少女の見つめる先 |
目の前の少女の喉元にナイフを当てる。少女は何の抵抗もせず、焦点が定まっていない瞳で僕を見ている。 あぁ、お願いだから、そんな目で僕を見ないで。 ナイフを握る手に力を込めれば少女の喉にナイフが突き刺さって血が滴る。 それでも少女は抵抗もせず、それどころか眉一つ動かさずに、じっと僕を見つめていた。 彼女はいつでも冷静で、何を考えているのかなんて分からなかった。分かろうともしなかった。 彼女について僕が知っている事は、まず目が悪い事。それなのに眼鏡もコンタクトもしていない事。 次に、家族が誰もいない事。出会ったときからずっと一人ぼっちで、甘えてくる事は無かったけれど、1人で寂しさに身を震わせている事はあった。 そして、彼女には痛覚が無い事。彼女はどれほどの傷を負っても、苦しみに襲われても、眉一つ動かさずにいた。 その所為で余計な怪我が増える事が多くて、世話する方にとってはひどく面倒だった。 火傷しても分からないから、へたに熱いものやひどく冷たいものは食べさせられないし、触れさせる事も出来ない。 それなのに彼女は不要なチャレンジ精神でそれらに向かって行くものだから、止める方である僕は苦労が絶えなかった。 それでも、2人で生きる道は楽しかったし、温かかった。繋いだ掌から伝わる柔らかな鼓動が心を落ち着かせて、触れる体温が心地良かった。 それなのに何故、今はこんな状況になっているのだろう? 彼女が憎いわけではない。彼女を憎いなんて思った事など一度も無い。 それなのに何故、僕は今彼女にナイフを突き付けているんだ? 分からない。自分の考えが分からない。 それでも一つだけ分かる事があった。 それは、彼女は僕に殺されても構わないと思っている事。 彼女はナイフを突き付けられていると言うのに、逃げようとはしない。ただ、じっと僕を見つめているだけだ。 何故、そんなにも真っ直ぐに前を見据える事が出来るのか。何故、そんなにも澄んだ瞳をしているのか。 何故、そこまで真っ直ぐにこの醜く歪んだ世界を見る事が出来るのか。 この世界が僕らに向けた仕打ちを、君は忘れたのか? この世界に生きていて、なにもいい事なんてなかった。辛い毎日の繰り返しだったじゃないか。それなのに何故、君は目を逸らさないんだ? 「分からないよ・・・・・」 「・・・何がですか?」 「分からない、分からないんだ・・・・自分が、君が、この世界が、周りが、全てが、分からないんだよ・・・・・」 「無理に分かろうとしなくても、いいと思います。貴方には貴方の考えがあって、それに基づいた自論がある。それを世界の理によって捻じ曲げる必要性は無いでしょう。」 彼女はひどく冷静な声で俺に言葉を放ってくる。その言葉さえ呪わしくて、僕はナイフを握る手に力を込めた。 彼女の首元にナイフが食い込んで、赤い血が先ほどよりも量を増して流れて行く。 滴った血は溜まって、赤く暗い池になる。そこに映る人間はとても醜い。 あぁ、これは、僕と君の顔なのか。 赤い水面に映る2つの影。それはこの世界の様に残酷で不平等な光景。 武器もなく抵抗もしない少女に向けられた刃。それを握るのは成熟した男性。 他者から見れば通報されるほどの光景だが、そんなことをする人間はこの空間に存在しない。ここにいるのは2人だけ。 誰も、ここに来る事は出来ない。 さぁ、耳を塞げ。蛇の甘言を聞かないように。 さぁ、口を塞げ。知恵の実を口にしないように。 2人だけの世界を壊す事の無いように。口を捨て、耳を捨て、鼻を捨て、目を捨てろ。 2人だけの世界以外を取りこまないように。意識を捨て、考えを捨てろ。 互いが好きという感情だけを持って、その他を全てかなぐり捨てろ。 そうすればきっと2人は、幸せになれる。 なんて、誰がそんなことを言った? それこそ蛇の甘言ではないか。それこそ知恵の実を口にするほどの大罪ではないか。 馬鹿馬鹿しい。