勝気女とストーカー男
 前進するか、後退するか。結局、どんな局面であろうともその二つしかないのだと、私は信じていたし、おそらく今後もそう思い続けるだろう。だから、あの日私がとった行動は断じて間違っていなかった、間違えているはずがない。
 足を踏み外せば留年するなんて迷信めいた言葉で飾られている階段で、意図せずに足を踏み外しそうになった。そうなったら反射的に足を後ろへと退く、多くの人ならそうするだろう、だから私もそうしたのだ。
「あぶないなぁ高松さんったら」
 私の後ろへ退いた足が、硬いコンクリートではなくやわらかい靴を踏みつける。思いもしなかったそんな声に驚いて顔を向ければ、見知らぬ男がにこりと笑った。
「でも、これで気づいてもらえた」
 そう、たとえ私の背後に立っていたのが俗にいうストーカー男であったとしても、私があの時とった行動は間違っているはずがない。

 結崎拓海とストーカー男は名乗った。染めてはいないのだろうが比較的色素の薄い黒髪に、黒縁眼鏡のその男は、私と学部が違ければ家も近所ではなく、サークルでさえ公認非公認の差もあり、もちろん授業も一つとして同じものはない。嫌な汗を背に感じつつ、なぜ私の名を知っているのかと問いただせば、結崎はふわりと笑った。
「だって、高松さん、いつも屋上でお昼食べてるでしょ」
 昼食を屋上で一人でとることは、入学して三年来続く私の習慣だった。そして屋上で食べる人は多いというほどには多くはないが、顔を覚えられるほどに少ないかと言われればそうも言えない半端な数で、そう思えばこの顔を一度ぐらい見たことがあるのかもしれないと、無理やりに合点した。少なくとも、得体のしれない場所から情報が漏れたわけではないとわかれば、幾分かはこちらも強気に出ることができる。
「あの」
「なに?」
「手、放してくれない。気持ち悪い」
 なぜか握られた左手を振れば、彼は不思議そうな顔をして首を横に振った。
「駄目だよ、そんなことしたら高松さんまた転ぶでしょ」
 ここで足を踏み外すことだって今日だけのことじゃないし、それに昨日だって三号館の二階の階段で転んでたよね。優しさを体現したような柔らかな笑顔を見せながら、けれど細部にわたった彼の言葉はそんな笑顔では覆い隠せないほどに一種異様な空気を纏っている。一度きつく睨み付けても結崎の笑顔は崩れない。
「やめてよ、気持ち悪い。迷惑なんだけど、彼氏に怒られるし」
「嘘は駄目だよ、高松さん。彼氏なんて今はいないよね。二か月前に君からふってたじゃない」
 これは本格的に危ない人間の目に留まってしまったと、今すぐこの手を振り払って逃げないと危険だと、頻りに頭の中では警鐘が鳴らされる。あ、あとね。そう言って彼は今一度私の顔をみると、笑顔をひそめて真剣な表情を向けてきた。そんな表情を見ると案外彼の顔は整っていて、おそらく女子受けする部類に入るな、だなんて評価を与えつつ、来るべき言葉に身構えた。
「工学部四年の荒井先輩と最近よくメールしているみたいだけど、あの人はやめといたほうがいいよ」
 よくない噂をよく聞くからね、危ないよ。そんな言葉で締めくくった結崎に、あなたの方が数倍危ないと無言で非難したが、生粋のストーカーのこの男にはそれすらも伝わらない。百歩譲って名前を知ったのはいいとする、けれどそれが最近私が誰と多くメールをしているか、などという至極プライベートな範囲に及ぶとなれば、これは見過ごすことのできない重大な付きまとい行為にちがいない。
「余計なお世話です。ストーカーのあんたに言われたくありません」
 そう言って精一杯の侮蔑を込めた視線を投げ込んで、突き飛ばすように手を振り払うと一目散に駆けだした。私の名を呼ぶ声が背後で聞こえたが、もちろんそんな言葉に振り返ることはしなかった。
 当分の間は屋上で昼食をとることは避けた方が無難なことは分かっていた。けれど元来食事は落ち着いて取りたい私は、あの喧噪渦巻く学食に席を取りに行くことは嫌だったし、男子に言わせれば無意味もいいところな女子の会話に入り込むことすら面倒だった。そして何よりも、あいつを避けるかのように屋上を後にするのは私のささやかなプライドが許さなかった。だから結崎と会った次の日の昼食も、お手製のサンドイッチを手に持って、私は挑むようにして屋上へと向かった。
