ディオニス王の恋
ディオニス王の恋

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」(太宰治『走れメロス』)

佐伯晴子 一
「あんたが、思わせぶりな態度取るから」
 放課後、私は数名の女子生徒に教室へ残るように言われた。何の話かは、だいたい予想がついていた。女の子の嫉妬心は、同じ女でも、怖いものだ。教室へ入ると、5人の女の子たちが、椅子に座って待っていた。いずれも、知ったような知らないような顔ぶれだ。
 喧嘩の理由に関する向こう側の言い分は、なかなか格調高かったが、要するに私が横恋慕をしかけたという、濡れ衣だった。
 私は一向にそういう気はないということを説明しても、全く聞き入れてくれなかった。こういうときの女の子は、ロジックではどうにも動かない。しかし私だって、こういう一対多数の修羅場を、知恵と勇気で潜り抜けてきたキャリアとプライドがある。努めて冷静に、ずらされた論点を何とか元通りにしようと試みる。しかし、彼女の一人から、とうとうこんな一言が出てきたのだ。
「あんたが、思わせぶりな態度取るから」
 鼻腔を、つん、とスパゲティの香りが突いた。小学校から帰るなり、静まった台所に置かれた、冷めた作り置きのスパゲティ。これから一人で母の帰りを待ちながらそれを味わうことを想ったときの、懐かしい痛みがこみ上げる。
それは、孤独だった。議論とは名ばかりの、感情を剥き出しにした言葉に、誰も異を唱える者はいない。そんな教室の雰囲気に、私は孤独を感じ取っていた。
 私、思わせぶりだったんだろうか。
 こんな裁判みたいな戦いを仕組まれて、ひょっとして、本当は自分に原因があるのではなかろうか。自分の容姿に自覚はある。それが男をひきつけるのだって、わかってはいる。けど、じゃあ単なる友達を作るのも許されないのか。常に注意を払って生きていかなきゃいけないのか。私は普通に友達でいたかっただけなのに。
 女の子の、射るような視線。期待と好奇の入り混じった、いつみても嫌な目だ。「論点がずれてる」そう言おうとしたが、喉は砂漠みたいに干からび、妙に塩辛い粘液が情けなくからみついていて、声が出なかった。
 追い詰められたのだ。
 こんな奴らに。群れてなきゃものも言えない卑怯な奴らに。解せない。理屈も何もない奴に負けるのは、一番許せない。しかし、声を出したら、もう泣いてしまいそうだった。腕も、足も、まるで動き方を忘れてしまったかのように硬直して動かない。既に視界はぼやけて、相手の表情も伺えない。こんな奴らの前で泣くなんて、それだけは絶対に認めたくなかったのに。
本当に、悔しい。
 その時だった。教室の扉が開く音がして、重苦しい部屋の圧力が、ガスでも抜かれたかのように、和らいだ。皆の視線が来訪者に向けられる。
 長身の体躯と、分厚い眼鏡だけが、まるで教室の空間から切り取られたように私の視界に浮かび上がり、その姿しか映らなくなっていた。
『国王』三枝。彼はそう呼ばれていた。
「文化祭の件で、先生が呼んでいますよ。佐伯さん」
 彼の言葉に、奇妙なひと時から引き戻される。
 鼻の先まで伸びきった髪の毛の隙間から、牛乳瓶の底のような度の厚い眼鏡が、チロリ、と凄絶な存在感を示している。彼に答えるため声を出そうとしたとき、女子生徒が割って入った。
「三枝君、どういう用件なの?」
 こういう時の女の子の頭の回転は恐ろしく速く、掴んだ勝機を手放そうとしない。日ごろ、男友達のことできゃいきゃい暢気に騒いでる、いじらしい姿のカケラも見当たらない。
「いえないの? 三枝君、悪いけど」
 その時だった。
「うるさい!」
 隣の教室にも届くんじゃないかというくらい、ヒステリックな声。この人はこんなに大声を出す人だったのか。『国王』の逆鱗だった。一同、呆気に取られる。
 三枝は声をかけ、私はそれに応じた。
 化学室につき、座席に座って会議が始まるのを待つ。まだ始まりまで30分もある。涙はもうでなかったが、明日からどうやって彼女たちの前で平静を装えばよいのか、検討もつかなかった。目をうるませてしまったことを思い出し、今ごろ教室で笑いあっているあいつらの顔が目に浮かんだ。悔しい。しかも、ありがたいことに、『国王』に目撃されてしまうというおまけがついた。
私が暗澹たる思いでいる間、隣の三枝はずっと、腕を組んで黙っていた。助けに来た白馬の王子様が、まさかの噂の三枝と来たもんだ。
彼の評判は、悪かった。
 風貌を見ても分かる通り、目深にかかる髪の毛は手入れの仕方を知らないのか、ぼさぼさとしていて、不潔そのものであった。眼鏡は度が高すぎるのか、表情を伺わせない。背は高くやせ方ではあったが、すらり、というより、ぬらり、という擬態語の方が相応しく、不気味だった。
普通、こういう人は教室の結界から弾かれて、目立たず学生人生を過ごすことになる。しかし、彼は単なる根暗ではなかった。自分をしっかり持っちゃった根暗。教室に介入する根暗。
 その例が、いくつかある。
 2年生に上がって間もない頃のことだ。クラスで係員を決めるとき、一つの委員に人気が集中し、定員オーバーとなる。文化祭実行委員を決めるとき、事件はおきた。公平を期するため、ジャンケンで委員を決めることになった。いや、なりかけた。そこに意を唱えたのが彼だった。
「ちょっと待って下さい」
 不穏な空気がよぎり、皆いっせいに教室の後ろを見た。自己主張しそうにない、表情も伺えないような陰気な青年が、手を挙げていた。
「本当にやりたい人がやるべきです。ここはひとつ、ディベートをしてみてはいかがでしょうか」
「ここはひとつ」って……。「ここ」は、高校2年生の最初のホームルームなんですけど。こいつ面倒くせえ、と誰もが思った。しかし先生も「いるよねこういう人」という教室の空気を察知したらしく、苦笑いで答える。
「じゃあ、文化祭実行委員やりたい人は、ちょっとしゃべってもらおうか」
 立ち上がっていた男子生徒数名が、「じゃあ、俺らいいっす」と降り、席に着いた。女子生徒も示し合わせたように、降りた。呆気なかった。どれだけ早く「ドロップ」を言うのが早いかを競うゲームが始まり、返答が遅れた私は、一人立ち尽くしたままとなった。先生が「ということは、佐伯と、三枝で決まりな」と宣告をし、私は負けた。
私は彼の方を盗み見た。悪いけど、気持ち悪いと思ったのを今でも覚えている。
 彼の性格を印象付ける噂話は他にもある。聞いたところによると、彼が高校一年生のとき、クラスの初めての懇親会のときに、お酒が出たそうだ。まあ、新しい学校生活の始まりを祝うために、何か特別なことを皆でやって、連帯感を強めたかったのだろう。
 しかし、その場には三枝がいて、当然のように彼は先生に密告し、飲酒がばれ、彼のクラスは反省文を書かされる羽目になったのだそうだ。彼は、正しい。しかし、空気は読まなかった。そのことが、彼の教室での立場を決めた。以降、友達らしい友達は、とうとうできなかったそうだ。
 いつしか、彼のあだ名は『国王』になり、嘲笑のシンボルとなった。傍らに人無きが如し。まるで教室の中で、自分だけの独立国を築き上げ、そこで生活しているような彼のもつ違和感が、巧く表現されている。
教室中の誰もが、彼に近寄ろうとはしなかった。
 それが、『国王』三枝だった。

三枝仁史 一
 ねっとりとした薬品の香りが、教室に差し込む夕陽の熱と混じり合って、奇妙な心地よさを感じさせる。文化祭実行委員の顧問が化学の先生で、化学室で会議が行われることとなっていた。その縁もあってか、よく訪れるようになった教室だ。
 涙を流している佐伯さんを見て、いじめか何かにあってるのかな、と凡庸な考えが浮かんだ。教室の雰囲気は張り詰めていた。
 咄嗟に出たのが、文化祭の先生が待っているというものだったが、女の子たちの追求がやかましくて、最後は押し切る形になってしまった。
 あんな大声を出して、ただでさえ悪い評判が一層落ちるかもしれないな。いや、そもそも相手にもされてないか。しかし、どうでもよかった。やられっぱなしが癪だったのだ。
 俺と佐伯さんの接点は、文化祭実行委員ということだけだ。学校の教室は、暗黙の仕切りで人を隔てる。佐伯さんは、長身・黒髪・凛とした眉毛に大きな瞳が特徴のきれいな人で、俺のようなげっそりしたメガネのお宅君が、気軽に話し掛けていい人じゃなかった。そういうわけだから、俺が彼女とまともに接触したのは、今日が初めてだ。
 佐伯さんは、よくも悪くも人目をひきつける人だ。彼女の日常の態度が、図らずも女性の反感をかってしまって、あんな教室の雰囲気が出来上がってしまったのだろう。でもまぁ有名税みたいなものだろう、と俺は思った。彼女の住む世界も、いい按配で、ほの暗い部分があるのだ。
 俺は、小学校時代のことを思い出した。ある日、友人の話の輪に入ろうとしただけなのに、「来るんじゃねーよ」と理由もなく突然拒まれた。俺の顔が暗くなるのを察知した友達は、何やら慌てて「うそうそ、ジョーダンだってば」と肩を叩く。俺はもうどうしていいかわからず、アハハ、と泣き笑いで応じる。何なんだろう。どうしてそういうことが出来るのか。理解ができなかった。それまで一緒に遊んでいた友人とは、段々と疎遠になっていった。
俺と彼らとの間に、薄い膜が張られた。そんなことを経験した瞬間だった。こうして人を排除して、多数派の結束は高まり、鬱憤は晴らされていく。ストレスは上から下へ降りてくる、というこのシンプルな構図に気付くのに、そう時間はかからなかった。
 少し大人になった俺は、いつしかストレスの適切な受け渡し先を探すようになった。インターネットの匿名で書き込める掲示板。こんなもののお世話になる日が、とうとう来てしまったのか、と俺は自嘲した。試しに書き綴る。
「死んじまえ」
 自分でも笑ってしまうくらい、しょうもなかった。送信のボタンを押したとき、その時は、らしくもなく、自分の中の何かキラキラと輝くものも一緒に捨てた気がした。すぐにレスポンスがあった。
「てめぇが死んじまえ」
 胸がすっとした。くだらない、どうしようもない気持ちを、少なくとも同じ次元で聞いてくれる誰かがそこにいたことに、俺は救われたのだ。
そういうわけで、俺は、人に対してあきらめることを覚えた。そこから先は早かった。電子の海に広がる、あの憚りのない、無遠慮な世界。この世界に、俺は容赦なく引き込まれていった。もはや外の世界との繋がりは必要なかった。見知らぬ人との文字のやり取りで、俺のアイデンティティはあっけないほど確立した。
 いま、佐伯さんに、何か慰めの言葉をかけるべきだろうか。しかし、教室での女子生徒の視線が頭に浮かぶ。俺がそうした台詞を言うことは、佐伯さんにとっては、不名誉になると思った。きちんとした信頼関係に基づかない優しさは、自分と相手の立場の距離間を再確認することに等しい。平たく言えば、『国王』如きに同情された佐伯さんは、きっと屈辱を感じるだろう。そういうわけだから、俺はいつもの通り、何も言わないことにした。優しさは、切れ味よく使うべきである。
 そんなことを考えていると、教室の扉越しに、まるで木琴を叩くような楽しげな声が響いてきた。扉が開かれ、会議の参加者たちが化学室に入ってくる。中には、先ほど教室で佐伯さんと対決していた女の子が二人ほど、混じっていた。他のクラスの文化祭実行委員らしかった。一瞬だけ、俺と彼女たちの視線が合ったが、無表情のまま、視線は逸らされた。
 そのうち先生が準備室から現れ、プリントが配られ、儀式のように連絡事項が口頭で伝えられ、「何か意見はありますか」というお決まりの台詞を皆で宙に浮かべて、「特にありませんね」という言葉でそれを打ち消す。それで、会議は終わった。まるで、子供が何度も読んだお気に入りの絵本を開いて、ページを繰って、読み終えて、本を閉じたときのように、なめらかで完結したひと時だった。
 皆が帰った後、先ほどの彼女たちが俺と佐伯さんの方へ向かって来る。
「忘れないでよね。ちゃんと謝るまで、あきらめないから」
 佐伯さんは無言だった。俺は筆記用具を鞄の中にしまい、興味のない振りをする。
 ところが、勝利の味を確認して勢いをつけたのか、女の子の一人が、俺に話し掛けてきたのである。
「さっきは話の邪魔をしてくれてありがとう。佐伯さんとはお友達なの?」
 久しぶりに人と話すので、驚きつつも誠意ある応対をする。
「友達って言うか、文化祭の仕事を一緒にしているだけですが」
「ふうん」
「なんか問題でもあるんですか」
「いや、別に。ただ、佐伯さんってほら、美人で有名な人じゃない? だから、あなたみたいな人と、友達として釣り合うのかなって。ね、国王さま」
「国王さま」のところで、相方がぷっと吹き出した。
 こういう露骨な言い回しを、相手次第で平気でできる人は、この学校に吐いて捨てる程いる。彼らは、喧嘩を売る相手を選ぶことに躊躇しないのだ。そんなしけた連中が、俺よりも明るく楽しく学校生活を送っているのが不思議で仕方なかったのだが、人間社会なんて所詮そんなものなのだろう。
 しかし、ここまで舐められて、黙っているのは自分のためによくない。俺は、上手い返し方をひねり出すため、時間稼ぎに出る。
「えっと、どういう意味ですか」
 女の子は少し苛付いた様子で答えた。
「友達にさせてもらってるんでしょ? 身分をわきまえなきゃ」
 その頃には、既に「お返し」が閃いていた。
「そういう風に感じた経験があるの?」
 俺は、生徒を優しく見守る学校の先生のように、一言一言に心を込めるようにして、言った。
「わかります、その気持ち。辛いよね」
一瞬だけ女の子は目を点にすると、見事に真っ赤な顔をして、教室を出ていった。
 ざまあみろ。昔おまえが他人に言われて傷ついたことを今俺に言うことで、おまえは自分を救済してるんだ。その現実を、つきつけてやることにする。
 こういう優しさは、切れ味がよい。
 構わない。仕掛けたほうが、悪いのだ。
「佐伯さん」
 技が綺麗に決まり、調子をよくした俺は、佐伯さんに話し掛けてみることにした。
「もしよければ、明日のHRにクラス会議を開いて、出し物を何にするか決めてしまいませんか」
「あ、いいんじゃない。任せるよ」
「いや、任せるって言うか。俺とあなたでクラスを仕切るんだから、俺だけに任されても」
「ああ、はい、わかった。わかったってば」
 さっきまで痛々しい表情をしていたのに、それとこれとは別だと言わんばかりに、佐伯さんは、眉をひそめて俺の言葉を遮った。初対面なのに、この扱い。
 佐伯さんは、鞄を取ると、じゃあまた明日、と一言残して教室を出て行った。
 ふと、好きな女の子に声をかけたら、まるで逃げるように距離を置いて歩かれたことを思い出した。そうだあのとき、俺は、人を好きになるのをやめたのだ。人を愛しく思うたびに、そういう思いを抱いてしまった自分を恥じて生きることにした。これしきのことくらいは、別に何ともない。
 一人残された教室を、ため息まじりで立ち去る。
 家に帰ると、俺は、パソコンのデスクに座り、インターネットのニュースサイトを見た。
 アナウンサー、医者と結婚。
 芸能人が離婚、妻は慰謝料月1000万円要求。
 婚活時代に、年収1000万円以上の彼をゲットするには。
 男は、顔が駄目なら頭と金で勝負だ。
 女性専用車両に賛否両論。
 それぞれの話題について、ネットユーザーの意見が他のサイトに書かれてある。
「どうせ女は、金か顔しかみてない。中身は後だ」
「全くその通りだ」
「こいつの発言は、もっと評価されるべきだ」
「感動した。今までにないほど」
 それらの言葉の一つ一つと出会うにつれ、俺の血液は流れを速め、みぞおちの辺りがぼっと熱くなり、走り出したい衝動に駆られるのを感じる。
 そうだ。
 女が何だ。
 佐伯がどうした。
 だが、そんな勇猛な怨嗟も長くは続かない。
 別のサイトでは、女性のグラビア画像が貼られ、多くの男がコメントしている。
「ブスだ」
「気分悪い」
「見て、損をした」
 女は嫌いだが、このやりとりも矛盾している。
 女は金目当てで男と付き合う。高校でも、女の子たちが、合コンの話題で盛り上がっていたのを思い出す。偏差値の高い名の知れた私立の男子高が、彼女たちの狙い目らしい。
 恋愛という心の問題に、見事に対価性が滲んでいやがる。遺伝子を補い合うのは、人間の本能かもしれない。しかし、そのあけすけな動物臭さを受け入れている奴らに、俺は耐えられなかった。
 けど、男たちはどうなのか。自分のことなど棚に挙げ、ネットで貼り付けられた画像を見て、アイドルの顔を品定めしている俺たちだって十分動物臭い。佐伯さんの中身なぞ知りもしないくせに、ちょっといいかもとか考えてしまう俺もだ。結局、同じことをしているだけじゃないか。
 人は、上を目指して、恋愛しているのだ。眼を背けたくなるような(そして現実に皆眼を背けている)優生学的思考が、実は静かに横たわっている。
絶望的だった。人は人に恋をするのではなく、記号に恋をする。
 佐伯さんの冷たい態度を思い出す。劣等種に対する、当然の反応だと思った。顔の器量の悪い女性を見て、「あり得ない」と掲示板にコメントした、かつての俺が思い出される。俺は決してあの人を責められない。
 俺は、机の引出しを開けた。
 小さなビンには、白い錠剤が詰まっている。
 性欲減退剤だ。
 女も嫌だが、男も嫌だ。その板ばさみの中で出した答え。
 種無しになればいい。
 欲を捨てれば、苦しむこともない。数錠取り出して、飲む。インターネットで注文してから、ちょうど3ヶ月くらい、毎日飲みつづけている。最初は本当に効くのか半信半疑だったが、マスターベーションは、3日に一度、一週間に一度と、段々と間隔が空くようになっていた。俺は、感動した。たしかに俺の中で、女性に対する渇望が、静かに消えていっているのを実感した。
 劣等種は、土俵から降りるに限る。

