ナッちゃん
 夏の終わりの午後遅く。
 私はごつごつした荒れたコンクリの防波堤に立ち、海を眺めていた。
 防波堤の下には朽ちたテトラポットが死んだ珊瑚のように折り重なっている。
 そこから砂浜まで幾重かの漂着屑のラインを重ねながら、その先に白い砂浜が広がっていた。
 ぼんやりと霞む水平線に何隻かの船が黒点のように見える。
 ここは太平洋に注ぐ富田川河口の北側、そこに接する富田の浜。
 誰もいない海…… 
 何もない砂浜…… 
 傾き掛けた夏の日差しと、クマゼミのせわしない鳴き声が遠く近く聞こえるのみだ。
 左を見ると富田川の低い堤と河口の向こうにノロズノ鼻の奇岩が海に突き出している。
 そこだけを見ているとまるで太古の地球を思わせる神秘な光景。
 しかし一方右に視線を移すと小高い山手の上に遊園地の白い建物が見える。
 そこは今、誰もいないこの場所とは全く違った賑わいに包まれているはずだ。
 その向こう側に広がる温泉街と有名な白良浜も観光客でごったがえしていることだろう。

 車を飛ばして五時間あまり、きらきらと輝く海原を眺めながら、来て良かった――と、ぼんやり思った。
 ここに来るのは何回目だろうか。子供の頃にも何回か訪れ、慣れ親しんだ場所。
 あれから何十年経ったのだろう…… 
 この場所だけはまるで時間の流れが止まっているかのように何も変わっていない。
 
「こんにちは」
 防波堤の階段を上がってくる足音。振り返るとそこにポロシャツ姿の男の姿
があった。
 迷彩柄の半ズボン、腰にはウエストポーチ、ビーチサンダルを履いている。
 その風貌はここが観光地近くの日曜日の午後なのだということを私に思い出させた。
「こんにちは」
 私は同じように挨拶を返す。
 男はサングラスを外しながらこちらに近づく。
「うわあ、きれいなところですねえ」
 三十台半ばぐらいだろうか、日焼けした顔に短髪の男が感嘆の声を上げた。
「地元の方ですか?」
 快活な笑顔を浮かべながら男が私に訪ねる。
「いえ、違うんですけどね」
 私はなんとなく気恥ずかしさもあって所在なげに答えてしまう。
「ああ、そうなんですか。うちらも観光で来てるんですけど…… どこも一杯で」
 そう言う男の後ろ、防波堤の下には一台のワゴン車が富田川の堤に寄せて停めてあるのが見えた。
 奥さんが男の子を車から降ろし、おしっこさせているところだった。
「それにしてもきれいなところですねえ、ひと気も無いし、静かで」
 男は眼前に広がるパノラマに本当に感じ入っているようだ。
 私も同じように海原に目をやった。低く霞む雲の切れ間に鳥の群れが渡って行く。
「ここ――泳げるんですかね?」
 男がどことなく恐る恐るといった感じで訪ねる。
 私は少し考えたが。
「うーん、ここ遊泳禁止なんじゃないですかね……」
 遊泳禁止の看板が有るわけでも無かったが、実際子供連れで海水浴するには適していないことは知っていた。
「ああ。やっぱりそうですか」
 男が残念そうにつぶやく。
「トイレもシャワーも無いですからねえ」
 私は男に目線をあわせず、何もない浜の方に顔を向けながら言った。
「なるほど、それじゃちょっと無理ですね」
 男は奥さんと子供の待つエンジンが掛けっぱなしのワゴン車をちらりと見やりながら言う。
「一応入り江にはなってますけど、遠浅でもないし鮫よけネットも無いと思いますよ」
「それは、ちょっと怖いですね」
 男はその言葉で完全に諦めがついたようだ。
「まあ、そうそう鮫なんて出ないでしょうけど……」
 私は申し訳なさそうに付け加えた。
「いや、でも本当にきれいですよねえ」
 男はあらためて海を眺めながら気を取り直したように言う。
「ええ、こうして見てる分には誰もいないプライベートビーチって感じですよね」
「いやっははあ、そんな感じしますよね」
 男は再び明るく笑いながら言った。
「いや、どうもおじゃましました。ありがとうございました」
 男はぺこりと頭を下げると家族の待つワゴン車の方へ堤防の階段を下りて行った。
 車に乗り込み、しばらく奥さんと話をしていたようだったが、やがて静かに堤防沿いの道を引き返していった。

 男が去り、私は再び一人きりになった。
 私は堤防を浜の方へ降りる。
 テトラポットの斜めになっている一脚に腰を下ろした。ここなら人目にも付きはすまい。
 潮騒がひときわ大きくなった。
 相変わらず砂浜には誰一人の影もない。
 太平洋の荒波が打ち寄せる砂浜と、頬をくすぐる潮風は遠い記憶を運んでくるようだ。
 もうしばらく――もう少しだけ感傷に身を任せていよう。
 昔…… ずっと昔にナッちゃんとかけっこした――この砂浜を眺めながら。

