大笑い三十年のバカ騒ぎ |
驟雨が、天の雨桶をぶっ壊したような驟雨が、天の雨桶をぶっ壊したような激しい驟雨が襲う。 暗い雨、黒い雨、暗い雨、黒い雨、大粒の黒い雨。思考は混濁する。 焼け焦げて脆くなった建物が目の前で倒壊する様を見た。少年が巻き添えを食らう様を見た。東京は空襲を受けて…… 砕けた煉瓦の破片が瀑布となって、少年の頭部に降り注ぐ様をこの眼で見た。血管が凝固した。視線が凝固した。 道端に転がったゼリー状の球体──赤い網膜に覆われた少年の眼球だった。 新鮮な眼球だった。空腹だ。下腹部が鳴った。空腹だ。生唾を飲み込んだ。空腹だ──眼球を拾い上げた。口腔内に放り込む。 震えるゼラチン質──咀嚼した。水晶体が壊れる。卑しく粘っこい汁が蛞蝓の如く舌へと絡みついた。 湿り気──しょっぱい──涙か。露骨な現実感が邑の口内で弾けた。流れ出た血が冥い風に乾く。乾く。乾く。 答えるものは何も無い。何も無い。動くものは何も無い。何も無い。煤で汚れた煉瓦の破片を掻き分ける。 胸元が汗に濡れてべとついた。むかつくようにべとついた。脇下が滑る。汗で滑る。不快に滑る。草も土も木も水も、全ては炎に包まれた。 焼夷弾が降り注いだ。空から焼夷弾が降り注いだ。春先の青空から焼夷弾が降り注いだ。燃えた。春先の青い空から激しい爆撃が…… 何でも食べた。何でも食べた。木の実、木の葉、木の皮、木の根、口に入れられるものはなんでも食べた。 錆びた鉄骨は半ばから溶けて──瘡蓋が膿を垂れ流す。火傷を負った瘡蓋が膿を垂れ流す。酷い火傷を負った右足の瘡蓋が臭い膿を…… 日が上がるにつれて気温が上昇する。渇きと憔悴に悩まされる。輝くばかりの太陽は腐敗の象徴に過ぎず──太陽の熱があらゆる骸を腐らせる。腐らせる。 毒の太陽、毒の熱、毒の光、毒の雲、毒の空。太陽を殺せ。昼を殺せ。太陽を殺せ。昼を殺せ。太陽を殺せ。昼を殺せ。 飢える。渇く。飢える。渇く。飢える。渇く。飢える。渇く。飢える。渇く。飢える。渇く。飢える。渇く。 見渡す限りの瓦礫、瓦礫、瓦礫の山。見つけた背嚢を探って、破れた背嚢を探って、何か食べ物は無いか探って、煙草でも金歯でもいいから探って。 ……疲労で身体が凝り固まる。煉瓦がやけに重い。何も見つからない。何も見つからない。知ってはいるが何も見つからない。 びっこになった足を引きずる。びっこになった痛む足を引きずる。びっこになった火脹れに痛む右足を引きずる。びっこになった…… ──穢多は出て行けやッッ、穢多は出て行けやッッ、穢多の餓鬼は出て行けやアァァッッ! 怒声が飛び交う。怒声が飛び交う。怒声が飛び交う。怒声が飛び交う。怒声が飛び交う。 ──穢多は出て行けやッッ、穢多は出て行けやッッ、穢多の糞餓鬼は出て行けやアァァッッ! 叫びが轟く。叫びが轟く。叫びが轟く。叫びが轟く。叫びが轟く。叫びが轟く。叫びが轟く。 ──穢多は出て行けやッッ、穢多は出て行けやッッ、汚らしい穢多は出て行けやアァァッッ! 石ころが身体を打つ。石ころが身体を打つ。石ころが身体を打つ。石ころが身体を打つ。石ころが身体を打つ。 神風は吹くことも無く、人々の魂と胃袋は飢えに踏みにじられて、神に見放された亡者の国が生まれ落ち……一九四五年。 焼夷弾の爆撃──黒い焦土の粕が降る銀座の入り口の辺りで、陽に焼けて垢まみれの朝鮮人じみた不健康に黒光りする肌をした台湾人の娘が赤ん坊に乳を与えていた。 でも、娘は栄養失調で乳房からはもう乳の水気は失われていた。 痩せ細った娘の乳首を懸命に吸い続け、一滴の母乳も飲めないまま、赤ん坊は娘の腕に抱かれて愛らしくつつましく息を引き取った。 