真玉橋の義良 |
真玉橋の義良 一 久米村(那覇にある帰化人の村)にある孔子廟境内の共同井戸には屋根があった。屋根を支える壁はなく、四隅に建った四本の石柱だけで赤瓦の屋根を支えていた。屋根の下は六畳ほどの立派な石畳になって、そこには珊瑚礁を削って平らに並べてあった。 時は、十八世紀中葉で琉球王府が疲弊していた尚敬王(十三代)初期である。真夏の昼時前に、この共同井戸で二人の婦人が洗濯をしている。一人は白髪の老婦人で、気品に溢れた顔の蔡老人であった。もう一人は小柄で浅黒い、四十がらみの婦人だった。二人は揃って紐で袖を襷に括り、袂を勢いよく絡めて洗い物に勤しんでいる。後からついて来るようにやってきた小柄な婦人が、意味あり気に老いた蔡婦人に話しかけだした。 「物騒な世の中になりましたなあー。ねえー、あなた知っている? この頃ね、一ヶ月に一度は必ずねえ、那覇町のどこかを義良が荒らし廻っているそうよ」 老いた蔡婦人は訝しく、小柄な婦人を見返したが、浮かぬ顔でいた。 「あら! あんた知らないの? これだから女は馬鹿にされるのよ。女だって一応は、世間で何が起こっているかぐらいは知らなければね」 人なつっこい笑みで話す小柄な婦人は、いつも慇懃な蔡婦人に得意になって云っている。始めての人なのに物言い種が気に入らなくて、黙って洗い物を揉み続けていると、小柄な婦人は僥舌である。 「実はねえー、昨夜は若狭町(那覇四町のひとつ)の金持ちが狙われたそうよ。兼山の旦那なんだけどねえ。兼山の旦那って知ってるでしょう。海岸に大きな穀物倉庫を三つも持っている商人よおー、その旦那なんだけどね、昨夜ガーブ川(今の那覇の繁華街を南北に流れる小川)で殺されたらしいのよ。縛ったままマーラン船(帆掛け船)諸共、枯れ草で焼かれた惨い死様だったそうよ。お取り調べの役人が云うにはねえ、義良の仕業と云っているんだって。でもねえ…、義良はそんなことするかしら? 義良は今まで人を殺害したって聞いたことないものねえー・・・そうそう、兼山の旦那はね、山原(沖縄島北部)で芋や米の食糧をマーラン船に、一杯買い出した帰りだったそうよ。勿論、食糧は抜き取られて、ピタ一粒たりと残って無かったらしいげどね」 洗い物の手を休め、抑揚をつけた口調で、滑らかに話す小柄な婦人は、腰紐に挟んだ色褪せた手拭いを引っぱり出すや、 「こんなにしてね、義良は頭からほっ被りをした大男らしいのよ。それがなんの逃げ足の早いこと猫のようだと云うわ。身軽で屋根伝いに飛び走るというのだから…でもね」 小柄な婦人は急に喜悦した小声になり、蔡婦人を撫でるような眼で、 「義良たらね、金持ちの家から盗んだ金品を、貧乏人に分け与えている、という噂も確からしいのよね。まあ…、とりあえず我が家ならば投げ込まれる方かな。義良さんだって我が家に上がり込んだら、貧乏なのに吃驚するだろうからね」 と云うや、 「あっ、は、は、はあ…」 小柄な婦人は他愛なく嗤いこけて云う。それを脇目で感心仕切って聞いていた蔡婦人だったが、心なしか次第に表情が強張っていた。 (それどころじゃない)との思いが込み上げていた。心痛を煩わす息子は一体、どこで何をしているのやら? 盗人などしてはいまい、と思いながらも我が身に置き換えてしまう辛さが、彼女を無口にしていたのであった。 「ねえー、あんた聞いてるの? 云いたいことは、これからだからね!」 と、一段と大声を張り上げて、女は黙々と洗濯をしている祭婦人を振り向かすのだった。 「ところがねえ、ねえー、聞いてよ。胸がスーと、するんだから・・・全くねえ実の噺、義良は兼山の旦那を助けようとしていたんだって・・・盗賊は役人だった、て訳よ。この時、薩摩武士三人と、筑佐事(警備の役人)の連中を十五人ばかり斬り捨てた、というのよ」 (いつの間にやら兼山の旦那の犯人は、義良に仕立てている。義良は殺害できる人じゃないと、つい先ほど云ったばかりなのに…)と思うと、 「この嘘つき。一人で十五人も殺傷できるか!」 蔡婦人はしゃがんで洗濯しながら、法螺吹き婦人に聞こえぬように吐き捨てた。それから蔡婦人は立ち上がり、話しかける婦人を無視して、いそいそと釣瓶の紐を手繰り寄せ、水を汲み出しては盥に水を溜めていると、 「ね、痛快な噺でしょう。この噺を聞いたとき、ほんとに私、手を叩いて悦んだものよ」 両手をポンポン叩いて紅潮して近づいて云う。しかし、蔡婦人の反応はなかった。小柄な婦人は開いた口が塞がらないとばかりに近寄って、 「あら! すてきな噺じゃない。嘘でも痛快な噺じゃないの?」 と云うや澄ました顔で、 「そう、そう。あなたのところの息子さん」 と、態とらしく云うのだった。仰天した蔡婦人は釣瓶を握ったまま、小柄な婦人をしげしげと見返したが、やはり、見たことのない人である。 あの事件以来、蔡婦人の周りでは息子のことは禁句になっている。それは誰にもある触られたくない心の奥にしまっているものだった。ところが、小柄な婦人は平気で蔡婦人の心奥を逆撫でるように云う。 「誰だったかなあ…。多分、進貢船(当時は清国)で行った池城親方の付き人で、程順さんが話したのを、又聞きした噺だと云っていたが、清の福州で見たという噺を聞いたのよね。清人のように髪を長くして、船に積み込む荷物を調べていたと云うのよ。程さんはこの人が、あまりにも蔡源に似ているので近づいて、『あなたは、琉球の方ですか?』と、琉球語で尋ねたら、蒼白な顔をして船の中に逃げ込んで行ったと云うのよ。船の中まで追いかけて、尋ねることが出来る訳がないものね。諦めて程さん、引き返したらしいけど、あの人は蔡源に間違いなかったと、みんなに云いふらしているのを聞いたのよ。もう、何年も前の噺だけど、あんた聞いてないの? この噺を…」 世間の噂噺というものは、当人よりも遙かに前を進んでいる。と、蔡婦人はつくづく感心してしまった。しかし、このまま黙っていれば、沈黙が相手の意見に同意したようで、恐くなり出した蔡婦人は、 「さあー、始めて聞く噺だけど…」 と、釣瓶の紐を握ったまま傍らの婦人に素っ気なく応えてると、小柄な婦人はニヤリと薄笑いを浮かべている。なんとも、己の内面を抉り執る不気味な恐怖を懐いていると、 「あっ、そうなの、知らなかったの? でもね、本当らしく思えない? 禿の三方目(末端の役人)だって向こうまで、福州までもよ、追いかけることができっこないもの」 蔡源のとるべき最良の方法だ、と云わんばかりに感心して云う。 