ゆく川の流れは絶えずして |
公園で小鳥が鳴いているが、俺はハトとカラスの鳴き声しかしらない。田舎出身の連中はその他にもいくつか鳥の鳴き声の種類を知っているらしい。それに比べて都会っ子は鳥の鳴き声を二種類しか知らなくて「自然の触れあいが少ない」という批判をした雑誌がボロボロになってベンチの上で放置されていた。 この雑誌を最初に買って読んだ奴は、腹が立ってむしゃくしゃして雑誌を丸めてベンチに投げつけたに違いない。俺はそのベンチに座るために、雑誌をゴミかごの中に捨てようと思い放り投げたが、ゴミかごに入らず側に落ちた。その瞬間、草の匂いが立ちこめた。 ベンチに座って、特にすることがなくなった右手は、ひとまず金属製のバットを握ることにしていた。さっきバッティングセンターで、二十発の時速百キロメートルの球を二三発撃ち返してきたところだった。休憩が終ったら今度は四五発は打ち返さなければならないなと考えていた。 幸い、このベンチには直射日光が当たらないため、肌からにじみ出てきた汗を全てタオルハンカチで拭うと、かなり涼しい風がシャツと胸の間を通り過ぎていくのが分かった。 「……ハトやん」 体のどこから声を出しているのか分からないような、唸るようなハトの鳴き声が聞こえてきた。首を前後に動かして器用にバランスを取りながら、ひょろ長い足で地面を歩いている。 一匹が集まると、二匹、三匹と集まってきた。誰かが餌をまいているのだろうかと思ったが、周囲を見渡しても何も見えない。四匹、五匹と増えていき、やがて鳩を数える意味が無くなってきてどうでもよくなってきた。 問題はそんなところにはないのだ。 今、問題とするべきなのは、この鳩が今いっせいに、さっき拾った雑誌をくちばしで突きあっているところだ。一匹の鳩が突いて雑誌が一瞬宙に持ちあがると、その他の鳩は驚いて羽を広げ小さく飛んだ。 俺は今疲れていた、のに、さっきから俺の足下で鳩がわさわさと動いている。鈍い声で唸りながら。俺は人間なのに鳩は人間を怖がっていない。さっきから鳩の羽が俺の足首を撫でるようにうろちょろ歩き回っている。右手にバットがあることを鳩はしらない。俺の右手に金属製のバットがあることを鳩たちは知らない。 柄の部分を握ってしばらく青空に目を向ける。青く澄み過ぎていて、綺麗も何もなかった。しばらく待つと、ようやく鳩たちは俺の側から離れていった。一匹が飛び立つと、二匹、三匹と飛び立ち、以下同文。 鳩がいなくなると、側に残ったのはボロボロの雑誌だけ。なぜ鳩は一斉にあの雑誌を突きあったのか? 俺はその理由を知ろうと、ボロボロの雑誌を再び拾うと、そこにはグラビアアイドルのセミヌード写真が引き裂かれていた。女優の顔には無数の小さな穴が開けられていた。 ◇ 自分の名前が嫌いだったりして、嫌になることが多くあった。 だから私は競走馬に哀れみのようなものを感じていた。 カメラメセン。ゴメンアソバセ。ハビバノンノン。ワタシニチュウモク。 みんなそんな名前を付けられて、ずっと競走馬としてダートや芝の上を走っている。 たとえば一着がカメラメセンだったとしたら、絶対に馬鹿にされる。テレビの前に居る人たちはその勝利馬がドヤ顔をするのを待ち構えている。 二着、ゴメンアソバセ。わたくし、本気で走れば一着ぐらいは狙いますけど、カメラにどうしても映りたい馬がいらっしゃいましたから、譲ってさしあげましたの、ごめんあそばせ、って言っているかのように思われる。名前のせいで。 三着、ハビバノンノン。調教師に調教されて必死に走る練習をしてレースに出て一着を取ることよりも風呂に入ることが大事であるかのように思われる。やはり名前のせいで。 ビリ、ワタシニチュウモク。ビリなのに? スポーツ紙に載っている出走馬のリストを上から下まで眺めていた。もともと十八歳未満は見てはならないページに興味があったから、それを誰かに見られないようにタイミングを見計らいつつ、競走馬の名前を見る。 名前の隣に、二重丸や三角などが付いていた。それは何か意味ありげな様子で載せられていた。なんとなく、二重丸が多く付いていると、その馬がすごく足の速い馬なのだということを感じ取った。 