七花八裂 |
槇がここからいなくなったことは、実を言うと二時間前から知っていた。知っていたけど、特に心配なんてまったくしていなかった。もう二度と帰ってこなかったら困るなあ、くらいの気持ちをレンジでチンしている。私はソファにもたれかかって、意図的に時間をかけて冷ました、ぬるいコーヒーをすすっていた。 そういえば、槇はいろんな姿に変身することが出来ると豪語していた。女の人になることも、おじいちゃんになることも、幼稚園生になることも、猫にだって化けられるんだ、なんて、真顔で言うから、そのときの私は吹き出した。頭が悪いんじゃないの、なんて口を滑らしたら、槇はちょっとふてくされていた。 槇は自分勝手なヤツだった。日陰が好きなんだ、と窓のカーテンを開ける私を抱き上げ強引に引っぺがした時もあった。猫舌なんだ、と沸騰させてしまった味噌汁を結局飲んでくれなかった時もあった。私は、そんな彼がどうしてもお気に入りだった。 槇はたまに優しいヤツだった。夜道を出掛けたときには、それとなく車道側を歩いていたし、私がなんでもないような段差に躓くとすぐに腕を掴んでくるし、私の小さな歩幅に合わせて歩いてくれた。夜風が冷たいと言えば、マスクをすると鼻が寒くないんだよ、なんていう不思議な助言をくれた。しかし思い出してみると、槇が優しかったのは夜道を出掛けた時のみだったような気もする。 槇の見てくれが私は大好きだった。百八十を超える背丈と、黒くて艶のある髪と、細長い瞳。私が一番好きだったのは、愛くるしい猫背と、それと一緒に前かがみになる突き出た喉仏だ。ふと、彼に見とれて「槇は格好いい」なんて言えば、耳を赤くして照れた。それから、しばらく会話をしてくれなくなった。 槇は私の本棚を漁るのが好きなようだった。有名なミステリー小説から、途中で読破するのを諦めた哲学書、アニメ化された戦闘シーンばかりの少年漫画、デビューしたてで不慣れな雰囲気が漂う少女漫画など、槇はなんでも無造作に読み耽っていた。その整えられた髪の毛を耳にかける仕草が好きで好きで、彼が足を組みソファに寄り掛かり、右手で髪の毛を耳にかけた瞬間に息絶えたいとさえ思った。 槇は私に進んで話しかけてこなかった。だから主に私の方から槇に質問をしてみたりしてから、私たちの会話は長年止まっていた時計の秒針が動き出すかのようにじんわりと始まる。 「今日、新しいバイトの子が入ったんだよ」 と、思い出したことを口にする私。 「へえ」 と、低い声の槇。 「可愛らしい高校生だったよ」 「ふうん」 「槇も、高校生の時は可愛かった?」 「…………」 槇が静かになると、いつも会話はそこで途絶えた。 槇が私の飲みかけのコーヒーを口に運んでいる。時間が経ってすっかり冷たくなったそれを、彼は可愛がるように見つめている。私の喉が震えた。 「誰が、好きなの?」 答えなんて何でもよかったと思うのに、冷や汗を握りしめている。 「誰でもいいだろ」 槇は私じゃないものを見つめている。そんな確信を、槇に張り付けるように押し倒した。 槇はたびたび私の長い髪の毛を触りたがった。高校を卒業してからも一度も染めたことのないバージンヘアを、槇は大事にしていた。私はその瞬間だけ、私という人間が槇に必要とされているのだと、しあわせを感じた。 見よう見まねで槇と同じように右手で髪の毛を掻き上げてみる。その仕草を槇が呆けたように見ているのに気付いて、胸が痛いと思う。 「誰が、好きなの?」 私は自分自身が泣くんだと思った。そんな投げやりな気持ちがもちろんあったのだと思う。 「お前の髪に、すこし、似てる人だよ」 槇が何を思って、何を考えて、何を持っていて、何を見てきたのかが、分かったらいい。映画にしたら百本くらいになると言われたら、私は一睡もしないで全部のセリフを覚えてしまう勢いで画面を見つめるだろう。眼鏡にしたら度が強すぎて失明すると言われても、私はすぐに買いに行く。見せるには足が一本必要なんだけど、と言われたらすぐに台所にある包丁でこの右足を切り落とす。異常な愛だ、と言われても、まったく全然困らない。なぜなら、確かにその通りだったから。 「槇が好きな人は、どんな人?」 私はせがむように訊いた。何でもいい、彼のことが知りたい、という気持ちと、そんな胸が痛むようなことは聞きたくない、という気持ちが競り合っている。 槇は少し黙った。