やらしい涼の凝らしかた |
明治から大正へと世の中が移り変わって九年目、西暦にして一九二〇年の夏の東京都下。 良妻賢母になるための教育を主眼としたとある女学校の寄宿舎の一室では、昼の残滓であるぬるい夜の空気がゆっくりと掻き回されていた。 「……なにしてんだ? そこじゃ涼しくなんかねえだろ」 大きく開けた二階の窓からわずかに吹き込む夜らしい微風を横顔に受けながら、八重(やえ)が眉を顰めた。蚊帳を挟んだ視線の先には、窓とは反対側の壁に据え付けられた扇風機を、腰を屈めて風の当たらない真横からじっと眺めている千代(ちよ)がいた。 「不思議」 「扇風機がか?」 八重の方を向いて問い掛けにこくんと頷いて、千代の興味は再び回る羽へと吸い込まれていった。 (……相変わらず変なやつ) 小さく笑って、八重はしっとりと湿り気を帯びた白い長襦袢を脱ぎ捨てた。風呂上がりであることと、今夜が熱帯夜であることとがその原因だった。就寝時には下着にあたる肌襦袢と、その上に寝巻にあたる長襦袢を着るのが当時の女子の一般だが、月明かりを返すほどに額に汗の玉が浮いている八重の忍耐は限界を迎えていた。 しかし、その下に着ているはずの肌襦袢は八重の身には着けられていなかった。流石に一糸纏わぬ姿ではないものの、胸とへその下にさらしを巻き付けて覆い隠すだけという、常識を外れた格好だった。これでは良妻賢母教育がどうこうという以前に、親が見たら嘆くのは間違いない。 それ以前に、言葉使いからして論外ではあったが。 「あー、暑い暑い暑いっ! 千代、そろそろ消灯時間だから電気も止まるぞ!」 八重が声を荒げながら蚊帳の中へと入った途端、急に扇風機の元気がなくなり始めた。天井から下がる電球もいつの間にかこっそりと存在の主張を控えていた。 六畳間の西日に焼けた畳の上に並べるように敷かれた二組の布団の、左の方に八重が横になった。まるでセミの死骸を見つめる子供のように、止まった扇風機をしばらく眺めていた千代だったが、やがて諦めたのか蚊帳の裾を持ち上げてそっとくぐると、右の布団に潜り込んだ。こちらはきちんと肌襦袢とその上に長襦袢を着けているが、さらにその上に長着を羽織っていた。これは外出時に着ていても問題のないものだが、熱帯夜でなくてもこの季節では暑苦しい。それにもかかわらず、千代は涼しい顔をしている。そもそも、彼女は表情に乏しい方ではある。 時折聞こえるやぶ蚊の羽音の他には、小さな二つの呼吸音だけがそこにはあった。まだどちらも夢の中には辿り着けず、その間隔は短い。二人の枕元では蚊取り線香が音もなくぼんやりと赤く燃えて、白く細い煙が蚊帳の目を縫って窓の外を目指している。 仰向けで顔を傾け、横目で月明かりに浮かび上がる畳の目を数えながら八重が溜め息を吐いた。ここ数日は暑い夜が続いている。 (寝る時こそ扇風機が必要だってんだよ。どうせ電気なんか夕方からしか通らないんだから、ケチケチすんなっての) 八重が心の中で愚痴る通り、まだこの頃は昼間に電気が来ないことがしばしばあった。それでも、電球はともかくとして扇風機があるだけ恵まれた環境ではある。扇風機は元号が大正に改まる数年前にようやく日本で発売されたばかりで、それなりの格式の高さを誇るこの女学校だからこそ、寄宿舎のそれぞれの部屋に備え付けられているのである。 蚊取り線香にしても、その発売時期は扇風機とほぼ同じである。こちらは安価な分、一般庶民にもそれほど真新しいものではなくなってはいるのだが。 八重が畳の目を数えるのに飽きてきた頃、隣の部屋へ続く襖の向こうから小さな声が聞こえてきた。 「……起きてる?」 「……ああ、起きてるぜ」 八重の返事から間を置いて、ゆっくりと襖が開いていった。入ってきた影はあろうことか背後に足を延ばしてそれを閉めると、これまた足で蚊帳の裾を持ち上げて中へと入ってくる。こちらも女子が襖を開け閉めする作法としては論外であった。