ジャン・アンドレのピアス

 2012/5/17
「私は太陽の匂いを知っているのよ」メリッサはよくそんなことを言っていた。
ブエンディジは今日も晴れた。昨日も晴れだったし明日もどうせ晴れる。毎朝クリームを塗らなきゃならないから、私のなけなしの小遣いもあっというまに消えてしまう。最近は特にひどい。財布が私のお金を勝手に食べているんじゃないかと思うほど。
 道端では犬っころが揃いにそろって舌をベロベロ出している。道の真ん中で尻尾を丸めてうんこをひり出し始めたのを見たとき私は心底ため息をついた。あーあ、とうとうあのワンちゃんも熱にやられて尻の穴に締まりが無くなってしまったんだなって。フンの後始末をする気のきいた人間なんかいるわけがないから、誰かがお気に入りの靴でフンを踏んづけるまで(ちょうど私みたいに!)ずっと放っておかれるに違いない。
「太陽の匂い? うんこの匂いの間違いじゃない?」
 私がぶっきらぼうに鼻をすんすん言わせると、メリッサが吹きだした。
地中海を前にして私はメリッサと太陽を見ていた。ブエンディジは港湾都市だから、帆船の上にはジャン・レノみたいな厳つい体の男が何人もいる。リュック・ベッソン監督の『グラン・ブルー』が好きだからそんなことを考えたのだろう。うんこの匂いとか言ったけれど、これでも私はモードの専門学校生だ。ファッションさまさまの学校。だからゲージュツ的な映画だって少しは見る。
メリッサは太陽に向かって両手を伸ばし、時折手の指を広げたり閉じたりを繰り返している。彼女は太陽からエネルギーを貰っているのだ。そういえば、私が「前世は植物だったに違いないわ」と言った時もメリッサは笑っていたっけ。彼女は笑いの沸点が低くて、私が適当に喋った台詞でも腹を抱えて大笑いする。あまりに楽しそうに笑うから、私の頬も少しずつ緩んでくる。
 入学式で初めて話して以来、彼女とは大の親友として通っている、と思う。私としてもメリッサと会話しているときが一番素直な自分でいられるような気がするのだ。
「太陽から元気を受けとった?」
「うん、もう大丈夫。セレーナは?」
「私はあんたと違って光合成はしないのよ。でももう大丈夫、あの悪趣味クソババアを頭の中で何度もぶっ殺したから」
「……そういうの、良くないと思う」
「いいの。私がどんな奴か、よく知ってるでしょう?」
 悪趣味クソババア、というのはこの近くにあるセレクトショップの店長のことだ。体臭を無理矢理香水でかき消そうとしているし、若い男を店員として侍らせて悦に浸っているし、それになによりも、私たち二人の服装を見てあのババアはこう抜かしたのだ。「人がコーデを選ぶのではなくて、コーデが人を選ぶのよね」私たちは学生だから、服にお金をかけたくてもかけられない事情がある。バイトしても貯金できるお金なんかたかが知れているし、学費も稼がなければならない。だから、別にTシャツとジーンズで店に入ったっていいと思うのだ。私が半ば顔をひきつらせながら丁重に反論すると、向こうはご丁寧に最高級品ブランド「ヨウジヤマモト」のニットカーディガンを勧めてきた。自意識過剰の大人が着るような真っ黒の服。早く大人になって出直せっての? 脛の辺りを蹴って、メリッサを連れて店を出た。ババアが怒りだしたので走って逃げた。
 メリッサは笑っているが、内心ではショックを受けているに違いなかった。彼女は私と違って、本気でファッションデザイナーになりたいと思っているし、今回の店舗見学も、彼女なりに精いっぱいのお洒落をしてきたのだ。相手が頭の固いババアだったから、ストリートファッションの良さがよく分からなかっただけで、彼女のセンスはけして悪くない。小物まできちんと趣向を凝らしたものを身に付けている。彼女がどれだけ今日の店舗見学に真面目になって取り組もうとしていたか、鈍い私でもハッキリと分かる。彼女がいま耳に付けているピアスは、宝石ではなくただのガラス製なのだけれど、それでも「ジャン・アンドレ」という立派なブランド物なのだ。紫と黄色で塗られたそのピアスを、彼女は一番気に入っている。流行に乗せられることなく自分のファッションを貫いている。クラスに何人もいるファッション事情通志望の連中と違って、誰にも媚びようとしないところが私は好きだった。
「やっぱこんなド田舎じゃダメよ。もう少し頑張ってお金溜めてさ、ミラノまで行きましょう。メリッサのセンスを認めてくれる人、絶対いると思うし」
「ううん、まだまだ勉強が足りないよ。さっきの店だって、ディスプレイのマネキンがすごくよかった」
「馬鹿ね、それはあのババアの力じゃなくて、プラダの力よ。高いものを着せれば良いってものじゃないのにさ。見栄を張りたいだけなんじゃない?」
「そんな悪口言っちゃダメだってば」
「だってさ……納得いかないわよ。学生だからって馬鹿にされたのよ、私たち」
「別にいいよ。気にしない気にしない。でも、いつかあの店員よりもずっといいファッションデザイナーになって、私がプロデュースした服をあのマネキンに着せてもらえたら……いいなあ」
「ライバルはプラダ? 言うね〜。メリッサのビッグマウスは聞いてて気分いいわ」
 私だったら、こんな大口は叩けない。メリッサのように、自分の夢をはっきりと描き出すことができない。卒業したら、私はもう何もやることがない。適当に彼氏とくっついて、専業主婦になればいいやって、そんな軽い気持ちでいる。
 どうしてメリッサは、自分に自信が持てるんだろう。馬鹿にされても、彼女はくじけない。私は、自信がないから、脛を蹴るしかなかった。心理テストが好きなヨーコがそういえばこんなことを言っていた。「人間の外見って、本当の性格と間逆になるんだって。とても元気な人は、実は精神力が弱くて、逆に大人しい人は意外と強かなんだそうよ」「その理屈でいえば、なんだか変人気取りのアーティストぶっている奴らって?」「ただの凡人よね」それでファッション事情通志望たちを笑い飛ばしてやったんだった。だからさっきのババアは、本当はただのババア。才能なんてこれっぽっちもないんだ。逆にメリッサはとっても強い。可能性が開かれている。私は……。
「太陽の匂いを思いきり吸い込むとね、全身が澄んだような気持ちになるの」
 メリッサが思いきり息を吸って、吐いた。呼吸のリズムに合わせて、地中海が凪いでいるように見えた。私と同い年なのに、こんなに大きな海を自分のものにしている。
「目でも耳でもなく、鼻から自然を感じ取るの。息を吸い込むと、自分が内側から綺麗になるような心地がする」
「……くふふ、メリッサ、詩人になったほうがいいんじゃない?」
「笑わないでよー」
私はこうやってメリッサを茶化す。でも、それは馬鹿にしているんじゃない。自分の気持ちにどこまでも素直になれる彼女に、このブエンディジの風景を自分の力とすることができる彼女に、私は少し、嫉妬しているだけだ。茶化す私が外見で、塞ぎこむ私が内面だ。
太陽は私の頭上に降り注いだ。とにかく暑かった。肌から汗が滲みだした。私のことを責めているようだった。
「もうすぐ授業始まるし、戻ろうか」
「お昼ごはん、一緒に食べる?」
「そうね、気持ちを切り替えていかなきゃ」