男は表面が乾いて固くなった握り飯を半分に割ると娘の足元に置いた。 死んだ赤子を抱いたまま、娘はいつまでもその場に立っていた。 娘が赤ん坊をあやしつづける。 泣きも笑いもしなくなった赤ん坊をあやしつづける。 それでも、屎尿の蒸れた温もりだけはまだ嬰児の中で留まっているのだろう。 そしてその温もりすら消えた時、娘は赤子が完全に死んでしまった事を改めて知るのだ。 あれからもう一週間が過ぎた。娘はどうしているのだろう。 飢え死にでもしたのか、それともパンパンになって暮らしているのか。 あるいは発狂して銀座の通りを死んだ赤ん坊の魂とともに彷徨っているのか。男は赤子と娘の姿を忘れようと頭を振った。 頭を振っても心の襞にこびりつき、忘れられなかった。 日本という国は灰色の死病に犯され、晴れた空だけが不気味に青く可憐に澄んでいる。 ひび割れたコンクリートの壁から……焼け朽ちた電信柱の物陰から……いつまでも染み付いた腐臭が漂っていた。 娘が抱いていた、あの時の赤ん坊も恐らくは腐臭を嗅いだのだろう。腐臭とは死の匂いに他ならない。 死の匂いが赤ん坊を連れ去ってしまったのだ。そうに違いないと男は勝手に結論付けた。 空虚な白いカーテンから窓の外を眺め、男は向こう側から見える破風に視線を向けた。 晴れた空だけがいつまでも不気味に青く可憐に澄んでいる。 瘡蓋が膿を垂れ流す。火傷を負った瘡蓋が膿を垂れ流す。酷い火傷を負った四肢の瘡蓋から卑しく粘っこい黄色く臭う膿が蛞蝓の如く零れ出る。 草も土も木も水も、全ては炎に包まれた。焼夷弾が降り注いだ。空から焼夷弾が降り注いだ。春先の青空から焼夷弾が降り注いだ。燃えた。春先の青い空から激しい爆撃が人々に襲い掛かった。 人も燃えた。家も人も燃えた。ビルも家も人も燃えた。ビルも家も人も赤ん坊も野良犬も燃えた。黄色く汚れた歯も、赤い唇も、しわがれた喉も、朗らかな嬌声も燃えた。 ぽつんと生えた針金の雑草。ぽつんと生えた惨めな針金の雑草。光に晒されてぽつんと生えた黒く惨めな針金の雑草。錆びた鉄骨は不恰好な飴細工のように半ばから溶けていた。 日が上がるにつれて気温が上昇する。渇きと憔悴に悩まされる。輝くばかりの太陽は腐敗の象徴に過ぎず──太陽の熱があらゆる骸を腐らせる。腐らせる。 見渡す限りの瓦礫、瓦礫、瓦礫の山、瓦礫の焼け野原。敗戦国ほど惨めなものはなかった。死ぬことすら出来なかった人々は死人以下の存在だった。 水を飲ませりゃ死んじまって、飲ませなけりゃやっぱり死んじまうのが人間って奴でよ、はは、笑うしかねえな 水を飲ませたダチが死んだ 背中を焼かれちまって 水が飲みたいって言うからよ、飲ませたら、眼、ひん剥いたまんまで死んじまったよ そいつを見てた隣のお母ちゃんはよ、水を飲ませてって泣きながらせがむ娘をなだめていたよ 目尻に涙浮かばせて、捻じ曲がった娘の両腕から湧いた米粒みたいな白い蛆虫、箸でつまんで取ってやってよ、でもよ、娘は死んじまった 朝になったら冷たくなってたよ なんであの時、水を飲ませてやらなかったんだろうって、何度も涙を流しながら後悔してたよ ここは浅草 山谷の掃き溜め 音に聞こえたカッパの松が チャンコロ野郎に殺されて いまじゃ新橋 奴らの天下 デンゴロ食えねえ日本人 泣く泣くドヤに移り住む さあさあ 御用とお急ぎで無い暇な方はちょいとばかしお耳を拝借させてくれ 聞くも哀しき語るも虚しき話だよ なに銭はいらねえし 荷物にもならねえさ 真夏の陽射しが四畳半の狭い部屋を照らしつづけた。