美食
  
 村上初音は川西純太を可愛いと思っている。やっともぎ取った休みの日に、風呂なしエアコンなしトイレ共同、木造築二十五年のぼろアパートへ自発的に行こうとするくらいには。
 通い慣れてしばらく経つが、いつみても何だか不安になる建物だ。どこもかしこも頼りなくて、台風でも来れば一気に持っていかれそうだ。
 ふう、とひとつ息を吐いてぎしぎしうるさい会談をのぼる。あまり手入れされていないさびついた螺旋階段の中ほどのところに蜘蛛の巣がはってある。何重にも張り巡らされたそれは、小さな虫を何匹か引っ掛けてその職務を全うしているが、初音にとっては迷惑でしかない。存在に気付いた時にはすでに遅く、手すりに触れてしまった彼女の指には透明に近い粘着質な糸が纏わりついていた。振り払ってみても簡単にはとれない。

 ぴんぽん、と古ぼけたドアベルを鳴らす。何度鳴らしてみても部屋の主は現れない。痺れを切らせた初音がそっとドアノブを回すと、さびついたドアはゆっくりと開いた。どうやら鍵はかかっていないらしい。
「おじゃまします」
 一応そう声をかけてから、初音は玄関に靴を揃えて中に入った。生活感に溢れる少し散らかった部屋。テレビの前に配置されている小さなソファの上で、この部屋の主が気持ちよさそうに寝入っている。すっかり熟睡しているのだろう、初音の呼びかけにも返事はない。彼女は出来るだけ音を立てないように気をつけながらソファの足元に敷いてあるラグマットに腰を下ろした。近くに放り出されていた上着を掛けてやりながら覗き込んでみても、起きる気配は全くない。この分では、今から行くと書いて送ったはずのメールも見ていないに違いない。
 小さなソファで猫のように丸くなっている大きな身体。頬に落ちるまつげの影。少し癖のある髪は、窓から差し込む光に反射してきらきらしている。起きている時より幼い印象になる寝顔はいつまで見ていても飽きない。宝物を独り占めしているような気分で、誰にも気づかれないようにそっと口づけた。
「……可愛い」
 大人としての振舞いも狡賢さも、きっとそれなりに身につけはじめているはずの成人男性に対して使うには、少々そぐわない言葉かもしれない。だがそれでも初音の目には、川西純太という存在を形作る何もかもが、ただただあいらしく映っている。
 外から子供のはしゃぐ声も聞こえてくるのに、この部屋だけはやけに静かだ。まるで全てから遮断されているかのように。世界で二人きりになっているかのような、全てを手に入れたかのような錯覚まで起こしてしまう。
 じっとしているうちに、時計の針は一周してしまった。時間を持て余して大人しくしていると、その分思考は何処かへ暴れだしてしまうらしい。
 
 この可愛いいきものを捕まえてしまうにはどうすれば良いのだろうか。少しの後ろめたさに恍惚としながらも、初音はそんなことを考えていた。さびついた螺旋階段に巣を作っていたあの蜘蛛のように、罠を張って息を殺し、気付かれないようにそっと、じわじわと絡めとってしまえたら。いっそのこと頭からがぶりと食べてしまえたとしたらどんなに良いだろう。彼の全てが自分のものになるのだ。それとも、その暁には後悔してしまうのだろうか。ずぶずぶと深みに嵌っていく思考を止められない自分がおそろしかった。
 出来るはずもないことだと知りながらも考えずにはいられない。それでも、それでも。
 あの無防備な首筋に噛み付きたかった。

「うー、ん」
 寝返りをうったせいで掛けておいた上着がはらりと落ちる。意味を持たないその声に、初音は一気に毒気を抜かれて現実に引き戻されたような気がした。
「おはよ。もうほとんど夕方だけど」
「あれ……初音だ」
 起き抜けで焦点の合わない純太の目が、声のする方向を捉える。初音は先ほどの思考を全て頭の底に押し込めてから、にこりと彼に笑いかけてそっと頬に触れた。ぼんやりと見上げてくる瞳が、優しげに見える初音の顔を映し出している。つるりとしたうつくしい球体からは何の意思も汲み取れなかったが、純太が何を考えているのかなどは、彼女にとってはもともと興味のないことだ。彼の気持ちを知ろうとしたことなど一度もない。好かれようとすらしていないかもしれない。ただ、欲しているだけだ。
 あの蜘蛛のように罠を張って息を殺し、気付かれないようにそっと、じわじわと絡めとってしまいたい。
 底の方でゆらゆらと燻っている思考はどうしても消えない。
「初音、どうかしたの」
「何でもないよ」
 彼女の手のひらにすり寄ってくるような純太の甘えた仕草は妙に従順で、まるで何も知らない赤子のようだった。そんな訳はない、と思い直して彼の首筋にそっと顔をうずめた。緩く歯を立てたって抵抗しない。
「今はこれで充分」
 何が、というもっともな純太の質問には答えない。それでも頭の良い彼はきっと、この獰猛で狡猾な肉食動物から逃れる術を知っている。
 
イチハラリンコ
2012年07月04日(水) 00時26分26秒 公開
■この作品の著作権はイチハラリンコさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
むかーしの習作が出てきたので何となく。もう少し説明があればよかったかな、と我ながら思います。

この作品の感想をお寄せください。
No.3  葉津京一  評価:40点  ■2012-07-07 02:11  ID:YvEo1e3l22E
PASS 編集 削除
初めまして。
拝見させていただきました。

双方の微妙な距離感がいいですね。

一気には食いつかない、けれど徐々に食いついていきたい彼女。
一方、知らないふりをしながら飄々とすり抜ける彼氏。
くっ付きそうで、離れない距離には、きっと切れない糸が結んであるんだろうと思います。

どうか末永くお幸せに……。と言いたくなってしまいました。
No.2  イチハラリンコ  評価:0点  ■2012-07-07 01:47  ID:ZEOlA7Da3OU
PASS 編集 削除
ベイトマンさま
評価ありがとうございます。

確かに、通な方はウェルダンよりレアがお好きと言いますよね。
No.1  ベイトマン  評価:50点  ■2012-07-06 23:34  ID:g3a8qdvwwnA
PASS 編集 削除
ヽ(・◇・)ノ獰猛な肉食獣はレアで食べるとおいしいかもしれません。
総レス数 3  合計 90

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除