だから、多くの二重丸が付いたその競走馬だけは、その名前だけ上質なインクで印刷されているように思える。 でも、親戚の叔母さんがチューリップを家に持って来た時に、ちょうど根の辺りに新聞がくるまれていて、水気で新聞のインクが滲みだしている様子を思い出し、上質なインクなんて何一つないのだと思い直してスポーツ紙を閉じた。 お母さんが現れた。 ぼくはコマンドのたたかうを押した。しかし攻撃をしようと思っても、パワーポイントが足りないせいで攻撃することはできなかった。もし攻撃が成功したとしても、その後痛烈な反撃が帰ってくるのが目に見えて分かったから止めておいた。 「冷蔵庫の中にプリンあるよ」 プリンは大好物だった。冷たくて甘い味がするし、名前も似合っている。プリンは、食感をそのまま名前にしてもらったような気がする。 銀のスプーンを使うのはおばあちゃん専用だ。だからプラスチックのスプーンを使うことにする。 まずはカラメルソースを絡めたプリンの上半分の辺りにスプーンを突きさし、ひとさじ掬って見るとお椀型が綺麗にできた。プリンの断面はカラメルソースが奥まで染み込んでわずかに茶色がかっていた。 プリンの味はいつもと同じだった。いつもと同じであって嬉しいことはプリンの味だけだ。いつもと同じ学校、いつもと同じ教室、いつもと同じ授業、いつもと同じ友達、いつもと同じ帰り道、いつもと同じ部屋、いつもと同じ夕飯の席次、いつもと同じ時間に寝るように親にうるさく言われる。いつもと同じなんて嫌でしかないのに、どうしてプリンの味だけは許せてしまうんだろう。 それから先はパンのことばかり考えて暮らした。私は混じりッ気なしの食パンが食べてみたくなった。 保存料が使われた、スーパーで売られているようなものではなく、パン屋さんの奥にあるオーブンでじっくりと焼き上げられた香ばしい匂いの食パンが食べたい。 オーブンは黒焦げになりながら、自分の役目を誇りに思っている。あのオーブンで焼き上げられたパンならば、どれだけ美味しいことだろう。 私は近くにあるパン屋さんに足を運ぶことにした。小さくてもう私の足には入らなくなったスニーカーを、そろそろ買い換えなければならない。 しかし、私が知っている一番家から近いパン屋さんは海の近くにあった。海の近くには行きたくなかった。なぜなら海岸の辺りは潮風がとても強いのだ。自転車でいくら漕ごうとしても、なかなか前に進まなくて、体力に自信のない私はすぐに息を切らしてしまう。それで私のタイミングに合わせて呼吸をしたいと思っているのに、潮風が私の口の中にも吹き込んで、まるで空気を無理矢理飲まされているような気分になってしまうから嫌なのだ。 だから家でじっとしておこうとおも思ったけれど、私の舌にはふっくらと焼き上げた小麦のパンの味が思いだされて、私は窓の外ばかりちらちらと眺めた。何度も窓の外をちらちらと眺める私を見た兄は、落ち着きがない奴だと私に注意した。 しっかりしなきゃ、と思う、今日このごろ。 ◇ 映画が始まる前の忙しなさは、渋谷や新宿を歩いているときの喧騒よりも雑印象深い。そこでは誰も大きな声で喋ったりはしないのだが、ポップコーンを書いに行って戻る客が一人いたり、トイレに行って戻る客が一人いたり、パンフレットをめくる音――気が早いなあ――荷物をまとめる音――帰りに傘を忘れないだろうか――というように物音が強調されるためである。 私はF−10というやや前方の中央の席に座ったが、その後ろには仲の良さそうな老夫婦が腰かけて資産運用の話をしていた。 照明が消えて、忙しなさも頭をひっこめた。まっさらな闇にお好み焼き屋さんのCMが映し出された。 そのとき私が見た映画は、スタジオジブリの「ココリコ坂から」だった。 ◇ 波の携帯に、後頭部が映しだされている。 学生服と髪型から男子生徒だとすぐに分かる。ワックスなどを付けたような痕跡がないため、毛の流れが入り乱れて鳥の巣のようになっていて不潔な印象を与える。 その不潔さをさらに誇張しているのは、詰め襟の部分に見える白い粉のようなものである。 