 決して混んではいないが、空いているとは言い難いこの場所で、きっと目を走らせれば色素の薄い茶色の頭はすぐに見つかるだろう。けれどどうして私がそのようなことを気にする必要があるのか。私はいつもと同じようにわき目も振れずにすたすたと定位置へと足を運んだ。ある種固定されたメンバーで占められる場所においては、一種の指定席が無言のうちに出来上がるものだ。
「今日も時間通りだね、高松さん」
 けれどそんな指定席には、満面の笑みを見せるストーカー男の姿があった。あからさまに嫌な顔をしてみせるが、それさえも可愛いと言ってのけ、結崎は自分の隣にハンカチを広げた。座るようにとその上を示されたが、もちろん無視した私は、彼との間に一人分の隙間を空けて腰を下ろした。
 ここは私の席なのだ。結崎がいたからと場所を変えることは、やはりプライドが許さない。
「どうしているのよ」
「だって、昨日顔合わせちゃったから。こそこそするのはやめようかなと思って」
「一生私の前に姿を現してほしくなかった」
「うーん、ごめんね」
 ちらりと横目で見てみれば、やはり柔らかな笑顔が待っている。どんなに冷たくあしらおうとも彼には一切のダメージは与えられないと悟った私は、この苦痛な時間を少しでも短くするべくサンドイッチを口に運ぶ。隣ではおいしそうなから揚げの香りがした。
「今日も卵とハムのサンドイッチなの?」
 今日も、という点に引っかかりを感じつつも無言で肯首すれば、結崎は困ったように笑った。
「栄養バランス考えてないよね、高松さん」
 野菜絶対に足りてないよ、お肌に悪いよ、なんてまるで母親のような言葉でたたみかけてくる。そんな言葉を一切無視し、詰め込むようにサンドイッチを食せば、彼は一層困ったように笑った。
「ゆっくり食べないとだめだよ。のどに詰まらせるよ」
 そう言われる前に、案の定パサついたお手製サンドイッチは容赦なく喉をふさぎ、半ば涙目になりながら、カバンからペットボトル取り出すことを与儀なくされた。そんな私の行動をいち早く読み取った結崎は、自身のペットボトルを開けると、軽くティッシュで飲み口を拭い、どうぞと差し出してきた。死んでも受け取ってやるか。そう威勢よく言い返してやりたいところだったが、あいにく寝坊した今日はコンビニにすら立ち寄る時間がなく買ってこなかったことを思い出す。必死に喉の違和感をどうにかできないかと奮闘するも、結局は素直に彼の差し出すボトルを手に取った。いや、取るしかなかったのだと同時に自分に言い聞かせる。
「このお茶、好きでしょ」
 確かにそれは私が好んで買うお茶だったが、それは味が気に入っているからではなく単に安くてポイントがつくからだと言い返せば、高松さんらしいやと彼は笑う。なんとかサンドイッチを流し込んで、私も飲み口を拭いて突き返せば、どうも、と彼は素直に受け取った。
「高松さん、フルーツ好き?今日はリンゴとブドウがあるんだけど」
「いらない」
「うーん、じゃあお菓子食べる?高松さんがよく買ってるチョコ菓子あるよ」
「いらない。てか人の買うものとか調べないで、気持ち悪い」
「ごめんね、ついつい目で追っちゃうんだよ」
「目で追ってる、で許される範囲じゃないから」
 そう言い放ちながら携帯を取り出せば、ちかちかと青いランプが点滅していた。eメール一件。その文字に従ってメール画面を開けば、昨日話題に出た荒井先輩からのメールが着信していた。
「荒井先輩から?」
 メール画面を覗き込むような無粋な真似をしては来なかったが、結崎はまるで答えは知っているといわんばかりにはっきりとそう言った。その問いには無視を決め込み画面に目を走らせたが、けれど書かれていたものは返信するにも困るあまりに内容のないものだった。今日は天気がいいだとか、昼食においしいコロッケを食べただとか、まるであなたは携帯をいじりたくて仕方がない女子高生か何かですか、と問い返したくなるその文面に無難な返信を書き込み返信してパチンと携帯を閉じる。結崎は、最近よく荒井先輩とメールをしているだなどと言ったが、私からすればそれは大きな間違いで、先輩から投げられるボールを受け取るだけで投げ返していない、つまりは言葉のキャッチボールなんてしていないのだ。
「そ、荒井先輩から。でもあんたには関係ないでしょ」
 そう言って手早く荷物を片づけたが、その間中、彼は一言も口を利かない。どんなに冷たくあしらおうとも口ごもることすらしなかった彼の一種異様な沈黙を感じつつ、けれどそのようなことには一切気が付かないと言った風を装って、私は屋上を後にした。