佐伯晴子 二
 男の子にはよくモテた。バンドでドラムを叩いている先輩、私立の有名男子高校生、有名大学生。原宿を歩くと、たいてい声をかけられる。だから、今日みたく、女の子にはよく僻まれた。
「別れて欲しいんだけど」
 それなのにこれか。今日はとことん、ついていないらしかった。お兄ちゃんの知り合いの大学生。付き合いだして、まだ1ヶ月弱だった。風呂上がり、髪を乾かしながら、彼氏と雑談でもしようとしたのに、よりにもよって今日じゃなくても。
 モテる。でも、長続きはしない。2年も3年も付き合っていける女の子の話を聞くとびっくりする。だが、原因は気付いている。ヤリ飽きたんだろう。
「君の気持ちにしっかり応えきれていない自分がいるのに気が付いたんだ」
 しかし、何だろう、毎回別れ際になるとこういうメールを吐くようになる『イイ男、だった男』の気持ち悪さ。ドラマの台本じゃないんだから、「セックス飽きた」ってはっきり言えよ。こんな子供だましみたいな別れ文句を、まともに受け取るわけがないだろう。下に見られていると思うと、腹立たしい。
「いいよ。今までありがとう」
 興味なさ気に、私はメールでそう返した。あっさり。メール一本。便利な世の中。
「ホント!? ありがとー」
 ふざけんな。
 携帯を床に叩きつけ(幸い壊れなかった)、私はベッドの上に突っ伏した。
「あんたなんか、どこへでも行っちゃえばいいのよ!」
 私の声じゃない。階下から発せられてたのは、母さんの声だった。物が壁にあたるような激しい音が、床を通して聞こえた。
 夫婦喧嘩だろう。母さんは女子大出身のお嬢様だったからなのか、喧嘩をするときいつもヒステリックに喚く。夫婦喧嘩も一方的に母さんが父さんに物を投げつけ、父さんは黙っている、というのがお決まりだった。
 心当たりはあった。お父さんが最近、浮気をしたらしい。そのことでお母さんと毎日言い合いになっていた。今日でたしか1週間くらい経っただろうか。
 浮気をした父を、私は憎んでいた。浮気は男の人の病気だ。お母さんと愛を誓い合った癖に、他の女性で性欲を発散するなんて、全く信じられなかった。
 あのずんぐりとお腹を出して、休みの日に寝てばっかりいる、たぬきみたいな中年男性の、どこにそのような厭らしいことを考える余地があったのかも、謎だった。
 母さんは離婚をするだろう。私が母さんの立場に立たされたら、きっとそうする。暗い気持ちになってくるが、仕方がない。男の、女に対する無理解を呪うしかない。
 それにしても、今日はひどい一日だった。裁判、別れ話、夫婦喧嘩……。ああ、もう苛々する。だいたい何で私だけこんな目にあわなければいけないのか。次の彼氏をどうやって探そう。いやその前に、今日私に対決を挑んできた子たちを何とかしないといけない。三枝が化学室で、軽く女子に皮肉を言って あしらっていたのは、(よくはないけど)ちょっぴりいい気味だった。
 そう、悪くないことだってあった。三枝のことだ。
「文化祭の先生が呼んでいますよ」との発言は、実は三枝の機転だった。あの後会った文化祭の先生は、私に、君を個別に呼んだ覚えはないといったのだ。 疑問はすぐに解けた。私は、彼に助けられたのだ。彼に助けられるという事態が少し複雑だったが、それでも彼なりの配慮をしてくれたことには、感謝しなきゃいけない。
 意外と、悪い人ではないのかもしれない。

「ってわけなのよ、ありえないよね」
 翌日の昼休み、友達と一緒に屋上でお弁当をつつきながら話をしていた。話題はもちろん、夕べ彼氏と別れたことだ。
「私の元カレもそんな感じだったなー。家に誘うときだけ返事がいいのよね。セックスはよかったけど」
「ていうか、結局身体目当てなんだよね……。そうじゃないって思い込むんだけど、夢見てただけ」
 男って駄目ね、と一同頷いた。私は言う。
「お母さんが女子大だからさ、付き合ってる人の監査に煩いの。家に呼ぶのがデフォルト。昨日の人もそう」
「昨日の人」と言うことによって、元彼がまるで死んだ人のように遠い彼方へ旅立ったように思えて来てしまうから、言葉って怖い。
「晴子のママって、そういうところしっかりしてるんだ」
「まあ、教育ママだからね」と私。
 彼女のエリート教育が奏功し、お兄ちゃんは東大医学部に入った。ピアノも弾けるし、背も高い。顔はイケメン。文句なしの完璧人間に育った。でも童貞だった(笑)。最近多いらしいが、何となくわかる気がする。学歴、身長、容姿。女性の望むおよそ全ての条件を身につけて、それでもなお女性を寄せ付けないという生き方に、彼はアイデンティティを実感するのだ。腐ってやがる。「母親の作品で在る」ことを受け入れたことの、副作用だと私は思っている。
さて一方の私はといえば、才能という才能は根こそぎ兄に奪われ、ピアノもだめ、料理もだめ、バレエもだめ。
 テレビもねえ、ラジオもねえ、とかいう歌が随分昔にあったが、そんな感じで叫びたいほど何にもねえ。勉強はそこそこできるが、お兄ちゃんほどじゃない。ナイナイ尽くし。兄と比較されて育ったことにコンプレックスを感じた時期も、なくはなかった。ただ、宝塚出身の母親譲りでルックスはよかった。だから、一生懸命男遊びをして、兄とは一味違った道を歩むことにしたのだ。
「その別れた彼氏ってたしか大学生だっけ」
「大学生。東大だった」と私。
 おおー、と友達二人からどよめきの声が上がる。
「すごいじゃん、頭いい人って、宿題とか教えてもらえるから楽だよね。あたし彼に小論文書いてもらって、受賞したことあるよ」
 きったねーなオメー、と私たちは爆笑した。私も、彼氏に何をしてもらったか、考えてみる。プレゼントされたブランドもののバッグ、指輪、デート代、東大生と付き合ったという経験。悪くない戦利品だ。
 しかし、恋愛して、振られて、何をしてもらったか考え、きちんと対価を受領していることを思い浮かべ、安堵する自分。
 もう一人の私がつぶやく。恋愛と売春ってどう違うんだろう。
「まあでも、今度の文化祭で男子高校生いっぱい来るから。出会いなんてすぐそこよ」
 ついつい深刻な顔つきになっていたのか、友人はそんな私の表情を人寂しさゆえのものと誤解し、慰めてくれた。
「そういえば晴子、文化祭実行委員よね」
「あ、そういえばそうだ。誰とペアだったっけ?」
「三枝君」
 女の子二人は、あ〜……と言葉がみつからないまま、閉口した。女の子は、こういうとき「ありえない」「かわいそ〜」とか各々好奇に満ち満ちた小悪魔チックな評価をするものだ。しかし、今のこの子たちの間には、「三枝をもって他の女の子を茶化すのは、侮辱以外の何者でもない」という規範が、本能に近いレベルで作動していた。彼は話題として重たすぎ、評価をすることさえ憚られる、そういうタイプの人だった。
 私は、昨日の夕ご飯を思い出すかのようにして、軽い調子で言ってみた。
「結構いい人みたいだよ」
 昨日うち炊き込みご飯だったよ。その言葉が、空気を軽くした。女の子たちも、ようやく普通に、いつもするような異性に対する評価を口にし始めた。
「いつも教室の後ろで本読んでる、暗〜い人だよね。歩く梅雨みたいにジメジメとした……」
 世の中には、ああいう人もいるんだね、と女の子たちは頷き、しかし次の話題に移りたそうだった。彼女たちにとっては、三枝のことを頭に入れることすら、ある種の抵抗があるのだろう。これが三枝の立場だった。
一方の私はといえば、多少彼のいいところを見かけたから、ある程度同情の目で彼をみることができる。しかし、彼がいい奴なのはわかるにしても、「男性」のカテゴリーからはしっかり外れている。恋愛という領域に限り、やはり彼は人種が違う。
 彼の性別は、今後どれだけ関係が続こうと、「いい人」であって、「男性」にはなり得ないだろう。「いい人」は、第三の性別なのだ。
時計を見ると、昼休みも中盤に差し掛かっている。
「あ、ごめん、私ちょっと文化祭の打ち合わせがあるんだ。お先に失礼するね」
 言って、二人は顔を見合わせ笑い、
「いいよ、いってらっしゃい」
 と声をそろえた。
 その表情が、苦笑いにも見えた。ちょっと不躾けだっただろうか。

 教室に入る。教壇で数人の男子が馬鹿騒ぎしている。窓辺にはカードゲームをして時間をつぶすカード組。机を大きく合体させて、談笑している女の子たち。そんな中、教室後方で一人静かに携帯ゲームをしているのが『国王』である。よくできるものだ。あいかわらずの傍若無人ぶりに感心する。
 一緒に仕事をする以上、さっきの彼女たちのようにあっさりと三枝を捉えるわけにはいかないのだ。彼女たちみたいに、「三枝、いや〜ん」と両手を挙げるのも、癪だった。
 彼の後ろに回り、どんなゲームをやってるんだろうと、ちょっと覗いてみる。
 画面には、可愛らしい制服姿の女の子の顔があった。ポリゴンで描かれた美少女が、くりくりと動いている。
「ねえ、撫でて」
「はい/いいえ」
 フキダシが出てくると、三枝は一瞬の思考のあと、神妙な手つきで「はい」を選んだ。次に、手にした白いペンで、彼女の頬をそっ、と撫でるように滑らせる。
 女の子は、頬に手を当てて、顔を赤らめながら言った。
「……アタマ、おかしくなりそう」
 こっちの台詞だった。
「何か用ですか」
 不機嫌そうな顔で三枝が振り返る。気付いていたらしい。
「あ、いや別に。このあとのHRの打ち合わせするはずだったでしょ、たしか」
「今見てたでしょう」
「え、何のこと」
「とぼけないで下さい」
 別に彼女とイチャついているところを見られたわけじゃないんだからそんなに怒らなくても。あ、でも彼にとっては同じようなものか。どっちなんだろ。ややこしい時代になったものだ。
「面白そうだね、それ。なんていうゲーム?」
「イノセントラヴ」
『ヴ』を丁寧にいう三枝に、私は笑いをこらえた。
「ま、いいですけどね」三枝は全く興味なさそうに、おもむろにスイッチを切ると、ノートを開いて「今日のHRなんですけど」と切り出した。私も近くの椅子を持ってきて、彼の机に向き合う形で座る。
「クラスでやる文化祭の出し物を決めます」
「ああ、言ってたね昨日」
「ええ。で、クラスの出し物なんですが、案は何かありますか」
「今決めちゃうの?」
「いや、あくまで候補ですよ。呼び水っていうか。こういう案が2,3あると皆も意見を出しやすいでしょう」
 なるほど、たしかにそうだ。
「演劇、飲食店、お祭り、とかかな。去年うち演劇やったけど」
「へえ、どんな」
「走れメロスのパロディ」
 宮沢賢治の代表作。青年メロスが、友人セリヌンティウスとの友情を証明し、人を信じられなくなったディオニス王を改心させるという人間愛の物語だ。うちのクラスはたしか、メロスがディオニス王と結託して政治を操るという、わけのわからないコメディに仕上げた。
 面白そうですね、とちっとも面白そうじゃない様子で三枝は言う。
「三枝君のところは何してたの」
「縁日」
 あ〜、と私は相槌を打った。クラスを4〜5分割して、一班ごとが適当にゲームを用意し、お客さんを呼んで遊ぶ。文化祭の出し物の中でも、比較的楽な部類に入る。
「うちのクラスは多分、これになるだろうね」
「でしょうね」と三枝。うちのクラスは、何か1つのことに集中するようなタイプではない。
「何か、不満そうだね」
「いや、別に文化祭に対して特別な思い入れはないので」
 なかなか悲しいことを言う。
「とりあえず、縁日と演劇、飲食店くらいを出しておきましょうか。あとは皆の流れを伺うということで」
「そうだね。あ、それと」
 思いついた振りをして、言ってみた。
「昨日のこと、ありがとう」

