アリの観察

「僕たちはアリなんだよ。」

 今日、上司に怒られた。理不尽な理由だった。
 普段からのストレスも溜まりにたまっていた俺は、この少年のような目をした同僚を連れて居酒屋で飲んでいた。ガヤガヤとうるさい、安いチェーン店だ。程よく酒もまわり、俺が上司の愚痴を一通り吐いたところで、彼の唐突な「アリ」発言だ。
「……俺にはお前も俺も人間にしか見えないが。」
「もちろんたとえ話だよ。」
「俺は今まで愚痴っていたわけだが、どうしてそんな話になるんだ。」
「僕考案のイライラ軽減法を特別に君に教えてあげようと思って。」
「ほう。」
 一口分残っていたビールをぐっと飲み干し、俺は少しだけまえのめりになる。
「ぜひ御教授願おうじゃないか。」
「あ、待って。飲み物頼もう。僕ももうなくなるから。店員さん、すみません!」
「はい!お伺いします。」
「生ふたつ。」
「あとだし巻き卵もお願いします。以上で。」
「かしこまりました。」
「お前ここのだし巻き卵ほんと好きだよな。」
「甘くておいしいんだよ。」
「俺には甘すぎるんだよな。」
 奴はわかってないな、と言いたげに肩をすくめてから話しはじめた。俺は手羽先を手にして耳を傾ける。
「小学生の頃にさ、よくしなかった?アリがいっぱいいるところに食べ物の屑とかおとしてさ、その屑を持ってアリが巣に帰るところを観察する、ってやつ。」
「ああ、したした。なんていうか滑稽だよな。アリは一生懸命に運んでるのに、人間はアリをコントロールして遊んでるんだもんな。」
 手羽先にかじりつく。うん。味が濃くてうまい。安くて美味いものがこの世で1番人間にやさしい。油で手がべとべとになるのは少々不快だが、仕方がない。手羽先の醍醐味だ。
「まさにそれだよ。僕は時々考えるんだ。僕たちは人間にとってのアリのように、もっと大きな存在にコントロールされてるんじゃないかって。」
「……怖いこと考えてるな、お前。」
 俺は訝しげに眉間を寄せて目の前の同僚を見たが、そう言った彼自身の瞳はより一層少年のようにキラキラと輝いていた。
「そうなんだよ。考えだすと怖くなるくらい壮大で、眠れなくなるほどだ。」
「で、なんでそういう発想になるわけ?」
 もう一度手羽先にかじりつく。いかにきれいに骨だけを残すかも手羽先を食べるときの醍醐味だ。
「そうだな……。この考えに至った一番大きな原因は宇宙だ。僕たち人間は太陽系や、さらには銀河系の存在は知っているけど、銀河系がどれだけあって、宇宙はどれだけ広いかなんて想像しかできないし、宇宙ができる前の状態なんて想像もできない。つまり無知なんだよ!」
 ――宇宙ときたよ。
 きっとこの居酒屋でこれほど壮大で哲学的な会話をしている人間はいないだろう。もっと陽気で、下世話で、小さい話――まさに上司の愚痴などでこの居酒屋特有のガヤガヤは構成されている。
 少し呆れはしたものの、目の前の彼があまりに楽しそうに話すものだから、つられて俺までこの突拍子もない話が楽しくなってきてしまった。きれいに骨だけになった手羽先を皿に戻し手を拭いた。そしてテーブルに腕をかけ、再びまえのめりになる。
「アリにとっての地球が僕らにとっての宇宙ってわけ。もしかしたら宇宙はその大きな何かによって造られたのかもしれないよ。人間が月面着陸したことなんて、土しか知らなかった田舎もののアリが、初めてコンクリートの地面に足を踏み入れた程度のことさ。まあ月面着陸が実際に成功していたかどうかの真偽は疑わしいらしいけどね。とにかく、僕たちの行動はすべて彼らの思いのままなのさ。僕に綺麗な奥さんがいることも、今日君が上司に怒られたことも。」
「俺には彼女すらいないことも?」
「そのとおり。」
「生とだし巻きお待たせしましたー!」
「ありがとう。」
「納得いかん。理不尽だ。」
 ビールをぐっとあおる。手羽先をもうひとつ手に取った。ガブリとかぶりついてやった。
「君が今食べている手羽先も、きっと大きな何かによって仕組まれたものだよ。人間が落とした食べくずをアリが巣に持ち帰ったものと同じさ。ただため込んでいるか、養鶏しているかの違いだけだ。人間は自分たちに知能や感情があるから生物の頂点に立っている気になってるけど、大きな何かにとっては、アリが触覚を自慢している程度のことだよ。」