2人だけの世界なんてすぐに壊れてしまう。世界と常識がある限りは、互いを思いやり、互いだけを慈しむ事なんてできはしない。 だから僕はこの世界と常識から逃げ出す方法を模索した。 その結果がこの行動だと言うのに、彼女は喜んではくれない。笑ってはくれない。けれど、泣きもしないし、怒りもしない。 彼女はきっと、何も感じていない。 あぁ、こんな風にしたかった訳じゃないんだ。僕はただ、君と二人で幸せになりたかったんだよ。 ねぇ、お願いだからもう一度だけ笑ってくれないか。もう一度だけ、その声で僕の名前を呼んでくれないか。 もう一度だけでいいから、君の可愛らしい甘えた姿を、僕に見せてはくれないか。 僕はナイフを取り落として、俯く。彼女は僕を見つめたまま、何も言ってくれない。 もう一度だけ、もう一度だけと望んでも、彼女が行動に移す事は無い。 彼女は既に動かぬ人形。壊したのは、自分自身。 あぁ、なんて罪深き者。自分の罪さえも受け入れず、ただ夢の中に逃げるなんて。 生贄の少女にすればどれほどまでに軽い事か。愛した者に壊された少女にすれば、どれほど悲しい事か。 人間など、全てそれだけ。自らの欲を満たし、渇望しない為に全てを動かす。 それが人なのだと。 少女の手が、ピクリと動く。その動きに青年は気付かぬまま、俯いて泣きじゃくる。 少女は片腕を持ち上げて、青年の頭を撫でた。その動作に、青年はやっと顔を上げる。 目の前にいるのは、微笑む少女。自分が壊したはずの、もう二度と笑う事は無い少女。 それが今、目の前で笑っているのだ。 「あ・・・・あぁ・・・・・・・」 少女を抱きしめ、青年は自分の喉にナイフを突き立てる。 壊れた少女は最後まで微笑んだまま、青年をずっと抱きしめていた。 「気はすんだかい?」 「え? まだよ、まだに決まってるじゃない。どうして人間ってこんなにも面白いのかしら? 愉快だわ。愉快すぎて笑っちゃうわ!」 あははは、と笑う少女の傍らには、いつの間にか1人の少年が佇んでいる。少年は呆れた顔をして少女を眺めているが、少女が不意に立ち上がり、自分の上にのしかかっていた男を蹴飛ばしたので、その男を少し哀れに思う。 「最後まで気付かなかったね。」 「まぁね。私も迫真の演技だったし!」 「はいはい。じゃ、行こうか?」 「えぇ。ふふっ、次は誰で遊ぼうかしら?」 少年は蹴飛ばされた男に向かって一度十字を切り、礼をする。少女は既に青年の事になど目もくれず、自分の身だしなみを整えて、切られた首に包帯を巻いている。 少年はそんな少女を見て、一つ、深いため息を吐く。少女はそのため息にむっとしたけれど、何も言わずに少年の傍に立った。 そのまま少年の首に手を回して、深く口付ける。少年は抵抗もせず、されるがままに舌を絡ませた。 温かな唇と纏わりつく粘液が異様な水音を立てて、その音が耳に吸いつく。 唇を離せば、2人の間に銀の糸が伝い、呆気なく切れた。 いつの間にか、少女の左手の薬指には銀色の指輪が光っている。 「じゃ、行きましょうか。さっさと次の遊び相手を見つけないと、また退屈しちゃう。」 「君が退屈になると僕で遊ばれるからね。早いとこ見つけて、さっさとその男の所に行っておくれよ。」 少年の冷たい声音と、少女の明るい声音は対照的だけれど、2人ともそれが本心からの言葉だと確信している。 少年は少女にもこの世界にも無頓着。少女は楽しければ何だっていい。 そんな2人だからこそ、何にでもなれるし、何処にでも行ける。 そんな2人だからこそ、真に支え合って生きていける。 |
リレン
2011年12月19日(月) 12時23分36秒 公開 ■この作品の著作権はリレンさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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