愛のカタチ


  〜 Prologue 〜


「みかみぃ、あんたまたお見合い、写真も見ないで断っちゃったんだってぇ?」
 言いながら、シャワーを浴びたばかりの素肌を、たっぷりとベッドに投げ出す。シルクの上掛けが風を孕み、ゆったりと波打っていく。
 三神は腰にバスタオルを巻いただけで、ソファーに腰を下ろしている。濡れた髪を無造作にバックにし、乾ききらない肌が、所々光色に輝いている。指に挟んだきりの煙草。今にも灰が崩れ落ちそう。ぼんやりと窓の外を見ている。窓の外、ベッドの上からは空しか見えない。
 もう一度名を呼ぶと、ようやくわたしの方に視線を向けた。煙草を、小さなガラスの灰皿に消す。三神は何も喋らず、薄っすらとわたしを見ている。睨んでいるようにも見える。下唇の端の方、内側を歯で強く噛んでいる。‥これは、三神が考え事をするとき、よくする癖。
 やや気後れながら、もう一度同じ質問。独り言のように、「あぁ」とだけ答えてくれた。
 ‥どうして? そう訊こうと思いながら、やはり訊けない。目つきがそれを許していない。

 そしてわたしは嫉妬する。わたしを許さない三神の目つきに嫉妬する。

「抱いてよ、‥いつもみたいに」
 三神はゆっくりと立ち上がり、ベッドに近づいてくる。わたしは三神のいないソファーを見ている。三神の目を見てしまわないように。黒のビニールレザー、三神の座っていた跡が、さらに黒い。窓の外、空の青と、雲の白‥。

 シルク越し、三神の指が、背中に回る。三神の指が背骨に添って昇り、形を確かめるように肩甲骨を一回りする。
 ‥わたしは、少女のようにドキドキしている。
 三神の指が後れ毛をやさしく撫で、やがて、静かにうなじを駆けあがる。
 ‥わたしは、少女のようにドキドキしている。
 三神の指が、額に降りてくる。睫毛を撫で、諭すように瞼を閉じ、ついに、わたしの口を静かに覆う。
 ‥わたしは、少女のようにドキドキしている。
 三神の指から、煙草の匂いが漏れてくる。三神の匂いが、唇を滑っていく‥。

 この辺りで、わたしのドキドキは頂点に達する。
 瞼は痙攣し、膝は崩れ、壊れそうなほどに肩を竦め、血の巡る音が頭に響き渡る。
 あとに続くのは、躯のいろんな部分が触れ合う音、求め合う音、微かな吐息‥。
 これらの音はわたしにとって、おまけのようなものだ。と言って、それらがどうでも良いという意味ではない。それらの音たちも十分にわたしを気持ち良くしてくれるし、第一、そんなことを言ったら三神に対して失礼だ。
 ただ、それでも、あのドキドキと壊れそうな瞬間にくらべると、どうしても一段おちるという気持ちは否めない。
 こんな経験を、わたしはもう、幾度くりかえしたのだろう‥。

 三神との関係を不倫とは思わない。ただ、三神との恋愛が終わる前に主人と結婚してしまっただけのことだ。そして、恋愛は今も続いている。

 結婚というのは、一つの世界を築き上げることだと思う。共に暮らす空間を築き、それを維持する。そして、そこには数学的な楽しさがあると思う。提示されたクエスチョンに対し、方法論を考察し、それに添った定理を見いだし、求めるべきアンサーを引き出す。全てが全てというわけでもないが、少なくともわたしはこのやりかたで日常生活の大半を維持している。
 そう、結婚とはわたしにとって、大切で、そして楽しい日常生活なのだ。
 そして、恋愛は非日常。不安定な空間に彼と二人で漂うこと。空間は時毎に形を変え、色を変え、その中では時間の流れですら一定ではない。どんな定理も公式も当てはまらず、単位は統一を欠き、昨日は1だったものが今日は3であり、だから明日は5かもと柔らかな温もりに浸り、しかしマイナスに転じるかもと想い悩んだりもする。全く同じと思える空間が、時にわたしを優しく包み、幸せにし、時にわたしを突き放し、不安にさせたりもする。

 恋愛と結婚。この二つを繋ぐラインなど存在しない。まるで異質だ。だから私は主人と結婚していながら三神との恋愛を楽しむことが出来るのだし、三神の話に耳を傾けながら夕飯のおかずについて悩むことも出来る。
 私が結婚していることを、もちろん三神は知っている。結婚前、主人とのお見合いの席まで車で送ってくれたのは三神だし、その後も逐一経過報告をしているのだから当然のことだ。主人との時間は、まだ、三神との時間の半分にも満たない。
 そして、でも。主人には三神のことを話していない。主人は三神の存在すら知らない。後ろめたいとは思う。話そうと思ったことも何度かある。でも、話せなかった。最大のチャンスであったろう、主人のちょっとした火遊びが発覚したときでさえ、私は口を開くことが出来なかった。

 わたしは卑怯なのかもしれない。いや、わたしは卑怯なのだ。
 わたしは自分に対して後ろめたさを持ってはいない。後ろめたさとは、自分がやっていることに対してではなく、それを主人に秘密にしていることに対してだ。では、なぜ話せないのか。それははっきりしている。主人にはわたしと三神との関係が理解出来ないだろうからだ。
 わたしが三神に求めるのは、セックスではない。優しい言葉でもないし、隠すことのスリルでもない。そんなもので足りるのならば十分以上のものを主人は与えてくれているし、嘘や隠し事の二つや三つは互いに持ち合っている。わたしもそれに満足している。でも、主人はわたしの夫だ、自分の夫と恋愛は出来ない。
 セックスにしろ日常生活にしろ、主人とのそれはどんなにわたしを楽しませることはあっても、わたしをドキドキとはさせてくれない。主人とのそれは、常に安定している。
 それが嫌なわけではない。むしろ満足している。何の不安もなく、頭から爪先までゆったりと浸ることの出来る安心感は、わたしにとって魅力的だ。
 だが、わたしが三神に求めるのは恋愛なのだ。一つの嘘が多くの嘘を呼び、相手を繋ぎ留めるためなら他の何を犠牲にしても構わないと思えるほどの利己主義感。そして、それが正当化される世界。そんな気の抜けない不安定な世界、先の見えない不信感もわたしには同等に魅力的なのだ。
 そんな相反する二つのものを同時に手にいれようとするわたしは、やはり卑怯者でしかありえない。


  〜 1 〜


 三神と出会ったのは、高校の二年に上がる春だった。その春、わたしは家からそう遠くない喫茶店でバイトをしたのだが、そこに三神がいた。
 自己紹介のとき、三神は仕事の手を一旦止め、わたしの前に立った。
 ‥袖口まできっちりとボタンをかけたワイシャツ、黒のスラックスと革靴、黒の蝶タイ。髪は緩やかなバック‥。どこにでも居そうな、いかにもなバーテンスタイル。背はそれほど高くなかったけれど、背筋がすっと伸び、なんだか、折り目がついているという感じだった。ただ、その目許が、良くも悪くも印象的だった。黒目勝ちというのか‥、一見して線の細い顔立ちと思うのだが、そんな中、とにかく目許だけが深い、という印象だった。
 ‥歳は三十過ぎくらいだろうか。いや、もうちょっと上だろうか‥
 そう思いながら自己紹介すると、つい、自分の年齢まで言ってしまった。
「‥‥祥子、十七才です」
 言った瞬間、ハッとした。これでは、頭の悪い女子高生そのものだと激しく後悔した。けれど、そのおかげでこちらから三神の年齢を尋ねることができた。
 三神は二十五才だと言った。もっと、ずっと上だと思っていたので、つい、驚いた顔で三神を見てしまった。けれど三神はそんな反応に慣れてでもいるのか、とくに表情を動かすことはなかった。

 バーテンとしての三神が優秀であることは、見ていてすぐにわかった。とにかく動作に無駄がない。複数の異なった作業を、流れるように、同時にこなしていく。
 そして、しかし。そんな中で三神は、ニコリともせずに仕事をしていた。余裕が無いわけではないだろう。それは、スムーズな動作が証明している。しかし、客との会話の中で笑顔をうかべることはあっても、眼が笑っていなかった。口が笑っていなかった。とてもつまらなさそうに見えた。暗い奴と思った。嫌ならば辞めればいいのにと思った。

 夕方過ぎ、一旦客の引けたところを見計らって、三神はピザトーストを作ってくれた。
「休憩時間がないので、夕食がわりです」
 言いながらグラスを二つ、氷を入れずにミルクを注ぐ。黙々と自分の分を食べはじめる。つられるようにわたしも手を伸ばしながら、腹が立ってきた。‥同じ店で働いているのだから、同じ時間を過ごしているのだから、もう少し会話や表情があってもいいじゃないか。
 三神が最後の一口を食べ終えるのを見計らって、わたしも口のものをミルクで流し込む。そして言った。
「三神さんは、どうしてこの仕事をやってるんですか」
 三神はちらっとわたしを見、それからゆっくりと煙草に火をつける。下唇を噛みながら、暫し沈黙。やがて、ゆっくりと答えた。
「楽しいから」
 今度はわたしが黙る番だった。三神が、「楽しい」と答えたのだから。
 少なくともわたしには、三神がこの仕事を楽しんでいるようにはとてもじゃないが見えなかった。たぶん誰が見たってそうは見えないだろうし、上から見たって下から見上げたって楽しそうには見えないと思った。けれど三神は、「楽しい」と答えたのだ。
 わたしは素直に混乱した。わけが分からなかった。おもわず三神を見つめた。でも、三神の表情からは、言葉以上のものは何も読み取れなかった。

 そして、と言うべきかどうか。閉店と同時に三神の表情が一変した。最後の客がチェックを済ませ、車が駐車場を出て行く音を聞きながら三神が言う。
「閉店です。窓のカーテンをひいてください」
 わたしは素直に驚いた。言葉の意味はともかく、三神の笑顔に驚いた。あまりにも豊かな笑顔に驚いた。
 目尻に深い皺が走り、閉じた口元が無防備に左右に広がっていた。ついさっきまでの無表情が嘘のような、しっとりとして、和らいだ笑顔だった。とても同一人物とは思えなかった‥。
 あまりの豹変ぶりにポカンとしていると、三神が言った。事もなげに。
「どうかしましたか?」
 わたしは暫し絶句し、やがて、理解した。三神はプロなのだと。
 三神の仕事は客にコーヒーや紅茶を楽しむ時間を提供することで、会話や笑い声を提供することではないのだ。あの無表情は三神が造りあげた仕事用の顔なのだ。店内は常に静かで、客はゆったりとコーヒーを飲み、心を豊かにして店を出ていく。ここはそういう店なのだろう。高校生風情のインテリジェンスでたちうちできる空間ではないのだろう‥。
 そこまで理解したところで、三神が言った。
「私はカウンターを片付けますから、フロアに掃除機をかけてもらえますか?」
 言葉遣いは硬かったが、笑顔はそのままだった。
 そしてわたしは、厚い絨毯の上、重い掃除機を引きずりながら、三神が本当はどういう人なのか知りたいと思った。普段何を考えているのか。仕事中何を考えているのか。趣味はあるのか。あるとすれば何なのか。そして、わたしに見せた二つの表情以外にどんな表情を持っているのか‥‥。
 一度興味を持ってしまえば、わたしの行動は素早い。その日のうちにデートに誘った。三神は驚いた様子だったが、結局、食事程度でよければ、と応えてくれた。

 そこは漁港のすぐ側のレストランで、魚料理が美味しい店だった。二階が客席で、一面のガラス越し、漁港からその先に広大な海。運がよければ、水平線の彼方に浮き島のように浮かぶ半島を見ることもできる。わたしはママに連れられて何度も行ったことがあったが、三神は初めてらしかった。
 店を選んだのはわたしの方で、そこには一つの思惑があった。今にして思うと、およそ高校生の考えることではないのだけれど、わたしは三神を酔わせてしまおうと考えていた。それで三神の正体を引き出せると思ったからだ。店は一応、正式なレストランなのだが、ランチもやっているし、ランチからディナーまでの間は、ワインを飲みながら軽く食事をとるという使い方もできる。そこがわたしの狙い目だった。が、大失敗。三神はまるで酒に酔わないタイプで、正体を現したのはわたしの方だった。

 約束の時間は午後2時。わたしは主導権を握るべく、約束の二十分前に店へ行った。しかし、細身で長身のウェイターにコーヒーを頼み、太めで化粧の巧いおばさんがそれを運んでくるのとほぼ同時に三神が現れた。
 三神。薄茶で、いかにも仕立ての良さそうなジャケットスーツ。その下に黒のヘンリーネックシャツ。浅紫でサラサラした感じのスラックス。わざとらしくない程度に光沢を帯びた焦げ茶の革靴。髪はいつもと同じ緩やかなバック。‥どことなく、薄刃のナイフを連想させる。強さと、一瞬の危うさを感じた。中々のコーディネートだと思った。そして、そんな危うさが三神にはとても似合って見えた。
 対するわたし。淡い茶色のフレアスカート。白のシンプルなブラウスに空色のカーディガン。靴はちょっとだけ汚れのある白のローファー。髪は青色のカチューシャでアップにしてある。‥やや子供っぽい感もあるが、中々のコーディネートだと思うし、なによりわたしに似合っているはずだった。
 三神を見た瞬間、わたしは即座に似合いのカップルだと感じた。危うさを秘めた三神と子供っぽいわたしの、どこをどう似合いだと感じたのか。それは今でもわからない。でも、そう感じた気持ちに間違いは無かったと、それは今でもそう思っている‥。

 ウェイターが訪れ、三神の前に氷の浮かんだグラスを置く。三神はわたしの前にあるカップを見ながら、自分もそれをオーダーしようとする。が、わたしの一言がそれを遮った。
「ワインリストをください。それと、軽食のメニュー」
 三神は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、ウェイターに軽く会釈して、わたしの言葉を促してくれた。
 ワインは、やや辛口の白、というのをボトルでとった。一万二千円だった。正直、当時のわたしにはワインの味などまるでわからなかった。ただ、その日は割り勘という約束だったし、値段に見栄をはったらそのワインになっただけだ。軽食はサーモンのソテー。三神は鮃のローストをとった。
 三神がそれを注文した時、わたしはちょっと笑ってしまった。というのは、わたしもそれを食べたことがあるのだが、それは、とてつもなく食べにくいものだったからだ。
 五枚に下ろした鮃を円柱状に巻きつけ、うっすらと焦げ目が付く程度にローストしてある。それを、やや塩見の強い、しかし全体には薄味のホワイトソースをひいた皿に載せ、パセリでは無い緑色の何かの微塵切りを散らして出てくる。見た目に美しく、味はそれ以上に美しい一皿。ただ問題は、どこからどうナイフを入れても一瞬で無残に崩れてしまうことだった。そして食べ終わるころには、目にも無残な一皿が出来上がる。

