オーバードーズ・クリーナーズ |
太陽光がサンサンと降り注ぐ夏の一日。 メディック・メディカル・メディクス株式会社(スリーエム社)の社員たちは恒例の始業前朝礼を行っていた。 壇上に立つのは、鬼の部長、イケダである。 「社是、復唱!」 われわれ、メディック・メディカル・メディクスは、おもてなしナンバー1企業を目指し、誠心誠意をもってお客様の健やかな生活を提供します! 「よし! 今日も元気にがんばるぞー!」 うおおおおお!! メディック・メディカル・メディクスは、三兆円規模の市場であるドラッグストア業界において、M本K吉を超える業界一の企業である。 総合売上高、店舗数ともに一位であり、軽くスベりぎみのシュールなCMの大々的な展開によって高い知名度を獲得した企業だ。 ドラッグストアといえばスリーエム! その図式が完成した理由はやはり圧倒的な品ぞろえ、価格、そして高品質なサービスにあった。 顧客満足度100%を目標に掲げているスリーエム会長は、新たにリラクゼーションサービスを開始することを幹部内で決定した。 スリーエムのドラッグストアに入店して千円以上の買い物をした人は、マイナスイオンとアロマの香りが漂う部屋でマッサージを受けることができるのだ。 これが、ストレス社会に押しつぶされそうなオッサンや、更年期障害に苦しむオバサンに大絶賛され、スリーエムは一挙に規模を拡大、帝国経済新聞から取材を受けるに至った。 マッサージをするのは、まだ研修中で即戦力になれていない若い男女。オッサンには若い女性。オバサンには若い男性がつく親切設計だ。 新入社員の彼らは、日々の業務や商品知識の勉強のみならず、マッサージのテクニックまで覚えなければならず非常に大変なのだが、厳しい就職戦争を勝ち抜いてきた優秀な人材というだけあって、溢れるガッツで難なく乗りきっていた。 「まだまだ私は未熟者ですが、一流のスリーエム社員を目指し頑張ります!」(平成2×年入社 男性) 「スリーエムほど、お客様のために全身全霊をもって尽くせる職場はないと思います」(平成2×年入社 女性) 「アットホームな職場で、すぐに上司とも打ち解けられました! 一つの店舗が一つのチームなんです」(平成2◇年入社 男性) 驚くべきことに、スリーエム社員の三年以内離職率は、小売業界の中では驚異的な数字である1%未満を記録した。この数字から見ても、スリーエム社員がいかに新入社員を大切に扱っているかが分かるだろう。 その他にもスリーエム社は「几帳面で綺麗好きだとされるA型の人を優先的に採用する」「最終選考はスリーエム社員とカラオケに行く」というユニークな採用方針を打ち出すなど、とにかく話題に事欠かなかった。 そのあまりのハッチャケぶりから、インターネット上の匿名掲示板においても「信者」が発生し、ブラック・ホワイト論争が連日のように繰り広げられていた。 鬼の部長イケダは、今年で二十年目のベテラン社員だ。 地方の弱小薬局でしかなかったスリーエムの歴史を知る42歳である。 好きな言葉は「向上心」で、イケダが担当する関西エリアの売上額を一円でも伸ばそうと、日々いろいろと頑張っている。 ここで具体的な仕事内容を語るのは、退屈にさせるだけなので語らないことにしよう。 なぜならイケダは仕事を「退屈で地道な作業」と捉えており、そういった地道な努力を通じてのみ大きな成果が得られるのだと考えているからだ。 その代わり、このエピソードを差し挟んでおこう。 イケダが編み出したユニークな社訓の一つに「清潔な言葉を使え」というものがある。 このことを新卒入社説明会の場で話すと、ほぼ全ての学生は「敬語をきちんと使うこと」だと考えるのだが、実はそうではない。 清潔な言葉というのは、たとえば次のようなものだ。 