威勢のいい行商人達の掛け声、遠くから聞こえる嬉しそうな子供達の笑い声──胸糞が悪くなる。 なんで見知らぬ餓鬼どもが生き残って、可愛いあの娘は死んだんだ──答える者は誰もいない。 台所の片隅で、眼球が白濁したネズミの死骸に群がった五匹のゴキブリが、茶色い触覚を震わせて大顎と小顎を開き、うまそうに腐肉を齧り取る。 湿気で不快にべとつく腋の下、異臭漂う室内、蚤が跳ね回るぶよついた畳は不潔に黒く変色し、たまげるばかりの太陽の輝きが思考を腐らせる。 蒸し暑い。毛穴から吹き出す汗の雫が熱気で蒸発した。外を見やった。道の脇に捨てられたイワシの残骸。ぼやけた陽炎。土ぼこり。 腐敗したイワシの眼窩へもぐる無数の黄白色の蛆虫どもが身をうねらせながら歓喜した。──汚らしいギンバエの羽音がやまかしく石川の鼓膜を障った。 柔らかい熱風が吹いた。吐き気を催すイワシの悪臭が風に混ざって部屋へと流れ込み、汗、畳、ネズミから立ちのぼる異臭とイワシの腐臭が嫌味なくらいに絡みつく。 前頭葉を刺激する強烈な匂い──石川の脳裏に淋病持ちで鼻持ちならなかった娼婦の姿が浮かび上がった。うつろな視線が宙を泳いだ。 灰色の膜に覆われたこの世と胸裏深くに根付いた虚無感だけが己の因(よすが)を浮き彫りにする。肺に溜まった澱んだ空気──吐き出すのも億劫だった。 表面が所々割れた黄疸色のチューブで左腕を縛りつける。親指を握りこみ、指腹で何度も皮膚を表面をこする。汗を吸った黒い垢がボロボロと零れおちる。 疲労がよ、ポンと飛ぶからヒロポンさ。みんなこいつが好きだった。何もかも忘れて働くことができるようになるからよ。飲まず食わずで過ごせるからよ。 米兵どものガスたれジープにもポコペンどもの徒党にも負ける気がしなくなるからよ。だから、みんなこいつが好きだった。こいつを打てば、天皇陛下万歳って叫びながら死んでいけたのさ。 闇市で一番人気があったのはアンプルだったが、いつも品不足でよ。仕方ねえからって錠剤を買う奴が多かったよ。馬鹿だよな。飲まずに打っちまえば、大して代わりはねえってのに。 酔いたい野郎は酒を飲め、醒めたい野郎はポンを食え。 しんせいタバコの箱の中心辺りを曲げた指の第二関節でぐりぐりと押してやった。それから白い錠剤を窪みに置いてヤカンに残った湯を数滴ばかり垂らす。注射器の針で錠剤を転がして溶かした。 頃合を見計らい、注射器の針を溶液に浸し、一滴残らず吸い取る。二の腕辺りに盛り上がった静脈がのた打ち回って激しく脈打つ幻覚──実際には注射ダコが頭を出してるだけだった。 すうっと注射針を腕に突き刺す。軽くピストンを引いた。血液がガラスポンプ内で小さな渦を巻いて逆流する。ヒロポンは血と馴染ませて打つのがいい。急激に打てば頭が凍ってしまう。 赤い水中花が咲いてはヒロポンと同化していく。焦らすようにゆっくりと血管に向かって溶かした錠剤を流し込んだ。溶液が染み渡る。身体中の毛細血管が細かく砕いた氷に覆われていく。 血の気が引いていく冷たい感触──背筋がざわめく。冷える。身体の芯まで凍りつきそうな感覚が神経を襲う。裸で雪の上に転がるような心地良くも苦しい冷たさだ。毛穴がぐっと開く。 ──バナナの因縁聞かそうかッ、土人娘に見初められ、ポッと色気のさすうちに国定忠治じゃないけれどッ タンカ売の口上が耳殻に届く。聞こえないはずの張り上げた声が聞こえる。どこだ。どこにいる。どっか別の場所で売れ。俺の部屋で売るんじゃねえ。殺すぞ。 バナナのタンカ売。木箱に乗せた青いバナナのタンカ売。木箱に乗せた青いバナナを叩きながら、売人が調子っぱずれの声を張り上げてタンカ売。 ──さあ、買ったッ、買ったッ、黄色い熟れた色気のバナナもいいが、青い色気のバナナも悪くはねえぞッ くそったれ。誰の許可を受けてバイしてやがんだ。ショバ代も払わねえ奴は膾斬りにして殺しちまえ。手前、どこの身内だ。ここは俺達の縄張りだぞ。 掌を木箱に叩きつけながら威勢の良い声でタンカ売。売人が威勢の良い声で……売人が威勢の良い声で…… ──バナナは入れてもしゃぶっても、餓鬼の心配いらないよッ、そこの姉ちゃんムコさん代わりにおいらのバナちゃんどうかいなッ 姿がみえねえ。こいつはまさか芳一みてえに俺から姿を隠してるんじゃねえのか。ああ、そうだ。そうに違いない。ドスを鞘から引き抜いて、部屋中を切りつけた。突然、声が止み、はっと正気に返った。 六尺に足らねえ五尺の、十に足らねえ九(ここのつ)の半端モン ボロ着た浮浪者 かっぱらい 星の旗振る兵隊さんが横流し バイ人達も大喜びだ 戦争帰りの傷痍兵 徒党を組んだ中国人と朝鮮人の小競り合いがやかましくってしょうがねえ あの三国人どもがいい気になりやがってよ 日本人に償う必要はないぞ 俺はあいつらがパンパンと乞食をいじめてやがんのを知ってんだ 確かじゃねえがそうなんだ サイホン引きのイカサマ博打 ゴロゴロ転がるのは四角いサイコロの目ん玉よ 目、目、目がでねえ 俺の目がでねえなあ いくらサイコロ振ってもよ 出ねえもんは出ねえな 頭に来て文句いってやったらよ 飛んできたのは直刃のドスだよ 俺はすぐさま土下座した 勝ち目が無さそうだったから あいつら俺を根性が無ねえだとか好き勝手にほざいてたよ だからあいつらが油断して後ろ振り向いた瞬間に転がってたドス握って背中ぶった斬ってやったさ ざまあみろだ GHQが警察から拳銃取り上げやがった 今じゃあ黒いのと白いのが街中で女と餓鬼をレイプしてんだ みんなあいつらの横暴に見てみぬ振りを決め込んでたさ 野良犬やら野良猫やらをドラム缶にぶちこんだモツ煮の饐えた匂いが胃の辺りをくすぐる 人の活気と熱気ほどうっとうしいもんはねえよ メチルで作ったバクダン カストリ 石ころみてえにゴロゴロ転がっていくよ 明日なんぞを信じてる馬鹿どもが 石ころみてえに我慢して石ころみてえに冷たくなって 穴が開いちまったテント張りの店 ほつれたゴザしいて品物を並べただけの粗末な露天商 呵責ねえ三国人の罵声に若い巡査はたまらず泣き出しちまった 大の男がよ 俺の目の前で泣いたんだよ 大粒の涙こぼしてよ 顔クシャクシャにして泣いたんだよ チャカが欲しいな 中古のS&Wが欲しい それにギョクも バタヤンが新宿第一劇場でショーやってんだ あんたは七十円に一十八円足らねえ生活した事あるかい 俺がもし風船だったらなあ そうだ 風船玉だ タタキやりながらふわふわ風にゆられて西へ東へ自由気ままな極楽トンボ そんでパーンと破裂してよ どこで野たれ死にしようがかまうもんかい 新橋ではタチンボが集まって、青いドル札を見せびらかすアメリカ兵に声をかけていた。冷たい汗が唾のように額に張り付いて頬を伝う。白んぼが青い紙幣をこれ見よがしに振る。 ──ねえ、メリケンさん。ちょいとそこのメリケンさん、ギブミードル、ギブミードル 巡査の月給三百円。ギャンの理論に裏づけされたドルは三百六十円。一番上等な女はアメリカ兵が買う。残った女を俺たちが買う。黄色いワンピースをちらつかせ、ジープの後部座席に乗り込む女の後姿。 百円札をチラつかせ、手前にいた女を口説く。大柄な態度でいいわよと答えるパンパン。