 二つの皿は、同時に運ばれてきた。わたしはワインを口に含み、サーモンにフォークを突き立てながら三神の動向に注目した。
 右手にナイフ、左手にフォーク。フォークで鮃の角を軽く押さえながら、軽やかな手つきでまずは第一投。わたしはワクワクしながら笑いをこらえている。サク。微かな音と共に鮃が崩れる‥はずだった。‥崩れていない。皿の上には大きな塊と小さな塊があるだけで、初めて見る美しい切断面には、幾重にも折り重なった鮃の身が、在るか無しかの微かな油分を乳白色に光らせている。小さな塊にフォークを立て、ナイフでソースを絡ませ、口元に運ぶ。‥ゴク。美味しそう。
 第二投。サク。美味しそう。更に第三投、第四投と続き、三神の作業は終了した。皿の上にはソースが薄く残るだけで、ほぼ完璧に見えた。気がつくと、完璧に程遠いのはわたしの皿で、千切れた屑のようなサーモンの赤い身が散らばり、付け合せのクレソンの茎がそこに色を添えていた。恥ずかしかった。こんなはずじゃないと思った。それをごまかそうと、ついワインをコクコクと飲んでしまう。‥今日は半島が見えないわ、などと韜晦しつつ、自分を落ちつかせようと努力する。
 ‥思えば、この時点でわたしは当初の目的を見失っていた。目的は三神の人柄を探ることで、そこには三神の皿が美しく、わたしの皿が美しくないことなど、何の意味も持っていないはずだった。だが、わたしは三神に嫌われたくないと感じはじめていた。もっと言えば、三神に好かれたいと考えはじめていた。もっとも、これは今だから言えることで、三神を見た瞬間、似合いのカップルだと感じたという想いが心の底にあったにせよ、自分が八歳も年上の男性に恋愛感情を抱き始めているなどとは思ってもみなかった。

 結局その日は、泥酔とまではいかないが、わたしが一人で酔ってしまい、まるで素面の三神に家まで送ってもらい、あろうことか、三神を家に引きずりこんだ。わたしの両親は離婚していて、当時、ママと二人で暮らしていたのだが、わたしが一人で騒ぎながら三神を玄関に引きずりこむと、そこにママが出てきた。
「夜分にお騒がせして、申し訳ありません」
 ママを見たとたん、三神は急に居住まいを正し、そう言った。ママは黙ってわたしたちを見ていた。状況は明らかだった。わたしは左手で三神の手首を掴み、ママの目を見ながらグイグイと引っ張りつづけていた。やがて、正面からママと目があった。ちょっと怖い顔をしていた。でも、わたしは全然怖くなかった。
「今、何時?」
 わたしが言うと、ママは下駄箱の上の時計に視線を移し、もう一度わたしの目を見ながら、「八時過ぎ」と答えた。
「なんだ、全然夜分じゃないじゃない。三神さん、時間いいんでしょ、あがっていってよ」
 言いながら、しつこく三神の手をひっぱる。
「‥上がっていかれますか?」
 ママが言うと、三神は空いた方の手でわたしの指を外しながら答えた。
「いえ、ここで失礼します」
「え〜っ、なんでよ!今日はもう予定ないって、さっき言ってたじゃない!」
「祥子は黙りなさい」
 ママの視線が飛ぶ。暫しの沈黙。そして、その沈黙を破ったのは三神の言葉。
「‥お嬢さんが酔っているのは、わたしとお嬢さんの双方に責任があります。でも、おかげで今日はとても楽しい時間を過ごすことが出来ました。だから、どうぞお嬢さんを叱らないであげてください」
「‥本当に上がっていかなくていいんですか?」
「はい。これで失礼したいと思います」
 そう言うと三神はママに軽く一礼し、それからゆっくりとわたしに笑いかける。目尻に深く皺を刻みながら、「おやすみなさい」と言い、そして玄関を出ていった。わたしは、三神の皺をベッドの中で何度も思い返しながら、眠りに落ちていった。

 翌日、素面に戻ったわたしはママに叱られることを覚悟していた。そして実際、叱られた。ただ、それはわたしが想像したのとはだいぶ違う叱られ方だった。
「三神さんっていったっけ、あの人はどういう人なの?」
「‥バイト先の人」
「バーテンさんなの?」
「うん。‥でも、店長兼って感じなの」
「店長さんなの?」
「肩書きは知らない。‥でも、仕入れのこととか、仕込みとか。あと他の従業員とかバイトとかの教育とか。‥あと、もちろん実際の接客とか。全部あの人がやってるの」
「‥‥そう‥」
「そう。それで、とてもプロな人なの」
「‥随分と肩をもつのね」
「別に、‥そんなわけじゃないけど」
「‥‥。付き合ってるの?」
「違うと思う。二人で会ったのも昨日が初めてだし‥」
 そこでママは一旦眼を伏せた。やがて、立ち上がってキッチンへ行き、ゆっくりとした動作で紙パックのオレンジジュースをグラスに注ぐ。それをわたしの前に置きながら、ようやく言葉を継いだ。
「祥子は、あの人のことを好きなのかしら」
「‥別に、嫌いじゃないと思うけど‥‥」
「そう‥‥」
 それからママはもう一度立ち上がり、今度は自分用のオレンジジュースを持って戻ると、席につきながら言った。
「あの人。‥三神さん。昨日、祥子が私と二人暮らしだと知ってて家まで送ってくれたのかしら」
「そんなの、知らないと思う。わたし、確かに昨日は酔ってたけど、そんなことは言ってないと思う‥」
「‥‥。それじゃあ、も一度同じことをきくけど、祥子は三神さんと付き合いたいと思っているのかしら」
「えっ?」
 わたしは、はっとしてママの目を見た。ママは真っすぐにわたしを見ていた。わたしは急にソワソワしはじめ、視線を彷徨わせ、やがて、自分の指先に視線の置き場所を見つけた。
 そして、ついに気づいた。三神に恋してしまったと。
 暫しの沈黙の後、わたしはママの目を見ながら答えた。
「うん。わたし、三神さんが好きなの」
「‥‥そう」
「ねぇ、ママ‥」
 言いかけると、それを遮ってママが言った。
「三神さんのことを、まだ良くは知らないけれど‥。何か、とても好感のもてる人だと、わたしも感じたわ」
「‥ありがとう」
「素直なのね。‥それと、とても誠実で、信頼できる男性だと思う」
 ママはそこで一旦目を伏せ、やがて、もう一度わたしの目を見ながら言葉を繋いだ。
「だから、もし祥子がここしばらくの間に無断外泊するようなことがあっても、わたしは心配しないことにするわ」
「えっ?」
「ただ、相手の都合や気持ちを無視して自分の想いを押し付けたり、自分の場所に引っぱりこむのは悪いことだと自覚しなさい」
「はい。‥ありがとう。それと、‥ごめんなさい」
 話しはそれでおしまいだった。

 それからの数日間は、わたしにとってとてもつらいものだった。三神がママの前でああ言った以上、今度は三神がわたしを誘ってくれるものと思っていたのだが、三神はまるでそんな素振りを見せなかった。わたしは月水金とバイトに出ていて、当然三神ともその都度顔をあわせていた。しかし、三神は例のポーカーフェイスのままで、あの日、最後にわたしに向けたゆったりとした笑顔など微塵も見せなかった。

 二週後の金曜、バイトをさぼった。連絡もしなかった。わたしは三神を怒らせようと思っていた。たとえ怒った顔であっても、もっと感情のある顔をわたしに向けてほしかった。ママには、いつも通りバイトに行くと言って家を出た。
 閉店間際、なにくわぬ顔で店へ行った。ノブに手をかけ、押し下げ、躊躇うことなく引き寄せる。ドアは音もなく、当たり前のように開いてくる。
 店内から漏れてくるのは、まず、有線の響き。柔らかなピアノの音色。続いて、薄っすらとした冷気。エアコンの調子は上々のようだ。最後に、「いらっしゃいませ」という三神の言葉と、その視線。わたしを見た瞬間、三神は、つい、と視線を逸らす。
 ドアの内側に足を踏み入れると共に、店内の様子を見回す。客は三人。カウンターに一人で座っているのは、決まってこの時間に現れる常連客。常に作務衣姿で現れ、コーヒーを飲む。この客がくると三神は、オーダーを待たずにコーヒーの準備をはじめる。ところからすると、かなり古くからの常連なのだろう。
 これは後になって気づいたことだが、この客の前で三神は仕事の顔を忘れることがある。他愛無い会話の中、ほんの時々ではあるが、他の客には決して見せることのない、しっとりとして和らいだ笑顔や、厳しく、真剣な顔を見せることがある。ほとんど話したことはないが、わたしもこの客が嫌いではない。
 あとは、隅のテーブルにカップルとおぼしき二人連れが隠れるようにして蹲っているだけだった。
 わたしは大股に歩き、常連客と一つ席を置いてカウンターに掛ける。三神は何も言わず、どころか、わたしの方を見もしない。
 この時わたしは、勝った、と思った。三神は叱るべき相手を無視して自分の優位を保とうとする陰湿なタイプでは絶対なかったし、目の前の客‥かどうかはともかく、カウンターに掛けた人物に水も出さないというのは、プロとしての三神からは到底考えられないことだった。わたしを見ないのは、つまり、わたしに対して負い目があるからだと、そう感じた。

「ミルクティーをください」
 きっぱりと言い切る。三神はわたしを見ずに準備をはじめる。
 ステンレスのシェラカップに水を注ぎ、火にかける。ホーローで、厚手のマグカップを湯煎槽で暖め、棉の布巾で十分に水分を拭い、ニルギリの茶葉を用意する。
 ‥この店では普段、紅茶と言われればダージリンを用意する。だのにニルギリ‥。
 三神がニルギリを手にとるのを見ながら、わたしは不意に、三神の言葉を思い出す。それはまだ三神とデートする前のことで、会話の相手は、今ここにいる作務衣の客だった。

「紅茶として最も紅茶らしいのは、やはりダージリンに尽きると思います。けれど、私が一番好きなのはケニアです。あの攻撃的なまでの華やかさは、一度覚えると二度と抗うことが出来ない程に魅力的です。しかし、これは矛盾した考え方かもしれませんが、最も人に勧めたいと思うのはニルギリです。人によっては頼りないとさえ感じるあの味の中には、実に複雑で、奥深いものが詰まっていると思います」

 ‥そして今、ニルギリ。何も考えていない振りをしながら、三神は確かにわたしの事を考えている。わたしにはそう感じられた。そしてそれは、わたしを浮き足立たせるに、十分な出来事だった。

 お湯が沸騰する。シェラカップの中、お湯はこれ以上望めない程にボコボコと沸騰している。三神は暖めておいたマグカップに一杯分の茶葉をいれ、左手に茶漉しを取り、右手を乾いた布巾に伸ばす。布巾越し、躊躇うことなくカップを取り、一気に茶葉へと注ぎ込む。バチバチと湯の爆ぜる音がカウンターに響き、微細な水滴が小さな輪となって散らばり、それは、三神の手にも容赦なく降り注ぐ。けれど、三神は一向気にする様子もなく、左手の茶漉しを湯の入ったマグに載せながら右手を空け、ストップウォッチをスタート。
ティーカップとミルク差しを、くぐらせるようにして湯煎槽で温め、丁寧に水分を拭きとる。ミルクパンを湯煎槽に浮かべ、少量のミルクを注ぐ。

 ‥全ての動作が予定調和のようで、けれど、画一的というわけでもなく。坦々と流れる時間の中で、ただ、そこだけが別の時間軸の中にある。紅茶をいれる。ただそれだけのことなのに、見ていて飽きない。

 三神はストップウォッチへ手を伸ばす。ほんの一瞬、ピ、と音をたて、沈黙。マグに載せた茶漉しをほんの少し持ち上げ、僅かな隙間から中の様子を窺い、そのまま、もう一度、茶漉しで蓋をする。湯煎槽のミルクをミルク差しに移し、それから、ゆったりとした動作で茶漉しを取ると、ようやく、カップに紅茶を注ぎ込み、ソーサーに載せ、わたしの前に供してくれる。同時にミルク差しも供し、最後にシュガーポットを勧めてくれる。但し、シュガーポットの蓋は閉じたまま。
 わたしはミルクを全て紅茶に注ぎ込み、スプーンを使わずに口をつける。
 それを見ながら、作務衣の客が言った。
「わたしはコーヒーばかりで紅茶の方は今ひとつですが‥。なる程、あなたの言うニルギリの奥深さというものが、少しわかった気がします」
 そう言って席をたち、わたしに軽く会釈してから店を出ていった。

 閉店。わたしは黙って席をたち、窓のカーテンをひく。背中越し、三神が洗い物を始める音が聞こえる。最後のカーテンを少しだけ残し、そこに映る三神を見つめる。俯いたまま、洗い物をつづける三神が見える。何故だかわたしには、そんな三神がおかしくも、ちょっと可愛らしくも感じられた。

 カーテンを閉じ、小さく深呼吸。振り向かずに言う。
「どうして叱らないんですか‥」
 三神は何もこたえない。ただ、洗い物の音が続くだけ。
 振り向いて三神を見る。‥俯いた顔が、いくらか強張ってみえる。
もう一度、小さく深呼吸。
「わたし、今日、帰らないって出てきたの」
 洗い物の音が、静かにとまる。
 暫し、沈黙。
 やがて、再び洗い物を始めながら、三神が言う。
「それで、お母さんは、何て?」
 言いながら、チラッとわたしを見る。ほんの一瞬、視線が交わる。
「‥ごめんなさい。嘘をつきました」
 全てを見透かされているようで、謝らずにはいられなかった。
 さらに沈黙。洗い物の音。やがて、今度は三神の方から話しかけてきた。
「もし、僕が叱っていたら、どうなっていたと思う?」
「わからない。‥‥でも、その時は、今ここで、こういう会話にはなってなかったと思う」
「‥‥そう」
「うん‥‥」
 そこで三神は洗い物を終え、布巾で手を拭きながら、今度ははっきりとわたしの方に向き直り、わたしの眼を見て言った。
「あなたの気持ちは良くわかりました。僕がそれをないがしろにしていた事も、あなたがそれに気づいていた事もわかっています。けれど、嘘はよくない。わたしに対してならともかく、それは、お母さんに対する嘘です」
 そう言って、強い眼でわたしを見る。でも、その眼に怖さはなく、むしろ、慈しみのようなものを感じた。
「はい。ごめんなさい」
「‥でも、さっきはああ言ったけど、外泊の許可を取ってあるのは本当なのよ? もちろん、三神さんって限定つきで」
「えっ? それはどういう‥‥」
 三神が喋り終える前にわたしがつづける。
「このあいだ、わたしと三神さんがデート‥‥した日。その次の日、ママが言ったの。ここしばらくのあいだにわたしが無断外泊しても、心配しないって」
 言い終えてから、一歩、二歩と三神に歩み寄る。
「三神さんならわかるでしょ、わたしが今言ったことが本当か嘘か」
 三神はもう、目の前にいる。息がかかる程に。
「わたし。‥わたし、三神さんのことが好きなの。だから‥でも‥、三神さんはわたしのことをどう思ってるの‥」
 三神の胸に、トンッと額をもたれかける。
「‥‥すいませんでした」
 三神が言う。瞳に、涙が滲んでくる。そして、三神は初めてキスをしてくれた。

 結局その日は、近くのホテルで一泊した。一つのベッドで抱き合って眠ったけれど、最後まではいかなかった。下着も着けたままだった。それでもわたしは、この時ほどドキドキしたのは初めてだった。すでにセックスの経験はあったけれど、抱きしめられただけであれ程感じたのは初めてだったし、キスだけで昇りつめることもあるのだと知ったのも初めてだった。その夜、わたしは幸せだった。

 翌朝、わたしの方が先に目を覚ました。六時ちょうど。いつもの時間。三神はまだ、静かな寝息をたてている。熟睡している。ベッドの中、三神の寝顔を見ながら、三神の寝息を聞きながら、わたしはまた一つ幸せな瞬間を覚える。
 一つのベッドの中、肌が触れあう距離に誰かが寝ていれば、しかもそれが、まだ良くは知らない異性であれば、これ程に熟睡できるものだろうか。実際、わたしには無理だった。わたしは一晩中、目覚めては三神の寝顔を確認し、三神の寝息の中に微睡んでは目覚めるということを繰り返していた。三神がこれ程熟睡しているのは、つまり、わたしに対して全く違和感も警戒心も持っていないことの証明だと、そう感じた。

