白い影
 葵にはゆずれないものがある。朝食の納豆と味噌汁、エアコンの設定温度、好きな男性歌手の曲。中でも一番ゆずれないのは、使っている口紅の色だ。
 花瓶に挿したガーベラのような、淡いコーラルピンクの口紅。とりわけ好きな色というわけでもないのに、どうしてその口紅に惹かれるのか、葵は自分でもよく分からなかった。
 その理由に気が付いたのは、つい先日のことだった。高校を卒業してから初めての夏、葵は帰省した友達と一緒に海でバーベキューをしていた。
 海から漂ってくる潮の香りに、鼻腔の奥がツーンとなる。地元の砂浜に集まった葵たち四人は、バーベキューセットを前に焼きそばの完成を待っていた。
 暮れかけた空には薄膜のような雲がいくつも連なっていて、その隙間から夕焼けの赤い線が伸びていた。その下で、名前も知らない夏の恋人たちが波の音に耳を傾けている。
「ほら、葵。毒味」
「どうして私なの」
「下宿先でウィルス性腸炎に罹って以来、俺の腹は繊細なんだよ」
 フライ返しで焼きそばをほぐしていた直樹が、左手で自分の腹部を指差した。
「どうせ痛んだ惣菜とか食べたんでしょ」
「朝に飲む牛乳、ついつい冷蔵庫に仕舞うの忘れるんだよな」
「ばか」
 直樹は焼きそばを一口分葵の皿に盛った。葵は彼の話す下宿先での失敗談に笑いながら、出来上がった焼きそばを口に運ぶ。
 向こうからリードを繋がれた犬が走ってくるのを見て、不意に葵は頭の奥をコンコンと叩かれたような気がした。
 その時だ。葵の中に鮮やかなイメージが蘇った。それはまだ葵が小学生の頃のことで、恐らくそれまで記憶の奥底に沈んでいたものだった。
 ――わたし、何で忘れてたんだろ
 入り江の奥で出会った幽霊。
 開け放たれた記憶の蓋が、葵の目の前でフラフラと揺れていた。

 それは八年前の夏休み。小学校の理科室でのことだった。
「……うそ。この電球、切れてるんじゃないですか?」
「先生は嘘なんてつきませんよ」
 白衣を着た信也は、噴き出す額の汗をハンカチで拭った。目を丸くした葵たちの表情を、信也は嬉しそうに眺める。
「反応が良くて助かります。実験のやりがいがあるなぁ」
 信也は、葵たちの通う小学校の理科教師だった。鶏の餌やり当番で学校に来ていた葵は、校門前で偶然、信也を見かけた。自由研究の話になり、信也が簡単な実験を見せてくれることになった。純粋な水は電気を流さないんです。信也はそう言った。
 葵の隣に立っていた、もう一人の餌やり当番の子は、ふと思い出したことを口にした。
「でも、うちの爺ちゃんは水道から漏れた水で感電したって」
 その話は葵も聞いたことがあった。
「水道から出る水は純水ではありません。水道水には遊離した残留塩素イオン――簡単に言うと『余計なもの』が混じっているから、それが電気を運んでいるんです」
「きれいな水よりも汚い水の方が電気を通すってことですか?」
 鋭いですね。そう言って、信也は頷く。
「欠点のない人間がいないように、完璧なんてないんです。欠陥のないことが、かえって別の欠陥を生んでしまう」
「けっかんのないことが……」
 信也は眉根を寄せて、自分のこめかみを右の拳でコツコツと軽く叩いた。
「……いけませんね。君たちにはまだ少し難しい話でした。ここが小学校だということをときどき忘れそうになります」
 小学生だった当時の葵は知る由もなかったが、信也は元々予備校の講師だったらしい。多くの受験生からユニークと評された彼の語り口は、彼の夢だった小学校の先生になってからも、しばらく抜けていなかった。
 葵はあまり勉強の得意な方ではなかったが、「君たちにはまだ」と言われる度に悔しい思いを感じていた。葵は、早く大人になりたかった。
「あの、先生」
「何ですか」
「電気を流さないことは、欠点ではないんじゃないですか」
「ほほう」
 信也は葵のことを気に入っていた。彼女は年齢の割に物事を深く考えているし、どこか背伸びをしているのが、信也の目には健気に映った。
「何も伝わらない方が便利な時だってあると思います」
「そう来ましたか」
 信也は感心して手を叩いたが、葵にはそれが不満だった。