 
私の勝手なイメージ。日本人は礼儀正しくておしとやか。しかし私はヨーコを見るたび、どこのどいつがデマを流したんだと思いたくなる。大食いである彼女は、こっちが見ていて心配になるぐらい冷製パスタを食べる。アジア系の人間は少ないから、普通にしていてもよく目立つというのに、彼女はよく食べるから厨房のオバサンから顔を覚えられていた。しかし、ヨーコの「外見と内面は正反対の法則」に当てはめれば、本当のヨーコはすごく控えめな人間なのだということになる……ないな、ヨーコに限ってそれは絶対にない。
 私の携帯電話が鳴った。メリッサからだ。どうやら私たちが座っている場所が分からないらしい。第二カフェテリアの中の窓際の席だと伝えた。
程なくして、メリッサが私たちの席に近づいてきた。彼女は小食で、小さなロゼッタ二つと、オニオン、ハーブ、チーズのサニーサイドアップが一切れと付け合わせのレタス。あとはマグカップに入ったミネストローネだった。
「へえ、そんな美味しそうな料理があったのね。後でちょっと分けてくれない?」
「戦後間もない頃の子どもみたいね、ヨーコって」
「そうね、なんだかチョコレートが欲しい気分になってきたわ」
「チョコレート?」
「戦後すぐの日本の子どもたちは、米軍からチョコレートを分けてもらっていたのよ」
「なるほどね」
私は自分のサラダボウルにフォークを突き刺した。突き刺さったムラサキキャベツとトマトを彼女の目の前に差し出す。餌付けだ。ヨーコはもちろん、パクっと食い付いた。笑うしかない。爆笑ものだ。ヨーコも口をモグモグさせながら笑顔を私に向けていた。そして、笑いの沸点が低いメリッサも、もちろん楽しげに頬を緩ませていた。
「あはは……この料理は隣のカフェテリアのだから、また行ってみるといいよ」
「隣のかー。あそこって高いからなあ」とヨーコは目の前にある山もりのシーフードパスタをじっと見つめながら一人呟いていた。
 大食いヨーコは放っておいて、私はメリッサのサニーサイドアップを見た。彼女はナイフとフォークを両手に持ち、早速サニーサイドアップを切り始めた。香辛料はいらないのだろうか。
「ブラックペッパーはいいの?」
「うん、別にいらない」
 それだと味が薄すぎない? と思ったけれど、彼女はそんなことを気にする様子もなく、白身を小さくナイフで切って、オニオンと一緒にフォークで食べた。
「実はさ、私ってサニーサイドアップ嫌いなのよ」
 メリッサは口を動かしながら、「どうして?」と目で尋ねた。
「だって黄身が半熟でしょう? ナイフで切っちゃうと中身がドロッと出てきてさ。食欲無くさない?」
 メリッサは、こくんと喉を動かして飲みこんだ後、言った。
「それなら、黄身だけを残して一口で食べちゃえばいいのよ」
「え?」
「黄身を、丸々一個食べるの」
 私は黄身に目を移した。これを一口で? 食べられないことはないようにも思えるが、口の中がぎりぎり一杯になるのは間違いない。
「そんなことできるわけないでしょ。それに、白身だけ食べるのは美味しくないし、黄身だけ食べるのも変よ」
 ちょっとオーバーリアクションぎみで私はそう言っていた。無意識におおげさな反応をしたところに、自分の卑小さが表れているような気がする。
「じゃあ、私が食べて見せたげる」
「い、いいよ別に。喉を詰まらせちゃうかもしれないし」
 メリッサは黄身の部分を、ナイフで綺麗に円形上に切り取った。
「へーきへーき」
 黄身を傷つけないようにフォークで掬いあげた。落ちないようにナイフで軽く押さえながら口の高さまで持ち上げ、大きな口を開けた。そういえば彼女が大笑いしたときに開ける口は、かなり大きかった。彼女にとって、黄身を丸ごと食べることなど、本当に造作のないことなのだ。一口で、パクリ。
 黄身の丸い形は、その形のまま彼女の口に入っていった。
 続けて彼女は、サニーサイドアップに添えてあるレタスやトマトをフォークで突き刺した。緑と赤と卵の白がうまく合わさっている。彩りが鮮やかな野菜と卵を、彼女は大きな口で美味しそうに食べている。香ばしい焼き色がついた二つのロゼッタは、森の中のログハウスのように、ランチプレートの中で調和していた。
「あ、そうだ」
 次は何を食べるか考えていたに違いないヨーコが、ふと何かを思い出したかのように顔を上げた。すると、床に置いていた通学用のショルダーバッグを手元に引き寄せて、中に手を入れた。
「なに、どうしたの」
「明日、予定空いてる? 夕方ぐらい」
「私は空いてるけど……メリッサは?」
 口を動かしているので、彼女は代わりに小さく頷いた。
 やがてヨーコが取り出してきたのは、一枚のプリントだった。やけに仰々しいフォントで大きく「告知」と書かれている。ああ、いつものアレか、と私はすぐに分かった。

【反マフィア行進デモ 準備集会】

 この専門学校には、反マフィア派の先生がとても多く、こういう運動を積極的に押し進めている。学校の名前も、かつて反マフィア活動家として活躍した人物の名前を冠したものだ。
生徒たちに自主的にこういった運動を起こさせることで、自主性や協調性を身に着けさせようというのが教育者側の魂胆らしく、定期的に開催されるイベントだ。生徒の間でも、本気でマフィアを撲滅したいと考えて、学外でも行動を起こしているような人がいれば、私みたいにお祭り感覚でなんとなく参加する人もいる。というか、このイベントに参加しなかったことが先生にバレると、後で面倒なことになるかもしれない、という事情も手伝って、任意参加という名の全員参加のお祭りになっていた。もっとも、イベントが終わった後は友人と一緒にバールへ行ってコーヒーを飲みながら雑談に興じることができるわけだし、どっちかといえばマフィアなんてものは無い方がいいに決まっているわけだし(『ゴッドファーザー』は好きだけれど、あんなマフィアは現実には存在しない)参加を断る理由もなかった。
「準備集会ってことは、本番はいつ?」
 私が尋ねると、ヨーコが日時が書かれたところを指で押さえた。
「明後日。準備集会が明日」
「明後日? 早っ!」
「掲示板でだいぶ前から告知されてたもの」
「……ということは、明後日の授業、潰れるってわけ? ラッキー」
 明後日はコーディネートの発表があったのだ。ファッション写真をたくさん見て適当に良さそうな組み合わせを見つける作業が、一週間伸びる。
「明後日、どこに行こうか? なにかいいお店とか最近知らない?」
「夕方から夜にかけてだと、どこも混んでるんじゃないかなー。同じ考えの人達とか一杯いると思うし」
「デモが起きたらタベルナが儲かるってわけね」
「ほんと」
 私はプリントを手にとって、軽く目を通した。執行部長にはヴェロニカとある。
「このヴェロニカって、たぶん私の家の近所に住んでいる奴だわ」
「へえ、なんで分かるの?」
「父親が医者だから金持ちだし、母親がソーシャル・ワーカー。二人とも反マフィアっぽい感じがするしね」
「仲良いの?」
「別に。近くに住んでいても、なんとなく会わない人っているじゃない。そんな感じ」
「ふーん……ところで、メリッサはさ、どこかいいお店知ってない?」
 しばらくの間黙っていたメリッサは、一瞬だけ強い目をした。
「え? うん……店はあまり知らないかな」
 なんとなく違和感が挟みこまれた返事の仕方だった。
「どうかした?」
 私はそう尋ねてみたが、彼女は「ううん、なんでもないよ」と言っただけだった。