「さあー、どうかしら? 以前にも王直官の手下になって五島の福江島で見た、と云う船乗りもいたけど…。こんな噺は一体どこまで信用してよいのやらね?」 さも、興味無気に蔡婦人は再び、釣瓶を手繰り井戸水を汲み出しては盥に溜め、洗い物の濯ぎを始め出した。喋るだけこの見知らぬ婦人の、罠に填りそうな苛立ちを覚えてきた蔡婦人は、彼女を無視して洗濯を続けていた。こんな蔡婦人のぎこちない動きを、目敏く見つけた小柄な婦人は、 「そ・れ・も、そうだわねー」 と、間延びして云うのだった。心外だった蔡婦人が顔をあげると、そのくせ女は目尻が下がって澄ました顔でいる。又しても小柄な婦人は側に来て囁くのだった。 「でもねえー、三十年も経っているんでしょう。三十年もあれば、どんなことだって出来るもの。噂どおり福州に居たかもしれないし、福江島で海賊船に乗ってたかも知れないわよ。ひょっとして、那覇町の盗人は蔡源だったりして…」 「何だって! 盗人の義良が蔡源だって!」 いきなり蔡婦人は立ち塞がって抗議した。その顔は蒼白く血の気がない。そこへ小柄な婦人は無遠慮に応えるのだった。 「うん、ひょっとするとね…」 「まさか! いい加減にしてよ!」 「あら! ご免、ご免」 小柄な婦人は剽軽に手を左右に振りながら、 「これは失礼。でも、悪いことじゃないと思うんだけどなあ。英雄よ、義良は」 「よしてよ、あんた! 何の恨みがあって、私にいちゃもん付けるのよ。義良が私の息子と云う確証があるの?」 「……」 「あんたねえ、歳が私の半分も満たない分際で、なんで私にいちゃもん付けるのよ。ええー、一体どういう魂胆なのよ! はっきりさせてよ」 蔡婦人は、今にも張り倒さんばかりに手が震えている。小柄な婦人はこれ以上の詮索を諦めて、黙して洗い物にとり掛かりだした。 その直後に、洗濯を終えた蔡祭婦人は、たおやかにその前を去って行くのだった。 二 沖縄島南部に国場川という全長が四里くらいの川がある。この国場川の特徴は、河口が広く円形になった漫湖という干潟があった。干潮時の漫湖は渡り鳥たちの栖である。特に漫湖の西側、所謂、小禄側はマングローブが密生した樹海がぎっしりと、広大な干潟を埋め尽くしていた。干潟にはムツゴロウや潮まねき、沙蚕などが豊富に生息して居る。また、それらを狙う鴫などの渡り鳥が、春夏秋冬、いつでも群がってやってくる長閑な場所だった。 漫湖は満潮時になると一変して、円い湖と化するのだった。まるで鏡のような湖面は、特に夕暮れ時になると、真っ赤な夕焼け空を写した逆さ夕焼けの絶景が映えるのだった。漫湖から西に一直線に伸びる、東支那海の水平線に真っ赤な太陽が沈むとき、大空の夕焼けが湖面に逆さ夕焼けとなって、空と海が渾然一体化した幻想的な世界を醸し出すのである。 灼熱の南国の太陽は、大地を焼き尽くすほどに照りつける。しかも、その夕焼け空は、観る人に希望と安らぎを与えてくれる。この日、蔡婦人が洗い物をしていた日の夕焼けは、西の天空を焚き尽くし大空一面を焦がしていた。 (今日は、逆さ夕焼けが見事に映える)と、国場川の渓谷に架かる真玉橋の橋梁下に寝転がり、漫湖に映える逆さ夕焼けを、喰い入るように見入っている浮浪者がいた。 (実に見事だ! 自然の織りなす景観は、空と川面が渾然一体となり、空の夕焼けが実像か、川面の夕焼けが虚像かの区別が出来ない。一体、これは何を示唆しているのだろうか)と、浮浪者は安堵感に満ちた心地で見入って入るのだった。 この初老の男は、晴れた日の夕暮れ時になると、必ず真玉橋の下に現れていた。夕暮れ時にだけ突然現れて、深い叢になった橋梁の真下で手枕をして横たえているが、身に纏っているものといえば、腿のあたりから擦り切れた腐った芭蕉布のみで、髪と髭は伸び放題、おまけに、黒光りする下の逸物も露わにした軽薄さで寝転がっていた。亦、大方の噂では三年前から真玉橋の下に現れているらしい。体格は頑丈そうで六尺を超える大男だったが、世知辛い世情が幸いして、彼の前歴を知ろうとする者はなかった。 ところがごく最近になって、地元のアヒラージュー(家鴨の尾の形をした髪型の子供、清人の子供に似せ、身分の高い子弟がしていた)等は薄汚い彼を豚糞と侮称して集まって来だした。大人共は兎に角、アヒラージュー等には絶好の遊び道具に、無抵抗な彼の存在を見逃さなかった。歳が十に満たない七・八人が、近くの豊見城間切(村落の名) から来るや、決まって現れる橋の下の浮浪者に、手に手に石を持って真玉橋の欄干から、 「豚糞」 と叫んで橋の上から石を投げつけ、ただ逃げ狂うだけの彼を囃し立てて悦ぶのであった。 浮浪人は、投げつける石に耐えかねた日は、のっそりと立ち上がり、黙って河原の土手をよじ登って真玉橋を去るのだった。彼の背後から追い縋り、石を投げつけるアヒラージュー等に振り向きもせずに、広い田園を悠々と通り抜けて豊見城邑(村)に来るや、来る度に違う玄関に立ちふさがり、両手を重ねて物乞いをしだすのである。幾時間も続いた。遠くから石を投げつけるアヒラージュー等が諦めて帰っても、男は頑固だった。 「もう、我が家に来ないでくれ!」 と、哀願するように食べ物を渡さない限り、延々と雨戸を叩きつける不可解な行動をするのだった。 ところが、この日の男はいつもと違った。彼は跳ね起きるや七.八人のアヒラージュー等を真下から睨み返し、 「こら! 貧乏の神」 と、野獣のような野太い声で一喝したのである。拳ほどの石が額に当たり、悶絶するまでに額をかち割られてしまい、眉間から鮮血を流したまま仁王様の形相で、 「貧乏の神! 貧乏の神… 死ね!」 と、小石を投げ返えしていた。仰天したアヒラージュ等は悲鳴を上げて退散している。しかし、彼は逃げ惑うアヒラージュに狙いを定め、 「貧乏の神、死ね、死ね!……」 と、二、三人を石の餌食にしたのだった。気がつくと、すっかり辺りは静まり返り今は、誰もいない。誰もいない夕暮れの橋を見上げて、突然、彼は言い知れぬ恐怖に襲われた。 巷の噂噺というものは、疾風の如く伝播する。しかも、よじ曲げられ誇張されて伝播する。それは譬え、子供等が媒体すると雖も、例外でないことは身に滲みて知っている。義良は虚空を睨んだまま、自分自身の隠れ蓑をかなぐり捨てた悔恨に、必死に耐えて立ち竦んでいたのだった。それは、彼一流の老獪な戦術が剥がれた瞬間であった。