格式とやらが泣いている。 「なんだ、文子(ふみこ)か」 「えへへー、来ちゃった」 腰まで被っていた掛布団を蹴り除けて体を起こす八重の足元に腰を下ろし、文子は手に持っていた盆を畳に置いた。その上には急須と湯呑が三つ載っている。もう一方には小さな巾着袋が下がっていた。両手が塞がっていたせいで、先ほどのような不作法な襖の閉め方になったらしい。 「今夜も暑くて眠れないからさ。夜のお茶会でもどう?」 いたずらっぽく笑いながら、文子が袋を開けて何やら包みを取り出した。中身は近頃、特に女学生の間で人気が出てきた西洋菓子のビスケットであった。 文子は湯呑に緑茶を注ぎながら、あぐらを掻いた八重の隣で上下する布団を横目で眺めて、 「この子、こんな暑さで良く眠れるね。うわ、長襦袢の上にもう一枚着てない? 見てるだけで暑いわよ」 「……起きてる」 ぼそりと呟いて、千代がもそもそと布団から這い出した。汗を掻いているようには見えないが、顔がほんのりと紅潮している。 「やっぱり暑いんじゃねーか」 片手持ちでぐいと緑茶を呷って、盆の上に広げられたビスケットに八重が手を伸ばす。 「うるさいから眠れないだけ」 「あー、ごめんごめん。いきなり押しかけちゃって。はい、これ千代の」 文子が緑茶を注いで千代に手渡した。両手で受け取って口をつけた千代が、中身をじっと見つめて呟く。 「不思議」 「今度は何だよ。最初はバターのにおいって好きじゃなかったけど、慣れるとうめえな」 さくさくと音を立てながら八重が言った。 「冷たい」 「……うん? そういやこの緑茶、結構冷たいな。どうやって冷やしたんだ? 井戸に行ったら吉村のババアに見つかるだろ。あたしは二、三回見つかったことがあるぞ」 八重も不思議そうに湯呑の中を見つめ、階下で寝ている寮母の名前を上げながら文子に問い掛けた。 「井戸になんか行かないよ。葛根湯医よ、葛根湯医」 得意気に言って、文子が懐から取り出した扇子でぱたぱたと煽ぎながらビスケットをかじる。八重の顔がさらに深く疑問の色に染まった。 「……落語のか? それとこれとに何の関係が」 葛根湯医というのは、落語で話の本筋に入る前の枕という小話のひとつで、どんな患者にも葛根湯という漢方薬を処方してしまうやぶ医者の話である。強い発汗作用があるので、病状によってはそれを悪化させかねなく、付き添いで来ている健康な人間にまでとにかく葛根湯を勧める笑い話だ。 「汗を掻くと体が冷えるでしょ? あれは、汗が乾く時に体温を奪うからなの。それと同じで、急須を部屋の水差しで濡らした手ぬぐいで包んでね。あ、この水は別にぬるくても大丈夫」 と、手で急須の周りでくるくると手を回し、次いで壁の扇風機を閉じた扇子で指して、 「あの前に置くの。そうすると風で手ぬぐいがだんだん乾いて、中の急須が冷えていくってわけ。井戸水までとはいかないけど、室温よりはかなりマシでしょ?」 「へえー。さすがは噺家の娘」 八重が感心した声を上げ、千代が文子を見つめる。 「……噺家?」 「そう。こう、ずずっと」 文子は扇子を口元に近づけて、蕎麦をたぐる仕草を啜る音までつけて披露した。千代が少し驚いた顔でそれを見て、口に運ぼうとしていたビスケットをそこで止めると、その仕草の真似をする。すー、と締まらない音がして、千代は何度もそれを繰り返した。 「そんな一朝一夕にできるかっての。噺家ってのは極端に言えば扇子ひとつで食っていく商売だぜ」 「あたしも噺家になりたいって言ったんだけど、お父様にとんでもないって怒られちゃって。女は家を守るもので、高座はお前の居場所じゃないって。もう頭が古いったら」 八重が笑い、文子は嘆いている。六年の義務教育を終えたあと、さらにこの女学校に数えで一三歳の文子が入学させられたのはそれが理由であった。女とは何かを学んで来いということだ。それから一年と少しが経ち、現在は三人ともが一四歳である。 