2012/5/18


 朝食の時間は苦手だ。だから目覚まし時計を止めてから、わざとベッドの中で横になったまま時計を見つめる。昨日の深夜に読んでいた、ヨーコお勧めの日本のマンガの続きを読んで時間をつぶす。通学バスが到着する時間を見ながら、ぎりぎりまでベッドの中で横になる。
マンガを読むと、ストーリーよりも絵が印象に残る。そして、登場人物たちが着ている服に自然と目が行く。お父さんは未だに、日本なんて中国や韓国と同じようなものだ、と考えているけれど(ヨーコの話をしたときの会話を、私は一生忘れないだろう)それは大違いだ。こんなにセンスの良い服装を空想のキャラクターたちに着せてあげているのだから。このまえ読んだのは、フランス人形のお話。選択科目の「フランス服飾史」で習った本場のドレスよりも、マンガのほうが魅力的。たかが空想の話だと最初は思っていたけれど、空想の力は偉大なものだと思う。
 ちょうど読み終わったところで、母がドア越しから私に声をかけてきた。
「分かってる。今、起きるから」
 パンが出来上がっている。なるべく早く食べ終わって、さっさと通学準備に取り掛かる。うまくタイミングが合えば、今日は話をしないで済む。
 居間に入った。タイミングは合っていなかった。新聞を広げている父の姿があった。私はテレビの電源を付けて、その画面を見ることに集中することにした。クロワッサンとコーヒー。いつもの付け合わせ。イタリアの朝食のことをヨーコに話したとき、「たったそれだけ!?」と驚いていたっけ。大食いヨーコ基準ではなく、日本ではもっとしっかりとした朝食を食べるのが当たり前らしい。そういえば、さっき読んだマンガにも朝食のシーンがあった……朝食なのに夕食かと思うぐらいすごい料理だったような。
「前から思っていたことなんだが……食事中のときぐらいテレビを消したらどうなんだ」
 空想から現実に引き戻す声がした。昨日も一昨日もテレビを付けたまま朝食を食べていたはずなのにね。前から思っていたのなら、どうして前からそれを言わなかったのだろう。私は黙ってテレビの電源を消した。
 お父さんは少し動きを止めてから、何かを諦めたかのように新聞を折り曲げた。そしてコーヒーを手にとって一口飲み、「すまないが淹れなおしてくれないか」と母に言った。
 クロワッサンが冷めていたら、いっきに食べてさっさとこの場から立ち去ることができるのだけれど、生憎お母さんは焼き立てのパンを置いていた。おかげで熱くて冷まさなければならない。この手持ちぶさたな時間。コーヒー一杯では、場が持ちそうにない。
「セレーナ」
 あーあ、始まったよ。クロワッサンのアホ。
「同僚に、おまえより年が一つ上の息子を持つ奴がいるんだが……おまえには話したか?」
 ええ、話しましたね。
「インビクタに就職が決まったらしいぞ」
 インビクタ? ああ、小学生が使うようなデザインのカバンメーカーね。老舗で名だけは通っているけれど。
「おまえも、そろそろ頑張らなきゃいけない頃だろう? おまえが本当にフェンディやベネトンに入れるのか」
「お父さん、やるべきことはちゃんとやるから。前にも言ったじゃない」
 お父さんは私が道を踏み外していると思っている。
 私が通っている専門学校は、モードとソーシャル・ワーカーが学べる。私がこの学校に行くと言いだしたとき、どうやらお父さんは私がソーシャル・ワーカーになりたいのだと勘違いをしていたらしい。私はずいぶん前からファッションに興味を持っていたし、親ならば当然そんなことぐらい分かっていると思っていた。しかし、それは思い違い。ふだん私に干渉することのなかったお父さんは、お母さんからの話を聞いて私を呼んだ。
「おまえが進もうとしているのは、才能が必要な道だ。そんな危ない橋を渡ってどうするんだ」
趣味なのか仕事なのかよく分からない職に就くのは止めろ、というのが父さんの意見だった。お父さんの言っていることは正しい。正しすぎて乾燥している。何千万人もの人たちが歩いてきた道を私も歩んでほしいと思っている。ガチガチのコンクリートで舗装されて、ご丁寧に結婚とか出産とか育児とか、そういう標識まで立てかけられているような道。それにひきかえファッションデザイナーは自分で道を開拓していかなければならない。進むのを辞めたら、簡単に行き詰る。
 結局、私は服飾関係の企業に就職するという約束をつけてとりあえず納得してもらった。もう少ししたら、私はファッション事情通志望と同じ道を歩むために、押し合いへしあいしなければならない。フェンディもベネトンも超人気企業だ。競争率は高いだろう。その競争の中に、ファッションが入り込む余地は一ミリもない。要るのは能力だけだ。そんなところに捻じ込んでいけるだけの力を、あいにく私は持っていない。
「もうバス来るから、行くね」
 それだけ言い残して、私はクロワッサンを一つ手にしながら居間を出た。お父さんは私の背中を見ただろうか。逃げている、と思っただろうか。
 焦げ目のついたクロワッサンに噛みつきながら、バス停まで歩いた。表面が皮のようになっているから、食べていると粉が落ちる。全て食べ終わると、ズボンに粉が付いているのに気づいた。太ももの辺りに付いた粉を払いのけた。
私は何をしているのだろう。何を焦っているのだろう。急いで家を出る惨めな自分が嫌になりそうだ。
 綺麗に払いのけて、ショルダーバッグを引き上げてもう少しだけ歩くと、バス停が見えてきた。私と同じくこのバス停を利用しているのが、ヴェロニカだ。今立ったまま何かの本を読んでバスの到着を待っている。ブロンドの長い髪を櫛で整えて、いかにもお嬢らしい振る舞いを見せつけてくる。頭も体も器量が良いってわけね。
 彼女に会うたび、私は無視される。毎日こうして同じバス停から乗っているのだから、当然相手は私のことを知っているはず。しかし彼女は私に話しかけてきたことはない。興味を示そうとすらしない。本に書いてあることのほうがよっぽど大事なのだ。ご覧ください、彼女が反マフィアデモの執行部長です!
 私に興味を持ってくれないのだから、こっちも向こうに話しかける道理も無い。だから私は、彼女と出会っても気づいていないふりをする、のだけれど。
「反マフィアのデモ、あんたが仕切るのよね」
 なぜか今日は話しかけていた。
 彼女は私の声に気づき、目線を本から私の方に向けた。
「ええ」
 彼女はそれだけの返事をした。
「ヴェロニカって、やっぱりあんたのことだったのね。今日の集会は、参加者たくさん来そうなわけ?」
「参加しない人なんていない」
 全員参加が当然であるかのような口ぶりだった。あの任意参加という文字を書いたのは一体誰なのだろうか。
「……そう。まあ、頑張りなさいよ。私も参加するから」
 彼女は返事をすることなく、交差点の向こうをじっと眺めた。そろそろバスがくる時間だが、まだ来ない。バスが遅刻するのはいつものことだ。おまえはバスが来るのがそんなに待ち遠しいのか。
「あなたはマフィア反対なの」
 私の方に後頭部を見せつけたまま彼女はそう尋ねてきた。
「そりゃ、反対よ」
「なぜ?」
「なぜって、マフィアなんていなくなった方がいいに決まってるじゃない」
 彼女は再び私の方を振り向いた。その時の彼女の目は、ブエンディジの港で漁師の船から海に投げ捨てられた、腹を上にしてプカプカ浮かんでいる魚みたいだった。
「……なによ」
「そういうの、いいから」
「は?」
 言うべきことは言った、と一人で勝手に満足したかのように、彼女は手に持っていた本を広げて、再び読み始めた。なによ、そういうのって。そういうのって、どういうのよ。言ってみなさいよ。
「ちゃんと説明してもらわないと分からないわ。生憎私は頭が良くないし、本も読まないから、言ってもらわないと分からないんだけど」
 日本では、自分が一番伝えたいことをあえて伝えない、というような言い方があるらしい。イタリア頭には理解不能の極致。
「本の読み過ぎで頭がおかしくなったの? ほら、これが私が一番言いたいことよ。分かる? こうやって口に出して言ってもらわないと困るの」
 朝からなんでこんなに怒ってるんだろう。でもこれは明らかに向こうが悪い。彼女の目の気持ち悪さ。しかも言いたいことをハッキリと言わない。二重にいらいらする。
「……あなたみたいに遊び感覚で参加する人、多すぎるのよ」
 ラジオが電波を拾ったかのように、ヴェロニカは突然私に突っかかってきた。
「あなた、本気でやっている人間の気持ちになって考えたことある? 本気でやっている人間から見たらね、いい加減な気持ちでやっている人を見ているとただ単に不愉快なだけ。こっちが真剣になればなるほど、あなたみたいな人たちはヘラヘラ笑うのよ」
「それはあんたが勝手にそう思っているだけでしょ? ていうか、前から思ってたんだけど、あんたって気持ち悪いのよね。暗いし。かと思ったらいきなり突っかかって来るし。このデモだって、全部あんたが一人で突っ走っているだけって気づかないの?」
「……一人で突っ走る勇気のない貴方に言われたくないわね」
「は? 私は……」
 ファッションデザイナーになる、と言い返そうとして、その言葉の芯がどこにもないことに気づいた。
 私の言葉のはずなのに、全然信用が持てない。任意参加、と同じくらい空虚だ。ファッションデザイナーという言葉が、いつのまにか私を置いてどこかに行ってしまっている。慌てて探そうとして、バスのクラクションが耳に入ってきた。ヴェロニカは私に背を向けた。クラクションに助けられた、と思った。
 派手なブレーキ音を軋ませてバスが止まり、扉が開いた。ヴェロニカがバスに乗り込むのを見て、私は慌ててその後ろを付いて行った。
 彼女は一番前の空いている席に座った。私に、彼女の側に座る権利は無いように思えた。私は彼女からなるべく離れたところ、つまり横長の最後部座席に座った。
 バスが走りだした。遅刻しているから、荒っぽい運転だった。前後に激しく揺れる。私の頭も揺れる。自分の気持ちが、だんだん分からなくなっていくのに、窓にはいつもの景色が流れていく。
ひときわ大きな前方の揺れがあって、ガクンと背もたれに体がぶつかる。次のバス停に着いたようだ。このバス停で、メリッサがいつも乗り込んでくる。窓から見ると、列になって並んでいる彼女の姿があった。当たり前のことなのに、私は少し救われたような気がした。
 メリッサがバスに乗り込むと、辺りを見回した。そして私の所在を確認すると、手を振りながら私の側に近付いてきた。
「おはよう、セレーナ」
「うん……おはよ」
 もちろん、彼女の代名詞である笑顔もそこにあった。彼女が放っている元気のオーラのおかげで、私は千々に分解することなく、形を保っていられるのかもしれないな――。
「どうしたの? なんだか調子悪そうだけど」
「……ちょっと、寝不足しちゃってね」
「バスの中で眠ってしまえばいいよ。着いたら起こすし」
「ありがとう……お言葉に甘えさせてもらうわ」
 目を閉じた。バスが再び走り出して、瞼の裏は明るくなったり暗くなったりを繰り返した。