 三神を起こさぬよう気遣いながら、そっとベッドを抜け出す。毛布を直し、三神に目覚めた様子が無いことを確認。ようやく一呼吸。そこでわたしは、下着しか着けていないことに改めて気づき、今更のように赤面した。
 赤面したまま、猫足でバスルームへ向かう。途中、一度だけ振り返るが、やはり三神は眠ったまま。
 バスルーム、シャワーの栓を捻る。やや間があって、お湯になる。頭からすっぽりとシャワーを浴びながら、その中でわたしは、ようやく大きく深呼吸をした。
 バスルームを抜け、フェイスタオルで髪を軽く拭い、バスタオルを胸の上から巻きつける。乾いたタオルがまだ何枚も用意されていることを確認してから、もう一本フェイスタオルを取り、髪を包むようにして頭に巻きつける。一呼吸。ベッドルームへのドアを静かに開けながら、わたしは息を詰まらせた。
三神がいる。いや、三神が起きている。しかも、きちんと服を身に着け、ソファーに座っている。あまつさえ、煙草に火をつけようとしている。
 思わずわたしは、ドンッ、と音をたててドアを閉じた。

 ‥どうしよう、ここにあるのはさっき脱いだ下着だけで、あとは全部クローゼットの中だ‥‥。

 取り乱しながら、バスタオルの前を強く閉じる。
 そこへ、三神の言葉。
「いいですよ。僕は窓を開けて外を見ていますから。‥あなたの服は、昨日あなたがハンガーに掛けたままになっていると思います」
 小さく深呼吸。窓を開ける音。
 そっとドアを開ける。三神は窓に肘をつき、ゆるゆると煙草をふかしている。バスタオルを押さえながら三神の後ろを通り過ぎ、ハンガーまでダッシュ。服を取りながらそっと三神を振り返る。背中越し、煙草の煙が空にとけていく。

 ‥‥‥‥‥。
 ‥うん。

「あの、ここで着替えたいんだけど‥‥構わない?」
「構いませんよ。‥祥子さんが良ければ」
 三神がわたしのことを名前で呼んだのは、これが初めてだった。鼓動が早まる。
「下着をバスルームに置いてきちゃったの。取りにいきたいんだけど、振り向かずにいてくれる?」
 三神は何も答えず、ただ煙草をふかしている。それを見ながら、今更だけど、やっぱり猫足でバスルーム。大急ぎで下着を着け、そっとドアを開ける。三神は煙草を吸い終えたらしく、二本目に火をつけようとしている。それを見たとき、わたしはなぜだか可笑しくなって、クスッと、声にだして笑った。
 それからわたしは何も言わずにドアを抜け、猫足でなく三神の後ろを通り過ぎる。ハンガーを取り、丁寧に服を着けながら、わたしはもう、三神を振り返る必要をまったく感じていなかった。三神であれば、振り向かないと言ったからには、まずその心配はないと確信できたからだ。そして、三神にならば見られても平気だとも思えたからだ。
 そんなことを想い、一人でクスクス笑いながら袖に手を通していると、一つ、小さく咳払いしてから三神が言った。
「僕もシャワーを浴びてきます。それと‥その後で祥子さんを家まで送って‥‥それで、その‥‥」
 何だろう。三神にしては珍しく何かを言い淀んでいる。わたしは前のボタンをかけながら三神のほうへ向き直る。
「それで、その?」
「‥‥今日は家にあがらせてほしいと思うんですが、‥構いませんか」
 正直、わたしは驚いた。三神のほうからそんな言葉がでるなどとは、思ってもみなかった。
 でも、わたしの答えはとっくに決まっていた。
「ええ、もちろん構わないわ。でも、今日はママが居るはずなんだけど、三神さんのほうこそ、構わない?」
 それを聞いて三神は、あくまでも振り返らずにゆっくりと身体の向きを変え、バスルームへ向かう。ドアを開け、そしてゆっくりと閉めながら言う。
「ええ。もちろん構いません」


  〜 2 〜


 三神と親密な関係になるのに、さして時間はかからなかった。初めてホテルに泊まった夜こそ一線を超えなかったものの、そこはやはり男と女。一月ほどでそういう関係になり、三月もたつ頃には時々家に泊まっていくようになっていた。
 時々とはいえ、それは半ば同棲に近く、わたしの家には、三神の歯ブラシ、シェーバー、全ての着替えから専用の箸、茶碗までもが存在した。泊まっていくよう促すのは、たいていわたしかママの方だったが、三神も変に遠慮することなく、素直にそれを受け入れていた。
 そうやって、更に三月が経ったころ。空が高くなり、金木犀が香り始めるころ。三神はそれまで住んでいたアパートを引き払い、完全に我が家の住人になった。

 言い出したのは、ママだった。
 その日、仕事帰りの三神は、わたしの家で晩い夕飯を食べていた。そして、そんな三神を見ながら、唐突にママが言った。
「こうも行ったり来たりじゃ大変でしょうし、いっそ、まるごと引っ越してくればいいんじゃない?」
 もしかしたら、ママは冗談のつもりだったのかもしれない。三神も、「それはちょっと‥」などと適当に返事をしていた。そして、もう一人の当事者であるわたしは、本当にそうなったら素敵だなぁ、などと他人事のように聞いていた。
 で、結局。その日も三神は泊まっていったのだけれど、翌朝、ベッドの中で、三神がわたしに言った。
「来週、来るから。それで良いかな?」
 一瞬、何のことかわからなかった。でも、すぐに理解した。三神が家に来るのだ。訪ねてくるのではない。引っ越してくるのだ。あまりの嬉しさに、わたしは返事ができず、ただ、三神の胸に顔を埋めることで返事の代わりとした。

 引越し作業は、わたしと三神、それにママの三人で十分に事足りた。
 当日、初めて三神のアパートを訪れたママは、あまりの物のなさに呆れた顔をした。三神はもともとあまり物を持たない主義だったし、日常生活で必要なものは、既にわたしの家に揃っていた。しかし、今時テレビも持っていないというのでは、ママも呆れざるをえなかっただろう。
 お金がないのではない。ただ、使い方が偏っているだけだ。一冊数千円もするような画集やハードカバーの小説などは本棚にぎっちり詰まっていたし、どう見てもアパートの一室には不釣合いな、見るからに値の張りそうなオーディオ機器なども揃っていた。
 結局、引越し荷物として三神が持ち込んだのは、百冊近い本。二百枚を超えるCDとオーディオ機器。あとはカシニョールのポスター絵。それきりだった。

 カシニョールの絵。ポスターとはいうものの、隅に通しナンバーが打たれたそれには、おそらく作者自身の意匠によるものと思われる、しっかりとした額装が為されていた。

 ‥海を臨むバルコニーに、大きな帽子を被った女性が肘をついている。画面の殆どを使って女性の腰から上だけが描かれ、帽子の上は画面からはみ出してしまっている。全体に淡い色彩で、帽子は黒っぽく描かれているが、帽子そのものが黒いのか、影のせいでそう見えるのかは判然としない。眼と唇も黒で描かれている。頬から首筋、背中にかけての肌は、透けるように白い。女性は笑っているのか、泣いているのか、それともただ虚ろに海を眺めているのか‥。その表情は全体の色調の中に埋もれてしまい、はっきりと読み取ることができない。
 そんな中、女性の耳に小さなピアスが輝いている。そこだけが、濃く、強く、鮮やかな紫色で染められれている。まるで、まずピアスを描き、それからあとの部分を書き足したのではと思えるほどに、ピアスだけが鮮やかに光り輝いていた。
 絵のタイトルは、紫のピアス、という。原題ではない。三神が勝手につけたタイトルだ。三神は、今の仕事についた時、初給料の全てをつぎ込んでこの絵を買ったのだそうだ。
 数ヶ月前、わたしが初めて三神のアパートを訪れたとき。わたしの視線はすっかりその絵に引き取られてしまい、しばらく絵の前から動けなかった。最後には絵の前に座り込んでいた。やがて、わたしは絵についてあれこれと三神に質問したが、三神が教えてくれたのは、カシニョールという名と、紫のピアスという、自分でつけたタイトルだけだった。

 引越しの夜、わたしはその絵をベッドの足元の壁に架けた。わたしと三神が眠るベッドの足元に架けた。ほかの物は三神が好きなように配置したが、紫のピアスだけはわたしの意志でその場所に架けた。
 そして、わたしと三神、それにママを加えた、一風変わった同棲生活が始まった。

 実際に暮らし始めると、たまに泊まっていくという事と一緒に暮らすという事との間には、やはり大きな差があって、初めのうち、いくらかの緊張感があった。
 例えば、三神が休みの日。わたしが学校から戻ると、三神がベッドの上に寝転んで本を読んでいたりする。わたしは、「ただいま」と言い、三神が、「お帰り」と答える。当時、家に帰ったらパパッと制服を脱いで部屋着に着替えるのが習慣だったわたしは、そんな当たり前の挨拶にすら緊張感を覚えた。
 そして、ママはもっと酷かった。ママにはちょっとだらしない処があって、寝起きに下着姿でうろつくのは当たり前。風呂上りにはバスタオル一つ身に纏っただけで眠るまでの時間を過ごしたりもする。そのため、各部屋のドアの脇に、いつでも人前に出られるようにと、すっぽりと被るだけのワンピースを常備していたほどだ。わたしとママの、女二人の生活ならばそれでなんとかなってきたが、さすがに三神という同居人の前ではそういうわけにもいかない。
 そんな中で、三神だけが自然体だった。「ただいま」と制服に手をかけるわたしに、わたしを見ずに、「おかえり」と答え、下着姿で顔だけを覗かせるママに、目を逸らしながら、「今朝は寒いでよ」と声をかけたりもしていた。
 そんな風にしながらも、年を越すころには、わたしは、「ただいま」と、三神の前で制服を着替え、ママは欠伸をしながら、「おはよう」と、辺り構わずうろつくようになった。そうやって、互いの存在を少しずつ受け入れながらわたしたちの同棲生活は進んでいった。

 ところで、三神が家に来て間もない頃、三神がママに言ったせ台詞がある。
「一緒に暮らしているのだから、少しですが、お金を入れさせてもらえませんか」
 しかし、ママは答えた。「そんな必要は、無いと思うのよ」と。更に三神。「では、せめて家事を手伝わせてもらえませんか」。
 ママはそこで暫し考え、「じゃあ、あなたの出来る範囲でお願いするわ」と答えた。
 そう答えた時点で、ママ知っていたはずだ。料理はもちろん、掃除に洗濯、ゴミの始末から玄関先の装飾、整理整頓、諸々、庶事雑事‥‥。唯一、裁縫が苦手というのを除けば、三神は家事全般、何をやらせても一流だと。だって、わたしがそれをママに教えたのだから。しかも自慢げに。
 そして三神は、やはり何をやらせても一流で、中でも特筆すべきは、やはり、料理だった。

 わたしもママも、週に一度の三神の料理当番をとても楽しみにしていた。
 三神は、時間さえ許せば、前菜からデザートまでのコースに仕立ててくれる。また、どんなに時間がなくても、三神の料理当番で、出来合いのものが食卓に載ったことは一度もなかった。
 三神が料理を作ってくれるとき、わたしたち三人は、天気さえ良ければ必ずベランダで食事をとった。
 白色の小さなテーブル。二人がけの椅子一つ。そして一人がけの椅子。これは、三神が来てから三人でお金を出しあって買ったもの。海岸で使うような安物だったが、クロスをかければ中々に立派な食卓になる。二人がけにはわたしとママ、そして三神は一人で座る。
 食事の進みぐあいを見ながら、三神は時々席をたち、次の料理を準備しにいく。準備といっても、下拵えの済んでいるそれは、すぐに出てくる。三神が一流たる所以は、全て、この段取りというか、手際の良さにある。わたしもママも、はじめの頃こそ席をたつ三神を見ながら後ろめたさを覚えたが、やがて違和感を失い、まるで、レストランで食事をしているかのような気分になった。
 食事のあと。その頃のわたしにとって、最も幸せな時間が訪れる。
 食事のあと、席順が変わる。わたしと三神が並んで座り、ママは一人で座る。軽くお酒を飲んだりしながら、時間を過ごす。ほどなくママは自室に引きこもる。気をきかせているつもりなのだろう。そんなあとにママが姿をみせたことは、一度も無かった。

 今にして思えば、三神を最も三神らしく感じていたのはこの頃だったかもしれない。
 三神と二人きりで過ごす時間は、ゆったりとくつろいで、まるで、時間という概念からはみ出してしまったかのようだった。わたしと三神の間には何も存在せず、わたしと三神の外にも何も存在しない。三神とは一つの完成された世界であり、わたしはその世界の唯一の住人だった。いつもクラシックのCDが流れていたが、それも遠い絵空事のよう。会話をしたり、しなかったり。抱き合ったり、指も触れなかったり。どんな場面に於いてもわたしは常に無防備で、全てを三神に預けきって、そして幸せだった。

 そんな風に幸せな日々を送りながらも、やはり、不安要素は存在する。血の繋がった母娘と、繋がらない男性が共に暮らしているのだから、不安の生じない筈もない。

 わたしには疑わしくなることが時々あった。三神は本当にわたしを愛しているのだろうか、と。
 三神は大抵優しかった。いつでもわたしの気持ちや言い分を理解してくれた。かといって、それが度を過ぎるということもなく、時には叱られたり、喧嘩をしたりもした。デートも良くしたし、わたしやママのくだらない買物にもきちんと付き合ってくれた。ママを加えて三人で食事やレジャーに出かけることも、珍しくはなかった。
 では、幸せで順調そのものの生活の中で、何が不安なのか。それは、ママと三神の関係。
 当時、わたしは十七才。三神は二十五。そしてママは三十八才だった。
 三神は元々、実際の年齢よりも随分と大人びて見えるタイプだったし、また、ママもまだまだ若く、美しい女性だった。スタイルも良かったし、肌も二十台で通用するほどに滑らかだった。世間並みに見ても、相当な美人だったと思う。
 客観的に見て、二人の年齢差は、まぁ、ママの方が年上だろうと判る程度だったと思う。そして、そんなママのことを三神は、綾香さん、と、名前で呼んでいた。

 はじめ、三神はママのことを、お母さん、と呼ぼうとした。が、ママがそれを嫌った。曰く、「わたしはあなたの母親ではないのだから、そんな風に呼ばれる筋合いはない。どうしても呼称が必要ならば、名前で呼んでほしい」。
 ‥理屈としてはわかる。筋も通っていると思う。けれど、同居までしている娘の恋人に対しての台詞としては、どんなものなのだろうか‥。
 で、結局、ママと三神は名前で呼び合うようになったのだが、そこにわたしの嫉妬心が生まれた。何気ない会話の中、互いを「綾香さん」「三神さん」と呼び合う二人を見ていると、バカバカしいとは思いつつ、三神には、わたしよりもママの方こそお似合いなのではないかと、くだらない猜疑心にかられた。ママが下着姿のときなど、三神がママの名を口にするたび、どうしてもその視線の先を確かめずにはいられなかった。
 そして実際、そんな想いを裏付けるような場面にも、幾度となく出くわした。例えば、初めての店へ三人で出かけるとき。ほぼ例外なく、店員はママと三神をカップル、もしくは夫婦と捉え、わたしは年の離れた妹にしか過ぎなかった。でも、客観的に見れば、やはりそれは仕方の無いことだったと思うし、そんな時は、常に三神が先回りしてフォローしてくれたので、手酷い痛手を受けたことも、一度としてなかった。

 けれど、あれだけは許せない。十年たった今でも、あれだけは許していない。そしてそれは、わたしと三神のその後の関係を決定づける大きな一因であり、わたしたちの同棲生活に終わりを告げる直接のきっかけでもあった。

