Keep running!!
 高校になって二回目の二学期が始まった。入学した時にあこがれた綺麗な校舎も、正直もう慣れた光景で、わたしはまた学校が始まるのかと憂鬱な気分になる。
「はあ〜〜〜〜〜」
 1人、校門を前にしてわたしは大きくため息をつく。
「な〜〜〜にため息ついちゃってんのよ、蒼らしくない」
 背中に強い衝撃、わたしは少しよろめきながらバランスをとろうとする。
 後ろを見て確かめる必要はない。99%愛華だろう。
「宿題終わってないとかそういうことでしょ」
 ケラケラと明るい笑い声が耳元で響く。やっぱり愛華だった、早朝いきなりのことにわたしは再びため息をつく。
「それこそわたしらしくないでしょ」
「確かにそうかも」
 そう言いながら愛華はニコニコし続ける。……何がそんなに楽しいのか理解に苦しむなあ。
「また、学校始まっちゃうなあって……勉強とか嫌でしょ」
「勉強できるくせに〜〜〜持つ者の豪華な悩みですなあ」
 ぶう〜と愛華は頬を膨らます。確かにわたしは成績は比較的良いほうだが、愛華だって悪いわけじゃないはずだ。
 わたしたちの通っている学校は地方では有名な私立高校で、毎年難関大学に何人もの合格者を出している。
 私立というのもあって、いつも校門には警備員が立っていた。不審者対策ってやつなんだろうと思う。
 わたしたちは警備員にあいさつして校門をくぐる。もっとも、わたしは会釈。愛華は大きな声で手を振って、なんて大きな差はあったけれども。
 わたしと愛華は正反対の性格をしてるなあ、なんて考えさせられる時は毎日のようにあった。同時になんで愛華がわたしに話しかけてくるんだろうという疑問もわくことも多かった。
 愛華はいつも明るくて、マンガみたいに『クラスの人気者』とまではいかずとも、彼女の周りには必ず誰かがいた。それに対してわたしは、おとなしいほうで基本的には1人でいることが多い。
 別に1人でいることがさびしいとかそう言うわけではなく、ただ、周りの人との波長が合わなかった。どこか冷めていて──みんなでいうところの朝起きた時のテンションがずっと続いてる感じ。もちろんテンションがあがる時もあるし、笑う時もあるから友達がいないわけじゃない。
 だけど、そんな友達とも少し波長が違う。話はするけど、一歩距離がみんなよりも長い。そんな気がした。
「ねえ、始業式終わったら部活あるの知ってた?」
 わたしたちは2人とも陸上部に所属していた。友達だったから一緒な部活に入ったのではなく、部活に入った後わたし達は知りあった。
「そうなの?知らなかったけど……急になんで?」
「九月に記録会があるからだって〜〜。無茶だよね、こんな学校でスポーツなんかで上目指しても勝てっこないのに」
 公立の高校でこんなこと言ったら部活にいそしんでいる人は絶対に怒るだろう。だけど、そんな愛華の愚痴もこの学校では許された。
 理由は簡単で、この学校では部活に力を入れている人はほとんどいないからだ。全員がこれから先、勉強をして、有名な大学に入って、良い就職先に就こうと必死だ。
 スポーツも出来て勉強も出来る。全国で有名な高校はそうなんだろうけど、所詮地方の有名高校ではこの程度が限界のようだった。
 だから、ほとんどの人は部活を気分転換程度にしか考えていない。わたしもその点においてはみんなと同じで、ただ単に中学の時、陸上部に入っていたのと少しだけ人より足が速かったのが入部理由だった。
 別にインターハイ出場とか、更なる高みへ、みたいな目標を持っているわけでもない。むしろ、受験を本格的に考えなければいけない今となっては辞めるべきなのかもしれない。
「蒼はどの種目出る予定?やっぱり1500?」
 私と同じように考える人はやはり多いようで、この時期に部活をやめる人は多い。そのせいで部員はどこの部活でも減ってしまい、陸上部では希望すればほとんどの人が大会に出る事ができるし、どの種目にでも出てもいいというのが暗黙の了解になっていた。
 ちなみに1500というのは1500mを走りきる中距離の種目で、わたしは長・中距離の選手だった。
「たぶん1500と5000かな。1500だけがいいけど、どうせ人数も少ないから監督に出させられると思うし。愛華は?」
「100と200と4継かな。たぶん4継は1走だと思う」
 それに対して愛華は短距離の選手だ。ここまでもわたしとは反対なのかと笑えてくる。ちなみに100と200はわかるだろうが4継とは4×100mのリレーだ。4人で継ぐリレー、略して4継と呼ばれている。
「そっか、がんばって」
「そっちもね!!」
 そう言ってわたしたちは廊下で別れる。愛華の教室に着いたからだ。愛華は三組、わたしは一組だ。階段から近いのは三組の教室で、愛華が先に教室に入ることになる。
 三組の開きっぱなしの扉の近くで愛華と数人の友達が笑いながら話し合っている。背中越しだったので愛華の表情は見えなかったが、その友達の表情はとても楽しそうでちらりとわたしを邪魔そうに見た後、ふたたび愛華と笑いあっていた。
 そんな光景を見た後、わたしは自分のクラスへと足を運ぶ。どうやら、やはりわたしは少しほかの人よりも冷めているらしい。
──そんなつもりはないのになあ。心の中でだけ少し愚痴を言っておく。
 思っていた以上に長く話をしていたみたいだ。わたしが教室に入ると同時に、チャイムが鳴った。