 葵が学校から帰ってくると、家にはまだ祖母しかいなかった。どうやら共働きの両親はまだ帰っていないようだった。
 葵の住んでいる一軒家は、周囲をぐるりと囲むようにサルビアの花が植えられていた。その猛々しい、鮮やかな赤を見るたび、葵はざわざわと胸騒ぎがする。
 夕方になると、葵は祖母の切ってくれたスイカを食べ終えてすぐに出掛けた。幼馴染の家に泊まって一緒に夏休みの宿題をやると約束していたのだ。
 絵の具や絵筆、まだ真っ白な画用紙をカバンに詰め込んで、葵は自転車にまたがった。止まっていた夏の空気が、葵の踏み込んだペダルに合わせて、動き出す。
 海岸に沿って伸びる真っ直ぐな歩道を、葵の自転車は進んだ。ペダルを漕ぐ葵の左脇は一面にオーシャンビューが広がっていた。沈みゆく太陽の下で、恋人同士と思しき男女が砂浜に寝そべっている。
 その時不意に、葵の視界の隅で砂浜に白い影が横切った。
「こんな時間に」
 額から次々と噴き出してくる汗をシャツの袖で拭いながら、葵はその白い影に違和感を感じた。時刻はもう六時半を回っていた。さっきの男女以外、砂浜に海水浴客はいない。
 葵は少しだけ迷ったが、その人影を追いかけることにした。繰り返される平凡な毎日にちょっとした刺激が欲しかったのかもしれない。
 白い影は砂浜の奥にある入り江の方に消えていった。葵は自転車から降りると、画材の入った鞄を背負った。そのまま自転車に鍵をかけて、砂浜の横の防波堤を越える。
 影の消えた入り江の向こうには、ひっそりとした砂浜――英語で言うならプライベートビーチといったような――が広がっていた。
 葵は白い影の正体を探した。しかし、砂浜には誰もいなかった。
「確かにこっちに来たはずだけど」
 口にしたことは本当になるという言葉の力を、当時の葵は信じていた。こう言うことで誰かが目の前に現れるのではないかと期待していたけれど、何の物音も気配もなかった。
 まさか、幽霊……。
 静かに波の崩れていく音が、葵の興奮を鎮めていった。
 なんてことはない、ただの見間違いだ。それは口に出さなかった。
「あ、もうこんな時間」
 約束の時間に遅刻してしまう。時間にうるさい幼馴染が怒っている顔を想像して、葵は道草したことを後悔した。

 宿題は進まなかった。誰だって食事が出れば手を付けるだろうし、遊び相手が目の前にいたら遊んでしまう。人の意志の力だとか、そういうことではどうにもならないことが、子供の世界にはたくさんあるのである。
 本当は、葵はさっきのことが気になっていた。トランプで遊びながらも、葵は頭の中であることを考えていた。
「葵?」
 呼びかけられてようやく、葵は我に返る。
「うん?」
 やれやれ、といった様子で幼馴染の彼は葵に促した。
「次、葵の番だぜ」
 二人で七並べをしたってあまり楽しくないと思うのだが、葵たちには二人だけで遊べるトランプゲームに心当たりがなかった。
 無心にカードを並べているとあくびが出てくる。
「もうやめない?」
「えー」
 不満の声を洩らしていたものの、彼の片づける手は滑らかだった。彼の方も、とっくに飽きていたのだろう。
 トランプのケースを机の引き出しに仕舞いながら、彼が葵に訊いた。
「さっきから何考えてる?」
 何、と言われても困る。
 葵は一つだけ嘘をついたが、後のことは正直に話した。
「さっきここに来る途中、海岸の歩道を走ってる時かな――誰かが、入り江の奥に入っていくのを見たの。……犬を連れた近所の人だったんだけど、その人と話したことを考えてぼうっとしてただけ」
「初対面の人と何を話したんだよ。お前、人見知りじゃなかったっけ」
 葵は咄嗟に答える。
「どこの小学校? とか、挨拶程度だよ。ただ、すごくきれいな人だったから」
 よくもまぁ口が回る。正直に言えば良かった、と葵は後悔した。
「へぇ。美人だったんだ」
 これ以上はボロが出そうだったので、葵は話を途中で変えた。
「そういえばさ、この前買ったっていうゲームソフト、やろうよ。そこにあるの、ずっと気になってて」
「あぁ、そうだったそうだった。お前が来たらやろうと思ってたのに忘れてた」
 彼は頭を掻いて、床に落ちているTVのリモコンを探した。