 暮らし始めた翌年、わたしは夏休みの後半を利用し、クラスメートと旅行に出た。三神と二人で旅行することはよくあったけれど、クラスメートとのそれも大切な記念として経験しておきたかった。まだ、ママにも三神にも話していなかったが、わたしは進学はせずに就職するつもりでいたので、気楽なものだ。仲の良い女友達三人で北海道。一週間の予定だった。

 玄関を出るとき、三神とママは並んで見送ってくれた。
 三神。「何かあったら、必ず電話すること。でも、こういう旅行は一生の思い出になる筈だから、必要以上の電話はしないこと。それと‥、必ず元気で帰ってくること。待ってるから、行ってらっしゃい」。
 そしてママ。「やっぱり何か不安だわ。いつもみたく三神さんが一緒なら安心してられるのに‥」。言いながら茶封筒を手渡す。「必要になったら使いなさい」。その場で開けようとすると、慌てて付け足した。「電車に乗ってから、‥トイレの中で開けなさい」。言われたとおりの場所で開けてびっくり。現金だろうとは思っていたが、なんと、十万円も入っていた。まったく、高校生の娘に自室で恋人と眠ることを許すような母親が、これでは信用されているのか、いないのか‥。

 旅行、二日目。船中泊。電話すべき事態はあっけなく起こった。朝には北海道の予定だったが、友人の一人が腹痛を訴えた。はじめ、わたしももう一人の友人も船酔いか何かの影響だろうと思っていたのだが、翌朝、船を降りても事態は好転せず、顔色も悪くなる一方で、旅行どころではなくなってしまったのだ。慌てて医者に診せたところ、軽い食あたり、とのこと。本人も身に覚えがあるらしかったが、何日かは食事に気をつけて安静にすること、というのもついてきた。
 気をつかわない間柄だったわたしたちは、素直にがっくしきた。北海道まで来て食事に気をつけたのでは、旅の魅力も半減というもの。観光の方も、顔色の悪い友人を連れてでは純粋に楽しめそうもない。結局、旅行を諦め、引き返すことにした。
 かといって、その日のうちに引き返したのではあまりに芸がないし、わざわざ北海道まで何をしにきたのか、という事にもなる。なにより、顔色の悪い友人を一晩ゆっくり休ませる必要もあった。
 で、とにかくその日のホテルと帰りのチケットを確保し、友人をベッドに寝かせ、ようやく人心地。携帯を取って予約済みの宿や観光施設、交通機関の全てにキャンセル入れ、最後に、三神に電話。アドレスを読み出したところで、ふと、三神の言葉を思い出す。

 ‥‥必要以上の電話はしないこと‥‥

 結局、電話はしなかった。今はまだ、三神の言葉の範疇だと思ったからだ。
 ‥今にして思えば、あのとき電話をかけておくべきだったのかもしれない。そうすればわたしと三神の関係は今とは随分違うものになっていただろうし、少なくとも、わたしはそれを見ずにすんだはずだ‥。

 翌朝、わたしたちは近くの市場へ出かけた。食あたりの友人も幾分顔色が良くなり、一緒についてきた。目的はお土産を買うこと。木彫りの熊なんか買って帰っても仕方がないだろうということで、ホテルの人に手頃な市場を紹介してもらったのだ。

 市場には、とにかく色々なものが並んでいた。‥見たことのあるもの、無いもの。知識としては知っているもの‥。即座に美味しそうと感じるもの、調理法すら想像のつかないもの‥。
 さんざん迷ったすえ、結局わたしは蟹を買った。安易である、とも思ったが、いかにも北海道らしい気がしたし、なにより、茹でたのを試食させてもらったら、凄く美味しかった。調理法については売り子のおばちゃんが色々教えてくれたが、誰って、わたしには三神がついている。そこは適当に聞き流した。そして決め手は、おばちゃんの一言。
「涼しいトコに置いとけば、常温でも二、三日は生きてるよ」
 足をザワザワと動かしている蟹を目の前で器用に紐で縛り、ドライアイスの入った発泡スチロールの箱に入れてくれる。わたしと三神、ママ。一人頭二匹と思って六匹買ったら、結構な荷物になった。

 その後もまぁ色々あったのだが、結局、家に帰りついたのは翌日の夜。九時過ぎ。途中、何度か電話しようと思ったのだが、結局しなかった。普段のパターンからして、その日、その時間に三神とママが家に居るだろうことは想像できたし、どうせだから、いきなり蟹を持って帰って二人を驚かせてやろうと思ったのだ。
 そして実際、二人を驚かせることには成功した。が、それはわたしの思惑とはまるで見当違いな驚かせかただった。

 玄関には明かりがついていた。三神の車もいつもの場所に停まっていたし、普段と何ら変わりなく見えた。
 二人を驚かせるべく、わたしはそっとドアを開ける。いや、開けようとした。‥鍵がかかっていた。鍵をかけるのはいつも、玄関の明かりを消してから。大体十時過ぎぐらいだった。わたしは、あれ?、と思ったが、早い時間に鍵をかけてしまうこともたまはあったし、さして不思議にも思わなかった。
 自分の鍵でドアを開け、そっと中を覗き込む。部屋へ通じるドアは全て閉じていたが、奥の、ダイニングへ通じるドアから微かな明かりと音楽が洩れ出していた。ブラームスのシンフォニー。三神が大好きな曲。
 靴を脱ぎ、音をたてずに廊下を渡る。
 わたしは、ワクワクしながらドアを開ける。シンフォニーのボリュームが一挙に上がる。人影が見当たらない。よく見ると、ベランダのガラス越しに二人の影。
 ‥‥寄り添ってみえる。
 咄嗟に目を凝らす。やはり寄り添ってみえる。
 わたしは何故だか怯んだ気持ちで、急に鼓動が早くなる。

 ‥‥‥何やってるんだろう‥。

 潜在的な不安が脳裏を揺るがす。
 わたしは、ためらって、ためらって。やがて、その場で声を出した。
「ただいま」
 小さな声。聞こえなかったのだろう。二人の影に変化はない。わたしは急に苛立った気分になる。
「ただいまっ!」
 うって変わった大声。影に変化。三神。立ち上がってベランダのドアを開ける。どこか虚ろいだような表情。しかし、下唇を強く噛んでいる。何も言わずにしばらくわたしを見つめ、やがて、ゆっくりとダイニングに足を踏み入れ、ドアを閉じながら言う。
「‥おかえり。でも、どうして‥」
 その一言に、わたしはどうしようもない胸苦しさを感じながら、しかし、実際の行動としてはツカツカと三神に歩み寄り、蟹の入った発泡スチロールを三神の胸に押し付けていた。
「友達、病気になっちゃって、旅行、中断しちゃったの」
 自分でも驚くほどスラスラと冷静に言いながら、ベランダのドアを開ける。テーブルにブランデーのボトル。グラス二つ。ボトルの中身は残り少ない。パックを開けただけのスモークサーモン。ポテトチップス。三神がそんなものをテーブルに載せるわけがないから、それはママが用意したもの。そして、テーブルの右にママの椅子。椅子は不自然に半分だけ向こう向きで、そこからママの腕と肩から上だけが見える。そしてママ、振り向かない。
「ただいまっ!」
 ほとんど叫び声。酔っているのだろうか、ママ、動かない。肩に手をかける。ママ、反応。ゆらゆらと立ち上がってわたしを見る。瞬間、わたしはキレた。ママが着けているのは、三神のシャツと、わたしが三神にプレゼントしたトランクスだった。わたしは咄嗟にそれらを引っ張る。シャツ。三神がいつも着けているスリーブレスのシャツ。ママはその下に、何も着けていない。トランクス。わたしが買った、三神のためのトランクス。小さな虎がいっぱいプリントされたトランクス。やはり、その下にも何も着けていない。
「ママっ!何をやってるのっ! ママっ!何をやってたのっ!」
 わたしの叫び声にママは徐々に正気を取り戻し、同時に、顔から血の気が引いていく。それはまるで映画のワンシーンのような、まるで、作り物のような鮮やかな変化だった。

「お酒を飲んでたんだ。‥綾香さんがそれ‥を着けているのは、その、‥楽そうだから貸してくれって言われたんだ‥」
 後ろから三神が言う。三神が何かを他人のせいにしたことは一度もない。だから、それは本当にママの方から言い出したのだろう。けれど、それでもやっぱり、それは言い訳だ。
「断ればいいじゃない! じゃあわたしが貸してくれって言ったらわたしにも貸してくれるわけ? そんなにひょいひょい誰にでも貸しちゃうわけ? わたしなら三神がわたしのを貸してくれって言っても絶対に貸さないわ! それに何よ、綾香さん綾香さんって、人のママを自分のものみたいに言わないでよっ!」
 もう、支離滅裂。でも、我ながらよく言ったものだと思う。ママも三神も、完全に怯んだ顔になっていた。特に、三神。こんなに頼りない三神は見たことがなかった。まるで、全てを諦め、全てをわたしの掌中に委ねているかのようだった。それは、つまり、わたしの想像が、実にその通りだと、そういう事だろう‥‥。
 そう思ったとき、わたしは明らかに落胆していた。もう、怒る気にさえなれなかった。何でもいいから、早くこの騒ぎが収まってくれればいいと思った。

「祥子、そうじゃないの。三神さんは悪くないの‥」
 唐突に、ママが言った。ママは本当に酔っている様子で、わたしの視線を捉えるのが精一杯という感じだった。
「わたしが、しつこくねだったの。三神さんは最初、もちろん断ったの。それに、祥子が思っているようなことは。何も無かったの‥‥」

 ‥ねだった? しつこく? なによそれ。それに、わたしが何をどう思ったっていうのよ‥‥。

「‥‥別にいい。‥もう、どうでも。‥わたし、疲れたから、先に寝るね」
 もう、叫ぶ気力も湧かなかった。呟くようにそれだけ言うと、ママに背を向け、三神の側へいく。
「これ、蟹なの。何日かは生きてるって、おばちゃんが言ってた。明日の夜、料理してね」
 それだけ言って、そっと、三神の眼を見る。虚ろいで、寂しげな眼。わたしは慌てて視線を逸らしながら、「じゃあ、先に寝るね」。そう言って、その場を後にした。

 その夜、未明。わたしは不意に眼を覚ます。ベッドの中、三神が眠っていた。手足を丸め、わたしの方を向いて眠っている。
 息が酒臭い。三神がこんな息を吐くほどに飲むなんて、珍しいこともあったものだ。

 ‥でも、実際、何があったんだろう。
 ‥本当にそんなことがあるのだろうか。

 ‥それに。三神はわたしに、謝らなかった。

 そこまで考え、わたしは思考を停止した。三神の寝息がわたしの思考を停止させた。三神の寝顔がわたしの思考を停止させた。‥目尻に、涙の跡があった。
 ‥何が三神に涙を流させたんだろう‥‥‥。
 わたしは三神の躯に腕を絡め、足を絡め、全身で三神を包み込み、そして、再び眠りに落ちていった。

 目を覚ますと、三神はベッドに居なかった。仕事に行ったのだろう。時計は、二時を少し過ぎていた。
 ベッドを抜け、キッチンへ行く。ママが居た。一人、紅茶に口をつけている。
「おはよう」
 ママが言う。わたしは返事をせずに流しへ向かう。歯ブラシをとり、歯を磨きはじめる。
「あとでいいから、少し話があるの。‥ベランダにいるから、来てちょうだい」
 それだけ言って、ママは席をはずす。
 ゆっくりと歯を磨き、口をすすぎ、やかんを火にかける。アイスティーの準備。茶葉はもちろん、ニルギリ。三神ほどではないが、わたしもだいぶ上手くなった。
 アイスティー完成。それを持ってベランダへ向かう。ママ、一人がけの椅子に座っている。紅茶はすでに空になり、ぼんやりと庭を眺めている。

「‥話って、何?」
 言いながら、二人がけの椅子に腰をおろす。となりに三神を意識しながら‥。
「うん。‥まず、昨日のことを謝っておくわね。あれは、本当にわたしが言い出したの。もちろん断られたんだけど、‥干してあったのを取って、勝手に着ちゃった」
「そう。‥それで?」
「だから、‥御免なさい」

 ‥‥どうして謝るの‥。

「どうして謝るの? わたしだってママが三神の下着を借りたくらいで騒ぐ程に子供じゃないわ。それに、ママが下着姿でうろつくのなんていつものことだし、三神だって見慣れてるんだし、それに、いつものかっこからすれば露出は少ない方だったって思うし、それに、‥それに、何もなかったんでしょ?」
「ええ、あとはブランデーを飲んだだけ‥」
「じゃあ、謝ることなんて、ないじゃない」
 ‥アイスティーを一口。冷たく、爽やかな香り。
「ただね、ただ‥、あのあと、祥子が部屋に戻ったあと、三神さんが涙を流したの」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「知ってる。涙の跡があったから。でも、それがどうかしたの?」
「それで、初めて思ったの。‥なんて素敵な人なんだろうって。そして、何をしてしまったのだろうって‥」
 何を言っているのだろう。何を言いたいのだろう‥。潜在的な不安が、再び頭を持ち上げる。
「ママもアイスティー飲みたい? 作ってこようか?」
 無意識のうちに、話題を逸らしていた。
 ママは、眼だけでわたしの言葉を促した。

 キッチン。再びやかんを火にかける。
 ‥何もなかったことは確かなようだ。
 湯が沸騰する。
 ‥でも、ママの様子は普通じゃない。
 ニルギリを取りながら、ふと、手をとめる。
 ‥ママの、あの言葉‥‥‥。
 ニルギリを棚に戻し、ダージリンに持ちかえる。
 ‥‥素敵な人‥‥‥‥。

 アイスティーを作り終え、ベランダに戻る。ママの前にグラスを置きながら、椅子にかける。ママは何も言わずにグラスを取り、口をつける。それを見て、わたしも慌てて自分のグラスを取りながら言った。
「良くわからないけど、何も無かったんならそれでいいじゃない。わたしも昨日は子供っぽく騒ぎすぎたって思うし。ママはもう謝ってくれたわけだし、わたしとしては、これ以上話すことは、無いと思う」
 ママはグラスを置きながら、どこかやつれたような眼でわたしを見た。
「ママ知ってる? わたし、蟹を買ってきたのよ? 三神に頼んどいたから、今夜はいっぱい食べようね」
 わざとらしくはしゃぎながら、ママの眼を見返す。ママは薄っすらした笑みを浮かべると、一旦、眼を伏せ、やがて、もう一度わたしの眼を見ながら、「それは楽しみね」と答えた。

 その夜、蟹を食べた。茹でたての熱いのを三人で黙って食べた。塩加減もちょうどで、美味しかった。二匹目は冷蔵庫で冷やしてから、三杯酢で食べた。甲羅に身をいっぱい入れ、酢をたらし、箸で混ぜながら食べた。これも美味しかった。付け合せの胡瓜とウドの芥子和えもいっぱい食べたし、茗荷の塩漬けもいっぱい食べた。ビールもたらふく飲んだ。
 そして、その夜。ベッドの中で、わたしは三神に、「おやすみ」と言った。三神は黙って頷いた。
 次の朝、眼が覚めると、三神はベッドに居なかった。
 本やCDはそのままになっていたし、シェーバーや歯ブラシもいつもの場所に置いてあった。
 ただ、全ての衣類と、ベッドの足元に架けてあった紫のピアスだけが無くなっていた。


  〜 3 〜


 三神と別れて、半年。ようやく三神のいない生活に慣れたころ。わたしは卒業を前に、レストランへの就職を決めた。職種はウェイトレス。わたしとしては、一年か二年ウェイトレスをして、その後、菓子やデザートの専門学校へ進もうと考えていた。
 遠くない将来の目的。それは、デザートの専門家になること。形はどうであれ、それを仕事として生活していけるようになりたいと思っていた。
 初めてそう思ったのは、まだ、三神と暮らしていた頃。三神の料理はたくさん食べたが、デザートもよく作ってくれた。
 ‥甘すぎず、ふくよかで、とても優しい味。シュー生地に挟まれたクリームの、美しいまでに滑らかな舌触り。シフォンケーキを口に含んだ瞬間、口いっぱいに広がる卵の香り‥‥。そして、わたしもそんなデザートを作れるようになりたいと思った。料理では敵わないまでも、せめて、デザートだけでも三神に追いつきたいと思った‥。