また怒られる、また無視される、なんて不安を握りしめていた。 「……もう会えないひと」 槇が、弱く零した音を、私は聞き逃せなかった。 「死んじゃったの?」 私は槇の顔を覗き込めなかった。彼がいまどんな表情でいるのかなんて知れば、もっと槇が遠くなっていく気がしたから。 「死んじゃったの」 槇がちょっと笑っている、そんな気がした。 「どうして?」 私は聞きたくない音がすると知っているのに、先へと進む気持ちが抑えられなかった。 「生きるのが、死ぬほど苦しいことだったから」 聞いちゃいけないこと、言ってはいけないことを積んでいく感覚に、溺れてゆく湿っぽさに、落ちぶれた。 「槇が、守ってあげればよかったのに」 私の言葉があまりに無神経であったことなんて、死んでから知った。 しとしとと雨が降りだした頃に、槇が帰ってきた音がした。 おかえり、と言いながら槇の方に顔を向けると、彼は濡れた瞳で私を強く見つめていた。服や髪も雨に濡れて雫が滴り落ちているので、私は何か拭くものを、彼を拭うものを渡そうと思い立ちあがった。槇はそんな私を静止させるかのように目前に立ち塞がり、濡れた瞳で私を上から見下ろしている。 私は彼の顔を間近で見て、気付くのだ。彼の瞳が湿っている様は、決して雨だけの所為ではないのだと。 「強すぎるんだ、気持ちが」 槇が喋った。私は息を呑む。 「早く、探さなくちゃいけないのに」 槇が喋った。私はまばたきも出来ずにいる。 「雨が降ると、傘が無くては、息が詰まる」 槇が言葉を連ねる様を、愛おしくない、と思った。彼は私を見てはいないのだ。槇は多分そんな私に気が付かずに、話を進めている。 「心臓移植をするとね、記憶が混じることがあるんだって」 静かな空気に、小降りの雨の音が響いている。 「信じるのか、信じないのかはお前次第なんだろうけど」 槇は難しそうな顔をしているのだと思ったけれど、これは寂しいものを見つめる瞳なのかもしれないと思うと、頭の中がこんがらがってしまい息が詰まった。 「心臓を食べる化け物が、俺の好きな人の死体の心臓を食べて、それから俺を食べにきた。化け物の身体の中で、彼女の死体が眠っていて、」 私は槇がなにを言っているのかまったくわからなかった。 「俺はずっとずっと、目がそらせなくて、なにひとつ、なにひとつ、かける言葉もなくて」 その時、槇の身体がシュン、と音を立てて縮んだ、かと思えば、膨張したり、虹色のアメーバ状になったり、チカチカと色を変えたり目まぐるしく姿を変貌させていった。 私は目の前で起きている怪奇現象に胸の高鳴りを耳元で聞いて、身体が震えた。まばたきをひとつ、ふたつ、みっつした後には、槇の姿は黄色い髪が綺麗な、女の子の姿になっていた。白いワンピースと、爛爛とした瞳が印象的な女の子だったから、私は天使が迎えに来たのだと錯覚したほどだ。 「槇の気持ちが、強すぎて、重い」 彼女は穏やかな笑みを浮かべながら、透明な声で話した。 「明確な意識は、邪魔なんだ。死体の彼女のように、知らないうちに私自身が彼女の感情の虜になって、ふらふらしちゃうのも困りようだけど。でもどちらにせよ、私にとって仕方のないことなんだ」 私は彼女がなにを言っているのかまったくわからなかった。 「私にはわからないや、心臓って痛いの?あなたの何が、痛むの」 私は彼女がなにを言っているのかまったくわからなかった。 「槇はね、優しすぎるんだ。だから自分勝手な行動をとって欲しかった。彼は上手に、出来たのかな?」 私は彼女がなにを言っているのかまったくわからずに、槇の姿を脳内で濁していた。 「彼のことを欲しがった彼女の気持ちのまま彼を私の中に入れたさ。くるしかったけど、結果オーライだったね。槇は、きっとこれから生きていても首を吊ったひとのことを忘れられずにいるの」 私は彼女がなにを言っているのかまったくわからずに、ただただ、槇のことを返して欲しいと思った。 「私はね、そんな哀れな彼に、せめて苦しみから逃れられるような名前をあげたの」 そのとき、お腹に響く重低音がズズズ、とはじけた。 私は彼女がまた徐々に溶けだして、血肉を再構成して背丈の高い槇の姿に変わっていくというグロテスクな様を、目をそらさずに見ていた。 「槇の木は、水に強くて、朽ちにくいんだ」 最後に彼女の声が、言った。 それから、私は彼女から彼に成形されたヒト型のそれを目をそらさずにぽたりと見ていた。