 結崎拓海。経済学部経営学科三年、紅茶同好会所属。趣味は料理、特技は幼稚園の時から始めたピアノ。家は私の住む駅から二つ離れた駅から徒歩十分の立派な一軒家、家族構成は両親と姉と妹が一人ずつ。学内では密かに「微笑みの王子」なんて恥ずかしい名前で呼ばれており、女子から常に羨望のまなざしを受けている。現在は彼女なしとあって、彼を狙っている女子も多数存在するらしい。三年になった現在も、司書資格を取得するために多くの単位に追われる毎日で、週に五日は大学に顔を出す。昼食は一号館の屋上、雨の日は学食。常にお手製のお弁当、必ずフルーツを持参する。男女ともに友達は多いと見えるが、なぜか食事ごとに関しては一人で時間を過ごしていることが多いという。
 大学から最寄りの駅に向かいながら、放課後の女子会で得た情報を反芻した。
 断じて言っておくが、私はストーカーなどではない。私の情報を知られたからには、同じ量の情報を掴んでおくことは、決して不当なことには当たらない。これでイーブンだと思えばこそ、今まで感じていた嫌な気分は払しょくされる。互いに同じ量の情報を持っているならば、大変心外だがいわゆる「ただの友達」に存在を落としこめるというものだ。
 結崎の情報はあっけなく集まった。常なら無意味とバカにして、右から左に受け流してしまいがちな女子会の会話に入り込んで、結崎拓海って知ってる?なんて言葉を出せば最後。勝手に彼の情報は氾濫して、あっという間に結崎拓海の輪郭は出来上がる。加えて言っておけば、数人の女子はすでに私と結崎が昼休みに一緒にいたことさえつかんでいた。
 学内には思った以上の人数のストーカーや諜報部員が紛れ込んでいるらしい。一介の大学レベルでこうならば、いっそ世界ではどんなことになっているのだろうと、ずれた考えが頭をよぎった。

