幻想
 辺りはぼんやりと薄暗くなった。朝から控えめにポツポツと降り続ける雨。それを上から覆う雨雲と、太陽が沈んだ事で辺りはより一層暗くなるだろう。
 彼の古い和風の家の屋根に韻律を整えられた雨の雫が弾けた。彼はその韻律の奥深くに沈んで行くように、窓の外から見える、雨の通った後の絹の糸の様な光る筋から目が離せなかった。
 不意に強くなった雨が緻密な雨筋を壊した事で、ぬらぬらと濡れた窓に鋭く当たった。ふと、彼は我に帰り、はぁーっと深い溜息を吐いた。中々帰って来ない妻に彼は少しの不安を覚えていた。立ち込める湿気の臭いと、暗闇を深めた外には明る過ぎる蛍光灯が眩しいこの部屋に後押しされ、彼の不安は彼を外部に置き、一人でに大きくなって行ったのだった。

 幼い時から彼は人を信用するという能力に欠けていた。それというのも、彼の両親はお互いの仲が悪く、母は父の居ない場所で父の悪口を繰り返し、また幼き彼の過ちを日頃のストレスの晴らす為に執拗以上に責めたのであった。父も母の悪口を繰り返し、時には母の容赦ない鋭い一言にプライドを崩され、母に暴力を振るう事すらあった。だが、この夫婦は表向きでは仲が良く、食卓に座ると型にはめた様な夫婦を演じ、互いを欺き合いながらも、表面上の愛を演出するのである。幼い彼は両親の心が全く違う方向に向いていて、愛などこの間に存在していないと知っていた。しかし、彼は両親同様、これを知っていながらも決して改めて二人に述べる事はなかった。ただ単に父親の暴力と、母の酷い叱責を恐れての事であった。
 幼い時から両親が欺き合って関係を保っているのを見ていた彼は信頼と、愛と言うものを存在しないものだと思った。

 しかし、今こうして彼は人を愛していた。愛している妻の帰りを待ちながらカビ臭い部屋の色褪せた畳の上にポツンと座っていた。
 狂いの無い雨の韻律が時間の経過を遅くし、妻の帰宅の遅さを無限の長さに感じさせるのだった。
 妻の帰宅の遅さによって不安が募っていくに従って彼の妻への信頼のなさが浮彫になっていった。愛する妻を信頼出来ない自らの罪によってまた彼はじめじめとした陰鬱な気分に沈んでいった。妻の尻軽さを安易に想像する事のできる、彼の夢見がちな気質もその陰鬱さに手を貸した。外の景色が黒く染められるに連れて、彼の不安もまた一刻と大きくなっていくのだった。
『私は妻に欺かれているのかもしれない。私は決して妻を欺いていないが、妻は私を欺いているのかもしれない。決して私を欺いていないとは言い切れないじゃないか。妻がもし私を欺いていたのなら私は決して妻を愛していない事になる。私の愛していたのは妻の本質ではなく、妻が私を欺く為に作り出した実在しない妻だ。それは幻想に過ぎない。そう考えると、妻は私の本質を愛しているのか。妻は私の幻想を見て、私の幻想を愛しているのではないのか。もしそうだとすると私たちはお互いの幻想を愛しあっているに過ぎないのではないか。それは私が妻を愛し、妻は私を愛していると言えるのだろうか。』

 ふと、彼は両親を思い出した。そして自分も両親と同じだと思うのだった。今、理解できなかった両親の欺き合いは氷砂糖がコーヒーに溶けて行く様に、跡形もなく彼の心へ身を溶かしていった。

 鉄の軋む音がした。玄関のドアが音を立てながら開き
「ただいまー」
 と、妻の今にも雨音に掻き消されてしまいそうな、悲しい美しい声がした。彼女の長く黒い髪が雨に濡れたせいか、まとまって、蛍光灯の光を受け、ツヤツヤと光っていた。まとまった髪の隙間から垣間見える少し湿った白い頬は少し紅潮していた。その近くの湿ってツヤツヤとと光るピンクの薄い唇。その一連の美に彼は狂おしい程の愛しさを感じた。
「おかえり。遅かったね。」
 彼は訝しげに言った。少し彼女の遅くなった原因を知りたかったのだ。
「ちょっと色々あってね。待っててくれたの?」
「うん。」
「ありがとうー。」
 妻は人形の様な黒い瞳の目尻をにわかに垂らし微笑しながら言った。
 彼は愛しいはずの妻を憎んだ。いつも彼が妻に対して持つ不満を妻は解消してくれなかった。先程の会話によって妻は彼の不安を取り除くどころか、不安の種に水をやる様な言葉を与えた。
 妻はタオルで、濡れた服と髪の毛拭くと彼が先程いた畳の部屋に向かって言った。
 一方、夫は妻によって不安を肥大化させられ、彼の思想は不安を栄養とした破滅的な思想になった。妻のあの黒い瞳の奥に潜むのは妻の本質なのか、それとも偽りの妻なのか。彼には分からなかった。しかし、妻の幻想を追う事、或いは愛する事によって、彼は妻に心を操られて、自己を崩壊させられている事を屈辱に思った。
 そして、ふと彼の頭に、雨の通った後の光る筋の様な閃き落ちた。彼は衝動的にこの考えを実行しようとした。普段の冷静な彼からは想像できない程のこの考えは、彼の、苦痛から逃げる事への力と、妻への憎しみ、愛が、実行への背中を押した。

