インセスト・タブー |
ヘッドフォンを装備して、少年は机にかじりついていた。彼の視線はせわしなく参考書と大学ノートを行き来し、彼の右手に握られた鉛筆は止まることなくノートの白紙部分に問いに対しての答えを書き込んでいく。鉛筆は既に三分の二ほどが使われていて、机には同じくらいの長さになった鉛筆が二本転がっていた。1ページにびっしりと、だが目は通しやすいようにたくさんの数式が書ききられたと同時に少年は鉛筆を机に置き、赤色のボールペンをその手に握った。 その時。机の最も隅に置かれた携帯電話が震え始めた。少年はその携帯電話を手に取り、画面を確認してため息をついた。時刻は二十二時、差出人の名前は『火垂』。今日は晴れているし本文はきっと、いつもの通りなのだろう。 『散歩に行かない?』 たったそれだけの短いメール。いざ採点!と心の中で振り上げた拳をへなへなと振り下ろして、少年はヘッドフォンを外した。彼女からの誘いを断る、という選択肢は随分と前に消えてしまった。そう、この部屋に彼女が乗り込んできて、少年のベッドで子供のように(当時は中学生だったが)駄々をこねたあの日に。 六月になったと言っても夜、二十二時ともなれば流石に肌寒い。半分以上も空きスペースのあるクローゼットから、黒色のジャケットを引っ張り出した。少年にはどうしても必要だと思えない、はっきりと言葉にしてしまえば、無駄な時間。二十二時ともなればもう深夜と言ってもいい。そんな時間に高校生が二人で出歩くなんて――。 「そうだ、今日使ったのも持って行かないと」 机に散らばった鉛筆の中から三分の一ほどの長さになったものを全て、と言っても三本しか無かったが、右手に握る。少し乱暴に携帯電話を自分の左手ごとジャケットのポケットにつっこみ、少年は自分の部屋のドアを開けた。 廊下にでて左に数歩。少年――慧はメールの差出人の部屋をノックした。 「けい?はやいねー、ちょっとだけ待ってー」 決して薄い扉ではないのに、その声は不思議としっかりと聞き取れた。自分の暗く少しかすれたような声とは違う、明るく力のある声。否、声だけではない。性別も学力も体力も、何から何まで違う。慧は右手に持った鉛筆を握り締めた。とても強く、強く。 慧は火垂に、双子の姉に、勝っている点は何一つとして無い。慧自身もそう思っているし、姉と比べられ揶揄された回数など数え切れない。はっきりとした数字で表示される学力や体力は勿論、容姿でさえも。誰からも愛されるであろう火垂とは、違う。 そう、慧と火垂は違う。何もかも劣っている、今は=B (見返したいなら、頑張りなさい) 俺は姉さんに劣っている、そうだ。その通りだとも。だけど。 (絶対にいじけたりしちゃダメ。勝ちたいって思うことはとても大事なことだから) 俺と姉さんは違う人間だ。違う人間だからこそ、いつか――。 「お待たせー。やー、ごめんごめん」 「ううん、待ってないから気にしないで」 胸を優しく締め付ける懐かしい情景を、大事に心の奥に仕舞いながら慧はそう言った。 「それと、これ」 「お、今日も三本ですか。ちょっと置いてくるね」 鉛筆を受け取った火垂は、まったくもう、と呟きながら部屋に戻った。 「お待たせお待たせ、さぁ行こうか!」 「その格好で、いいの?」 元気よく部屋から飛び出してきた火垂の格好は、袖口と腰の所にフリルのついた半袖のシャツと、ホットパンツとニーッソックスだった。全てが黒色なので夜間出歩くにはどうなのだろう、その格好では寒くないだろうかという二つの意味を込めて、慧は彼女に問いかけた。 「大丈夫、こう見えて上に2枚着てるから」 心配そうな慧に、へーきへーきと言って悪戯っぽく火垂は笑った。 階段を降り、玄関で同じ色、同じデザインのスニーカーを履く。