「なにこれ、チョーク?」 波は友人Aの質問に、一瞬面白そうに口を歪ませたのち、「ブー」と不正解音を口に出した。 「えーなにこれー?」 別の友人Bが声を出す。その口調には異質な響きがあった。明らかに嫌悪を感じさせるものである。しかし、口角はしっかりとつり上がって無邪気な笑顔を浮かばせていた。 携帯を手にしているもう片方の手で、穂波はリラックマのストラップを指で弄びながら、友人二人にヒントを与えた。 「ヒント。これはねぇ……なんていうか、油的な? 汗的な?」 「油的……分かった。肉汁。デブだし」 「バーカ」 波は笑いながら、リラックマを指で弾き飛ばした。リラックマは脱力した顔のまま左右に揺れた。 「えー。じゃあ何よコレ。白い粉のようなもんでしょ?」 友人Aは答えが見つからないらしく、なんだか興味を無くしたような声で言うと、彼女の携帯が鳴った。カバンの中から取り出して新着メールを確認しはじめた。 「白い物で汗的なものって言ったら、アレしかないでしょ」 「……あー。分かったかも。え、でもこれが正解なのかな……まさか」 友人Bが呟いた。その答えには確信が得られないでいた。 「そのまさか。たぶん答え合ってる」 波はこれ以上ないぐらい嬉しそうな声を出した。この襟に積もった白い粉の正体を友人と共有できる嬉しさに顔が破れた。 「……フケ?」 友人Bが恐る恐る答えた。自分の制服の襟にフケが積もっている。それは友人Bにしてみれば、思わず人間としての神経を疑うような、ありえないことであった。そもそも、清潔さを好む友人Bにとって、自分の口から「フケ」という単語を発音すること自体、強い抵抗があった。 「大正解っ!」 波が哄笑した。わずかに遅れて友人Bも爆笑し始めた。そしていつも通り「ありえない」「キモい」という意思確認作業が始まった。 いつも通りで、波はホッとする。 ◇ 砂糖壺は灰色と青を混ぜた陶器製で、角砂糖をたくさん入れることができた。 しかし角砂糖を多く入れ過ぎると逆に取り出すことが難しくなり、人差し指と親指を入れようにも親指が太すぎて入らない。だから人差し指と中指を使って一番上にある角砂糖を取ろうとする。 とはいえ中指の腹が角砂糖の一頂点を撫でるだけで、一向に取り出す気配はなく、仕方なしに砂糖壺ごと逆さまにひっくり返すことにした。 右手で口を押さえて逆さにして、上下に振るがまだ出て来ない。そのとき砂糖壺の中は重力のパンチを食らっているはずだ。しかしそれでもびくともしない。砂糖は甘いが、ここまで頑固者だとは予想外だと彼は思った。 コーヒーが冷めてしまうので、仕方なく彼は牛乳を混ぜてカフェオレにした。砂糖壺をこれからどうしようかと考えながら、雪印のメグミルクのパッケージデザインの柔和な態度にほくそ笑んだ。 母はコーヒーを飲まずに、冷蔵庫の中にある冷えた麦茶をコップに注いだ。飲んだらちゃんとコップを洗ってシンクの中に入れておくようにと言った。 ◇ まさか(?)こんなところに(?)メメクラゲ(?)がいるとは思わなかった。(?) ぼくはたまたまこの海辺に泳ぎに来て(…)メメクラゲに左腕を噛まれてしまったのだ。(…) 当然(?)静脈は切断された。(?) 真っ赤な血が(!)とめどもなく流れ出した。(!) ぼくは出血多量で死ぬかもしれない。(…) 一刻も速く医者へ行かなければならないのだ。(…) しかし不案内な(?)この漁村で医者を捜すのは容易なことではない。(…) しかも切断された血管の切口と切口がずれないよう右手でくっつけ合わせて(?)いなければならないので走りまわることができないのだ。(…) 少しでもずれたりすると(?)たちまち血が吹き出して(!)しまうのだ。 (つげ義春『ねじ式』冒頭より引用) 何気なく立ち読みをしてみたが、止めておけばよかった。 頭がくらくらしたワタクシは、そっと本棚の元の場所にしまいこみました。店内に流れる「ブックオフの気持ち」も今は聞きたくない。勘弁してほしい。 ◇ ホームへと通じる昇りのエスカレーター付近にさしかかったところで、若い女性の四人組の一人が「見てアレ、怖い!」と叫び気味に言った。 