 始業式はいつもどおり校長先生の話が半分以上を占めてしまい、先生達は必要事項だけを言うと終わってしまった。
 今日の学校は昼までで終わり、いつもどおりならもう家に帰るはずだったが、愛華が教えてくれた通り部活があった。近くのコンビニで昼食を済ませたあとわたしは運動用の服に着替えて、片手にスパイクを持ってグラウンドに出る。
「熱い……」
 『暑い』じゃなくて『熱い』と言い表したくなるぐらいの気候だった。
 私立らしく無駄なところにお金をかけているようで、靴箱近くにある更衣室からグラウンドまではアスファルトになっていて、特にそのアスファルト部分はやけどするんじゃないかってぐらい熱かった。
 わたしたち陸上部はいつもそのアスファルト部分を中心に活動している。さっきも言ったようにここは部活に力を入れていない学校なので、サッカー部程度にしかちゃんとした部室はない。
 いつも集まっている場所にはすでに何人か来ていたようで、ストレッチを始めていた。もっとも、みんな話しているのが中心で、ストレッチはおざなりだったが。
 そんな中、一人真剣にストレッチしている男子に目が留まる。彼は誰と話すでもなく、ひざを抱えるようにして筋肉をほぐしていく。
 一之瀬海斗。
──彼の名前であり、わたしの初恋の相手だ。