私は禁忌のような感触を乗せて彼にそろそろと触れてみたところ、彼はピクリと身体を反応させてから、ゆっくり息を引き取ったような感触がした。 次の日の朝、槇は呆然と空を見上げていた。その様を見て、私は驚いた。彼が死んだと思っていたからではない。カーテンを開けて、朝日が眩しそうに目を細めながら、よく澄んだ朝の空を見ていたからだ。 「槇、日向が嫌いなんじゃないの」 私が独り言のように言うと、槇はすぐに「嫌いとは言っていない」と返してきた。返事がくるなんて思っていなかったから、少し拍子抜けだった。 「なにひとつ、なにひとつ救われちゃいないのは、彼女の方なんだ」 槇がまるで天使を見ているような顔をしている、と思った。 「君だって、なにひとつ、大丈夫になんかなってないじゃない」 私が言うと、槇は顔を歪ませた。これは悲しいという顔なのだと、そのときの私は理解出来た。 「人が死ぬって、そういうことなの?」 私は、槇を大切に思う気持ちなんてどこにもないのだと知った。彼の形がどうなったっていい。彼の気持ちを尊重したい気持ちもない。私は彼を遠くへ奪い去りたい。しがらみというしがらみを、綺麗に溶かしてみせたい。そして、愛されたいのだ。彼を、彼を。 「もしかして、私が君を救いたいと思う気持ちは、君が彼女を救いたいという気持ちと、似ていたのかなあ」 私は頭の中が空っぽだった。空っぽのまま、胸に流れる言葉をそのまま喉に通していた。だから、槇がどんな気持ちになるのかなんて考えずに、むしろ、その痛ましい表情さえ愛おしいと感じてきた。でも、いくら手を伸ばしても、指が跳ね飛ばされそうになるだけなのだ。ああ、君ってやつは、まったく理解出来ない。 「泣かせるね」 そう言った槇は確かに笑っていた。私はまだ手を伸ばして彼にキスをせがんだ。このとき自分が何を求めていたのかは、あまり理解出来ない。 「笑わせんな」 そう言った槇は確かに泣いていた。だから、抱きしめて彼をとおくに奪いたかったのに、私は自分の心臓の音が聞こえなくなる音を聞いて、あのまま死んでしまったのだと思う。 |
らた
http://nanos.jp/rrrrrrrrr/ 2011年12月01日(木) 20時25分28秒 公開 ■この作品の著作権はらたさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.5 らた 評価:--点 ■2011-12-10 22:11 ID:R9CvepdEQA2 | |||||
>陣家さん わわ、必ず帰ってきてくださいね!(笑) |
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No.4 陣家 評価:0点 ■2011-12-06 19:51 ID:1fwNzkM.QkM | |||||
ありゃ、空じゃなくて青くんでしたね。 申し訳ない。 ちょっと懺悔マシーンに食べられに行ってきます。 |
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No.3 らた 評価:--点 ■2011-12-05 22:57 ID:R9CvepdEQA2 | |||||
>陣家さん お久しぶりです、そして感想ありがとうございます! いつしか陣家さんが日向のことがきになる的なことを言ってくださったことが嬉しくて何度か思い出しているうちに頭の中で話が出来上がっていました(笑) あたためつつなやみつつ話が繋がっていく拙さにお付き合いくださって感謝の気持ちでいっぱいです。 私はラストから話を作っていくタイプなのでこの作品の本筋は水を排水溝に流すような感覚です。 私の書く根暗な小説のなかでひときわさっぱりとしています。色んな意味で。 陣家さんの解釈はとても参考になります。 話の続きを知っている私からしたら決して見れない部分を連ねてくれることに感謝しています。 色々予想をしてくださることは、すこしでもこの作品に興味を持っていただけている、なんていうプラス思考をぷかぷか泳がせています。 「わかりづらすぎるのは避けて、読後感は良くありたい」というのがここに投稿し始めてから出来た私の目標ですが、この作品だけはぼんやーり、で。次の作品の意味合いを強めたいなんていう欲ばかりですね。