 奴は興奮を抑えるようにビールをぐびっと飲む。そしてだし巻き卵に箸を入れる。割ったところからほわほわと湯気がたった。
「そのだし巻き卵も仕組まれたものか。」
「そうさ。養鶏場のおじさんというアリがせっせと働いて得た、大きな何かの食べくずの一部さ。うん。うまい。」
 俺ももう一度手羽先にかぶりつく。うん。うまい。
「俺が今日上司に怒られたことも、つまりは上司の理不尽ではなく、その大きな何かの理不尽ってことか。」
「そうだね。まるで人間がアリをガムテープで殺すみたいに。」
「人間って理不尽だな。」
「そうだね。理不尽で残酷だ。」
「となるとだ、あの上司も操られている一人にすぎないってことか。ついでに、最近禿げてきたのも回避できないことだったってわけだ。」
「ほんと、残酷だよね。」
 奴はまた肩をすくめて困ったように笑う。
 ビールをぐっと飲む。ああ、俺はいったい何にイライラしていたんだっけ。どうにも口角があがってしまう。
「なんだか上司に怒られたことなんてどうでもよくなってきた。むしろ哀れみの方が大きくなっちまった。」
「でしょう?これが僕のイライラ軽減法さ。物事を大局的に観察すると、大概のことはどうでもよくなるんだ。」
「でもさ、俺に彼女がいないのは納得いかん。」
「じゃあさ、噛みついてみなよ。」
「噛みつく?」
 俺は再び手羽先にかぶりつく。ただし目線は奴に向けたままだ。次はどんな話が飛び出すのか。
「前にさ、朝起きたらアリに噛まれていたことがあるんだよ。ピリピリ痛くてさ。電車の時間ギリギリだったんだけど、どうにも気になるからコンビニに寄って塗り薬買ってたら案の定電車を逃したんだ。ほら、アリに噛まれた時に何塗ったらいいかなんて普段考えもしないだろ?どの薬買おうか迷っちゃったんだ。まあそれで朝礼に遅れて気まずい思いをしたわけさ。アリってなかなかやるな、くそっ、て思ったよ。」
「つまり、納得いかないことがあれば、その大きな何かに噛みつけということだな。」
「そうすれば彼らに気まずい思いを味わわせる程度の反抗はできるってわけさ。」
 面白くなさそうに卵をつんつんと箸でつく。拗ねた子供みたいだ。
「じゃあ、どうしたら噛みつけるんだ?」
「それは自分で考えなよ。僕は今まで噛みつく必要性を感じたことはないから、方法までは知らないよ。」
「理不尽さを感じたことがないなんて嘘だね。有り得ない。人間じゃないね。」
「そりゃ理不尽なことなんていっぱいあるよ。むかつくこともね。僕も人間だ。でもさ、噛みついたことで彼らの逆鱗に触れて、卵が供給されなくなって……いや、ただ供給が少なくなっただけでも、このだし巻き卵の値段が上がるじゃないか。安いからこそおいしいのに、財布の中身を気にしながら食べるなんておいしさ半減だ。そんな思いをするなら、多少の理不尽はこの僕考案のイライラ軽減法で受け流すよ。」
 達観しているんだか、こどもっぽいんだか。
「君の大好きなその手羽先の値段が上がってもいいの?最悪食べられなくなっちゃうかもね。」
「なるほど、死活問題だ。」
 骨になった手羽先を眺めた。こんなに安くてうまいものがなくなるなんて、たえられない。
「噛みつくのはまた今度にしよう。」
「ほらね。多少の理不尽さなんて鶏にすら勝てないんだよ。で、まだあのハゲ上司の愚痴はある?」
「馬鹿やろう。ハゲ上司なんて呼んでやるな。かわいそうだろうが。」
2012年06月28日(木) 21時46分24秒 公開
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■作者からのメッセージ
はじめて投稿させていただきます。並(ナミ)と申します。
 皆様の綺麗な作品を拝見させていただくと、正直自分の文なんかをここに載せてもいいのかと迷いましたが、載せないことには批評もいただけず、何も始まらないと思い今回投稿させていただきました。