路地裏とも呼べぬ路地裏を縫うように歩く。パーマを当てた女の髪が揺れた。ビルの跡地にたどり着く。 背中をビルの壁にもたれさせ、さっさとすませてと気だるそうに女が脚を開いた。百円で買った名も知らぬ女の瞼に口づけする。眉間に縦皺を刻み、僅かに震える女の眼球──薄い皮膚を通して石川の唇に伝わった。 舌先を緩やかに瞼の隙間に這わせて直に舐めた。眼球は完全な球体ではなかった。角膜の舌触り──石川は微細な凹凸を知覚した。女の小さな耳朶を前歯で軽く噛んだ。 くすんだ肌の匂い。石川はこの匂いが嫌いではなかった。尿道が痺れる。首筋に触れた。指を肌からゆっくり滑り落とした。柔らかい。 女だけが持つ果肉の豊穣──男の本能を呼び起こす肉の感触。十本の指が無意識に蠢いた。女の喉くびに食い込む。指先から女の激しい脈拍が伝わってきた。 掌が熱をはらんだ。視神経が真っ赤に染まる。高ぶった。ベテルギウスの幻影が見えた。身体は芯まで火照るくせに、心はやけに冷えてくる。石川はじわじわと指先に力を込めた。 死ね。女は爪で石川の腕を力の限り掻き毟った。死ね。必死で抗う。死ね。腕の皮膚に血が滲む。石川の心臓が女を殺せと急かし、胸板を激しく乱打した。 見開かれた瞳──女の鼓動が消えうせた。女の顔が蒼白く──やがて紫へと退色していく。石川は息をのんだ。 己の乾いた血で黒ずんだ女の指を噛み千切り、石川は何度もほお張っては咀嚼する。爪と骨が大部分を占める指は旨くもなんともなかった。 舌腹に女の生酸っぱい錆ジャリの味が突き刺さる。口腔内でざらつく骨片──石川は痰とともに地面へ吐き捨てた。骨肉の混ざったぬめる痰唾が地面にビチャっとへばりついた。 なあ、女に惚れたことあるかい? なあ、惚れた女はいるかい? こんな俺にも惚れた女がいたよ その惚れた女がよ 三年間愛した女がいた 惚れた腫れたで一緒になって ふたりで一緒に幸せ掴もうなって 煤だらけになりながらリヤカーひいて銅線、鉄くず拾い集めてよ だけど、だけどよ あいつはただの死体になっちまった 野原の隅で ススキに囲まれて ズタボロになっちまって 無残な姿になっちまって あいつに買ってやった浅草神社のお守りもあいつの事 守っちゃくれなかったよ 痛かっただろうな 辛かっただろうな 糞ったれ あのチョン公めらが 戦勝国民 戦勝国民ほざきやがって好き放題しやがって 挙句の果てにゃこれかよ ポリもよ 俺達にゃなんにもしちゃくれなかった だからよ だから俺は堅気やめたんだよ 堅気やめてよ 俺は外道になったのさ 泥んこにまみれちまったお守り握りしめてよ 取ろうとしても指の間でつっかえちまうんだ 身体中あざだらけで それでも それでもあいつは綺麗だったよ たまらなく綺麗だったよ だから──俺はあいつを食ったんだ 眼から鼻から涙がダラダラこぼれてよ 口がひん曲がるくれえ肉が塩っ辛くて それでも俺は食い続けたよ 何度も何度も吐き戻しちまって それでも俺はあいつを食い続けたよ お日様が沈んでいくよ 俺のお日様が沈んでいくよ 俺のお日様が遠くにいっちまう 俺もお前も所詮は虫ケラ だかよ虫ケラにゃ虫ケラの意地があらあな ダンピラくぐってドス突き刺しゃあよ ちいとはポコペン野郎も大人しくなるだろうさ 三尺竿の露店に小さなゴザの切れ端を敷いて木箱の上乗ったラッキーストライクを手に取った。一本四円で一箱なら七十円。金を払わずにタバコをポケットに入れた。 売り子の婆さんは何も文句を言わなかった。いつもいつも見回りご苦労様ですと頭を下げるだけだ。 ──子宮は男の突く所、それが女の良か所。