「ヌメリ・油分 きっちり吸着」 「UVカット」 「病院施設仕様」 例えば一つ目の「ヌメリ・油分 きっちり吸着」は、不快な印象を与える「ヌメリ」を綺麗にシャットアウトするという意味であり、この言葉の中で掃除が行われている。この言葉は綺麗に掃除されているのだ。 スリーエムの社員たるもの、精神状態が常に掃除されている状態でなければ「おもてなしナンバー1企業を目指し、誠心誠意をもってお客様の健やかな生活に貢献します」という経営理念が達成できない。それがイケダの信念だった。 だからスリーエム社員は、パソコンを起動させることを「驚きの白さ」と言い、ランチタイムを「プロテイン注入」と言う。 社員を褒めることを「あったか設計」と言い、社員を叱ることを「寝グセなおし」と言うのである。 このようにイケダは、社員に清潔な言葉を意識的に使わせることで、社員の精神を常に掃除するシステムを作りあげたのだ。 ある日、事件が起きた。 その日は何やらトンテンカンと工事中の音で喧しかった。いったい何事だとイケダは窓の外を見た。すると、何やら隣で大工が工事をしている。 「全く迷惑なものだ。仕事中なのに騒音をまき散らすとは。しかしこんなことで腹を立ててはダメだ。バファリンの気持ちで受け入れよう」 イケダはそのように考えていた。しかし一週間後。 「なんだ、あれは!?」 大工が、よいとせのこらせ、と運んできたのは看板だった。その看板に書かれていたのは『激旨とんこつラーメン 将軍』 なんと、スリーエム本社ビルのすぐ隣にラーメン屋が建てられたのだ! 「な……ななななんてことだ! 本社ビルの隣にラーメン屋だと!? ラーメン屋と言えば、固めるテンプルじゃないか! これではわが社の企業イメージがダウンしてしまう……いや、ここは耐えるんだ。今は雌伏の時だ。バファリンでダメならば、バファリンプラスの気持ちで受け入れたら――」 しかし、所詮は半分のやさしさでしかない。『激旨とんこつラーメン 将軍』を開店したのは、なんとお笑い芸人だったのだ。 そのお笑い芸人はフリートークで面白いことが言えず、どこに出しても恥ずかしくないほどの清々しい一発屋で、その芸風は一般的に言えば「下品」、スリーエム社員的に言えば「尿とりパッドスーパー 男性用」だったのだ。 しかし一発屋芸人とはいえ、一時期に一世を風靡した人間である。話題性は十分確保され、開店初日から行列が並んだ上に、ラーメンの味もかなりの評判を得ることに成功した。食通を自称する売れっ子アイドルがグルメリポーターとして訪れたこともあった。 隣のビルが、見た目だけ偉そうで中身のない政治家のような風貌を帯び始めるのには、もはや長い時間を必要としなかった。 「いかん! このままでは我が社は、あのラーメン屋の前にひれ伏すことになってしまう! 戦後代々受け継いできたわが社のDNAをここで絶つわけにはいかん」 かくして、スリーエム精鋭部隊「オーバードーズ・クリーナーズ」が結成された。スリーエム社員の中でも優秀な成績を残している若手社員で構成されており、震災発生時に真っ先にボランティアとして復興支援事業に参加した者たちだ。好きな言葉は「絆」で、好きな効果音は「どん!」だった。だから和太鼓音楽ゲームが非常に上手い。 「いいか諸君! これは聖戦だ。聖地(オフィス)の平穏を取り戻し、スリーエムの名を汚す者に死の制裁を下すのだ!」 Sir-Yes-Sir! 「マサキ! おまえが切りこみ番長だ! 頼んだぞ!」 Sir-Yes-Sir! 「マサキの奇襲で敵陣をかく乱した後、ショウとサトシが攻め込んで一気にクイックルワイパーだ!」 Sir-Yes-Sir! 「カズナリとジュンは後方支援だ。店から逃げ出したネズミを一匹残らず駆除するのだ!」 Sir-Yes-Sir! 「以上!」 これ以上の作戦は不要だった。何事もスイスイ簡単でなければならないからだ。そもそもイケダにはある信念があった。「仲間がいれば、どんなことがあっても大丈夫だ」という信念。 ――そして、作戦開始時刻。 「行けマサキ! どうせ奴らはお前のことを客だと勘違いして『ラッシャセー!』とかいう乱れた言葉で迎えるに違いない! スリーエム社員のおもてなしの心を思う存分発揮して格の違いを見せつけてやれ!」 Sir-Yes-Sir! マサキの左手には重曹。右手には消臭スプレー。マサキは正しい重曹の使い道を知らない。だから店に入って店員が出てきたら真っ先に投げつけてやろうと軽く考えた。動きながら考えるのがスリーエム社員だった。 中に居る店員を殲滅して、スリーエム社員がいかに優れているかを見せつけるのだ! ガラッ! 「いらっしゃいませー!」 「将軍」の店員はきらびやかな笑顔でマサキに向けて挨拶を食らわせた。そのあまりの輝きぶりを見てマサキは大学時代のブレイクダンスサークルのことを思い出した。学生時代、学内バンドとコラボレーションして、学園祭でダンスを披露し汗を流した。 「ご注文はお決まりでしょうか?」 その時一緒に聞こえてきた観客の歓声は今も耳の奥に残っていた。あの声を聞くと、自分はこの世の果てまでも行けるような気がしたものだった。 「麺の固さはどういたしましょうか?」 ――そんなことを考えているうちに、いつのまにかマサキは看板メニュー「激旨ラーメン」のばりかたを頼もうとしていたことに気づいた。ここに来た目的を思いだしたマサキは注文を取りに来た女の子に重曹を投げつけた。 「きゃ!?」 店員は悲鳴をあげて顔を手で抑え屈みこんだ。 「オラオラオラァ! 貴様ら全員手ぇ上げろ!」 椅子とテーブルの上に片足ずつ乗せて大声を張り上げるマサキ。店舗では誰よりも大きな声で接客するため「情熱のメガホンマサキ」という二つ名まで囁かれていたほどである。マサキの大声は狭い店内を一瞬でひっくり返した。怯んだ女性店員に消臭スプレーの噴射口を向けた。 「この女が消臭されたくなければ、今すぐ店をたたみやがれ!」 厨房に居たバイト店員たちは唖然としていた。いつも小気味よいテンポで麺の湯切りをする兄ちゃんもさすがに手を止めざるを得なかった。しかしこの店舗のなかにいる唯一の客である、定年を迎えたスキンヘッドのおじいちゃんは全く動じることなく、「激旨ラーメン卵トッピング」をずずずっと擦り上げていた。 「あの……お客様」 レジの辺りに立っていた、少しそばかすの入った肌に丸眼鏡をかけている男性店員が、おずおずとマサキのもとに近づいた。 「他のお客様のご迷惑になりますので……」 「ふははは! 他のお客様の迷惑になるだって? 笑わせる。その客とやらは俺以外に一人しかいないじゃないか! そこで汁を啜っているおじいさん、ただ一人だけだ!」 「いえ、しかし……」 「ええい、くどいぞ! 俺はここを閉店しろと言っているんだ! 貴様らじゃ埒が明かない。この店のオーナーをここに呼べ! 誰だっけか……マイケル小島とかいう奴を」 「パウエル児嶋です」 「んなもんどっちでもいい! とっととここにそいつを呼び出せ!」 「マイケルさんは今ここにはいません。今の時間帯の責任者は私です」 すると、厨房の方からマサキよりいくらか年上の男性が、深刻そうな(ベンザブロックのような)表情で現れた。 「まあ誰でもいい。さっさと閉店してここから立ち退け。でなければこの女は消臭されるぞ」 マサキは女性店員に、噴射口を思いきり近づけた。その女性は恐怖でその場から動けないようだった。 「……その要求には応じられない」 「なんだと?」 「金ならいくらでも渡す。だが、この店を畳むわけにはいかない。ここはパウエルさんが、たった一人でラーメンづくりに心血を注いで、やっとの思いで実現した店だ。パウエルさんの今までの努力を踏みにじるようなことはできない」 「んなもん知ったこっちゃねぇ! 努力なんてしてあたりまえなんだよ、ゴミがぁ!」 しかし、責任者である彼は屈しなかった。