 ――しらはまー、しらはまー ―― 

 マイクの車掌さんの声がひびいた。
 着いた、さあ降りるぞ――とお父さんが言った。
 お父さんが妹をだっこして――お母さんはおみやげの入った袋をあみ棚からおろしている。
 僕は冷凍ミカンのアミだけを持って電車をおりた。
 小学三年生の夏休み――僕たちは"白浜のおばちゃん"の家に泊りがけで遊びにきたんだ。
 おばちゃんって言っても、親戚なわけじゃないんだけど。
 お母さんが、前に"ムサシ"で働いていたときに仲良くなったおばちゃんって言ってた。
 改札で切符を渡してから、みんながめいめい駅前のベンチに荷物をおいた。
 お父さんは公衆電話で電話をかけている。
 じゃらじゃらって音がして電話を切ったお父さんが十円玉を電話機から取りだしていた。
 あんなにたくさん十円玉を入れなくてもいいのに。
 さあここでおっちゃんが車で迎えに来てくれるまで待とう。と、戻ってきたお父さんが言った。
 でも僕はじっとなんかしていられない子供だった。さっそく駅舎をひとりで飛びだした。
 駅を出ると日差しが強くてまぶしい。
 駅前には椰子の木みたいなのが植わっている。
 見上げると葉っぱの半分くらいは枯れているみたいだけれど。
 駅の隣にはおみやげ屋さんがあって、店先にはいろんなものが並んでいた。
 お菓子、動物の人形、風鈴、壁にはペナントがはってある。
 お菓子は……あんまりおいしそうなのは無かった。
 大人向けだ、と思った。
 棚の上には那智黒の缶が並んでいる――これもあんまりおいしくない。
 家にもずいぶん前から冷蔵庫の上に置いてあるけどいつまでたっても減らないんだ。
 大人が食べてもあんまりおいしくないんだろう、きっと。
 テレビでやってる那智黒のコマーシャルは面白いんだけど…… 
 民芸品コーナーと書かれた台の上には貝殻でできたオモチャが並べてある。
 ひらたい貝がらでできた亀の背中に子亀がのって、その上にも小さな亀がのっかっていた。
 首だけがぶらぶらして、風にゆれている。
 指でこづくと上下におじぎしているみたいに動いた。
 僕はその一つを手にとってみた。
 貝がらの間には透明のボンドがいっぱいはみだしている。
 木工ボンドだ――僕はあのチューブの先から絞りだしたときのすっぱいにおいを思いだした。
 工作の時間になると、かならずそれを指先にぬって指紋をとる子がいる。
 僕はもうそんなことはしないけれども。
 吊ってある風鈴が風にゆれてカチャカチャ音をならしている。
 いろんなのがある。
 平たい貝がらでできた風鈴を見つけた。
 これは――家にあるのといっしょのヤツだ。
 まえに僕が空気銃の的にしたらきれいに穴が空いてうれしかったんだけど、あとですごく怒られた。
 あんなにきれいに空いてるんだから悪くないと思うんだけど……
 それにしてもなんだか貝殻で作ったものばっかりだ。平たい箱に並べられた貝の笛を手にとってみる。
 これは知ってる――タカラ貝だ。
 ちょうど手のなかにすっぽり入るくらいのまあるい貝がら。
 しましまのもようでうらがわはギザギザの歯みたいなすきまがあいている。
 つるつるの表面は手でにぎるとひんやりして気持ちよかった。
 でもなんでこれがタカラなのかはよくわからないんだけど。
 ちょっとだけキラキラしてるからかなあ。
 ケンイチ――と、僕を呼ぶ声がした。
 バス乗り場の方でお母さんが呼んでいる。おっちゃんの車が来たみたいだ。
 僕はもう少しおみやげ屋さんを見ていたかったけど、あきらめてみんなのところに走ってもどった。
 おっちゃんの車が駅前にとまっていた。半そでシャツを着たおっちゃんが僕のほうを見る。
 おおケン坊大きくなったな――おっちゃんのがらがらした声がひびいた。
 おっちゃんは色が黒い。いつ会っても同じだ。日焼けなのか、もともと黒いのかはよくわからない。
 ぼうず頭とぼしょぼしょのあごひげ。どっちもまっ白だ。おっちゃんと言うよりもおじいちゃんって感じがする。
 こんにちわ――と僕はあいさつした。おっちゃんは、おお、少しはお利口さんになったか――と言ってくしゃくしゃの笑い顔になった。
 おっちゃんの歯はぜんぶ銀がかぶせてあってぎらぎら光ってる。うっかり舌をかんだらすごく痛そうだ。
 ――いやいや目をはなしたら最後、悪さしかしませんよ、こいつは――とお父さんが言う。
 おっちゃんがにたりと笑う。
 やっぱり相変わらずか、それでこそケン坊よ――うっはははは、と笑うおっちゃん。
 おっちゃんもあいかわらずだな、と僕は思った。
 それからみんな車に乗り込んだ。
 車はガタガタいいながら走り出す。
 ギヤを入れるとき、たまにガリッって音がする。 
 あいかわらずのボロ車ですわ――と、笑いながらおっちゃんは細いハンドルを重たそうに動かしていた。
 車は川沿いの道を走って大きな橋を渡った。
 信号も横断歩道もぜんぜんない。大阪の道とはだいぶちがうみたいだ。
 外は暑かったけど車の中はけっこう涼しかった。吹き出し口に手を当てると冷たい風が出ている。
 どこかでかいだことのあるにおいだ――たぶんボーリング場だったかなあ……
 そのまま川沿いの道をしばらく走って堤防沿いの道をおりるとそこがおっちゃん達の家だ。

 車は家の前に止まった。電信柱に紀伊富田って書いてある。
 なんて読むの? ってお父さんに聞いたら……キートンだ、て言った。
 ――すぐにおばちゃんが家の中から出てきた。
 こんにちわ、とお父さんが車をおりて言う。
 ケンちゃん、また大きくなったね――と、やっぱりおばちゃんも言う。
 ――そういえば、このまえどこか親戚の家に行ったときおじさんが出てきて――ケンちゃん、久しぶり、小さくなったね――と言った。
 このおじさんはおもしろい大人だな、と思った。
 おばちゃんはいつもと同じにかっぽう着を着ている。なんか旅館のひとみたいだ。
 トランクから荷物を下ろすお父さんたちと今日も暑かったねえとか話している。
 僕が玄関で運動靴をぬいでいると――奥から小さい犬が走ってきた。
 わんわんとやかましくほえる。
 おばちゃんがすぐにやってきて――サニーちゃん、だめよ、としかりつけた。
 サニーちゃんはおばちゃんの顔をみるとすぐにおとなしくなった。
 サニーちゃんは――スピッツっていう種類の犬らしい。
 金色の毛がふさふさで見てるだけで暑そうだ。
 おっちゃんとおばちゃんには子どもがいないから――その代わりに犬を飼ってるんだとお母さんが言ってた。
 お母さんがムサシをやめて大阪にもどってぼくが生まれたときに白浜のおばちゃんがめんどう見てくれたんだって言ってた。
 だから今でもこうやって遊びにいったり、 遊びにきたりがずっと続いているんだって。
 おばちゃんは会うたびにおもちゃを買ってくれる――いいおばちゃんだ。
 サニーちゃんはおばちゃんに連れられて部屋の奥にもどっていった。
 僕は玄関をあがってすぐの大きな長いすのある部屋に入った。
 家の中は――なんとなくタンスを開けたときのにおいがするな、と思った。
 テーブルの上に金色の鉄でできた車が置いてある。
 手で持ち上げたら車の上半分だけが取れて中には――タバコが入っていた。
 おっちゃんは車が好きなんだな、と思った。
 みんなは荷物を集めて一つの部屋に置いたあと、えんがわのある大きな部屋に集まって話をしている。
 おばちゃんがお菓子をもってきてちゃぶ台の上においた。
 僕は麦茶を飲みながらそのお菓子をぽりぽり食べた。
 かっぱえびせんだった。
 やめられないとまらない――というほどおいしいとは思わないんだけど……
 部屋の中にはサニーちゃんがおすわりして、なぜだか僕のほうをじっと見ている。
 はあはあ言いながら舌をへろへろさせて、ときどき首をかしげている――なんだかおちつきがない。
 おばちゃんが立ち上がって――かっぱえびせんをサニーちゃんのエサ入れにざらざらと入れた。
 おばちゃんが、サニーちゃんの大好物で――と言い終わらないうちにサニーちゃんは走っていって、エサ入れのかっぱえびせんをがつがつと食べはじめた。
 僕はかっぱえびせんを食べるのをやめた。