 布団に入っても頭の中は驚くほど醒めていて、葵は胸騒ぎを止めることができなかった。幽霊、電気を流さない水、砂浜にいた恋人達、色々なものがぐるぐると回っていた。
「……ねえ」
「ん?」
「起きてたんだ」
 身じろぎ一つしないから、葵は、彼はもう眠ったのだろうと思っていた。
「眠れないのか」
「ちょっとね」
「エアコン付ける?」
「ううん、いいよ」
 それきり彼は黙って、小さな寝息を立て始めた。
 額にじわり、汗が滲んだ。葵が寝返りをうつと、滴がこめかみを伝って布団に落ちた。シャツの腕でそれを拭い、葵はもう一度眠りに就こうとする。
 隣にいる彼は何を考えて、今を過ごしているのだろう。
 自分の知らない世界を、知ってみたいと思わないのだろうか。

 次の日、葵たちは自由研究の課題を相談するため、学校に向かった。
 駐車場にワンボックスカーが一台停まっていた。信也の乗っている車だった。
「おや、君たち早起きですね。先生はまだ来たばかりですよ」
 信也は職員玄関の前で鍵を開けるところだった。
 午前八時。確かに、夏休みにしては早すぎる登校だった。
「自由研究のことで相談があるんです」
 葵が頼むと、信也は快く引き受けてくれた。
「なるほど。ですが……、先生は少し理科準備室のお掃除をしなくちゃいけないんです。理科室でちょっと待っていて下さい」
 鍵が開いた校舎の中に靴下のまま入り、静まり返った廊下を信也の後ろについて歩いた。上履きなしで学校の廊下を歩くのは、足元がスースーとしてなんだか落ちつかなかった。
 葵たちがしばらく理科室の椅子に座って待っていると、そのうち汗だくになった信也が透明な液体の入ったビンを持ってやってきた。
「面白い物を見つけましたよ」
 信也はビンの蓋を開けて、手で仰ぐように匂いを嗅いだ。薬品の匂いを確認するときはこうしないとダメだ、と信也から教えられていたので、葵たちもそうした。
「これで少し簡単な実験をしてみましょうか」
 信也は、危険、と書かれた薬品棚から二つの瓶を取り出した。
「先生、それって、危ない実験ですか?」
「いいえ、やり方を間違わなければ何も危ないことはないですよ。爆発したりすることもないですし。ただ、先生のいない時には、この棚に触ってはいけません」
 信也は、二つの瓶から直接、液体を二つの大きなビーカーに流し入れた。信也が先ほど準備室から持ってきた瓶の中身は、まだ使わないらしかった。
 次に目盛りのついたビーカーを置いて、スポイトでそれぞれ同じ量だけ移し替える。
「これで準備はできました。では、お二人はそれぞれ好きな方のビーカーを選んで下さい。そしてそれぞれが選んだビーカーにこの瓶の薬品を入れてみましょう。ほんの数滴で十分ですよ」
 やっと自分たちの出番がきた。葵と幼馴染の彼はじゃんけんをして、勝った葵は右側のビーカーを選んだ。スポイトで数滴、謎の薬品を垂らした。
「何も起こらないですよ」
「外れだったみたいですね」
「なんですか、外れって」
 しばらく待ったが、何も起こらなかった。
 続いて隣の彼が左のビーカーに垂らした。欲張りな性格のためか、数滴と言われたのに結構な量が入った。
「わぁ……」
 液体は見る見るうちに鮮やかな赤色へと変わった。
「当たりです」
 外れの反対は当たり。それはそうだ。葵は少しムッとする。
「では次に、この二つを混ぜてみましょう」
 これは少し危ないから、と言って、信也は赤くなった方のビーカーに透明なままだったビーカーの液体を注ぎ込んだ。
 さっきまでの綺麗な赤色は、たちまち透明になった。
「赤と透明を混ぜたら、透明になった」
 絵の具の赤色と透明な水を混ぜたって、透明にはならない。唇を引き結んで葵が考えていると、信也が何やら難しい説明をした。
「こういう薬品は、指示薬と言います。大抵いわゆるジアゾ系有機化合物で、窒素間結合の吸収波長が可視光に近いため、周囲のpHによって微妙に色を変えるんです。……あ、また」
 信也はわざとらしく、こめかみをコツンと叩いた。
 そうやって子供扱いされることが、葵はまた不満だった。
「リトマス紙は知っていますね。このメチルオレンジは、ちょうど青色リトマス紙と同じです。酸性のものに触れると色が変わるわけです」
 葵はうろ覚えながら、先日の理科の授業を思い出した。
「今は赤くなった酸性の溶液とアルカリ性の溶液が中和した結果、ただの食塩水になって色が消えました。中和はまだ知らないかな」
「ただの足し算にはならないんですね」
 信也は二人の反応が嬉しくてしょうがない様子で、答えた。
「世の中には足し算では説明できないことがたくさんあるでしょう。悪いことをしても、その分良いことをすれば、悪いことは帳消しになったりします。一度失敗しても反省することが大切ですね」
 その信也の言葉だけは、葵の心にスッと染み込んできた。
 帳消しになったりもする――。
「だけど、やっぱり悪いことはいけないことですから、お二人も警察のお世話になったりしないように気を付けて下さい。夏休みというのはルールを守って楽しむものです」
 はーい。と返事をしながら、葵はじっと透明なビーカーを見つめていた。幼馴染の彼は飽きてしまったのか、スポイトで水を飛ばして遊んでいる。
 ふと、葵は思い付いた疑問を口にした。
「先生。この水も、電気を通しませんか?」
 訊ねると、信也はにこやかに答えた。
「いいえ、帳消しにしたといっても、これは食塩水です。溶けた食塩が電気を運ぶので、電流を伝えるんですよ」
 帳消しにしてからでも、伝えることができる。
 葵は、昨日の出来事を思い出していた。
 蜃気楼のように消えた白い影と、トランプをしながら彼についた、些細な嘘を。