 そしてその頃、わたしは再び三神と会った。偶然ではない。わたしの方から連絡をとったのだ。
 憎みあって別れたわけではない。喧嘩別れでもない。ただ、間が悪かっただけ。
 別れて間もない頃はそう思っていた。けれど、それが本当の理由ではないと気付いたのは、卒業間近、ママからあるものを見せられた時だった。

 その日、ママは妙に改まった態度で、テーブルの正面にわたしを座らせた。そして一通の通帳を差し出す。
 ‥何だろう?
 そう思って見ていると、ママが言った。
「中を開けてみなさい」
 言われた通りにする。表紙の裏に、わたしの名前がある。更にめくり、オハジメ、とあるのは、一昨年の十月。十万円。以後、毎月決まった日付できっちり十万円づつ、最後の日付は去年の七月。全部で百万入っていた。
「何なの、これ‥」
 わたしの言葉をうけ、ママが話し始める。
「三神さんが家で暮らすようになった頃、お金を入れたいって言ったのを憶えてる?」
 そう聞いた瞬間、わたしは全てを理解した。そして次の瞬間、ほとんど無意識のうちに言った。
「でもこれは、わたしのお金じゃないわ」
「‥そうね。でも、わたしのお金でもないわ」
「だいたい、何だって今頃になってこんなものが出てくるのよ」
 そこでママは、つい、と、わざとらしく視線を逸らしながら、「ゴメン、忘れてたの」と言った。わたしは小さくため息をつきながら、「嘘ばっかり」。ママはチロッと舌を出しながら笑ってみせる。
「忘れてたって言うんならそれでもいいけど。‥でも、どうするのよ、これ。わたし、受け取れないわよ」
「そうね、それは三神さんのお金だもの。でも、名義は祥子になってるし、わたしの方こそ受け取れないわ」
「‥‥それで、わたしにどうしろって言うのよ。だいたい、どうしてママがそれを持ってるわけ? それに今時、他人名義の通帳なんて親子でもなけりゃ‥‥、あっ!」
「エヘヘ、ばれた?」
「あのねぇ、ママ‥」
 そこでわたしは、深い溜息をついた。
「‥つまり、この通帳はママが作ったわけね? ‥その、‥頼まれて」
 わたしの言葉をうけ、ママはニコニコしながらポケットから印鑑とキャッシュカードを取り出し、通帳の上に重ねてみせる。‥わたしの溜息が深くなる。
「‥で、わたしにどうしろっていうのよ」
 そこでママはいったん腰を浮かせ、しかし、居住まいを正しただけで再び椅子に架け。そして、おもむろに言った。
「どうすればいいと思う?」
「知らないわよ、そんなの。それに、その‥、状況からして、ずっとママがこれを持ってたわけじゃないんだろうし、‥さっきもきいたけど、何だって今、ママがそれを持ってるわけ?」
 間髪入れずにママが答える。
「預かったからよ。三神さんが出て行くときに」
「‥何よ、それ」
「それってことは無いでしょう?」
「‥どうしてママに預けたのかしら。そんな必要、無いような気がするけど」
「そうね。‥でも、わたしに通帳を預けながら三神さんが言ったの」
「‥その、何て?」
「これは、本来必要なはずの生活費を貯めてきたものですが、元々それは本意ではありませんでした。ただ、今となっては祥子に対する想いを何らかの形で残しておきたいって」
「ふぅん‥。それで、ママは何て?」
「お金は結局お金でしかない。流動的だし、いつかは消えうせるものだ、って」
「もっともな答えよね」
「三神さんもそう言ったわ。もっともですって。‥ただ、そのあと三神さんが付け足したの。だからこそ祥子本人に対してではなく、わたしに預けたいんだって」
「‥何だか、良くわからない理屈ね‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
「どうしてそこで黙るのよ」
「あぁ、ごめん。ちょっと考えこんじゃった‥」
「‥‥‥。それで」
「はじめ、三神さんがこの通帳を作ってほしいってわたしに頼んだとき、何だか思ったより随分と子供っぽいことをする人だなって思ったの」
「それって、子供っぽいことなの?」
「随分とね。愛情を示すのに形をもって為そうというのは、子供のすることだわ」
「愛情? ‥それは、‥‥誰が口にした言葉なの?」
「さぁ、誰だったかしら。でも、三神さんの思惑はそれ以外に考えられなかったわ」
「‥そう。でも、じゃあ、どうしてママはそれを受け取ったのよ。わたしに対する愛情を、どうしてママが預かるわけ?」
「そんなの決まってるじゃない。当のあなたが子供だったからよ。わたしは単なる仲介者だったし、‥‥三神さんのあなたに対する気持ちを無視するわけにもいかなかったしね」
「じゃあ。‥じゃあ、どうしてその時わたしに教えてくれなかったの?」
「それもあなたが子供だったから。十万円だなんて、子供には過ぎた金額だわ」
「でも、その頃のわたし、アルバイトで月に六、七万の収入があったのよ?」
「それはあなたが自分で働いたお金でしょう。でも、このお金はそれとは種類が違うもの。愛情一つで月々十万円だなんて、子供にはとんでもない金額だわ」
 ママはそう言って、強い眼でわたしを見た。
 それから、わたしの視線を確かめるようにしながら背筋をクッと伸ばし、改めてわたしの眼を見ながら言葉を継いだ。
「本当はね、‥‥本当は、去年の秋口に三神さんに連絡をとったの。お金を返そうと思って」
「‥‥連絡とったんだ。‥でも、どうして返さなかったのよ」
「受け取ってくれなかった。というより、わたしと会おうとすらしなかった」
「ふぅん。‥‥それで?」
「それで、じゃあどうしてほしいのかって聞いたの」
「それで?」
「あなた‥‥。祥子のために使ってほしいって。それも、祥子には内緒で」
「内緒で?」
「そう、内緒で。お金を使う場面は色々考えられるでしょうけど、お金の出どこが自分ではなく、わたしであるかのようにって意味ね」
「‥‥‥。それで、ママは納得したの?」
「するわけがないでしょう」
「そりゃそうよね。‥でも、だったら、どうしてまだこれがここにあるわけ? 忘れてた、なんていうのは聞かないわよ」
「‥‥‥‥‥‥」
「どうしてそこで黙るのよ」
「‥あ、ごめん。‥‥ただね、電話口で三神さんとそんなやり取りをしている内に、何だかわたし、三神さんがいとおしくなって‥‥」
「‥‥いとおしい‥‥‥‥」
「あぁ、そういう意味じゃなくって。ただ、何ていうか、切なくなってくるっていうか、かわいそうっていうか‥」
「そういう意味って、どういう意味よ」
「だから、そういう意味よ。あなたがムキになるようなね?」
「‥‥。まぁ、いいわ。で、結局、どういう話になったのよ」
「ま、結局、今ここにこの通帳が存在するってことが全てよね」
「何よ、それ」
「‥あなた、彼氏を作らなかったじゃない。わたしが言うのも何だけど、祥子は結構もてるタイプだと思うし、三神さんが出てった後だって、声をかけてくる子はいたんじゃないの?」
「そりゃまぁ、いなくもなかったけど‥‥」
「三神さんと比べちゃう?」
「いっ、いいじゃないのよっ! そんなのどうだって!」
 それからママは一旦視線をそらし、両手の指を交差させたり、手の甲や指先をさすったりした。そうやって、十分に間を取ってから言葉を継いだ。
「わたし、三神さんに言ったの。この先、祥子に新しい恋人が出来るようなことがあれば、通帳の意味も無くなる。その時はきっぱりと受け取ってほしいって」
「‥それで、‥その、‥‥何て?」
「それでも受け取れないって」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「三神さん、どういう気持ちでそう言ったと思う?」
「どうって、‥知らないわよ、そんなの」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ねぇ、祥子。あなた自分で気付いてる? さっきから、それ、それって、やたらと代名詞が出てくるんだけど」
「だ、‥だから何だってのよ」
「自分で気付いてるんでしょう? まだ、三神さんのことが好きだって」
「な、何を言い出すのよ! もう、半年もたつのよ!」
「そう、半年。そして、半年たってようやく自分の気持ちに気付いた少女がここにいる」
「マ‥、ママ、わたしをからかってる?」
 そう言いながらも、耳が熱く火照るのを感じた。そんなわたしを楽しげに見やりながらママが続ける。
「しかしその少女は、未だ自分に素直になるきっかけを掴み損ねている」
 わたしは、上目遣いにママを睨むのが精一杯だった。
「まぁ、使うにせよ返すにせよ、それは祥子が自分で決めて自分で行動すべきことね」
「‥‥‥卑怯者」
 わたしの渾身の一言を、ママは笑顔であっさり切り返すと、通帳を残したまま席を立った。

 三神に連絡をとったのは、その三日後。携帯を取って三神に電話。呼出し音を聞きながら、わたしはハッとした。
 別れて半年。アドレスはとっくに消去してしまった。もとより、直接ナンバーを打ち込んだ事など、記憶の限り一度もない。だのに、「三神に電話」、そう思っただけで、指が勝手に動いていた。
 わたしは愕然としながら、携帯を耳に押し当てている。やがて、懐かしい声。わたしはしどろもどろで、何をどう話したのか、よくは憶えていない。とにかく、会いたい旨を告げ、時間と場所を決め、逃げるように電話を切った。

 待ち合わせの場所は、初めてデートした漁港のそばのレストラン。時間は夜。通帳を受け取ってから十日間が過ぎていた。わたしは、コースの料理と、隅の、一番目立たない席を予約してから出かけた。
 わたしが行くと、三神は既に席につき、一人で紅茶を飲んでいた。時計を確認。約束の時間まで、まだ十五分あった。ウェイターに促され、席につきながら、「待った?」と声をかける。三神はただ、しっとりと、含羞だ笑顔でそれに応えた。

 食事が始まる。飲み物はワイン。見栄は張らず、ソムリエのお任せにした。
 はじめの内は、会話が弾んだ。互いに、半年間の空白を埋めるかのように近況を報告しあった。わたしはウェイトレスの職を得たこと、いづれは菓子の専門学校に進みたいこと、そして、それが三神の影響であることを言い、三神は、ホテルのラウンジバーからハードのバーテンとして誘われ、迷っているということを話した。
 はじめ、ハードという言葉の意味がわからなかった。しかし、会話が進むうちに、それがアルコール飲料を指すことを知り、対して、三神が今やっている、珈琲や紅茶のバーテンを、ソフトのバーテンと呼ぶことも知った。
 三神にならば、出来るだろう。わたしはそう思った。しかし、わたしを驚かせたのは、そのホテルの名前だった。それは、例えば、外国の旅行案内にも名前が出ているような、例えば、いわゆる貴族とか要人といわれる人たちが利用するような、そんなホテルだった。それでもやはり、それを淡々と語る三神の素振りに、三神ならば出来るだろうと、そう思った。

 食事が進み、メインディッシュが運ばれてくる頃。互いの近況報告が終わってしまうと、会話は途切れがちになった。
 天気の話し、世間を騒がせる三文ネタ、世界情勢‥‥。そのどれもがぎごちなく始まり、端切れの悪い感じで途絶えてしまう。かといって、間がもたないというわけでもなく、三神にしても、無理に会話を続けようという素振りでもない。それはそれで、穏やかで、くつろいだ時間だった。

 食事が終わり、最後に紅茶。三神は珈琲。
 わたしは心の中で一つ深呼吸をし、ゆっくりと通帳を取り出し、テーブルに置く。
 三神は黙って見ている。
 ‥切ない目付き。
 瞬間、わたしは通帳に手をかける。テーブルの上、通帳を掌で覆いながら、暫し沈黙。やがて、わたしの方から話しはじめた。
「大体のことはママからきいたわ」
 ‥三神は何も答えない。
「でも、ママはその責任を放棄したいみたい」
 ‥やはり、何も答えない。
「‥つまり、これをどうするかってことは、全て、わたしに任されたってことね」
「それで‥」
 ようやく三神が反応した。‥動揺している様子は無い。ただ、はかなげで、全てをわたしに預けきって‥。そう、わたしが旅行から帰った夜の、ちょうどあの時の眼。
 わたしはハッとし、視線を彷徨わせ、しかし、やがて、しっかりと三神の眼を見据えながら、十日間悩みぬいた言葉を口にした。
「三神、明日は休みだったよね。今から旅行しない? と言ってもこんな時間じゃ遠出できないし、とりあえず近くのホテルで一泊ってのはどうかしら?」
 この時わたしが三神に求めたものは、旅行することではない。肌を重ねることでもない。それらは単に、付随するものだ。わたしが求めたのは、三神との時間を共有すること。三神との空間を共有すること。
 旅行しない? その言葉だけで、三神ならわかってくれると信じていた。そして、やはり三神はわたしの第一の理解者だった。
 三神はゆっくりとした動作で頷くと、「じゃあ、今夜はゆっくり休もうか」と言った。

 その夜、わたしたちはホテルに泊まった。いわゆるラブホテルだった。深い意味があったわけではない。ただ、行き当たりばったりに探したらそこに辿り着いたというだけのことだ。ついこのあいだまで一年間もベッドを共にしてきた男性だ、そこに深い意味のあろうはずもない。
 二人でお風呂に入った。広いお風呂だった。殆ど部屋といっていい広さの中央に窪んだ形で湯船が設えてあり、壁には幾つものスイッチが並んでいた。
 三神の前で服を脱ぐことに、なんの躊躇いも感じなかった。二人、裸のまま大騒ぎしながらスイッチをいじりまわした。スイッチをいじる度、照明が変わり、音楽が変わり、天井の模様が変わったり、壁が鏡になったりガラスになったりした。外に面する壁がガラスになって辺りの夜景が丸見えになった時は二人して大慌てしたが、それがマジックミラーになっている事は、すぐに三神が確認してくれた。
 二人並んで、ガラスに手をついて外を眺めた。遠くに掛かる高架橋を車や人が行きかい、その向こうにビルの明かりやパチンコ店の照明が明滅していた。美しいとは言えないまでも、それはそれで闇夜の中に一つの鮮やかな空間を創り出していた。
 やがて、通行人の一人が立ち止まり、こちらを見た。いや、見たような気がした。見えるはずがない。そう思いつつ、思わず三神の手を取った。三神もあの通行人に気付いたのだろうか、すぐに手を握り返してくれた。

 そしてそのまま、半ば押し倒され、半ば引き寄せるようにして、半年ぶりにセックスをした。わたしは三神を求め、三神はわたしを求めた。
 痛いほどのセックス。そう言っていいと思う。三神は壊れそうなほどに強くわたしを抱きしめ、わたしの躯の至る所にその痕跡を残し、わたしは三神の躯に爪や歯をたてることでそれに応えた。
 終わったあと、しばらく動けなかった。荒い息のなか、ただ、肌を触れ合うだけで精一杯だった。それでも、互いを見つめあい、何度かのキスをした。わたしは三神の背に腕をまわし、三神はある限りの力でわたしを抱き返してくれた。呼吸が整うまで、十分、いや、二十分、わたしたちはそうやって絡まっていた。

 呼吸が整うと、ようやく二人で湯船につかった。
 二人、差し向かいに湯船につかり、三神は何処と無く手持ちぶさたな様子で、濡れた髪をかき上げたり、つま先をわたしの脇腹に遊ばせたりしながら視線を彷徨わせていた。多分、わたしの言葉を待っているのだろう。わたしはずっと三神の目を見つめたまま、三神の腰につま先を添わせ続けていた。