 大ホールに座っている人は、私たち専門学校生だけではなかった。学生は後ろの方にあるスペースに固まって座るように指示があったので、言われたとおりにする。三人が並んで座れる席を探す。ヨーコが見つけて確保してくれたから、メリッサと私はそこに座った。私の右隣りにメリッサ、左隣りにヨーコがいる。
 ステージのすぐ傍では中年程度の人たちが行き交いしている。その中に馴染みの先生たちもいて、何か話をしているらしい。ふだんは私たちに厳しいのに、遠目から見てかなりフランクな印象を受けた。同じ考え方を持つ人たちとは、これほど親しく会話をするんだろうな。きっとヴェロニカとも仲良く話をするのだろうな。
 視界に入る人達の服装を見ながら、頭をからっぽにしていた。壇上にマイクの準備をする人が表れて、立ち位置や机の設営をしているヴェロニカの姿も見つけた。
「今日の集会って何するの?」
「デモをするまえに趣旨を全員で確認したり、いろいろ意見を言い合ったりするんでしょ。早く終わればいいんだけど」
 腕時計を見ながらヨーコはそう答えた。
「もうそろそろ始まるみたいね。五分前だから」
 立っている人の数が少しずつ減っていく。壇上はすでに準備が整っており、照明の光が少しずつ絞られていった。座った人は全てデモ参加者。そのデモ参加者たちの目線は、壇上の光によって、ステージの一角に集まっていく。
 五分かけて、観客席の騒々しさが少しずつ消えていった。これだけの人間が集まってこんなに静かなんて不気味だった。シネマでさえこんなに静かにならないのに。真面目じゃないのは私だけなのだろうか。そう思い私はメリッサを見た。彼女はなにか深刻そうな面持ちでステージをじっと見つめていた。
 靴裏がステージを叩く音。司会者が現れた。厳めしい顔つきをしていて、なんだか同じイタリア人に見えなかった。
 開会の辞が、それはもう厳粛な響きのある声で述べられたあと、一同起立の号令が掛けられた。全員がざわざわと音を立てて起立する。私も立ったとき、メリッサが半テンポ遅れて立ったことに気づいた。
 拍手が沸き起こるなか、舞台袖から四人が一列に並んで現れ、壇上の座席に腰を下ろした。教頭先生とヴェロニカの二人は分かったが、後の二人は分からない。司会者が一人ずつ紹介を始めた。一人目は教頭先生。二人目と三人目は反マフィア・キャラバンツアーの実行委員の人らしい。そして最後に紹介されたのが、生徒代表のヴェロニカ。
 先の三人の紹介やスピーチは、耳から耳へとするりと抜けていったのだが、ヴェロニカの時は別だった。全ての言葉が私の中にいちいち留まっていく。
「モルヴィッロ・ファルコーネ専門学校の生徒代表として、この場に参加させていただき光栄です。私たちの学校は先日、反マフィアのイメージ・コンクールに出場し、私たちが製作したグラフィック・デザイン……『合法性を見つめよ』が高く評価され、優勝することができました。今回こうして、南部の各地方で反マフィア運動を精力的に展開しているキャラバン・ツアーの方々と、合同のデモ活動に参加することができるのも、このコンクールで成果を残すことができたからだと思います。私たちにできることは微々たるものではありますが、私たちのような将来のイタリアを支える若者が、こうして一致団結して意思表示をしていくことは、非常に大きな意味を持つだろうと考えております。本日はよろしくお願いいたします」
 緊張する素ぶりを全く見せずに、淀みなく挨拶を済ませて着席した。皆が拍手をしているなか、私は手を叩けなかった。何であんな奴が……まだ私はそんな風に思っているのだろうか。私よりもヴェロニカの方が、自分のやりたいことややるべきことをしっかり持っている。それでも私はまだ、納得できていないのだろうか。なぜか拍手をしなかった私は、まだ心の底では嫌な奴だと引きずっているのだろうか。
 その後、マフィアについてのドキュメンタリー映像を見て、デモの趣旨や集合時間・場所が司会者から伝えられたのち、観客が自由に発言できる時間となった。観客が自由に挙手をして、マイクを持って自分の意見を述べる。その意見をフォローし、膨らませていく形で、壇上にいる四人が発言していく。
 難しい言葉が次から次へと出てくるものだから、正直な話、私にはちんぷんかんぷん。でも、観客席から出てくる意見は、テレビで聞いたことがあるような、ないような、そんな雰囲気がする。ヨーコはというと、もう寝ちゃってて夢の中にダイブしてしまっている。私はメリッサのほうを見た。
 彼女はちゃんと起きていたし、静かに話を聞いていた。どこか深刻そうな表情をしていた。メリッサに似あわない顔だ。彼女の笑うところばかり見ているから、そんな風に思うのだろう。
 前の方に座っている、中年の男が一人、手を上げた。一般人のようだ。シャツ一枚を着た背中が私の席から見えた。
マイクがその男のもとへと手渡された。
「ごほん、ごほん。えー、今までの話を聞いてみて、私も考えたことがあるのでそれを話しますね。ふだんこの学校の非常勤講師として働いているリチニオです、どうぞよろしく。さて、いまやDIAは全く機能しなくなりました。DIAというのは……この場にいらっしゃる方々なら説明するまでもありませんね、申し訳ない。あのう、国はこれまで何度か法案を制定、整備してきましたが、あまり効を奏する結果には至ってないのが現実ですよね。特に私が思うのは、政府の経済に対する無関心さです。今や中小企業は銀行ではなく、マフィアから資金を調達しているんですよ。この地区を牛耳っているのは、サクラ・クローネ・ウニータでしたよね? ここはマフィアの中でも規模が小さいのですが、それでも資本主義経済への影響は計り知れないものがありますイタリア全土における影響は推して知るべし、といったところでしょう。ここまでマフィアが我が国の経済に癒着してしまったからには――これは私の個人的な意見ですけれども――少し荒っぽい手段に出るしかないと思いますね。とはいえ、暴力に訴えかけるようなことはしません。あくまで平和的な解決が最善であると私は考えます。今の時代において私たちにできることといえば、もはやマフィア無くして存続できない企業を、神の見えざる手が導くように淘汰していくべきではないかということです。マフィアは国立銀行よりも企業にとって魅力的な条件で融資します。マフィアが掲げるような条件でなければ、もうその企業はやっていけないということなんですよ。こういった企業は資本主義社会において負け組であり、すなわち淘汰されるべき存在ではないでしょうか。だから私たちができることといえば、マフィアが大きく関与している企業の商品を買わない、これに尽きるかと思います。今後のデモ活動は、具体的な固有名詞を伴う活動をしなければなりませんよ。さもないと、マフィアがますます付け上がってしまいますよ! マフィアが昼間から道の真ん中を歩くような時代が来てしまいます! どうか、私の意見も参考にしていただけないでしょうか。よろしくおねがいいたします」
 男はそう言って着席した。短く自動的な拍手が起こった。
 メリッサはまるで落ち込んだかのように、わずかに視線を下げた。今までそんなことを決してしてこなかったような、底抜けに明るい彼女が。とても些細なことかもしれないけれど、私にはその僅かな変化が非常に大きな(少なくともさっきの男の意見以上には)もののように映った。
「メリッサ、どうかした?」
「え? ううん、なんでもないよ」
「うそだ」
「う、嘘じゃないよ」
「思いっきり言葉を詰まらせてるじゃない」
「考えごとをしてただけだよ」
「メリッサは結構、真剣にマフィア対策を考えてるタイプなんだ、意外」
「マフィアのこととは……ちょっと違うんだけど」
「……ふーん」
 あまり聞いてほしくないのかもしれない。私はそれ以上突っ込むのは止めることにした、が、今度はメリッサが自分から口を開いてきた。
「なんだか、可哀そうだよね」
「え、可哀そう? 誰が」
「マフィアに協力して会社で働いている人たち」
「それは仕方ないわよ。やっちゃいけないことを、してしまったんだから」
「でも、さっきの男の人は、そういった人たちを助けようとする考えを持っていなかったじゃない。それって、なんだかひどいよ」
 壇上では、マフィアと癒着した企業の名前が次々と挙げられていた。それらは全て、私が今まで聞いたことも無いような中小企業ばかりだった。