             ***

「あ、もうこんな時間」
 約束の時間に遅刻してしまう。時間にうるさい幼馴染が怒っている顔を想像して、葵は道草したことを後悔した。
 海は静かだった。入り江の奥にあるプライベートビーチは、まるで誰かの秘密を覗いているような気がして落ち着かない。
「……あら?」
 後ろから声を掛けられた。風に乗って、果物のような、甘い香りがした。
「こんなところに一人でいるのは危ないわ。もう暗いし」
 目の前に、白いワンピースを着た長い髪の女性が立っていた。足元に細いラインが交差したミュールを履き、指先には貝殻のような爪が並んでいる。
 女性の手には散歩用のリードが巻かれていて、足元で小さな犬が尻尾を振ってこちらを見ていた。
「いや、ちが……」
 突然話しかけられたせいで、葵はたじろいだ。慌てて、自転車の置いてある歩道の方に足を踏み出す。
「あ、待って」
 呼び止められて葵が後ろを振り返ると、黒く大きな瞳と、目に鮮やかなピンク色の唇が目の前にあった。驚いて尻餅をつく。すごく……綺麗な人だ。
「あらあら。驚かせてごめんなさい。これ、落としたわ」
 彼女は、葵の落としたものを渡そうとしてくれたようだった。
 浅いポケットに刺しておいたから、落ちてしまったのだろう。お姉さんの手から絵筆を受け取ると、起き上がって鞄の中に仕舞った。
「きれいな瞳をしてるのね」
 葵はお姉さんに見つめられて、動けなくなった。
「少しそこに座ってお話でもしましょう」

 波が打ち寄せる音を聞きながら、葵は貝殻を手で弄っていた。
「この辺りの子?」
「はい」
「○○小学校かしら」
「そうです」
「じゃあ私の後輩ね。私の実家もこの辺りなの。今は東京の大学にいるから、夏くらいにしか帰ってこないけど」
 葵には、自分より何歳も年上に見えたけれど、まだ二十歳になったばかりとお姉さんは言った。
「東京って、どんなところですか」
「そうね。東京は、怖いところよ」
 幽霊がたくさんいるの。お姉さんはそう言った。
「幽霊……」
「みんな幽霊みたいに暮らしているのよ。何をしていてもどこか虚ろな目をして、何かに追われるように働いたり、お喋りをしたり、人に嘘をついたりしている」
 葵にはうまく想像できなかったが、なんだか、とても怖かった。もしかするとこの人はもう死んでしまった人で、自分が見ているのは幽霊なのかもしれない。
 そのくらい、お姉さんの輪郭は白くておぼろげに見えた。
「小学生の時、お姉さんはどんな子供でしたか」
「私? あなたたちと同じよ。海で遊んだり、スイカを食べたり、夏の終わりには宿題が終わらなくて困ったり」
 遠くを見つめながら昔を懐かしむように笑ったお姉さんの頬は、お化粧のせいなのかもしれないけれど、少し赤かった。
「好きな男の子に告白したり」
 告白。葵はその言葉に胸を高鳴らせた。
「どんな男の子だったんですか」
 お姉さんは長い髪を手櫛で流して、答えた。
「怒りんぼうで、いつもイタズラばっかりする子だったなぁ。でも私には優しかったの。捕まえたトンボやカブトムシを、私に一番に見せてくれて」
 照れたように、お姉さんは両手で顔を覆った。