「ずっと聞いてみたかったことがあるんだけど‥」
 わたしが言うと、三神のつま先が、ほんの一瞬、ピクッとなった。
「‥何?」
 そう答えながら、ようやく三神の視線がわたしを捉える。
「三神。‥あなたは、わたしのどこを好きになったのかしら」
 それで三神は、ちょっと驚いたような、それとも、意外そうな顔をした。
 それから三神は、一旦私のほうへ腕を伸ばしかけ、しかしすぐに引っ込め、下唇を噛みながら暫し沈黙。やがて、ゆっくりと、「同じ質問を、祥子に」と言った。
 質問に対して同じ質問で答える。それは、あまり三神らしいやり方には思えなかった。けれど、らしくないだけに、わたしはその意味を考えざるをえなかった。

 しばらく、ぼんやりと三神を見つめていた。
 胸の内に、なにか、もやもやとしたものが立ち込めてきて、考えがうまく纏まらない。
 急に三神に抱きつきたい衝動に駆られ、腰を浮かせ、前のめりに三神の方へ腕を伸ばした。三神はすぐに手を取り、そのままわたしを抱き寄せてくれた。
 三神に覆いかぶさりながら、肩越しにに両腕を回し、足を絡め、顎を肩にもたれ‥、殆どしがみついているという感じだった。私の躯は完全に湯船の中に浮かび、わたしを支えるのは三神の躯だけだった。三神の腕はわたしの背にまわり、躯が沈んでしまわない程の強さでわたしを包み込んでいた。そんな姿勢のまま、わたしは三神の質問について考えてみた。

 ‥例えば、わたしは三神の料理が好きだった。三神が料理をしている姿も好きだった。CDを選ぶだけであれこれと迷っている姿も好きだったし、買物の間にのんびりと背伸びや欠伸をする仕草も好きだった。
 仕事中の三神も好きだった。無駄なく動く躯と指先は、見ていて飽きないほどに美しかったし、ポーカーフェイスもプロらしくてかっこ良かった。
 人を思いやる優しさ。人を受け入れる鷹揚さ。我を通す強さ。その全てが揃っているところ。頭の回転が速く、呑み込みの深いところ。そのくせ時々ピント外れな応答をして、赤面するところ‥。
 もちろん顔だって好きだ。しっとりと柔らかな笑顔。怒ったときの毅然とした顔。笑ったときだけ目尻に出来る深い皺。ちよっとだけ濃いめの眉‥。そのどれもがわたしは好きだった。泣き顔はまだ見たことがないけれど、きっとわたしは好きになるだろうと思った。

 そこまで考え、わたしは腕が痺れ、躯の位置を少し動かそうとした。湯船の中でもがき始めると三神もすぐに気付いて、手をかしてくれた。途中、不意に三神の瞳を間近に捕らえ、わたしは、改めて三神を見つめた。互いの呼吸を唇に感じる距離の中、三神もじっとわたしを見つめていた。そしてわたしたちは、その日、何度目かのキスをした。唇を触れ合わせるだけのキスだったが、長く、長いキスだった。湯船の中、わたしは両方の掌を三神の頬にあて、体重の全てを三神に預けきり、三神の両腕はわたしの背に回っていた。まるで、二人して根くらべでもしているかのように、互いの姿勢を崩そうとはしなかった。

 結局、わたしの方から唇を離した。そしてわたしは、再び三神の肩に顎を預けながら、もう、三神のどこが好きか、などとは考えていなかった。
 首筋に、小さな黒子を見つけた。
 三神の躯ならば、隅から隅まで知っているつもりだった。左の人差し指が、右よりもほんの少し長いこと。左膝の火傷の痕。小さな痣‥。旋毛の形から躯全体の線‥。全て知っているつもりだった。肌を重ねるとき、どうすれば三神が喜ぶのか、三神を受け入れている間、三神のどこが、どんな風にわたしの中を埋めているのか、そんなことまでわかっているつもりでいた。だのに、こんな、外から見えることにさえわたしは気付いていなかった。そして、その黒子を見つけた瞬間、わたしは、たまらなくその黒子が好きになっていた。

 そして気づいた。どこを好きになったか。その設問自体が間違っていた。
 わたしは三神のどこかを好きになったのではない。わたしは三神を好きになったのだ。そして、三神を好きでいる自分自身をも好きになった。
 顔や癖、痣や黒子の色は時間の中で移り変わっていくだろう。性格や何気ない仕草、料理の味だって変わるかもしれない。けれど、それでわたしは三神を好きではなくなってしまうのだろうか。‥それは、実際そうなってみなければわからない。でも、多分わたしは、今とは違う三神を好きであり続けるだろう。イライラしたり、喧嘩をしたり、時には憎むことすらあるかもしれない。でも、それで三神を嫌いになったりは決してしないだろう。それらの感情はおそらく、三神が好きであるという前提のもとにしか成り立ち得ないだろうからだ。

 ‥わたしは首筋の黒子を見つめながらそんなことを考え、やがて、ふと思った。この黒子の存在に、三神は気付いているのだろうか。ここに黒子があることを知っている人は、わたしの他にも何人かいるだろう。けれど、三神自身は気付いているのだろうか。
 そう思うとわたしは、たまらなく愉快な気分になり、つい、クスッと小さく笑い声を立てた。
 笑い声に、三神は首をねじってわたしを見ようとした。瞬間、二人の躯はバランスを崩し、わたしは三神から滑り落ちる。三神は慌ててわたしを引き起こそうとしたが、その前にわたしは自分の手と足で躯を支えると、「ごめん、何でもないの」と言った。
「ごめん。‥アハハ。‥えっと、質問撤回。‥えっと、わたしやっぱり、三神のことが大好きみたい」
 三神は訝しげな顔をしていたが、今度はわたしが三神の手をひくと、二人そろって風呂をあとにした。

 ‥ベッドの上、わたしたちは裸のまま寄り添っていた。暗闇の中、幾度となくキスを交わしなが、しかし、求め合うというのでもなく、ただ互いに、手を肌に遊ばせあっていた。
 やがて、どちらからともなく仰向けになる。二人とも無言で、ただ、暗い天井を見つめていた。

「本当はね‥」
 わたしは、ぽつりと言った。三神は、黙って天井を見つめていた。
「本当はね、わたし‥。一度だけ三神の肌着を着て眠ったことがあるの」
 暫し、沈黙。
 やがて、三神の手が沈黙をやぶる。三神はそっとわたしの手を取ると、自分の肌に押しあて、両方の掌でわたしの手を包んだ。
 わたしは、三神を見つめたい衝動に駆られる。けれど、三神がそれを許してくれない。‥三神はただ、黙ったまま天井を見つめている。
 さらに沈黙。
「ほら、三神が家にきてしばらくして、前のアパートの整理だか何だか言って、五日続けて家を空けたことがあったじゃない?」
 三神は、何も答えない。
「それで、わたしたちずっと一緒に眠ってたじゃない? ‥それで、三日目までは我慢してたんだけど、それで‥‥。‥それで四日目。明日はあなたが帰ってくる。明日はあなたに会えるって思ったら急に我慢できなくなって‥」
 少しずつ、吐き出すように言いながら、不意に言葉を詰まらせた。三神の手がわたしの言葉を詰まらせた。三神の体温がわたしの言葉を詰まらせた。
 三神は、ゆっくりとわたしのほうに向き直り、わたしを抱き抱え、掌を乳房に沿わせてきた。三神の掌が乳房を覆い、しかし、とくに動きがあるわけでもなく、ただ、その体温がわたしの乳房を熱くし、わたしは、乳房が前にせり出してくるのを感じた。

「‥それで、あなたの下着を着けたの」

 わたしは、隠しようの無い乳房の緊張を三神の前にさらけ出しながら、精一杯の想いでそう言った。
「‥‥そう」
 三神が言った。そう。短い言葉だったけれど、わたしは、この半年間の空白が、そのたったの一言で満たされていくのを感じた。
 そっと、三神を見る。三神は、まっすぐにわたしを見ている。そしてそのまま三神が言った。
「‥それで」
「そう、それで。とても気持ちよかった。三神を凄く身近に感じられたっていうか‥。変な言い方に聞こえるかもしれないけど、直に肌を触れ合うよりも、ずっと三神を身近に感じられたっていうか‥‥」
 わたしは穏やかな口調で言いながら、しかし、どうしても言葉がうまく紡げず、そこで言葉を詰まらせた。
 ‥三神の手が乳房を離れ、お腹から脇腹にかけて、さすりはじめる。ゆっくりと、あやすように、定期的な、穏やかな往復をくりかえす。三神の温もりが、じんわりとわたしの心を解きほぐす。
 わたしは三神の温もりを受け入れながら、今度こそ、一気に胸のうちをはきだした。
「‥ただね。それで、ママがああいう行動に出たのも同じことじゃないかって最近思うようになったの。ママは離婚してるし、あの通り綺麗な人だし、でも、そんな話し聞いたこともないし。‥でも、やっぱり女だもの。どうしようもなく人肌恋しくなるっていうか、その、相手が誰って限った話じゃなくて、そんな時もあるんじゃないかって、最近思うようになったの‥」
 わたしが言い終えると、三神は、「‥うん」と短く答えた。そしてわたしは、三神の掌に自分の掌を重ねながら、一つのことを決意した。それは、ママから通帳を受け取って以来、ずっと悩み続けてきた言葉。
 三神に言うべきか、言わざるべきか。
 言うべきではないだろう。いや、それは許される言葉ですらないだろう。ずっとそう思いながら、悩み続けてきた言葉‥。

「わたしね、三神と別れたのは、ただ、間が悪かっただけって、そう思ってたの‥」
 三神は何も答えない。
「そして、実際それはそうなんだろうって、今でも思うんだけど‥」
 三神は何も答えない。
「‥でも、本当の理由はそうじゃないって、今になって気付いたの」
 三神は何も答えない。
 わたしは、そっと、三神の瞳を盗み見る。三神は、黙ったまま、ずっとわたしを見つめていた。わたしは慌てて視線を逸らし、彷徨わせ、やがて、もう一度三神の視線を捕らえた。
 しばらく、そのまま見詰め合っていた。

 ‥言葉などいらない。三神がそう言っているような気がした。
 ‥言葉など邪魔だ。三神がそう言っているような気がした。
 ‥でも、今の私には言葉が必要だ‥‥。

 わたしは三神の視線から逃れることが出来ぬままに、言葉を継いだ。
「‥ママにしろ三神にしろ、わたしの想像を遥かに超えて大人だった。‥そしてわたしは、わたしが思う以上に子供だった」
 三神は何も答えない。
「わたしはただ単に、子供っぽい感情で嫉妬してたんだと思う‥」
「‥‥それで?」
 呟くように、三神が言った。
 わたしは、三神の視線から逃れるように瞼を閉じる。
「‥それで、勝手な言い分だけど、‥わたしたち、もう一度付き合えないかしら‥‥」
「‥‥‥う、ん‥」
 否定とも肯定ともとれる、三神にしては曖昧な返事のしかた。わたしは慌てて言葉を繋ぐ。ずっと悩み続けてきた言葉。
「ごめん。順番が逆になっちゃったけど、付けたい条件があるの‥」
 そこまで言って、わたしは言葉を詰まらせた。‥やはり、言うべきでは無いのではないか、そんな風に思い、言葉を詰まらせた。わたしは三神の温もりを受けながら、しかし、躯が微かに震えはじめ、瞼の内が熱くなるのを感じた。
「それは、何?」
 唐突に、三神が口を開いた。それは、本当に唐突で、まるで、言葉をポンッとその場に放り出したかのようだった。
 わたしの知る限り、三神はどんな場面でも言葉を適当に扱う人では決して無かったし、だからこそ、わたしは本当に驚いてしまった。ただ、その瞬間。わたしの震えはピタッと止まり、ついに、その言葉を口にした。
「お互いに束縛しないこと。‥それと、もう一つ。お互いの家に、足を踏み入れないこと。‥決して一緒には暮らさないこと」

 ‥‥‥三神は何も答えない。
 
 酷い言いようだとは、自分でわかっている。これではまるで、結婚しない事を前程とした交際を申し込んでいるようなものだ。

 そろそろと目を開け、三神の眼を盗み見る。三神は私を見ている。しかし、三神はわたしを見ていない。三神はただ、そこに居るだけでわたしの全てを見つめていた。
 射竦められる、とは、こういう事を言うのだろう。わたしはそのまま、三神の気配から逃れることが出来なくなり、でも、やはり不安で、咄嗟に三神の手を取って握り締め、瞼を強く閉じながら、一気に、思いのたけを吐き出した。
「ごめん。さっきはああ言ったけど、やっぱりわたし、嫌なの。ママと三神が一緒にいるところを見たくないの。例えば、ママと離れて二人で暮らしたとしても、やっぱり同じことなんじゃないかって思うの。‥ご免なさい。わたしは本当に三神が好きだし、三神との時間や空間を共有したいって思う。でもそれは、暮らすってこととは全く別のことなんじゃないかって思うの‥」
 短い沈黙。三神は、「‥そう」と答える。そしてわたしは、「うん」と答えた。
 長い沈黙。互いに言葉を発することが出来ない。重く、のしかかるような、そして、それを永遠と思いたくなるような、そんな沈黙。沈黙の中、何故だかわたしは、再び乳房が熱く迫り出してくるのを感じた。

「うん。‥それでいいと思う」

 三神がそう言った。わたしはハッとして三神を見た。三神もわたしを見ていた。瞳でわたしを見ていた。そしてわたしは、いつの間にか涙を流していたことに初めて気づいた。三神はそんなわたしを抱き寄せ、そして、キスをしてくれた。キスの中、わたしは乳房の緊張がスッと緩んでいくのを感じた。


  〜 4 〜


 三神と再会してから一年のあいだ。わたしたちは毎日デートをした。誇張ではない。本当に毎日デートをした。どんなに忙しい時でも、最悪、顔をあわせない日は一日としてなかった。
 わたしはウェイトレスとして働きはじめ諸々忙しかったし、三神はわたしと再会した日をきっかけのようにしてそれまでの店を辞めると、ハードの修行と称し、ショットバーや何かを転々とするようになっていた。けれど、それでも、わたしは時間を問わず三神に会いに行ったし、三神はわたしに会いにきた。
 そして、しかし。そんな中で、互いの家に足を踏み入れることは一度としてなかった。家の前まで送ってもらったことは何度かあったけれど、三神は決して家に上がろうとはしなかったし、わたしに至っては、三神がどこに住んでいるのかも知らないような状態だった。

 わたしとしては、もうあと一年はウェイトレスとして勤めるつもりでいた。店はそれなりに名の知られたレストランで、学ぶことも多くあったし、なにより、菓子の学校へ進むための貯蓄が必要だった。学校は県外で通える距離ではなかったし、住む場所の費用も考えると、一年間のコースでも随分とかかる計算だった。
 ‥はじめ、わたしが就職する直前。遠からず菓子の学校へ進みたいのだとママに告げると、ママはすぐにお金を出そうとした。
「大学へやったと思えば、随分と安上がりだ」
 そう言って、かかる費用の全てをポンと出そうとしてくれた。けれど、それはわたしが拒否した。ありがたいとは思ったのだけれど、自分の力で行かなければ意味が無いと思ったからだ。それでも、仕事で得た給料の殆どを貯蓄に回すことが出来たのは、やはりママの協力があってのことだったし、そしてまた、三神は三神で、「今は祥子にお金を使わせたくない」と言って、デート費用の殆どを出してくれていた。