三枝仁史 二
 鼓膜をくすぐられるような不思議な快感に、教室の音という音は奪われた。彼女の「ありがとう」という唇の動きの美しさが、こんこんと湧き上がる泉水のように頭を満たしていく。
「え、あの」
 ふとした手の緩みで広がり散ってしまった積み木を、元に戻すことに専心する不器用な子供になったような思いがして、羞恥に息が詰まった。
「気にしないで下さい」
 ぎこちなかっただろうか。興奮と緊張を紛らわそうとして、明るく振舞ったつもりなのだ。
 慣れないことするべきではなかったかもしれない。
「すいませんでした」
「え、何で謝ってるの」
 佐伯さんはバツの悪そうな、持て余した表情を作った。
「あ、いや別に」
 俺は何だか自分の存在がひどく矮小な気がしてきて、視線をはずすことばかり気に病んだ。次に言い出す言葉は、ついに見つけることができなかった。
「そういえば、さっきのゲーム」
 どろりと油でもかけられたように重くなった空気を晴らすかのように、慎重な面持ちで佐伯さんは口を開いた。小動物のように愛くるしい眼が、上目遣いで俺の顔を覗き込む。
「お兄ちゃんがやってたのを見たことあるかも」
 ゲームの話題。こちらに合わせてくれているのだ、と思った。
「へえ、お兄さんいたんですか。大学生?」
 苦心が奏功したのか、何とか普段の調子を取り戻せたようだ。
「そう。医者になるんだって」
「すごいじゃないですか」
「たしかにすごいけど、気持ち悪いよ。小さい頃から英才教育漬けの、いってみれば無菌培養だよアレ」
 俺は笑いながら、何気なく目を動かす。昼休みも終わりに近づいてきて、教室にちらほらと人が集まってきた。その中の幾人かと視線がぶつかる。「珍しい組合せじゃん」という好奇の視線が、ちくちくと心を刺した。やめてくれ、そう叫びたい半ば強迫的な思いに駆られる。
 佐伯さん、気付いているんだろうか。俺と一緒に話してる姿が、皆の目に留まってることに。これは普通の女の子からすれば、あまり見られたくない光景だろう。彼女が気付いて、会話を打ち切られたりしないかどうか、それだけが不安だった。
 薄暗い迷路の中を、自分だけが彷徨っているような気がしていた。
 そのとき、チャイムが鳴った。
「あ、5限目だ。じゃあね、三枝君」
 救われた、と思うのを悟られないように、「どうも」俺は冷静にお辞儀をして、次の授業の教材をとる素振りを見せた。幸い、彼女は周囲の視線を嫌がって席を立つようなことはしなかったので、安堵する。
 彼女が背を向けたのを見計らって、気付かれないように、深い溜め息をついた。
(これじゃ身がもたない)
 こんな他愛もない言葉のやり取りをするのに、まるで100mを全力疾走したときと同じような感覚に襲われた。
 授業中、ペンを握る手が、ずっと震えていた。

 ホームルームの会議は滞りなく終わり、結局俺のクラスは縁日をやることに決まった。
 しかし俺はそれどころではなかった。家に帰ると、息をまいて学校専用の裏サイトを開く。高校の掲示板に、佐伯さんのことについて書かれたコメントがないかどうか調べてみる。
「2年B組のY崎さん可愛い、付き合って欲しい」
「きもいよ君」
「数学科のT茂、風俗行ってたの発見」
「彼に限ってそれはあり得ない」
「>>212本人乙」
 それにしても、どうしようもないコメントばかりだ。俺も、このようなやり取りで憂さを晴らしていた時期があった。誰も彼も一皮むいたら中身はこんなものなのだ。
「2年C組の綺麗なSさん、彼氏いるの?」
 来た、と俺は思った。投稿日時はかなり古い。5月くらいのものだ。2年C組の女性で、サ行で始まる美女は佐伯さん以外に思いつかなかった。これは彼女のことに違いない。ごくりと唾を飲み込むと、画面を慎重にスクロールしていった。
「>>346いるみたいだよ」
 よかった、と俺はつぶやいた。苦痛に身を委ねる必要がなくなった。
俺は机に手を伸ばす。
「相手は医者らしい」
 医者か。佐伯さんも、医者がお好きなようだ。
やはり女は信用できない。
 机から性欲減退剤を取り出して、錠剤を口に含んだ。
「もう別れたみたいだよ」
 べっ! と俺は錠剤を吐き出した。豆鉄砲よろしく吹き出されたそれは、デスクトップ画像の液晶に当って、乾いた音を発しながら床を転がった。
 スクロールをしていく。
「最近また付き合い始めたみたい」
ぬか喜びだった。俺は床に落ちた錠剤を拾った。
「相手は東大生だって」
 白い錠剤についたほこりを取り、口に含んだ。
「別れたみたいだよ」
 べっ! どっちだよ!
 ティッシュに白い錠剤を置き、唾液で汚れたそれを包んでゴミ箱に捨てた。
 投稿日時を見ると「東大生と別れた」発言は今日なされたようだった。ということは現時点で彼女にはお付き合いしている男の人はいないということになる。
 だが、この情報が正しいとすると、なんという男性遍歴の持ち主だろう。医者に東大生。高校生の付き合う相手じゃない。しかし、あの美貌からするとそれも頷けた。彼女は普通の高校生じゃないのだ。
 俺は椅子の背もたれにぐったりと背を預け、ため息をついた。窓に映った自分の顔を見る。だらしなく映った自分の顔に、どことなく気まずい想いを抱く。
 俺は、彼女にとって、何のメリットになるのだろう。ルックスは駄目。過去の試験の成績を思い返す。全くぱっとしない。スポーツマンというわけでもない。顔はまあ、ご覧のありさまだ。
 医者と東大生になど、勝てるわけもなかった。
「恋人に求めるもの」という言葉をキーボードで叩き、インターネットで検索をかけてみる。
 ダントツで性格の一致だとか価値観の一致だとか当り障りもないものが挙がり、年収や容姿、頭のよさ等は二の次、三の次のように扱われていた。だが、「別れる理由」も検索してみると、これもまたダントツで性格の不一致、価値観の不一致が挙がっている。
 これは謎だった。性格や内面を重視しているならば、相手が自分に合うかどうかの吟味は、付き合う前からし尽くされているはずだ。それなのに、「やっぱり違った」などと思い出したように言うのはおかしい。
 これがさすところは一つ。おそらく人は、初期の段階ではそれほど中身を見ていない。男も女も、やはり足切り試験をパスすれば、合格なのだ。内容は、付き合っている最中に審査され、別れる原因として考慮される。
 そこまで考えて、俺はまた暗い気持ちになった。これでは、昨日の繰り返しだ。結局優生学に落ち着くことになるに決まっている。不毛だった。
女性のことが、信頼できない。
 人を信頼せずに、孤独を生きた、走れメロスのディオニス王が思い出される。
 男は、女を信頼できなければ、恋だってできない。
 ああ、これではまるで、ディオニス王の恋だ。

佐伯晴子 三
 ドライヤーで髪を乾かしているとき、メールが入った。
「別れたんだって?」
 クラスの女の子からそう聞かれて、私は耳を疑った。今日の昼休みに女の子に話したことが、もう伝わってるなんて、思いもよらなかったのだ。
 どこで聞いたの、と平静を装ってたずねると、インターネットの掲示板に書かれていたという。そんなこと。学校の掲示板、そんなもの噂程度にしか耳に入れてなかったが、はじめて見てみることにする。
 ドライヤーを止めた。
 果たしてそこにはかかれてあった。元彼のことだけではなく、私の男性遍歴や、容姿の評価が、ほぼ全て。
 みぞおちの辺りが急に冷えたような感覚がして、私は眩暈を起こした。
 今まで笑い合ってきた日々を、全て覆された思いがする。羊みたいに温厚で優しかったクラスの皆が、一瞬で狼に変わったようだった。
 何より、今日この日に私の失恋話を聞いたのは、昼休みの女の子たち以外にありえなかった。どう話が伝わったかは知らないが、その子たちが、話を第三者に伝言していることは確実だった。友達に裏切られた。そんな感覚が脳裏をよぎる。
 私はこのクラスのことを何もわかってなかった。

 翌日、私の見る教室の風景は、まるで命を失ったかのようにくすんでいた。
 私と、クラスとの間に、目には見えない薄い膜が張られた。昼休みにご飯を共にする女の子たちが、今日元気がないね、と励ましてきても、そうかな、と曖昧な返事を返すしかできなかった。もう、何か汚らしいものにしか映らなかった。あなた達、昨日の話、誰かに言ったでしょ。彼女たちの輝く目が、気持ち悪かった。
 教室の生徒に視線を移す。この中の誰かが、インターネットの掲示板で、私を悪く言っているのだ。
 あんなもの見るんじゃなかった。
 教室から弾かれたような疎外感。後方で、相変わらずゲームを愉しんでいる三枝の姿を見た。
 ふと、彼も、こんな気持ちを抱いて学校生活を送っていたことがあったのだろうかと考えた。彼と同じような立場に置かれたのだと少々落胆したが、堕ちてみたところで特別の嫌悪感など沸きもしなかった。人間は悲しいくらい順応する。
 授業など、どれだけ頑張ろうと手につかなかった。
「Sさんでしょ。C組の」
「性格悪いよ」
「話は上手だけど、自己防衛って感じがしてむかつく」
 私、嫌われてたんだ。考えてみれば、火のないところに煙は立たない。女の子から教室に待ち伏せされて、文句を言われるくらいのことを、気付かぬうちにしでかしていたのかもしれない。
 放課後、三枝と一緒に、文化祭の仕事を一緒にこなすことにした。
 文化祭実行委員が作成する書類の量は、膨大な数に昇る。これを早めに片付けて、作業に没頭することで、気を紛らわせたかった。
 この学校は、施設管理が厳しく、休日や夜間の教室使用はおろか、教室の装飾に使う資材、小道具の借り出し、セロテープを貼り付けることにまで申請が必要だった。さらに毎週の会議や報告の準備などを含めると、仕事としては相当の重労働だ。
 目の前で、文句一ついわずに淡々とこなす三枝は、頼もしく見えた。
「やりましょうか。俺が全部」
 何枚目かの申請書に「申請理由」を書き連ねていると、三枝からの申し出があった。
「何で」
「その、やり辛いというか。一人の方が落ち着くっていうか」
 真っ赤な顔をして、三枝が俯いて言った。
「気にしすぎだよ」
 私は笑う。
 これは、ひょっとして私、意識されているんだろうか。
 胸の内に、複雑な感情が広がる。
 好きではない人から想いを寄せられた時、何故か自分の価値が下がったような気がするときがある。魅力を称えられることを素直に感謝するより、この程度の人に好かれる程度の領域に属しているのか、という陰湿な感情が沸き起こる。それは傲慢で、毒された考えなのはわかっている。けど、どうしてもそう 考えてしまう自分がいた。
 ふと、掲示板のコメントが思い返された。
「Sさんでしょ、黒髪で美人の?」
「よくみるとそうでもないよ」
「あの子超腹黒いよ」
「高飛車なんだよね」
 ひょっとしたら、目の前の男の子に対して、容赦のない感情を抱けるその傲慢さが、原因なのかもしれない。しかし、冗談じゃない、とも私は思う。傲慢だの、高飛車だの、好き放題言いやがって。文句あんなら、直接、面と向かって言いに来いよ。
 大して実情を知りもしないくせに、勝手に赤の他人から日常の潤滑油にされたときのあの気持ちは、何度経験しても、味わいたくない感情の一つだ。
教室の扉が開き、女の子が数名、入ってきた。
 私を見て、会釈をする。彼女たちの、ひそひそとした話し声が聞こえる。あはは、と笑い合って、彼女たちは去っていった。私と三枝、珍しい取り合わせに、日常の憩いを見出したのだろうか。たったこれだけの出来事なのに、悪意に満ちた解釈をしている自分がいた。
 駄目だ、もうすっかり、疑心暗鬼になってしまう。
「あの」
 三枝が言った。
「やっぱり、僕やりますよ」
「やだ」
 憮然とした表情で私は答える。
「何かあったんですか」
 三枝が静かな声で聞いた。
 何かあったんですか? 大有りだよ三枝君。少しためらったが、私は口に出していた。
「掲示板に私の噂書かれてたの」
 お腹の中に溜めていた重苦しい空気を吐き出して、少しだけ、身体が軽やかになった気がする。
「そうだったんですか」
「経験ある?」
「ありますよ。俺、高校一年生の頃かな、ちらほら悪口かかれました。慣れましたけどね。過去の自分を見ているようで、むしろ微笑えましかったです」
 何となく想像はついていたが、微笑ましいと言えてしまうあたり、彼らしいと思った。
「三枝君も、見た?」
「佐伯さんの、そういう記事ですか。ああ、いや、偶々ね」
「付き合ってた人だとか、そんなものまで書かれてあって、ちょっと衝撃的だった」
「人って時に容赦ないですよね」
 静かで優しい言葉だった。
「気にしないほうがいいと思いますよ。こういうのはね、相手にしないのが一番いいんです。歴戦の僕が言うんだから間違いないです」
「歴戦の」という自嘲には、妙な説得力があった。
「面白い話がありますよ」
 ふと、思いついたように、三枝は言った。
「佐伯さんが、贈物をもらったとしましょうか。僕から」
「うん」
「それをね、佐伯さんが要らないって言ったら、その贈物は、誰のものですか」
「そりゃあ、君が買ったんだから、君のものだよね」
「そうです。今ここで、僕が佐伯さんの悪口を言ったとしましょう。もし佐伯さんが受け取らなければ、それって誰のものでしょうね」
「三枝君のもの?」
 三枝は、にこりと笑って言った。
「そうです。良いことも悪いことも、返っていくんですよ。君が受け取らなければね。小さい頃におばあちゃんから聞いた話だけど、俺は、これすごい当たってると思うんです」
 もちろん、と彼は言った。
「嫌でも、あえて受け取らなきゃいけないときもあるんですよ。お互いのためにね。その見極めが大切ですが」
 何でこの人はこんなに嫌われているのだろう。私は純粋にそう思った。とても達観した、いいアイデアを持っている。親身になって、相手の求めるものをしっかりと捉える専門家のような語り口調は、私にまるでカウンセラーにでも懸かったような安心感を与えた。
「すごいね。いつそんなこと考えてるの」
「勉強している時とか、ですかね」
「勉強できてないじゃない」
「まあ、そうなんですよね。だから成績は低いんです」
 三枝は、ぽりぽりと頭を掻くポーズをした。私たちは笑いあった。ありがとう、と私は言った。
 彼は、慎重な面持ちで口を開いた。
「彼氏は、そうそうたるメンツでしたね。やっぱり肩書きとかルックスって重要なんですか」
「そりゃそうだよ。女学校の友達何人かいるけど、やっぱり相手の学校の偏差値も見るっていうし。そうじゃないと素性がわからないんだって。表立って言えるもんじゃないけどね」
 目の前にいる青年も、自分のステータスとか気にしているんだろうか。それもそうか。誰だって、恋をするのだ。
「表面的なもので人を判断してるのって、罪悪感沸かないんですか」
 三枝が言う。
 それは、少し子供っぽい台詞だと思う。
「付き合ったからって、四六時中その人で頭が一杯になるわけじゃないんだよ。その人の子供産みたいし、生活もできなくちゃうって思うよ。特にうちはお母さんが厳しくて、結婚してもいいような人と付き合いなさいっていわれる」
 お母さんの受け売りだ。
 そうですか、と三枝はため息をついた。
「じゃあ、俺みたいな肩書き――勉強できたり、スポーツできたり、ルックス良かったり――がない人間ってどうすればいいんですか」
 そんなの簡単だ。頑張って勉強して、いい大学に入って、いい会社に入ればいい。引く手あまただろう。こんなことを言えるわけはないが。
 逡巡した後、
「難しい問題だけど、三枝君にだって、いつか必ず、いい人、みつかると思うわ」
 言った後、卑怯な台詞だと思った。
「やっぱり、男は、肩書きじゃないと思いますけど。恋愛だって、もっと中身みなきゃ、長く続かないんじゃないですか。熟年離婚したり、浮気に走っちゃったり、今多いでしょ」
 浮気。たしかに、うちの父さんも浮気した。そこは、浮気に走らないような男の人を見つけることができなかった、母さんの過ちだろう。肩書きを重視したことの弊害ではない。
 競争社会に育っていれば、誰だってランク付けを気にするものだ。そこに目を背けて、愛だの恋だのを語るのは間違っている。もちろんこんなこと人に言えるはずもないが、女の子だったら泣く泣く考えることだ。
 それでも三枝は、きっぱりと言った。
「打算ばっかりの恋愛の行き着く先は、悲惨だと思います」
 まあ正論だよね。三枝が好きそうだ。
 でも、世の中正論だけじゃ生きていけないよ。
 ふと、私の中の小悪魔が、ちらっと顔を覗かせる。
「好きな人、いるの?」
 三枝は、首を振った。
「いませんよ。僕、恋とかできないです」
 一応私は質問してみた。
「何で」
「あまり興味がないので。佐伯さんは、モテますよね。美人だし」
「そうかな。でも、顔がよければ幸せかっていうと、そうでもないみたいだよ」
「どういうことですか」
「美人だから僻まれたってケースもあるのよ」
 三枝は見破るように言った。
「そうですか? 『美人だから』で全て片付けているから、とかじゃなくて?」
 一瞬、目の前の冴えない青年に、全てを見透かされている感じがした。
 三枝の言葉には、たしかな思考の痕跡が看取できた。
「それって人を馬鹿にしてると思います。し、人から見抜かれます。その人、本当に真剣に自分が責められる理由探しましたか。その努力したことありましたか。安易に答えを見出して、人には本当の答えを問いたださない。面と向かい合わない。それって、傍若無人じゃないですか」
 なるほどたしかに解るが、傍若無人だなんて言葉、お前に言われたくねえよ、と心の中で思わず叫んでいた。羞恥心と怒りが綯い交ぜになって、私の頭には血が上った。
「あのね。傍若無人っていうなら、誰かさんだってどうなの。人はね、正論を求めているときは、そういうサインを送るものだわ。そんなのも期待されてないときに、期待されてない人に、何か変に真面目に生きられても、面倒くさいだけなのよ。ディベートの件もそう、飲み会の件もそう。正論を言っているつもりが、空回りしてることだってあるよ」
 三枝は、目を大きく見開いて、なんとも言えない寂しげな表情を作った。
 母親譲りのヒステリーだった。たしかに今のは、ちょっと、ひどかったかもしれない。
「ごめん。言い過ぎた、かも」
「いや、別に。当ってますから」
 三枝は、静かに言った。
 気まずい沈黙の中、書類を片付ける。
 全ての作業が終わると、三枝は「さようなら」と鞄を取り、教室を出て行った。
 どうして自分が嫌われているのか、考えたことありますか。
 三枝の言葉が、幾度も頭を浮かんでは消えていった。