と云うのは、実はこの男義良という那覇町を震え上がらしている盗人の、隠蔽した姿だったのである。 「仕方ないか…」 義良は大きな吐息を漏らすとクルッと、向きを変えて徐に歩き出した。川面は夕焼けの残照で山々の木々がどす黒く靡いている。それを横目に河原の砂礫をゆっくり踏みしめながら、 「貧乏の神、貧乏の神……」 と、呪文のように唱えて、国場川の川上へと歩き続ける義良であった。 暗くなった国場川の河原を、身を縮めて崩れそうに歩く義良の脳裏には、三十年前のあの忌まわしい事件を、あたかも昨日のように鮮明に思い出していた。 * * * 当時は、王府の三司官(民間人の最高職)の一人は久米村(那覇にある福建省からの渡来人の村)出の蔡温様であった。四百人位の久米村の人々にとって、仮に祭温様に敵対する人がおれば、村を挙げて蔡温様をお守りする風潮がみなぎ、若い蔡源だって尊敬し、こよなく愛する蔡温様の為なら、如何なる艱難も打破してやる気概は人一倍旺盛だった。 ところが、彼の苦悩と破綻は突然やってきた。漢学派と和学派の政争(?)である平敷屋・友寄事件(一七三四年)である。こともあろうに、隣り家の金宗文が、蔡温様の政敵グループである平敷屋・友寄の和学派であったらしい。それは金にとって自業自得と避難されても、致し方のないものであったあろう。 しかし、人それぞれ好きな道があり、たまたま和歌を嗜んでいたというだけの理由で敵対視され、打ちのめすという拉致騒動は、彼の胸奥を狂おしゅうまでに掻き毟った。蔡源は群衆と筑佐事(警備の役人)の取り囲む中に飛び込み、金氏を打ちのめす禿の三方目(末端の役職)の棒を奪い取るや、その棒でカタカラシ(成人男子の髪型)も結えない禿の三方目の右腕を叩き潰し、一目散に久米村を逃れ去ったのであった。 あれから三十年、蔡源は老衰した父を知り、白髪な母でさえ遠くから見守るしか術もなく、親不孝の呵責にさい悩まされながら流浪していた。 三 暗くなった国場川の川原をのっそりと歩いていた義良は、あの日の出来事が、まるで走馬燈のように脳裡を駆け巡っていた。 一体何故、何故こうなるんだ。何の抵抗もしない人間を、あたかも虫けら同様に蹴り殺す世の中に、何ともやり切れなさが込み上げていた。今日のアヒラージュー等のする事も、大人の真似をしているだけだ。だから大人が悪い。大人の社会が悪い。何故こんな世の中になったのかを思い巡らして歩く義良は、やるせない憤慨が込み上げ続けていた。 暮れなずむ河原を半刻ほど、川上へとひたすら歩き続けていると、水嵩も少なくなった東風平(国場川上流の地名)に来た。ここはさすがに峻険な山並みが重なり、辺りは墨を打ったように暗くなっている。彼は暫く人目のない暗闇の河原を静かに歩いていたが、やがて、土手を越えて雑木林に消え入るようにはいた。険しい山間に広がる雑木林の小道は暗く人目がない。彼は馬のように枯れ葉を蹴りあげて、林の中を駆けだした。まもなく、雑木林の中にある一軒のみすぼらしい小屋に飛び込んだ。そこは落ちぶれた金家の母娘が住む、義良の隠れ家だったのである。 「いるかね鍋? いるかね?」 義良は声を殺して呼んだ。鍋とは隣家であった金家の一人娘、金陽妃の幼称である。義良は今も彼女を呼ぶとき、その幼称で呼んで親しみを分かち合えていたのだった。 腐った茅の戸を開けると、朽ち果て、今にも潰れそうな外観とは裏腹に、二重の建築構造になっていて、屋内は異常に立派である。土間の奥にある板戸が開いた。内から焚き火を持った女が出て、 「あーら、久しぶりじゃないの? 心配してたのよお」 と、三十路の油の乗り切った女が、焚き火を義良に近づけて云う。 「うん…老女は元気かい?」 「相変わらずよおー」 鍋は士族の娘らしく、大きな花柄の木綿服を艶やかに着こなしている。アットメー(婦人の髪型)に結った髪に、銀の簪をさした優雅な出で立で、義良の足下を照らし、早く中に入ることを催促するのだった。すると、にこやかに奥に向かって、 「母上、祭源が来てくれたわよおー。…分かるでしょう? 源兄貴よお」 鍋の声は弾んでいた。二ヶ月振りの逢瀬である。だが、奥からの声がない。 義良は板戸を潜ると、六畳程の広くもない板間に寝転んだ。一つ部屋の奥に衝立がおいてある。その向こうに寝たきりの老人がおった。義良は老人の側に行かず、板敷きの中央で脚を投げ出して寝そべった。 「畜生!」 苦々しく吐露して寝そべっている。鍋は台所で火を焚き、食事の支度をしながら、時々視線を身動きしない義良に遣っていると、亦、声がする。 「畜生!」 今度は呻くように義良は呟いている。そのまま天井を見つめて黙っている。義良は一点を見つめ黙する癖がある。その形相は何者をも近づけない深淵な思索のようでもあれば、過去の一節を憎悪しているようにも見れた。この頃、ようやくこの異常な表情に慣れた鍋はやがて、寝そべる義良の脇に番茶を勧めながら、 「歳ですからもう……、無理はしないで下さいね」 と労った。歳といえば確かに義良は還暦間際だった。いわば親子ほどの歳の違いがある。しかも、齢よりずっと老けて見え、長い逃亡生活が、こんなやつれ身になってしまったのだと、常日頃苦笑しながら云うのを鍋は気遣っていた。無口な義良に、 「何かあったのですか?」 鍋はすげなく義良を覗いて吃驚した。眉間に拳ほどの青黒い瘤ができて、そこから吹き出た血痕が鼻から顎まで続いている。 「どうしたの? 額の傷は…」 鍋の声は部屋が裂けんばかりの甲高い声だった。それでも何も云わない。確かに義良は普段から寡黙である。気を取り直した鍋は湯で血痕を拭き取り、傷の手当を黙ってしていた。手当を終えると、釈然としない憤慨をぶっつけるかのように、 「ヨッコラショ」 掛け声をあげて立ち上がった。汚れた桶の水を持って土間に降りると、 「俺はな…」 突然、義良の重たい声を背中で聞いた。鍋は立ち止まっている。 「鍋よ、聞いてくれ。あのな…」 実に透き通った明晰な声である。 「あのな…、俺たちが盗人になっている訳はな、久米村の人間が下司の塊だからじゃ。実際ね、久米の人間共はだ、団結の為ならどんなことでも許されると思い込んでいやがる。なるほど、少数民族の生き残る最良の道は、権力に癒着する方法だろうが、もう、俺はこりごりだね。こんなやり方はうんざりだ。これじゃ真面目な人間の立つ瀬がないだろう。君の親父さんもその一人だ。本当にそうなんだ。