途切れる

 乗っている高速バスを大型トラックが追い越していく。雨に濡れた路面からは砂ぼこりのように霧が舞いあがり、静まり返った車内の僕がそれらの散っていくのを眺めている。眼球のすぐ傍の窓ガラスには撃ちつけられた雨粒がびっしりと張りめぐらされていて、疾走するバスの振動でひとつがわずかに震えると、それはすぐ下の水滴を吸いこみ、少し大きく、重たくなってまたさらに下に落ちていく。それを繰り返して次第に加速して落下する粒は、最後には風に飛ばされて見えなくなった。それでも残った軌跡、にさえもまた新しい雨が覆いかぶさって何事もなかったようになってしまい、僕もそれっきり忘れてしまう。バスに揺られて眠っている。なにひとつとして心の奥には届いてこない。出かけているのか帰っているのか、そんなこともどうでもよかった。

 閉じられた瞼の中で、いつか見たような虚ろな瞳を思い浮かべると、空っぽとでも言えばいいのか、暗がりの合わせ鏡のような戻れない嫌な感触がしたので、ちゃんと眠ることにした。ちゃんと眠るとは言ったものの、それが簡単ではないことも確かなので、見たこともない景色を思い浮かべる。
 少し暗いバスの窓を叩く。それからのことはまだ知らない。

 シャワーを浴びている。懐かしく曇った浴室の鏡、お湯が張られていないバスタブ、樹脂製の低い椅子に腰掛けて、シャワーを浴びていた。目を閉じて、顔を伝う水の膜に溺れそうになっていると、尋常ではないほどの高笑いが突然聞こえてきた。それは外からではなく、この家のどこかからだったし、尋常ではないそれが誰のものかはすぐにわかった。信じたくはなかったけれど。シャワーを止め、静かにしようと試みる。昼下がりとはいえ、滴が落ちるのは11月なので寒かった。震える浴室から水滴が引き、ゆっくりと流れていくのに、高笑いはまだ聞こえている。それ自体も不快というか、恐ろしかったけれど、本来それを止めてくれるはずの、僕をなだめてくれるはずの人間がいなかったことの方がもっと恐ろしく、悲しかった。
 少なくともその日はなにも出来なかった。

 いつかの雨の日、細かい時間はまだ決まっていないけれど、僕の部屋の窓から見える誰もいない駐車場に小太りの中年の男が立っていたことがある。雨に濡れたまま、男は名前を呼び続けていた。娘の名前なのか、妻の名前なのか、おそらく女性の名前であろう3文字を必死そうに大きな声で呼んでいた。訴えかけるように、哀願するように立ち尽くして声を張り上げていたその男はしばらくすると声を上げるのを止め、軽くうつむき、ヘルメットを脱ぐようにして自分の首を身体から離した。捧げるようにして持ち上げられた首は、壊れたスピーカーのように名前の最初の1文字目をだらだらと垂れ流し続けている。そしてそれを見て悲しくなった僕の首筋にも、うっすらとした「途切れ」があるのだと思う。

 雑多な夜の街をあてもなく歩き回っていたら、さっきキャッチセールスを断ったばかりの交差点にまた戻ってきてしまった。信号は赤で、僕はそれが青くなるのを待っている。至近距離を猛スピードで抜けていくトラックを感じながら、古の人々には「緑」という概念がなかったんだな、とか考えていると、さっき断ったキャッチの男が「兄ちゃん、やっぱ暇なんやろ?」と再び絡んできた。間違いなく何の役にも立たないこのやりとりの末に、ほんのちょっとだけ押し出された僕の胴体から逃れられない指先が、最後にはあらぬところへ散らばるのをどうか見逃さないでいて欲しい。

 あなただけが知っている僕の弱さとかやり方を、僕自身はすべて把握しきれないのが恐ろしい。正すことは出来なくても予防線を張るくらいは出来るのに。かと言って逃げることも出来ない。水槽の中で揺られているのをよろこぶことさえ出来ない。いつも一緒に眠らなければならない。あなたが優しくなるたびに会いに行かなければならない。わざわざ拒まれる為の、どれとも断定出来ないしあわせ、それが多分今なのだろう。

 もうずいぶんの時間が経って、なんとなく、今僕が乗っているこのバスの中に積み重ねられて、僕と一緒にどこかへ行こうとしている。そして次々に新しくなって、気が付くと繭になっていた。有無を言わせないほど真っ白な膜に、物言わぬ瞳がかすかに透けている。すべてを受け入れたりはしなくても、それらは確かに僕のもので、僕と同じように、僕がやるように思い思いの座席に腰掛け、結局はどこかひとつの箇所に折り重なるようにしてみんなでもう一度眠る。


みずの
2011年12月25日(日) 01時38分40秒 公開
■この作品の著作権はみずのさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
読んでくださってありがとうございます。
けれどもやはりこんなカンジです。
ご意見ご感想などいただければ幸いです。

よいお年を。

この作品の感想をお寄せください。
No.6  みずの  評価:0点  ■2012-01-13 21:30  ID:tUYcy0OjL5E
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ぞーいーさま