 夕方になったらキクたちが来るよ――とおばちゃんが言った。
 ケン坊、おぼえとるかな? ひさしぶりやからなあ――とおっちゃんが言った。
 なんだかよくおぼえてないけど……近所に住んでる子どもらしい――三人兄妹の。
 おっちゃんもおばちゃんも子どもが好きなんだな、と思った。
 夕方になって、こんにちわーって、玄関で声がして、おばちゃんが出迎えにいった。
 おじゃまします――と言いながら、三人の子どもが部屋に入ってきた。
 キクちゃんは一番上のお兄さん。小学六年生だ。
 その下は妹のナッちゃん、僕と同じ三年生だった。
 一番下の妹はユキちゃん。小学一年生だ。
 キクちゃんはこんにちわ――と、両手をからだの横にそろえておじぎしながら、みんなにあいさつする。
 礼儀正しくて、大人だな――と思った。半ズボンをはいてるのに。
 キクちゃんは、ケンちゃんこんにちわ、おぼえてるかな? きょうは妹たちも連れてきたよ、と言った。
 ナツ、ユキ、こっちにおいで、ってキクちゃんが呼ぶ。
 こんにちわと、ナッちゃんが言った。
 ユキちゃんはナッちゃんの後ろにかくれてもじもじしていた。
 ユキちゃんは僕の妹のチャコよりひとつ上だけど、あんまり背はかわらない。
 だけどナッちゃんは僕と同い年なのに僕より頭はんぶんくらい背が高かった。
 おっちゃんほどではないけど、色が黒くてやせている。
 長い髪の毛はひとくくりにして後ろでしばっていた。
 僕だってクラスではそんなに背が低いほうじゃないんだけれど……
 でもユキちゃんはお姉ちゃんにはあんまり似ていなくて色が白くてぽっちゃりしている。
 髪の毛もうちの妹とおなじくらいに短かい。
 きっと床屋さんにいったら、オオカミカットにしてください――とお母さんに言われてるのだろう。
 キクちゃんが――ナツはケンちゃんと同級生だから仲良くするんだよ、と言った。
 ナッちゃんは細い目で僕のほうを見ながら――ちょこっと頭をさげた。
 長い前髪がゆれて目がかくれそうだ。
 目の前にいるとなんだか見下ろされている気分になる。
 僕もおんなじように――ちょこっと頭をさげた。
 だけどもナッちゃんはなんにも言わずに、右うでのあせもをぽりっと掻いた。
 僕のすきな恵子ちゃんとはだいぶちがう感じだな、と思った。
 クラスにはナッちゃんに似てる女子はいないな、と思った。
 
 おばちゃんは台所でスイカを切ってるみたいだ。
 人数分のお皿にのせてちゃぶ台の上に並べていく。
 おばちゃんは僕に、スプーンいるかねえ――ときいた。
 僕は、うんと言ってスプーンをもらった。
 キクちゃんはちゃぶ台の上でスイカをスプーンですくって、ユキちゃんに食べさせている。
 ちゃぶ台はそんなに大きくないから――ナッちゃんは縁側のほうにスイカのお皿を持っていった。
 スイカのお皿を板の間において――縁側のふちにぺたんとすわる。
 両手でスイカの切り身を持って、とがった先っぽをしゃくっとかじった。
 ケンちゃんも縁側で食べなさい――と言われたのでナッちゃんと並んで縁側にすわった。
 板の間はひんやりしていてきもちいい。
 横を見ると――ブタのかたちをした蚊取り器が口からけむりを出していた。
 庭は小さくて裏庭ってかんじだ。低い木が何本か植わってるけども、あとは土と雑草ばっかりだ。
 空を見ると夕焼けがきれいだった。
 近くの山が真っ黒に見えて、その上を鳥がくるくる飛んでいる。
 車が近くを走っていないとこんなに静かなんだなあって思った。
 カナカナ……っていうセミの声が聞こえる。
 縁側の下は平たい石になっていて、木のサンダルがそろえておいてある。
 ナッちゃんは下までは足がとどかないから、ぶらぶらさせていた。
 スカートからまっすぐ出てる足を見て――棒みたいだな、と思った。
 僕がナッちゃんのほうをちらちら見ていたら……
 ナッちゃんも僕のほうをちらっと見た。
 でもすぐ前を向いて……それから――プッと口の中のタネを飛ばした。
 タネは勢いよく飛んで植え込みの雑草のところまでいってから地面に落ちた。
 ナッちゃんがもういちど僕のほうを目だけでちらっと見た。
 僕もまねしてタネを飛ばしてみようとしたけれど、スイカの汁のほうがたくさん飛びだした。
 ナッちゃんが、ふふ――とわらったような気がして、やっぱりスプーンでタネをほじってから食べることにした。
 のきさきに下がっている風鈴がチリンと鳴った。
 日が落ちてだいぶ風がすずしくなってきたみたいだ。

 そろそろ帰ります――とキクちゃんが言った。
 ご飯食べていけばいいのにと、おばちゃんが言ったけども、ご飯までには帰ってくるように言われてるみたいで、みんな帰ることになった。
 おっちゃんが、あしたは釣りにいくぞ、とキクちゃんに言った。
 キクちゃんはうれしそうに笑った。
 そうそう――ご飯の前にお風呂はいるかね、温泉、とおばちゃんが言った。
 キク達も行くかね、それなら子ども達で先に入ってきなさい、とおっちゃんが言った。
 キクちゃんは、ユキを家に帰してきますと言ってから、ナッちゃんに僕といっしょに温泉場まで行くようにと言った。
 ナッちゃんは、うんと言って僕と二人で家を出た。
 ――外に出るとすっかり日が落ちて暗くなっていた。
 僕はタオルと着替えを入れた袋を持ってナッちゃんを追いかけるようにして歩く。
 道のかた側はずっと田んぼがつづいていた。
 かえるがげこげこ鳴いている。
 街灯も暗くて少ないな、と思った。
 でもナッちゃんは少しもこわくなんかないみたいで、僕なんかいないみたいにどんどん先へ歩いていく。
 ナッちゃんは歩くのが速いな、って思った。
 僕より足が長いからかな……
 それに、手をつなぐほど子どもじゃないもんなあって、ちょっと思った。
 五分も歩かないうちにナッちゃんはここ、と言ってなんだか休みの日の駄菓子屋さんみたいな小屋の前で立ち止まった。
 がたぴし戸をあけてナッちゃんが中に入る。僕も中に入った。
 中は――小さな脱衣場と、中くらいのゆぶねがひとつあるだけのお風呂だった。
 汚れていて、暗い蛍光灯がじーじー言ってる。
 ゆぶねのはしには蛇口が二つならんでいた。
 お湯のほうの赤い蛇口は熱いから気をつけないとだめ、と教えてくれた。
 ナッちゃんは着替えとってくる、と言って家に帰っていった。
 なーんだ――と、ちょっと思ったけど一人で入ることにした。
 服をぬいでお湯に手をつけると……死ぬほど熱かった!
 僕はあわてて水のほうの蛇口をいっぱいまで開いてお湯がぬるくなるのを待った。
 お湯がゆぶねからあふれてどんどんこぼれていったけどお湯はなかなかぬるくならなかった。
 これくらいでちょうどいいかな、と思って入ってみたら――ちょっとぬるすぎ? と思ったけど、それも気持ちよくてもっと水を足してみた。
 なんだかプールみたいで楽しい。
 気持ちよかったけどそろそろ体が冷えてきたので上がって体と頭を洗ってからもう一度ゆぶねにつかった。
 大人と入るお風呂はいつも熱くてガマンばっかりしてたけど、今はそんなガマンしなくていいんだ、と思ったらすごくうれしかった。
 僕がお風呂から出て着替えをしているとナッちゃんがもどってきた。ユキちゃんをつれてきている。
 ナッちゃんは一人で帰れるか聞いてきたけど、僕はうんと言って一人で温泉小屋を出て、がたぴし戸をしめた。
 僕はさっき来た道をおばちゃんの家の方にむかって歩きだした。
 うしろで、つめたーい! って声が聞こえた気がした。
 
