夢の中で遊んでいた












 白と黒、強気と弱気、天使と悪魔――物事は得てして、対極の座標軸を有する。だが、同時に物事は一面的とは限らない――固定観念に囚われた人間が陥りやすい落とし穴だ。


 小さい箱のような会議室の中に、男二人が向き合って座っていた。白、白、白――壁も机も椅子も、あらゆるものが白を着こなしている。
「えー、色んなことを考えてしまうと思いますが、一度頭の中を真っ白にしてください――」
 その言葉に悠介は、心の中を読み取られているような気がした。
「まず、お名前と年齢を伺わせて下さい」
 正面に座るその男は髪も白ければ肌も色白で、着ている服まで白い。
「片岡悠介、三十五歳です」
 白髪の男は、白紙に何やらペンを走らせている。どうせなら白いペン、、、、で書けばいいのに――悠介はそんな皮肉を思った。
「では早速ですが、当日の朝の出来事を、なるべく詳しくお話していただけますか?」
 悠介は従順に思い出そうとしたが、白い部屋が目をチカチカさせて邪魔をする。思わず目を閉じると、一瞬のうちに部屋は黒に包まれて、悠介は脳内旅行へとなだれ込んでいった――。


 ――ブーン、ブーン、ブーン……。
 一定の間隔で鳴り響くその音は、朝の到来と不快な感覚を悠介にもたらす。朝に弱く機械に強い悠介は、最新の目覚まし時計を色々試したが、結局携帯電話のバイブレーションが最も身近で効くのだと悟った。一度体を起こしながらも、四つんばいの姿勢でしばらくうずくまる――その姿勢はまさに、眠気への屈服を表現していた。ゆっくりと頭を上げ、うっすらと目を開いた悠介は、右手首にほくろが二つあることに気付いた。確かほくろは一つだったはずだ、いつの間にもう一人産まれたのか。僅かな触感が、それが一人ではなく、一匹、、であることを知らせた――蚊が止まっていたのだ。

 パン!

 すぐさま左手で平手打ちをかませると、鮮やかな紅を残して蚊の命は絶たれた。残暑も厳しくクーラーを効かせている為、家中の窓を閉め切っているはずだ。この密室に、どんなトリックを使って侵入してきたのだろう――さほど興味の無いその疑問は、すぐにコールドゲームのようにぷつりと途切れて、脳ミソの奥深くへと消えていった。
「さてと……」
 悠介は、いつものようにまどろみながら、いつものように部屋のカーテンを開ける。だが、いつもとは違って、リビングからテレビのニュースが聞こえてこないことに気付いた。早起きな父親――厳密には早朝に目が覚めてしまう、だが――が、珍しく朝寝坊しているようだ。一晩溜まった貯水タンクの放水をジョボジョボと済ませると、悠介は父親の寝室の前を横切る際に、ベッドから転げ落ちた父親の醜態が目に入った。パジャマははだけ、冷たいフローリングと抱擁をしている。還暦を向かえて医者の仕事をリタイアした父に、もはや以前のような貫禄は残っていなかった――そう考えると、悠介は何とも寂しいものだと感慨にふけっていた。仕方なく、悠介はタオルケットを掛けてやることにした。
 父親に近付いたその瞬間、悠介は何とも言えない嫌な予感を覚えた。いつもグーグーうるさいはずのいびきが聞こえない――大きくぽっかりと開いたその口からは、息遣いすら聞こえない気がしてならない。不意に、悠介は父親の頭付近の目覚まし時計付き電気スタンドが倒れているのがわかった。父親が目覚まし時計を止めようとして、倒れたのだろうか。だが、悠介は異変に気付いた――そのコンセントケーブルを辿ると、それは父親の首に巻き付いていた。ハッとして、とっさにうつぶせの父親の腕を引っ張り、仰向けにする。まず感じたのは、すっかり冷え切った体の冷たさだった。続いて父の胸に手を当てると、鼓動がぴくりとも聞こえない。何とか冷静さを保とうとして、警察に電話をかけた。悠介の頭の中は、真っ白になっていた――。