こんな悪戯で、どれだけ善良な久米人が犠牲になっていることか。可笑しい、何かが可笑しい。王朝も狂ってしまった。俺はな、お金で役人職を買うような社会は真っ平だ。あの禿の三方目(末端の役人)のような買うい武士が居るかと思えば、奴に媚諂う久米村人も居る。どうなっているのかね、これは? 本当に久米村の人間は下司の塊じゃよ! こんな追い剥ぎ野郎に平伏するなんてね。・・・そうだろう、あの時、死んだ君の親父さんの着てる服まで失敬しやがっていたのだからな。 そんな奴がなんと今は、大筑(警察の長)にまでなりやがって、四、五十人の者を顎で使っているそうじゃないか。どうかしてるよ、世の中は…。弱者を打ちのめす能しかなく、強者に進物を捧げて我が身の安泰をはかる渡世術が多勢に無勢ではどうしたものかね? お笑い沙汰も度が過ぎるね。…だから、餓鬼までも大人の真似をしやがる道理じゃろうが…。すべてこの傷が物語っているのじゃよ。解ってくれたかい鍋」 暗闇を突いて聞こえてくる義良の声は、復讐を滾らす憎悪口である。 「そこでな鍋。噺は変わるが…実はな、今日の夕暮れ時に決心した。この疸瘤の所為ではないが急がねばならぬ。もう俺は逃げ隠れせず、正攻法で攻めることにしたんだ・・・俺はやる! こんな世の中を変えるのに、誰かが立ち挙がらなければならないと思っている。その手始めに、俺が出来る範囲で、まず禿の三方目を殺してやろうと思う。あいつのような愚鈍を、この世から抹殺しなければ、世の中は善くなる試しがないのだからな!」 鍋は立ち止まったまま身震いがしていた。もし禿の大筑を殺るにしても、多くの護衛をまいて彼の寝室に潜り込まない内は、まず不可能である。さもなくば、差し違えて怨念をはらすだけだ。 (この男は死ぬ気でおる)と、直感した鍋の身震いは止まらない。 暫し、闇の沈黙が続いている。鍋は凍りつく悪寒に耐えて振り向くと、薄暗い板間には只、身動きせぬ義良が仰向けに寝転がっているだけだった。冷ややかに寝転がっている義良の髭面を見てると、スーと血の気が引き、鍋は崩れるように土間に倒れてしまった。 四 鍋の記憶は七歳まで久米村で育ち、金家と蔡家は隣り合わせに住んでいたことを覚えている。両家とも通事(通訳官)をして王府に召し抱えられ、何不自由なく平凡な暮らしをしていたこともはっきり覚えている。取り分けあの凄惨な日をよく覚えていた。 夕暮れ時に突然、数人の役人が家に押し入り、鍋の父、金宗文は取り立てられ、路に引きずり出されて激しく殴打された。その傍らで泣き叫び必死に許しを請う母と、怯え喚く幼き自分がいた。しかし、私と母を蹴散らした役人と久米村の群衆は、六尺棒で父を殴打する三方目に呼応して、 「貧乏の神、貧乏の神…」 と、罵声を浴びせかけ、夜空に大音響がこだましていた。 この時、科という役人採用試験を終えたばかりの源兄貴が、勇敢にも一人でカタカラジ(成人男子の髪型)を乱し、首謀格の禿の三方目に突撃し、彼の右腕をへし折り久米村を逃げ去ったのを殊更、鮮明に覚えている。いや、忘れようにも忘れられぬ深い哀惜となって、何時までも頭にこびりついていた。 その後、鍋は父のけっ所で怒濤の世間に投げ出されたまま、辻町の遊郭に拾われて育った。あの時、気の触れた病床の母を気遣いながら生きながらえることは、傾城に立つことさえ苦になる仕事ではなかった。時は過ぎ、女の盛りを郭の一隅で生きている鍋に、思わぬ再会があった。 (今夜の客は、変わってるな。汚い身なりにお喋りである) と、思ったのは夜も明けやらぬ頃に、二度目の性交を終えた時だった。この髭面の大男は、嘔吐がでるほど学識張ってこう云うのである。 「実はな、大明の太祖、洪武帝の派遣した行人(明国の役名)である、揚載なる人物はだね、所謂、九州の太宰府で、征西、懐良親王に国書を渡している。面白いことに、懐良親王は高圧的な使節団に憤慨して、五人も殺しているんだよね。揚載と呉文華の二人は、三ヶ月の監禁を蒙ったのは、史実の語るところだ。 ところでね、凄い事実が分かったんだよ。つまり、揚載なる行人と同一人物か知らないが、多分、同一人物だろうと確信する資料を発見したんだ。琉球正史中山世観によるとね、一三七二年に、明から揚載なる行人が来琉しているんだな。大宰府におる懐良親王に謁見して、五年後のことなんだ。中山王、察度(一三二一)は揚載をもてなし、ついでに、弟の泰期を臣として朝貢させている。 まあ、この泰期なる者なんだけどね、察度と兄弟なのか実に怪しいことなんだが、ともあれ、太宰府に来た揚載と、来琉した揚載が同一人物の可能性が、頗る高いと云える訳だ。これは実に興味深い大問題だと思うが、どうかね?」 傲慢に語る客人に鍋は金きり声をあげた。 「なにがですか? あなた。なにが大問題なのでしょうかね?」 気の強い鍋は、乳を愛撫しながら話す男の手を払い除けるや、すかさず起きあがり、膝を揃えて聞き糺した。鍋にとって、幼女の頃から郭の世界に身を投じ、又、そうする以外に生きる術の無かった自分には、学問とは縁遠い定めである。それをこんな場所で、訳の分からない戯言を云い並べられては、こっちの沽券に関わると、噺の腰を折りにかかったのであった。仰向けに寝ている髭面の客に向かって、律儀に正座し、唇を突き出してたたみかけた。 「何が問題ですか? なにが? 琉球の運命が問題になるとでも、云うのですかね? そんなもの唐人には関係ないですね」 「なに! 久米村の出か?」 「さようでございますけど…」 「聞き捨てならぬ。事情を話してくれぬか?」 「結構でございます」 身の上を話す心境でなかった。それどころかこの髭面の客に、居たたまれぬ嫌悪感を懐いていた。 「眠いのよう。もう少し寝かせて下さらない、お願いだから・・・」 布団を手繰り寄せ、背を向けて横になった。男は黙っているが、天井を見つめている風情で気味が悪い。すると男は、寝転がったまま、長い溜息をした。そのまま息絶えてしまうかと思えるほど、長い溜息に耐えかねて、 「あんたも、久米村の人のようね?」 と、布団の中から冷ややかに云った。異様な空気に少し慄いて喋る方を選んだ鍋だが、先のうんざりする戯言で、すっかり頭が冴えきっていたから、己の直感が的中したのを悦に入って、再び、布団の上に正座した。 「あんたは、琉球の歴史を語っているようだけど、それが一体なんになるの? 馬鹿馬鹿しくて、言葉も出ないとはこのことね。