 昔のこと、とは言ってもほんの一年前の出来事。わたしは入学して学校生活に慣れてきた頃のことを思い出す。
 入学してすぐ、わたしは迷うことなく陸上部に入った。球技系のスポーツが苦手なわたしでもできるスポーツといったら思いつくのは陸上部くらいのものだった。
 高校の総体、全国になるとインターハイと呼ばれる大会はだいたい六月にはある。
 もちろんそのときから部員は少ないので、わたしはいきなり長距離で大会に出ることになった。
 結果は惨敗。それなりに速いつもりだったが、中学と高校ではかってが違うらしい。
 もちろんほかの部員もわたしと同じような結果だった。正直、その時はヒーローみたいに速くて決勝にいくような人間はいないのかと落胆もした。
 それからはいつも学校の強制下校である六時まで練習をするのが日課になった。この頃にわたしは愛華と仲良くなったと思う。
「速いね!どんな練習してるの?」
 聞くところによると、わたしの試合の結果はこの学校では良い部類に入るらしく、部活内ではちょっとした有名人になっているらしい。
 「普通だよ。別に特別な練習はしてない」
 わたしはストレッチしながらこたえる。種目の違うわたしたちが一緒になることはストレッチやアップをする時ぐらいしかなかった。
「すごいよね!ビュンビュン抜いていって」
 そんなに抜くこともできなかったなんだけどなあ。わたしは苦笑いする。
──次の日から、愛華は機会があるたびにわたしに話しかけてくるようになった。
 一学期が終わった。そのころにはこの学校の良いところも悪いところも分かりだしてきた。
 もちろん進学校なので、夏休みに入っても希望制という名の強制で夏期講習がある。ついでに部活は本当の希望制だ。
 つまり、やる気のないこの部活においては無いにも等しかった。
 夏期講習は一週間だけだった。わたしはスポーツは好きなほうだったし、走るのも嫌いではないので、勉強が終わったあとは部活に行っていた。
 なんとなく人数を数えていたが、平均で二十人いる中の五人程度しか来ることはなかった。ちなみに長距離はわたしだけだった。
 だからわたしはほとんど一人で走っていた。わたしとしては、気ままに走るほうがいいし、やる気のない部員と走りたいとは思わないので、内心喜んでいた。
その日はただ、なんとなくという理由でストレッチしながら短距離が練習しているのを見ていた。
 愛華は速くはなかったが、真面目に練習していたと思う。 
 男子は次の大会のために記録をはかっていた。わたしはあまり目が良くなかったので、走っている男子たちの顔ははっきりとは見えなかった。
 一人、また一人と記録をはかっていく。わたしはそんな中の一人に目が留まった。
 ほかの部員と比べて速いわけでもない。ただ、走り方が綺麗だった。
 ここの部活のような中途半端な練習では絶対に身につけることはできないようなフォームだった。
 空のように淡い水色の半ソデに黒のランバンの彼は空気を切るよう走っていく。気づけば、わたしは息を止めたまま彼が走り終わるまで彼は走るのを見つめていた。
 全員の練習が終わってみんなでいつものようにダラダラとストレッチをしている時、わたしはいつの間にか、さっきの彼に話しかけていた。
 顔はわからなかったが、淡い水色の服を着ているのは彼しかいなかった。
「なんでそこまで真面目に練習してるの?」
 言い終わったあと、言うんじゃなかったと後悔した。こんな言い方だと『遅いのにそこまで練習しても意味ないんじゃない?』とさほど変わらないじゃないか。
 彼は驚いたようにわたしを見つめる。
 澄んだ瞳をしている彼は、すこし子供っぽい顔でわたしに笑いかけながらこう言った。
『勝ちたいから。全国とまでは言わないけど、地区の決勝くらいまでは勝ち残りたいんだ』
 その言葉はふざけて言っているわけでもなく、正真正銘の彼の目標だった。
 後に愛華に聞いた話だが、彼の名前は一ノ瀬海斗というらしい。
 そのころからわたしたちは偶然、家が同じ方角だったのもあって、ポツポツと話すことがあった。
 それから今までの間に、別になにかわたしたちに何か発展があった訳じゃない。ただ、今思うと、わたしは海斗の走り方に惹かれていったのかもしれない。
 思っている以上に、わたしは走ることが好きなのかもしれないとわたしは思った。
 強いて言うなら、二学期に一度だけ二人で出かけたことがある。別にデートってわけじゃない。
 偶然わたしたちの家の近くで大きな陸上の大会があった。高校生とかではなく、一般部門の全国レベルの大会だ。
 帰り道、わたしたちの間でその話題があった。その流れでなんとなく一緒に大会を見に行くことになった。
 その日の夜になってやっと、わたしは彼とある意味デートとも言える約束をしたんだと実感した。それまで少し気になる程度だった男子が心の奥底では恋愛対称になっていったのは、この時だったかもしれない。ベッドの上にいくつか服を並べて選びながら顔が熱くなっていくのをわたしは気付きながら気付いてないフリをした。
 多分思い出してみると、それからその大会までの一週間、わたしは現実に実感をもてないままボーとしていたような気がする。今考えても恥ずかしいわたしだった。
 大会当日、わたしたちはもちろん約束どおり一緒に行くことになった。なぜ海斗はわたしの家まで迎えに行くと言い張った。確かに大会の行われる競技場まで行くには海斗の家からだったら、わたしの家の近くを通る事になるんだろうけど、それでも気恥ずかしかった。
 チャイムを押される前に玄関で待っていようとわたしは待ち合わせの時間よりも早くに外に出ようとした。
「え?」
 ドアを開けると、目の前に海斗がいた。海斗の右手はちょうど人差し指だけ伸ばされた状態で、まるでチャイムを押そうとしている寸前のような光景だった。
「うわ、ぴったしだ」
 海斗は驚いたような表情をした後、いつもの爽やかな笑みを浮かべてそう言った。そんな笑顔にわたしの顔は真っ赤になる。
「行こっか」
 それだけ言うと、海斗は歩き始めてしまう。わたしはあわてて彼の後についていった。
──空は蒼い、蒼い、雲ひとつない快晴だった。