銀色のベンザの表情を変えないまま、じっとマサキを睨みつけている。 お互いに一歩も譲らない。女性店員も、丸眼鏡の男も、おどおどしながら両者を交互に見つめた。 「ふ、いいだろう! 貴様たちが屈しないのならば、見せしめとしてこの女を消臭してやろう!」 「や、やめてください……」 丸眼鏡の店員が小声で止めようとした。責任者の人は硬い表情を変えない。 「うるせえ眼鏡! 見るからにオタクくさいルックスしやがって! 俺はもう怒ったぞ、消臭だあぁ!」 女性店員の悲鳴をかき消すような、スプレーの噴射音。 ぷしゅうううううううぅぅぅ!! 「……あ、いい匂い」 スプレーを振りかけられた女性店員は、「森林浴の香り」をそう評した。 「森林浴の香り」は、まるでドラマのワンシーンを撮り終えたスタジオ内であるかのように、場の空気を張り詰めたものから和やかなものへと一変させた。 「なんだ、ドッキリカメラだったのか」 責任者の男性は苦笑しながらそう言った。 「驚かさないで下さいよ〜」 丸眼鏡の男も肩を撫でおろした。 「び、びっくりしたぁ……」 スプレーを振りかけられた女の子は、緊張が解けて、涙を流し始めていた。 「そうなんですよ、これ、ただのドッキリなんですよ〜って、ちがああああああああう!!」 マサキは消臭スプレー缶を放り投げた。放り投げた先には、麺切りの兄ちゃん、脳天にヒット、倒れた。 「くそっ、もう手持ちの武器がねぇ、おい、ショウ! サトシ!」 第二波であるショウとサトシの二人が、出入り口の扉を破壊して侵入してきた。 二人の手には数多くの洗浄剤があった。食器用洗剤、衣類用洗剤、浴槽洗浄剤、入れ歯洗浄剤……。 「死ねええぇ!」 ショウは狭い店内にあらゆる種類の洗剤を目にもとまらぬスピードでばら撒いた。店舗でテキパキと迅速に動くことができるスキルを身に付けたおかげだった。 壁面に洗剤が張り付き、天井に洗剤が張り付き、座席に洗剤が張り付き、厨房に洗剤が張り付いた。もちろん店員たちも犠牲になった。ついでにマサキも洗剤に塗れた。スキンヘッドのおじいちゃんはハンカチを取り出し、自分の体に付着した洗剤でつるつるの頭を拭き始めた。キュッキュという音を立てた。 「汚れはきっちり落とさなきゃなぁ?」 そしてサトシは、スリーエム本社ビルから引いてきた青色のホースで、水を四方八方に発射した。蛇口を限界まで開いて噴きだした水量は尋常ならざるものがあった。 洗剤を散布し、洗い流す。この間、わずか十秒。秒単位まで指定されているスリーエム接客マニュアルによって鍛えられた二人に、この程度のことは造作もない。 ホースからの水が止まった。店内はめちゃくちゃになってしまい、洗剤と水が混ざって壁面がぬらぬらと光っていた。 「はっはっは! 綺麗になったな! 清潔で気分爽快だ!」 「ぐっ……くそ……」 全身ずぶぬれになった責任者の男は膝をついた。それもそのはず、店は水浸しになったことはもちろん、床が滑りやすくなってしまい、店員たちは歩くことすらままならない。マサキら三人は計画通り、滑り止めつきの長靴を履いていたので問題なかった。 「見たか! これがスリーエム社員の力だぁ!」 社員三人が狭い店内の中で高笑いを始めた。なんだか気分がよくなった三人は、いつも店舗でBGMとして流れている、経営理念の言葉を歌詞にした「スリーエムの唄」を合唱しようとしたところで。 「……ほう、貴様らの力は『その程度』なのか?」 男の声が三人の耳に入った。その声は威厳に満ち溢れている、ということはなく、ただ単なる普通のオッサンの声だったのだが、声が聞こえてきた出入り口の方へと三人が顔を向けるには十分な存在感を放っていた。 どこにでもいる、取るに足りないオッサン。しかし彼こそ―― 「貴様……マイケルか?」 「だからパウエルだって」という丸眼鏡の小声をよそに、オッサンは頷いた。 「そうとも、何を隠そう、私がパウエル児嶋だ!」 