話など耳に入らない様子で、千代は一心不乱に蕎麦を啜っている。文子は苦笑して八重を見た。 「八重だって士族の娘なわけでしょ? 刀ひとつで食べていくってすごいじゃない」 「士族たってなあ……。別に何か特権があるわけでもなし、廃刀令が出てもう五十年以上だぜ。まあ、うちは剣術道場だから、刀ひとつでってのはまんざら間違いでもないが、振り回すのは竹刀だ。それに文子と似たようなもんで、あたしは竹刀を握るどころか道場に一歩足を踏み入れただけでどやされてた」 八重がここに入学させられた理由も、文子と同じようなものだった。荒々しい門下生の言葉使いや所作に、遠ざけられていてもどうしてもわずかには影響されてしまうせいだ。 本当にわずかかどうかについては、言及を避けたいところである。 「千代は華族の娘なんだっけ? 何かこれひとつあれば、っていうのは華族にもあるの?」 文子が問い掛けると、千代はようやく顔を上げて考え始めた。二人がビスケット一枚を食べ終えるくらいの間を置いて、千代の口が開く。 「……身分?」 「うわ、何か急にお前が嫌なヤツに見えてきた」 「悪気がないだけに余計にねー」 八重と文子が苦笑しながら口々に言った。千代は何がまずかったのかわからないという顔をしていたが、ふいに興味が逸れたらしく、手の中のビスケットから視線が動かなくなった。 千代がここに入学させられた理由について、多くを述べる必要はないだろう。どこか『足りない』ことを心配されたからというだけに止めたい。とはいえ、地理や歴史といった頭脳を使う科目については、理科と算術を除けば二人を大きく引き離すほど成績は良い。文子は講読や作文、文法や唱歌以外はからっきしであり、八重については修練以外に、意外にも家事や手芸、裁縫や図画などの成績は良いが、他は文子以下である。 「それにしても、本当に暑いわ」 再び扇子で胸元を煽ぎ始め、文子はうんざりした顔で千代を見た。 「ああっ、もう我慢できない! 千代、せめて長襦袢の上に着てるのだけは脱いで! 見てるだけで暑苦しいから!」 と、一応は押し殺した声で叫ぶなり立ち上がって千代の背後に回ると、両脇の下に腕を差し入れて半ば無理矢理にその場に立たせた。 「まったくだ、神妙にしやがれい!」 八重は千代の前に回ると、ビスケットを取り上げて腰の帯を解きにかかる。 「あっ……」 じたばたと抵抗する千代だったが、二人がかりでは成す術がない。 「どうせ胸が薄いことでも気にしてんだろうが、風呂で毎日裸を見せ合ってる仲じゃねえか」 「大浴場なんだから、大抵の子の裸は見てるわよね。それに、胸なんか大きいと袴が似合わなくて苦労するのよ」 女学生の服装は基本的に袴である。 「それとこれとはちが……」 八重と文子に千代が反論するが、二人はまったく聞く耳を持たない。それどころか、先ほど八重に取り上げられたビスケットを押し込まれ、口を塞がれた。瞬く間に千代は長襦袢姿にされ、来ていた長着は蚊帳の下からその外に放り投げられてしまった。 胸に両手をやって座り込む千代に、文子が言う。 「あたしと同じ格好でしょうが……。別にそこの露出狂みたいになれって言ってるわけじゃないんだし」 「おい、言い過ぎだろ……」 犬歯を剥いて睨みつけてくる八重に、文子が逆に噛みつく。 「八重も八重で何よその格好は! ほとんど半裸じゃないの! 肌襦袢くらい着なさいっていうか、それであぐら掻くのはやめなさいよね! 見えちゃうでしょ!」 「風呂で毎日見てるだろ」 「それとこれとは別よっ! 恥じらいを持ちなさい!」 「足で襖閉めるヤツに言われると納得いかねえな……」 ぶつぶつ言いながらも、仕方なく千代と文子にならって正座をする八重だった。 「だいたい、他人の部屋に押しかけて来て注文が多いんだよ。ひょっとして一人部屋だから寂しいんじゃねえのか?」 八重が意地の悪い笑いを漏らしたが、文子は意に介さない。 