 一人だとやっぱり心細かったので走って戻った。
 家に着くとちょうど玄関から出ようとしていたおばちゃんとお母さん達がいた。
 ――おや、はやかったねえ、とおばちゃんが言って、もうみんな上がったのかい、って聞かれた。
 僕は、今ナッちゃん達が入ってるって言って家に入った。
 ――家の中は蚊取り線香のにおいがいっぱいだった。
 お父さんはテレビの野球中継を見ている。
 僕を見て――おっちゃんが立ち上がって、ケン坊、いいもの見せてやろうか、って言った。
 なんだろう、いいものって――僕はおっちゃんの後に付いて、一番奥の部屋に行った。
 おっちゃんがたんすの上に置いてあった箱を持ってきて――たたみの上にそっと置いた。
 プラモデルだ。
 箱には自動車の絵が描いてある。
 ――スカイラインGT−Rっていう車みたいだ。
 おっちゃんは箱をあけて中を見せてくれた――まだつくりかけみたいだ。
 車体も座席もタイヤも、箱の中のしきりに入ったままだ。
 ケン坊は車好きかって――おっちゃんが言う。
 うん――僕は答えた。おっちゃんほどではないけれども……
 そうか、でもこのプラモデルはまだちょっとケン坊にはむずかしいな――って言った。
 僕もそう思った。僕が作ったことのあるプラモデルとはぜんぜんちがう。部品がいっぱいでむずかしそうだった。
 エンジンまでちゃんとついてるし、ドアも内張りつきだ。
 たぶん――モーターライズ――じゃないやつなんだ、と思った。
 きっとすごく高いんだろう――おもちゃだけど、大人向けだな、と思った。
 おっちゃんは窓ぎわでたばこを吸っている、キセルっていうヤツだ。
 なんだかテレビの時代劇みたいだな、と思った。
 夢中でプラモデルを見ていたら――お母さん達が帰ってきて、すぐごはんにしますよ――と言った。
 縁側の部屋に行くと足が折りたたみのテーブルが出してあってごはんの用意をしてるところだった。
 ――ごはんを食べながら僕はナッちゃんのことを聞いてみた。
 おばちゃん達が着いたときもまだナッちゃん達はおふろに入っていたらしい。
 プール風呂のことでおこられるかなあと思っていたんだけど――なんにも言われなかった。
 
 きょうは蚊が多いから蚊帳を吊るしてあげようって、おっちゃんが言った。
 僕の家には蚊帳はないけど、こういう田舎の大きい家で何回か蚊帳にはいってねたのをおぼえてる。
 僕たち家族の布団をひいた上に、押入からたたんだ蚊帳をだしてきてそれを広げて部屋の柱にひもで引っ張りながら吊る。
 キャンプのテントみたいでおもしろい。中はちょっと暑いんだけど。
 おっちゃんがたのんでもいないのに蚊帳の入り方を説明してくれる。
 よくみてなさい、と言って、実演してくれた。
 うちわでばたばたってやってから蚊帳のはしをもってばたばたってやってそれから少しだけすきまをあけてすばやく入る。おわり。
 これくらい気をつかわないとだめなんなんだそうだ。
 蚊帳の中に蚊が入ることほどはらのたつことはないんだって。
 そういうもんかなあ…… 
 僕もなんでも自分でやらなくちゃいけない大人になったらそう思うのかもしれない……
 電気けすぞ、とお父さんが言った。でも蚊帳の中からだとなかなか電気のスイッチのひもがつかめなくていらいらしてる。
 やっと電気がきえて僕もふとんにねころがった。
 半分開けっぱなしの雨戸のすきまから家の外が見える。
 電気がついてるときは外はまっくらなのに、部屋がまっくらになるとなぜだか外が明るく見える。
 なんでだろう、不思議だなあ……
 そんなことを考えながら……目をつむった。

 目がさめるともう朝だった。いつのまにか雨戸も全部開いている。
 朝のあいだの涼しいうちに宿題やりなさいと言われたので、夏休みの友を開いてみた。
 答えのらんはほとんど真っ白だ。
 焼け石に水だな、って思った。
 とんで火にいる夏の虫だったかな。
 ――お昼を食べ終わってしばらくするとおっちゃんが釣り道具を車につみこんでいた。
 僕がそばに行くと、ケン坊のサオもちゃんとあるからな、って言った。
 僕がどこに行くのか聞いたら、富田川の河口だよ、って言った。
 僕は釣りなんて釣りぼりでしかしたことなかったけど……おっちゃんやキクちゃんがやってそんなに楽しいのならきっと楽しいんだろうって思った。
 しばらくするとキクちゃんがやってきた。ナッちゃんもいっしょだ。ユキちゃんはやっぱりおるすばんみたいだ。
 キクちゃんはおっちゃんにこんにちわってあいさつして、釣り道具を車のトランクにつんでいる。
 僕もキクちゃんとナッちゃんにこんにちわって言ってから車に乗った。
 キクちゃんが前に乗って、僕とナッちゃんが後ろの席にすわる。
 おっちゃんは、おばちゃんに、夕方までには帰るからって言ってから運転席に乗りこんだ。
 車は堤防沿いの道を走ってまた大きな橋をわたって、踏切をこえたところで――そこでおっちゃんが、ほら海が見えたって言った。
 僕は車の窓ごしに見える景色をじっと見てみたけれど空しか見えていないと思った。
 でもじっと見ていたら空の真ん中ぐらいにうすく線が見えてそれが海なんだってわかった。
 あんなに高いところに海の水があるのがすごく不思議だ……そう見えるだけなんだろうけど。
 夜の道を歩いてるとお月様がずっとついてくるんだけど、それとおんなじなんだろう……
 となりにすわってるナッちゃんを見ると、外の景色はあんまり見ないで麦わらぼうしをひざにのせてじっとすわってる。
 僕みたいに車に乗るのがめずらしくないんだろうなって思った。
 きっと僕みたいに電車に乗ったら靴を脱いで窓のほうを向いてすわったりしないんだろう。
 ナッちゃんがポッケから小さいチョコバーを出して僕に見せた。
 フルタ、セコイヤチョコレートみたいだ。
 これ知ってる、けっこうおいしい。
 チロルチョコは十円だけどこれは三十円する。
 中はほとんどウエハースなんだけど。
 食べる? って聞かれたから、僕はうんって答えた。
 ナッちゃんは包み紙のままで半分に折って――大きいほうを僕にくれた。
 僕が妹とお菓子を半分こするときは小さい方をわたしちゃうんだけど……
 チョコバーはちょっと溶けてたけど、僕は包み紙を持ってちょっとずつ食べていった。
 でもナッちゃんは半分にしたチョコバーをぽいっと口に入れて――ひとくちで食べた。
 ナッちゃんはユキちゃんと半分こするときも大きいほうをユキちゃんにあげてるんだろうな、と思った。