三枝仁史 三

 家に戻ると、俺はインターネットを開かず、そのままベッドに倒れこんだ。
高校二年生に上がった時、クラスの最初のホームルームでディベートを提案した。それは、クラスの友達の奸計を聞いてしまったからだった。つまり、あらかじめ、仲の良い友達同士で、やりたい役職を独占する。後で、友達同士で役職を交換する。自分の好きなものをできる、というわけだ。
 これは、許せなかった。高校一年生の頃から、学校に馴染めなかった俺は、これ以上立場を悪くしても、悪くなることはないだろうと思い、半ば自棄な気持ちで、ディベートを申請した。すると、彼らは面倒がったのだろう、思惑はあっけなく瓦解した。
 そのとき俺は気づいたのだ。正論とは、持たざる者の特権なのだと。はぐれた者が持てる、唯一の武器。
 しかし彼女はこう言った。正論を吐くのも結構だけど、そんなこと、期待されていない以上、迷惑でしかない。
 反論できなかった。しかし、ただ黙って相手の言うことを聞いて、それっぽい言葉を投げかけるだけの人間関係なんて、それこそ真っ平だ。どちらが正しい? わからない。
 それでも、俺の見立ては間違ってないはずだ。彼女の悪いところ。ヒステリーに相手を追い込みたがるところ。あるいは、「やだ」という一言で相手の意見を封殺してしまえるあけすけなところ。おそらく無自覚なのだ。そういった振る舞いの一つ一つとじっくり向かい合うべきであるのに、彼女からすれば、僻んでいる周囲が悪いということになる。大した内省はなされず、そこで完結する。でもそれは、埃のように周囲の人の心にたまり、やがて噴出するだろう。
 治して欲しかった。俺みたいに手遅れになる前に。同じ轍を踏まないで欲しかった。その一心で、きつい言葉を吐いてしまった。
 しかし、君は正論を吐ける立場にない、と彼女は言った。
 一生懸命考えたのに、なんて無慈悲なんだろう。
 言葉の内容どうこうよりも、彼女が俺へ、何の配慮もせずにただ思ったことを並べ立てたことに対して、心から血が吹き出るような思いがした。
かぶりを振った。
 彼女は、俺に、「ありがとう」と言ってくれた。これは大きなプラスだ。最後の最後で乱雑な発言をされてしまったが、一見マイナスなように見えて、実は本音で俺と向き合ってくれた証拠だと思う。だから、プラス。笑ってくれたこと、プラス。ゲームを話題にして話をあわせてくれたこと、プラス。思えば出会った当初、つっけんどんな態度をとられたことも、俺を過剰に意識していたことなのかも知れないので、プラス……。
 自らの心に焼きついた今日の彼女の発言、表情、態度の一つ一つに都合の良い解釈を重ねてゆき、心を落ち着かせている自分に気が付いた。
笑えた。馬鹿馬鹿しいにも程がある。でも、そんなことをしなければ、悲観で気がおかしくなってしまいそうだ。
 ふと時計を見ると、夜中の12時を回っていた。
 性欲減退剤は、飲みそびれていた。
 こんなもの、何の役にも立っていない。

佐伯晴子 四
「早く離婚届に印鑑押しなさいよ!」
 階下から母さんの声がする。
「うるさいね」
「うん」
 兄は私の部屋で漫画を読んでいた。
「あの人たち、離婚するのかな」
 ふと、つぶやいてみた。
「するんじゃない」
 明日の天気でも読み上げるようにして、お兄ちゃんは答える。
「父さんと母さんってどうやって知り合ったんだろう」
 お兄ちゃんは、漫画をぱたんと閉じて、天井を見上げて考える仕草をとった。
「エリートサラリーマンと女子大生の組合せだからな。まあ、然るべき過程を経たんだろう」
「然るべき過程」
「そう。大学のインカレとか、マネージャーとかそんな感じじゃない」
「母さんらしいね」
「まあね」
 私はそばにあったクッションを取り上げ、抱きついた。
「お父さん、どんな人と浮気したんだろう」
「高校時代の同級生らしいよ。同窓会で再会して、そのままイノセントラヴ」
「三文小説みたい。最低」
 兄はため息をついた。
「三文小説っていうけど、人は三文小説を抜け出せないもんだよ」
「どういう意味?」
「大人になるのって、子供の部分を捨てることじゃないんだよ。子供の部分は、玉葱の芯みたいに残ってて、あとは皮が年を重ねるにつれて増えていくに過ぎないんだと思う。つまり、価値観が上書き保存されていくんじゃなくてさ、カードが増えてゆくだけなんだよ。一番甘い部分は残ってるんだ」
 お父さんの浮気は、玉葱の芯がひょこっと顔を出しただけってことになる。
「私はそんなの許せない。私、そんな大人にはならないわ」
「どうかな。お前だって、小さい頃聞いた音楽や、遊んだ遊びをやって、懐かしいなって思うときあるだろ。童心に還るっていうじゃない。それと同じだよ。一番甘い部分は、色あせずに残ってるんだ。恋だって同じさ」
 兄は続けた。
「一番酷いのはさ、大人になったって公言している癖に、一番甘い部分にむしゃぶりつきたがる奴だ。そういう奴に限って、自分に無自覚なんだ。しかも、子供な奴を笑いたがる。結婚しない女を哀れむ結婚した女。でも女の部分を捨てきれないんだぜ。あとは、そうだな、暴力団追放を叫びながらAVをみる男とか」
「何だか、生活観が染み出る恋愛を悪い事のように言うけど。私だって、素敵な人と大恋愛したいわ。肩書きなんて抜きにして。でも、そんな人いないんだもの。仕方なくよ」
「肝心なのはそこさ。『仕方ない』んだったら恋愛なんてする必要ないだろ? なんでそんなに躍起になるんだ?」
「それが女性の本能だからよ」
 子供が欲しい。愛情を注げる環境で、愛情を注げる子供を産む。愛情を注げる環境を整えるためには、結婚を成功させなきゃいけない。そのためには、多くの恋愛をして、男の人を理解することに努めなければならない。リスクを少しでも減らしておかないといけない。そうじゃないと、結婚なんてできない。
 性格の悪い女? 好きに言えば。価値観を錐のように鋭く尖らせることもできない、ひ弱な人間こそ、生産無き不幸を有むだけだ。
「女性の本能ねえ。本能で片付くんだったら、親父の浮気も許してやれよ。男性の本能かもしれないだろ」
「浮気は話が別ね。浮気は絶対駄目だわ」
「そうかな。肩書きを重視するのはよくて、浮気は駄目なの? どちらも、結婚制度に順応するか、反逆するかという差はあれども、同じように人間の本質に関わる大切な感情だと思うけど。じゃあ、少し攻め方を変えようか。この前の東大の奴と、別れたんだって?」
「そうよ」
 私はどきりとした。
「一ヶ月で別れたわ」
「あいつ、女子高生と付き合いたがってたからな。東大と付き合いたがってたお前にぴったりだと思ったんだけど」
 耳を疑った。女子高生と付き合うのが目当て。
「ひどい」
「なんで? お前だって、東大生と付き合いたかったんだろ? 怒るのは筋違いだよ。肩書き重視同士、よかれと思ったんだけど」
 それはそのとおりだった。でも、こんなのってあんまりすぎる。
「ていうのは、冗談だ。あいつに問いただしたよ。そしたら、何のことはない、テニスのサークルで、どうしても好きな人がいたんだってさ。こればっかりはなぁ。兄ちゃんどうにもできなかった。いい奴だと思ったんだけど、人間の性格ってやっぱシーンに依存するよ。特に恋愛はモロな。兄ちゃん読み甘かった。ただ、その代わり、きつく忠告しておいたよ。俺の妹をせっかく紹介してやったのに、そりゃねえだろって。けどさ、もしこれが本当だったとしてだ。どうだ、肩書きで選ばれる時の気持ちは。嫌なもんだろ」
 兄貴、相変わらず味な真似を心得ている。女子高生だから付き合った。たしかに、嫌だった。私という人間は、一体どこにいるの。女子高生だったら誰でもよかったの。いざ自分のこととなると、激しい怒りが込み上げる。
 そこに至って初めて、私は、父さんの気持ちに少なからぬ同情心を持った。
 父さんだけの価値を、母さんは見出していたのだろうか。最初は見出していたのかもしれない。しかしそれも長くは続かなかった。結局、母さんが父さんと結婚したのは、生活の安定と、子供のためだったから。
 それに気付いた父さんは、一体どう思うだろう。
 父さんの背中が、ひどく物悲しいものに思えてきて、私はため息をついた。
「言いたい事はまあよくわかったよ。お兄ちゃんが彼女作らないのもだいたいわかった。
 要するに、自分を見てくれない子ばっかり集まっちゃったっていうことでしょ」
「平たく言えばな。けど実体験はすげえぞ。付き合った子とホテルに行こうとするじゃん」
「うん」
「そしたらさ、その子、婚前交渉はしないと決めてるんだと」
「へえ、いい子じゃん。古風で」
「だろ。ところが笑っちゃうのはさ、その子、高校時代はめちゃめちゃ男性経験豊富だったらしい。わかるでしょ。要するにさ、『結婚したらヤラせてあげる』ってわけ。俺、ふざけんなって思ったね。何そのご褒美みたいな。本当に俺のこと想ってくれてるんだったらさ、やっぱりカップルらしいこともしたいって思うはずじゃん。普通のことだよ。けど、そうじゃないんだって」
 ははあ、そういうわけか。私は誤解をしていた。お兄ちゃんが彼女を作らない理由は、決して歪んだアイデンティティのためなどではなく、ある種のトラウマゆえのものだったのだ。しかし、全ての女性が彼女のように露骨かというと、そうではないだろう。お兄ちゃんは、悪いクジを引いたのだ。
「多分、この子と結婚したとしても、愛し合うことをしょっちゅう断られたりするんだろうなって思っちゃって。高校時代にさ、その子が付き合った男たちは、別に何の肩書きもなく、その子と愛し合えたわけだろ。他方俺はどうだよ。医者っていう肩書きと、その子との将来の約束がなけりゃ、セックス一つできないんだぜ。俺、愛され負けてるんだよ、何の変哲もない高校生の男の子たちに」
 お兄ちゃんは続けた。
「それ以来さ、肩書きとか抜きにして愛し合えるって、すごいことだなって、俺思うようになったんだ。それがきっと本当の恋愛なんだよ。医学部の仲間に話したらさ、『大人になれよ』っていわれるよ。女ってそういうもんだって割り切れと。けど、そいつらだって、まるで割り切りのお返しみたいに平然と浮気するんだよ。玉ねぎの芯を残していることに気付いてないんだ」
 許せねえよ、でももっと悲惨なのは、とお兄ちゃん。
「そうした浮気をさ、そいつらと付き合ってる女の子たちも、知ってるのに、知らないふりするんだぜ。なぁ、どうだよこの人間関係。俺もああなると思うと、ぞっとするよ。綺麗な子と結婚してさ、残った玉ねぎの芯の部分を、他の女性と分かち合う。それが大人な女性との付き合い方だっていうんなら、俺、一生童貞独り身でいいや。裏切りだもん、それは。そんなことをしでかすようになるのが、たまらなく怖い」
 お兄ちゃんは背伸びをした。
「その子と結婚しようかどうか迷ったときに、女の子たちに相談したんだ。これって本当の恋愛なのかってね。そしたら女の子たちはこう言った。結婚した後の男女の恋愛こそ本物だって。そりゃ、女の子にとっては、そっちの方がいろいろ都合いいもん、そう言うに決まってる。でも俺は、肩書きも何もない一人の男に捧げていた、あの日の彼女の視線が、たまらなく欲しかったんだ。そして、それは、玉葱の芯の部分の話なんだよ。いつまでも、心に残るもの。大人になったって、結婚したって、奥さんから得られない以上、何かの拍子で他の女性に求めるときがやってくるかもしれない」
 ふう、と一息ついた。
「親父はさ、同窓会で、きっと、ただの高校生に戻ったんだよ。エリートサラリーマンだとか、そういう服脱ぎ捨てて、裸足の高校生に。そこで、同じように全ての記号を脱ぎ捨てた女子高生と再会したんだ。浮気がいいって言ってるんじゃないぜ。ただ、単なる性欲の発散だとか、スケベで嫌らしいものだとか、そんな言葉じゃ片付かない、もっと複雑な感情をその人と共有できてしまったんだよ」
 だからさ、と兄は一息ついて言った。
「親父の気持ちも、よくわかるんだよ、俺」
「ふうん」
 なるほどね。たしかに一理はある。
 ただし、女の立場に立って考えてみると、お兄ちゃんの言うことは、なにか、子どもの駄々のような感じがしなくもなかった。
 玉ねぎの芯の部分はいつまでも色あせない、とお兄ちゃんは言った。だからといって、それが浮気をしていい理由になるのか?
 愛も欲しい。恋も欲しい。
 男性も女性もそう思って生きているのだろうけど、二つの感情のテンポにずれがあるような気がした。
 ずれはどこから来るんだろう。
 男と女の恋愛観の違いは、どこから来るのだろう。
ああ、考えてもわからない。私はいったん思考をやめ、今日の出来事を思い出していた。
 三枝の顔が浮かんだ。
「私の友達も、一人、どうしても男は肩書きじゃないって譲らない奴がいてね」
 お兄ちゃんは興味深げに話に乗ってきた。
「へえ、そんな話する奴いんのか。イケメン?」
「ううん、全然。イケメンじゃないし、空気も読めないよ。クラスでは『国王』って呼ばれてる」
 お兄ちゃんは、爆笑した。
「どう生きればそんなあだ名がつくんだよ」
「でもね、何でもかんでも自分の魅力にひきつけて考えるなって言われた。結構鋭いんだよそいつ」
「兄貴だからな、あんまり妹の欠点はわからない。そうなのか?」
「たしかにそういうところはあったかも。文句があるなら直接いえよ、とか言う割に、自分から相手に積極的にアプローチせずに、解決は時間に任せて自己完結しちゃうことは多いし」
 ふうん、と兄。
「あと、私、インターネットで叩かれまくってて」
 そこで、お兄ちゃんは吹きだした。
「おいおい、とうとう身内に出たかよ。しっかりしてくれ」
 私も笑う。
「でもね、それについても彼はこう言ってくれた。ねえ、お兄ちゃんが贈物を私に贈ったとするじゃない。その贈物を私が受け取らなかったら、誰のもの?」
「仏法の説話か。いいことも悪いことも本人に返るってアレだろ」
 一足飛びで話に付いてきた。こういうとき、やはりお兄ちゃんって優れた頭脳を持っていると思う。
「そうなの。そんな話をしてくれた人なんだよ」
「目茶苦茶頭いいじゃん、そいつ」
「でも、成績は別によくないみたいだよ。あんまり話は聞かないな」
 お兄ちゃんはため息をついた。
「高校で図れる学力なんて、たかが知れてるよ。せいぜい記憶力と、根性くらいなんじゃないの。人間味って奴は図れない。月並みだけどさ、馬鹿に出来ないよ、人間味。なあ、晴子。そういう奴なんじゃないの、彼氏にすべき奴って。真剣にお前のこと考えてるみたいだし。いい線行ってると思う」
 そうかな、と私はつぶやいた。
 便底眼鏡の奥に、愛嬌のあるキツネ目が、きらきらと輝く。いつも寡黙な彼が笑うとき、たしかに、胸のうちをくすぐられるような感覚を覚えることもある。
 玉葱の芯、か。
 生きるのに不器用な彼はきっと、全身が芯に違いない。
 かじったら甘そうだった。
「まあ、両親が離婚しても、俺とお前はいつまでも兄妹さ。仲良くやろうぜ」
 お兄ちゃんがそう言って、部屋を出て行った。
(人と直接向かいあわないのは、傍若無人じゃないですか)
 三枝はそう言った。
 妙に説得力があった。きっと彼は、自分が歩んできた歴史と照らし合わせて、私のために答えを出してくれたのだろう。
 机の上の携帯電話に目をやった。
 電話帳を起動すると、友達の番号を検索し、電話をかけてみる。
掲示板に私のプライバシーが書かれていたことについての不快感を、話しておきたいと思った。
「そういうつもりじゃ、なかったの」
 友人は、開口一番、謝罪の言葉を述べた。
私は、思いの丈を述べた。随分前から掲示板の書き込みがあったこと。私は最近それを知ったこと。東大生と別れたことも、書かれていた。彼女たちに話したその日に書かれていた。ならば彼女たちが書いたとしか思えない。裏切られた思いがした。それからというもの、教室中が、まるで敵だらけになったかのように感じた。気付けば、全てを話していた。
 言えば言うほど、自分が惨めになったような気がして、かろうじて声を抑えたものの、喉は涙で湿っていた。
 しかし、友人もまた、三枝の言う通り、私に対する不満を述べた。
 言葉にすれば、些細なことだった。あの別れ話についての書き込みがあった日の、昼休み。私はホームルームの準備があるという理由で、同意も求めずに、彼女たちとの昼食の席を立った。彼女たちにとっては、それがとても唐突で、配慮に欠けたものに映った、というのだった。
 彼女たちは、捉えようのない私への不満感を晴らすべく、その放課後、掲示板に書き込んだという。ほんの、火遊び程度のつもりだった。
 私は、人によって行動の捉え方がこれほど違うとは、思ってもみなかった。たしかに、彼女たちに対する配慮というものが、私には欠けていたのだ。
 電話が終わった瞬間、私の肩から、何か重い憑き物が落ちていったような思いがした。