 どこか心地良い沈黙が続いた。緊張して葵が少し動くと、膝の上の砂がさらりと落ちた。お姉さんは独り言を言うようにして、葵に尋ねる。
「ねぇ、好きな人はいる?」
 突然の質問に葵は驚いたが、とりあえず正直に答えた。
「います」
「どうしたい?」
「え?」
「その子のこと」
 葵は口ごもってしまった。葵の中では、ただ漠然と相手が好きだというだけで、何かをしたいなんて具体的な考えはなかった。
「例えばどんな」
「キス、とか」
 急に顔が熱くなった。小学生の葵にとって、その二文字はテレビドラマの中でしか聞くことのない、別の世界の言語だった。
「じゃあ、お姉さんと練習しよっか」
 お姉さんは唐突に葵を抱き寄せると、紅を引いた唇を、葵の口元に押し当てた。初めて知った柔らかい感触に、葵は全身の血液が抜き取られてしまったような錯覚を覚えた。
 しばらくそうしていて、お姉さんはそっと唇を離した。
「……どうだった?」
 葵は放心したまま、お姉さんの瞳を見つめていた。
「あ……」
 お姉さんはもう一度髪を手櫛で流して、悲しそうな顔をする。
「ごめんね。あなたが本当に綺麗な瞳をしていたから――ちょっとだけ、意地悪をしたくなっちゃったの」
 葵の心臓はドクドクと高鳴っていて、その音がいつまでも鳴りやまなかった。
「私は幽霊だから、今のは忘れてしまう方がいいわ。幽霊とキスをしたって何もないのよ。それは幻なんだから」
 お姉さんは立ち上がり、向こうの木に繋いである飼い犬の方へ歩いていった。
 ふと、その途中で何か思い出したように、こちらに振り返る。
「最後に一つだけ。男の子っていうのはとっても正直だから、女の子のように上手な嘘をつけないの。覚えておいてね」
 いつの間にか、お姉さんと犬の姿は見えなくなっていた。
 白い影がいつまでも、葵の目に焼きついていた。