それとも何なの、あなたの噺を黙って聞いてやれば、明日の米代をくれると云うならば、噺は別だけどね…。私にはね、揚載とやらが、どこの国へ行こうとかってなのよ。真否のほどを知りたければ、自慢ぶらないで、かってに撮びらかにすれば良いことなのよね。もう、あんたのような人は、二度とこの界隈へ来て欲しくないのよねー」 「そうかい」 男は意見あり、と云いた気に起きあがり、座ったまま鍋と眼が合うと、 「ちえっ!」 と、舌打ちした。虚無的な薄笑いを浮かべて髭男は云う。 「女のお前には、男の生甲斐って知らないだろう。揚載が琉球に来たということは、大陸の明国が、琉球を立派な独立国と認めていたことなんだ。この史実を素直によろこぶことを、男の生甲斐というやつさ。一銭の得にもならないが、生きる糧になる。俺はな、二十七歳の時に、隣の金家の悲惨さを目の当たりにしてからは、無茶苦茶、世間を憎んでいる。お前に遣る金も、みんな盗んだ金だ。それでいて生きられるのは、生甲斐を喰ってるからなんじゃ」 「えっ! ……あ、あんた。今…なんと云いました」 鍋は驚愕のあまり、唇が震えて言葉にならない。もう一度、聞き返そうとしたが、言葉にならなく只、膝を詰め寄っただけであった。 「どうした? 何を吃驚しておる。俺は世間を憎んでいる。倭寇船に乗り、何十人もの人間を殺した。これくらいで、青ざめるな!」 「い、いえ、違います。あの・・・隣の金家とか?」 「ああ、そうだ。間違いなく金家は隣だった・・・それがどうした」 * * * 「どうした? どうした、どうした鍋?」 確かに義良の声だが、次第に大きくなって、耳を劈くばかりに、 (どうした? どうした?)と、矢継ぎ早に聞こえてくる。 どれだけ経っただろう、抱きかかえる義良の腕の隙間から、静寂な風が鍋の頬を撫で去って行く。隠れ家の暗い土間にしゃがみ込んで倒れていた鍋は、義良の太い腕の中でようやく我に返っていた。鍋は立ち上がり、傍にある血痕を拭った桶の水を持って、徐に茅戸から出て屋外に捨てた。そのまま立ち止まって闇夜を眺めながら、 「あれから、三年経つかな…、郭の隅で偶然義良に逢ってから…」 と、思わず口ずさんでいた。いざ、という時は、ガムシャラについて行きさえすれば良いに決まっている。一緒について行きさえすれば、これまでの悔し涙も叶わぬことではないのだから…。 鍋はそっと茅戸を閉めると、うたた寝を始めている義良の脇に来て、掛布を掛けた。一緒に添い寝すると鍋は腕を伸ばして枕元の灯りを消した。そっと身体を義良に擦り寄せ、すっかり寝込んでいる彼の股間に、いきなり指を滑らして男の逸物を握った。目覚めぬように愛撫しながら、愛しい男の脇で快眠に就いた。 五 噂は噂を飛ばす者が居る。海で遭難した兼山商人の死を、殺害されたと吹聴する類の話術師が、何時の世でも必ず居るのである。義良が薩摩武士三人と筑佐事の連中を十五人も斬り捨てたという噂は、巷に横行していた。あの禿の三方目で、今は西町に豪邸を構える片腕の大筑は、彼の自慢する池のある庭でこのことを下人から聞いた。 「糞! 面白くもねえ」 腕を組んだまま池渕を回り込んで思慮していた大筑は、数刻が過ぎたというのに、禿頭から湯気がでるほど怒り心頭に達して考え込んでいた。ようやく陽が落ちる頃になると、彼の考えがまとまったらしく、そそくさと屋敷を飛び出して行った。 西町の、御仮屋隣に昆布座と呼ぶ立派な建物があった。暖かい亜熱帯のため、琉球近海にない昆布を大量に取り引きしていた問屋である。勿論、薩摩人が経営していた。今でも昆布は琉球料理に必ず要る。特にお正月、お盆には豚肉と同様欠かせない食材である。おそらく、昆布はこの琉球に、薩摩商人によって、甘蔗の代償に広められた物であろう。 片腕の大筑は昆布販売路の一部を獲得していて、昆布成金はしかるるに足るものがあった。彼は、その富を上手に使う知恵者でなかろう筈がない。その夜、屋敷を出た大筑は、すぐに本仮屋に出向くのじゃなく、脇仮屋に打診して、目付けを小料理屋に誘うと、彼の旺盛な本懐を告げたのであった。 「なるほど、…噺はよくわかった」 と、若く端正な顔の薩摩役人は云った。この小料理屋の奥座敷には、薩摩武士と大筑以外は誰も居ない。役人の側には風呂敷包みが進呈されており、大筑はひたすら頭を下げたままで言上していたが、ようやく安堵した顔を挙げて云うのだった。 「はっ、誠に有り難いことで恐れ入りまする。五十人ばかりの人夫を御用命下されば、必ずや」 「引っ捕らえてみせると、申すのだな。この事はわしからも、大目付様に進言してみよう」 すると、大筑は予め段取りしておいたらしく、手を叩いて侍女を呼んでいる。侍女の持ってきた饗膳を引ったくりざま、身を乗り出して目付けに献杯するのだった。意気投合した二人に時間はなく、相当に満足仕切った後に、色白の薩摩武士が、 「ところでじゃ大筑よ、良く聞けよ」 と、大筑の盃を受けながら、窘める口調で云うのだった。 「お玉杓子は蛙の子であって、鯰の孫ではないわな。こんな簡単な決まりが解らないようじゃ、天の道に外れておる。義良という不届き者が、義賊ぶって、衆愚の人気をとっているそうじゃが、どだい、盗人は盗人なんじゃよ。そう思わぬか? 大筑」 「はっ、誠にごもっともな事でございます」 その態度が何故か気に入らない薩摩武士は、 「ごもっともじゃと。何がごもっともじゃー、よーく解っているのかね。」 色白な顔が酔うと茹蛸のように紅色に変化する者に限って、粋がり出す者が多い。例に違わず放蕩な若い薩摩武士は、 「のう、大筑。よく耳の中をかっぽじって聞けよ。な、何事もそうであるようにじゃ、どんな事件の始末をする時にも、僻んだ気持ちがあっては成就せんのじゃ。解るかな? 例えばだ、個人的な怨念や、自分が何とかしなければどうにもならない、とする切羽詰まった考えは、十手を持つ身のならぬ法度なんじゃ」 「はっ!」 跪き身動きせず大筑は応えている。 「…のう、大筑よ、義良に対してもしやと思うが、お主が怨念を懐いているならばやめた方がいい。噂によると、お主の片腕は三十年前に、義良らしき男に殺やられたと聞いておる。腕の仇討ちと決め込んで攻め入るならば、失敗は目に見えておるぞ。何故だ! ・・・そう、相手を蔑ろにするからじゃー。それを僻んだ心という。僻んだ者ほど自己の正当性を訴える虚言や讒言を並べ立てる作業を好むからのう…。