男と女のまぐわいはするがよいよいさのよいよい。さあ、らっしゃいッ、らっしゃいッ。 立ち飲み屋の屋台で酒を飲ませろと親父に声をかけた。何も言わずに店の親父がエチルアルコールの水割りを欠けた茶碗に注ぎ、ベニヤ板に置く。石川はエチルを一気に飲み干すと喉の渇きを癒した。 リンゴが一個五円だ。野良犬の放るモン焼きが十五円。鰯がキロ売りで十円。 デンゴロ(握り飯)が食いたいな。銀シャリのデンゴロが食いたいな。東声会の町井久之。日本人と同じ肌。同じ黄色い肌をした戦勝国民。 あいつがジョニ黒飲みながらGHQの兵隊を顎で使っていたのも見たことがあるよ。日本で一番力を持ってる朝鮮人。日本人は立場が逆転しちまった。 徒党を組んだ三国人渋谷署を襲撃した。己らの威光と恐ろしさを世間に見せ付けるためだ。力だけが──暴力だけが全てを支配する時代だった。 三国人の集団を相手に真っ向からたちふさがったのはジュクの万年東一を筆頭とする愚連隊──その当時、三国人に怯える市井の民を守っていたのはヤクザと愚連隊だった。 神戸では三代目山口組組長田岡一雄率いる「山口組抜刀隊」が、ここ新宿では殺された「カッパの松」こと関東松田組組長松田義一が無力な警察の代わりをつとめていたのだ。 石川は他の愚連隊仲間とモクをふかしながら三国人の襲撃を今か今かと待ち構えていた刹那──鼓膜をつんざく銃声が闇の中で轟いた。安藤昇が先陣を切って散弾銃をぶっ放す。 拳が空気を切り裂いた。加納貢のストレートパンチが三国人の顔面に決まる。鼻骨を砕かれた三国人が哀れな声を出して地面にうずくまった。 浮世の憂さ晴らしといこうかい あのポコペンどもを叩きのめしてやる 命が惜しけりゃ引っ込んでやがれ どうせ人間死んじまえばただのオロクよ 善人も悪人もねえ ただのオロクよ そんでよ 燃えて砂利になって風に流されていくだけだあな おい、見ろよ 加納貢のメガトンパンチを 相変わらず凄げえな おっと、あそこにいるのはピスケンじゃねえか 直刃のドスがうなりあげるように吠えた。石川の握ったドスが男のドテッ腹に食い込む。鮮血が飛沫をあげた。怒号、絶叫、叫喚、あらゆる叫びが錯綜した。 割れた傷口から湿った空気の抜けるような音が漏れた。男が驚愕の表情を浮かべた。躊躇せずに石川は腹に突き刺したドスを滅茶苦茶にねじり回して男の腸を切り裂く。 己を凝視する男の悲壮に満ちた眼差し──石川の背筋に冷たい快感が走った。生温かい男の血がドスを握りしめた手を濡らす。狂乱が脳天を打ち砕いた。 ドスを引き抜いた。突き刺す。ドスを引き抜いた。突き刺す。ドスを引き抜いた。突き刺す。ドスを引き抜いた。突き刺す。ドスを引き抜いた。突き刺す。 こめかみに浮き上がった血管が激しく脈打った。心が、感覚が、魂が激しい憎しみに氷結した。血溜まりに息絶えた男の身体を転がし、石川は次の獲物を探し始めた。 初めて人を殺した感触──石川は無意識のうちに射精していた。 そんなわけでよ 俺は今この府中刑務所にいる 女も殺した チョン公もチャンコロも殺した 思い残す事はもうねえさ 仄白い独房を出て屋上へと続く階段をのぼった。ドアを開けて赤褐色に汚れた毛布を広げる。そして、太陽に向かって飛び込んだ。 |
ベイトマン
2012年07月06日(金) 23時28分50秒 公開 ■この作品の著作権はベイトマンさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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