮い立たせ少しずつ登って行った。丁度、昼間の時刻には鉄塔のてっぺんまで辿り着き、そこから見える景色を堪能した。場所によっては低い雲に覆われて白く濁っており、その辺りの地表には雨が降っているようだった。見える家々はミニチュアのように小さかった。その高さまで登るとひとつひとつの屋根の下で暮らす人々の、喜びも苦悩も届いては来なかった。血管のように町に通るそれぞれの道路の上を走っていくバイク、乗用車、ワゴン。それらの人々の服装も表情もそこからは見えなかった。普段接している世界からは遠ざかり、ひたすらに抽象化されたその様相に、何だか小気味良さを感じた。駅前を無数のムクドリの群れが舞っているのが遠めに見えた。鳥は飛んでいる間こんな景色を眺めているのかと思いを馳せた。
 そうして見ると、人ひとりひとりの表現力など微々たるものだった。しかし地表を覆った都市の景観それ自体を人の表現力としてみるならば、確かにそれらは自然を圧倒していた。但し無機質に。都市という人工物を人の最大の表現力として捉えるならば、そこに感情など存在しない。だからこそこうして強固に、広大に拡大されていったのかもしれなかった。
 高く上がれば上がるほど、人としての性質は削ぎ落とされ、遠退いてゆき、成層圏を突破すれば人の姿などもう見えなくなってしまうのではないか。そして今度は自然と人工物の量が逆転し、山や森の緑と海の青が大半を占める地球の表面が見えてくる。そしてもっと遠ざかればただ瞬く一粒の星になってしまう。そうなっても小気味良さを覚えることが出来るだろうか。
 宇宙を造ったのが神ならば、そんなごく些細な人々の姿など見ている暇はないのじゃないだろうか。人が顕微鏡を通してわざわざミクロの世界を見るように、もし研究熱心な神様ならそうして目を凝らして見物するかもしれないが、そんな宇宙の細部にじっくりと気を配っているうちに別の宇宙の端で大変なことが起こってしまうかもしれないではないか。
 何となく上を見上げると、天球上に巨大な眼球があった。その目はときおりぱちくり、と瞬きをしながら私のことを観察しているようだった。
「もしかして、あなたは神様ですか?」
「おお、こんなところに何かがいる」
その声は大きな波となって地球全体を震わせた。とてつもなく大きな人ではあったが、神様が日本語を話すとは、いや、地球上に現存するどんな言葉も話すとは思われなかったので、何だ神様ではないのか、とがっかりした。
「ちょっとどいて貰えませんか」
「おっとこれは失敬な生き物だな」
「今崇高な思想に思いを馳せているところなので邪魔しないで下さい」
「ふん、スーコー? フーコー気取りか? これだから小さい人はつまらん、つまらん」
 とても大きなその人はパンと弾けて無数の一般的な大きさの赤ちゃんへと変わり、今まさに性交を終えたところの女性の腹に宿って行った。
 神が宿っているとすればそれは人の「意識」ではなく「身体」の方ではないだろうか。「意識」自体は神とは隔絶された場所にあって、だからこそ自然の中から見出した物理法則をある程度は宇宙に当て嵌めてそれが正しいことが確認されるのではないか、医学で人の命を救ったり、永らえさせたり出来るのではないか。ということは「神」を操作して人は文化を発展させてきたことになる。そして「意識」はそこから隔絶されているからこそ、「神」の宿るものを観測することが出来るのだ。だから「神」を感じようとするなら、「意識」を静かにして「身体」の声に耳を澄ますしかないのではないのか。「意識」に「神」は宿らない。だから、そこから生まれる人の苦しみや悲しみを神は癒してくれない。同じ世界に生きる「人」に癒される幸福を人は待つしかない。
 少し、心細い気がした。
「何を悲しむことがあるんだ。ボクはここにいるよ」
声が聞こえたので辺りを見回すと、空に影が浮かんでいた。それはぼんやりと人の形をしているようだった。
「じゃあ、君が神なのかい」
「そうさ。君を存在たらしめている、君の「身体」。君の神さ。だからボクは日本語をしゃべるし君の傍にずっといるよ。少なくとも君が死ぬまではね」
「ああ。そうか、そうだったのか。ここまで登ってきた甲斐があったよ。君を探してこんなところまで登ってきたんだ」
くすくす、と私の神は笑った。
「そりゃあ余計な努力をしたもんだね」
「ああ、本当に」
「ところで君はボクを探して来たといったが、つまり何かから救われたかったのかな?」
「いいや。君に会えているということは今ここに「意識」はない。つまり人は、神に会えたその時点で救われているんだ」
「そうかいそりゃ楽だ。ボクは何もしなくていい。ボクに会えた者は皆救われているということだ。まさしく「神」。さすがボク」
 その「神」が高笑いすると強く風が吹いて、私の身体は中空に吹き飛ばされた。限界まで高くに登れば後は落ちるしかない。重力の支配から逃れられるほど高くに登らない限りは。私にはそんな力はないので、やはり、落ちるしかない。
 私がそこまで登ったことを誰も知らない。唯一それを記憶している私自身ももうすぐ消えてなくなる。それを多少なりとも惜しい、と思えてしまうことが人の人たる所以だろうか。しかしそれと同じくらいそれで充分だという気もした。あとの大半は何も思っていなかった。急激な気圧の変化と風圧に身体は悲鳴を上げていたし、それによって脳の大部分は何も考えられなどしなかった。しかしそれこそが「神」だった。私は落ちながら自分の意識が掻き消えていくと同時に、神そのものになっていった。
 それにしたって、神が宿るのが「意識」ではなく「肉体」の方なのだとしたら、本能の赴くままに振舞うことこそが神に従うことなのだろうか。だとしたら人は神を殺しながら「社会」の中で生きているのだろうか。
 人は「意識」によって「神」を観察する。「意識」は間違いなく「神」が産んだものだ。では何故「神」はそんなものを産んだのか。
――生命の起源。
 地面に墜落したとき意識は消えた。神はそれでもぐちゃぐちゃに崩れた私の肉体の部分部分に留まっていた。それらの神は死肉を突きに来た鳥や虫などによってもっと細かく分解されていった。そしてそのうちの一粒の神がまたあの鉄塔に登るかもしれなかった。あるいはもっと高くまで登るかもしれなかった。
「求めよさらば与えられん。」しかしその代償についてはどこにも書かれていないのだった。