その人が指差していたのは、ホームへと通じるエレベーターの前に落ちていた幼児用の黄色い長靴だった。片足だけが無造作に落ちていた。 「だっこしているときに脱げたんだろうね」「そうね」という会話が起きた。 ◇ 机の上にリップクリームや消しゴムやシャーペンの芯が散らばって置かれていて、とりあえずそれを一か所に纏めていたのだが、ある時なんだかそれが目 障りになってきたので卓上で使える引き出しを用意した。 その中には診療代の請求書や、もう亡くなった母の父の戸籍のコピーが入っていたりして、それをゴミ箱に捨てることにした。 その机の持ち主である若者は、一週間前に内定を取って就職活動を終らせたところであったので、今までに集めてきた会社案内の書類を丸ごとゴミ袋の中に放り込んだ。一次選考や二次選考、最終選考で落とした会社の入社案内などを持っていても不愉快なだけだと青年は思った。 しかし、その日はたまたま母の母が家に来ていて、ゴミ袋の中に大量の本が入っているところを見た母の母は、本の角がゴミ袋に穴を開けるのではないかと心配し、若者が詰め込んだゴミ袋の口を再び開いて、中身を取り出し始めた。 本を一冊ずつ取り出していって積み上げ紐で縛っていく。その作業途中、母の母は母の父の戸籍のコピーがあることに気づいた。 「なんじゃこれ。なんでこんなところにこんなものがあるん」 若者は、引き出しのことを母の母に伝えた。母の母は一言「へえ」と言った。若者が母の母に、その戸籍のコピーを持って帰るかと尋ねたら、母の母は笑って「いらんよ」と答えた。 引き出しのおかげで若者の机の上は、雑然とした印象が消えた。表面を撫でると埃が飛んだので雑巾を用意する。 拭いてみると、表面に水の層が薄く延ばされたようになって、電灯の光が雑巾の通った痕をはっきりと残していた。 その晩、若者はその机に本を置いて現代アメリカ文学を読んだ。埃のない机の表面がページをめくる音を吸収したせいか、ページを何枚めくっても一枚もページをめくったように思えず、事実若者は一ページも読み進めないまま机に突っ伏して寝た。 ◇ 隣の隣の隣は僕の恋人である綾瀬さんの家があるけれど、綾瀬さんが好きな男の子である河野くんの家はその真向いにあるんだ。 河野くんの家は貧乏で、玄関の隅に蜘蛛の巣が張ってあるのを僕は知っていて、その蜘蛛の大きさは僕の小指の爪と同じぐらいだ。 綾瀬さんは虫が嫌いなはずなのにその蜘蛛を見ても怖がらない。 おかしい。毎日玄関の前を掃除している僕の努力はいったいなんなんだ。 ◇ 夜景の写真を撮るためにオシャンティな格好をして原宿に向かい、そこで若者たちの足の動きをよく観察してから、私も渋谷へと歩き始めた。 若者の足の動きばかり見て自分もそれを真似しようと思うことが、私が若さに嫉妬している証左だと言えた。 近くにあるホームセンターの店員として、いかに効率よくトイレットペーパーを陳列するか、小さな値札を取り換えるか、といったことばかりを考えていたせいで、若者がふだん生活をするときに使う脳の部分がどこだったか忘れてしまったのだ。 だから私はそのホームセンターのバイトを辞めて写真を趣味にすることにした。写真に必要な取捨選択能力と行動力、そして最もよい瞬間を猟師のように待ち続ける集中力を要する趣味であり、この三つが最も旺盛になる時期はやはり若いときだ。 夜景を選んだのは、特に深い理由はない。私が若かったときも、夜景の中で告白されるようなドラマ的なシチュエーションに遭遇したわけでもない。 ただ夜景は、一見ロマンチックな状況のようでいて、実際のところはそうでもないのだということを私はよく分かっているつもりだ。渋谷の夜景というのは七割ぐらいサラリーマンで構成されており、ロマン主義者でもなく古典主義者でもなく、ただ単にリアリストがその場に招かれる。 一枚シャッターを下ろす。電飾掲示版に明日の天気が映しだされていた。東京は晴れのち曇りだ。次のバイトを探しにいくのは太陽が雲に隠れる前にしようか、それとも隠れてからにしようか。で渋谷駅の前を走るタクシーのブレーキランプを、わざと手ブレさせるように撮った。