「なるほど……。前日の夜に、何か変わったことは無かったですか?」
 やや高めの透明がかった声が、悠介を白い部屋へと呼び戻す。
「いえ、特に無かったです」
「実家にお住まいとのことですが、同居しているご家族はお父様の他にどなたがいますか?」
 その質問は悠介にとって、あまり感じの良いものではなかった。
「義理の弟がいます」
「義理の……?」
 真ん丸くなった両目は、白目の割合を増していた。
「はい、父が再婚して生まれた弟なので」
 目の前に覗けた白紙には、少しずつ黒い世界が侵食しているようだった。同時に悠介の脳裏にも、両親の離婚後に訪れた黒い歴史がよぎった――。


 悠介の父と実母が離婚したのは、父の不倫が原因だ。わけなく親権は母が勝ち取り、小学生だった悠介との二人暮しが始まった。だが、それは必ずしも悠介が望んだものではなかった。しつけが厳しく口うるさい母よりも、賢くて優しい父の方が悠介は好きだった。自分の想いをないがしろにされ、有無を言わさず父と引き裂かれることで、悠介が母に抱く感情は常に不信感を元としていた。
 中学生になり、反抗期を迎えた悠介は、遂にその感情を爆発させた。忘れもしない、あれは一年生の体育祭の日だった――仕事が忙しく、普段はお弁当を作ってくれない母も、この日ばかりは特別に作ってくれるだろう。そんな悠介の期待は、見事に裏切られた。
「悪いけど、今日もお弁当買ってね」
 そう言って、母はそそくさと仕事へ出て行った。周りの生徒たちがトンカツや唐揚げを頬張る中で、悠介は仕方なくコンビニで買ったおにぎりに噛り付く。その時、遠くの方からヒソヒソ聞こえた女子たちの笑い声が、悠介の心に突き刺さった。
「見て見て。片岡君、今日もコンビニのおにぎりだよ」
「いつもそうだよね。よっぽど好きなんだろうね」
 ――本当は父の方へ行きたかったのだ。飯もろくに作れず、母親としての務めを果たせない人間と、生活を共にする意味があるだろうか――悠介の心に浮かんだ答えは、否だった。体育祭を終えた余韻も無いまま帰宅すると、すぐさま荷作りを済ませ、父の住む家へと向かった。父は既に再婚し、幼稚園児の子どもがいた。その為、悠介は家に入ることに少しばかり躊躇ためらいを覚えた――だが、引き返して元の生活に戻る気はさらさら無かった。家の中へと踏み出したその一歩が、悠介の後の人生をも変えた。

 バタン!

 音を立てて閉じた扉が、もう後戻りできないことを告げていた――。


「なるほど。失礼ですが、継母はどちらに?」
 その質問も、悠介にとって答えたいと思うものではなかった。
「他界しました。十何年前に自殺して……」
「そうでしたか、すみません……」
 沈黙がしばらく続いた――。悠介は、継母から聞いた最後の言葉が、未だに忘れられなかった――。


 悠介の実母は強気な性格だったが、継母は対照的だった。もし継母が、実母のような性格をしていたなら、自分は追い出されていただろう――悠介はそう思った。継母は、悠介が同居することを許してくれた。だが、快く、ではない。大人しく自己主張の少ない継母は、悠介を拒むことはなくとも、必要以上に近付くこともしなかった。明確に断られなくても、継母との間に壁があることを悠介は感じていた。
 一方で義理とはいえ、優希という弟が出来たのは、悠介にとって貴重な経験だった。一人っ子だった悠介は以前から兄弟を欲していた為、家に居る時は優希と積極的に遊んだ。優希は一言で言えば優しい人間で、一言で言わずとも優しいに尽きる性格だった。同時に賢さを備えた優希は、父親に似ていて、頭の悪さを自負する悠介はそれが羨ましかった。
 父の家へと転がり込んで、しばらく平穏な日々が続いたが、水面下で不協和音は確実に大きくなっていった。そして、悠介が志望していた国立大学に受験失敗し、滑り止めの私立大学へ通うことが決まった日、事件は起きた。落胆して部屋にこもっていた悠介に、ふとヒステリックな声が聞こえた。温厚な継母が珍しく父と言い争っているようだ。どうやら余計な出費がかさんで、継母は腑に落ちないらしい。自分自身望んだことではなかったが、落ちてしまった責任を感じていた悠介は、部屋を出ることができなかった。部屋に音楽を流して、言い争う声をかき消すようにした――だが、曲と曲の合間に、継母の声が聞こえた。
「私は、川の字で寝るような家庭が夢だったの。あなた……川っていう字は、三本、、なのよ?」
 そう言って、継母は家を飛び出して行ったようだった。そして、そのまま帰らぬ人となった――。
 継母の吐き出さない性格が災いしたのか、そもそも自分を追い出してくれていれば良かったのか――泣きじゃくる小学生の優希に、悠介は声を掛けてやることができなかった。何が正しいのか、わからなかった。


