| 兎 |
|
玄関に兎が立っていた。靴も履かず、背後にある扉に施されたすりガラスから透き通る夕日に静かにあてられている。 白くふさふさとした毛をまとい、真っ赤なベストを着て、三つの大きな黒色のボタンを前でとめている。首からは金色に輝く大きく丸いものをつり下げている。細く長い二つの耳はピンと伸びていて、ゆらゆらと、ゆっくりと揺れている。兎の存在感は、まるで骨董品店に置かれた空気清浄機のように、とてもはっきりと際立っていた。 なにしてるの? と兎が僕に尋ねた。血のように赤く、丸い二つの目が僕の顔をまっすぐに見ていた。 「いや……、台所に行こうと思って」、僕は右手に持った白くなめらかに光るマグカップを兎に見せた。 ふうん、と兎は退屈そうに細い鼻息をもらした。なるべく早くしてね。そう言いながら左足に重心を傾け、右足で三和土を叩く。タンタン、タンタン。僕と同じだ。あれは他人を催促する時にする。やられた方は機嫌が悪くなることを、兎は知らないらしい。 「なんで早くしないといけないの?」と足を動かさずに言った。 出かけるんでしょう? 兎は首から下げたものを裏返して僕に見せた。懐中時計のように見えたけれど、表示されているのはデジタル数字の羅列だった。時刻ではない。一番右はしの数字が、正確に一秒を積み重ねているのが見えた。兎の右足が刻むリズムと合わさる。タンタン、一秒。タンタン、一秒。 その数字の羅列が何を意味しているのか、僕には分かっていた。それ意識して考えれば、兎の目的も想像するのは難しくない。 「出かけないよ」 どうして? 不満そうな顔。どうして出かけないの? 「行くところがないからさ」 なんで? 不思議そうな顔。なんで行くところがないの? 「どうでもいいじゃないか、僕の勝手だろ」と僕は言う。「どこに行く予定もない」 予定がなくちゃいけないの? 「そうさ」 嘘だね。と兎は笑った。口が横いっぱいに広がり、二本の白い歯がのぞいて見えた。 「なにが嘘なんだよ」 予定があっても、どこにも行かないくせに。予定があったって、どこにも行きたくないくせに。自分から消したんだろ。自分から逃げたんだろ。兎は抱えた時計を目の前に掲げた。見てくれよ、この時計。もうこんなに進んでしまった。もうこんなに溜まってしまった。ボクはこんなに遅刻してるんだ。早く止めてくれよ。君が止めてくれよ。君が止めないと、時間は進む一方だ。 タンタン、一秒。タンタン、一秒。 早くボクを連れていってくれよ。兎は怒ったように耳を揺らした。 時計のデジタル数字が一秒を一秒ごとに積み重ねていくのを、僕は黙って見ていた。 折角ボクが迎えに来たんだぜ? ここまでやって来たんだ。こんなに時間がかかったし、みんなに反対されたけれど、やっとこうやって出迎えに来れたんだ。それは君だって知ってるだろ? 僕はマグカップの中を覗いた。何も入っていない、空っぽだった。底にはうっすらと影が溜まっている。僕と同じ。空っぽの時を過ごせば、底には段々と影が流れこむ。 君は弱虫だね。なんて弱虫なんだろうね。そうやって逃げ続けて。もうここは袋小路じゃないか。次はどこに逃げるっていうのさ。 「弱虫なんかじゃない」と僕は言った。「それに、逃げてなんかいない」 強がるのも弱虫の証拠さ。兎は真っ赤な目を細めて言った。彼がリズムで刻む一秒が、僕の頭の中に染みこんで来る。額の裏側が熱くなっていくのが分かった。 君が弱虫で、優柔不断だから僕が迎えに来たんじゃないか。自分一人で行動することも出来ずに、他人にも頼らずに逃げてる。 「うるさい」と僕は声を荒らげた。言葉が勝手にこぼれていたと表現した方が正しい口調だった。 兎は両目をパッと大きく開いて、次にしゅんと悲しそうな表情を見せた。 ごめんよ。ごめんよ。悪かったよ。もう言わないよ。そう言う兎の二本の耳が、ゆっくりと垂れ下がっていく。足の動きもピタリと止まった。 しばらくの間。どこからか聞こえるひぐらしの鳴き声だけが沈黙を遮ってくれた。 僕は奥歯を強く噛み締めた。それと連動して、自然と両手にも力が入った。すりガラスを通った夕日にあてられて、影を差した兎を見る。すっかり垂れ下がってしまった耳が顔を隠していた。 肌、と兎は呟いた。肌、白くなったね。真っ白だね。顔を隠す二つの耳の隙間から赤い目がのぞいている。 「君に言われたくなんかない」、僕は兎を指さした。 昔はボクだって、もっと黒い姿だったんだ。と兎は言った。