これが、現実主義者なりの、ロマンの表現方法だ。 フィルムを現像に出せば、きっと燐光の曲線が生まれるだろうと私は思った。そして、次のバイトはもう少し非効率的に働くことに決めた。給料よりも、働きやすいかどうかを重視することにしようと思った。私は若者の街にいても、あまり若者らしくは振る舞えないのだろうか? オシャンティな格好。燐光の曲線だ。 ◇ パソコンの電源を入れてまず初めにしなければならないことはメールチェックだ、という生活をしていたのも、もはや過去の話。 会社を辞めてから三か月たった今も、アウトルックを開こうとする癖が抜け切れていない。 もちろん、今さらアウトルックなど起動しても新着メールなど届いているはずがないのだ。この年齢になって仕事を失った人間に対する、コンサルタントの待遇はあまり良くない。困った時だけ積極的に助けて、困らないようにサポートすることは全くないのだ。案の定、更新ボタンを押しても反応がない。 昔、それは僕がまだ子どもの時、スーパーファミコンのBボタンを何度押しても動かなくなってしまったことがある。 ずいぶん前から、あの黄色いBボタンだけ効きが悪かった。Bボタンがジャンプだったから、いちいち苦労して仕方がなかった。コントローラーだけ買い換えてほしいと親に頼みたかったが、基本的にゲーム反対派の両親にその頼みをするのは難しかった。 でも、あのコントローラーで僕は毎日のように遊んだ。楽しくて仕方がなかったからだ。ゲームの中に広がる世界で起きた事件や問題に比べたら、僕のコントローラーが壊れかけていることなんかどうでもいいことのように思えた。 ある日、Bボタンが完全に動かなくなった。 動かなく「なった」という、言葉の響きが、事態をさらに深刻なもののように感じさせた。Bボタンは動かなくなり、今後一切このBボタンは動くことはありえないのだと思い知らされたような気分だった。 Bボタンが使えなくなってから、ゲームの主人公もジャンプする気配を全く見せない。 もちろん、2Pのコントローラーを代用すればこれから先も遊んでいくことができる。けれどその時の僕が選んだのは、もうこれでテレビゲームを卒業しよう、ということだった。 自分で段ボール箱の中にスーパーファミコンやカセットをしまった。最後にガムテープを貼ってふたを閉じるところは、お父さんにやってもらった記憶がある。ガムテープを引き延ばす音が、ゲームをしていた頃の時間を、今の自分から切り離したような音だった。一つの時代が終わったかのような寂しさばかり募っていた。 ……あのスーパーファミコンはどこにあるんだろう。 まだ捨ててはいないはずだった。探せば、今も実家の押し入れの奥にあるはずだ。今もあるはず。「はず」という言葉を使って、ゲームをしていた頃の自分を少しずつ手繰り寄せる。 求人雑誌の裏に隠れていた携帯電話を取って、実家に連絡を入れた。 母は驚いていた。僕は普段こうして実家に連絡をしたことは無かったし、今は平日の昼間ということもあったからだ。しかし、それでも母は久しぶりに僕の声を聞くことができたことが嬉しいようで、「どうかしたの?」と用を尋ねてきた。 「ちょっと実家に帰ってもいいかな」 「いいけど、いつ?」 「ええと……今度の土日」危うく明日、と言うところだった。明日は木曜日だ。 母は快く頷いてくれた。いつごろ着くか、泊まるのか、晩ご飯はどうするのか、いろいろ聞かれて僕は一つ一つ答える。答えていくうちに「止めておけばよかった」という気持ちが積もっていった。 だからいよいよ金曜日となったとき、明日は実家に帰るのだという気持ちが胸の奥に深く差し込んできて、実家帰りなのに心が晴れなかった。体調を崩したから行くのは辞める、と母に伝えようかと思っても、電話越しに伝わってきた母の喜ぶ顔が今は重くのしかかってきて、電話をかけた時点でもう何もかもが遅いのだと気づいた。 実家までは高速バスと電車で向かった。バスを下りた頃に雨が降り始め、ターミナル駅から電車に乗ると、窓に小雨の水滴が幾筋か流れた。本当は新幹線を使いたかったのだが、自分の経済状況を考えると、無駄な出費は出来る限り抑えなければならない。