感想ありがとうございます。
特に作り込んである作品ではないので、空気感以上の何かを残せない点は反省しているつもりです。
確かに、こういう空気感をさりげなく散りばめつつもしっかりとした物語が作れたら、ひとつ上の作品になるかもしれないなとは自分でも思います。
ぞーいーさんの感想で踏ん切りがつきました。
いつ完成するかわかりませんが、じっくり時間をかけて次はそういうのに挑戦してみます。
以上です。ありがとうございました。
No.5  zooey  評価:40点  ■2012-01-11 00:43  ID:1SHiiT1PETY
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こんばんは、読ませていただきました。

みずのさんの作品は、なんだか本当に空気感が私の好みに合うというか、すうっとなじんでくるような感じがします。
よく分かってはいないけど、空気感だけで私は満足してしまいます。

一番好きだったのは、駐車場で男が誰かを探しているところの段です。
駐車場っていうのも、誰だかわからない誰かを一生懸命探している姿にも、
雨にも、頭を手で持って名前を呼び続けるのも、なんだかしっくりきました。
求めてるんだけど、求め続けるしかできなくて、そんなんだと悲しすぎて頭くらい取っっちゃうんだよな、とよく分からない共感を覚えました。
そんなつもりで書かれたわけではないと思いますが。

こういう描写や雰囲気が、通常の形態の「物語」に組み込まれたら、すごい作品になるだろうなあなんて、そんなことを考えました。
『かもがわでるた』はそれに近かったので、私は大好きな作品です。
No.4  みずの  評価:0点  ■2012-01-09 00:57  ID:tUYcy0OjL5E
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Physさま

感想ありがとうございます。
失礼だなんてとんでもないです。実によろこばしいことです。

Physさんの感想を拝見してから改めて読み返すと、確かに喪失感めいたものがこの作品のテーマになっているのかな、と思います。
(なんか他人事なカンジで申し訳ないのですが)
なので決して的外れではありませんし、そもそもこのような破綻した作品からいろいろと思いを巡らせていただいただけで、僕は非常にうれしく思います。
ある意味読者の方に丸投げするような作品なので、正解とかもありませんし、これからもPhysさんなりの解釈でお付き合いしていただければ幸いです。

とはいえ、もう少しちゃんとしたものを書けるようにやっていきたいと思っています。
ありがとうございました。
No.3  Phys  評価:40点  ■2012-01-07 11:19  ID:5U40BEkQ72w
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拝読しました。

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

みずのさんの作品は、私には評価の物差しがない分野だったので、感想を残す
のは今回が初めてになります。新年ですし、失礼なことを言っても聞き流して
もらえるかなぁ、と期待しています。以下に、感じたことを書かせて下さい。

私の読解力では完全に内容を把握するのは難しいお話でしたが、上手い書き手
さんが書くと説得力があるので、その断片だけでも理解できたような気になれ
ます。気持ちの上だけですけど……。泣

>そしてそれを見て悲しくなった僕の首筋にも、うっすらとした「途切れ」があるのだと思う
>ほんのちょっとだけ押し出された僕の胴体から逃れられない指先が、最後にはあらぬところへ散らばるのをどうか見逃さないでいて欲しい
>あなたが優しくなるたびに会いに行かなければならない。わざわざ拒まれる為の、どれとも断定出来ないしあわせ、それが多分今なのだろう

分かった風な口をきくのはすごく失礼なことだとわかっているのですが、私の
印象としては、「『わざわざ拒まれる為』に夜行バスに乗り込み、昔の恋人に
会いに行く男の人のお話」というイメージでした。そして、「途切れた」のは
彼女に抱いていた「愛情」であると考えれば、自分自身の一部であったそれが
気付けば「途切れている」ことも理解できるなぁと思いました。
(的外れだったらすごく恥ずかしい……)

節同士は接続しているようでいて、途切れている。それが表題とも相まって、
不思議な読後感をもたらしてくれるような気がします。読み終えて、ほうっ、
とため息をついてしまいました。詩のように読み返したくなる作品です。

また、読ませてください。
No.2  みずの  評価:0点  ■2012-01-06 23:40  ID:tUYcy0OjL5E
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藤村さま

感想ありがとうございます。
途切れてるのを目指してたわけではなく、結果的に途切れてただけなので、そういう意味では狙い通りとかでもなんでもないのでなんとも言えないのです。
僕自身は久しぶりに好き勝手書いてまぁまぁ楽しかったですし、それで藤村さんがほんの少しでもいいなと思っていただけたのであれば書いてよかったかな、とは思います。
なんにしてももう少し頑張ります。
ありがとうございました。
No.1  藤村  評価:30点  ■2012-01-03 23:48  ID:a.wIe4au8.Y
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あけましておめでとうございます。
おもしろかったなあとおもうところは、首と、高笑いと、繭でした。あと出だしのあたりもいいなとおもいます。
うまくやる仕方なんていうのはわからないので、よくわからないのですが、途切れてる感みたいなのはすごくあった気がします。
拝読しました。でした。
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