 やっと集会が終わって席から立ち上がった。結局最後まで寝ていたヨーコを起こした。日本食の「スシ」を食べている夢を見ていたと彼女は話した。ずっと眠っていたらずっと食べていられたのにね。
 大ホールの出入り口を抜けて正面玄関まで歩いた。一面ガラス張りになっている壁から西日が強く差し込んできた。ブエンディジは今日も晴れ。こんなに天気がいいのに、どうして私は、あんな薄暗いところで長々と話を聞いていたんだろう。
メリッサは腕を伸ばして大きく回し、いつものあの笑顔を浮かべた。今朝見たときとは違って、笑顔というよりは微笑みを見せていた。
「メリッサの笑う顔を見ると、なんか安心するわ」
「そう?」
「殺風景なところでマフィアがー麻薬がー殺人がーって物騒な話をずっと聞いていたじゃない。気が滅入りそうになるもの」
 私たち三人は外へ出た。綺麗に折りたたんでいた服を思いきり広げた。ずっと同じ体勢だったから、歩いて膝の関節を動かすと気分が良くなった。ちょうど映画を見終わって外に出たときと同じように、周りのものがいつもよりやけに明るく見えた。光が目を刺激しなければ、私たちは色も形も見えないらしいが、そんなごく当たり前のことが改めて実感させられた。
ヨーコに時計を確認してもらった。集会は正午過ぎから始まっていたから、今は夕方ぐらいだろう。
「日暮れにはまだ早いわ。これからバールにでも行かない? 私お腹空いたし」
「あんたは夢ん中でスシ食べたんでしょうが」
「まだ足りないって」
 その足で学校から歩いてすぐのバールに立ち寄った。かなり混んでいるようだ。店員に待ち時間がどれぐらいか聞こうと思ったが、狭い店内で客たちは大声で話すから、老けた店員の耳に全く届いていない。まったくもう、と私一人ならばすぐに家に戻るところだけれど、今はメリッサとヨーコがいる。席が空くまで話のネタが尽きることはなかった。
「そういえば、店舗見学もう終わった?」
「昨日行ってきたところだったのよ。メリッサと」
「へぇ、どうだった?」
「お呼びでないわって感じ」
「あぁ……やっぱ専門校生だと舐められるんだ」
「うん。遊び感覚でやっている人が多いと思われてる。あと、あの店員は若者を嫌っているっぽい」
 メリッサはトイレに行ったきり、まだ戻ってこない。何をしているのだろう、と思い店内を見回した。すぐに見つかった。直角に曲がっているカウンターの角の側に、彼女の後姿がある。「ジャン・アンドレ」のガラスのピアスが、二つ点々とこの距離からでも見える。
「ん?」
 よく見ると、小さな子どもが二人、メリッサを捕まえて何か頼みごとをしているらしい。その小さな子どもはお店の中でお店を構えていた。輪投げ屋だ。彼女は輪投げ屋さんのお客になっていた。賑やかなバールの中にいると、いろんなことが起こる。
 輪は、おそらく針金と新聞紙で作られている。いかにも子どもらしい手作り感溢れるものだった。
「手作りって不思議ね」
 ヨーコが口を開く。
「手作りだと、なんだか子供じみた雰囲気になる」
「実際子どもじゃない、あの子たち」
「ファッションデザイナーは、ある意味手作りと思わない?」
「そうね。ということは……」
「大人になっちゃダメなのかもね」
 メリッサが構えた。棒を持っている少年に向かって、メリッサは輪を投げようとしている。少女は、タイルで敷き詰められてできた線をよく見て、踏み越えることがないか確認している。
 メリッサが輪を投げた。しかし棒を持つ少年はいじわるをして、急に棒を横に動かして輪を回避した。えっ、という反応をしているのが背後からでもよく分かった。
「前から思っていたけれど、メリッサって私たちとは根本的なところで違うよね」
「そうかしら」
「あんなふうにガキと一緒に遊べてるだけで私たちと違うじゃないの。私ら、あんなふうに真面目に遊んであげられる?」
 二投目も外した。少年の動きを考慮して、メリッサはわざと棒の少し横の辺りに投げていたようだが、少年は動かなかった。
「無理。あの男の子とか、いかにも悪ガキって感じだし。さっさと戻るのが一番だって考えちゃう」
 三投目。メリッサは棒を狙わなかった。少年の頭上を狙ったのだ。予想外のことだったらしく、投げられた輪を少年は避けなかった。頭の上に輪が乗った。その様子を見て、少女が手を叩きながらぴょんと跳ねていた。
 その時、店の奥からクラシックギターの音が鳴り響いた。カウンターを曲がった奥からだ。客が幾人か立ち上がって踊りだしている。これは強制参加させられるのだろうなと思ったら、案の定陽気そうな男がメリッサを連れて店の奥へとひきつれてしまった。
「……え、大丈夫? あれ」
「メリッサなら平気でしょ」
「見てくる」
「心配しなくても大丈夫だって」
客の隙間を縫いながら店の奥へと向かう、と、そこには腕を組んでぐるぐると回るメリッサと中年の男の姿があった。このエロオヤジがー! と叫ぶにはあまりにも陽気でノリノリな雰囲気。
「あ、セレーナ? ごめん、待たせちゃって」
 なんてこった、私だけが置いてけぼりじゃないか。
要らない心配をしたりするのは、全く子どもじゃない。