 濡れたまま彼女は畳に寝転んでいた。彼は彼女の元へ寄ると、ふいに愛しさを抑え切れなくなり彼女を強引に起こし、座らせると強く抱きしめた。もう、彼女への憎しみは忘れていた。彼女の背中を覆う彼の掌は少し彼女の服の冷たさを感じたが、徐々に彼女の体温に溶けていった。彼の手の甲は彼女の背中まである長い髪が覆い少し、くすぐったかった。しかし彼は抱きしめる事をやめないでいた。彼女は彼の行動に驚いたが、彼の背中に腕を回し、彼の肩に小さな顎を委ね、強く抱きしめた。彼女の身体が濡れているせいか、それがお互いを濡らし深く密着したように感じた。
 しばらく抱きあって、彼は彼女の背中を覆う手をどかして、少し彼女との距離を取った。蛍光灯の光が作りだす明暗は彼女の顔をより一層美しくさせた。彼は彼女の淡いピンクの薄い唇に、自らの唇を重ねた。自らの唇に伝わる彼女の抵抗のない柔らかな少しの弾力を持つ唇が心地よく、彼は彼女の肩を抱き、彼女は一切の抵抗もなくそれに応じた。
 唇を離した。彼女の大きな潤んだ瞳と、淡く赤い頬が彼を愛しく見つめていた。
彼はそんな彼女が狂おしい程愛しくて、もし彼女が自分を欺いていたらと思うと愛しさが大きいほど恐怖は増した。しかし、憎しみはなかった。彼は決心した。私は実在の妻と幻想の妻を一緒に愛しよう。そうする事によって私は妻を本当に愛する事ができる、妻の愛を永遠の物にできる。そして私は始めて愛と信頼を同時に行えるのだ。

 彼はたまらなく愛しい彼女へ、彼女の白く細い首へ、たまらない愛しさを持って両手を掛けた。雨脚は増し、屋根に強く雫が弾けていた。
w55
2012年05月18日(金) 02時24分35秒 公開
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No.4  ひじりあや  評価:30点  ■2012-05-28 20:39  ID:ma1wuI1TGe2
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読ませていただきました。

なるほど、と思うと同時にちょっともったいないですね。その人を好きだと思っていても、その人のことを完全に理解しているわけではなくて、「幻想」を好きになっているかもしれないというのは確かにあると思います。
ただ、妻の描写をもっとしてほしかったです。彼女の描写が増えれば、主人公の不安ももっとダイレクトに伝わってきたかと思います。
もう少し長く書いてほしかったです。
No.3  w55  評価:0点  ■2012-05-18 14:41  ID:L6TukelU0BA
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>>都築佐織さん
感想ありがとうございます。
やはり人称代名詞多様しすぎですね…
鋭い指摘ありがとうございます。

>>ぢみへんさん
端正なんて言葉をありがとうございます。
人称代名詞どうにかしたいですねー
ありがとうございます。
No.2  都築佐織  評価:20点  ■2012-05-18 12:46  ID:NKqqyul5B/g
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初めまして、楽しく読ませていただきました。

すこし全体的にうまく流れが進んでいない、という感覚を受けました。けれどそれが逆に主人公の「陰鬱」な感覚に合わさっていい雰囲気を出しているとも同時に思えました。

また、ぢみへんさんがおっしゃっている通りに私も、人称代名詞の多様がきになりました。私も多様しがちなのですが、いったん削ったり妻=彼女、と置き換えていいと思いました。

偉そうにいろいろと言ってしまい、不快に思われましたらご容赦ください。
No.1  ぢみへん  評価:30点  ■2012-05-18 12:03  ID:64MGDiR2nqY
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短い中にも、あり得る愛の側面を描いた、端正な一編だと思いました。
不安で憎しみすら覚えるのに、ひとたび抱き合ってしまうと全部忘れてこの人を愛したいと思う気持ち…
細かい表現的な部分(人称代名詞の多用など)を除けば、特に変だと思う部分もなかったです。
総レス数 4  合計 80

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