日記
 息子が突然失踪したのだという話だった。行き先に心当たりはないが部屋の机の上には一冊の日記が置かれており、それが手がかりにならないかと老婆に渡された。試しに開いてみたがそれは酷い内容だった。何が酷いかって内容がないのだ。意味をなさない文字がそこにはびっしりと隙間を開けず綴られていて、一種執念めいたものを感じた。試しに抜粋してみるとこんな感じだ。
「今日目が覚めたら目玉焼きだった。おやすみを言い忘れた壁が歌いながら死んでいる。もうぼくは死んでいない。川の流れが軽やかでフィジカルを踊っている。ベラリョーシカ。」
 私は老婆に失踪届けを出すか尋ねた。失踪届けを出せば身元不明の遺体などが出た際に知らせが来て、それが尋ね人であるかどうか確認することが出来る。しかし場合によっては与り知らぬ者の遺体をいくつも見せられるようなことにもなる。老婆ははいはいと頷いて届けに必要事項を書き込んだ。
 老婆が交番を出て行ってから手が空いたので、何となくさっき渡された日記が気になって読んでみた。
「この世のものとは思えない。鳥が空を飛んで魚が海を泳いでいる。重力は今まで死んだ生き物が地獄の底からありとあらゆる物質を見えない手で掴むことから産まれるのだ。だから死が堆積していくに連れて重力は増し星は潰れる。明日もいい天気だといいなあ。雲ひとつない空は寒天みたいに純粋だ。私の身体の中はノイズのフィルタがかかっている。微粒子が動き回ってちかちかちかちか。赤青黄色の原色だ。
 森の中の、微生物に分解されかかった湿った木の葉の地面の奥から人の目玉がいくつもいくつも沸いてくるのをひとつひとつぷちぷちと潰していくのが最近の趣味だ。趣味は徹底的にやらなければならない。空からは無数の舌が垂れ下がっていた。雨とはあの舌から分泌される唾のことだ。そういえば明日仲間を集めてあの舌はひとつの巨大な舌になったんだった。そうして巨大な舌から流れ出る唾液が作るのが滝である。それにしてもあのアニメの次回予告はいつも同じ内容だ。自殺が多いというマンションで松明を持った老婆が行ったりきたりしていた。その間私の耳は閉じていて何も聞こえてこなかった。その代わりに音が文字になってふわふわと空中に浮かんでいた。そのうち文字に埋め尽くされて息も出来なくなった。筋肉がきゃーと悲鳴を上げて、その度に先
生に叱られるのでもう運動部はこりごりだ。
 さいころになった夢を見た。イカサマ用のサイコロなのでいつも振った人間の思った目しか出すことが出来なかった。頭に来たので88を出したらその日のうちに解雇されたので、羅生門で毛を抜く仕事に精を出した。
 頭蓋の中には振り子が吊るされている。脳味噌なんてものはこの世にない。振り子が左に動けば人は左翼になるし右に動けば右翼になる。どちらにも傾かない人は産まれてこの方ずっと直立しているのだ。勿論眠ることさえ直立のままだろうしセックスだって直立のままする。
 汗が吸いたい。子供でも少年少女でも老婆でも何でもいい。汗は生命の起源だ」
 おい、お前何やってるんだ、と同僚の警官に言われて我に返った。私は日記を読みながら自分の袖を捲くり上げて汗を吸っていた。ちゅーちゅーちゅーちゅー。口の中が塩辛くていけないので水を飲んだ。どうも変だと思って日記を閉じた。この日記はおかしい。読んではいけない。そんな気がした。しかしそう思えば思うほど日記の続きが気になって仕方がなかった。ここのところ猛暑日が続いていて少し疲れているのかもしれなかった。
 夜勤の交番勤務を終えて帰宅した。とるものもとりあわずさっさと服を脱いでシャワーを浴びた。水に流されて生命の起源が排水溝に流れて行った。下水管の中には生命の起源が沢山含まれていて、排泄物や汚穢と交じり合い新たな生命が誕生する。そこで生まれるのは現存するどの宗教の神よりも尊いのだろうな、などという言葉が口から勝手に漏れ出ていることに途中で気が付いた。頭をぶるぶると振ってシャワーを止めた。
 翌日は休暇だったがどこかに出かけるほどの元気はなかった。冷蔵庫から取り出したビールのつまみを朝食代わりにぱくついた。朝のニュースに出てくる人々は皆人工的でよく整えられていた。人から生まれる人はある意味皆人工的であって当然とも言えるのだが、普段相手にする軽犯罪者たちはどいつもこいつも獣染みているので、テレビの中のそれらの人は皆アンドロイドなのかもしれないなどと思った。考えてみれば自分がアンドロイドではないという保障はなかった。血を流したことくらいあるがもしかしたら赤い燃料を使用しているのかもしれず、寝ている間にこっそりとアンドロイドの管理人がやってきて鼻の穴からその燃料を継ぎ足すのだ。
――馬鹿馬鹿しい。
 そう思ったがどうにも脳内から言葉が溢れ出てくるのが止まらなかった。言葉は勝手に増殖しありもしないことをあたかもあることのように語ってゆく。恐らくあんな日記を読んだせいだと思って腹立たしくなった。上着を引っ掛けて勤務先に向かい、自分のデスクの引き出しにしまい込んだあの日記を持って再び帰宅した。こんなもの、さっさと焼いてしまわなければ。
 まな板の上に乗せて、軽く塩と胡椒で味付けをする。フライパンに少量の油を温めてから片側に焦げが出来るまで強火で焼き、ひっくり返してから蓋をして火を弱める。あとは中まで火が通るまで待ったら出来上がりだ。冷蔵庫の中に使いかけのステーキソースがあったことを思い出し、それを用意して焼き上がるまでまった。ミディアム・レアに焼けたそれを皿に載せて、ソースをかける。ナイフで切り分けようとしたが硬くて出来なかった。上から少しずつ剥いでむしゃむしゃとそれを頬張った。
――おいおい、焼くってこういうことじゃないだろう。
 分かってはいるのだが、どうにもこうにも食欲が止まらなかった。消化不良にはなるかもしれないが少なくても毒ではないのだから食べても大丈夫だ。大丈夫だろう? 大丈夫だと言ってくれ――誰とも分からず問いかけた。
 全て腹に収めた頃ようやっと自分の両頬に涙が絶え間なく伝っていることに気が付いた。もう食べられるものがなかった。もっと食べたくて仕方がなかったけれど、これを作った人物は失踪してしまったのだ。そう思ったらものすごい飢餓が襲ってきて喚き声を上げた。テーブルの上のものを払い落とし、ナイフでソファを切り裂き、全ての窓という窓を割った。それでもない。どこにももうないのだ。
 消化されて殆どのものは糞になって排泄されてしまうだろう。僅かに身体に取り残された栄養素もエネルギーとなって殆どは燃焼してしまう。そうして灯った貴重な炎がどれだけの間保つのだろうか。
 そして私はやっと諦めて、きっと昨日と同じ米と野菜と肉を口にする。そうして空気を吸い水を飲み、仕事をして眠り一日を終える。
――それでいい。それでいいじゃないか。
 この世はすべてこともなく、どんなものもやがて修正されてまた日々が続いていく。
渦巻太郎
http://uzumakisaburo.blog.fc2.com/
2012年08月18日(土) 06時36分11秒 公開
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No.4  渦巻太郎  評価:0点  ■2012-09-06 20:07  ID:5KBM.Q3u2cs
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>>お さん