「義理の弟さんですが、当日どうされていたんですか?」
「弟は仕事先に泊まっていました」
 小学生だった優希は、父と同じく医者になっていた。自分にも同じ賢さがあれば、継母は死なずに済んだかもしれない――悠介は度々、「もしも」の話を考えた。
「では、家に居たのはあなたとお父様だけだったということですね?」
「はい、そうです」
 悠介はその質問に、悪意しか感じられなかった。思えば、警察が来た時も同じことを聞かれたのだった――。


 通報を受けて警察がやってくると、現場だけでなく、玄関から窓からあらゆる箇所を物色し始めた。ようやく悠介は冷静さを取り戻すと、ふと大きな疑問が湧いた――父を殺したのは誰なのか。自殺するのに、電気スタンドのケーブルを使うのはあまりにも勝手が悪く、現実的では無い――ショックや悲しみといった感情が湧く中で、悠介は新たに激しい怒りを覚えていった。しばらくして悠介は警察に幾つかの質問をされたが、そのうちの一つが引っ掛かった。
「他に、どなたか家には居ませんでしたか?」
「いえ、父と俺だけです」
 悠介は、自分が疑われていることを知った――だが、父を殺す理由も無ければ、殺してもいない。一体、誰が――。
「玄関や窓の鍵は開いていませんでしたか?」
 警察は、侵入者の可能性を模索し始めたようだ。だが改めて聞かれると、窓を閉めていた確信が持てない。
 ふと、悠介にある映像が蘇った。紅――今朝、蚊の侵入を疑問に思ったのだった。クーラーを効かせる為に、家のあらゆる窓は閉め、その際に併せて鍵も掛けていた。
「いえ、玄関も窓も鍵は掛けていました」
 ますます疑問が大きくなる――犯人は何らかのトリックを使って密室に侵入し、父を殺し、そして家を出て行ったのだろうか。
 そんなことを考えていた時、知らせを聞いた優希が帰ってきた。警察の矛先は弟にも向いた。
「優希さんは仕事先に泊まられていたということですが、どなたかそれを証明できる方はいらっしゃいますか?」
「ええ、同僚が一緒に居ましたけど」
「その方のお名前と、連絡先を伺ってもよろしいですか?」
「はい、構いませんよ」
 優希を白だと読んだのだろう――次の警察の言動が、悠介にはまた引っ掛かった。
「それと、優希さんに伺いたいことがあるんですが、少しよろしいでしょうか?」
 そう言うと、警察は悠介から離れるように、優希を連れて行った。


「前夜に悠介さんは、お酒は飲まれませんでしたか?」
 白髪の男は、また警察と同じことを聞いてきた。酒に酔って父親を殺し、記憶を無くしていると言いたいのだろう――あいにく、悠介は酒が飲めなかった。
「いえ、お酒を飲むとすぐ赤くなってしまう体質でして……」
「わかりました……では、ここからがいよいよ本題です」
 顔を上げた悠介は、白髪の男と目が合うのがわかった――その鋭い目と。優希の優しい目とは、対照的な目だった――。