 その翌日も、屋上に行けば結崎が当然と言った風に私の指定席を陣取り、そしてやはりハンカチが広げられる。いっそのこと今度レジャーシートを持っていったら、いったいどんな反応を返してくるのだろう。そんなことを考えながら、やはりそのハンカチを避けて座った。吹き抜ける風はほんの少し秋の匂いを含み、身に染みるまでの寒さは運んでは来ないが、肌寒さは感じさせる。彼の弁当には彩豊かな食材が並び、中でも鮮やかな黄色の卵焼きがおいしそうだった。
「高松さん、卵焼き食べる?」
 そう言って示されたそれを見ながら、なぜか私は頷いた。そんな私に一瞬驚いたように目を丸くした結崎は、本当に、とさも嬉しそうに念を押す。彼のことがただの得体のしれない男でなく、どこの誰だかがわかり「ただの友達」に不本意ながら昇格した今、昨日ほどのかたくなさは私にはなかった。
「どう、おいしい?口に合うかな」
 まるでかいがいしい彼女のごとく、私の顔色一つ見逃さないといったように見つめてくる結崎がなぜだか面白く、ついつい笑いながら、おいしいと感想を述べる。実際、ケチをつけるところなど何一つないほどにそれは完成されていて、私の作る不格好な代物よりも数十倍はおいしかった。趣味が料理、という噂は案外本当なのかもしれない。
「料理が得意って聞いたんだけど」
 誰から、と結崎は首を傾げた。それに対してはあいまいに笑って答えれば彼はそれ以上深く追求することはなかった。
「夕飯作ったりもするからね。姉と妹がいるから、その影響かな」
 姉妹がいるという情報も正確だ。
「私なんて、サンドイッチしか作れないのに」
「サンドイッチは料理なの?」
 うるさいと言って睨み付けても、彼のほんわかとした笑顔は変わらなかった。
「はさむ具材を変えてみたらどう?レタスは入れたほうがいいよ」
 やはり彼女のような発言をして諭される。そんなに私の弁当は野菜がないのかと思い手元を見遣れば、確かに緑色は皆無だった。
「いいお嫁さんになれるね、あんたは」
 いつでも婿に行くよ、なんて冗談めかして彼は笑った。また秋風が吹きぬける。膝に置いたナプキンが風に揺れた。
「週末は学祭だけど、高松さんは暇?」
 昨日までの険悪な空気は一体どこに行ってしまったのだろう。そんなことを彼の言葉を聞きながら思う。結局は、第一印象と情報というのは大切なのだ。互いに対等な関係にさえなってしまえば、相手を特別敵視することもなく、ましてや友好視することもなくなる。
 なのに、一瞬彼の言葉を聞いてどきりとしたのは、きっと彼のことをストーカーだということを失念していたからに違いない。
「荒井先輩と一緒に回るかも」
 確か昨日の昼から続き、夕食だからと切り上げるまで続いたメールの中でそんなことを決めた気がする。別段断ることもないと受けたその約束を、隠すことなく彼に告げた。
「ねぇ高松さん」
 一瞬低くなった隣の声に、何を言われるのか半ばあてをつけつつ振り向く。
「荒井先輩には気をつけてって言ったよね」
「でもただのサークルの先輩だから」
「高松さんにとってはただの先輩でも、先輩からしたら高松さんはただの後輩じゃないかもよ」
 そうであったとしても。そう言って改めて見た結崎の顔は怖いくらい真剣だった。
「だったら何よ。別に告白されたわけじゃないんだから、別にいいじゃない。あんたには関係ないでしょ」
 それともあんたは私の彼氏か何かなの。そう言いのけてやれば胸がすく、はずだった。けれど困ったように笑った彼の表情に胸がすくどころか、一層不愉快な気分になり、もうほっといてと全く身勝手に話題を切り上げる。
 ただの友達の、おせっかいな助言。そう思ってしまえばいいだけだった。ただの友達、とはいっても相手は生粋のストーカー男であるけれど。だが案外私の情報なんて私が彼のことを知ったのと同じように簡単に知ることができるものなのかもしれない。
「そう言うことだから。学祭は先約があるから暇じゃない」
 捨て台詞のように投げつけて、私は振り返ることなく屋上を後にした。