次ので、ここにある伏線を回収しきれるのか、不安ですが(笑) 文才、とはとても格調高いお言葉、光栄です。 じつはつい最近好きな先輩に「文才あるから、文学を書け」と言われずっと有頂天気味だったので、こんな短期間で嬉しい言葉が積まれるとは……とにこにこしてしまいます。幸せ者ですね。暗い奴だと思われたくなくて文章を生活の表に出すことは全然ないので、嬉しさは何倍にもなります(笑) 人物の名前は特にこだわりますね。私自身にしかわからない由来だったり、ストーリーの大事なキーワードだったり、使いようがありすぎて楽しいです。 次の作品を読んでいただいて、ああ、そういくのか、なんて思っていただけたら幸いです。 ありがとうございました! >蜂蜜さん 感想ありがとうございます! 本作だけ、となるとよくわからないストーリーになってしまったかな、と不安に思います。 人様に見ていただくのだからもっとひとつで読みごたえのあるものにするべきだったかな、と今になって悩んでみたりしてます。 しかしなにより私の小説を読んでいただけたことがとても嬉しいです。 荒くて幼い文章ですが、そこに「個性」があると言っていただけてとても嬉しいです。 これからも延々書き連ねて、読みやすく洗練されていて、個性のある文章が書けたら、と強く思いました。 この素敵な気持ちをありがとうございました。 |
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No.2 蜂蜜 評価:30点 ■2011-12-04 04:25 ID:8SlA.arG1XM | |||||
前作は読んでいません。本作のみを読みました。 まだかなりごつごつとはしているけれども、確かな個性があると思うので、頑張って下さい。 |
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No.1 陣家 評価:40点 ■2011-12-04 03:45 ID:1fwNzkM.QkM | |||||
拝読しました。 お久しぶりです。 このシリーズ、最初から全部読んでるつもりの自分ですが、 ふむふむ…… そうきましたか……なるほど、 いやはや、 実のところ…… やっぱりわけわかりません。 有体に解釈すると、空を取り込んだ日向が槇になって、新たな犠牲者を…… って感じですけど。 ドミノ倒し的と言えば良いのか、近づく者すべてに障る殺生石みたいになっちゃったのか。 でも今回の犠牲者は、無辜の第三者なわけで、ひたすらデッドエンドを拡大して行くこのシリーズ、最後はどうなるんでしょう。 あるいはすべての元凶は空くんであって、空くんの鬱屈と後悔が日向を生み出してしまってそれに捕らわれてしまっているのか。 でも、それでも近づいてしまう、魅せられたように、触れずにはいられない、ブラックホールみたいですね。 いろいろ想像はできますけど、僕の好みで言わせてもらえば、最終的にはなにか答え、というか救いがあればなあ、と希望します。 でもそんなことは抜きにしても、ややこしいことを考えなくても、読ませる文章、やっぱり不思議と気持ち良いんですよね。 文才……というのはやっぱり厳然と存在するんだなあと思い知らされます。 >槇は私じゃないものを見つめている。そんな確信を、槇に張り付けるように押し倒した。 こういうのとか、、、 前作の >それだけの毎日に、避雷針を掲げて、捕まえにきた化け物が、日向なのだ。 このへんとか、、、 なんか、トラウマ並に脳みそにこびりついています。 同じ日本語を使ってる同じ日本人のはずなのに、不思議ですね。 発見と発明の違いなのかも、とも思います。 人物のネーミングセンスとか、作品説明のキャッチとか、Sugeeeといつも感心します。 とにかく、次が完結編ということで、すごく気になります。 最後はどうなるんでしょう、一読者の希望ですが、やっぱりそろそろなにか反撃ののろしを上げて欲しいなと思ってしまいます。 なんかやられっぱなしって感じするじゃないですか。 でも、どうだろ、結末で±0にするのがハッピーエンドだとするなら、できたら-1ぐらいになったらなあと…… それは次の楽しみに、健筆を祈っております。 |
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