三枝仁史 四
 文化祭の準備もいよいよ大詰めを迎えたある日、縁日で出す出し者を決めるためのクラス会議をしている最中に、数人の女の子が手を挙げた。
 彼女たちの提案はこうだった。
 縁日ではなく、演劇をやりたい。
 どうやら、クラスの過半数がこれを支持しているようだった。こうした提案が出された理由は、何となく想像がついた。第二学年のクラスの大半が、飲食店、演劇など、意外と手の込んだことをやっていた。縁日をするクラスは、俺のクラスただ一つにとどまった。自分たちのクラスは、明らかに浮いていたのだ。それを痛感したのだろう。
「出し物の変更は、この段階ではもはや正式な形では認められないんです」
俺は皆にそう説明した。もっと早くに演劇の変更をクラスで議題に揚げて欲しかった。
 しかし、俺がそう言うと、クラスはざわつき、不満の態度を明らかにする。
 これだから人間って嫌いだ。乗っかるところは乗っかる癖に、大きな流れに乗っていないと知るや否や、軌道修正だけは必死で行う。集合して意思を結集した瞬間、アンパンマンみたいに皆一斉に頭が切り替わる。
「だいたい、決め方が悪かったのよ。もっとしっかり議論できるように、それこそお得意のディベートでもすればよかったんじゃない」
 完全な皮肉だった。よく見ると、化学室でかつて俺に喧嘩を売ってきた女の子だ。嫌味なまでに歪んだ半月のような眼をきらきらと輝かせ、俺の方を見ている。
 聞き捨てならなかった。上等だ。こちとら伊達に『国王』をやっていないんだ。直ちに臨戦体勢に入り、反論を考える。しかし、
(傍若無人なのよ)
 ふと、佐伯さんの台詞が蘇った。
 教壇で、隣に立っている佐伯さんの横顔を目にする。
 その瞬間、相手をなぎ倒さんばかりの数々の言葉を思いついていたかつての 俺は、しぼんで消え失せてしまう。
 言葉は、乾ききった喉元に張り付いて、とうとう出てこなかった。
「そっちの不手際もあるんだから、ちゃんと実行委員会に掛け合えよ」
 男子生徒が言った。
「どうしてもっていうなら、縁日組と演劇組に別れればいいんじゃない」
「そうしたら、俺、実行委員やるわ」
「あたしもー」
「演目は何にする?」
 皆が言いたい放題言い、俺は何もいい返せなかった。
 やっぱりか、と俺は思った。
 やっぱり俺じゃ駄目だった。
 クラスの底辺が、表舞台に立ったって、纏まるものも纏まらないんだ。
「国王様」
 小さな小さな声で、その言葉が、教室の喧騒の中を縫い潜るようにして、机の上を滑り、駆け上がり、教壇の上に立つ俺の耳元に届いた。
 もう、限界だった。
 がくりと肩が落ち、視覚も聴覚も、段々と感覚を失っていく。
 頭の中から、どうしてこんなところに立ってるんだよ、もう降りてしまえよ、ともう一人の自分の声がした。
 家に帰れよ。
 要らないんだよお前なんか。
 しゃしゃりやがって。
 インターネットでもやっていればいいんだ。
 何のつもりだったんだよ一体。
 霞んでゆく視界の中で、俺は高校二年生の最初のホームルームの時のことをぼんやりと思い出していた。
 何か、大きなことをして、クラスに貢献したいと思った。いつまでも腐っているんじゃなくて。インターネットに閉じこもっているんじゃなくて。
高校生初めての文化祭、クラスでいくつかゲームをお客さんと楽しむという企画が出された。俺は、そのクイズを作成する役割が与えられた。
 俺は、当時流行っていた「あるないゲーム」をもじったクイズを出すことを提案した。
『国王』の提案ということもあり、最初は皆乗り気ではなかったが、説得を進めるにつれて、段々と皆の賛同を得られるようになっていった。
クイズは大成功をおさめ、俺は皆に褒められ、お客さんにもとても楽しまれた。肩を叩かれて、「やるじゃん」と男の子に言われたのだ。
 その一言が、嬉しくて嬉しくて、俺はこれだ、と思った。
 もう一度、今度は皆と一緒になって、一つのものを作り上げたい。その手助けをしたい。
 いつまでも閉じこもっている自分なんて、も終わりにしたい。
 だから俺は、文化祭の実行委員に名乗りを挙げたのだ。そこにこだわった。
 初めて積極的に勇気を出した瞬間だった。
「文化祭を成功させる」。
 紙にマジックでそう書き、部屋に貼った。
 毎日眺めた。
 まるで遠い日を映し出す走馬灯のように、きらきらとした思い出だけが眼前を通り過ぎていき、全ての情景を見終わった途端、教室中の生徒が俺を見て、半笑いでいるような錯覚に陥った。
 やっぱり駄目だった。
 俺じゃ駄目なんだ。
 皆の無言の視線が、俺の頭をぐるぐると駆け巡る。
 すいません。
 議論が煮詰まっていなかった。
 演劇にしましょうか。
 そんな言葉を、口に出そうとした。
 そのときだった。
「うるさいな」
 佐伯さんの、静かな声がした。

佐伯晴子 五
「私達やっぱり、演劇をやったほうがいいと思うんですよー」
 見れば、あの日の女子生徒だった。
 さすがにしつこい。しかも今度はクラスを巻き込んでの攻撃だ。
 身勝手な事を言ってざわつく教室を見て、隣の三枝が何やら口を開きかけた。
 やってしまえ、三枝。
 あの日、彼女たちを蹴散らしたような、野放図な物言いを私は期待した。
 しかし、何故か、三枝の目は伏せられ、彼は唇をかんで黙ってしまった。
 眼鏡の奥で、伏せられた睫毛が、叱られた子どものように、小さく小さく震えていた。
 火喰い鳥のようなかつての勇猛な姿は、もう彼の中には見いだせなかった。変わりに、そこには、生まれたばかりのひな鳥のような、美しい弱さがあった。
 彼の細長い手が、ぎゅっとズボンを掴み、震えている。
 私は心が高鳴るのを感じた。
「うるさいな」
 気が付けば、声を出していた。
 目の端が、三枝の驚いた表情を捉える。
 しん……と教室が静まり返った。
 ああ? と女の子が気押されまいと苛立たしそうに気を吐く。
 私は気にせず続けた。
「演劇がやりたい。いいんじゃない。変更したけりゃ、文化祭実行委員会にちゃんといえば。今なら受け付けてくれるかもしれないよ。でも、その前に、三枝がやったこと全部、自分たちでやってよね。文化祭委員長への書類の提出。出し物の説明。他のクラスとの意見のすり合わせ」
 私は続ける。
「買い出し。近隣住民への挨拶。教室の飾り付けに使う資材の確保。毎週毎週の会議の出席。準備期間中の教室の戸締り」
 話しているとき、自分の顔が熱くなるのを感じた。
 教室で、夜遅くまで一人で書類を片付けている彼の、ひたむきな姿が目に浮かんだ。
 彼は、そんな努力を一切口にしなかった。いいところ沢山あるのに、自分を表現することとなると点で駄目な人。
 でも、見ている人はきちんといるということを、今、弱さを知った彼に、教えてあげたかった。
 弓折れ矢尽きても、その先で待っている人が、きっといるのだ。私はそう思う。
 今がその時だ。
 まるで初めて出会ったあの日の放課後を再現したみたいだと、私は内心で苦笑した。私と三枝が入れ換わっただけのような気がする。
 クラスを見渡す。
 沈黙がその場を支配して、皆は、気まずそうに顔を見合わせ始める。
「覚悟ができたら、言いにおいでね。待ってるから」
結局、女の子たちが来ることはなかった。

三枝仁史 五
 文化祭が始まり、準備の甲斐もあり、縁日は盛況に終わった。
 文化祭は、成功だった。
 残された教室の片付けも終わると、俺と佐伯さんへ、かつての衝突が嘘だったかのように、皆から色紙と、労いの言葉が贈られた。
とても朗らかな気分だった。
 文化祭が終わったその日、俺は、後夜祭で残ったクラスの皆と別れ、独り帰宅して、考えた。
 決めていたことがあった。
 文化祭が終わったら、佐伯さんに告白しよう。
 佐伯さんが俺を助けてくれたあの時から、決めていたことだった。
俺は、彼女に恋をして、弱くなった。でも、その弱さがなければ、きっと彼女をあれほど近くに感じられることもなかっただろう。弱さの中に、輝くような光があった。
 彼女はそれを教えてくれた。
 想いを伝えたい。聞いてもらえるだけでもいい。これ以上苦しいのは、耐えられない。
 俺は、机の引き出しから性欲減退剤をとりだすと、それをごみ箱へ放り投げた。

佐伯晴子 六
「伝えたいことがあります。今日、夜8時、学校の近くの公園で、待っています」
 三枝からのメールには、そうあった。
 多分、彼は、私に、想いを伝えるのだろう。
 三枝と過ごしたささやかな、しかし貴重な日々を思い出していた。
 ひたむきに頑張る姿と、見かけからは想像もつかない思考力。何もかも見通しているような、不思議な青年。何より、私を見つめる真摯な瞳に、魅力を感じた。
 悩んでいた。三枝のことを考えて、そのたびに彼をカテゴリーの外へ追いやってきた私がいた。けどそれは裏返せば、一人の男の人を好きになってよいかどうかで、真剣に悩んでいたということだ。少なくとも私と三枝との関係には、歴史があった。
 私は彼の誠実さが、大好きだった。
 それでも、私は思うのだ。
 彼の誠実さは、いくら考えても不確かすぎて、それに賭ける勇気が、どうしても、私には湧かなかった。男の人は、肩書きでは決してない。そう安易に捉えることの危うさを、私はお兄ちゃんから学んだ。けれども、誠実さだけで人を好きなるのは、同じくらい安易で、危険だと思った。彼のリスクを受け入れる勇気が、私には生まれなかった。
 彼のことは、大好きだ。
 でも、彼を男として信頼することは、できなかった。
 女にとって、恋と、信頼は、別なのだ。
 恋はできる。でも、信頼はできない。
 だが、これは、紛れもない恋だ。
 ディオニス王の恋。