 帰り道、わたしたちは二人横に並んで帰った。
 最初はまだ他愛もないような話をしていたが、家に近づくにつれて沈黙が多くなってきた。
 わたしの家が見える。白い屋根は夕焼けで赤く染まっていた。
「また明日ね」
 わたしはそれだけ言って、家に入ろうとする。もっと『今日はありがとう』とか『今日は楽しかったね』みたいな事を言いたかったが、なぜかわたしの心はそれを拒んだ。何も話すなと言っているかのようだった。
「今日の服、すごく似合ってる」
 聞き間違いだと思った。ノブを回そうとする手を戻し、わたしは振り向く。
 その時にはもう、海斗はわたしの家を過ぎ去ったところを歩いていた。海斗の顔を見たかったが、ここからでは確認する事ができなかった。
 夕焼けのせいかもしれない。海斗の横顔は薄っすらと赤く染まっていた。
──────ああ。
────────────────わたし、海斗のこと好きなんだ。
 わたしはそこでやっと自分の心に気付いた。







「海斗は100m?」
 そして今。
 わたしはストレッチをしている海斗に話しかける。ん?と海斗は前屈するのをやめてわたしのほうを見る。
「ああ……記録会?100も出るけど200も出ると思うよ」
 座っている海斗からすれば立っているわたしを見るのは眩しいのか、目を小さくする。
「へえ。目標は?」
「100は11秒5かな。200は初めてだからわかんねえや」
 そう言って海斗はわたしを見つめる。そっちは?と言いたいらしい。
「多分1500と3000かな。目標は3位ってことで」
 わたしたちの恒例行事だ。大会前に目標を言っておいて、達成できたら何か奢ってもらう。海斗との時間を作るためにさりげなくわたしはいつも本気だった。
「じゃ、俺、練習に行くから」
「がんばって」
「おう」
 海斗はにっこりと笑うと、片手にスパイクを持ちグラウンドへと一人で歩いていく。短距離選手で海斗の練習についていける部員はもうここにはいなかった。それでも海斗の速さはだいたい中の上、よくて上の下だ。
 スポーツ専門の私立にいれば、海斗はもしかしたら全国を狙える選手にもなっていたのかもしれない。
 わたしもアップをしにグラウンドへと向かう。わたしだって、別に負けに行くつもりはない。むしろ勝ちに行くつもりだ。もう二年生になったわたしに残された大会は今回の記録会を含めても四回ぐらいだろう。その間に一度は決勝まで進んでみたい。
 『決勝へ行く』わたしの目標だ。達成できたときに告白しよう。そう決めていた。
 あの時と同じような綺麗な色の空を眺める。
「この目標。いつになったら達成できるんだろうなあ」



 あっという間に記録会までの日にちはなくなっていった。
 記録会。高校総体とはちがい大学生や一般人も参加可能な大会ともいえない試合だ。
 ほかの地区ではどうなのかは知らないが、私たちの地区では年に二回ある。今回の夏休みが終わってすぐにある記録会は二回目の試合だ。
 レベル的に言うと、平均的には総体よりも遅いが、大学生などの参加もあって上位層のレベルは総体よりも高かった。
 監督からもらったタイムテーブルを見る。競技種目の多い陸上は大会を二日から三日に分けて行う。初日は1500があり、二日目には3000があった。
「昼からか……」
「お、蒼は昼に1500かあ。応援してるからな。頑張れよ!」
 わたしの見ているタイムテーブルをのぞきこむようにして、海斗は元気よく言った。
「もちろん!」
 100の行われる時間を見て、応援できないなあと少し残念に思いながらわたしはこたえる。
 海斗の出る100はわたしの出る二時間前だ。念入りにアップをしてコール(召集)に間に合うように、となると、どうやら海斗の応援をすることは出来そうになかった。
 観客席を部員人数分取ったり、アップをするためのシートを敷いたりと準備をしていると開会式の一時間前に来ていたのに、時間が足りないくらいになっていた。