            ***

「葵、どうした? 箸落ちてるぞ」
 目の前の景色が反転する。葵は箸を砂浜に落としたまま、ぼうっとしていたようだ。
「え? ああ、ちょっと考えごと」
「お前が真剣な顔してると変な感じ」
 変な感じ、と言われても、こういう顔なのだから仕方ない。
「悪かったね、変な顔で」
「別にそういう意味で言ったんじゃないって」
 目の前では、直樹がフランクフルトを頬張っていた。大きな口を開けて喋るので、唾が飛んでくる。
「汚いなぁ」
 直樹は顔の前で手を振る。
「あぁ、悪い悪い」
 目の前で「バーベキュー・キャンプの禁止」と書いてある看板を見ながら、よくもまぁ堂々と食べていられるものだと、葵は思う。葵はなんだか気が引けてしまって、しきりに周囲の目を気にしていた。
「なんかこうやって集まると懐かしいな――。久しぶりに葵たちと会ったらいろんなこと思い出したよ。信也先生、元気にしてるかな」
 そう、葵も大切なことを思い出せた。
「みんな大学に進学してバラバラになっちゃったから、今じゃ夏と正月くらいにしか会えないもんね」
「大学の場所は近いんだけどな。葵と俺だって会おうと思えば会えるし。まぁ、腐れ縁の俺じゃ新鮮味もないか」
 フライ返しを器用に使って、直樹がひょいと玉葱の切れ端を拾い上げる。
「これはもう食えないな」
 先程から必死に鉄板の下へ息を吹き込んでいる女友達が、呆れたように言う。
「さっきから呑気でいいわね。こっちの苦労も考えてよ」
 葵は手を合わせて謝る。もう一人の男の子が付け加えた。
「直樹もさぁ、自分ばっか食ってないで、もうちょい葵ちゃんを気遣ってやれよ。幼馴染なのは分かるけど」
 ――電気を流さないことは、欠点ではないんじゃないですか
 ――ほほう
 ――何も伝わらない方が便利な時だってあると思います
 伝えない方がいいことだって、あると思っていた。
 ――私は幽霊だから、今のは忘れてしまう方がいいわ。幽霊とキスをしたって何もないのよ。それは幻なんだから
 ――先生。この水も、電気を通しませんか?
 ――いいえ、帳消しにしたといっても、これは食塩水です。溶けた食塩が電気を運ぶので、電流を伝えるんですよ
 帳消しにしてからでも、伝えることができる。
「葵は昔っから小食だから……いいんだよ」
「なんか直樹、顔赤くない?」
「ちがっ」
 ――お前、さっきから何考えてる?
 葵は「一つだけ」嘘をついたが、後のことは正直に話した。
 ――さっきここに来る途中、海岸の歩道を走ってる時かな――誰かが、入り江の奥に入っていくのを見たの。……犬を連れた近所の人だったんだけど、その人と話したことを考えてぼうっとしてただけ
 正直に言えば良かったと、今更になって葵は後悔する。
 ――その人と話したことを考えてぼうっとしてただけ
 本当は、直樹のことを考えて……。
 彼の唇に、触れてみたい。
「おい葵、俺の顔に何かついてるか?」
 直樹の声と同時に、葵の耳には波のさざめきが届いた。
 彼は怪訝な顔をして、葵の顔を覗きこんでいる。葵は慌てて手を振った。
「う、ううん。何でもない」
「葵はウブなだけなんだから。直樹、勘違いするんじゃないわよ」
 釘を刺す彼女の横で、男の子が続けた。
「でも、直樹は案外まんざらでもないんだよな」
 直樹は少し顔を赤くして、ぶっきらぼうに言う。
「そんなんじゃねぇよ。おい、いい加減なことを言ってると、これひっくり返すぞ」
 直樹はフライ返しで鉄板を示して見せる。やめろよ、俺たちまだ食べてないんだぞ、と残りの二人が両手で制した。
 ――男の子っていうのはとっても正直だから、女の子のように上手な嘘をつけないの。覚えておいてね
 四人の笑い声が、夕暮れの海岸に響く。
 葵は覚悟を決めた。今日こそはこの想いを伝えよう。入り江の奥に呼び出して、幽霊に奪われたファーストキスを、彼の口付けで帳消しにしてもらおう。
 遠く彼方まで続く水平線は夕陽に赤く滲んでいる。光る海面は立ち上がり、端から順に砂浜へ崩れていった。
 彼に言いたいことがたくさんあった。頭の中にいろんな言葉が浮かんでは消えて、葵はしばらく、直樹の顔を上手に見ることができなかった。

おしまい
Phys
2011年06月26日(日) 19時27分57秒 公開
■この作品の著作権はPhysさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
もう六月も終わりに差し掛かりました。外を歩くと汗ばむ季節ですね。ついこの前入社したと思っていたら、夏至を過ぎていました。
作品の内容と関連して、私は海の綺麗なところで育ったので、冬より夏が好きです。(この話も去年実家で書いたと記憶しています)
そのためか、この小説には少しばかり思い入れがありました。エネルギー不足の昨今、使えそうな資源を再利用したというわけです。
たどたどしい文章ですが、忌憚なきご意見を頂ければ嬉しく思います。
P.S. 羽田さんに注意されたpHを直しました。(汗)