「生徒の数が奇数なんだから仕方ないじゃない。それに、誰に気を使うこともなくエスを読んだり出来てかえって快適なくらいよ」 「……エス?」 八重の疑問に、文子がしまったという顔をした。みるみる顔が赤くなってゆくのを見て、八重がああ、と納得した声を上げる。 「淫行軍人が夜這いでもして生娘を手籠めにする話かなんかだろ、どうせ」 「違うわよっ!」 思わず出た声の大きさに自分で驚いて、文子が口を押さえた。半眼になって八重を睨むと、仕方ないといった様子で喋り出す。 「そんなのとは違う、女の子同士の恋愛の話なの。ううん、そこまでもあと少し届かない、もっと純粋なもの」 エスというのはSISTERの頭文字を取った、この頃女学生の間で密かに流行っていた類の小説だ。男性に接する機会が滅多にない境遇と、卒業後に嫁いでしまえば学友と会うこともなくなってしまうという自身への憐憫が、幻想的なエスを彼女たちの手に取らせるのだ。 「この上なく不純って気もするけどな」 「うるさいわね。八重にも貸してあげるから読みなさいよ。この前出たばかりの吉屋信子先生の花物語なんて最高よ。美しくて、切なくて……」 目の前で手を合わせてどこか遠い目をする文子を胡散臭げに見つめ、八重はきっぱりと断る。 「いや、いいわ」 「なんでよ」 不満そうな文子の声に少し怒りが滲んでいるのを感じて、八重がおどけ半分の口調で、 「エロいのはいけないと思いますっ」 「だからそこまで届かないって言ってるじゃないの。純愛なのよ、純愛」 口を尖らせる文子から視線を逃がせそうな場所を探して八重の目が辺りをさ迷う。それがふいに千代の顔で止まった。 「……なにやってんだ?」 その声につられるように文子も千代を見て、その視線の先にあるものの名前を呟いた。 「蚊取り線香?」 ちょうどその時、蚊取り線香が最後まで燃え尽きて、ぼんやりと赤い炎が夜闇に呑まれていった。 「……あ」 小さな声を漏らした千代に、八重が蚊帳の外を指差して言う。 「新しいのがあるぞ。そこの、たんすの上」 こくんと頷いて、千代が立ち上がろうとする。しかし、腰を浮かせたところで体勢が崩れ、そのまま八重の方に倒れ込んできた。 「ど、どうした!」 座ったまま抱き留めるようになんとか千代を支え、八重が驚いた声を上げた。 「ちょっと、大丈夫?」 千代の顔を覗き込んで、心配そうに文子が訊く。焦点の定まらない視線をどうにか文子に合わせ、千代がぼそりと言う。 「……目が回った」 その場にしばらく静寂が満ちる。蚊帳の外からやぶ蚊の羽音だけが微かに聞こえてくる。 (……嘘だろ?) (……あんなにゆっくり燃えるもので?) 八重と文子が目でそんな会話をした。八重から体を離し、千代が立ち上がろうとして今度は逆方向にこてん、と転がった。それを見た八重が、 「扇風機は平気だったのに本当に変なヤツだな。蚊帳に引っかかったら危ねえぞ。もういいからじっとしてろ」 と言って、代わりに蚊取り線香を取りに行こうと立ち上がろうとして、前のめりに倒れた。尻を突き出したまぬけな格好だが、流石に文子が声を上げる。 「八重! あんたまでどうしたの!」 呻き声を途切れ途切れに漏らして、八重が顔を上げた。 「いや、足が……これだから正座は嫌いなんだよ……」 文子が正座をしろと怒ってから、まだそれほど時間は経っていない。足をさする八重を見つめて、文子が呆れた声を上げた。 「……この部屋、まともな子いないの?」 仕方なく自分が蚊取り線香を取りに行こうと、文子が立ち上がった。目も回っていなければ、足も痺れていない。二人のような轍は踏まないはずだった。 「きゃあ!」 それなのに、文子が仰向けにひっくり返った。八重が起きた時に蹴り除けた掛布団に足を絡め捕らたらしい。足の痺れを堪えながら素早く動いた八重の手は、文子ではなく急須や湯呑の載った盆を遠ざけていた。文子がその上に倒れ込んで割れたら危険ではあるが、どこか薄情にも見える光景だ。 