解るかな大筑よ」 「はっ、畏まりました」 「畏まりました? 御意といえ!」 「誠に恐れながら申し上げます・・・・御意!」 「そうこなくちゃー。そうそう、まだある。大事なことだ、ようーく聞けよ。いいか、自分と相手の言い分をを天秤にかけてだ、自分の言い分が重いと言い出す者がいるから始末が悪い。こんな馬鹿は、死なねば直るまい。何故かな大筑」 「はっ、私のような者には、是非、御指導ご鞭撻のほどを・・・」 「生ぬるい! 水と油は相容れないのだ。その性質は明らかに異なる。異なる性質を天秤にかけて計れるものじゃー、断じてない。…そうであろう」 「御意!」 「為すべきことはだ。歩み寄りじゃなく、違いを謙虚に受け入れることなんだ。違いは異い、このことを知った上で、相手を看ることじゃー。何でも同列化できる仕組みに、この世はなっていない。武士は武士、百姓は百姓なんだ。だから…、事件を始末するには、いくつもの異なるものを、すべからく受容する事が肝心なんじゃよ。それを敢えて、思いやりの心と云おう。・・・こんな筈じゃないとか、自分の云い分が正しいなどと、じたばたするなよ大筑。もう、じたばたするなよ! 天の道は決まっておる。どっちが正しいかは自分ではしてはならぬ、これが武家社会なのじゃー」 「御意!」 「慌てるな! 肝心な噺はこれからじゃー・・・いいかね、往々にしてだねー、予期せぬ不慮の事故というものは、将に、わしの云う思いやりのない者に襲いかかるものよ、…のう大筑。だから、じたばたするなよ。しかと、このことを忘れずに事件にあたれ。抜かるでないぞ大筑」 「御意! 有り難きお言葉を! 肝に銘じておきます」 大筑は膳を横に移し、その場で膝を揃えて深々と低頭したまま数刻過ぎた。これを見かねた茹蛸の役人は、暫く腕を組んで憮然としていたが、やがて卑語して怒鳴った。 「もう、よい! 喰いながら話す無礼講じゃ。ほれ! 無礼講と申しておるのじゃ、今宵は」 持った箸を振りかざして云う役人に催促されて、膳を寄せた大筑だったが、恐縮の極まりで座っている。痺れを切らした役人は親しそうに云った。 「のう、大筑よ。今宵はお主の手柄話の一つでも訊こうかと思っておるのじゃ。どうかな?」 「めっ、滅相もございません。手前なんぞの手柄など、何一つございません」 よほど大筑はさっきの講釈が堪えたらしく、座り竦んで低頭したままで居る。 「さようか?・・・おい! 大筑よ。頭をあげい!」 若い薩摩武士はにべもなく命ずると、今度は退屈したようにゆっくりと話し出した。 「この頃の巷で面白い噺でもないかのう?」 この時、大筑はヒタと思い当たるものがあった。なりあがり者の悲しい性とでも謂うべきものか、一寸した噂に花を添えて大きな出来事のように言いふらすことによって、相手の反応を引きつけ、己の出世をはかるという類の性は、生来のものであった。大筑は膝を進め、はっきりと云った。 「あっ、それならば一つ、是非お伺いしたいことがございます。最近、この耳に挟んだばかりなります故、何分、その真否のほどはまだ、分かり兼ねまするが…」 「ほう、何事じゃ?」 「いえ、…只、小耳に挟んだばかりなります故、詳しいことは存じませぬ。と、申しますのは、あの義良は勉強会と称して、なにやら会合をしているとのことです」 「ほう、勉強会か? それは穏やかならぬことよのう、大筑」 「はっ、なにせ、この勉強会とやらは、実は、本当の勉強会であるという噂です。手前も不審に思って、一寸ばかり調べさせたところ、なにやら、『琉球は琉球国であることが、慶長の役(一五0九年)で終わった。それ以来二百五十年以上も、薩摩の属国に成り下がってしまったが、今後も長い間きっと琉球は奴隷国に甘んじるであろう。これを打開する最大の武器は刀や弓でなく、琉球語を表記できる文字を発明することである』とか云っているそうでございます。今、琉球が清国や大和国に劣るのも、自国の文字が無いが故にこうなっているんだと、あの義良めが、表音文字を作成している首謀格とかで…」 みるみる若い薩摩武士の顔色が変わった。豹変した鋭い眼光で大筑を睨んで一喝した。 「なに! 不届き者がおるぞ。この者共を全部引っ捕らえよ。叩き潰すのだ! はびこらない内に潰してしまえ!」 片腕を床につき、深々と敬意を表して去った大筑は、その足で五十人ばかりの筑佐事を引き連れて、目指す義良の隠れ家に向かった。 五 その夜の未明である。義良と金家の母娘が東風平に在る雑木林の隠れ家で、久方に枕を並べて休んでいた未明であった。 月のない闇だけが靡きわたる雑木林の隠れ家を、五十人ばかりの筑佐事が集結して、次第にその包囲を縮めながら、しずしずと雑木林の隠れ家を攻めていた。先頭の者が勢いよく板戸を蹴散らした。 「鍋、誰かが来た」 跳ね起きた義良は、傍らの鍋を揺すり起こすと、咄嗟に襲撃の臭いをかいだ。 「不味い! 準備しろ!」 鋭く頷き合った二人は、動きやすいように衣服を荒縄で括り、黒い布で頭からほっ被りをして、脇差しを懐中に入れた。義良は壁に身を隠しながらそっと、茅の隙間から外を見た。夥しい松明を持った人影が雑木林におる。 「しまった! 取り囲まれている。鍋! 用意はいいか?」 二人は飛び出す覚悟でいた。さもないと、屋内のおる病人までとばっちりを喰う。義良は土間に飛び降り、その勢いでけたたましく戸を蹴り上げて開けるや、いきなり、戸をこじ開ける男を抱えるように短刀を差し込んだ。鮮血が舞い上がり、眼前にいた数人の男共が怯む隙に亦、一人を切り捨てて屋外に出た。義良の後を追って鍋も続いた。真玉橋へ。そこにはサバニ(小舟)を常時係留している。闇に紛れ、東シナ海の大海に出て難を逃れる計略であった。二人は身を縮め、雑木の陰に移りながら素早く通り抜けて行った。 しかし、包囲陣を立て直した筑佐事共は、弓で火矢をつくり、家に火をつけた。隠れ家は瞬く間に炎上して、未明の林は煌々と明るくなった。振り返った鍋は茫然と立ちつくしている。義良は叫んだ 「いけない鍋! 早くサバニへ!」 「いや! あの中に母上が…」 悲痛な叫びを残して、鍋は走り出していた。飛んで火に入る夏の虫。将に、鍋の行為は夏虫であった。筑佐事共は一斉に矢を放った。二、三十本の襲いかかる矢をかわすことが出来ずに、鍋は背を射抜かれて倒れた。 矢の飛来は止んだ。とどめを狙う筑佐事共が、奇声をあげて走り寄った。筑佐事共よりいち早く、義良は鍋を背におぶり、一目散に河原の土手を駆け降りて行った。 