2012/5/19


 今朝は喉が痛かった。唾を飲み込むたびに痛む。
だからあまり食べたくなかった。朝食はビスケットだけにしよう。それに、今日は土曜で父親が家に居る。本来なら私も今日は休みになるはずだけれど、デモのおかげで家に居ないで済む。早く学校に行きたい。
 ビスケットを手にして、チョコレートクリームのカップを開けて、クリームを掬うようにビスケットに塗りつけて食べた。
「……げ」
 指に付いてしまった。洗いに行くのも面倒くさいので舐めとった。私の唾液とチョコレートクリームが混ぜ合わさって、指先がぬめった光沢を帯びた。「汚いから手を洗いなさい」と父の声。言われなければ分からないのか、とでも言いたいような口調でこれみよがしに。後で洗うつもりだったし、別に自分の指を舐めとるぐらい許してくれよと言いたい。言いたいけど言えない。家の中にいるっていうのに。
 休日のお父さんは、ブランチとして料理を食べることが多い。だから今日食べているのは、フォカッチャのフレンチトーストだった。卵や牛乳を含ませた後で焼くのだが、焼き過ぎて焦げてしまっていると思った。このまえホットケーキを焼いたときも焦げていた。フライパンが熱に馴染んでからでないと、綺麗に焼くことができないのだ。
しかしお父さんは気にすることなく、ナイフでフォカッチャを一口大に切っている。切るたびに黄色い中身がぐにゅりと出てくる。見ためが良くない料理だと思った。サニーサイドアップの黄身のように、一口で食べることはできないのだろうか?
 お父さんはテレビを付けた。あれ、朝食時にテレビを見るのはダメじゃなかったんですか? 朝のニュースが流れた。民間放送ではないチャンネルだからか、ひどく地味なセットだ。ニュースキャスターの野太い声が、昨日の出来事を報道していた。ニュースの内容よりも、キャスターのその声やスーツの着こなしばかりが目に入ってしまう。紳士服には疎いので詳しくは分からなかったが、少なくとも量販店で買ったような安物では無いことは確かだ。テレビ局に勤めているぐらいだから、なかなか高級なものだろう。休日の朝からそんなものを見てみたい国民が果たしているのだろうか。
今日は報道する量が多いのか、ニュースとニュースの合間の時間がほとんどない。立て続けに原稿を読み上げている。分かりやすく、見やすく、楽しく、なんてサービス精神はなくて、とにかく必要以上を求めない。過不足無くニュースが行われる。早く終わらせることしか考えていない。まあ、そんなものだろう。仕事なんてなるべく短いほうが良いに越したことはないのだから。
ビスケットの粉が喉の奥に絡みついたのか、喉の痛みが酷くなり始めた。私は牛乳を飲んで、居間を出ることにした。昨日の集会が終わった時に配られたプリントに、集合時間と場所が書かれている。専門学校生はまず、午前中にプラカードの作成を準備しなければならないらしい。デモをする場所は大聖堂前。
外に出た。天気は確認するまでもない。晴れだ。いつか地中海が干上がるに違いない。そのまえに私が干上がってしまいそうだ。雲が全く浮かんでおらず、激しい直射日光が歩道を焼いていた。クリームを塗っても日焼けは防ぎきれないかもしれない。どうしても塗れない部分、たとえば頭皮なんかは、もう真っ黒に焼けて焦げてしまっているかもしれない。通学路を歩くと、道路にデカデカとグラフィティが描かれていた。昨日の内に誰かが描いたんだろう。ブリンディジは、うんこの数と同じかその次ぐらいに、グラフィティの数が多い。この街からマフィアが消え去るなんて無理な話じゃないかと、ふと思った。
うんこといえば――メリッサは太陽の匂いを知っていると言った。
空を見上げた。まぶし過ぎてあの光を直視することはできない。目がやられてしまう。匂いなんてあるわけがない。暗喩かなにかだ。メリッサは詩人なんだから。
 しかし私は鼻を動かしていた。匂いらしきものは全然、私に入ってこない。犬と同じだ。虚しさの匂いは分かった。無臭だ。
 はっと視線に気づくと、バス停留所前で片手のコンパクトを手にしながら化粧をしているヴェロニカがいた。不審そうな目つきで私をじっと見ていた。つまり、私はこいつに、鼻の穴をくんくんと広げているところを見られたわけだ。自分への怒り半分と恥ずかしさ半分で、カッと血流が早くなって余計に暑さが増した。
「……なによ」
 そう言って強がるのが精いっぱい。ヴェロニカは何も見なかったかのように、再びコンパクトを開けて、その鏡で自分の髪型をチェックしはじめた。無反応、というわけだった。屈辱的な無反応。ちくしょう。でも、正直都合がいい。昨日みたいに会話がこじれて「太陽の匂いを調べていたのよ」なんて言ったら、いよいよ表情の固い彼女も鼻で笑い飛ばしにかかるに違いないからだ。
こいつはメリッサと正反対の位置にいる。反マフィアのデモやイベントを指揮する立場。そんなことをして一体何になるの? と素直に思うのだけれど、彼女は私より何歩も前を歩いている。向かう先が違うだけで、彼女の方がよっぽど活動的だし、決断力も行動力も、度胸もある。くそ、なんでこんな奴を私は褒めてやらなくちゃならないってんだ。今朝出来たばかりのグラフィティの絵でも見せてやろうか? だいぶ前から放置されっぱなしのうんこ(遺伝子組み換えでない)の場所まで案内してやろうか……うわ、止めよ、最低なことを考えてる。
待ち時間のあいだ、私は携帯電話をいじることにする。といっても何をするでもなく、もともと携帯に内蔵されているしょぼいゲームをするだけだ。
バスが来て乗り込んだ。今日は私が先に乗ることにした。扉が開けてすぐに私はステップを踏んだ。それなのに勝った気はしなかった。
後ろの席に付き、ぐん、と背中から押される感覚があって、バスが発車したのだと分かった。私はメリッサが来るまで、携帯電話を手放さなかった。
メリッサが乗り込んできた。彼女は教科書を持っていた。比較的座学や暗記事項が多い「色彩論」のテキストだった。
「ねえ、悪いけどこの範囲から問題出してくれない? 週明けにテストなんだけどまだ自信無くて」
 メリッサがいつものように、私の隣に座ると、そう言ってきた。彼女は暗記科目が苦手だった。今メリッサが学んでいる「補色関係」の分野は特に機械的な暗記を要求される。
「赤は?」
「緑。赤と緑はクリスマスカラーだもんね」
「へえ、そうやって覚えてるんだ」
「じゃないとすぐに忘れちゃうもの」
 私は次々と問題を出していった。
「青には?」
「白だよね。空と雲の色合い」
「紫は?」
 メリッサはお気に入りのあのピアスを私に見せた。紫色と黄色を基調にしたピアスなのだった。
「緑は?」
「赤。自然と太陽の色合い」
「さっきクリスマスカラーって言ってたじゃない」
 私が笑って言うと、彼女は「今は冬じゃないから、夏バージョンだとこういう覚えかたなの」と苦笑いして答えた。ただの暗記なのに、これだけ面白くできるなんてすごい。
 窓にはいつもの景色が流れていく。昨日は、そのいつもの景色を見るのがやるせなかった。ブエンディジは今日も晴れて、昨日も明日も晴れる。永遠に変わらない通学ルートを見ているうちに、永遠にこのまま私は何も選ぶことができずに、時間に押し流されていくのだろうと。
でも今は違う。青と白の補色。赤と緑の補色。光の中から生まれた色たちの、運命の組み合わせ。ブエンディジはこれだけの色に満ちている。
「補色の定義は?」私は尋ねた。
「えーと……相乗効果を及ぼし合う色彩関係のこと。補色同士の色の組み合わせは、互いの色を引き立て合う。補色調和とも呼ばれる」
「ただし?」
「ただし、明度が同じだとハレーションを起こすことがあるので注意」
「よくできました!」
 バスのブレーキ音が聞こえた。学校の前に到着したのだ。
バスの中にあるデジタル時計の時刻を見た。液晶ディスプレイにAM7:40とある。集合時間まであと二十分。時間に余裕がある。
「ねえ」
「ん、なに?」
「太陽の匂いって、どんな感じなの?」
 車が完全に止まり、ビープ音が鳴って扉が開いた。乗客たちが降りる準備を一斉に始めた。
「教えてあーげない」
「なんでよ、ケチー」
 そう言って彼女はショルダーバッグを担いでバスの出入り口へと向かった。私も出ようかと思ったが、危うく携帯電話を置き忘れていることに気づいた。
「あっ、ごめんメリッサ。先に行ってて」
そういえば一人でゲームをしていたんだっけ。メリッサと話をしているうちに、すっかり忘れてしまっていた。さすがに携帯電話だけは、無くしてしまうと困る。座席の上にない、となると床に落としたに違いない。荒っぽい運転だから油断しているとすぐに落ちてしまう。
「あれ?」
 携帯電話が圏外になっている。おかしい。バスの中でも電波は通るし、今は屋内にいるわけでもない。校門前、完全に外にいるのに。……まあいいか。
 バスの運ちゃんが私に早く降りろと告げてくる。分かってますって。今からメリッサやヨーコと一緒に学校だ。しばらく携帯は使うことがない、から電源を切っておこう、と思い電源ボタンを押す。メロディ音とsee youという文字。映し出されていた時刻は午前7時45分。ディスプレイが消えた。
 轟音が私の耳元で鳴り響いた。
 その音に瞬時に反応したが、それよりも早く圧倒的な力で押しつけられた。窓ガラスが割れるのが一瞬見え、思いきり目を閉じた。バスの中なのに派手に揺れる。頭に何か固いものがぶつかる。と同時に、天地の感覚が分からなくなった。
 耳の奥がジンジンと痛む。鼓膜が破れたのかもしれない。右耳か左耳か、どちらかがよく聞こえない。
 恐る恐る目を開けた。趣味の悪い抽象画のように、私の視界が斜めに傾いている。バスが傾いているのだ。ちょうど、タイヤが一個取れてしまったかのように。
 口の中で血の味がした。ぺっぺっと吐き出すと小さなガラスの破片が出てきた。口の中を切ってしまったらしい。自分の血は錆びた鉄のよう。服を見てみると、細かなガラスの破片がキラキラと光っている。何が起こっているのか分からない。
 とにかく立ち上がった。体に異常はない、と思う。全身を見回しても致命的な怪我は見当たらない。その時、床に一冊のテキストが落ちていることに気づいた。「色彩論」のテキスト。
「……メリッサ!?」
 傾いているせいでうまく歩けない。座席の手すりを頼りにしながら、出入り口まで歩く。歯がカタカタと震える。バスの運転手が運転席で倒れたまま動かない。窓ガラスが踏んで割れる音。なんでもいい、今はメリッサを……。
「メリッサ……」
 煤が舞い上がっていた。思わず咳き込んだ。まだ煙が残っているらしく、目が沁みて涙が出てきた。涙が現実を覆い隠そうとしている。
「メリッサ……!」
 倒れている人間がいる。もう進みたくない。誰かのカバンが破れてノートが燃えている。喉が痛い。喉が猛烈に痛い。突風が吹いて塵が私の顔に思いきり拭きつけてきた。目をつぶる、その場にうずくまる。メリッサはどこにいる……。
 誰かが足首を掴んできた。
 思わず叫び声をあげて飛びのいた。誰かがいる。倒れている。服装に見覚えがあった。髪型にも。それは
「ヴェロニカ……ヴェロニカ!」
 彼女はうつ伏せになっていた。背中が焼けただれていた。服も破れて形を残していなかった。私は思わず駆け寄ったが、私には何もできない。腕がぬるりと剥がれ落ちそうになっている。皮膚が剥がれて血管や筋肉がむき出しになり、中から透明な液体が染み出していた。肘関節から骨が見えた。
「ヴェロニカ! 聞こえる? ヴェロニカ!」
彼女はコンクリートの地面に張り付いた腕を剥がした。激痛を押し込める彼女の声。やっとの思いでヴェロニカはある者を指さす。震える指の先には、物言わぬまま転がっている金網のゴミ収集箱があった。そこからはまだ煙が吐き出され続けていて、青空を霞ませた。そして、そのゴミ箱のすぐ傍で、可燃ごみの塊のようなものが燃え盛っている。
 彼女のショルダーバッグが、あの可燃ごみの中に入っていて、有機物を燃やす独特の刺激臭に頭がくらんだ。
 這って進んだ。燃える火の熱で汗が流れた。火の中に手を入れる。むしろ冷たいと思った。中の形を確認した、冷たく、丸く、固い。「ジャン・アンドレ」は、どこにある。目に汗が染みて痛い。もう涙は出そうにも出せない。
 手の中にあるメリッサに触れ続けた。
太陽を見た。直視できた。遥か遠くで、輝いていた。