 何時間経っただろう――警察がぞろぞろと引き上げていくと、悠介は優希と目が合った。悠介には、優希が案外落ち着いている様子に見えた。思えば優希はいつも冷静で、喜怒哀楽をあまり表に出さない性格だった。それ故、継母の死によって泣きじゃくる優希の姿は、より印象的なものとして悠介の記憶に焼き付いていた。
「大変なことになったな……」
 渦のような沈黙に陥ってしまうのが目に見えた為、悠介はわかりきったようなことを言って先手を打った。
「……大変なのは、これからだよ」
 確かに、これからが大変だ――だが、優希の物言いはそれ以上の意味を含んでいると、悠介には感じられた。悠介はその真意を引き出す為、今度はあえて沈黙を保った。
「真実を知る為に、僕は警察に協力したい。だけど、兄貴の味方だから……」
 悠介は、優希の言葉の意味がよくわからなかった。だが、警察とヒソヒソ話していたことと、何かしら関係があるのだろうと悟った。
「優希、警察に何て言われてたんだ?」
 少しうつむいて、気まずそうに優希は答えた。
「警察は……兄貴を疑ってるんだよ」
 わかっていたようなことでも、改めてハッキリすると戸惑いを覚えるものだ。優希は自らの言葉をフォローするように、すぐに説明を続けた。
「捜査によると、ピッキングの形跡や、毛髪などの細部な痕跡も含めて、外部の侵入者を疑える要素が一切見つからないらしいんだ。親父を殺したのは、内部の人間……つまり、僕か兄貴だって」
 犯人は外部の侵入者ではない――悠介には、それがすぐには受け入れられなかった。だが、警察の調べで判明したのだ。素人の悠介は、覆す根拠を持ち得なかった。
「そうか……それで優希にはアリバイがあるから、必然的に残る俺が疑われるわけか」
 納得している場合ではない、自分の身に危機が迫っている――もみあげから汗がじんわりとこぼれるのを、悠介は感じた。
「兄貴、僕は兄貴がやってないって信じてる。でも……自分の範疇でないところでの行いだったなら、同時に責任も負わされないと思うんだ」
 同じ授業を受けていた生徒に、どうして優劣が現れるのだろう。それがもし先天的な能力のせいだとしたら、頭の良い人間は偉くて、そうでない人間は罪だと言えるのだろうか。願わくば来世は、頭の良い人間に生まれたいものだ――悠介はふと思った。
「……悪い、何言ってんだ?」
 悠介は素直に教えを乞う。
「例えば……兄貴は高い所から落っこちる夢を見て、実際にベッドから落ちて目が覚めた経験とか無い? それか、沼とかに足を取られる夢を見て、実際には足が毛布にくるまってたとか」
 悠介は、まるで意味がわからなかった。英語の訳を頼んだら、フランス語にされてしまった気分だ。取り合えず、目の前の質問を吟味する。
「うーん……そういえば、砂時計を割った時は、確かそんな夢を見た気がするな。で、それがどうかしたのか?」
 いつからだろう――大学の時くらいだろうか、悠介は自分の寝相がひどく悪いことを認知した。部屋が荒れることもたまにあったが、眠りの深い悠介は自分の身に覚えが無かった。
「怖い夢を見て目を覚ますと、『夢か』って思ってホッとするよね。逆に、楽しい夢を見て目が覚めると、空しさを感じることもある。つまり夢と現実って結構リンクしていて、夢が現実に影響を与えるって意味では、夢も現実の一部って言うこともできるんだ」
 この分野の担当医の優希は、少しばかり饒舌になった。だが、何故そんな話をするのか、悠介はいまだに理解ができない。口ごもる悠介に対し、優希は真摯な表情を据えて言った。
「兄貴……電気スタンドの夢を見た覚えはないか?」
 鈍感な悠介も、直球が自分に飛んでくることくらいはわかった。
「お前、どういうことだよ……俺を疑ってんのか!!」
 悠介の怒声にも、優希は動じなかった。むしろ、その目はいつものように優しくなり、諭すように言葉を続けた。
「……自殺でも、外部犯でも無い。兄貴にやった記憶が無いんだったら、夢遊病かもしれない」
 悠介には、それが優希の飛躍した空想に思えて仕方が無かった。おまけに、若干コミカルな雰囲気を抱くその文字に、場違いな皮肉を感じた。
「夢遊病ね……俺が、夢の中で遊んでいたっていうのか。それで親父を殺したって」
 悠介は腹立たしく思った。母親と家を捨ててまで追いかけてきた父親を、殺しただと――怒りが怒りを呼んだ。
「結局、お前も俺を疑ってるんだろ? よし、二つの真実を教えてやるよ。俺はやってない。そして、夢遊病でもない!」
 しばしの沈黙が訪れた――。ようやく優希が、重い口を開いた――その節々には、感情がこもっていた。
「警察は、直接的な証拠が無いから取り合えずは引き上げたよ。でも状況的に見て、最も疑わしい兄貴に逮捕状が出るのは時間の問題なんだよ。さらに、否認を続けても厳しい状況に変わりは無い。でも……夢遊病が認められれば、兄貴は心神喪失者となって法的に罰せられるのを避けられる。夢遊病っていうのは医学的にも立派に認められているし、大きな盾になるんだよ。僕は、警察の味方をしているわけじゃないんだ」
 いつも冷静な優希が、必死になって主張する姿に、悠介は思わず見入ってしまった。言われてみれば、悠介には無実を証明できるものが何一つ無かった――ただ、寝ていただけだ。
「それに……今まで黙ってたけど、兄貴が眠りながら立ち上がって、無意味に部屋にある物を荒らすところを実際に見たことがあるんだ。そもそも、夢遊病っていうのは自覚症状が無いから、兄貴が疑うのも無理は無い……自分が寝言を言うのか、自分ではわからないのと一緒だよ」
 確かに自分が寝言を言うかどうかは、他人に聞かなければわからない――悠介は、優希の言葉に説得力を感じ出した。
「兄貴……電気スタンドじゃなくてもいい、何かヒモで縛る夢とか見なかったか?」
 優希は単に真実を知りたいのではない、自分の保身まで考えてくれているのだ――悠介は感じた。
「……どんな夢を見たか、覚えてないんだよな。ぐっすり眠ってた気がする」
 眠ることに難が無く、いつも熟睡できる悠介は、その代償として目覚めが悪かった。目覚まし時計付き電気スタンドは悠介に一度試されたが、結局良きパートナーになり得ず、その後父親のものになったのだった。
「そうか……でももし、兄貴が逮捕されて尋問されたとしても、電気スタンドの夢を見たなんて言わなくてもいいよ。ありのままに答えればいい……変な矛盾が生じると、逆に疑われるしね。僕も参考人として尋問されるだろうから、夢遊病の症状が出ているように話して後ろ盾するよ」
 悠介には結局、自分が夢遊病なのか、真実が何なのか、わからなかった。ともすると、自分がやっていないと、単に信じたかったからなのかもしれない。