できれば、スーパーファミコンを持って帰るついでに金を貸してもらえないかとすら考えているほどだった。 そのせいか、午前中の早い時間から家を出たにもかかわらず、到着したのはすっかり夕方に入って、もう間もなく夜になるころだった。 家に入り母が夕飯の支度をしている間、昔使っていた自分の部屋を見ることにした。収納スペースがあまりない家だから自分の部屋は物置のように扱われているのではと思ったが、そこは部屋干しに使われているだけでその名残は失われていなかった。若い時によく聞いたブルーハーツのCDの埃を指で払いのけた。 ミサイルほどの、消しゴムひとつ……と呟いたところで、ふっと歌詞が間違っていることに気づいた。ヒマラヤほどの消しゴムひとつ、ミサイルほどのペンを片手に……が正しい。正しいが、自分の部屋の中にいるのだから間違ったって誰にも笑われない。笑っても良いのは自分ひとりだけ。僕は頬を緩めた。 子供のころ、この部屋を自分の居城にしていた。今はその懐かしさが、埃にも机にも沁みついている。ビンテージワインの栓を抜いたような、豊饒な温もりに包まれたような気分だった。 窓を見た。昔と変わりのないカーテンがあった。窓から外の景色を眺めると眼下にブロック塀が見えて、そこにはチョークで落書きがされているはずだった。今は消えてしまっていたのが少し残念だった。 スーパーファミコンのことを思い出し、僕は物干しざおの下を通って障子の前に立った。この奥に目当ての物があるはず。長い時間バスに揺られ、電車に揺られ、歩いてこの障子の前に辿りついた。ここに来るまでの間、一分二分と時間が流れ去って、その間に僕は子どもへと逆行し始めていた。家に帰ってゲームをするワクワク感を僕はいつしか忘れてしまっていた。 しかし、そのワクワク感は決して僕の中から消えたわけではない。ほんの少し、埃をかぶっていただけのことなのだ。 見つかった。大きさから見て、それらしい段ボール箱が一番上の棚にある。小さかったときは確か、父が一番上の棚に押しこんだのだ。今、大人になった僕は自分でその箱を引き出す。もちろんこの段ボールも埃が積りに積もっていた。時の重みに耐え抜いた勲章だ。 ガムテープを剥がした。ビリビリ、という音がした、この音。この音が、仕事をしていた頃の時間を切り離してくれる。 Bボタンの動かないスーパーファミコンは、当時の姿を残して僕の目の前に現れた――。 ◇ この続きは、あなたの明日の行動にかかっています――。 |
時乃
2012年08月10日(金) 22時39分49秒 公開 ■この作品の著作権は時乃さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.2 渦巻太郎 評価:40点 ■2012-08-23 19:07 ID:kUMHXv2F8us | |||||
こんばんは。作品読ませていただきました。 個人的にこういった相互に関連性のないエピソードの積み重ねという構成が好きなので、楽しく読めました。情景の描写も過不足なく洗練された感じで、巧いなあ、と思いました。 |
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No.1 陣家 評価:30点 ■2012-08-12 00:36 ID:B1I4uPckPEk | |||||
拝読しました。 うーん、こういうのってどうなんでしょう ブログ日記やツイッターが日常となった今の時代では、ことさら新鮮なイメージは与えられないのではないでしょうか。 それでも、断片断片の雑記は、そこそこまとまっていて、面白いと思いました。 つげ義春のマルコピはちょっと減点入ってしまうかも……。 メジャーすぎる作品ですしね。 では |
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総レス数 2 合計 70点 |
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