 ――車は堤防のところまでくると、海の近くの砂地のところまでいって止まった。
 ついたみたいだ。
 車をおりると、堤防の向こうがわは砂浜で、その先に青い海が見えた。
 海と空のさかいめが、さっき車の中で見たときよりずいぶん下の方にあるなあ、って思った。
 そうみえるだけかも知れないけれど……
 僕たちは堤防を浜のほうにおりて、右がわに海を見ながら川のほとりまでやってきた。
 川は水が少なくてどっちに流れているのかよくわからないほどだった。
 でも右のほうを見るとすぐに海に流れこんでいて、大きな岩が川の出口にごろごろしてるのが見えた。
 ちょっとこわいな、と思った。
 おっちゃんはクーラーからエサをとりだしておだんごみたいなねりエサを作っている。
 それからエサを付けたサオを投げてみせて、僕に――こうやるんだぞと教えてくれた。
 リールのはしっこを親指で押さえるのがなんだかむずかしかった。
 おっちゃんとキクちゃんはそれぞれサオを振って川のずいぶん遠くまで投げ込んでたけど、僕はなかなか遠くまでとどかなかった。
 エサは時間がたつとなくなっちゃうからすぐにリールをぐるぐる回してたぐりよせないといけない。
 なんかすごくたいへんだ。
 おっちゃんとキクちゃんのサオについてるリールと僕のサオについてるリールとはちがうやつみたいだ。
 僕のリールは木でできていて、大きくて何回もぐるぐる回さないと糸が巻けないのに、おっちゃん達のは小さいのにあんまりぐるぐる回さなくてもすごいいきおいで糸が巻かれていく。
 なんとなく不公平だなって気がした。
 それでもエサがなくなるころにおっちゃんがきて巻きもどした針にエサをつけてくれた。
 ナッちゃんはなにしてるのかなって見ると、川の岸にすわって足を水につけてぱちゃぱちゃしていた。サンダルは横にそろえておいてある。
 なんだかつまらなさそうだ……
 魚はなかなか釣れなかった。ときどきおっちゃんが小さい魚を釣りあげたけど、すぐ針をはずして川になげこんでいた。
 小さすぎみたいだ。キクちゃんもおんなじようなかんじだった。
 僕のほうは小さい魚もかかることもなくて、ちょっとあきてきた。親指も痛いし……
 おっちゃんが何回目かのエサをつけなおしをするときに指が痛いって言ったら、わらいながら――ケン坊にタイコはむずかしかったかなって言った。
 きょうはあんまりつれないねって言ったら――ナツと浜のほうにでもいって遊んでおいでって言った。
 ナッちゃんがたいくつそうにしてるのを見たからかもしれないんだけど……
 おっちゃんがナッちゃんのところにいってナッちゃんが川につけていた足をタオルでふいてあがってきた。
 ナッちゃんは麦わらぼうしをかぶりなおしてから僕に――いこ、って言って浜のほうへ歩き出した。
 ナッちゃんはうれしそうだ――だいぶひまだったんだろうなって思った。
 砂地に入ると足がとられて歩きにくかった……砂がすごく熱い。
 ナッちゃんはやっぱり歩くのが速かった――歩きにくい砂地でもすいすい進んでく。
 僕はやっぱりナッちゃんにおいていかれそうになりながら、いっしょうけんめいに歩いた。
 小さい砂の丘を越えて、心臓がどきどきしだしたころにやっと波がざんぶりしてる砂浜についた。
 ナッちゃんはサンダルをぬいで、砂地においた麦わらぼうしが風で飛ばされないようにその上においた。
 それからスカートをかた方で結んで――ちょっと短くしてから、走って波うちぎわに入っていった。
 僕は半ズボンだったから靴だけぬいで――おそるそる波うちぎわまで進んでいった。
 波がひんやりしてきもちいい。
 波が引くとこんどは足下の砂がけずれていって、くすぐったくてきもちよかった。
 ナッちゃんは一人で波とおいかけっこしている。
 波がひいたら白いあわだけがのこってる砂浜のおくまで進んで……波がきたら――きゃって言って、飛びはねるみたいにもどってくる。
 僕は時々くる大きな波から逃げおくれてズボンがちょっとぬれちゃったりした。
 すこしぐらいぬれてたってすぐかわくから、へいきなんだけど。

 ――急に僕の横にポトってなにか落ちてきて、よくみると……セミだった。
 落ちてそのまま動かなくなった。飛んでいる間に力つきちゃたんだろうか……
 僕はちょっと気持ち悪かったから靴のおいてあるところまでもどってきた。
 ナッちゃんはまだ波とおいかけっこしてる。
 波しぶきがとびはねてきらきら光っていた。
 ――きれいだなって思った。
 テレビでこんな場面を見たことある気がした。
 波うちぎわで遊んでる男の子と女の子。
 追いかけっことかしてたような気がする。
 なんの番組だったかはおぼえてはいないけれど…… 
 ナッちゃんは僕が靴をはいてるのに気がつくとこっちにもどってきた。
 顔の汗が光ってやっぱりきらきらしてた。
 ナッちゃんはおでこの汗をうででぬぐいながら、サンダルをひっかける。
 ほっぺたもちょっと赤くなっているみたいだ。
 僕がかけっこのことをナッちゃんに言ってみたら――ナッちゃんはうん、しよ、って言った。
 落ちてた棒でゴールラインを引いてから五十メートルくらいはなれたところまで歩いてスタートラインを引く。
 ナッちゃんも僕もはだしになった。
 二人ならんでスタート位置につく。
 なんだかすごくどきどきする。
 よーい、どん! で僕たちはきれいにスタートした。
 砂の地面をけって、けって、けって、はしって、はしって、はしって、はしった。
 半分もいかないうちにナッちゃんが僕の前に出る。
 僕は思いきり砂をけったけれど、砂の地面はすごくたよりなくて後ろからひっぱられているみたいに足がすべる。
 だけどナッちゃんのほうは体に重さが無いみたいに――まるでジャンプしてるみたいに速い。
 風が強い――体も熱い――空気がかべみたいだ――両手がグローブになった気がする。
 その手で僕は熱い空気を――まるでプールでおよいでる時みたいにおもいきりひっかきながら走った。
 だけど――ナッちゃんに追いつかない――さっきよりもはなされてるみたいだ。
 もうゴールまで半分もない。
 ――前を走ってるナッちゃんがちらっとふりかえったような気がした。
 僕は目をつむって前にたおれそうなぐらい体をたおして――全身で砂を思い切りけった。
 目を開けると――すぐそこにゴールラインが見えた――そして僕はゴールインして……
 あれ? ナッちゃんは? ナッちゃんは――後ろにいた。
 ……勝った?
 やったあ――と、ハアハアしながら僕は言った。
 ナッちゃんはそんな僕を見て――にっこりしながら――言った。
 ――まけちゃった―― 
 僕はちょっとふしぎだったけどもナッちゃんに勝てて――よかった、と思った。
 