 観客達の声援がサブアリーナからでも聞こえた。今頃、海斗は走っているのかと心の中でだけ応援しておく。とりあえず今は自分のことだ。
 本番で自分の全力を出せるようにアップを念入りにする。思っている以上にアップをする事は重要で、朝起きたばかりの体調と、昼ごろの体調ではぜんぜん違う。いまからコンディションをできる限りいいものにするために一時間かけて走りこむつもりだ。
 サブアリーナにいるほかの人も、タイムテーブルから考えてわたしと同じ種目の人が多いのだろう。周りを見てみると女子が多かった。前に一緒に走ったことがあるのか見覚えのある人がいくらかいた。
 スタートを意味する火薬の破裂する音がこだまする。その音に大会が始まった事を実感させられる。
 本当ならすべきではないけれど、わたしはゆっくりと走っているか歩いているかの狭間のスピードで動かしている足を止める。
 メインアリーナからは出場選手の学校の生徒達の声援が聞こえる。海斗は最初のほうだったから、もう走る順番が来ているだろう。
「がんばれ」
 わたしは見えない海斗に向かって声援をポツリとつぶやいた。



「1500m女子。コール始めます」
 サブアリーナ近くのメインアリーナへの入り口から審判員の声が聞こえる。この夏の暑さと、少し多めに走ったアップで汗をかいた体を冷やさないようにタオルで拭いた後、試合用のスパイクを持って召集場所に行く。
──始まる。
 コールが終わって、全員がスタートする場所の近くに集まる。緊張してきているのがわかった。無理やり押さえつけるように深呼吸する。
 わたしは1500の二組目なので、この一組目が終わった後だ。まだ時間があるとわたしは目をつぶる。
────決勝にいく。
────
──
『今から女子1500m二組目を始めます』
 アナウンスにハッとする。一組が走り終わるのは一瞬のことだった。わたしは慌ててスタートラインに立つ。
 遠くは暑さで蜃気楼ができているのか視界がぼやけて見える。もしかしたら、緊張のせいなのかもしれない。
 周りの選手は屈伸などをして準備体操をしている。そんな中、わたしだけがボーっと立ちっぱなしでいた。
 なんだか、わたしだけが取り残されているような感覚。
 スタートラインから少し離れたところに審判が立っている。片手には誰でも一度は見たことがある銃の形をしたような火薬を詰めたもの。
 審判員はそれを右手に持ち上げ、わたしたちを見つめる。まるで死刑執行人のようにわたしは錯覚する。
 火薬が破裂する音が不意に聞こえる。わたしは慌てて他の選手たちと一緒に走り出す。
 1500mは陸上の中距離選手の中では格闘競技と呼ばれる事もある。その一番の理由はスタートして五秒もすえばわかる。一つ一つの組にだいたい十五人くらいの選手が短距離とは違って決められたレーンのないトラックで走る。まだ実力の差のわからないスタートではその十五人がぶつかり合う。しかも全員がスパイクを履いて。
 もちろん怪我する人間はいるし、少ないわけでもない。だから『格闘競技』だ。そんな中にわたしは一歩遅れた形で入り込む。
 トップ付近に入り込め!!わたしは自分の体に命令する。足の回転を速める。一気にわたしは十人ぐらいを抜いていく。
 一周400mのトラックを三週と半分。少し無茶をしても四位以内には入る自信があった。
────そのときだ。
「っっつ!?」
 わたしのひとつ前を走る選手の足裏がわたしのひざにあたった。陸上のスパイクはサッカーなどで使われるスパイクとは違って、金属のピンがいくつも靴裏についている。地面を蹴って動くスポーツなのだから、そのピンは十分に凶器となる。
 ちょっとあたっただけ。だけど、それだけでわたしはバランスを崩し倒れそうになる。見なくてもわかる。出血していた。
 それに気付いたのか、周りの観客の間にどよめきが起こる。多分、海斗たちも気付いているだろう。あっという間にわたしは最下位近くを走っているグループの中に失速していく。わたしの目標はこんなものだったのかと目に涙がたまっていくのがわかった。
 一週目が終わる。半周走った後の一週目なので600m走った事になる。海斗たちは必死で応援してくれていたんだろうけど、わたしにその応援は届かなかった。この時点でわたしの順位は十二位だ。この状態から上位に行くにはかなり厳しいだろう。いやに頭だけは冷静だった。
 二週目に、どうにかしてわたしは八位にまであがった。足が痛む。多分出血してスパイクにも血が染みているのだろうと考える。正直、その時にはもうわたしの頭の中には順位へのこだわりとかそういうものはなかった。ただ、『走りきる』そんな無意味な走り方を目標としていた。
 先頭の集団は三週目に入ったのか、残り一周を示すベルの音が遠くから聞こえる。それにあわせるかのように声援が大きくなった。本当ならスパートをかけてスピードを速めなければいけないところだったのに、わたしにはその体力も気力もほとんどなかった。ラストスパートは体力よりも気力が重要になってくる。どれだけその試合に対しての思いが重いのか、それが大きな差となる。
 いまのわたしにはそんな気力はほとんどなかった。むしろ、負傷してこの順位だったらいいほうなんじゃないかなあなんて思っていた。
 視界の端に海斗や愛華が応援しているのが見えた。愛華が何かを叫んでいるのが見える。
────────どうでもいいやあ。
「俺は蒼のそんな走り方を見たいわけじゃない!!」
 海斗の声。それだけがはっきりと聞き取れた。
────そうだ。
 こんなのわたしの走り方じゃない。もっと全力で、優勝を目指す勢いで。
────なにより目標のために。
 痛む足を勇気付けるようにスパートをかける。今からだったら三位だって届くはずだ。
 汗が目に染みる。血がスパイクに、靴下にしみこんでいく。だけどわたしは走り続けるのをやめなかった。
 一人、二人と抜いていく。先頭集団以外はもうほとんど体力も残っていない選手ばかりなので、抜く事は簡単だ。ただ、そこからが問題だった。
────速い。
 上位五位からがどうしても抜けない。わたしよりも少し前に一人、横に並ぶように一人。差は縮まることも広がる事もなく、少しずつゴールへと近づいていく。
 遠くには海斗や愛華、ほかにも同級生や後輩が叫んでいるのが見えた。ラストの直線、わたしはこれ以上ないぐらいの勢いで走りぬける。
 あと10m、7m、4m、3m、2m、1m────────────────
────────────────────────
────────────────
────────
────