三枝仁史 六
 公園で待っていると、佐伯さんがやってきた。
 緊張した面持ちでいる彼女は、もう、これから俺が何をしようとしているのかが、わかっているようだった。
 鼓動が高鳴り、佐伯さんの眼をじっとみる。
 ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、彼女は目を反らす。
 こたえた。でも、もう後戻りはできない。
「好きです。気持ちは、本当です。付き合ってください」
 柔らかな夜風が、二人の頬を撫でた。
 彼女は目を伏せて、こう言った。
「ごめんなさい。私、君とは友達でいたい」
 時間が止まった。
 どうしようもない喪失感と、もう終わってしまったという空虚な思いに流されまいとして、俺は笑って言った。
「そう、ですか」
 精一杯冗談めかす。
「参ったな」
 佐伯さんも、こちらに合わせて、困ったような微笑を浮かべる。
 最後に、聞いて欲しいことがあった。
「僕、女嫌いなんですよ。本当は」
 怪訝そうな様子の佐伯さん。
「男を、ステータスで選ぶから」
 だって、そうでしょ、佐伯さん。あなただって、すっごく男の肩書気にするじゃないですか。結局あなたは、俺じゃあ不安だったんだ。
「僕、肩書ないです。頭良くないし、運動できない。ルックスもない。でも、想いだけで、正々堂々と勝負することにしたんです。本当の恋愛ってそういうもんだと思うから。正面切って告白して、それで駄目ならすっきりするだろうって。でも、こういう正直な想いを、女の人って割と足蹴にしますよね。やっぱり佐伯さんも、変わらなかった。見込み違いでした。けど、今では、それでもいいと思ってます。そんなもんなんだろうと。そうやって経験を積み重ねていって、男になるんだと。あなたはそういう経験をくれた。よかった。恋をしてよかった」
 晴れやかな気分だった。
 感情の芽が、花開いたような、新鮮な心地を味わった。それもこれも、彼女がいたからだ。
「じゃあ、さよなら」
 鞄を持って、公園を出る。
 背中越しに、彼女の声がした。
「君は、私のどこが好きなの」
 俺は、振り返った。用意していた台詞を吐く。
「一緒にいて楽しかったから」
「どういうこと」
「俺に相談してきてくれたこと。一緒に悩めたこと。そういうの、何ていうか、説明に困るけど」
 言葉に詰まった。本当のところは、そうじゃない。でも言葉を紡いだ。まるでせかされるように、用意していた言葉を。
一目惚れだった。
 そんな浅はかなこと、大切な人に向かって、言えるわけがない。
 けど、佐伯さんはそんな俺の考えを見透かすかのようにして、言い放った。
「どうせ、あなたも、あたしの顔が好きなんでしょ」
「どうせ」という言葉が、悲しそうに響いた。
 まあ男の子だから仕方がないにしても、と佐伯さんは続ける。
「君だって、女嫌いとか言っておいて。ただ単にきれいな女の子しか、女の子のカテゴリーに入れてないだけじゃない。器量に恵まれない女の子はあなたの中にいるの? いないでしょ。それって、女嫌いなんじゃない。きれいな子にモテないからっていう理由で、きれいな子が嫌いなだけよ」
 彼女は言い放った。
「だいたい、見込み違いだとか、男として大きくなれたなんて、そんな言葉、自分の小さいプライドを守るための逃げ口よ。つまらない女性観しか持ってないあなたに、そんな台詞いう資格ないわ」
 頭を後ろから思い切り殴られたような衝撃がして、徐々に、全身から体温が奪われていく気分を味わった。まるで空にもう一人の自分がいて、佐伯さんと自分のやりとりを見ているような、現実感のない思いに囚われた。彼女の意思の強い瞳が、じっと俺を見据えている。
 彼女に嫌われたというショックなんかより、今まで生きてきた中でずっと隠してきた自分の全てを、その双眸に見透かされている、絶望的な羞恥心で心がいっぱいになった。返す言葉など、どれだけ探そうと見つからなかった。
 そうだ。たしかに俺は、綺麗な女の人しか、女の人のカテゴリーに入れてなかった。情けない自尊心を埋め合わせるための、コマとして女性を見ていたんだ。
 しかも、そんな情けないことを、一番好きな人に、一番大切なときに、暴かれた。
 罰が下った。
 身体中の水分が喉に、口に、鼻に、眼に、せり上がってきて、顔をちょっとでも動かしたらもう、溢れそうだった。
「ちょっと」と佐伯さんが慌て出す。
 死ぬほど綺麗な、佐伯さんの眼が、見れば見るほど可愛らしくて、美しくて、こんなに近いのにとても遠い。
 そうだ。その顔が、どうしても、俺は好きだったんだ。大好きだった。
 窓から景色を眺める睫毛も、なだらかな曲線を描く眉も。
 見るだけで、白黒だったつまらない学校という世界が、色鮮やかに蘇ったんだ。
 愛らしく開く眼も、ふっくらとした唇も。
 むごいくらい美しく、かすかに薫る漆黒の髪の毛も。
 何もかも俺とは違う。
 朝起きて、君のことを考えて、もうそれだけで幸せなんだ。
 自転車に乗って、今日はどんな佐伯さんに会えるんだと思うだけで、幸せになれたんだ。
 君が笑うのを見るたびに、俺は最高の気分になれたんだ。
 全部好きだったんだ。
 美しいから、好きだった。
 俺にあるのは、瓶底のめがねに、まとまりのない髪の毛に、みっともない顔。それだけなんだ。恥じることもなく、今、唇を震わせて、君の前で立ち尽くしている。
「俺を振った理由。あるでしょ他に」
「何、それ」
 佐伯さんがひるんだ。
 でも、もう押さえられなかった。
 いろいろと理由を付けたって、恋愛なんてもっとシンプルなはずなんだ。
 どうして俺だけこんなに惨めな想いを味わわなきゃいけない?
 答えは明白だった。
(近寄るんじゃねーよ)
(てめぇが死んじまえ)
(身分をわきまえたら?)
(国王様)
 小さい頃から、今まで生きてきて味わった、全ての辛い経験が、今この瞬間、一挙に俺の背中に押し寄せて、ぼろぼろと憚りも無く涙を流させる。
 とうとう、俺は叫んていた。

佐伯晴子 七
「俺の顔が悪いからだろっ!」
 三枝は、顔を真っ赤にして、涙を浮かべて私に大声で喚き散らした。
「俺の、顔が、悪いから振ったんだろっ!」
 開けた、そんな感じがした。
「そうだろ、顔さえよければ! こんな、さびしい、惨めな想いせずに済んだんだ! 友達だって、たくさん出来たんだ!」
私の心が、ぎゅっと締め付けられ、お腹の底から血液が、静かに湧き上がり、遡り、顔が火照ってゆくのを感じた。
「ちょっと……待ってよ」
 言葉は震えた。残った冷静さを必死でかき集め、かろうじて出た言葉はそんなもんだった。
「顔さえよければ! 自分を種無しにしようだなんて、むごくて悲しいこと思わなかったんだ! クラスだってもっとしっかりまとまれたんだ!」
 心臓を鷲づかみにするような、切ない衝撃を覚え、身体が震えた。
「顔さえよければ! 顔で女性を判断するなんて、情けないことしなくて済んだんだ! 『国王』だなんで無様な呼ばれ方しなくて済んだんだ!」
 三枝が、身体をくの字に折り曲げて、力の限り叫ぶ。勢いで、眼鏡は地面に落ちた。
 目の前で、泣き喚く男と、眼が合った。
 瓶の底のような眼鏡が取り払われた彼の目を、私はこのとき初めてきちんと見据えた。泣いているせいで、切れ長の眼がさらに細く、線を描いていた。その眼から、幾つもの大粒の涙が溢れ、月夜に照らされ、彼の頬をただ優しくぬらしていた。意地も自尊心も全てを脱ぎ捨てて、情熱さと臆病さの交じり合った、複雑な色彩に、彼の双眸が染まっていた。
 初めて、彼のことを、美しい、と思った。
「君じゃなきゃ駄目なんだ!」
 ごほっと彼は咽びながら叫んだ。眼をごしごしとこすりながら続けた。
「君のためだったら死んだっていい! なのに、なんで伝わらないんだ! 俺にだって許されていいだろ! 自由じゃないか! 何で俺だけ駄目なんだ! こんなに好きなのに! こんなに大好きなのに! 顔さえよければ! 頭がよければ! スポーツマンだったら! 畜生! 絶対幸せにしてあげるのに! 何回死んだっていいのに! スタイルが良ければ! モデルみたいだったら! あなたと釣り合うくらい、いい男だったら!」
 言葉の一言一言が、私の心に突き刺さっていった。
 三枝が最後に咆哮した。
「君のことが、好きで好きでたまらないんだよ!!」
 こんなの、反則だ。私は何とか言葉を紡ぐ。
「お、落ち着いてよ」
 そう言って私は手を差し伸べた。
「うるせえ!」
 彼が、私の胸のあたりを、力いっぱい突き倒した。
 咄嗟に自分の口から出た、はっという吐息が、変に色っぽく聞こえた。私はそのまま後ろに倒され、無防備な体勢で、地面に尻餅をついた。傷つけられているのに、奇妙な快感が、身体の中に生まれた。
 私と三枝の視線がぴたりと合い、私にはもう、彼の眼しか映らなかった。
 しかしそんな私の思いも知らず、彼は呆然とした表情で、自分の手を、罪で汚れたかのように、見つめていた。
 私はそんな彼の姿を見て、また、くすぐられるような切ない感情を抱き、呼吸が浅くなった。
 傷つく彼を見るのが、たまらない快楽であることに気付いた。
 彼はうなだれたまま、鞄を取り、「帰る」とつぶやいて、公園を出て行った。
 私は、去ってゆく彼の背中を見つめていた。
 彼の情熱がそのまま烙印として押されたかのように、彼に強く押された左の乳房は、まるで別の生き物みたいな熱を帯びていた。その痛みにも似た感覚を大事に慈しむように、私は胸に手をあてていた。
 そこで、自分が呼吸するのを忘れていたことに気付いた。
 辺りには、誰もいない。ただ、鈴虫が奏でる優しい鈴の音と、月の光が、彼のいた場所を包んでいた。
 その空間に触れるようにして、私はのろのろと立ち上がり、彼が生んだ涙の湖にまで近づき、吸い込まれるようにしてそれを感じていた。
 君のことが好きで好きでたまらないという美しい言葉が、夜の秋風と交じり合って、私の身体の、細胞のひとつひとつにまで染み渡り、暖かい気持ちを灯していった。
 ずっとこのままこうしていたいと思った。たった一人私のために、意地も見栄も何もかも捨てて、泣きながら求めてくれた彼の、小さく震える姿が、愛しかった。
 私は口に貯まっていた塩辛い唾液を、ごくりと飲み込むと、未だ感覚の戻らない手足をひきずって、その場を離れた。
 切なさは香りのように鼻腔をくすぐり、やがてむせ返るほど大きくなった。
家に帰っても、止まることはなかった。

三枝仁史 七
 夢を見た。
 テレビでよく見る不細工さが売りの女。大きな鼻に、潰れた目。顎はしゃくれていて、人前で転んで笑いを取るような、そんな女だ。
俺は彼女に腕を取られ、引っ張られる。それに必死で抵抗し、すぐ隣に立つ佐伯さんの元へ駆け寄ろうとする。
「邪魔だ!」
 手にした斧を、強く女の顔めがけて振り下ろすと、ざくりと嫌な音を立てて斧が突き刺さり、女の顔から血が噴水の如く吹き出た。やがて、大きな音を立てて、彼女は地面に倒れる。
 これで安心、俺は佐伯さんの方に向きおなると、そこにいたのは佐伯さんではなく、倒したはずの女だった。
 彼女はつい、と目の前に血まみれの顔を寄せ、呼吸が俺にかかるくらいにまで接近する。
 その醜さが、耐えられなかった。
 やめろ。お前と同じ階級にいたくない。認めたくない。
 緊迫した雰囲気の中、女はこめかみに指を添え、自分の顔を覆うようにして手をあてる。まるで、仮面をはずすときみたいに、彼女の顔は呆気なく外れた。
 俺は息をのんだ。
 中から出てきたのは、ぼさぼさの髪の毛に潰れたキツネ目、こけた頬の貧相な男。
 悪魔のように、耳元でこう囁いた。
「受け入れろよ。自分の顔だろ?」

 そこで目が醒めた。
 もう秋だというのに、まるで真夏の夜を過ごしたように、寝汗をぐっしょりとかいていた。
 恐ろしい夢だった。
 しかし、今の自分を反映しているような気がして、妙に笑えてしまった。
 俺は階下に降りて、冷蔵庫から烏龍茶をとりだし、気持ちを落ち着けるようにして飲んだ。
 振られるのが、これほど辛いとは。
 眠れるわけがなかった。
 美人だから、好きになる。何故か。きっと綺麗な子どもを産んで欲しいからだ。子どもだけには、自分と同じように、容姿のことで、辛く苦しい想いを抱いてほしくないからだ。
 俺はそこで、うっすらと笑った。
 自分の身分をわきまえず、綺麗な女と結婚して、社会的階級を少しでも上げようとするその本能は、素直なのは結構なことだ。
しかし、不釣り合いな審美眼の他には何も持たない癖に、想いだけでどうにかなるという青臭い分不相応さがそこにはにじみ出ていて、振り返ってみると不快極まりなかった。
 正直さというのはある意味、自分のことしか考えていないことと同じだ。
 振られて当然だった。
(綺麗な女性しか女のカテゴリーに入れてないだけじゃない)
 彼女の声が、遠い彼方から聞こえた。
 もう終わったのだ。
 終わった。
 そんなことをいつまでも考えながら時間を過ごし、気が付けば、朝だった。
 俺は鞄を持ち、家を出た。自転車に乗ると、学校へ出発する。
(顔が悪いから振ったんだろう!)
 眼前を駆け抜ける晩秋の風景の中、ぼんやりと昨日のことを考えていた。ペダルを漕ぎながら、登校時刻が迫っていることを確認して、脚に一層力を込める。
 俺は彼女に暴言を吐いた。一切合切を吐いていた。激情に駆られて、暴力まがいのことまでしでかした。
 彼女はきっと、怒っているだろう。顔も見たくないかもしれない。
 いや、それでもいい。つべこべ言える立場にはもういない。
 せめて、最後に一言、謝りたい。
 そう思った。
 