 所属する吹奏楽サークルの演奏を終え、ほかのサークル員の目を盗んでなんとか荒井先輩との待ち合わせ場所に急いだ。サークルを引退した四年生の先輩。実際サークル活動に来なくなった先輩と顔を合わせるのは、実に半年ぶりではあったけれどほぼ毎日のようにメールを交わしていたから、久しぶり、などという挨拶は妙に耳になじまなかった。早々に大学院に進学することを決めていた工学部の先輩は、就職活動に死にもの狂いな他の四年の先輩とは違い、髪の毛は茶色に染め遊ばせて、やはり半年前と何も印象は変わらない。俗に言えば、先輩はチャラいのだ。
「おー高松、お疲れ」
 ひらひらと手を振る先輩に、お疲れ様ですと頭を下げた。
「演奏よかったよ、上達したな」
「来てくださってたんですね、ありがとうございます」
 そんな社交辞令のような会話をしながら、ぶらぶらと露店を見て回る。会話はしている、けれどもそれはどことなくぎこちなく、一方通行のメールと何一つ違いがない、とぼんやりと考える。最近急に寒くなってきましたね、とか先輩何食べますか、とかもう回ったんですか、とか。そんな言葉しか出てこない。昨日髪を切ったんです、と言ったとしても半年ぶりに会う先輩がそんなことに気付くべくもない。客引きに必死になっている露店の売り子の間を縫うように歩きながら、先輩の背を追った。結崎と比べると、先輩の背は高い。チキンステーキ、フランクフルト、大判焼き、クレープ。肉ばかり食べようとも甘ったるいものばかり食べようとも、野菜を食べろとも太るとも言ってこない。やはりしっくりこない言葉を交わしながら、何となく時間が過ぎていくだけ。
 荒井先輩のどこに気をつけろっていうのよ。人畜無害もいいところじゃない。
 ほんわかした笑顔を封印してまで結崎が私に忠告した言葉は、学祭の終盤となった今になっても何一つとして実感を持って私に襲い掛かってこない。たしかに先輩は見た目はちゃらちゃらしてるけど、かといってどっかの誰かと違って他人をストーキングして楽しむことはしないし、無駄におせっかいでもない。ほんの少し警戒を解いた時、先輩の手が私の手に触れた。
「手、つなぐ?」
「いや、でもサークルの人と会うかもしれませんし」
 だいたいそんな関係ではないじゃないですか。
 そうおどけるように返したが、けれど先輩は一切笑ってくれなかった。学祭終了を告げる気の抜けたアナウンスが入る。明日も続く祭りに控えて今日は安売りを避けた露店は、少し前から店じまいの様相を呈していた。人通りが減っていく。祭りの空気が薄らいでいく。そんな中で歩みを止めた先輩に、なぜだか距離を取って私も足を止めた。
「なぁ高松」
 ああ、続く言葉は聞かなくてもわかる。そして私が答える言葉も決まっていた。
「俺と付き合わない」
「ごめんなさい」
 考える間髪を入れずに放った私の言葉に、先輩はやっぱりと言いたげな苦い表情を見せる。
「私にとって荒井先輩は、ただのサークルの先輩としてしか見れません」
 前進するか、後退するか。結局、どんな局面であろうともその二つしかない。それは恋愛においても同じこと。肯定するか否定するか、今の私には中間はない。そんな私の性格に特に女子は辟易する。
 そんな決め方ばかりしていると、いつか痛い目を見ることになるよ。そう言ったのは、一番付き合いの長い幼馴染だった。
「いや、会ったのも今日が半年ぶりじゃん。もう少し考えてみてよ」
「ごめんなさい、たぶん時間をかけても変わりません」
 あたりにはまだ人通りがまばらだがあることも、ここが学内であることも手伝ってか、私の言葉には迷いがない。だいたいが先輩のことは良く知らないのだ。いったい何の研究をしているのかも知らないし、同じサークルだったとはいえ楽器が違ったため、いったいどんな演奏をするのかも知らない。どの校舎によくいるのかも、いつ大学にきているのかも知らない。それに、もっと根本的なこと、つまりは荒井先輩の下の名前さえはっきりとは覚えていなかった。先輩は先輩だった、そしてこれからも「ただの先輩」なのだ。