 そして、事態は悠介が最も危惧する方向へ進展した――警察は捜査の結果、殺人事件と断定し、悠介に逮捕状が出たのだ。悠介は夢遊病の症状を訴え、その判断は精神鑑定に委ねられることとなった。




「あなたは、ご自身が夢遊病だと訴えられているということですが、当日はどんな夢を見られましたか?」
 白髪の男は、妙に白衣が似合う――そんなことを考えるほど、悠介は落ち着いていた。
「当日は……ぐっすり眠っていたので、覚えていません」
 悠介は優希に言われていた通り、ありのままに答えた。
「ぐっすり……? 元々、眠りの深い方なんですか?」
「そうです。その分、朝が弱いんですが」
 白髪の男が怪訝そうな顔をするのが悠介は気になったが、弱気になったら相手のペースにずるずると引き込まれそうな気がした。
「夢遊病だという自覚は、いつからあったのですか?」
「今回の事件で確信しました。でも大学の時くらいから、朝起きると部屋が荒れていることがあったんです。今思えば、その頃から症状が出ていたのだと思います」
「当日は夢を見ていなかったのに、何故お父様を殺害したのが自分だと思ったのですか?」
「状況証拠が出揃って、俺以外に疑われる人がいなかったからです。弟も、俺が夢遊病だと指摘して、気が付きました」
「弟さんですか……」
 白髪の男が興味深く書き留める姿を見て、悠介は事態が好転する気配を感じた。
「それでは、弟さんにも参考人として面接をさせていただきますが、よろしいですか?」
「はい、お願いします」
 願っても無い申し出だ、俺のバトンを引き継いで歓喜のゴールを迎えてくれるだろう――悠介は優希に望みを託した。

 数日後、今度は優希が白髪の男と向き合って座っていた。
「早速ですが、あなたのお兄様は夢遊病だと思われますか?」
 優希は一人、感慨にふけっていた。この日が来ることをどれだけ待っていただろうか――そう、あの日から。