 さて、このお話はサラリーマンが居酒屋でグダグダ話しているという設定のため、あえて会話文をかなり多くし、テンポよく話を進めようと試みました。
 しかし、やはり会話文が多いと安っぽい文章になりがちですよね。地の文を多くし、かつテンポよく楽しい会話を書くにはどのように文を書けばよいのでしょうか。
 この他にもたくさんのアドバイスをいただければ嬉しく思います。
 よろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  並  評価:--点  ■2012-07-01 07:52  ID:W3ZBenfEr.s
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都築佐織様

コメントありがとうございます。
大きな宇宙と小さな居酒屋の対比ですか!
それはすごく良い案ですね!
もっと居酒屋のざわつきを入れてみたいと思います。
ためになるアドバイス、ありがとうございました。
No.3  都築佐織  評価:30点  ■2012-07-01 01:21  ID:xc2oD/NopPs
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初めまして、読ませていただきました。

着眼点がとても面白い作品だと思いました。
私も読んでいるうちに、いい意味で理不尽なことに対して「どうでもよくなってきた」と思ってしまいました。

二人の会話はとても日常的で、自然な感じがしましたが、せっかく小説という体を取るならば登場人物がどのような表情で、どんな声で話しているのかを地の文でもう少し表現してもいいと思います。

特に舞台となる居酒屋に関しての表現を入れたらと思いました。
内容が「宇宙」にまで及んでちょっと思索的になる会話に対して、日常的で明るく騒がしい居酒屋。この二つの対比のようなものを詰め込めたら、もっと読み応えがでるかと個人的には思いました。

もし不快に思われたら申し訳ありません。
では失礼します。
No.2  並  評価:--点  ■2012-06-30 22:16  ID:W3ZBenfEr.s
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笹森 賢二様

コメントありがとうございます。
諧謔味があると言っていただけて、とても嬉しいです。

丁寧なアドバイスもありがとうございます。
私も投稿した後に、
せめて店員の言葉は地の文にしておけばよかったかなとおもいました。
中途半端にするよりも、会話文だけの小説もいいかもしれませんね。
またネタがみつかり次第、挑戦してみたいと思います。
No.1  笹森 賢二  評価:40点  ■2012-06-29 19:11  ID:TQuxQJnwtBs
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拝読しました。
諧謔味のある会話ですね。
漠然とした大きな物を語ると己が小さくなり、精神衛生上余り宜しくない事が多いのですが、
この場合は上手く消化されているように感じられました。

テンポアップを図るのであれば、文章を削ぐという方法が手っ取り早いですかね。
言葉を短く纏め、店員さんの言葉は地の文に収納してしまい、聞き返す代わりに仕草を返す。
この方法は全体が薄味になっていくので、
印象を与えたい会話の後ろに表情や心情を短く加えていくと味が出るかも知れません。
いっそ会話文だけの小説もありだと思いますよ。
その場合は雰囲気や仕草を全て会話に込める事になるので、かなり大変になるかと思いますが。

面白く読みました。
僕などはアリに物を運ばせても、列の見事さにまんまと物を取られた気分になってしまう性質なので、大きな視点は見習いたいなと思いました。
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