2012/5/20


 太陽は宇宙の果てで、何億年間もエネルギーを放射し続けて、自然に恵みを与え、メリッサに力を与えることができた。人間はゴミ箱の中で、一瞬間だけエネルギーを炸裂させて、命を奪うことができた。最初にニュースを聞いた時の私の感想だった。野太い声で報道された。何処のニュースも同じことを言った。私たちを哀れみましょう、と後になってテレビは騒いだ。何もかもが遅すぎると思った。両手にギブスを巻いているから、一人でカーテンを閉めることができない。だからヨーコに閉めるように頼んだ。ヨーコが躊躇うと、私はヨーコに怒鳴り付けていた。手術服のような緑色のカーテンで窓を隙間なく覆い尽くした。頭上から照らされる蛍光灯の光で一日を過ごしたかった。
 両親も駆けつけてきた。私が生きていると知り、母は緊張の糸が途切れて安心したらしく、泣きながら抱きついてきた。父も心配していたようだが、場を乱すようなことは決してすることなく、じっと立ったまま見つめていた。
ヨーコの話だと、ヴェロニカは両親が現れたときに、声を出して泣いたそうだ。父親も母親も、その時ばかりは気丈なヴェロニカの側にずっと付き添っていた、と。
「……だから、余計に不安なのよ。セレーナ……」
 私の反応はとても薄いものだったから、と彼女は続けて私に言った。
「外見と内面は正反対の法則よ」
 私はそう答えた。
 事件のあらましはこうだ。学校の校門前に設置されていたゴミ収集ボックスの中に、ガス爆弾が設置されていたらしい。爆発当時、近くにラジコンを持った男が一人、監視カメラに映し出されていて、遠隔操作で爆破されたことが分かった。すでにその男は逮捕されている。検察当局は「マフィアが事件の背後に関与している公算は小さい」と指摘している。そんなはずがない。犯人は恐らくヴェロニカを狙ったのだ。外道のマフィアの下っ端がヴェロニカを殺すことで、良い見せしめにしてやろうという魂胆だったに違いないのだ。そして、男が奪ったものは、けしてそれだけではない。
 もう二度と、晴れないでくれ。どうか、もう。
テレビでは、私たちの間に起きた事件のことを、尺稼ぎの題材としてとりあげていた。だからすぐにテレビも見なくなった。
 メリッサのお父さんと初めて会った。お母さんは発狂して気を失ってしまっていると言った。私はヨーコに「ジャン・アンドレ」のことをあらかじめ話していたから、お父さんは持ってきてくれた。塗装が無くなって、ガラスだけになってしまっている「ジャン・アンドレ」のピアス。私は布団のシーツで磨いた。シーツはみるみる黒ずんでいったが、構わなかった。
 汚れはある程度落ちてきたが、それでも輝きは無い。ピアスだけを見ると、塗装が無くなったことを抜きにしても、そこに価値も魅力も無くなってしまっていた。これは彼女の耳に付けられて初めて、人を魅了することができたのだ。誰かが埋め合わさなければならない、しかし誰も埋め合わせることはできない。
 メリッサのお父さんが帰ってしまってから、そのピアスを手にしたことを後悔し始めた。こんなものを持っていたら、私は永久に彼女から離れられなくなるような気がした。いつまでも彼女の側に居続けて、いなくなってもまだ居続けようとするような、弱虫な人間だと自分で認めてしまうことになる。深夜になって、太陽がもう空にないころ、私はそのピアスをゴミ箱に捨てた。
 勉強しなくなって、ずっと病室で横になっている。ここには楽しみも何もない。寝ては覚めてを繰り返し、病院食を食べさせてもらって命を繋いだ。手が火傷して当分動かすことができない。とにかく冷やして皮膚の回復を待つだけ。マンガも読めない。できるのは、寝るか食べるか。そして、この病院生活が終わったら、留年しないように必死で勉強して、フェンディやベネトンに入社するための準備をして、その結果どうにかなってこの学校を卒業して、もう行かなくなる。
 そして人生のどこかのタイミングでメリッサのことを忘れてしまうのだと思った。彼女とは違って私は大人になり、ただの大人になって、そのまま死ぬべき時まで生き続ける。
 天気予報では、明日は晴れるらしい。
 ヨーコが現れた。あれからどれぐらい時間が流れたろうか。カーテンを閉めたまま時計も無い部屋でずっと過ごしてきたから、時間感覚がなくなっている。まだ五月十九日のままのような気がするのだと私は言ったが、実際にはそれ以上の時間が流れているという話だ。ニュースのほとぼりも冷めてきたとヨーコは言った。
「すぐに興味を無くしてくれるんだね。ああいう人たちって」
「マスコミなんて、今のあなたにも私にも関係ないことだわ。気にする必要なんか全くない」
 カーテンを閉めたままにしているのを見たヨーコは、そこに手をかけようとした。
「止めて!」
 私の大声で彼女は手をひっこめた。そして同時に、私の方をじっと見る。
「なんでよ……おねがい、カーテン開けよ? これ以上屋内に居たら……」
「やめて。絶対に、やめて」
医者と看護婦が現れた。冷却剤の入れ替えをした。私に励ましの言葉を懸命にかけてくれた。
 そろそろ寝ようと思った。一人寝ながら思った。もしかしたら、もう無理して生きる必要がないのでは、と。
 朝食にサニーサイドアップを焼いてもらった。食べさせてもらう看護婦に言った「決して黄身を破るな」と。しかし、ナイフがなかったこともあって、看護婦が破いた瞬間に食欲が失せてしまい、そのまま下げてもらった。
 病院の中は何もかもが人間によってコントロールされている。だから、人間以外の動物にとっては非常に過ごしにくく、それは雑菌でさえも過ごすことはできない空間。人間のためにだけ作られた人工的な庭園だった。私はこのまま、メリッサのことを忘れていく。あの事件ごと記憶が風化していくのを見守り続ける。それまでの間に、これからも生きるかもう死ぬかを考えていけばいい。
「セレーナ、お願いがあるの」
 ヨーコの声が聞こえた。
「あなたに見てほしいものがあるの」
 DVDディスクを一枚、手にしていた。
「太陽よ、セレーナ」
「何の話……」
 ヨーコは日本の話を始めた。このディスクの中には、日本で実際に撮影された映像が入っていると彼女は言った。何が言いたいのだろう。私が何も言わないでいると、彼女はテレビに備え付けられているDVDプレーヤーの電源を入れた。テレビのスイッチも入った、久しぶりにテレビを付けた。