知ってるだろう? 「そんなの」、僕は重たい口を開いた。「そんなの、思い出したくない」 口に出した言葉とは裏腹に、頭の中に自動的に湧いて出る景色。眩しい太陽の光を受けて黒く焼けた腕と足。額に浮かぶ気持ちの良い汗。当たり前だったはずなのに、僕が拒絶して過去に閉じ込めた記憶。 そうだよね。うつむきかけた顔を少しだけ上げて、小さい声で応えた兎は、また右足を動かし始めた。永遠に一秒を刻み続ける淡々とした無慈悲なリズムが響く。僕はその音から逃げるように台所へと向かった。 もうすぐ両親が帰ってくる。早く自分の部屋に戻らないと、顔をあわせてしまう。 タンタン、一秒。タンタン、一秒。 |
|
しぐれ
2011年06月28日(火) 12時51分19秒 公開 ■この作品の著作権はしぐれさんにあります。無断転載は禁止です。 |
|
| この作品の感想をお寄せください。 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| No.7 歌菜 評価：50点 ■2011-11-15 20:21 ID:YK3wjIlw37Q | |||||
|
ご拝読させていただきました！ (どうでもいいことなのですが)個人的にあの兎さん好きですwハイ。ミステリアスな展開というか……なんというか…とにかく面白かったです(> <*) 私も学習せねばw これからも作品期待しております！ ただの感想になってしまった← 長々と失礼いたしました(汗) |
|||||
| No.6 しぐれ 評価：0点 ■2011-07-12 19:58 ID:HzZPbeXTPvw | |||||
|
>陣家さん 最後まで読んでいただきありがとうございました。 作中に出てくる兎は、ホラー的な要素として書いたつもりはなくて、読者を過度に怖がらせる考えはありませんでした。 そもそも兎の正体からしてソーシャルバニーとは似て非なるものなので、主人公との会話や兎の反応もすべてヒントとして書いています。 しかしどうやら僕の構成力と描写が弱いせいか、どうも言葉の意味が伝わらずにただ薄気味悪いだけの獣になってしまったようです。 読者に回答を垣間見せるのは、まったく難しいものですね。今後の課題として意識します。 具体的な感想をありがとうございました。感謝します。 またの機会がありましたら、よろしくお願いします。 それでは。 |
|||||
| No.5 陣家 評価：30点 ■2011-07-10 19:59 ID:ep33ZifLlnE | |||||
|
拝読させて頂きました しぐれさん、初めまして陣家と申します。 ちょっと昔のゲームですがＳＩＭＳ２という有名な人生シミュレーションゲームがありまして、プレイヤーキャラのパラメータであるところの楽しさが０になると現れるソーシャルバニーというのを思い出しました。 その姿はウサギではあるけれども巨大な着ぐるみであり、薄汚れていて片目がとれているという不気味なものでした。 そのウサギがプレイヤーキャラにつきまとい、人形のジャグリングをしてみたり、出来の悪い着ぐるみショーよろしくかわいくぴょんぴょん跳びはねてみたりといった事をすることで楽しさのパラメータを少し回復させてくれるのです。 まあ救済キャラではあったのですが、その姿はいわゆるホラー以外の何者でもなく、わたしはこのキャラが現れるのが恐ろしくてキャラの楽しさのパラメータが０にならないように必死にプレイしていました。 何がそんなに不快だったのか考えますと、おそらくこれは子供の頃遊んだぬいぐるみの傷み果てた姿であり、さんざん遊んだあげく、いつとも無くうち捨てられたおもちゃの代表としての存在だからでしょう。 それが大人になった今、楽しさをなくした生活の中に突然現れる、生理的嫌悪と戦慄を憶える演出です。 それに比べると本作に登場する兎さんは口数も多く、ソーシャルバニーに比べればずっとフレンドリーで優しいやつに思えます。 作者様が求めているものとは微妙に違っているかも知れませんが、読み手に対して生理的嫌悪を憶えるような表現を使う、ある意味王道なのかも知れません。 参考になったかどうか解りませんが、参考までに。 それでわ。 |
|||||
| No.4 しぐれ 評価：--点 ■2011-07-09 17:56 ID:fRIhriKSQOs | |||||
|