「ははははは! 飛んで火に入る夏の虫とはまさにこのこと! 今この場で貴様の首をとって、この店を廃業まで追いこんでやろう! カズナリ! ジュン! 五人で総攻撃だ!」 しかし。 カズナリとジュンが店の中に入ってこない。どういうことだ? とサトシが残りの二人に尋ねた。 「あいつら、もしかして仕事をサボったんじゃないだろうな」とショウ。 「なんだって? 死ねよ」とマサキ。 カズナリとジュンの悪口を言い合う雰囲気になったその瞬間、パウエル児嶋は不敵な笑みを浮かべた。 「ふふふ……君たちが言う『カズナリ』と『ジュン』とやらは、もしかしてあの二人のことかな?」 パウエル児嶋は出入り口に入ってすぐの所に立っていたので、マサキたちは外の様子が見えなかった。しかし、パウエル児嶋が立ち退いて、外の様子が開けると―― 「……な」 店の前にはコンクリートの道路がある。コンクリートは固い。しかし、いつからコンクリートは柔らかくなってしまったのか、カズナリとジュンの頭部がコンクリートに突き刺さり、犬神家の一族の佐清の死に様を忠実に再現してしまっていた。 「ば、ばかな!」 「マジキチだーー!」 「うわあああ! カズナリィイイ! ジュンンンン!」 パウエル児嶋としては笑ってほしい所だったのだが、生憎マサキもショウもサトシもその世代ではなかったので元ネタが分からず、至極まっとうな感想を漏らした。 「さあ、次はお前たちの番だ。貴様らを一撃で葬り去って、ラーメンの具にしてくれるわ! 材料費も浮くことだしな!」 「ちっ……ぬかせ! 三人で同時に攻撃すればなんてことはねえ!」 「行くぞオラァ!」 「ゴムゴムの〜! ホーーース!!」 ショウが手持ちのホースを思いきり振りまわし、その遠心力でパウエル児嶋の首筋の辺りに思いきりたたきつけた。バシィン! と派手な音を立てた。 しかし、パウエルは――口もとに不敵な笑みを浮かべたままだ。 「なにっ!」 「ふっ……この程度が攻撃とは笑わせる。おまえには分かるまい。平日の十二時から始まる某生放送で、誰もフォローできないほどの失笑を買ってしまったときの精神的ダメージがいかに辛いか……」 「な、まさか! その番組って!」 「そうだ! FNN全国28局で放送される、あの国民的人気番組だ!」 「ぐわあああぁ!!」 ジュンは派手にふっとばされ、天井を突き抜けて星となった。 「つ、強い……!」 サトシは敗北する覚悟をせざるを得なかった。目の前にいるパウエル児嶋は、なるほど、所詮ただのオッサンでしかないかもしれない。だが、オーバードーズ・クリーナーズの誰よりも苦汁を舐めてきた事実は動かない。 それになによりも、パウエルにあって、彼ら五人衆にはないものがあった―― 彼は、ただのオッサンではあっても、誰からも命令されることもなく、自分の力で成りあがり、テレビで活躍することができたのだ。 「精神は肉体を超越する……肉体の痛みは所詮、一過性のものでしかない。だが、精神の痛みは、永久にその苦しみを抱えて生きていかねばならない……貴様らが味わってきた精神の苦しみはどの程度だ? 俺を超えていると思うのか……?」 パウエル児嶋の両手が赤く光った。憤怒のごとき激しさを湛えながらも、どこか悲しげに灯る命の火。 「俺に味方はいなかった……芸歴十六年、ずっと一人で戦ってきた……! 貴様らに、俺の気持ちが分かるかああああああああ!!」 下、斜め下、前、パンチボタン。 彼は自身の芸である「ストリートファイター物真似」で培った「波動拳」を(位置的に店員たちも巻き添えになるが)解き放った! ――パウエル児嶋は「一万時間の法則」を信じていた。何事も一万時間練習すれば才能が開花するという法則だ。パウエルは一万時間、自身の芸である「ストリートファイター物真似」を練習した。その結果、彼は見事、調子のいいときには波動拳が打てるようになったのだ―― 激旨ラーメン「将軍」は爆散した。