佐伯晴子 八
 夢を見た。
 付き合ってください、と這い寄ってくる三枝を必死で振りほどく。
「あたしの顔が目当てなんでしょ!」
 渾身の力を込めて、手に持った棒で彼の頭を殴った。
「だったらそれに見合うだけの立場を手に入れてみせてよ!」
ぐほっという嫌な音を立てて、彼は上体を曲げた。
「まずは東大に入れ!」
もうひと振り、頭をめがけて棍棒を打った。
「次に、電通に入社しろ!」
 左のこめかみのあたりを狙って、横殴りにする。
「家は三階建て! 青山一丁目がいい!」
 殴る。
「子どもは二人欲しい! 男と女、二人!」
 殴る。
「男の方は、東大医学部に入れる!」
 殴る。
「女の名前は、晴子がいい!」
 そこまで言って、はたと棍棒を持つ手を止めた。
 私は横に浮いていた鏡で、自分の顔を見た。
 瞼は腫れあがり、垂れ下がり、目じりにはいくつもの皺が刻まれ、顎は二重で、白髪交じりの乱れた髪の毛をした、醜い女性が映った。
お母さんの顔だった。
 私は悲鳴を上げて、棍棒を手放した。
 呆然としているその先で、とうとう三枝が力尽き、その場に倒れ込んだ。
倒れたそれをよく見てみると、それは三枝ではなかった。長い髪の毛にすらりとした長身、大きな眼をした女性。
 私。
 血まみれになった私は、のろっと立ちあがると、呆然と立ち尽くす、母の姿をした私に向き直る。
 そのまま後ずさりする私の方へ歩みを進めると、途中、落ちていた棍棒を拾った。
 私の後ろには、壁が立ちふさがり、とうとう追いつめられた。
 私は、私に向かって、棍棒を目いっぱい振り下ろした。
「お前が東大に入れ!」
 振り下ろした。
「お前が医者になれ! 弁護士になれ!」
 振り下ろした。
「お前が年収3000万円稼いでみろよ!」
 痛い。
 痛い。
 晴子、お願い、やめて……。
 私は、あなたの、幸せを思って……。

 そこで眼が醒めた。
 動悸が止まらなかった。
 しばらくベッドの上で考え、病んでいるな、と苦笑した。汗で濡れた額をぬぐう。
 私は部屋を出ると、階下の冷蔵庫を開け、烏龍茶を飲んだ。
 飲みながら考える。
 私が男性の肩書にかける想い。三枝が私の容姿にかける想い。どちらも本質は同じだ。
(どうせ、君も、私の顔が目当てなんでしょ)
 今まで付き合ってきた男に対して、ひそかに抱いていた、軽蔑の本音だった。
 しかし、こうも思う。容姿を求めてやってくる男の人を、どこか軽蔑した目で見てしまうのは、自分たちだって、男性を選別していて、その行為に対するやり場のない嫌悪感を、本当は薄々感づいているからではないのか。その感覚が、男性に投影されて、噴出する。夢の中で三枝にあれほど辛く当たっていたのは、きっとそういう理由からなのかも知れない。
 私は、男性を肩書で選ぶことに対して、心の底では、やはり納得していない、のか。
 じゃあ、だからといって、こんな一時の感情で、三枝のことを将来まで愛せるか? わからない。
 恋愛は二つの立場で成り立つ。自分の愛を捧げる立場の人と、他人の愛を受けいれる立場の人。後者は、言ってみれば妥協する人だ。どんな恋愛も多分これに帰着する。
 全く方向性の異なる恋愛観を持つ、他人の愛を受けいれる途を歩む。地位や名誉、自負心を離れた、ただ、誠実さだけが織りなす愛の中を、私は生きて抜くことができるのだろうか。
 これまでの恋愛は違った。私は美、相手は社会的地位、安定。どちらも社会に通用する価値を差し出し合う恋愛だった。そこには安心があった。しかし、今回の恋愛は違う。周囲に誇れる価値が、三枝の中にあるわけではない。安心ではなく、人に賭けるということを私は試されているのだ。安心と、信頼は、別なのだ。不安の闇の中で、それでも人に賭けることを、信頼するというのかもしれない。
 彼が私に与えてくれるもの。それは、私の気持ちを汲んだ言葉を言えるということ。真剣に考えてくれるということ。プライドというプライドを脱ぎ捨てて、「顔が悪いから振った」などと子どもみたいに泣きじゃくることになってでも、私を求めてくれるということ。
 私だけが見出せる、彼の価値は、たしかにそこにある。
 それは、お父さんとお母さんの恋愛には、ないものだった。今まで私が経験してきた恋愛にも、ないものだった。
 魅力的ではあった。しかし、未知の世界は、いつだって、恐ろしい。
 私はため息をつき、鏡の中の自分を見た。
 だからといって、お母さんの言うとおりにして、お母さんと同じような生き方を模写するのも、違う気がする。盲目である幸せ、そんなものの何がいいのか。人間の魅力というものの考え方を、変える時が来たのではないか。
 よく考えてみれば、彼の細い目は大好きだ。その中に詰まったいろいろな感情が、手に取るようにわかってしまう。それはまるで万華鏡を見ているような楽しさを与えてくれた。
 髪の毛を切って、眼鏡も外して、あの眼をもっと私に見せて欲しい。あとは、ちょっと格好に気を付けてくれれば、背も高いわけだし、一緒に歩いていてこちらが引くことはあり得ないだろう。
 恋愛は、中身だ。そこを起点に考えないといけない。
 私は自分に言い聞かせるようにして、頷いた。
 ただ、彼と向き合うその前に、ひとつだけ、やっておかなければならないことが、あった。
 お父さんとお母さんの問題。

三枝仁史 八
「こないだ友達とゲーセン行ったんだけど」
 弁当のウィンナーを箸でつまみ、友達は言った。
 昼休み、一人で購買のパンを食べようとしたら、「一緒に食わない?」と声を掛けてくれた友人が、二人いた。俺は驚きながらも、「いいよ」と、机をあわせた。
 柄にもなく、興奮してしまった。
「クイズのゲームをやっててさ。アニメの問題が出たのね」
 俺もそのゲームのことについては知っている。流行のゲームだ。
「その問題がさ、たしか文化祭のとき、うちのクラスがやったクイズゲームで、誰かが出題したのと全く同じだったんだよ」
「誰かがそのゲームを真似して出題したのかな?」
 俺は素直な疑問を口にした。
「そうかも。ああいうのっていいのかな?」
前にネットで調べたことがある。たしか著作権の話だ。小規模の範囲で、私的な目的で楽曲なり創造物を利用したり複製したりするのはよいのだが、規模が大きくなると、作者の許諾を得ない限り、法律違反となるのだった気がする。今回の場合は、文化祭という規模の大きなイベントで利用したことになるわけだから、ゲーム制作会社の承諾を得ない限り、アウトだろう。
 あちゃあ、と思ったが、しかしそんなこと混ぜ返しても野暮だと俺は思った。クイズを模倣したその彼も、問題が面白くて、どうしても出題したかったのだろう。その気持ちはわからなくもない。
「お金取ってないんだし、まあ、大丈夫だと思うよ。きっと、大目に見てくれるよ」
 自然と、そんな言葉が口をついた。
「へえ、やっぱそっか」
 友達は、二人とも、ほっとした表情を見せた。俺たちは笑い合った。
 真面目さと不真面目さの間で、どちらに身を置くかの調節が俺はできなかった。しかし今となっては、肩の力を抜いて、周囲と歯車を合わせるコツが、何となくわかった気がする。
 人と過ごす、何気ない日常が、こんなに暖かいものだったなんて。俺にとっては新鮮な驚きだった。佐伯さんとの出会いで、初めて真剣に人のことを考え、そうしてようやく手に入れた、一つの成果だった。
 そんなことを考えていると、誰かに肩を指で叩かれた。
 振り返ると佐伯さんが立っていた。
 俺は驚きのあまり、喉にパンを詰めらせる。
「ちょっと、大丈夫?」
 友達が二人とも驚いて、俺と佐伯さんの両方をまじまじと見つめていた。
憂いを帯びた目を互いに交わし、気まずそうに通り過ぎる、などというような劇場的な雰囲気とはかけ離れた、実に恰好悪い再会となった。
「話したいことがあるんだけど、ちょっといい? あ、友達とご飯が終わってからでいいの。放課後でもいいよ」
 俺もあった。友達の方を見る。
「あ、いいよ俺らのことは気にしなくて」
どうしよう。なんだか究極の選択のように思われたが、散々悩んだ俺は佐伯さんの前で手を合わせた。
「放課後また会いませんか? ゆっくり話したいし」
 彼女はにっこりと笑って、全然いいよ、と答えてくれた。
 彼女が去ってから、
「別によかったのに」
 と友人は漏らした。
 俺は首を横に振った。彼女はこれくらいのことで気分を害するような人じゃない。
「佐伯さんと仲いいの?」
「うん、まあ仕事一緒にしてたから」
「佐伯さんっつったらお前、東高の四天王だよ。B組の山崎、C組の佐伯、D組の田中、E組の花村」
 俺は笑った。
「何だよそれ」
「俺、田中さん」
「俺は絶対、山崎さん」
 じゃあお前は、という目線がぶつかったので、俺は、
「じゃあ俺、佐伯さん……」
 言葉にして、心の中を誰かにくすぐられるような思いがした。ああ、やっぱり俺、まだ彼女のことが好きなんだ。そうやすやすと、忘れられるわけもないのだ。
 話って、一体何だろう。ひょっとしたら、俺の気持ちを受けいれてくれるんだろうか。そんなわけないか。いやでも万が一のこともあるし。どっちなんだろう。
 わからない。
 友人は、急に黙りだした俺を見て、いたずらっぽい笑いを隠すことなく、「まあ一緒に仕事をしていれば、なぁ」と訳知り顔で頷き合った。
「そういえば、お前なんで敬語だったの?」
 もう一人の友人が言った。
「何か、緊張するじゃん。女の人の前って」
「あ〜、何かわかるかも。けど逆に変だよ」
 そうかな、と俺はつぶやいた。よかれと思っていたけれど、意識しすぎるのも問題なのかもしれない。
 昼休みが終わるチャイムが鳴った。
 佐伯さん、思いつめた様子だった。何の話だろう。
 協力できるなら、したかった。

「すいませんでした」
 夕方、放課後の屋上には、天文部だろうか、数人の生徒が望遠鏡を設置して何やら話し合いをしていた。
「女の人が嫌いだの、自分のこと棚に上げて勝手なことを言ってしまって」
「親が、離婚しそうなの」
 突然、佐伯さんは、軽やかに言った。
「ごめんね、変なこと言って」
 俺は、かぶりを振った。
「お父さんの浮気なの。お母さんに嫌気が差しちゃったみたいで」
 彼女は続けた。
「前にも言ったかも知れないけど、うちのお母さんね、とにかく、男の人のステータスだとか、社会的地位にうるさいの。同じ女だし、それは何となく理解できるわ。でも、お母さんが今立たされている壁も、そういう割り切りから来ている気がするのね」
 恋愛は、肩書か、中身か。俺は、中身だと言い張った。彼女は、肩書だと主張した。
「お兄ちゃんは、お父さんの気持ちもわかるって言ってた。ステータスで選ばれると、悲しいって。高校生のときの恋愛が一番ピュアで美しいって。でも、私、それもある種の気持ち悪さを感じたわ」
 思ったのはね、と彼女は続ける。
「男の人って、母親から、無償の愛を学ぶんだわ。だから、女の人にも無償の愛を求めるの。お兄ちゃんみたいにね。でもね、女の子が母親から学ぶものって無償の愛だけじゃない。少なくとも私は、母さんから、愛は無償じゃないってことを学んだ」
 母親の、洗い物をしている背中。料理をしている背中。老いてゆく姿。
俺は目を閉じて考えてみる。洗いもので汚れる手。料理で汚れる手。男が金を手に入れるために汚す手の、その汚れ方とは全く違う、「生」に結びついたリアルな汚れをそこに感じた。たしかに、佐伯さんの目からみた母親の背中には、男には解らない、生活のリアルさが滲んでいた。いつかあなたもしなきゃいけないのよ、そう母親の背中は語る。日々老いてゆく母親の姿。生理を打ち明けた時の、母親の眼差し。そうした経験をくぐりぬけて、女の子は育つ。男には伝わることのない、「生」のリアルさを独り噛みしめながら。
 そこで初めて、男性と女性の持つ恋愛感の違いが、自分の腑に落ちた想いがした。
 母の愛によって、男は愛を無償のもの、つまり幻想として捉えるようになる。だから女性の美しさに目がいくのではないか。逆に、女は愛を生活に近い形で捉える。生活のリアルが感情にも滲む。だから肩書に目がいくのではないか。
 引きこもり、ニート、掲示板に溢れる書き込み。女性を信用できないディオニス王たちは、現実主義者の女性を、社会に進出するようになった女性を、婚活に必死な女性を、烈火のごとくこき下ろす。その反面、ドラマの女優やアイドルに、強烈に熱狂する。
 しかし彼らはわかっていない。そういう営みは、母親という女性のお世話になりつつ、母親に欠けた「美しさ」を追い求める行為に他ならないことに。要するに、無償の愛をただひたすら貪るだけなのだ。これが彼らの愛の形なのだ。
 だが、それは、リアルと向き合い生きてきた女性が描く愛の形とは、永遠に折り合わないのだった。
 やがて彼らも現実の女性に触れ、しかし女性に拒絶されるときが来る。女性のイメージに盲目になることを恋と勘違いして、リアルに対する無理解をさらけ出すディオニス王たちを、女性は、およそ本能的なレベルで察知し、拒絶する。
 当然のことだった。その拒絶は、ディオニス王たちが初めて触れることになるであろう、貴重な女性のリアルだ。
 ところが、ディオニス王たちはそんな貴重な経験すら、女性を嫌うための理由にしか昇華できず、愚かにもより一層、女性のイメージだけを追いかけるようになる。その青臭さを、女性から察知され、ますます女性に嫌われることになる。そうすると、ますます男はイメージを求めるようになる……。
悪循環だった。
 これがおそらく、佐伯さんのお兄さんに起こっていることだろう。彼は、高校生の愛が真実だと思っているあたり、女性のイメージ、幻想にしか目が向かなくなってしまっている。母親の愛情に浸かりすぎているのだ。
 人を信頼しないという危険は、女性にもあてはまる。佐伯さんのお母さんは、安心と信頼を履き違えるという失敗を犯した。地位で安心できても、人を信頼しようと努力はしなかった。肩書を求め、感情は後からついてくるとタカを括った。信頼を見出す歴史を見過ごしたのだ。
 結果として、夫に虚無感を与える羽目になる。また、一度の浮気、つまり相手のリスクを、絶対的な裏切りとしてしか捉えることができなくなっている。
佐伯さんのお父さんは、どうだろう。
 幻想に盲目して女性を選び、妻から与えられた虚無感に今さらながら打ちひしがれ、現実に耐え切れず、幻想を再び追い求めているのだとしたら、彼もまた、ディオニス王を抜け出せなかったということになろう。
結局みんな、ディオニス王の恋に、おぼれていたのだ。
 俺はどうだろう。
 恋愛は肩書ではないなどと吠えている俺も、同じようにディオニス王だ。
女性がステータスを求める理由。
 金に目がくらんでいるから?
 生き汚ないから?
 楽をしたいから?
 違うのだ。そういう捉え方からしてすでに、哲学が足りないのだ。
 それは、母親が娘に与える愛情を――男に向けるのとはまた一味違った愛情を――素直に受けるが故の、連綿と受け継がれて来た本能なのかもしれなかった。生きてゆくためにしなければいけないことを、見せつけられてきた女性の、本能。
 ステータスを身につけることは、女性に対する屈服ではないのかもしれなかった。それは、母親から、女性の幻想から、離れることを意味すると同時に、女性のリアルな生き方に、男性として応えることを意味する、と言えるのだろうか。
 肩書。
 いい大学を出て、いい会社に入る。
 できるのだろうか、俺に。
 わからない。
 しかし、佐伯さんに想いをぶつけることに比べれば、どんな試練だって、辛すぎることはないはずだ。
「三枝君?」
 そこで、俺は現実に引き戻される。
「あ、ごめんなさい」
 彼女が、くすりと笑う。
 俺は、これまで考えてきた全てのことを思い返す。
 そして、それらを呑み込んた。
「もう、決めているんですよね。どうするか」
しっかりとした考えを持った、彼女のことだ。きっと、俺がこれ以上言ったって、蛇足だろう。
 それは、信頼だった。
 予想通り、彼女は頷く。
「私、二人に離婚しないように、言うわ」
 俺は腕を組み、頷いた。
「そうですか」
 彼女の横顔を見ながら、続ける。
「自分の気持ちだけは、後悔しないように、伝えてくださいね」
 佐伯さんは、そこで顔をあげ、俺の目を見た。
 綺麗な横顔に、夕陽が差し込み、俺はつい、目を細めてしまった。
 そういえば、彼女と初めて出会ったのも、夕日の照らされた化学室だった。
 こんなに夕陽がよく似合う女性は、世界中を探しても、彼女だけだろう。
「告白してくれて、ありがとう。……嬉しかった。」
 彼女は目を伏せた。
「髪の毛切って、コンタクトにしてみたら。私、そっちの方が好き、かも。じゃあね」
 彼女は、屋上から出ていった。
























 ? 