「ったくつめてーな、さすが氷の女王様」
 いったいいつの間にそんな二つ名がついていたのか。軽口をたたく先輩を、言われた通り氷のように冷たい視線で睨み付ければ、先輩はお手上げといったように肩をすくめた。
「わかった、わかった。とりあえずは引き下がるよ。じゃあ校門出るまででいいからさ、手、つないでよ」
「いやです」
「まぁそう言わずに」
 そう言って有無を言わさず手を掴まれて、離してほしいと心の底から思った。無理やりほどこうとも思った。けれど先輩は、あくまでも先輩なのだ。そう思うと元来先輩の命令には弱い私は、なんとなくそのままにしてしまう。それが間違いだったことはすぐに気付くことになる。
 急に手を引かれれば、先輩の方に倒れ込む。
 これは困った、これは先輩と言えども看過はできない。眼前に先輩、前進することはできない。ここは後退一択だった。
「はい、そこまで」
 そんな声が背後で聞こえた。必死に後ろに退いてバランスを取ろうと踏ん張った足の下にはアスファルトを敷き詰めた枯葉を踏みつける感覚ではなく、なにか柔らかいものを踏みつける感覚。
「荒井先輩、ダメですよ。先輩の彼女、但馬さんに言っちゃいますよ」
 二股は良くないですよ、そんな生々しい言葉がどこか間の抜けた声によって私の耳朶を打つ。穏やかな声の主が誰なのかは疑いようもない。このストーカー男のことだから、学祭初日のこの日もわき目も振れずに私のストーキングに精を出していたに違いない。
「いや、これはその。あー、友里には言うなよ」
 じゃあな、高松。そんなあっさりと先ほどまでとは打って変わった余裕のない笑顔で手を振られても、私としては呆れるばかりで手を振りかえすこともできない。先ほど強く握られた右手に目を向ければ、手首が赤くなっていた。
 だから言ったでしょ、そう言ってストーカー男、結崎拓海は困ったように笑った。
「先輩は危ないって」
 これで分かった?と言うなり彼の眼は目ざとく赤くなった私の手首を捉え、去りゆく先輩の後姿を今にも射殺さんと言わんばかりの鋭い視線で睨み付けた。
「大丈夫、痛くない?冷やす、どうしよう、休む?」
「いや、何ともないから別にいいから。なんでそんなに焦ってるのよ」
「別に変なことされてないのはずっと見てたからわかってるけど。……て、案外高松さん落ち着いてるよね」
「先輩が軽い人なことは分かってたから。やっぱりずっと見てたのね」
 何となく私たちは並んで校門の方へと歩き出した。
「もちろん見てたよ。でもあんなに肉ばっか食べてたらだめだよ。チキンステーキに焼き鳥にフランクフルト、から揚げなんて二種類も食べてたでしょ」
 今日の夕飯は肉を抜いてしっかり野菜を食べてね、寝る前にストレッチしてもいいんじゃない。いっそのことここから走って帰る?伴走するよ。
 そんな小言が一斉に飛んできて、思わず私は吹き出した。あんたは私の彼氏、コーチ、いったい何を目指しているのだ。急に声をあげて笑った私を見て、ぽかんとした表情を見せた結崎は、私が笑い終わるのを見届けるといった。
「高松さんのフルートソロ、すごく良かったよ。高音が伸びててとっても良かった。二曲目のユニゾンも綺麗だったし」
 演奏を本当に見ていたのだとわかるその言葉に、なぜだか嬉しくなる。
「それにしても先輩もひどいよね髪切ったのも気付いてないし。それに、高松さん、靴擦れしてるでしょ。絆創膏はれた?」
 久しぶりに履いた踵の高い靴。セオリー通り靴擦れを起こしたにもかかわらず、準備不足がたたって絆創膏がなかった。それとなく先輩に聞いても、もちろん先輩が持っているはずもなく、今もこうして踵が痛んでいる。結崎は私に新品の絆創膏の箱を差し出すと、今貼ったらと、近場にあったベンチへと私を座らせた。一瞬にしてひかれたハンカチに、今日ばかりは素直に従う。一人分の余裕を空けるほどには、このベンチは広くはないのだ。