ふぅっと安堵の溜め息を吐いた八重の頭の上に、何かがばさりと覆い被さってきた。 「な、なんだ?」 その正体は蚊帳だった。倒れる拍子に文子が思わずつかんでしまい、落ちてきたのだ。 しばらく布団と格闘するようにもがいていた文子が、ようやく逃れて仰向けのままひと息吐くと、頭に蚊帳を乗せて逆さになった千代と八重の顔が覗き込んできていた。恥ずかしさが込み上げるよりもなんだか可笑しくなってきて文子がくすくすと笑い出すと、千代も八重もつられて笑い出した。 そのままどれほどの時間、蚊帳の下で笑い合っていたのかは定かではない。しかし、その笑い声は唐突に止んだ。 何の前触れもなく廊下側の襖が勢い良く開いて、そこから人影と声が飛び込んできたのだ。 「一体、何事ですか!」 その主は階下で寝ていた寮母の吉村だった。大きな音が階下まで響いたらしく、不審に思ったようだ。そして三人の姿を認めるなり口元に手をやって目を見開き、凍りついたように動きを止めた。 人が出入りしたかのように大きく開かれた窓。何者かが暴れた痕跡のようにも見える、天井から落ちた蚊帳。その下には、無理矢理に長着を脱がされたせいで長襦袢がはだけかかっている千代に、布団の中でもがいたせいでそれが大きくはだけている文子。八重に関してはほとんど半裸である。 その状況をいち早く察知した文子が、 「違うんです! 吉村さん、これは……!」 蚊帳の下から這い出ながら、必死に弁解を始めた。 「まあ、おおよその状況はわかりましたが……」 しわぶきをひとつ挟んで、吉村がきまり悪そうに続ける。 「消灯時間がとうに過ぎていることを知らないとは言わせませんよ? 三条さんがこんなことをするのは珍しいですが、飛鳥井さん、貴女は一体何回目ですか!」 三条は千代、飛鳥井は文子の名字だ。吉村は何やら数え始め、 「他人の部屋に忍び込んでのお茶会、これで四回目です! やめなさいと何度も言っているでしょう!」 文子を叱りつけた。八重はそれを聞きながら、 (文子のヤツ、他の部屋でもこんなことしてんのかよ) 忍び笑いを漏らしてしまい、吉村に睨みつけられた。 「片倉さん、貴女は他人のことを笑える立場ですか! 夜中に部屋を抜け出して井戸で水浴びしたり、外出禁止日に勝手に甘味処に涼を取りに行ったり……!」 片倉は八重の名字である。 「だって、暑いんだもんよー」 「それからその言葉づかい! 良妻賢母を目指す者の態度ですか! 叱責が十回に到達した場合、処罰があることを忘れてはいませんよね? こんな時間にお茶会なんて、言語道断です」 げっ、と呻いて、八重の目が泳ぎ出した。それを見て吉村が過去の叱責をひとつひとつ指折り数えてゆく。 「甘味処、水浴び、水浴び、甘味処、水浴び……」 五まで数えたところで、文子が吉村に問い掛ける。 「こんな時間って、今何時なんですか?」 「真夜中の三時です!」 文子に三本立てた指を突き付け、吉村が声を荒げた。文子は申し訳なさそうに頭を下げる。 「ごめんなさい……」 しおらしいその姿に一応は満足したのか、吉村は文子から視線を八重に戻して続きを数え始めた。 ただし、三本指のところから。 「水浴び、甘味処、甘味処、甘味処、お茶会……叱責も八回目ですよ! もう猶予はほとんどありませんから、それを肝に銘じておきなさい!」 体中から怒気を発しながら、吉村がそう言い残して部屋を出て行く。その背中に文子が、 「あたし、蚊帳を元に戻してから部屋に戻ります」 と言って、蚊帳の鉤を長押の窪みに引っ掛け始めた。八重がそれを手伝い、千代はたんすの方に歩いていって新しい蚊取り線香と燐寸を探している。 「悪いな。助かったぜ」 内側から蚊帳の裾を整えながら、八重が文子に言った。 「まあ、あたしが押しかけなきゃこうはならなかったんだしね」 バツが悪そうな表情で、文子が舌を出した。