 おーいって声がしておっちゃんが遠くで呼んでいる。もう帰る時間がきたみたいだ。
 魚はやっぱりあんまりつれなかったみたいでクーラーの中は空っぽだった。
 おっちゃんは、こういう日もあるなんて笑って言ってた。
 帰りはキクちゃんとナッちゃんを家まで先に送ってから帰ることになった。
 キクちゃん達の家に着くと、おっちゃんは――ちょっとあいさつしていこうか、って言ってキクちゃん達の家の前に車を止めた。
 家はおっちゃんの家ほど大きくもなくて、庭も小さかった。物干し竿にかかった洗濯物が風にゆれていた。
 キクちゃん達のお母さんが出てきておっちゃんにあいさつしてる。お父さんはいないみたいだった。
 おっちゃんは台所のテーブルにすわってお茶をもらっていた。キクちゃんは釣り道具の後かたづけをしてる。
 おばさんは冷蔵庫からカルピスを出して僕たちに作ってくれた。
 ナッちゃんがお盆を出してきて子ども部屋まで運んでいく。
 子ども部屋は三人で一つの部屋みたいだった。
 壁にキクちゃんが書いた絵や、ナッちゃんが書いた習字が貼ってあった。
 勉強机が二つ並んでいて、手前のちょっと低い方がナッちゃんの机みたいだ。
 どっちもきれいに片づいている。なんとなく――僕も帰ったら机をかたづけようって思った。
 ナッちゃんは畳の上にお盆をおいて、はい、って言って僕にカルピスを手渡してくれた。
 カルピスを飲むと――なんか薄かった。
 ビンに書いてあるみたいに五倍に薄めてもちょっと薄いかなと思う僕のせいもあるんだろうけど、それにしてもこれはちょっと薄すぎるなあって思った。
 でもナッちゃんはおいしそうに飲んでいるから、いつもこんなもんなんだろう。
 お盆の上にはお菓子も小皿にのせてあったけど、それはかりんとうみたいなお菓子であんまり好きじゃなかったから手をつけなかった。
 ナッちゃんも食べてないから、ナッちゃんもあんまり好きじゃないんだなって思った。チョコレートほど……

 ナッちゃんは髪の毛をとめてた飾りの付いたゴムひもをはずして、机の上においてあった小箱のふたをあけて、そこに入れた。
 箱は――鏡ばりになっているみたいなきれいな箱で、ふちどりが金色でぴかぴかしていた。
 ふたをあけるとオルゴールが鳴った。物入れの左側は鏡になってる。
 なんだかこの曲は聞いたことがある。お母さんがもってるオルゴールと同じ曲だ。
 たしか――"おとめのいのり" って教わった気がする。
 オルゴールはねじを巻いてなかったみたいで、すぐ止まってしまった。
 僕がじっと見ていたから、ナッちゃんは箱のねじをきちきちいわせていっぱいまで巻いてくれた。
 それから、小物入れに入ってた小さな人形を――左側の鏡の上にのせた。
 バレリーナの人形だ。
 人形はオルゴールの音楽に合わせてすごいいきおいで回転しながら鏡の上を動いていく。
 白いスカートがひらひらしながらひろがって、頭の上にあげた片手がドリルみたいに見えた。
 ねじがゆるんで曲がおそくなってくると、人形もときどき回転を止めたりして――じっとみているとほんとのバレリーナみたいに見えてきた。
 ナッちゃんのほうを見ると、ナッちゃんもじっとバレリーナが回転するのを見ている。
 いつも細いナッちゃんの目がすごく大きくみえて不思議な感じがした。
 僕は人形の足にはきっと磁石がついているんだろうな、と思ったけど、なんで回転するんだろうと不思議でしょうがなかった。
 もし、うちにこれがあったらすぐばらばらにしちゃうだろうなあ、と思った。
 でもこの箱はきっとナッちゃんの大事なものなんだ。バラバラにするわけにはいかないなあ、って思った。
 ねじがおわると、おとめのいのりもきれぎれになって、バレリーナも動かなくなった。
 ナッちゃんは人形をもとの小物入れにしまうと――ぱたん、とふたを閉じた。


 ふと気がつくとだいぶ日が傾いている。
 あれからナッちゃんとは一度も会わずじまいになってしまった。
 おそらくもうこの紀伊富田にも住んではいないだろう。
 どこかで良いお母さんになっているに違いない。
 ナッちゃんがあの時、わざとかけっこで負けてくれたのかな、と気がついたのはだいぶ後になってからのことだった。
 しかしよく考えてみれば九歳の子どもがそんな気遣いをするだろうか……
 案外本当に追い抜いただけだったのかも知れない。
 どちらにしてもそれは永遠の謎となってしまった。
 今となっては確かめるすべも無いのだから……
 
 かすかなエンジン音が堤防の向こう側から聞こえたような気がした。
 しばらくすると堤防のコンクリートの階段を踏みしめる音がしてそちらに視線を走らせると、そこには一人の女性の姿があった。
 彼女のほうも人がいることを予想していなかったとみえて、階段の途中で足を止め、階段脇のテトラポットにすわっている私のほうに視線を落とす。
 逆光で表情はよく見えなかったが、競泳用ウエットスーツに身を包んだその女性はがっしりとした肩、たくましい太腿をしていた。
 手には水泳用の水中眼鏡を持っている。
 こちらを見て少し驚いたそぶりを見せはしたものの、それ以上はかまわずにずんずんと階段を降りてくる。
 立ち上がった私の横を通り過ぎる時――彼女が一瞬こちらを見たような気がした。
 そしてその目には、どこかで見覚えがあるような気もした。
 しかしそれきり彼女は振り返ることもなく、真っ直ぐ海のほうに歩を進めていく。
 そのまま海に入って行き、腰のあたりまで浸かったところで――ついっと体を沈め、まるでリリースされた魚のように海原に向かって泳ぎだしていった。
 
 ――おわり――
 
 
 

陣家
2011年10月06日(木) 09時08分56秒 公開
■この作品の著作権は陣家さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
おやじホイホイ第三弾です。
ご当地っぽいものを書こうかと思ったんですが、居住地でも生誕地でも無いんで、まあ心のふるさと的な感じです。
今回はわりと薄味仕立てで、毒気の少ない作品にできたと思います。
マニアックではあると思いますが……
それほど長編では無いですが、今までで一番時間が掛かりました。
これほど苦しんで書いたのは初めてかもしれないです。
一言なりとも感想をいただければ幸いです。