「人通りも多いのにすいすい歩いて行っちゃうし、高松さんが大学芋食べたそうにしているのに気付かないし、高松さんの好きなお笑い芸人のライブだってやってたのにスルーするし」
 まったく、荒井先輩はなんにもわかってない。そう言って結崎はため息をつく。
「結崎くん、ちょっと本当に気持ち悪いよ」
 からかうようにそう言う。いったい彼は何が楽しくてこんなことをしているのか、まったく理解に苦しむ。けれど不思議と最初に感じた嫌悪感はどこにもない。むしろ本当に漏らさず見ていることに一種感動さえしてしまう。
「え、あの、あっと」
 絆創膏がきちっと貼れたことを確認していた私の耳を打ったのは、常にない慌てふためいた結崎の声。珍しいなと、いったい何がそんなに焦ることがあるのかと、下から覗き込むように見遣れば、口元を抑えた、頬を赤くした彼の顔が目に入った。
「どうしたの?なんか私言った?」
「だって、名前」
 名前?そう繰り返せば、私から顔をそむけて結崎拓海は答えた。
「結崎くんって、言ったよね。初めて高松さんにあんた、って言われなかった」
 ああそうかと合点する。確かに今まで一度も名前を呼んでいなかった。それは意図してのことではなかったけれど、やはり何かしらの壁を立てていたからなのかもしれない。結崎がうるさいくらい「高松さん」と呼ぶのに対して私は常に「あんた」と呼んでいた。
「ねぇ、結崎くん」
「へ、な、なに高松さん」
「結崎くんって、私の下の名前知ってるの?」
 女子でも滅多に私の名は呼ばない。勝気で気の強い私には似合わない名。名前より、高松、なんていうがっしりした苗字の方が私にはあっていると友人たちは口をそろえる。
 はたしてこのストーカー男は、私の名前を知っているのか。
 それとも、私が荒井先輩の名前を覚えていなかったのと同じように、ストーカーと言えども知らないのか。
 半ば答えは分かっていた。けれど困ったように顔を赤くする彼が可愛らしかった。
「し、知ってるよ。もちろん」
「じゃあ呼んでいいよ。結崎くんにだけ許可してあげる」
 包み込むようなほんわかとした笑顔の似合う彼は、彼に似合わない切羽詰った、焦ったような笑顔を見せて、伺うように様子を見てくる。どうぞ、と促せば、結崎はぼそりといった。
「香織、ちゃん」
「んー、なに?」
「明日の学祭は、一緒に回ってくれないかな。香織ちゃん」
 今日まわれなかったところ、香織ちゃんが好きそうなイベント、好きそうな食べ物、全部網羅しておくから、絶対に楽しませるから。
 必死になって言葉を探す結崎の顔が面白くて、ほんのりと赤くなった頬と笑顔が可愛くて。それにきっとここで断っても、彼は物陰からついて来ることは目に見えていた。そして誰よりも何よりも、おそらく私自身よりも私のすべてを知ろうとするに違いない。
 そうするくらいなら、いっそ潔く前進してもらった方が、私のためにも彼のためにもいいのだろう。
「いいよ。明日はなんの予定もないから」
 前進するか、後退するか。結局、どんな局面であろうともその二つしかないのだと、私は信じていたし、おそらく今後もそう思い続けるだろう。だから、私がとった行動は断じて間違っていないし、そしておそらく後悔さえしないだろう。
都築佐織
2012年06月24日(日) 00時50分51秒 公開
■この作品の著作権は都築佐織さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
王道な話で、真新しさはない作品ではありますが……
辛口批評、感想大歓迎です。
感想いただけたら嬉しく思いますので、どうぞよろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  都築佐織  評価:0点  ■2012-07-01 23:59  ID:xc2oD/NopPs
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>並さん