渦巻太郎
http://uzumakisaburo.blog.fc2.com/
2012年09月23日(日) 18時48分30秒 公開
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■作者からのメッセージ
何だかごちゃごちゃした内容ですが、感想等いただけたら幸いです。

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No.2  渦巻太郎  評価:0点  ■2012-09-25 00:52  ID:E6h2Nrru2yg
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 感想いただけてとても嬉しく思います。ありがとうございました。

 思索に止まっているとのご指摘、まさにその通りですね。小説としての体裁は整っていないかもしれません。色々な方向性を試みての結果ではあるのですが、やはりまだまだ未熟なようです。

 ご紹介いただいた「空の境界」、機会があれば視聴してみたいと思いました。奈須きのこさんの作品なのですね。別の作品で少しだけあの方の世界観に触れましたが、良いエンタメ作品として仕上がっているという感触がありました。

 ではでは、この先も精進したいと思います。
No.1  時乃  評価:30点  ■2012-09-24 12:41  ID:L6TukelU0BA
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先日は拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
「高」読ませていただきました。

「空の境界」の俯瞰風景が思い出されました。
渦巻さんがやりたかったことが良質な形で表現されてるかもしれません。
もし知らないようなら、書店でも、レンタルビデオ店でアニメでもいいです。
参考になるかと思います。

高いところから風景を見続けていると、生きている実感が奪われていくような気がしてきます。
現実が非現実にかわってしまう瞬間でしょうか。

ただ、難点を言うなら、これは思索劇じゃなくて思索にとどまっているように思います。ラストの墜落で、ようやく劇が始まった感じです。そのまま落ちて終わっちゃいましたが。

次回作、頑張ってくださいね。


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