 優希は、母親が大好きだった。優しい性格の優希は、穏やかに包み込むような母親に心地良さと安心感を覚えていた。優希の母親にとっても、優希は一人っ子であった為、無償の愛を注ぐ唯一の存在だった。優希は両親と何ら問題なく、むしろ幸せな家庭の息子として育っていた。そして、それはいつまでも続いていくはずだった――。
 だが、ひとりの邪魔者の登場が、幸せな家庭の歯車を少しずつ狂わせた。優希の父親にとって悠介は息子だが、母親にとって悠介は赤の他人だ。優希の父親は半ば強引に悠介を迎え入れ、優希には兄が出来た。優希は悠介とよく遊ぶことになったが、引き換えに母親と過ごす時間を失った。そして、優希と母親が心を通わすことは自然と削がれていった――悠介は、障害物以外の何物でも無かった。
 母親が急にこの世を去り、優希の心は小学生にして希望に膨らむことを忘れてしまった――まるで、穴の開いた風船のようだった。こらえてもこらえても、勝手に涙がこぼれ落ち、嗚咽おえつが止まらない。ふと横に、悠介が立っているのがわかった。母親とは他人のこの男は、涙も流さず、弟を心配する素振りも見せない――その姿を見て、兄は母親を殺した犯人、、同然なのだと、優希の中で強い信念が芽生えた。
 犯人、、は、もう一人いた。災いを家に迎え入れた人物――父親のあの判断を、優希はずっと恨んでいた。恨みは、いつしか不信感に変わり、母親の死によって憎しみへと一気に昇華した。
 母親を失い、希望を忘れ、男三人暮らしの中で優希が見出せたものは、復讐しか無かった。だが、優希は単に父親と悠介を裁くだけでは意味が無いと思った。自分の身に実害が被らないこと――いや、むしろ利益になることを考えていた。中学生になった悠介が公民の授業で予期せず学んだのが、遺産相続だった。父親に離婚の話を聞き、悠介の親権が無いことがわかった優希は、父親の遺産がまるまる自分に入ってくることを知った。優希は父親の殺害を決めたが、悠介まで殺せば自分が疑われてしまう――そこで、悠介には犯人役になってもらうことにした。他殺である為、上手くいけば保険金まで手に入る。問題は、悠介が下手に犯行を否定すれば、捜査の手が優希自身まで及ぶ危険性があることだった。悠介には、あくまで自分がやったのではないかと思い込ませなければならない。インターネットや図書館で情報を探し回った結果、優希が思い付いたのは夢遊病を利用した殺人だった。だが、悠介に夢遊病を自覚させる為には、相応の根拠が必要だった。まず出来ることは、悠介が寝ている間に部屋を荒らすこと。そして、夢遊病の知識に精通したプロ、、になることだった――。

 優希は目をカッと見開き、言い放った。
「いえ、兄は夢遊病ではありません」
 白髪の男は、伏せていた視線を思わず優希の方へ送る。
「でも、お兄様は弟も認めているとおっしゃいましたが……」
「兄はただ、心神喪失を装って無罪を勝ち取りたいだけです」
 白髪の男にとって、心神喪失を装う容疑者を相手にすることは珍しくなかった。だが、容疑者の擁護をしない家族を相手にすることは、稀だった。
「では、お兄様の虚言だと……」
「はい、僕もあなたと同じ専門医なのでわかります。兄は眠りが深い人間で、つまり夢を見るレム睡眠時の行動性に非常に欠けます。言わば、夢遊病とは最も遠いタイプです」
 眠りの深さは、優希の犯行に貴重なアシストをしていた――。

 家の鍵を静かに開け、ゆっくりと中に入っていくと、ぐっすりと眠っている悠介が見えた。どうやらそこは、父親に似たようだ。そして、目覚まし時計付き電気スタンドのコンセントケーブルには、元使用者の指紋がべたべたと付いていることは明らかだった――悠介の指紋が。




 白髪の男の表情には、驚きと焦りとが映った。優希にはそれが、ふらついているボクサーのように見えた――ノックアウトするなら今だ。
「それと、もう一つ裏付ける証拠があります」
 優希はそう言うと、おもむろにマイクレコーダーを取り出した。
「これは僕と兄が、事件後に会話したものを録音したものです。当時から兄を疑っていた為、予め持ち合わせておきました」
「はあ……」
 優希は自分のリズムに飲み込まれる白髪の男を一瞥し、レコーダーを再生する。