鍋やらお玉やら食器類やらが空中高くに吹っ飛び、落ちて地面を転がった。 店員たちは無事だった。なぜなら彼らはパウエルによって、レバーを逆方向に倒して攻撃を防ぐ「ガード」を学んでいたからだ。 「パウエルさん、店が――」 「問題ない。俺にはまだ未来がある。未来はまだ俺の手の中だ。また建て直せばいいんだ。それよりも空を見上げてみなよ。輝く星たちをウキウキウォッチングしようじゃないか」 都会にもかかわらずはっきりと星が見えた。空を見上げぬ者には気づかれないような、小さな奇跡だった。 雲は一片の欠片も浮かんでいなかった。彼を遮るものは何もなかった。 決着はついたかに見えた。 だが――。 パウエル児嶋は一瞬で上空に飛び上がった。その瞬間、パウエルがいたところに無数の綿棒が突き刺さる。 飛び上がりながら視認したのは、黒いスーツを着た男の影。彼もまた同じく飛び上がっていた。 男の胸元には名札があった。かなり昔に使われたものなのだろう、その名札は紙が薄く変色していた――恐らくは、店舗で働く時に身につける名札。 その名札には、ゴシック体の大きな文字で「いけだ」と書かれていた……。 「私の部下を五人とも倒すとは……貴様の『深剃り五枚刃』の精神は見上げたものがある」 「いけだ……それが貴様の名か」 「そうだ。鬼の部長と恐れられた、この私の本当の姿を見せてやろう!」 イケダが気を溜めた。そのエネルギーは凄まじく、地面に散らばった金物や食器が浮かび上がった。突き刺さったままのカズナリとジュンが地面から抜けそうになっている。 「なんて力だ……世界には、まだこんな強い奴がいるんだな……腕が鳴る!」 イケダの肉体から溢れだす『アリナミン』は、フォーマルスーツを内側から引き裂いた。フォーマルスーツの中から現れたのは……「健康創造企業、スリーエム」と書かれたエプロン。 「このエプロンは、私が店舗勤めをしていた頃に着ていたものだ……やはり本社勤務のビジネススーツよりもずっと良い……この形態を見せるのは貴様が初めてだぞ、パウエル」 二人は空中で静止した。 眼下には自動車のヘッドライトが幾筋もの連なりを創っていた。都会の夜は眠らないのだ。 「パウエル、貴様は一つ勘違いをしている」 「……なんだ」 「貴様は確かに、あらゆる苦難をたった一人で乗り越えてきたかもしれない。だが、本当に貴様は一人で乗り越えてきたのか?」 「何が言いたいんだ、イケダ」 「貴様がテレビで名を上げたのは、決して『一人』だけで成せることではないと言いたいのだ! 貴様の周りには様々な仲間がいたはずだ、それを、おこがましいことに、たった一人でのし上がってきたと考えている」 「ぐっ……」 「まだあるぞ、パウエルよ。貴様の乗り越えた苦難というのは、全て『自らが望んだ』苦難だ。貴様は貴様の意志のままに、お笑い芸人の道を目指した。貴様が選んだ道なのだから、苦難もまた自ら選んだ道! だが……私はどうだ?」 イケダの手に青色のエネルギーが収束していく。 「私が今まで味わってきたものは、全て理不尽なものだった! 店舗での仕事など『頭痛生理痛』でしかなかった! しかし私は、その苦痛の中から『シワもニオイもすっきり』したのだ! 自分のやりたいことだけを追い求めてやってきた貴様とは決定的な差があるのだ! 貴様など『乳幼児の手の届かないところにおいてください』だ!」 イケダの手の中に現れたのは革の長財布だった。この財布も、長年使いこんだ痕跡が残されていた。パウエルはその財布の中から、諭吉を出してくるのかと身構えた。しかし、彼が取り出したのは、諭吉よりももっと強力なものだった。 「これを見ろ! 私の妻と二人の子どもたちだ! 私は、この家族の為にも、貴様に絶対勝つ!!」 収束したエネルギーを爆発させて、イケダはパウエル児嶋との距離を一瞬で詰めた。 激しい火花が飛び散る肉弾戦。