「おつかれーーーーーーーー!!」
 足が疲れすぎて動けないわたしに愛華は飛びついてくる。わたしの汗がつくのも気にしないで愛華はわたしを思い切り抱きしめる。
「痛いよ」
「おめでとーーほんと、おめでとーーー!!」
 愛華はわたしの耳元で興奮したように叫ぶ。
 結果から言うと、わたしは三位になった。ただ、記録を見ると三位から五位までの間は0.4秒ぐらいしか離れていない。
 ほかの同級生が応急処置に必要な用具を入った箱を持って走ってくる。それを見て傷口が思い出したかのように痛み出す。
「痛ったーーーーー!!」
 それからしばらくの間、わたしたちは大騒ぎだった。スポーツマンシップなんてあったもんじゃない。



 ひとしきり大騒ぎが終わった後、わたしたちは観客席のほうへと帰ろうとした。帰り道で遅れてきたように海斗がやってきた。
「遅いよ、海斗」
 そう言ってわたしは海斗に近づく。さっきまで肩を貸してくれていた愛華はいつの間にか帰ってしまっていた。というか、よく見るとここにいるのはわたしと海斗だけだ。
「おめでとう、なんて言わないからな」
「……そうだね。優勝したわけでもないし」
 頬を膨らましてわたしは呟く。本当はそんな事よりもありがとうと言いたかった。海斗のあの一言がなければわたしは三位なんて取ることができなかった。
「あのね、海斗……」
 だから、ありがとうって言いたかったのに、海斗は最後までわたしに言わせてくれなかった。そりゃそうでしょ。だって……
 だって────────────────急に好きな男の子に抱きしめられたら、何も言えなくなるでしょ。
「おめでとう、よりも言いたいことがあるんだ」
「なに?」
 なぜか、わたしの心は妙に落ち着いていた。
「好きだ」
「うん」
「……返事、欲しいんだけど」
「うん」
「えっと……」
 海斗は困ったような声を出す。
「わたしも好きだよ。海斗のことが好き」
「──ありがとう」
「こちらこそ」
「なんで?」
それから少しの間だけ、今日の試合のことや高一の時にはもう海斗のことが好きだったこと、いままで抱えていた思いを海斗に伝えた。
「そっか」
「なんだかそっけない返事だね」
「だって俺のほうが先に好きになってたからなあ。そんなことじゃ驚かないよ」
「海斗はいつからなの?」
「初めからだよ」
「え?」
 海斗は照れくさそうに頬をかいた後、わたしの顔を見てこう言った。
「一目惚れ」
────どうやら、このときの海斗の顔は一生忘れれそうにない。