『……自殺でも、外部犯でも無い。兄貴にやった記憶が無いんだったら、夢遊病かもしれない』
『夢遊病ね……俺が、夢の中で遊んでいたっていうのか。それで親父を殺したって。……結局、お前も俺を疑ってるんだろ? 二つの真実を教えてやるよ。俺はやってない。そして、夢遊病でもない!』

 優希はレコーダーを停止し、とがった目をして言った――その目には、ひとかけらの優しさも無い。
「このように、兄は自分が夢遊病ではないことをハッキリ自覚しています。むしろ、僕の言葉に影響を受けて、無罪を勝ち取る術を知り、しらじらしく夢遊病を名乗り出したんです。僕も認めていると兄が答えたのは、後から都合の良いように僕の言葉を解釈したものです。必要ならば、こちらのレコーダーは証拠として法廷に提出していただいても構いません」
 優希はレコーダーを手渡すと、そそくさと椅子から立ち上がって聞いた。
「まだ何か、答えることはありますか?」
 白髪の男には、一つだけ疑問があった。
「……なぜ、お兄様をかばおうとはしないのですか?」
 少しだけ考えて、優希は答えた。
「裁かれるべき人が、きちんと裁かれることを望んでいるからです」
 その言葉には、一寸の偽りも無かった。

 優希が次に会ったのは、同僚だった。優希は、厚みのある封筒を渡して素っ気無く言った。
「はい、約束通り」
 同僚は高揚感を覚えているようだ。
「おう、サンキュー!」
 愛想笑いすらせず、優希は去り際に言った。
「上手くいったから、気持ち付けといた」
 人間は裏切るが、カネは裏切らない――。

 悠介の夢遊病が認められないと断定されると、裁判で打つ手はなく、あえなく悠介の有罪判決が確定した。傍聴席に居た優希は、途中で立ち上がり、退席した。

 バタン!

 背中の奥で聞こえた扉が閉まるその音に、悠介はあの日のことを思い出していた――。間違いなく、あの時から人生、、が変わったのだ。過去の自分の軽率な行動を悔いても、もう遅過ぎることだった。

 オギャーと皆同じように生まれて、どうして多種多様な人格が形成されるのだろう。それがもし環境によるものだとしたら、自らの抱いた感情は誤りで、犯した行動は過ちだったと責めを受けるのだろうか。願わくば、来世は幸せな環境に生まれたいものだ――優希はそう思った。
 だが、まだ復讐は完結していない。広い一般道を時速百キロで飛ばしながら、優希は独り言を囁いた。
「夢と現実って結構リンクしていて、現実を的確に捉えられていなければ、それは言わば夢を見ているのと同じと言えるんだよ……」
 優希は思った――いつか自分の犯行に、悠介も気付くだろう。その時、はじめて現実に目覚めるのだ。そして、ずっと操られていた自分の状態を、きっと、こう思う。

「夢の中で遊んでいた」

 本当の復讐が完結するのは、それからだ。
「ハハハ」
 優希は一人、笑った――その悪魔のような笑顔を、悠介はまだ知らない。
桜井隆弘
2011年10月10日(月) 01時02分00秒 公開
■この作品の著作権は桜井隆弘さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
最後に投稿してから早三ヶ月……小説を書けば書くほど、その奥深さ・難しさを知り、徐々に純粋な楽しさを失っていました。自分の未熟さを思い知った上で、もう一度小説を書き出した頃の気持ちを思い出して、今後も続けていきたいと思っています。

作品としては、リアリティに欠けるかもしれません。ミステリー面では致命的ですね(苦笑)
ご指導、ご感想、率直にいただけると嬉しいです。

この作品の感想をお寄せください。
No.3  桜井隆弘  評価:0点  ■2011-10-22 23:51  ID:inWS/2b9dQs
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お返事遅くなりまして、すみません。

>相馬さん
お久しぶりです。
白い部屋はちょっと強調が過ぎましたかね、もう少し活かせれば良かったですね。
書き出しは最後まで迷ったんですが、褒めていただけると嬉しいです。
全然偉そうなことないです、ご感想ありがとうございます!
相馬さんの久々の作品も、首を長くして待ってますね〜。