>無花果さん はじめましてです。 最後まで読んでいただきありがとうございます。 誰のどんな感想であろうとも、参考にならないものはないので、無花果さんの感想も大変ありがたいです。 最後の両親との鉢合わせを避ける語り部の描写で、物語の背景というか、どういうストーリーなのかが分かってもらえたら幸いです。 自分自身、物語に対する説明というのが極度に苦手なもので、自分では解っていても、読み手に意図が伝わりにくいことが多々あって、そこらへんが一向に上達しないんです(汗)。 どういうところでどう感じたかを教えてもらうだけで、僕としてはとても嬉しいです。 まだ未熟な小説しか書けませんが、もしまたの機会がありましたら、よろしくお願いします。 それでは。 |
|||||
| No.3 無花果 評価：40点 ■2011-07-07 18:47 ID:qDaj5EVH48E | |||||
|
初めまして、無花果です。こんばんは。 初めに言い訳、私はこういう感想を書くのが苦手です。 なんだかぐだぐだになってしまうと思うのですが、見逃してください。 ええと、なんか、 もうすぐ両親が帰ってくる。早く自分の部屋に戻らないと、顔をあわせてしまう。 という部分が好きです。 ﾀﾝﾀﾝと進む時計の音が、何となく怖いなあって思いました。 比喩が上手で、兎が怖くなりました。 ……本当に御免なさい、ひっどい感想で。でも、とりあえず個人的に好きです。 また読ませてください。 |
|||||
| No.2 しぐれ 評価：--点 ■2011-06-30 11:43 ID:fRIhriKSQOs | |||||
|
>zooeyさん 最後まで読んでいただきありがとうございます。 客観的な感想を貰うまで、兎の台詞と地の文が混同してしまって、読みにくく思われるかもしれないと不安でしたが、理解出来る範囲にまとまっていたようなので安心しました。 確かに、兎の存在自体は強烈な隠喩ということもありまして、曖昧なまま、回答のないまま後は読者に委ねたいのです(殆どわがままの領域です)。が、どうしても読者が「こう思う」に繋がる、そのギリギリのラインを見抜いた解答用紙の欠片の大きさを測りかねてしまうわけでありまして。 双方の間に横たわる情報量の差という語り手側のアドバンテージが、逆効果になってしまうんですね。難しいものです。 具体的な感想を頂いたので、時間があったなら加筆と修正をしてみたいと思います。 zooeyさんが僕の他の拙い文章も読んでくれていたことに、まったくもって恐縮です。比喩表現に対する評価が嬉しいです。 それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いします。 |
|||||
| No.1 zooey 評価：30点 ■2011-06-30 02:54 ID:qEFXZgFwvsc | |||||
|
こんばんは、読ませていただきました。 難しい書き方に挑戦されているなというのが、正直な感想です。 ご自身で書かれている「隠喩の究極形」というのは、面白く、 兎の存在から、主人公自身の心の対話が見えた感じがしました。 兎のセリフに「」を付けずに書いているのも、兎の存在の曖昧さをうまく表現されていると思います。 雰囲気がとても素敵なお話でした。 でも、ラストまで、その曖昧さが強く残ってしまっていたのが、ちょっと引っかかった感じです。 なんと言うか、兎が何であったかは読者に託すほうが良いと思うのですが、 読者が「こう思う」につながるヒントがあまりないのが(読めてないだけだと申し訳ないのですが)、ちょっともったいない感じがしてしまいました。 ラストの「昔は黒い姿だった」とか、そのくだりが好きだったので、 もうちょっとその辺を膨らませて、兎の姿とか主人公の姿にせまっていくとより興味をそそるないようになると思いました。 ちなみに、しぐれさんの作品は、最近、ホラミス板に書かれたものや、 宿題とか、黒猫とかが出てくる作品(タイトルが分かりません、スイマセン…) を読ませていただいていますが、比喩表現、お上手だと思いますよ。 むしろうらやましいくらいです。 では、また機会があったら読ませてください。 |
|||||
| 総レス数 7 合計 150点 | |||||
| E-Mail(任意) | |
| メッセージ | |
| 評価（必須） | 削除用パス Cookie |