そして蚊帳の中へと入ってきて、倒れてはいたが幸いにも中身が干されていた湯呑や急須を片付け始める。 「あれって、時そばだろ?」 布団に紛れていた巾着を拾って差し出しながら、八重が文子に問い掛けた。 「あ、知ってた?」 受け取る文子の声はどこか楽しそうだ。 時そばとは古典落語の演目で、屋台の蕎麦屋で勘定を一文ずつ数えながら払っている最中に店主に時刻を尋ね、答えた数字の続きから勘定を再開して支払いを誤魔化す滑稽話である。元々は上方落語の時うどんという演目が、江戸に持ち込まれた際に蕎麦に置き換えられたものだ。 「あれをやってくれなかったらこれで十回目だった。背筋が寒くなったぜ」 「ちょうど良く暑さしのぎになったというわけでございます。おあとがよろしいようで」 文子が噺家口調で言ったので、八重が笑い出した。そんな八重を見つめながら文子が、 「それにしても、どっちだと思われたんだろうね」 「どっちって?」 「吉村さんが入ってきた時のこと。淫行軍人がどうとかみたいなのと、エスみたいなのと」 しばらく沈黙して、八重が横目で千代を眺めながら、 「……馬鹿、顔合わせ辛くなるだろうが。二人部屋なんだから、嫌でも一緒なんだよ」 たんすの前をうろうろしている千代の耳に話は届いていないらしく、文字通り蚊帳の外である。 「あはは、それじゃあとは二人でごゆっくり」 「お前なあ……」 くすくすと笑いながら、文子が自分の部屋へと帰ってゆく。八重は呆れた声を漏らし、二人の布団を整え始めた。その枕元では、千代が新しい蚊取り線香に火をつけている。 八重と千代がそれぞれ自分の布団に潜り込んだ。ふとした拍子に目が合って、八重はなんとなく反対側を向いた。 「くそっ」 一度蚊帳が落ちたせいで中に入り込んで来ていたやぶ蚊を頬の辺りで叩いて、八重が小さく呟いた。 (ちゃんと火ぃ点いてんのかよ) 疑わしげに蚊取り線香に目をやろうとして振り向き、何故か八重の顔を覗き込んでいる千代とまともに視線がぶつかった。 「うわっ、何だよ」 「不思議」 「……何がだ?」 「さっきのこと。怒られた回数が減った」 千代が言っているのは、八重が吉村に叱責の回数を数えられていた辺りのやりとりのことだ。 「いや、別に減ったわけじゃなくてだな……。あれは、落語の時そばってと同じような話の流れで……」 その辺りで千代の瞳に居心地の悪さを覚えて、八重はまた反対側を向いた。 「明日、文子に一席ぶってもらえ。その方が解りやすいから」 話を打ち切って、また頬へと飛んできたやぶ蚊を叩いた。うん、と千代の小さな声がして、ごそごそと布団に潜り込む気配がする。 それからしばらくして千代の声がした。 「やっぱりちゃんと教えて。気になる」 八重はそれを無視して寝たふりを決め込んだ。なおも千代はしつこく繰り返してくる。 それでも無視を続けていると、千代が八重の布団へと潜り込んできた。背中にぴったりとくっついて、耳元でさらに同じ言葉を繰り返す。 「だああっ! 寝苦しいから離れろ!」 耐えかねて八重が声を荒げるが、千代は諦めない。もう二回繰り返されたところで、八重は隣の部屋の文子に呼びかける。 「文子っ! まだ起きてるだろ! こっち来て、千代に時そば見せてやってくれ!」 襖一枚隔てただけの部屋なので会話が聞こえていないはずはないのだが、文子がやってくる気配はない。代わりに、くすくす笑っているような声が聞こえてくる。 「十数える内に来ないと怒るぞ! お前が蚊帳落としたせいでやぶ蚊もいるし、千代はくっついてくるしで寝られるか!」 千代の頬を手でぐいぐい押しのけようとするが、一向に千代は離れない。 「いーち! にーい! さーん!」 じたばたしながら、八重が数を数えてゆく。文子はまだやって来ない。 「よーん! ごーお! ろーく!」 千代がしがみついた背中がじっとり汗ばんでゆくのを感じながら、八重が続ける。それでも文子はやって来ない。声だけが襖の向こうから飛んで来る。 「そんなにやぶ蚊いるの? 何匹叩いた?」 「なーな! ……あ? 二匹だよ! 責任取れってんだ! さーん! よーん! ……ん?」 八重が疑問の声を上げると、文子の大笑いが聞こえてきた。目を丸くした千代が耳元で、 「不思議」 と小さく呟いた。 |