 後日談。
 視聴者のみなさんはわたしの目標を覚えているだろうか。
『試合で決勝に出る』これが達成できたときには海斗に『告白する』
 驚きの話だが、この目標とまったく同じ内容を海斗も持っていたらしい。ちなみにあの記録会では海斗は二位。ほかの組よりも記録がよく、ぎりぎりで決勝に出る事ができたらしい。
 しかもそのことをわたし以外のほとんどが知っていたようで、あのときの告白はみんなで仕組んだ形だったらしい。わたしだけが踊らされているような感じで、なんだか気に食わない。
──────まあ、そのおかげで今のわたしがあるんだけど。
 もちろんあの後、わたしたちは付き合った。そして高校三年生の今、わたしたちは最後の大会に挑もうとしている。
 「蒼!!行くぞ」
 遠くで海斗の呼ぶ声が聞こえる。どうやら試合会場が開く時間になったらしい。部活内でのわたし達の関係はもう周知の事実らしく、ほかの部員達はニヤニヤと笑いながらわたしを見ている。
 「ちょっと待ってよ」
 最後にひとつ。視聴者の皆さんの中には過去に陸上部だった人や今、陸上部の人もいるはずだし、ほかの部活に所属している人もいるはず。この高校生活でわたしか学んだ事はたくさんあるけど、何より伝えたい事がひとつある。



 『Keep running!!走り続けろ!!
Zodiac
http://zodyakku.blog134.fc2.com/
2011年07月30日(土) 22時23分10秒 公開
■この作品の著作権はZodiacさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ある企画のためにつく短編小説ですが、落選したのでここで見てもらいたいと思います
駄文ですが、読んでもらえると幸いです

この作品の感想をお寄せください。
No.2  山田さん  評価:20点  ■2011-08-04 22:46  ID:m1mkxD7eKZQ
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 拝読しました。

 汚れきったおじさんの僕にとっては、ちょっと気恥ずかしいような照れくさいような作品でした。
 海斗が告白するシーンなんかは特に気恥ずかしかったです。
 まぁ、それが若さの特権なのだよ、と変に自分に言い聞かせたりしました。
 すいません、おかしな書き込みで(汗)。

 全体的にちょっと状況説明が多いかな、という印象を受けました。
 状況の「描写」というよりも状況の「説明」ですね。
 僕がなかなか物語の世界に入りきれなかったのも、思うに「説明」過多だったからかな、と思います。
 思い切って削ってもいいような情報というのが、結構あったように感じます。
 思うに「説明しないと読者にわかってもらえない」という心配があったのでは、と推測するのですが、読者は読者でそれなりに理解しながら読み進めていくものだと思います。
 まぁ、あまり説明がないと不親切になってしまいますから、そのバランスは難しいとは思いますが。
 説明が多いと、どうしても物語の世界を一歩退いた視点でみてしまうんじゃないかな、と思っています。

 それとせっかく正反対の愛華という存在がいるのだから、蒼、愛華、海斗の三人が絡むシーンがもっとあってもよかったかな、と思います。
 あとは脱字が少々。
 推敲が少し足りなかったのかな、と思います。
「一ノ瀬」と「一之瀬」が混在しているところなんかをみると、やはりちょっと推敲不足かもしれないですね。

 色々と偉そうに書いてきましたが、メッセージにあるような「駄文」ではないですよ。
 描きたい世界というのはきちんと伝わってきたように思いますし、もっともっといい作品を書くことが出来る可能性みたいなものを僕は感じます(こういう書き方が偉そうなんだよなぁ……すいません)。
 これからもどんどん書き続けてください!
No.1  ロンタ  評価:20点  ■2011-08-02 15:02  ID:uIOdgwbzMQQ
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乙女ゲームのようでした。学生である主人公の気持ちの詳細が丁寧に書かれた作品だと思います。
総レス数 2  合計 40

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