この作品の感想をお寄せください。
No.6  青空  評価:50点  ■2013-12-21 19:28  ID:wiRqsZaBBm2
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 うーん。短大時代に某教師にうがい薬はヨウ素液で……みたいな話を口を半開きにして目を点にさせて聞いていたのを思い出しました。電気泳動がどう、とか、分子化合物がどう、とか、わけのわからない単語が炸裂していて実験を班の人にまかせて全部やってもらっていたのが遥か遠い記憶です。どうも、不真面目なので……
 ストーリーについて戻すと、幽霊が唐突な気がして、自分としては、教師は幽霊を出現させようとして、実験をしていた、と思っていたので、その淡い期待は見事に裏切られてしまいました(笑)
 一番は、やはり海の音が間近に迫ってくる描写は見事で、泣きそうになる風景を持ち続けられるっていうのは見事だなと思いました。
No.5  らいと  評価:40点  ■2011-09-18 16:48  ID:J44h6PeHayw
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拝読させていただきました。
夏の日の幽霊と思い出とバーベキュー。フルコースですね。雰囲気がとってもあったと思います。
構成が緻密で、時間を前後したりする感覚がとても気持ちよかったです。
焼きそばがとてもうまそうでしたね。買って来たくなりました。
化学的知識はないのでよくわからないのですが、そういう蘊蓄も今後の作品を期待させてくれるものだと思いました。
面白かったです。
拙い感想失礼しました。
No.4  Phys  評価:0点  ■2011-07-06 20:10  ID:RvOyUb/JnZI
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こんにちはー。いつも稚作に暖かいコメントを頂き、とても嬉しく思います。
最近暑いので、桜井さんの暖かさでさらに汗が吹き出しました。私の仕事は
事務系でして、職場はパソコンの排気ですごいことになっております。

『少年』お読み頂いていたとは……。なんだか冷や汗が出て参りました。私に
とっては二作目、に書いた作品だったのですが、『推理小説みたいなトリックを
書くんだー』と意気込んで、よく分からない話に終始した小説でありました。

改稿をすることは、物語に棲む登場人物たちにメスを入れるようで少し抵抗が
ありましたが、愛する故郷の風景を少しでも感じて頂けたとのこと、感激して
います。(そんな大層な小説じゃないのに、大袈裟ですね……汗)

少しずつ上達すれば、自分の伝えたい気持ちや、日々感じる些細な心の揺れ、
涙を流すほど悲しい経験の一つ一つを、きちんと物語に込めることができると
信じています。発展途上でも、私は今の若さや青さを大切にしたいと思います。

化学、桜井さんがおっしゃるほどできませんよー。数学や自然科学が好きなだけ
です。愛することと愛されることは違います。でも愛し続けることはできます。
私は小さい頃から図鑑を読んだり、外で蟻の行列を眺めて一日を過ごしたりと、
自然科学に興味を持っていました。才能ゼロ人間ですが、そこは努力でカバー
すればなんとかなるものなのです。(小説はあれですけどね……)

桜井さんのような社会人の先輩方に見られていると、常に緊張感を感じつつ、
恋に仕事に小説に(笑)責任感を持って頑張りたいと思います。まだまだ暑い
ですが、夏はこれからが本番です。また、よろしくお願いいたします。
No.3  桜井隆弘  評価:30点  ■2011-07-05 01:10  ID:zYMInB2OGnM
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暑い日々が続いてますね!
一人暮らしの自宅に帰って、ドアを開ける瞬間の熱気は鬱であります(苦笑)

さて、本作は『少年』のリメイクですね!
当時感想こそ書きませんでしたが、読ませていただいた記憶が蘇ってきました……本当ですよ(笑)
「性転換」のトリックにかなり悩まれて、故の今回のカットだと推察します。
僕はトリックはあっても良いと思うのですが、本作は本作でわかりやすく、純粋にストーリーで勝負するというPhysさんの意気込みが、「葵」さんからも伝わってきました。
そして、代わりに持ってきたタイトルが『白い影』というのが、また秀逸ですね。タイトルに関しては、こちらが正解なのではないでしょうか?

こういったリメイクは、作者様の作品に対する思い入れが感じられて何だか嬉しいです。
Physさんが故郷を愛しているのがよく伝わってきますし、自分自身の故郷を思い起こさせる良い契機になります。

自分のスタンスをしっかりと確立して主張できるということは大事だと思いますし、Physさんのスタンスは純粋で好きなので応援したいなと思います。
気取った表現が出来ないというのは嘘ですね。
これだけの比喩や、先生の学問的な言葉を利用した展開を、既に一年前にされていたのだと改めて見て……同期じゃなかったです、僕は後輩です(苦笑)

化学ができるのに小説も書けるとは……多才であること、羨ましい限りです。
僕は、スイヘーリーベーのところから化学は嫌いになりました(笑)

実務大変だと思いますが、自分を追い込み過ぎず頑張ってくださいね。
Physさんは責任感が強そうな方なので、ちょっぴり心配です。
また新作読める日も楽しみにしています!
No.2  Phys  評価:0点  ■2011-07-05 23:03  ID:RvOyUb/JnZI
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羽田さんへ