この作品の感想をお寄せください。
No.10  陣家  評価:--点  ■2011-10-12 20:36  ID:1fwNzkM.QkM
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楠山さん、感想いただきありがとうございます。

楠山さんってすごくお若い方だと思うんですが、よくご存じですね。
自分もある程度想像で書いてる部分もあるので、ちょっとリアリティに欠ける部分があるのも不思議では無いと思います。
ナッちゃんはひょっとすると母子家庭だったかもしれません。
しっかり者のキクちゃんはお父さんがわりな気もしますし。

あせもについては、アレルギーについての研究が進んでいなかった少し前までは子どもの皮膚炎はあせもと看過されていることが多かったように思います。
今だと、すぐにアトピーということになるんでしょうけど。

今回は、9歳の一人称で語彙と漢字を使う。セリフも一人語りのフィルターを通して表現する。
という、無意味で無謀な縛りを課してしまったために、めちゃくちゃ苦労しました。
三人称視点で、普通にセリフを使ったほうが無難に仕上がったかもしれなかったですね。

この形にした本来のねらいは、ナッちゃんの淡い輪郭をティーザー的に表現できたらなあ、というもくろみでした。
ただし、メリットとしては、いたずらにマニアックな蘊蓄解説に陥らずにすむ、ということと、方言に頼らなくてすむ、という思わぬおまけがあったようです。

気動車については、作中で電車としているのも、主人公の少年視点で語らせている都合上、列車=電車という知識しかないための表現でした。

ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。
No.9  陣家  評価:--点  ■2011-10-12 20:12  ID:1fwNzkM.QkM
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zooeyさん、読んでくださりありがとうございました。

本作はフィクションですが、登場人物はすべてほぼ実在の人物をモデルにしました。
ただ、ナッちゃんとかけっこした件だけは実際の思い出を描写しました。
そう言う意味で言うと、これはエッセイ小説に分類されるのでしょうね。
ナッちゃんとかけっこしたのは、多分小学4年生の時で、最初は小4の設定にしていたのですが、ナッちゃんの大人度をより際だたせようとちょっとサバ読ませました。
ここはすごく悩んだんですよねえ。9歳と10歳ってすごくイメージ変わりますから。10歳って女の子だと早い人は初潮迎えちゃう年齢なんで、肉体的にも、男の子と一気に差が開く年頃だと思うんですよ。だから、これくらい普通かもしれないなあと。
でも、やっぱり自分のイメージの中でも背の高いナッちゃんは10〜11歳くらいのイメージで頭の中にあるのが、ホントのとこですね。
そのへんを見透かすzooeyさんはさすがだなあと。

zooeyさんにわざわざインタビューに答えてもらっておきながら、この有様で申し訳ないです。
ただ、男の子はこの歳でも女の子のことは結構意識してるものですよ。それだけは憶えてたりします。恵子ちゃんの顔は憶えてませんけど。
あ、オルゴールはやっぱりバレリーナのほうにしちゃいました。すいません。

また貴重なご意見いただければありがたいです。
ありがとうございました。
No.8  楠山歳幸  評価:30点  ■2011-10-11 23:27  ID:3.rK8dssdKA
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 読ませていただきました。

 文体と言うのでしょうか、僕もらいと様の仰る通りノスタルジックな雰囲気が良かったです。蚊帳や温泉など、大阪の子供の田舎への物珍しさみたいな感じも面白かったです。マニアックさ、若い方にはややむずかしいかな、とも思いましたが、よう覚えてはるなあ、と関心しながら笑わせていただきました。
 ナッちゃんは気の利く子と薄いカルピスの所で母子家庭なのかな、と思いました。あるいは(差別的だったらすみません)都会との生活水準の差かな(昔和歌山の方に聞いたのですが、中紀では10年南紀では20年遅れていたそうです)、と思いました。もしそうだったらもう少し何か欲しいかな、でも雰囲気が変わってしまいそうで僕も分からないです。聞き流してやってください。

 >右うでのあせもをぽりっと掻いた。
 >クラスにはナッちゃんに似てる女子はいないな、と思った。
 ここが現地の女の子を思わせて良かったです。

 欲を言わせていただければ、本当に欲を言わせていただければ、少し和歌山弁をとか、当時の特急車両はボンネットの気動車で天王寺駅構内に七輪で湯を沸かせた屋台のうどん屋があって……、いえ、蛇足でした。申し訳ありません。

 変な感想、失礼しました。
No.7  zooey  評価:40点  ■2011-10-11 22:10  ID:1SHiiT1PETY
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こんばんは、読ませていただきました。

他の方も、もう皆さん書かれてますが、郷愁をじんわりと感じさせてくれる作品でした。
冒頭にある現在の描写から、既に田舎のゆるりとした雰囲気が伝わってきて、
その後に綴られる物語に引き込んでくれますね。
田舎の夏の様子が、節々からとても良く伝わってきます。
人物描写も素朴な感じが田舎らしくていいなあと思いました。
ひと夏の思い出が、なんとなくほろ苦いちょっと早めの青春として、主人公の中に残っていたんだなあと思いました。

が、気になったのはやはり年齢でしょうか。
青春するには小3はやはり早すぎるかなと。
小3って、まだ周りのことにそんなに注意を払えない年齢だと思うんですよね。
それが、周りの大人であれ、同年代の子であれ。
だから、大人たちをある程度冷静に見つめている主人公は、小3としてはかなり早熟に思えたし、
女の子を自分とは別物として、意識するのも、もう少し先のような気がします。
小3は、周りが別物扱いするから別物だと思っているだけで、実際はそんなに意識していない年齢だと思います。
さらに、その主人公よりも大人なナっちゃんは、明らかに小3ではないなと。

ただ、それは設定を小3にしたからであって、
たとえばこれが小5とかそのくらいだったら、非常にリアリティのある内容だったと思います。

年齢のことがなければ50点かなと思いましたが、
最近辛口批評の決意をしたので40点で。

でも、とても良かったです。
No.6  陣家  評価:--点  ■2011-10-09 03:37  ID:1fwNzkM.QkM
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STAYFREEさん、感想いただきありがとうございます。

緊張なんてとんでもないですよ。
私なんて、いつも気分の赴くままに絨毯爆撃のごとく好き勝手な感想書き込みしていますからね。
ここぞとばかりに反撃していただかないと作品を掲載した意味がありませんよ。

なるほど、内容が物足りないとお感じになりましたか、これだけの文書量を使っておきながらそう思われるというのはやはり大問題ですよね。
自分的にはもっと短くしたかったんですが、ついつい余計なことをだらだら書いてしまって肝心のテーマやメッセージ性が薄れてしまっているなあと思っています。
自作の解説を返信欄に書き込むのは見苦しいので控えますが、実際失敗だったなあと、ここまで頂いた感想を見るにつけ思い知らされております。