その動きはもはや常人の目には捉えられない。地上に居る者たちからは、上空に巨大な線香花火が舞い散っているように見えることだろう。 「店長! パウエルさんは大丈夫でしょうか!?」 女性店員が責任者の男に話しかけた。 「家族の力は確かに偉大だ……だが忘れるな。パウエルさんも、今まで自分の信念を信じて、夢を追いつづけてきたんだ。あのイケダという男に、決して退けは取らないはずだ」 パウエル児嶋の赤いエネルギーとイケダの青いエネルギーが何度もぶつかりあい、その火花は紫色になって闇夜に溶けていく。 そして二つの物体が目にもとまらぬ速さで激しく衝突しあうたび、稲妻が夜空に亀裂を走らせた。 太古から伝わる神話の再現を思わせた。 「どうしたパウエル? その程度の攻撃では『目に入らないように注意する』必要があるぞ?」 「へっ。俺はまだ本気を出しちゃあいないぜ!」 「笑わせる!」 二人は一度距離を離したが、すぐさま同時に両者、巨大な気弾を放つ! 「リポチオビタンBB!!」 「真空波動拳!!」 紅き力と蒼き力がぶつかり合い、スリーエム本社上空で大爆発が起きた。爆発の衝撃は地表を大きく揺るがした。「将軍」の店員たちは必死に踏ん張って、その衝撃波を耐え抜いた。 しかし、その衝撃波を、全くもろともしない者が一人いたことに、その場にいる全員は気づかなかった。 「もう一度だ、イケダああぁぁあ!!」 「栄養ドリンクの力を受けてみろおおおお!!」 二人がもう一度、力を溜め始めたところで―― 「二人とも、そこまでにせんか」 威厳に満ちたしわがれた声が、二人の耳に入ってきた。 「誰だ! 私の邪魔をする者は!」 イケダが吠えた。しかし、そのしわがれた声は全く動じることはない。 「これ以上の争いは無意味じゃ。おぬしら二人では、決着をつけることはできん」 パウエル児嶋はその声をどこかで聞いた覚えがあった。そう、この声は、毎日のように「将軍」に足を運んだ常連の声だ。 その常連の名は、確か……。 『将軍』の店員たちは目を見開いた。老齢の声の正体は彼らのすぐ近くに居た。 「貴方は……!」 女性店員のすぐ目の前に、やや猫背になりかかったスキンヘッドの男が一人立っていた。 「さっきのお客さん……!」 そう、しわがれた声の正体は、先ほど激旨ラーメンを啜っていたおじいちゃんだった。 「イケダの信念も、パウエル児嶋の信念も、どちらも同じ『素晴らしい人生』じゃよ。わしも若い頃は夢を追い掛けていたし、手に職を付けて家族を守ってきたこともある。だからわしには、おぬしら二人の気持ちはどちらもようく理解しているつもりじゃ」 おじいちゃんは笑顔だった。それは、今まで自身が生き抜いてきた時間を回想しているようでもあった。その笑顔の中に、後悔は微塵も含まれていないように思われた。 「皆が皆、己の人生を歩めばいいのじゃよ。どのような人生を送ろうとも、正しいも間違っているもない。自分の信念を貫いてさえいれば、それは全て正しいのじゃ」 イケダは、力を溜めるのを止めた。自分の戦いがいかに無意味なものか、痛感せざるを得なかった。それはパウエル児嶋も同じだった。おじいちゃんの笑顔は全てを優しく包み込んでいた。 「二人とも仲直りするがよい。今後は、互いに助け合うことができるようにの」 和解を決意するのに少し時間を要した。 だが、最終的には、二人ともが互いに握手をしあい、健闘を称えあった。 イケダとパウエル児嶋の手が繋がれたその瞬間、将軍の店員は拍手をした。カズナリとジュンも、足で拍手をしていた。 かくして、和解は成立した。 その後。 『激うまとんこつラーメン 将軍』はスリーエムの援助もあってすぐに建てなおされた。前回よりも広々とした店舗となり、長い行列も幾らか緩和された。 その代わりに、パウエル児嶋は厨房で使われる洗剤を全てスリーエムで購入し、ゴールドメンバー会員ポイントカードを大事に持っていた。 カズナリとジュンはレスキュー隊の活躍によって無事に救助された。 マサキ、ショウ、サトシは吹っ飛ばされて、それぞれリヒテンシュタイン、グアテマラ、タンガニーガ湖に着陸していたが、自慢のコミュ力で無事に日本に帰国したという。 |