「おーい、義良がおったぞー」 「よっしゃ、逃がすなよおー」 「どこだ! どこにおるー」 未明の河原は槍を番え、刀を振りかざす四、五十人の筑佐事共で騒然としている。その間隙をぬって、義良は水際までたどり着いた。しかし、その時は既に鍋はこときれていた。義良は鍋を叢に横たえると、両手を合わせて咽び泣いた。 「ああー、・・・鍋よ済まぬ。こんな草深い所で死ぬるはお前らしくない。悔しかろうよ、辛かろうよ鍋、済まぬ…」 と掌を合わせた。袖で涙を拭った義良は、 「畜生! あのこわっぱ目。みてろよ鍋! 必ずこの仇は討ってやる。禿の三方目を殺るまでは、俺は死なんぞ。絶対に死なんぞ。死んでも死にきれるものじゃない。だから、一寸ばかり待ってておくれ、すぐ、迎えにくる。済まぬ鍋…」 追っ手の喧噪が次第に近くなるのを覚えた義良は、鍋をそこに、川へ飛び込んだ。国場川は満々と水を湛えている。その土手は鬱蒼とした叢であった。義良はそこに生えた笹竹をへし折り、その端を口に当てて潜っていた。一尺ちょっとの笹竹から呼吸をし、数刻の間、水中に潜り続けていたのだった。 やがて、東の空も白けだし明るくなってきた。大方の者が引き上げた河原を、若い二人の筑佐事が歩哨している。二人とも六尺の槍を持ち、胴と手首を真新しい甲冑で巻いていた。二人は喋りもって歩いている。 「あー、なんということか。今度こそ手柄を打ち立て、郷の親を楽させる積もりだったのに…。くそ、憎っくき義良め」 「なにを、笑わせるんじゃないぜ。簡単に網にかかる代物ならば、苦労もなかろう。そんなことなら誰だって、直に大金持ちになってるわい」 一人の男が立ち止まった。叢が薙倒れ、その中に血痕が落ちているのを指さして、 「おい、おい。これを見ろよ」 と、丹念に見入っている。 「確かこの辺りは、義良の女が死んでいた場所じゃないかね?」 「そうかも知れねえ。義良に女の仲間がいたとは、誰一人として知る者はなかったそうじゃ。片腕の大筑様でも、吃驚しておったでなあー」 「そうか? あーあ、どうでもいいれど、この川におればなあ。俺はこの槍で、えい! と、一突きにしてやるのだが…」 と、云うなりこの若者は、水中めがけて一槍、勢いよく突いた。 若者の真新しい槍先に、不思議な手応えを感じた。不審に眼を凝らすと、水中から鮮血が湧きあがる。暫くすると、一人の男が浮いてきた。それは串刺しになった、単なる物体になり果てた義良だった。 六 時は義良の七回忌になっていた。真玉橋の西手にある小高い杜は真玉御嶽といって、古来からの墳墓がある。 真夏の太陽が西の空に沈む頃に、真玉御嶽の急な坂道を、一人の老人が登っていた。右腕の袖を帯に差し込んだ、小柄で丸禿の老人だった。彼の手に持った桶の水は、国場川から汲んだ清め水であろう、腰を屈めよろける足取りで、時たま桶水が零れている。しかし、老いの身を鞭打ちながらも、矍鑠とした雰囲気を漂わせて登っていた。 鬱蒼と木々の繁茂する御嶽の、細く曲がりくねった坂道を、ゆったりとした歩調で歩んでいた老人が脚を止めた。そこはガジュマルの大樹がある。その大樹の幹に抱かれるように小さな墓石があった。知らぬ者が蹴飛ばしてしまいそうな、粗末な墓の前に立つと、やっと老人は桶の水を地に置き、手拭いで汗を拭った。四角い珊瑚礁の墓石には、微かに読みとれる字で「義良の墓」と記されており、その横の年月は読みとれない。 ガジュマルの大樹の隙間から、木洩れ陽が墓石に差し込んで揺らいでいる。暫し老人は、蝶ののように舞う木洩れ陽を、微笑んで見つめていた。 「どれどれ、お前の化身かいな」 老人は両手で掬おうとしたが、木々が揺れて掴める訳がない。木々を仰ぐと、杜の中に清々しい風が吹きつけてきた。一息つけた老人は、懐に持ってきた焼酎と饅頭を墓石に供え、桶の水を撒いて供養しだした。跪いて、片手しかない掌を合わせる老人は、独り言のように喋り出し始めるのだった。 「義良、来たぜ。今日は、お前の命日だからだ。久しぶりじゃのう、もう、七年になるかな? 偶然と云うか何と云うか、わしの女房も今日のこの日なんだ。だから、残り物の酒と饅頭だが勘弁してくれ。…わしはな義良、お前を随分と憎んだこともある。しかし、儂以上にお前は、儂を憎んでいたであろう。そのことはこの歳になってよーく、分かるようになったのだよ。…義良よ、妙な話だが、あの若かったお前に体当たりされて、この右腕を失ったときは、どんなことがあっても、お前を八つ裂きにしてやることばかり考えていた。 しかし、なあ義良よ。妙なものよのう。あの時の儂は、お前等のような高貴な生活をしている者が、羨ましくてたまらなかった。儂らは学問するにも、その機会さえなかった。役人になるにはお前等の嫌う、儂らの方法しかなかったのじゃ。お前はこの儂を、買うい武士(役人の身分を金で買うこと)といって、笑いの骨頂で観ていると知っていたが、そうする他にお前等に対抗する術がなかった訳だ。義良…、あの時のお前の行為は確かに正しい。今になって儂から云うのも可笑しいが、正義感に溢れる素晴らしい青年だったよな、お前は…。世の中の不正を糾し、その元凶である張本人が儂だと決めつけるお前と、どうしても腕の仇を果たしたいという儂とが、互いに相手の立場を蔑ろにするだけで、思いやりの心が、少し欠けていたように思う。 思いやりの無い心は、僻んだ心というそうじゃ。七年前のお前が、川で偶然に殺られたその前の晩に、薩摩武士から教わったが、彼の云ってたことの余りの的確さに、驚いた時もあったけどさ…。焦ってはことをし損じるとね。あれで儂は目が醒めた。本当なんだぜ、まあ、笑って聞いてくれ。あれでね、儂は一人で気負っても駄目で、自然体というものを知ったね。自然体はいい。恨む心が無くて、突っ張りが無くなって義務感も無い。身体を自然界に任せられる見えないものがある。実際、あの夜半にだ、お前に殺られてもいいではないか、という気持ちでいたから不思議だったよな。 ところで噺は変わるが、なあ義良。お前が死んでからな、とんでもないことが起きたのを、お前は知ってるか? 津波だよ、大津波だ(俗に明和の津波)。もう、この琉球は終わりだね。お前が知ってる那覇町なってありゃしないよ。特に、西町と若狭町がひどかった。行方不明者が多く、屍は路傍に並べられ見受け人さえいない。比較的高台になっていた久米村も例外じゃないね。