感想ありがとうございます!

やはり、王道は王道なりに何か目新しさを加えた方がいいですよね

一応、高松が荒井先輩の誘いを断らなかったのは、ちょっとした「義務」と考えてしまったから、なんて意味づけしていたのですが、それだとわかりづらいですね
ちょっとしたエピソードを加えた方が説得性が増すのは、おっしゃる通りだと思います。ぜひ参考にさせてください。

では、今回はお読みくださりありがとうございました!
No.3  並  評価:30点  ■2012-07-01 08:26  ID:W3ZBenfEr.s
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拝読させていただきました。

薄っぺらいという意味ではなく、
良い意味で(情景がよく浮かぶという意味で)少女漫画をよんでいるような気分になりました。
ただ、やはり王道なので、先の展開がよめてしまうという感じは否めません。

次にキャラクター設定ですが、人づきあいをあまり得意としない高松さんのような女の子が
なぜ半年も会っていない、おそらく苦手な人種であろうチャラい荒井先輩と
2人きりで学祭を回ろうと思ったのかが少し不思議に感じました。
高松さんにとって、ほんの少しでも荒井先輩になにかしら魅力的なところがある、
というエピソードが入っていればすんなり呑み込めたかとおもいます。
結崎くんのキャラクターは非常に良いと思います。
ひょうひょうとしているのに、名前を呼んでもらえただけで頬を赤くするなんて、
とても好感が持てます。
きっとこの後は高松さんの尻にひかれるんだろうな、と想像できて
ほほえましくなりました。
No.2  都築佐織  評価:0点  ■2012-07-01 01:25  ID:xc2oD/NopPs
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>蒼井水素さん

感想ありがとうございました。

確かに、結崎が高松をなぜ好きになったのか、というところにストーリーを持たせた方が面白くなりますね!
今回は、王道をある意味意識しすぎて、平板になってしまったかなと反省しています……
主人公女も、「ツンデレ」の領域ではカバーできないほど性格がキツイことを、リスキーだと指摘されて気づきました

自分では気づかない点、ご指摘いただきうれしく思います。
今回もお読みいただきありがとうございました。
No.1  蒼井水素  評価:30点  ■2012-06-30 20:14  ID:SdOjwEPh20I
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拝読しました。

決まりごとを守りつつ、新しさや個性を出す。こういった王道やお約束は、決まりごとが多いので、書くのは大変だろうなあ、と思います。

こういったお話で、舞台を大学にしたのは、珍しいような気がしますが、全体的には、最後まで安心して読めました。

このお話では、結崎拓海君は、最初から高松香織さんのことが好きで、つきまとっています。それよりも、何らかの事情でつけ回していくうちに、最初は何とも思っていなかった、あるいは、嫌な奴だと思っていた高松さんの良さが見えてきて、好きになる、としたほうが、よりいいかなあ、と思います。最初はコミュニケーション能力の低さや誤解などで、ヒロインの第一印象が悪いけれど、一緒にいるうちに、彼女の内面の良さが少しずつわかっていって…… って、これらはただの私の趣味ですね。

都築さんが、こういうお話が大好きだ、というのなら別ですが、多くの人に読んでもらおうと思って、このお話を書いたのなら、このヒロインの性格は、強めなので、ややリスキーな気がします。男の子がいなくても、問題なさそう、ととられるかも、と思いました。
総レス数 4  合計 60

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