>Physさん
勝手に殺さないで下さい(笑)
初心者が興味本位で書き始めて、最初に当たる壁ですかね。
ある程度の期間を経て、そろそろ僕も興味本位では許されないのかなーと。

文学的に稚拙なのが短所なので、地の文は意識して力を入れてみました。
指摘していただいて、力を入れた甲斐があったなーと思います。

反面、ストーリー的に引き込む力は弱かった気がします。
夢遊病をテーマに扱ってみたかったんですが、ややこじつけ気味だったなと。
読み込んでいただけたのは、きっとPhysさんご自身が興味を持っていただいたからだと思います。
そんなに詳しく解析されると、セルみたいに技ごと全部吸収されちゃいそうな気がします。

赤くなってしまう体質は、悠介がそういう設定だったのでサンプルにさせていただきました(笑)
僕もPhysさんみたいに、多くの方に読んでいただけるように精進しなくては。
No.2  Phys  評価:40点  ■2011-10-10 15:44  ID:U.qqwpv.0to
PASS 編集 削除
拝読しました。

お久しぶりです。このところお見かけしなかったので、同期がまた一人減って
しまったと、切なく思っておりました。帰ってきてくださいましてありがとう
ございます。(もちろん、私のためじゃないでしょうけど。笑)

とにかく良かったです。今までの桜井さん作品の中でも一、二を争う完成度の
作品だと思いました。淡々としていて知的な書き口、洒脱な比喩とウィットに
富んだ会話など、ミステリの呼吸を感じました。(同期だから大袈裟に言って
いるわけではなく、掛け値なしに桜井さんの傑作だと思いました!)

ミステリの分類で言えば、本作はまさにホワイダニット(Why do it)の物語
ですね。すなわち、本質は動機形成の倒錯トリックだとお見受けしました。

犯人が誰なのかというフーダニット(Who do it)の部分は作者様も隠そうと
していないようでしたし、悠介さんを取り巻く陰惨な過去を、丁寧に、細かく
描写なさっていたことからも、後半は「なぜ犯行に及んだのか」という部分に
焦点を合わせているのが分かりました。構成が非常にお手本的で、まさに
叙述力の現れだと思います。

>目覚まし時計付き電気スタンドは悠介に一度試された
>コンセントケーブルには、元使用者の指紋がべたべたと付いている
本作では「蚊」や「電気スタンド」など、短編ならではの緻密な伏線の配置、
その意外な使い方など、確かなトリックの技術が光っていたと思います。
細かいところまで行き届いており、伏線を一つ見つけるたびに嬉しくなって
しまいました。

サスペンスとしても秀逸です。緊張感を崩すことなく、最後のダークな結末に
まで読み込ませる力は、上記のような伏線の細かな気配りがあったためだと
思います。最後の数ページでは驚きと納得の連続でした。

あ、それと。
>「いえ、お酒を飲むとすぐ赤くなってしまう体質でして……」
この台詞、どこかで聞いたことがあるなぁ、と思いました。そしてなんだか、
私は悠介さんにものすごく親近感を覚えました。笑

三か月の山籠もり合宿(なんとなくそんな想像です)を終えて、桜井さんが
さらに実力を付けて帰って来られました。お仕事たいへんだと思いますが、
これからも読み応えのある作品を書いてください。

なんか、一気に書きなぐったせいで、感想文、長すぎですね……。汗
もうちょっとまとめる力をつけたいと思います。

落語シリーズのような、軽めの作品も待っています。楽しみにしていますね。
また、読ませてください。
No.1  相馬  評価:40点  ■2011-10-10 05:53  ID:epJUlMJP1QY
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 拝読しました。

 お久しぶりですね。初心に戻るのは大切なこと、それに行動を伴わせるのは大事なこと。自分の未熟さが理解できるのは成長の証、今後も頑張って下さいね。
 
 さて、完成度が高くなりましたね、面白かったです。
 真っ白の部屋、何かあるかと思わせて結局何もなかった。最後は取調室の印象が深くなり、白い部屋であることを忘れてしまいましたね。
 「白と黒、強気と弱気、天使と悪魔」このキーワードが上手に使用されて感心しました。

 全体として良かったと感じました。今後も期待してますよ。(私の感想が全体的に偉そうですみません……)
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