投稿したその日に感想を頂いていたのに、お返事が遅れて申し訳ありません。
今週無事に研修が終わり、実務が始まりまして、余裕がゼロの私でした。

夏を感じた、と言って頂けることが、とっても嬉しかったです。私自身、季節感
のある描写や過去を懐古する構成の小説が好きなので、こういうバランスの
お話はよく書きます。

私は描写に気のきいた表現ができないので、割と直截的、ストレートに文章を
組み立てます。難しい言い回しや気取った表現はできませんが、偽善的である
ことは決して恐れない。それが私のスタンスです。
(なんか偉そうだ……)

>夏と言えば海、砂浜、幽霊、そして恋。
なんだか、新刊の帯書きのように絶妙なワンフレーズですね。羽田さんが帯を
書けば誰の本でも売れそうです。ご自身の文章が上手い上に、人を褒めること
まで上手い羽田さんに、ちょびっと嫉妬します。

>塩化ナトリウム水溶液の魅力を改めて実感
やや、ここにも化学大好き人間さんがいらっしゃいますね。私も学生時代は、
けっこうケミ好きだったのですが、だいぶ長いこと物理を専攻していたので、
最近仕事でポリマーや無機反応の化学式を見たら、何が何だかさっぱり……、
そもそもこれ日本語? になっていました。

関連して。pHの誤記、ご指摘ありがとうございます。とまぁ私の化学知識は
現在この有様です。気に障るどころか、家庭教師をお願いしたいくらいです。
プリーズレクチャートゥーミーです。

今年の夏は電力状況も厳しいようですし、体を壊さないように気を付けたいと
思います。羽田さんも、ちゃんともりもり食べて下さいね。猫に食べさせちゃ
ダメですよ(笑)

最後まで読んで頂きましてありがとうございました。失礼します。
No.1  羽田  評価:40点  ■2011-06-26 22:40  ID:hsqdNI4ToQo
PASS 編集 削除
Phys様へ
拝読させていただきました。

いやあ、夏ですねえ。
磯の香りと夏の熱い風が思い起こされるよい作品でした。海辺でバーベキューをしたときの、あの煙たい感じと、熱気で揺らめく空気を感じました。
きっと直樹君はよく日焼けをした顔をして、鼻の頭に汗を玉にして焼きそばを炒めているのでしょう。目の下にも汗が溜まっているでしょう。
首にはタオルを巻いていそうだ、と勝手に想像しました。なんだかそう感じたのです。

思い入れ(もしかしたら多少の実体験)が深いのだなあ、と伝わってくる文章のならびでした。「陽のあたる場所で」よりも、もっとずっと明瞭な輪郭を持った文章だと思います。
自分の中にある景色を眺めながら文章に起こしたのかなあ、と感じました。そしてその景色を私も見ることができました。第三者に風景を上手に想像させるよい作品だと思います。

素敵な夏の思い出ですね。
夏と言えば海、砂浜、幽霊、そして恋。
主題の「白い影」も作品の名前にふさわしく、話の材料として、幽霊にファーストキスを奪われるという奇抜な体験もいい味が出ているし、信也先生の化学の話ともうまく絡めておいでだとおもいます。
私は化学大好き理系人間なので、信也先生の講義にぜひ出席したいです。
不純物を含む水は電気を通し、純水は電気を通さない。私たちは不純物を含んだ水をのむ。
化学の世界に普通の足し算は通用しない。塩化ナトリウム水溶液の魅力を改めて実感しました。

葵さんの「嘘」に気づいてにやにやしてしまいました。きちんと帳消しにしてもらえるといいですね。
過去の記憶と現在を結びつける流れが綺麗で羨ましいです。
Phys様の伏線の張り方を見習わせて頂きたいです(´・ω・)

そして
>暮れかけた空には薄膜のような雲がいくつも連なっていて、その隙間から夕焼けの赤い線が伸びていた。
この一文がたまらなく好きです。
ああ、夕方だ。とはっきりわかったからでしょうか。
漠然としていますが、この文章がたまらなく好きです。

書きたいことをつらつら並べていたらとても長くなってしまいました。
とりとめのないことを長々と申し訳ありません。それだけ印象に残ったのです。
最後に一つだけ気になったところを指摘させてください。
些細な点を申し付けてしまうようですが、PHの表記はpH が正しいようです。
お気に触りましたら、お見捨ておきください。

それでは、どうか熱中症などにならぬようご自愛くださいませ。
素敵な作品ありがとうございました。
また読ませてください。
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