 そうやって一年。そう、再会してからきっかり一年後。わたしたちは久しぶりに本格的なデートをした。セッティングしてくれたのは三神の方だったけれど、わたしとしても、随分と前からその日は空けていた。
 デートの場所はやっぱり、あの海辺のレストラン。時間は午後2時。三神からその店名と時間を告げられたとき、あぁ‥、などと思いつつ、しかし、確かな安堵感を覚えたりもした。もし、三神がその日、その時間を指定してこなければ、わたしの方から指定して、三神を誘うつもりだった。

 それは良く晴れた日で、見事な青空の下、風は少し強くてスカートの裾を抑えるのがたいへんだったけれど、風はカラっと乾いて暖かく、とても気持ちの良い日だった。
 約束の十五分前に店に着くと、三神もちょうど着いたところで、二人で一緒に店に入った。案内されたテーブルには予約席の札があり、席からは、見事に弧を描く半島を一望することができた。
 席に着き、ウェイター訪れ、私たちの前に氷の浮かんだグラスを置く。そしてわたしは、ウェイターではなく、三神の眼を見ながら言った。
「ワインリストをください。それと、軽食のメニュー」
 それで三神は、ほっこりと微笑む。

 ‥そう、ほっこりと。この時の三神の笑顔には、この表現が一番合っていると思う。
 例えば、可笑しかったり面白かったりというのとは違う。喜びの笑顔というのとも違うし、三神ならではの、プロとしてのスマイルとも全然違う。
 ただ、ほっこりと。暖かで、そして、柔らかな香りを帯びた笑顔。
 ‥例えば、ふかしたてのジャガイモを、アチ、アチ、とか言いつつ手に取って二つに割った瞬間に立ち昇る湯気と、あまやかな香り。‥バターにしようか、醤油にしようか。胡椒? それとも唐辛子? いやいや、意外とエスニック? ‥そんな風に思いながら、つい、湯気の中に顔を突っ込んで、やっぱり、アチ、アチ、と涙を流しながら、それでも溢れて止まない笑顔‥。

 ワインリストが届き、それを広げる。そして、丹念にワインリストを見ながら、わたしは言った。
「三神。初めてデートした日のこと、おぼえてる?」
 三神はただ笑って、何も答えない。
「あの時あなたが、わたしと同じ紅茶をオーダーしようとして、わたしがそれをとどめてワインを注文して‥」
 三神は、何も答えない。
「で、結局今、こうなってるんだけど。もし、あの時ワインを飲んでなかったら、わたしたち、どうなってたのかしら‥」
 三神はちょっとだけ笑って、でも、やはり何も答えてくれなかった。

 料理は、申し分なく美味しかった。ワインも料理にぴったりで、美味しかった。けれど、その日はその後、美術館に行き、夜はクラシックのコンサートを聞きにいく予定だったので、飲みすぎるということはなかった。
 わたしたちは料理の余韻を楽しむように、海を見ながら紅茶を飲んでいた。そんな中、三神が言った。
「祥子は、本当に菓子の学校へ行きたいのか?」
「うん。行きたい。でも、一年のコースでもまだまだお金が足りないし、もう少しかかるかなぁ」
「一年では、駄目だ」
 三神は、急に語気を強めてそう言った。さらに、「行くのなら、最低でも二年は行かないと意味がない」と続ける。
「二年だなんて無理よ。いつになるかわからない」
「お金なら、あるじゃないか」
 少し考えて、あの通帳のことだと悟った。通帳は結局わたしが持っているのだけれど、今のところ、全く手を付けていない。
「それでも足りなければ、少しは蓄えもあるし、他にも‥誰か、‥協力してくれる人が居るんじゃないのか?」
 それがママのことだとはすぐに気づいたけれど、この一年間、二人のあいだでママのことが話題にのぼったことは一度も無かったし、それでわたしは、ちょっと怯んだ気分になった。
「‥とにかく大切なことだし、よく考えて、祥子が自分で決めなさい」
 まるで子ども扱いだと、ちょっと腹がたった。けれど、実際、三神から見れば、わたしにはまだまだ足りない部分が多いのだろうと思い、しゅんとした気分になった。

 コンサートが終わり、会場の出口は人の流れで一杯だった。そんな中、わたしは三神の袖を引っ張った。その日、あとの予定は何も立てていなかったのだけれど、わたしは、もっと三神といたいと感じていた。それで三神の袖を引っ張った。
 三神は人の流れに押されるように歩き続け、わたしは袖を掴んだまま、連れられるようにして三神に従った。
 人の流れを抜け、通りに出たところで三神は不意に立ち止まり、言った。
「祥子、明日は?」
「‥休み。せっかくの記念日だし、連休にしちゃった」
 三神は手を上げてタクシーを止め、乗り込む。わたしも袖を掴んだまま、一緒に乗り込む。三神は運転手にホテルの名を告げる。それは、やがて三神が勤めるであろうホテルの名で、とてもじゃないがわたしが入り込めるようなホテルではない。わたしは、ぎゅっと、三神の袖を握り締める。
 ホテルに着き、三神はフロントに向かう。わたしは袖を握っている。
「ご無沙汰しております。急で申し訳ありませんが、部屋はありますか」
 三神が言う。
「ツインでよろしければ、準備できます」
 フロントが答える。
 わたしは三神の言う、ご無沙汰、の意味がわからず、ただ黙って三神の袖を握っていた。そんなわたしにフロントが声をかけた。
「お久しぶりですね」
 わたしはますます意味がわからず、しかし、やがて気づいた。フロントに立っていたのは、三神と出会った喫茶店の、あの作務衣の客だった。わたしは咄嗟に三神の袖を放し、「ご無沙汰しております」と言い、直後に赤面した。
「準備に少々お時間がかかります。キーをお持ちしますので、しばらくラウンジで寛がれてはいかがですか?」
「では、そうさせていただきます」
 三神は答え、そのままエレベーターに向かった。

 ‥三神はマルガリータに口を付けている。わたしの前にも同じものがある。窓越し、眼下には灯りの粒が広がり、さっきまであの粒の中に自分が居たのだとは信じられないほどに、それはそれは美しかった。
 グラスに一口、口をつける。マルガリータはこの上なく美味しかった。けれど、わたしがマルガリータを口にして最初に思ったのは、その材料のことだった。テキーラとライム、ホワイトキュラソー。そしてグラスを縁取る塩の粒。‥知識としては判っている。職場で、客のテーブルに運んだこともある。けれど、今。自分が口をつけているマルガリータを前に、そんなことしか想えない自分が情けなかった。

 キーが届き、三神はその場でルームサービスを頼む。
「冷えたタンカレーを、ショットで」
 三神は席をたち、部屋に向かう。わたしは、黙ってついていくしか術がない。

 仄暗い部屋の中、三神は、黙ったままグラスに口を付けている。三神の躯はどんなときでも、無駄なく滑らかに動く。グラスを取り、口に運ぶ。ただそれだけのことなのに、美しい。
 わたしの前にも同じものがある。けれど、グラスに口をつけることも、手にとることも出来ない。わたしはただ、霜の張りついたショットグラスを見つめていた。
 ‥とてもじゃないが、三神には敵わないと、そう思った。
 そして、やがて、わたしは言った。
「今ならまだ、春の入学に間に合うと思うし、わたし、三神のお金を使わせてもらいます。‥ママにも、頼んでみます」
 三神はグラスを差しだし、わたしのグラスに、キンっと当てる。
 それでわたしはようやくグラスを取ると、静かに口へと運んだ。


  〜 5 〜


 二年後。わたしは専門コースを終え、アパートの整理をしていた。先のことはまだ何も決めていなかった。誘ってくれる店は何軒かあったのだけれど、とりあえずママのところへ戻り、先のことは、それからゆっくりと考えようと思っていた。
 三神の言った、最低でも二年、という言葉は骨身にしみた。最初の半年間は、道具の使い方を覚えるだけで終わった。次の半年は、材料の扱い方を覚えるだけで精一杯だった。二年目になってようやく菓子のことが少しわかり、最後の半年で、どうにか代金を頂戴できそうなものを作れるようになっていた。‥あとは、実践で覚えるしかないだろう。そう思っていた。

 三神とは、疎遠とまではいわないが、やはり、少し距離ができてしまっていた。電話で話すことは頻繁にあったけれど、実際に会うことができたのは、この二年間でほんの数回でしかなかった。三神やママが住む郷里までは高速道路を使っても四時間ほどかかるので、それは仕方のないことだったと思う。けれど、明日は三神が車で迎えにきてくれることになっていた。

 わたしはこの二年間を想いながら、整理を続ける。そこへ、電話が鳴った。その頃わたしは携帯を持っておらず、それは線で繋がった電話だった。
 三神だろうか、それともママ‥、思いながら受話器を取る。
「あぁ、やっと捕まった! わたしです。あ、すいません。‥‥です」
 電話はそう言った。それは洋菓子の講師で、最後の半年間は特に世話になった男性だった。電話は、「あした帰っちゃうって急に聞いたもんで、慌てちゃいました」と続ける。
 講師はがちゃがちゃと言いながら、結局のところ、その言い分はこうだった。
 ‥どうやら、わたしを見初めた男性がいるらしく、講師を通じてお見合いを申し込んできたらしい。義理のある人の縁者で、中々に断りづらい。見合いといってもそんなに固い席ではないし、とにかく席に着くだけは着いてくれまいか‥。
 概ねそんな内容だった。まくし立てる受話器を耳に、わたしは、ポカンとした気分で、「今は忙しいので、また後日、こちらから電話します」と言って、受話器を置いた。

 翌日、昼過ぎ。わたしは何もない部屋の中で、ポツンと座っていた。家具やなにかは全て処分した。残りの荷物も今朝の段階で、宅急便で送ってしまっていた。そして今、部屋の中にあるのは、貴重品の入った小さなバッグと、電話機だけだった。
 朝早くに三神から電話があり、予定より、一、二時間遅れるかもしれない、とのことだった。わたしは時間を持て余しつつ、しかし、出掛けるわけにもいかず、ただ、電話の前に座り込んでいた。
 ‥二年間過ごした部屋。こうなってみると、けっこう広い。あそこにベッドがあって、壁にある小さなピン跡は、カレンダーを刺していたピンの跡。あそこにテレビ。床に直接置いて、ほとんどニュースと料理番組しか見なかったけれど、たまにはレンタルの映画を見たりもした。床に残る小さなキズは、グラスを落として出来たキズ。細かな破片が散乱し、掃除がたいへんだった。‥見渡しても、思い出らしいものが何もない。二年間も過ごしたのに‥。
 この二年間で、三神がこの部屋に上がったことは一度もない。一度だけドアの前まで来たことはあったけれど、わたしがドアを開ける前に三神は帰ってしまっていた。この部屋と三神を繋ぐものは、電話だけだった‥。

 その電話が鳴った。三神だ! そう思い、慌てて受話器を取る。‥がっかり。三神ではなく、昨日の講師だった。内容は昨日と一緒で、よほどせっつかれてでもいるのか、声のトーンが昨日よりも高い。
「なんだったら、場所や日取りもそちらで決めてもらってもかまわないし、当人二人とわたしの、三人だけの席でもいいし、普段着で来てもらってもかまわないし‥」
 ‥こんな電話を受けている間に三神が電話をかけてきたら、電話が繋がらなくなってしまう‥。講師の勢いに惑わされ、なんだかわたしまで慌てた気分になる。それで、つい、言ってしまった。
「わかりました。とにかく席には着きます。釣書きは‥、自宅に郵送してください。その時点でこちらから電話します」
 吐きだすように言って電話を切った。

 三神が迎えに来てくれたのは、そのあと三十分ほどたってからだった。三神はアパートの前から電話をかけてきた。そしてわたしは、一人でドアを閉め、一人で階段を下り、ようやく、車の前に立つ三神に笑いかけた。
 三神は、すでに四時間近く車を運転しているはずで、さすがに疲れた様子ではあったけれど、それでも、「卒業、おめでとう」と、小さな花束を手渡してくれた。それから、ちょっと照れくさそうに、「おかえり」と言い、わたしもちょっと照れくさい気分で、「ただいま」とこたえた。
 ‥本当は、そのまま三神を部屋にあげて、少し休憩をとってほしいと思ったのだけれど、それでは、自分で言い出した約束を自分で破ることになる。だいいち、部屋にはすでにベッドはなく、どころか、毛布の一枚すらない。部屋にあげたところで、かえって疲れるだけだったろう‥。
 それで、高速道路のインター近くのホテルで休憩することにした。言ってしまえば、ラブホテルで二時間のご休憩、ということだが、目的は、本来の意味でのご休憩だった。実際、ホテルに入ると三神はすぐにシャワーを浴び、備え付けのガウンを素肌に纏うと、そのまま時間がくるまで眠りつづけ、わたしはただ、ソファーに座って眠る三神を見つめているだけだった。

 眠る三神を見つめるのは、随分と久しぶりのことだった。三神は寝返りをうつでもなく、けれど、やがてガウンの前がはだけ、今はもう、ほとんど素肌を晒して眠っていた。途中、一度だけガウンを直そうと三神に手を触れたのだけれど、結局、直さなかった。わたしは三神に触れた手をそっと首筋にのばし、黒子の存在を確認しただけでソファーに戻った。

 ‥わたしは、眠り続ける三神を見つめながら、ぼんやりと、お見合いのことを考えはじめていた。そしてわたしは、このお見合いを受けようと思い始めていた‥

 三神は微かな寝息をたてながら、ただ無防備に、わたしの前に素肌を晒している。その姿に、唐突に、講師の言った、肩のこらない普段着の席、という言葉が重なってみえた。しかしそれは、例えば、二重写しの写真のような、何だか歪にずれた重なりで、わたしはどうにもすっきりしない。

 ‥三神はわたしの前で素肌を晒し、無防備に眠っている。わたしは着衣のまま、三神を見つめている。

 ‥何故、わたしは、服を身に着けているのだろう。
 ‥何故、わたしは、三神に肌を重ねようとしないのだろう。

 そして、やがて、わたしは気づいた。
 ベッドの上。そこだけがプライベート空間だった。
 ベッドの上。そこだけが三神のプライベートな空間として、部屋の中から切り離されていた。

 わたしは三神に包まれたかった。
 そう。包みたいのではなく、三神に包まれたかった。
 数年前のわたしならば、ためらうことなく三神に寄り添ったとおもう。
 けれど、今のわたしには、その空間に入り込む勇気が、どうしても抱けなかった。

 そしてわたしは、見合いを受けようと決心した。


  〜 6 〜


 三神に見合いのことを話したのは、釣書きが届いた二日後。電話でのことだった。
 釣書きが届いてみると、なんのことはない、相手は専門学校の同級生で、最後の半年間は殆ど同じクラスで学んだ男性だった。入学時、第一印象として憶えているのは、‥悪くはない。というものだった。なんというか、柔らかく、くぐもった感じというか‥。とにかく、良い、の対語として、悪くない。そんな程度の印象だった。ただ、最後の半年間では、随分とやさしい味に作る人だな、とも感じていた。

「ちょっと断れなくて、お見合いすることになったんだけど‥」
 わたしは電話口で三神にそう言った。三神は随分と間を置いてから、たった一言、「‥それで」とこたえた。

 ‥実際のところ、釣書きが届く前から、わたしの気持ちは決まっていた。わたしは、結婚してしまおうと思っていた。相手は三神以外なら誰でもいい、とまでは言わないけれど、少なくとも、わたしはもう、三神の隣でぐっすりと眠ることは出来ないだろうと感じていた。三神が嫌になったわけでは、決してない。わたしは何時だって三神に会いたいと思っていたし、三神に寄り添いたいと思っていた。けれど、それは、三神の寝顔を見つめることや、自分の寝顔を三神に晒すこととイコールではなかった。
 三神は常に、わたしの前に完璧でいてほしかった。そしてわたしは常に、三神の前に、いい女でありたかった。それでわたしは、三神以外の男性との結婚を決めた‥。