時乃
2012年06月04日(月) 13時43分25秒 公開 ■この作品の著作権は時乃さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.5 白星奏夜 評価:30点 ■2012-06-19 23:02 ID:ZnM0IRCgEXc | |||||
こんばんは、白星と申します。 勢いと熱さと、ノリで全て書ききってしまう。見習いたい気分になりました。あと、ギャグのセンスもです。 バファリンの気持ちで受け入れよう このセリフで大爆笑でした。半分は優しさ、うまいなぁと思いました。 なんか拙すぎる感想ですが、笑えました。ではではぁ。 |
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No.4 山本鈴音 評価:40点 ■2012-06-06 11:15 ID:xTynl89qwNE | |||||
シュールです! 読者のセンスが追い付かないほどシュルレアリスムを体現しておられますね。 いっそレベル下げた方が……と思う位ハイセンスでした。 責任者が膝をついた理由とか。。。 笑った箇所は数多あるので省略させて頂くとしまして。 「犬神家の一族」の件はマサキ目線なので、〈清潔な喩え〉にすれば完璧かと。(私にはさっぱり思い付きませんが) そしておじいちゃんに爆笑。誰なんですか!? |
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No.3 時乃 評価:--点 ■2012-06-05 01:36 ID:8KP5KT9DATc | |||||
>>ウィル様 笑えました、しか書いてない!(`´) でも嬉しいです! >>脳舞様 ノンストップだと、ついていけない人も出てきてしまうんですね……。 最後の戦い(戦いと呼ぶには阿呆らしすぎますがw)を盛り上げるために、一呼吸置くべきだったのではないか、という意見もあったので、もっと冷静になろう、というのが今回の反省点になるのかなあ。 |
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No.2 脳舞 評価:30点 ■2012-06-04 23:35 ID:vbFRuyuhwTI | |||||
こういう作品って、書いている最中に我に返ったらというかふと距離が出来てしまったりするともう負けだと思うのですが、この長さを書き切るというのは凄いですね。 ただ、読んでいた私が中盤辺りで振り落されてしまいました。ドッキリ云々の辺りまでは面白く読んでいたのですが、なんというかそこで息が続かなくなってしまったような感じに。一呼吸入れてしまうとその続きを読むのは少し辛いかもです。 それにしてもタンガニーガ湖ってどこでしょうか(笑) |
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No.1 ウィル 評価:50点 ■2012-06-04 21:16 ID:/AUSEpJMfiA | |||||
笑いました。 いやぁ、いい台詞もあるのに、笑えました。 薬局の道具を細部に使ってるところも笑えました。 他に感想はありません。笑えました。 |
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総レス数 5 合計 150点 |
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