 感想ありがとうございました。大変ありがたいです。
 小説としての重厚感と言いますか、文章の密度が物足りない感じでしょうか。非現実の部分に潜り込みきれないような感じは自分でも何となく感じています。ラストとの兼ね合いも難しかったといいますか、現実と非現実というものは、あちらを立てればこちらが立たずといったような性質があるように思います。とか言って、ただの筆力不足かもしれませんが。
 ぶわーーやられたーーと思っていただけるように、精進したいと思います。
No.3  お  評価:30点  ■2012-09-04 21:48  ID:.kbB.DhU4/c
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こんちわ。はじめましてどす。

おぉ、これはなかなか。
センスが良いすねぇ
「重力は今まで死んだ生き物が地獄の底からありとあらゆる物質を見えない手で掴むことから産まれるのだ。だから死が堆積していくに連れて重力は増し星は潰れる。」
この発想は良いなぁ、好きだなぁ。
いつか忘れた頃に無意識で使っていそうだ。ムフフ
さりとて、さて。
読み応えあったーと言えるかというと、どうもそこまででもない。
なぜかと振り返ると、考えるまでもなく、単純に文章量が少ないかなと。
葛藤部分ですよねぇ。
正気と狂気の葛藤
現実を肯定し非現実を否定する理性と、
現実を拒否し非現実を受け入れようとする欲求。
この二つのせめぎ合いがもう少し緻密にあると、読後、ぶわーーやられたーーとなったのかなぁと思いました。
基本的にはすげーと思いました。

でわでわ。
No.2  渦巻太郎  評価:0点  ■2012-08-21 18:07  ID:kUMHXv2F8us
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 こんばんは。感想ありがたく読ませていただきました。
 全体的にほめていただき、恐縮です。ただ大部分の、混沌とした世界に浸食されていくというテーマは、すでに素晴らしい作品がありますので、殊更私のオリジナルという訳でもありません。そこの部分の迫力不足は、やはりなりきれない私自身のたちが出てしまったかもしれません。
 また、そこからの離脱は、そうですね、諦めというのがかなりあると思います。ただ何とかその執着をどうにか断ち切らないといかん、という思いから、こういった終わりになりました。

 お互いに頑張りましょう。ありがとうございました。
No.1  zooey  評価:40点  ■2012-08-21 01:09  ID:1SHiiT1PETY
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読ませていただきました。
実は以前『王冠』を読ませていただいていたのですが、感想書けずじまいになってしまっていました。
今回は、と思って書かせていただきます。

面白かったです。
日記による悪夢的なものと現実の境がだんだんに不明瞭になっていく感じがしました。
こういった迫力はなかなか出せないものではないかなと思います。すごいですね。

ラストは、整い過ぎた現実への諦めのように感じられました。
本能的な飢餓や狂気といったものは不条理なようで、もしかしたら人間の本質かも知れないですよね。
そういう暗い炎が現実社会ではすぐに掻き消えてしまう、というところにはかなさを感じて、とても良かったです。

文体的にも、ぶつ切り感が上手く機能して乾いた感じになっていて、
それが作品の狂気とマッチしていたと思います。

ただ、迫力がある、と書きましたが、それでもこの手の作品としてはもっと迫力があってもいいのかもしれないと思いました。
ラストも好きなのですが、少し物足りない感じがしました。
それが狙いかも知れないとは思うのですが。

とにかく、あ私もこういう作品書けるようになりたいな、と読んでつい思ってしまいました。
とても良かったです。ありがとうございました。
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