 最後、何て言ったんだ?

 告白されて嬉しかった? 言ったよな? 言ったよね?

 俺は、記憶の海を必死でまさぐり、数秒前に起こった出来事を反芻した。
 うん。確かに言った。
 つまり、どういうことだ?
 すぐ脇にあった窓には、自分の顔が、映っていた。
 そういうことでいいのか?
 蛇のように伸びきった髪の毛。
 キツネ目に、こけた頬。
 そういうことでいいんだ!
 気付けば俺は、拳を振り上げて、天高く、夕陽に向かって喜びの声をあげていた。
「うおおおぉぉぉッッッ!!!」
 がちゃん、と音がして、見ると天文部の望遠鏡が崩れ落ちていた。
 何事かという表情の天文部の人たちと、視線が合った。

 佐伯さん、頑張って! 

佐伯晴子 九
「私たち、離婚するから」
 生まれて初めて、親の傍に居て息が詰まるほどの圧力を感じた。重苦しい空気が、リビングを取り巻いている。
 父さんと母さんはテーブルについていて、印の押された離婚届を二人でじっと見つめていた。紙っぺら一枚のくせに、離婚届はまるで一筋のスポットライトを浴びているかのように、その存在を浮き立たせていた。
「お父さんが浮気したから?」
 そうよ、と母さんは言った。父さんは無言だった。そうか。
 こんなやり取りをみていると、恋愛って何なんだろうと思う。昔一途に恋した者同士じゃない。
「慰謝料と、養育費は、弁護士を通じて後日請求させてもらうことにしてあるわ」
 母さんが、私と父さんの二人に言った。
「本当に離婚するの」
「当たり前でしょ。この人が何をしたか、あとでたっぷり聞くといいわ」
「バツイチになるじゃない」
「バツイチでも、お母さんだって職場で新しい人を見つけるわ」
 まるで父さんが目の前にいないように、母さんは言い放った。
「なんで結婚なんかしたの」
 私は言った。
「お母さん働いてるんだし、一人でも生きていけたはずじゃない」
「子供が欲しかったのよ」
「一人で産んで、一人で育てればよかったじゃない」
「非嫡出子に対する風当たりは、制度的にも、風土的にも冷たいの。それに子供は父親の不在ですら心を痛めるもの。いい、結婚は日本が定めた制度なの。乗らない手はない。結婚しているだけで、子供が育てやすくなるよう、国が援助してくれるのよ」
 三枝の顔を思い出した。彼ならどういうだろう。
「別に必要不可欠ってわけじゃないでしょ。それじゃまるで、結婚制度と結婚してるみたい」
「世間の目はどうなるの。シングルマザーっていうだけで偏見に満ちた目で見つめられるのよ。それにね。職場は男性社会で、とてもじゃないけど女性が一人で働いて身が持つようなところじゃないの。セクハラ、パワハラ、くだらない偏見、有能な女性への嫉妬。女性っていうだけで、くだらない男達の相手をさせられて、鬱になって倒れていった有能な知り合いを、私は山ほど見てきたわ」
 男ってのはね、保険なのよ。そんなことを母は言いたそうな口ぶりだった。本音が出ていた。
 保険で結婚して、私を産んで、相手が浮気したから別れるなんて、それじゃあ子供の気持ちはどうなるの。私の気持ちはどうなるの。離婚なんてして欲しくなかった。家族はみんな揃っているから、家族なんじゃない。
 三枝の顔を思い出した。空気も読まずに、正論ばかり言っていたかつての彼の顔を。彼の魂が、私の気持ちを後押しする。
「結局、母さんは、結婚と結婚していただけだったって自白しているのよ。社会に通用する価値しか男の中に見出してないじゃない。お母さんだけが見出せるお父さんの価値って、どこにあるの。それがわからないのって、自分がどんな人間なのかがわかってないって告白しているのと一緒だと思う」
 母は私を見据えた。とても悲しい表情をしながら。
「いいでしょ、最後なんだから。私にだって言いたいこと言わせてよ」
 最後なんだから。そう、今日は家族最後の日なんだ。父さんと母さんと、皆で遊園地に行った幸せの日を思い出して、私は溢れ出す涙をこらえた。
「今の自分に何が足りないのかがわからない。わからないからとりあえず最大公約数を取る。父さんも母さんも、最大公約数を取り続けて生き抜けることが、できてしまった。それってすごい不幸だわ。だから、あなたたちにとって、異性は記号でしかなくなっているの。条件があえば誰でもいい」
 父さんに肩車をしてもらって、いろんなところへ出かけた日のことを思い出した。鮮やかな朝日も、燃えるような紅葉も、荘厳な音を立てて流れ落ちる滝も、隣でそっと微笑む母さんの顔も。全て、今日で最後だった。本当は全てが揃わなきゃいけないはずなのに。
「そこに気付いた男性が、一体どんな行動を起こすと思う。性欲の発散なんかじゃ片付けられない。問題はもっと複雑よ」
「晴子」
「私、お母さんのおかげで、いい恋愛を沢山させてもらったわ。生活のために合理主義を採らないといけないことも、教えられたわ。でも、お母さんは、格好よく合理主義を貫くくせに、浮気をされて傷ついて離婚したいだなんていうじゃない。あなたの合理主義は一体どこへ行っちゃったの。男性の性欲ぐらい、他の女性で満たさせてあげればいいじゃない。こちらのほうが、よほど合理的でしょ」
 母さんは、ずっと黙っていた。
「ねえ、お母さん。お母さんから美しさという記号を取ったら、何が残ったの。キャリア。それって男の人をひきつけるもの? 少なくともそうは思えない。頭の良さ。それも男の人が求める魅力じゃあないわ。それって全部、一人で生きていくための能力よ。二人で生きていくための能力は? 何もないじゃない。何もないわ。何もなくなるのが怖くて、お父さんと結婚したのよ、あなた。でもお父さんから見たお母さんだって、何もない人であることに変わりはないわ。あとは、繰り返しよ。この先どれだけ男を変えたって、あなたが変わらなかったら、同じ結果を迎えることになるわ」
 私はお父さんの方に向き直って言った。喉は枯れ、声はかすれていた。鼻の奥は痛苦しくなり、身動きをしたら、もう涙腺が決壊しそうだった。
「父さんだって、同じよ。浮気なんか、やっぱり本当にお母さんを大切にしている限り、できないわ。お母さんは、一人の女性であって、お父さんの母親じゃないの。あなたのお母さんがあなたに捧げたような愛情は、望むべきではないわ。生活に追われてしまうお母さんのやるせない気持ち、わかってあげてよ」
 お父さんは、ただ黙って私を見ていた。睨む、というよりも、真摯なまなざしを向けていた。あまり多くを語らない、寡黙な父親だった。
「二人とも、何もかも失った時に、自分だけがその人に贈る事ができる気持ちが何なのか。自分と相手がどんな成分でできているのか。そういうことを、考える事のないまま人生を走ってきたのね。お父さんはセックスと自尊心を、お母さんは子供と生活の安定を。自分と相手の正体を突き止めることもせずに、盲目的に制度に乗っかった、その罰を今、二人で受けているのよ」
 最後に、私は叫んだ。
「いい気味よ! でもね、二人とも覚えておいて。私、二人のこと一生恨むわ。しっかりしわ寄せが子供に来てるじゃない。結局、私のことなんてちっとも考えてくれてないじゃない! 何が親よ! 離婚なんかして!」
 もう、訳がわからなくなっていた。泣きながら、叫んでいた。
「離婚なんて嫌! 離婚なんてしないで!」

三枝仁史 九
 学校の屋上は、あの日の公園と同じように、夜風が優しく吹いている。
 佐伯さんに、再び想いを伝えるために、俺はここにいた。
 やがて、佐伯さんが屋上へ登ってきた。
「髪の毛、切ったんだ」
 俺は頷いた。眼鏡も、外した。
「似合ってるよ」
 そういって、彼女は笑う。
 何を言わんとしているのかは、もう彼女はわかっているのだろう。視線と視線を合わせただけで、何となくお互いの距離感をつかめる。たった数週間の月日は、そんな領域に二人を置いた。
「私、勇気を出して言ってみた。初めて、自分の持っていた正しいと思う理屈を、二人の前で」
 離婚、撤回だって。
 彼女はVサインを作る。
「まるで三枝君に後押しされているみたいだった」
 きっと乗り移っちゃったのね。
 いたずらっぽい笑みが消え、彼女の視線が、熱い光を帯びて、俺に注がれた。
 俺は彼女をじっと見つめる。
 君の美しさに、幻想を抱いた俺だった。
 でも、君はこの先、年老いて、しわくちゃになって、美しさも色あせるだろう。
 結婚したら、子どもも生まれて、生活に追われて、二人で息せききって走り抜けなければならない時が来るだろう。ひょっとしたら、子どもを生まずに、君は凛々しい瞳を輝かせて、社会へはばたくかも知れない。喧嘩も沢山するだろう。嫌な部分も見せ合うだろう。
 やがて、身体も段々と動きにくくなり、俺も君も静かに暮らしを終えて、骨と皮だけになって、息を引き取るときが来る。
その最後の、最後の、最後の一瞬まで、俺は、君を愛することが、できるだろうか。
 何があろうと、女性の持つ幻想と現実を、二つ合わせて愛することが、できるだろうか。
 俺は、目を閉じる。
 きっと、できるはずだ。
「佐伯さん」
 俺は、大きく息を吸い込んだ。
「大好きです。付き合ってください」
 彼女はにこりと笑って、はっきりと言った。

「はい」

 その優しい声は、夜風に吹かれながら、満点の星空に溶けていった。

 美しさ、肩書、性格。
 きっと、恋愛はそのどれでもない。お互いの価値観を、変え合って、いい方向へ進んで行くこと。それが恋愛なのかもしれない。
 おこがましいことだけど、でも、少なくとも俺は、佐伯さんの価値感を少しだけ、たしかに変えた。佐伯さんも、俺の価値感を変えた。
 俺は変わった。弱さを知った。人に寄り添うことの心地良さを知った。相手を思いやることも知った。肩書の大切さもちょっぴり知った。
 二人だけの歴史が、確かに、そこにはあったのだ。

 吹く風はどこまでも強く優しく、夜の街を醒ますように、秋の暮れを告げてゆく。冬の穏やかな足音が、すぐそこまで聞こえたような気がした。

 きっと、素敵な冬になる。

 そう思った。



ああああ
2012年06月27日(水) 01時23分19秒 公開
■この作品の著作権はああああさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
暇でした(遠い目)。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  ああああ  評価:0点  ■2012-10-27 23:25  ID:9XkVJ/agXJA
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zooeyさま
お読みいただきましてありがとうございました。楽しめていただけたようで、光栄です。
特に女性に読んでいただく機会はあまりありませんので、ご指摘は大変貴重なものとして受け止めさせていただきます。
大変勉強になりました。ありがとうございました。
No.3  zooey  評価:50点  ■2012-07-14 04:51  ID:1SHiiT1PETY
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読ませていただきました。

大変面白かったです。
書き手の方の価値観、思考、そういったものが注ぎ込まれた力作だなと思いました。哲学ですね。素晴らしいです。

作品の根幹には、男性は無垢なロマンチストで、女性は無慈悲なリアリストという考えがあるように感じました。
それは私が女性だからかもしれませんが、一種の男性が考える神話のようにも思います。
でも、この作品には、そうした神話に、しっかりと人間考察が加えられていて、
特に女性がリアリストとなっていくことへの考察はとても深くてすごいなと思いました。
そういったものが男性や女性というものの本質かといわれると、分かりませんが、
少なくとも、本質の一部を、掘り当てているように感じました。

文章、比喩表現なども切れがあっていいなと思いました。
ウィットに飛んだ、知的さが滲み出る文章でした。
ただ、一文が長くて少しイメージを妨げているかなと思うところもあったので、少し区切りを入れるとさらに読みやすくなるかなと思いました。

あとは、ラストの方で、三枝の外見に好感を持つ部分に、ほんの少しだけ違和感がありました。
三枝の魅力は少なくとも外見ではないので、
その外見の魅力そのものが、彼の内側に隠し持った聡明さとか、
そういったものに由来するという風な印象がより強くなったら、
三枝の外見に魅力を感じる佐伯に、私自身が寄り添えたような気がします。
今のままで、おかしい、ということではありませんが。

物事を見ぬく聡明さを持った人物に好感をもたれるというのは、それだけで自信になりますよね。
私は佐伯がうらやましいです。

読めて良かったと心から思える作品でした。ありがとうございました。
No.2  ああああ  評価:0点  ■2012-06-27 19:32  ID:BMGoqth7nbI
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>蒼井水素さん

お読みいただきまして,ありがとうございました。
また,身に余るお褒めのお言葉,重ね重ね感謝いたします。

セリフの理屈っぽさについてですが,多くの方からご指摘いただき,
まさにおっしゃる通りです。今後改善していきたいと思います。

どうもありがとうございました。
No.1  蒼井水素  評価:50点  ■2012-06-27 02:37  ID:7MNNIpOc6DU
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拝読しました。

面白かったです。すごく。

寝る前に、冒頭だけちょっと読もうと思っていたのですが、結局すべて読んでしまいました。

読み終わって、気がつけば深夜なので、微々たる感想になりますが、少しセリフが理屈っぽいかな、と感じた部分がありました。けれど、その理屈っぽさが、この話では必要かな、それがいいのかもしれないな、とも思います。
総レス数 4  合計 100

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