eclissi solare anulare


 丸いものが映しだされていた。私はそれが、太陽だとすぐに分かった。特殊なレンズを通して撮影されているらしく、形がはっきり見て取れるし、眩しくない。
 やがてその太陽に、何か黒い影が現れた。太陽の丸が、まるで月のように欠けていく。
 しかし月のように、太陽が全て欠けていくのではなかった。 
太陽の欠けた部分が少しずつ太陽の中心へと集まっていく。
 日食だ。これは月が重なっているのだ。
 そして完全に月が太陽と重なった瞬間、映像に映し出されていたのは光のリングだった。
「もし彼女が生きていたら、見せてあげたかったのだけれど……」
 ヨーコが静かに口を開いた。
太陽と月はまた少しずつ離れていく。
「この日、日本中の人々が空を見上げたわ。あの事件が起こった朝の時刻と、ほぼ一緒の時刻にね」
 太陽と月が完全に重なってリング状になるのは、滅多に起きない現象だ。
 彼女は太陽の匂いを嗅ぐことができた。それはたぶん、暗喩なんかではない。きっと彼女は本当に太陽の匂いを嗅ぐことができたのだ。幼い頃に両親の匂いを覚えるように、彼女は太陽の匂いを知っている。太陽は彼女の死に悲しんで、綺麗な円が欠けて中身が無くなってしまった。あのピアスと同じだ。所有者がいなくなって、ただの抜け殻になってしまったのだ。
「……ヨーコは最低よ」
 映像が終わった。彼女は取り出しボタンを押して、ディスクを取り出した。
「こんなの見て、何になるって言うのよ。こんなの見なくても分かってるわよ。もう彼女はいないってことぐらい」
 声が震えた。爆風に嬲られて燃えてしまったのをこの目で見た。もう彼女がいないことぐらい分かる。目をつぶっていても
離れない。このまま自分の腕が壊死して切り落とされてしまったって、あの火の中で触れたメリッサの感触を忘れ去ることはない。
「そうじゃないのよセレーナ。私は……」
「帰って」
 もう、たくさんだ。
 ここは四階の病室。足だけは動かすことができる。窓を開ける方法だけがないが、看護婦に言えばいい。あと必要なものは、覚悟。目の前に居るヨーコや、お母さんやお父さんを悲しませることになる覚悟。
「……帰らない。私の話はまだ終わってない」
「一人にさせて」
「セレーナは、メリッサのことを太陽だと思っているでしょう」
「……」
「カーテンを開けない理由、それしかないと思った」
「……」
「私も同じことを考えていたのよ。彼女は太陽から生まれてきたんじゃないかなって。彼女の笑った顔を見てると、いつも太陽が頭の隅にちらちらと見えてくるもの」
 太陽の匂いを知っていたのも、サニーサイドアップの黄身をまるごと食べることも、子どもたちと子どものように遊ぶことができることも、そしてあの笑顔も。
「メリッサは、あなたの言っている通り死んでしまったわ……太陽は中身を欠いてしまっている」
ヨーコは私のベッドの側にゆっくりと近づいてきた。私はそれを拒否しなかった。彼女が太陽であることを、ちゃんと聞いてくれる人。それは、お父さんでもお母さんでもなく、ヴェロニカでもなく――彼女しかいないだろうと思うからだ。
「――あなたが、欠けた太陽の中身を埋めるのよ」
 光のリングが私の目の裏に浮かんだ。
「メリッサの、ファッションデザイナーになる夢を受け継ぐことができるのは、貴方だけよ。あなたが太陽の穴を埋めることができたら、世界はまた明るく輝きだすはず」
 メリッサは、太陽の匂いを知っている、と言っていた。
「彼女のように太陽の匂いを嗅ぎ取れるのは、あなたしかいない。……あなたにできなくて、誰ができるのよ?」
 ヨーコは、私の肩に手を置いてくれた。
 それは、私がメリッサの代わりになる、ということだ。
 そんなことができるとは思えなかった。彼女に比べて、私は劣等感というものをたくさん持っている。とても太陽のように明るく振る舞うことはできない。自分の将来も決められないし、人を茶化すことでしか、誰かの友達になれない……。
 ヨーコは、カーテンに手をかけた。私のベッドの上に、光と影の斜線が入り込んだ。曖昧になっていた時間と、散らばって宙づりになっていた意識が、明確な形を成して戻ってきた。
 ブエンディジは今日も晴れている。


 2012/ oneday


 腕に残った火傷の痕を完全に消すことはできなかった。しかし、そのほうが事件の記憶を残すことができると思った。
 事故現場には、花束が集まって一つの道を作っていた。
有志団体が作ってくれた巨大なボードには、メリッサの肖像写真が印刷され、その周囲に生徒から一般客まで思い思いに言葉を書き連ねていた。こういう板であっても、心ないメッセージを書き込む人間はいる。グラフィティが毎日のように街のあちこちに発生し、マフィアが経済を支配するような街。それがブエンディジであり、彼女が生きた街の偽らざる姿だ。
 しかし、そんな面白半分の悪戯だって、メリッサは笑って見過ごすに違いない。どんなに頑張ったって、彼らは空に落書きをすることはできないし、どんなに権力をもったマフィアも太陽の所有権は主張できない。
 今、私の両手にはピアスがある。あの「ジャン・アンドレ」だ。本来はここに置いていくべきだろう。しかし、結局私と彼女を繋ぐものは、これしかないのだ。
 私はメリッサの肖像画の前に立ち、そのジャン・アンドレを耳に付ける。まずは右耳。ピアスはこれが初めてだ。慣れないので少し手惑ったが、手を離すと耳たぶにわずかな重みが生まれた。そして左耳。お父さんにどうやって自分の本音を説得するか、考えてみよう。                 
                        終わり
時乃
2012年06月18日(月) 22時01分00秒 公開
■この作品の著作権は時乃さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
長いですが、面白いかどうかはちょっと怪しいです。
時間に迫られながら書いたので恐らく手癖やボロが出てるかと思います。皆さんの意見を聞きながら、弱点克服に努めたいところです。

この作品の感想をお寄せください。
No.1  蒼井水素  評価:40点  ■2012-06-23 20:38  ID:6zCOl8wTAds
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拝読しました。

面白かったです。

他の場所で偶然お見かけしましたが、実際にあった事件を基にして書いたそうですね。

時乃さんの書くお話は、少しとっつきにくいのですが、投稿されるとつい読んでしまうような、なにかがあって、不思議な魅力があります。私は良い読み手ではないので、具体的におもしろいのはここ! といえないのが悲しいのですけれど。人に説明しにくい面白さ、とでもいうのでしょうか。

今回は、とくに女性達の描き方がとても魅力的だと思います。魅力的な女性、ではなくて、女性の描き方が魅力的。善人ではないけれど、悪人でもない、というような。人物をうすっぺらくしないように苦労なさったのだと思います。

ただ、最後はどうかな、と思いました。セレーナの立ち直り方がはやいような気がします。爆発も死もいいのですが、終わらせるためにこうした、という感じが、私にはしました。

まあ、自分を棚に上げて人様のことをいうのも、あれなんですけどね。

個人的にはこのお話、「え、もう終わり? 続き読みたいんだけど、もうないの?」と思ったので、−10点しました。アバウトな採点ですみません。

それでは。
総レス数 1  合計 40

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