久米村の半分が死んでしまったと聞いている。そう、お前のお袋もね。 数百年に一遍の惨事で、人はこんな状況を潰滅的な惨事といっているが、潰滅でも仏滅でも何でもいいわな。もう、那覇町が丸裸の泥沼よ。当然、儂の家、屋敷も消え失せてしまったがな。世間では神の怒りだの、義良の祟りだのと、勝手気儘にほざいているけど、そう云えるだけの人間は幸せだね。第一、その者等は生きているんだからね…。 それになあー、その後の、疾病の流行も悲惨だったね。こいつに儂の女房も浚われてしまったがな。あーあ、家無し、女房なし、土地無しやがな。本当だぜ、お前は信じないかも知れないが、今も死者が続出しているんだ。お陰で儂もよお、天涯孤独の文無しになった。この歳になって、一奮起する気力もないしね。しかし、これでサッパリした。今は気持ちいいくらいサッパリしている。…サッパリしているから云う訳じゃないが、今日ここへ来た訳は、お前に頼みがあって来たのだ。儂の頼みといっても、そりゃ、お前の気持ち次第のことじゃと、充々承知の上でのことだ。 あのな、義良……、お前は月のない闇夜になると、この真玉橋で白い衣服を着た幽霊になって出てくるらしいが、もう、やめてくれ。今の琉球の実態を話してやっただろう。みんな大変なんだぜ、本当に。本当に大変なんだ。虫のいい話だと思うだろうが、ここは一つ是非聴いてくれんか」 老人は終始しゃがんだ儘、片手を俯いた額の前にたて頼み込んでいた。やがて、立ち上がると、 「…じゃー、今日は、これで帰る。女房の墓参りも済ませたことだし、また、来るぜ」 と、一目して去った。細い坂を降りながら、充分言い尽くせない蟠りは残ったが、それもこれも、技量の無さのなせる術と諦め、痛む腰を伸ばしゆっくり降りていた。杜の中は仄暗く、そこかしこで鳴く蜩の鳴き声だけがやけに耳に響く。この時間になると幽霊が出ると云って、誰もいない夕暮れの真玉の杜を、老人は一人とぼとぼ降りていた。やがて木々のない開けた、明るい裾野に出た途端思わず、 「素晴らしい」 と、叫んで脚を止めた。東支那海の遙か彼方の水平線に、真っ紅な夕日が今、将に沈まんとしている。同時に広い漫湖の水面には、真っ紅な逆さ夕焼けが鮮明に写し出されているではないか。逆さ夕焼けは単に、大空一杯に広がる南国の巨大で真っ紅な夕焼け空が、大きな水面の鏡に写し出されるだけじゃなく、暮れなずむ湖畔の木々や、真玉の杜の稜線、更に遠く湖の縁をなす小禄の岩場、岩場から広がり水面に上半身だけ出したようなマングローブ林が、まるで楽園ではしゃぎ廻る大勢の稚児たちとなって、水面の逆さ夕焼けに見事に融合して映えているのだった。それは夕日やマングローブの実像と、杜の稜線や紅い雲の虚像とが幾重にも錯綜して、実像と虚像とが区別なく合体した、この世のものとは思えない、幽玄の美を奏でた新世界だった。 (これは黎明の世界? そう、まさしく未来社会の出現だ。これを見た万人は、口を揃えて新世界の出現だと得心するだろう) 老人は戦い終えた戦場に居る戦士のように、満身創痍で幽玄の美の虜になったまま、茫然と広い川面に映える逆さ夕焼けを眺め続けていた。 やがて陽は落ち、経時的に変化する漫湖の大展望は、深紅の色から紫色に変わり、次第に影絵に画一化されて、滔々、色彩のない闇の世界に消滅しようとするとき、それは又、強力な吸引力で全身が水面に吸い寄せられて消え失せるような、不確かな感覚に包み込まれるのであった。その間、僅かな時間の経時的変化なのだが、それはそれは万物の凡ての事象が静かに終焉する心地よい快感に浸れるのであった。 「ほう、これだったのか義良。お前が夕暮れ時に、真玉橋に現れていた訳は……。こんなに素晴らしい、この幽玄な世界に包み込まれながら、きっとおまえは、この島の夜明けを夢見て、心躍らせていたに違いない・・・。お前の夢を・・・きっと若い誰かが、いや、この逆さ夕焼けを見た若者達が叶えてくれるだろう。人々は代わっても、この光景は変わることがないのだ。だから、気長に時を待とうではないか」 と老人は瞼を閉じ、穏やかに掌を逢わして祈願していた。そのとき、老人は気付かずにいたが、真玉橋から微かに一瞬、白い光が昇天していた。 了 |
平安名 尚
2012年06月09日(土) 21時46分57秒 公開 ■この作品の著作権は平安名 尚さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.2 白星奏夜 評価:20点 ■2012-06-21 19:20 ID:ZnM0IRCgEXc | |||||
こんばんは、白星と申します。 歴史が好きなので、拝読させて頂きました。琉球、という舞台はなかなか挑戦しづらいところですが、テンペストなどで少しは世間に知られるようになったように感じます。かなり調べられて、書かれたことが分かり、すごいなぁと思いました。ラストも、切ない感じで印象的な終わり方だったと感じます。 非常に恐縮ですが、せっかくですので感じたことを。琉球、歴史ものということで、丁寧に説明されているのですが、やはりそれが物語の流れを悪くしているように感じます。語彙が難しく、何度も読まないと理解できないところが多くありました。人によっては、途中で投げてしまうかもしれません。義良の想い、そちらの方がメインだと思う(勝手な解釈ですが)ので、省略できるところは(髪型や、子供の名称? 漫湖の説明など)は省略しても物語を崩すことにはならないと思いました。 あとは、誤字が少し気になった感じです。避難(批難)、一五0九年、などです。重箱の隅をつついてすみません。 良い物語で、琉球の苦しさ、そういうものが伝わるお話しでした。ですが、やはり分かりにくさ、読みにくさが残念だったように感じました。 長文、失礼致しました。お気を悪くされたら、申し訳ありません。ではではっ。 |
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No.1 平安名 尚 評価:--点 ■2012-06-21 17:53 ID:Gupk/XZ4B3E | |||||
10年前に自費出版した創作です。これからの糧にしたいのでどんな感想でも希望します。 | |||||
総レス数 2 合計 20点 |
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