ありがとうございました。またよろしくお願いします。
No.5  STAYFREE  評価:30点  ■2011-10-09 01:41  ID:eM8nTjX2ERc
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拝読させていただきました。なんだか陣家さんの作品に感想を書くのはちょっと緊張します。
的外れな感想を書いてしまったら、お恥ずかしいです。ご容赦ください。
作者からのメッセージに薄味仕立てとありましたが、しっかりとダシが効いていて、心にじわーっと郷愁を感じる作品でした。
カルピスの濃さは家によって違いましたよね。自分は濃い目が好きでしたが、母親が作ってくれたのはちょっと薄めでした。
きっと、この作品を読んだ人は途中に出てくる多くのエピソードを自分の過去に当てはめて、懐かしく感じていると思います。
ただ、もっとこの先が読みたいなあと思いました。コース料理でいえばオードブルの様な感じでしょうか。とても栄養があって美味しかったのですが、これで食事が終わってしまっては少し寂しい感じがします。
一読者としての純粋な感想を書かせていただきました。あまり参考にならない感想ですいません。私自身、感想を書くことについてもまだまだ技量不足なのでお許しください。


No.4  陣家  評価:--点  ■2011-10-07 22:12  ID:1fwNzkM.QkM
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Phys さん感想ありがとうございます。

う、これは……
Physさん秘技、褒め殺しですね。
ありがとうございます。
おそらく女性読者さまにいただいた は じ め て の褒め言葉かも知れません。
これだけで苦労が報われた気がします。
最初で最後になりそうですけど……

自分的にはこの作品、記述や文体、作劇の貧弱さをノスタルジックなアイテムの物珍しさでカバーしてなんとか読了に耐えるものにしているだけだと思っています。
どんな日常的で、平穏な世界を描いたものであっても、そこにサスペンスや緊張感を持たせることは可能であって、それがあって初めて作品の価値がある物なのは分かっているつもりです。
本作で言えば、例えばかけっこのシーンをもっと前の回想シーン冒頭に持ってくるとか、テクニックはあったと思います。
それができなかったのは、作者の力量不足としか言いようがありません。

そしてこの三十枚前後という分量、これはなにも考えないでも世界観を展開できる最低の分量ではないかと思われます。
これより短くなればなるほど難易度は飛躍的にアップしていくかと。それができなかったのも描写能力の低さゆえです。
自分にはまだまだ掌編を書くレベルに達していないことをあらためて自覚しました。
いつか四、五枚程度で、鑑賞に堪えるような作品を書いてみたいという希望はあります。
当面の課題と言ってもいいかもしれません。

しかしながら、Phys さんのスイーツなレビューはあまりにも麻薬的です。
もうPNを陣屋にこっそり変更しておこうかなとさえ思います。
自分を見失わないように水ごりでもしようかという気分になるほどでした。

>ゆーみんさんの歌も、聴いてます。
いやあ、なんかうれしいです、自分が良いと思う物を好きになってもらえるってのはホント胸熱ですよねえ。

はっ! ブルんっブルんっ……
失礼しました。

丁寧な感想、ありがとうございました。
No.3  陣家  評価:--点  ■2011-10-07 21:06  ID:1fwNzkM.QkM
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らいとさん感想ありがとうございます。

本作は自分の記述スキルの向上を求めて、今までに使ったことのない文体をあえて使いました。
らいとさんへの好感触についてはある程度予想していましたが、予想以上だったようで恐縮です。
それにしても時間かかりました、プロットもエピソードもごく単純にして、描写だけに注力できるようにしたつもりだったんですが、それでも七転八倒でした。
特にかけっこのシーンは何度書き直したか分からない程です。
それでも、やっぱり納得いってません。読み返すたびに書き直してしまいます。
あまりにもきりがないので、最後は見切り発車ぎみに諦めました。
力量不足をつくづく実感しています。

この文体で文庫本三冊…… 気が遠くなります。
もし本当にやったら、もうそれしか書けなくなるでしょうね。
ちびまるこちゃんみたいに……

ともあれ、らいとさんに高評価いただき、苦労の甲斐はあったようで幸いであります。
今後も今回のらいとさんの激励を無駄にしないようにいたします。
ありがとうございました。
No.2  Phys  評価:40点  ■2011-10-07 22:48  ID:U.qqwpv.0to
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追記

誤変換してました……。このPC(というか私?)、ダメですね。もう。
『陣家』さんで辞書登録しなきゃ、です。

>スイーツなレビュー
笑。
媚びているわけではないので、今後も機会があれば厳しい批判・指摘を頂ければ
幸いです。まだまだ陣家さんたちのレベルに到達するには遠いですが、私も、
もっとお話作りがうまくなりたいと考えています。

お名前、たまに間違えるかもしれないですが……。失礼しました。


拝読しました。

おやじほいほい、引っかかりました。おやじさんじゃないですけど……。笑
たぶん、陣屋さんの作品を読ませて頂くのは初めてです。ですから、感想を
書くのも初めてではないかと思います。

もう、とにかく良かったです。

リーダビリティという点で言えば、ここ最近で読ませて頂いたTC内の作品の
中でも、群を抜いていると感じました。印象的な表現や描写が、そこかしこに
散らされていて、文章が確かに息づいている、と思える言葉のならびでした。

本作で特にいいな、と思ったのは、節の締め方です。

>僕のすきな恵子ちゃんとはだいぶちがう感じだな、と思った。
>クラスにはナッちゃんに似てる女子はいないな、と思った。

こういった、何気なくさらりと書いているようで、かなり鍛錬を積まなければ
獲得できない呼吸というか、文章のリズムが、とても魅力的でした。真似でき
ないですけど、とても憧れます。漢字とひらがなのバランスも、その実緻密に
計算されていると感じました。

それから、らいとさんが仰っているように、私もノスタルジックな雰囲気には
やられました。私事ながら、今日は会社でちょっと嫌なことがあったので、
本作はそんな鬱々とした私の気分によく効くお薬でした。
陣屋さんは、薬局でもあったのですね。(なんのことやら、です。笑)

なんでも自分でやらなくちゃいけない大人、の私は、苦しくても頑張らないと
いけないな、と思いました。そして、かけっこをしたときには、負けちゃった
と素直に笑える人でありたいです。

とっても穏やかな気持ちで読み終えられた作品ですが、私はもう少し高血圧な
お話(つまりは展開がどかーん、ずどーんみたいなやつです)が好きなので、
満点は付けませんでした。(単なる好みの問題なので、聞き流して下さい)
叙述の流れとしては、文句なしで理想形でした。

拙い感想申し訳ありません。ゆーみんさんの歌も、聴いてます。
また、読ませてください。
No.1  らいと  評価:50点  ■2011-10-06 19:02  ID:sAatbHKtSqg
PASS 編集 削除
拝読させて頂きました。
おやじホイホイにひっかかりましたね。
ノスタルジックな作品にやられました。
でも文体が以前と変わってますね。
この文体が実直な感じがして余計に感傷的でとてもいいなーと思いました。
できればシリーズ化してもらって、三冊ぐらい愛蔵版にしたい小説だなと思いました。
拙い感想失礼しました。
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