脳舞
2011年07月10日(日) 22時29分30秒 公開 ■この作品の著作権は脳舞さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.2 山田さん 評価:30点 ■2011-07-18 13:59 ID:GuwX6j.lV5k | |||||
拝読しました。 確かにちょっと説明過多な感じは受けましたが、決して鬱陶しくはなかったです。 時代考証に関しても気にはなりませんでした。 「扇風機は元号が大正に改まる数年前にようやく日本で発売されたばかりで〜」等の文章のように、きちんと作品内で時代に関する記述を設けていらっしゃるので「ああ、この作者さんならきちんと書いておられるのだろうな」と安心できます。 落語に関しても僕自身はあまり詳しくないのですが、たとえ落語に詳しい方がこの作品を読まれても、決して「内容がちがうじゃねえか」と目くじらを立てることはないと思います。 最初はもう少し百合族的な淫靡な世界でも展開されるのかなぁ、と思いながら読んでいたのですが、いい意味で楽しく、おかしく、可愛らしい作品であったと思います。 最後の『「不思議」と小さく呟いた』を読んだ後に、思わずクスっと吹いてしまいました。 面白かったです。 |
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No.1 HAL 評価:30点 ■2011-07-11 21:55 ID:/rLja11ZaCs | |||||
拝読しました。 楽しく読ませていただきました。女の子たちが友達同士でキャッキャしてるのって、それだけでも読んでて楽しいのに、すっとぼけた文子さんのキャラが、またいい味出してて。噺家の娘、ってなんかすごく意表をつかれました。門前の小僧ならぬ小娘、いいなあ。 考証に、あらためて感心したりもしつつ。題材を見つけるといつも詳しく調べて書かれる脳舞様の姿勢を、自分も見習わねばと、あらためて思いました。いろいろ勉強になりました。この機会にと思って、ちょっとググってみたりもしたのですが、良妻賢母教育と、それに怒りを見せたモダンガールたちの話なんか出てきたりして、おおっと思いました。大正時代って、もっとちゃんと色々調べてみたら楽しそう。 気になったところは……三語の制約を承知の上で、しいてぜいたくをいえば、ですが。文体と口調。もちろん、あえて演出よりも読みやすさのほうを優先されたのだと思いますが、それでもあともう少し、文体や口調や仕草に、時代のにおいというか、ふるめかしさが出ていれば、もっと楽しめたのでは……という印象がありました。せっかくの時代背景なのに、その小道具や背景も詳しく書かれているのに、口調のおかげで、すっかり現代の少女にしか思えなくて。 書かれている内容そのものではなく、単語の選択や語調の部分で。……といいつつ、ほんのちょっとでいいと思うんです。本格的に古めかしい文体を選ぶと、読みづらくてしかたないですし、せっかくの軽さ(いい意味での)が、活きてこないかもしれませんし。匙加減の難しいところと思いますが…… ……などと無粋なことをいいつつも、とても楽しませていただきました。いつものごとく、棚上げも甚だしい発言、大変失礼いたしました! |
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総レス数 2 合計 60点 |
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