 釣書きが届いた日、それをママに見せながら、「わたし、この人と結婚しようと思う」と言った。ママは最初、驚いた顔になり、それから呆れたような顔になり、そして言った。
「‥それで、‥どうするの」
 ‥それで、の部分に、まず、仕事や生活といった言葉が重なって見え、そして最後に、三神の顔が透けて見えた。
「仕事は、します。実は前に務めてたレストランから、デザートのチーフとして誘われてるの」
 わたしはそこで一旦言葉を切り、少し間をおいてから、言葉をつづけた。
「‥それで、かたちはどうであれ、わたしはやっぱり、三神とは別れられない。わたしは三神を、愛しているの」
「‥‥愛している、か。‥あなたも随分と大人なったわね」
 そのあとママは、随分と長く沈黙してから、たった一言、「祥子が、自分で決めなさい」と言った。

「ちょっと断れなくて、お見合いすることになったんだけど」
 わたしは電話口で三神にそう言った。そして三神は、「それで」とこたえた。三神の言う、それで、は、ママのときと違い、当然ながら、相当に複雑な響きを帯びていた。
 わたしには、三神に伝えたいことも、伝えなければいけないことも、山のようにあった。けれど、三神の、それで、の前にどうしてもそれを言葉として紡げず、わたしは電話口で、寝顔が‥、とか、仕事は‥、とか、完璧な‥、とか、断片的に単語を羅列しつつ、結局、最後にこう言った。
「見合いの席まで、車で送ってほしいんだけど」
 いくらなんでも、こんな酷い伝え方があるものか。とは思ったけれど、どうしても他に表現が見つからず、結局そう言った。
「祥子は‥」
 三神は言いかけて、しかしそこで言葉を切り、暫し沈黙ののち、「わかった」とこたえた。

 お見合い当日、三神は約束通り車で送ってくれた。見合いの場所までは、車で小一時間。山郷に建つ温泉旅館。そしてそれは、わたしが自分で指定した旅館だった。秘境、とまではいわないが、人里離れた温泉宿は森に包まれ、日に数本のバスが通うだけの不便な場所に建っていた。ママとは何度か訪ねたことがあったけれど、三神と来たことは、一度もなかった。
 席は、わたしと見合い相手、それと講師の三人だけということにしてもらった。それではまるで、見合いの前から、その人と結婚しますと宣言しているようなものだったけれど、それは実際そうだったし、それでわたしは、あえてその場所を指定した。

 旅館へ向かう車の中。わたしはそれなりに盛装で、三神もそれなりにこざっぱりとして、二人とも、そのままどこへでも出掛けられそうな服装だった。三神はずっと無言で、それはわたしも同様だった。
 ‥窓の外。街の景色。極彩色の看板。人々の喧騒。夥しい数の電線と、烏の群れ。やがて、田んぼが視界に混ざりはじめ、それが、どこの時点でか、一気に視界を埋め尽くす。一直線に延びる道路は、右も左も全て田んぼで、まだ田植え前の田んぼは黒々とし、田植えの済んだ田んぼは白っぽく光を帯びていた。所々にトラクターや軽トラックが点在し、しかしそれは動きを伴わず、ただじっとそこにあった。一直線に延びる道路。前には山の緑が迫り、遥かな山頂にはまだ雪が残っていた。
 道路は、そんな景色を切り開くように一直線に伸び、その先端は、山に突き刺さるようにして見えなくなっていた。
 車は進み、やがて、突き刺さる道路の先にも、まだ道が続いているのが見て取れるようになった辺りで、三神は唐突に車を停めた。三神は窓を開け、ゆっくりと煙草に火をつける。最初の灰を窓の外に叩き、それからドアを開け、車の外に出る。つられるようにわたしも車を降りる。二人とも無言のまま、ボンネットに腰を下ろす。微かな風は、まだ肌に冷たく、その風が、煙草の煙を何処かへと運んでいった。
「祥子。今日は帰らないつもりなのか‥」
 三神が、言った。そしてわたしは答えた。
「決めてないけど、多分、そうなると思う‥」
 ‥煙草の煙が、風の中に溶けていく‥‥。その煙を見ながら、わたしは言いかける。
「ごめんなさい。でもわたし、三神のことが‥」
「祥子は、結婚するんだな‥」
 わたしの語尾を遮るようにして、三神が言った。
「‥‥。うん」
 わたしは答えた。
「‥謝ることなんて、なにもないさ」
 三神はそう言ったきり黙り込み、煙草を消して、車に戻った。
 そして、走り出した車の中で、わたしは言った。
「三神、‥また連絡しても、いいかな」
「‥それで、いいさ」
 三神は独り言のように呟くと、そのまま、わたしを旅館の前まで送ってくれた。
 その日、わたしは旅館に泊まり、その相手に肌を許した。
 そして、わたしと三神を繋ぐ、新しい関係がスタートした。


  〜 Epilogue 〜


「みかみぃ。またお見合い、写真も見ないで断っちゃたんだってぇ?」
 言いながら祥子は、キングサイズのベッドにたっぷりと躯を投げだす。三神は、腰にバスタオルを巻いただけで、ソファーに腰を下ろし、窓の外を見ている
 祥子がもう一度、三神、と呼ぶと、三神はようやく祥子の方に視線を合わせながら、ゆっくりと煙草に手をのばした。三神の躯からは微かに湯気が立ち上り、乾き切らない肌が所々で光色に輝いている。
 三神は煙草に火をつけながら、しかし、やはり何も喋ろうとしない。

 やがて祥子は吐き出すように、「みかみっ」と言うと、ベッドの上に横座りになりながら、ワンピースの前ボタンを外しはじめる。
「みか、み、みか、み、みか、み‥」
 臍の辺りまで続く十数個のボタンを一つ一つ丁寧に外しながら、幾度も、みかみ、と繰り返す。それを見ながら、ようやく三神は口を開いた。
「なんでそんなに俺の名を呼ぶんだ」
 祥子は三神の足元に視線を落としながら、「べつに‥」と小さく呟く。
「ただ、呼んでみたかっただけよ」
 つまらなさそうに答えながら三神の胸の辺りに視線を移し、ワンピースの上からブラのホックを外す。
 三神は何も喋らない。
 左手をワンピースに滑りこませる。鎖骨に添って、慎重に、ゆっくりと、そして出来るだけわざとらしくないようにワンピースの前をはだけながら、右手をワンピースの中へ引っ込める。ストラップを外し、慎重に、ゆっくりと、出来るだけわざとらしくないようにワンピースの前をはだけながら右手を袖に戻す。右手をワンピースに入れ、左のストラップを、つ、つ、とずらしていく。右手を抜き取り、左の袖口からブラをひっばりだす。慎重に、ゆっくりと、そして出来るだけわざとらしくないように大胆に‥‥‥。
 はずし終えたブラを差し出すように揺らしながら、祥子は三神の顔を見る。三神は祥子を見ている。だが、三神は祥子を見ていない。三神の視界には確かに祥子の姿がある。だが、その目つきはまるで、祥子がこのホテルの一室に備わったオブジェでもあるかのような、乾いた、つまらなさそうな目つきだった。

 ‥なによ。わたしがこんなに苦労してるのに‥‥

 祥子は心の内で小さく舌打ちしながらブラを半分にたたみ、ベッドに小さく叩き付ける。そのまま立て膝をつき、うって変わった無造作な動きでワンピースの裾に両手をたくしこみ、ストッキングとショーツをまとめて膝の上まで引きずり下ろす。それから体操選手のような軽やかな動きでベッドに寝転がると、足を浮かせて膝を突き上げ、ストッキングを破いてしまわない程の慎重さでそれを完全に脱ぎさった。
 ワンピースの裾は腰の辺りでだらしのない皺をつくり、剥きだしの下半身が呼吸を開始する。三神の方からは随分とみっともない、それとも刺激的な姿に見えるはず、だが、どうせそれも三神は見ていまい、と祥子は思う。そう思うと祥子は少し惨めな気分になった。

 脱いだものを散らかしたまま、祥子はベッドを下りる。三神の前に立つ。三神の指から煙草を取り、自分のものにする。一口だけ吸って、灰皿。
「シャワー浴びてくるね」
 三神は、「ああ」と短く頷く。祥子は急に苛立った気分になる。
「‥‥なんだか疲れちゃった。服を脱がせて、‥わたしを裸にしてよ」
 言いながら三神の腕を強く引き、ソファーから立たせる。三神は相変わらずつまらなさそうな目つきのまま、それでもワンピースを脱がせてくれる。脱がせるといっても、前のはだけられたワンピースは両肩を少しずらしただけで、あっけないほど簡単に足元へと崩れさった。
「‥もうだめ、歩く元気もないわ。‥‥キスしてよ」
 三神は祥子の両肩に手をのせ、キスをしようとする。
「だめ。ちゃんと抱き締めてキスして」
 三神は祥子を抱き寄せる。祥子の胸が、ペーパータオルの様に三神の水分を吸収する。

 ‥これじゃ、どっちが抱かれてるんだかわかんないわ‥‥

 祥子はそう思う。瞬間、祥子の中に軽い怒りが産れた。
 近づいてくる唇を避けながら、祥子は言う。
「いい、もういいわ」
 腕を払いのけ、祥子は三神に背を向ける。‥肩甲骨が、何かを三神に訴える。

 つまらなさそうな目つきで、神経の束のような肩甲骨を見つめながら、心の中で三神が呟く。

 ‥俺はおまえを、愛しているんだ。

 やがて祥子は、黙ったままバスルームに向かって歩きはじめる。一歩一歩、慎重に、ウエストから足首にかけてのラインが美しいように気遣いながら、見られているかもしれぬことを意識しながら。
 ドアの手前で祥子は立ち止まる。重そうな磨りガラスのドアに三神の姿を探す。人型であることがようやく解る程度のぼんやりとした影。その影に額を、トン、と当てながら、声にならない程のささやかさで、祥子は唇を震わせる。

 ‥わたしはあなたを、愛しているのよ。


    〜 おしまい 〜

YEBISU
2011年11月10日(木) 20時15分04秒 公開
■この作品の著作権はYEBISUさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
まず、最後まで読んでくださった全ての人に感謝します。
我ながら、どうにもがちゃがちゃとした文章で、だらだらと長い、とは思っているのです。ただ、書いてるうちに自分でもどこをどうすれば良いのかわけがわからなくなってしまい、後半、エピローグ直前までは、ほぼ勢いで書き上げてしまいました。
推敲は十分にしたつもりですが、もし、誤字、脱字等ありましたら、ごめんなさい。
ご意見等頂けると、嬉しく思います。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  YEBISU  評価:--点  ■2011-11-20 21:17  ID:AdjJZ9RooXE
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水樹さん、メッセージありがとうございます。

無機質に思えた三神‥との評、心にグサっと突き刺さってしまいました。
Physさんへの返信と重複してしまいますが、祥子と母親については、随分と人物像を想い描いた一方、三神については、どうしても人物像が定まらず‥。
やはり、わかる人にはわかってしまうのだなと、深く反省しております。

えっと、もっとがんばります(-.-)
No.3  水樹  評価:40点  ■2011-11-20 18:30  ID:r/5q0G/D.uk
PASS 編集 削除
YEBISU様、読ませていただきました。
男女の関係を緻密に描いていますね。私には到底出来そうもないので羨ましいです。
これも一つの愛のカタチなのですね。
エピローグを三人称にして、今まで無機質に思えた三神の心情を出す工夫が窺えます。ちょっと物足りないかなと思えたのですが、作者様の意図と勝手ながら判断しました。
No.2  YEBISU  評価:--点  ■2011-11-20 08:44  ID:AdjJZ9RooXE
PASS 編集 削除
Physさん、メッセージありがとうございます。
丁寧な批評、ありがとうございます。何だか、随分と評価していただき、ちょっとこそばゆい感じがします。

まず、誤字についてのご指摘。われながらまず赤面しつつ読み返し、ついでに、表現の曖昧な部分や、描写の足りない部分など多数発見してしまい、思わず裸足で逃げ出したくなってしまいました。
それと、祥子と母親が三神の下着を着けたときの心理については、自分でも、ちぐはぐだとは感じていて、何度か書き直してみたのですが、どうにもしっくりせず、結局こうなってしまいました。顔を洗って出なおせるものなら、ぜひそうしたいと、深く恥入っております。
最後に、祥子についてのご指摘。祥子については、相当に人物像を思い描いてから書き始めたつもりだったし、けれど、ご指摘を踏まえて読み返すと、確かに、う〜ん‥、と思う箇所も多々あり‥。

ご意見、とても参考になりました。本当にありがとうございます。

追記/もっとがんばります(-.-)
No.1  Phys  評価:50点  ■2011-11-19 10:36  ID:ghyMrY21eyI
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拝読しました。

まず、素晴らしい作品を読ませて頂いた、とお伝えしたいです。胸がきゅんと
なるエピソードの一つ一つに、三神さん、お母さん、主人公さん、登場人物の
みなさんに魂が宿っていました。心の動きをきちんと捉え、構成する作者様の
実力を文章の端々から感じました。

切ないお話ですね。勢いで書き上げた、とのことでしたが、このレベルの中編
小説をさらりと書き上げてしまうこと自体、相当な技術・鍛錬が必要だと思い
ます。

>三神に求めたものは、旅行することではない。肌を重ねることでもない。それらは単に、付随するものだ
>良い、の対語として、悪くない。そんな程度の印象だった

こういった表現には痺れました。前半は私の好きなべたべたとした恋愛小説の
ように感じていましたが、中盤に差し掛かってからのシリアスな展開、二人の
関係性の変化などと合わせて、こういった表現の一つ一つが物語全体の吸引力
として作用していたことと思います。とにかく美しい筆致が素敵でした。

特に、
>二重写しの写真のような、何だか歪にずれた重なり
という描写から主人公さんが三神さんを結婚相手として見ることができなく
なっていくホテルの場面は、二人の気持ちが胸に迫るようでした。

50点以上つけたい、というくらいに完成された作品でしたが、いくつか、
一読者として感じた違和感のようなものを列記させてください。

・お湯はこれ以上望めない程にボコボコと沸騰している。とありましたが、
 紅茶を淹れる時のお湯は、美味しくいただくためには100度まで加熱しては
 いけないと聞いたことがあります。

・三神さんの下着を身に着けて眠った主人公さん、そしてお母さん。その行動
 心理が納得できませんでした。

・残酷な条件を三神さんに押し付けた上、別の人と結婚してしまう主人公さん
 の身勝手さが、物語の結末においてもおざなりにされている気がしました。

・前半の主人公さんが17歳にしては思考が若干大人びていたように思いました。
 台詞からは高校生らしさを感じたので、そのギャップが気になりました。
 後半に向けて主人公さんの成長みたいなものが見られるとなお良かった
 です。

と、これはあくまで私が感じたものですので一つの参考意見として受けとって
下さいませ。

最後に、私が見つけた限りの誤字脱字を指摘させて頂きます。

>三神の寝息の中に微睡んでは目覚める
>来週、来るから。(行くから、の間違いでしょうか……?)
>目を逸らしながら、「今朝は寒いでよ」と声をかけたりもしていた。
>三神がママに言ったせ台詞がある。
>しっとりと、含羞だ笑顔でそれに応えた。
>いづれは菓子の専門学校に進みたい
>三神に覆いかぶさりながら、肩越しにに両腕を回し
>幾度となくキスを交わしなが、しかし、求め合うというのでもなく

これだけ長い作品ですので、推敲してもなかなか目の届かないところもあると
思います。些細なタイプミスだと思いますので、参考にして頂ければ幸いです。

とにかく、心に響く素晴らしい小説を読ませて頂きました。主人公さんや三神
さんと一緒に、二人の切ない恋の物語に浸ることができました。

また、読ませてください。
総レス数 4  合計 90

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