火垂が、慧と同じ靴がいい、と言って強引に買わされた黒色のスニーカー。そのスニーカーを履きながら、慧は考える。 火垂は、自分の事をどう思っているのだろう。出来の悪い弟、つまらない弟だと思っているのだろうか。そう思われても仕方ないのだ。火垂が彼女の友人たちと過ごす時間や、休日に家事の手伝いをしている時間まで、慧は勉学や運動に費やしてきた。そうやって必死に追いかけ続けても、彼女との距離が縮んだようには思えない。だから、休んでいる暇など無いのだ。それこそ、『散歩』だなんて。 ――ぎゅっ、と。 慧の右手が、火垂の両手に包まれていた。慈しむように、そして力強く。 「大丈夫?」 心がぐらりと揺れた。優しいその声に、いたわるその言葉に、吐き出したくなる。 ――いつになったら、俺は姉さんに追いつけるんだろう。 溢れ出しそうになった言葉を必死に心の底に押し込む。それはきっと越えてはいけない一線だから。それを言ってしまったら俺はきっともう、本当の意味で姉さんに追いつく事はできなくなるから。 「大丈夫だよ」 だから、言葉にする。全てにおいての目標である、火垂に対して。そして、言い聞かせる。崩れ落ちそうになってしまう、自分自身に。 「俺は、大丈夫」 そうだ、俺は大丈夫。俺は姉さんの、弟なんだから。 「ごめんね、行こう。ずっとここにいたら、父さんと母さんが心配しちゃうよ」 慧は扉に手をかけるために、火垂の両手に包まれた右手をそっと引き抜いた。 「うん」 ドアノブを握る手に力を込める。火垂から与えられた温もりを全て、無くしてしまうために。己を支える言葉の矛盾から、目を背けるために。 外の世界は明るかった。もしかしたら、本も読めてしまうのではないだろうか、そう思ってしまうほどの明るさ。天上に浮かぶ満月が煌々と輝き、世界を儚く照らしている。都会では掻き消えてしまうらしい灰色の光の下で、慧は火垂に問いかけた。 「今日はどこに行くの?」 「うーん、あっち!」 「あっちって、コンビニ?」 「ううん、川沿いを歩きたいの」 火垂はゆっくりと歩き始めた。腰まで伸ばした黒色の髪が火垂の歩くリズムに合わせて小さく揺れる。 「そろそろ見られるかなって」 月の光に照らされた火垂の肌は、白銀に光っているように思えた。 「蛍」 慧は黙って歩き始めた。火垂を追いかけるために。 六月の夜の風は、ほんの少しだけ冷たく感じられた。 すれ違う人は、いなかった。ずっと遠くを走っていく自動車のヘッドライトが、灰色の世界を小さく切り裂いていった。火垂は何も喋らない。だから、慧も何も喋らない。自分一人で過ごす時間とはまったく違う、穏やかに流れていく時間。背の高い草や、木々を風が撫でていくかすかな音。そこに慧と火垂の足音が重なっていく。頭、両目、右手。先程まで酷使していた箇所の熱が、ゆっくりと消えていく。 「――っ」 消えてしまった炎は、もう一度灯さなければならない。そのための時間がやはり惜しい、と慧は思う。 自分の目の前を歩く少女を見て、もう何度目かわからないけれど、改めて決意する。彼女に追いつきたい。少しでも早く。貴方に追いつきたい。 慧の足は止まっていた。 「姉さん、俺」 帰るよ。そう続けようとした。そう言うために、うつむきかけていた顔を上げた。 「慧!あれ!」 それはとても小さい光だった。1秒ほど灯ったかと思えば、消えてしまう。両手で数えられる程度しか存在しない、ゆるやかに点滅する光。確かにそれは慧の心を弾ませるに足る光景だった、だけど。 まるで幼い子供のように目を輝かせている目の前の少女と比べれば、その光景は霞んでしまう。視線を動かすことが馬鹿馬鹿しく思えるほどに、目を奪われてしまう。 どうして俺たちは双子なんだろう。どうして俺たちは双子なのに、こんなに違うのだろう。せめて、同じ性別だったなら。俺は。 「ねぇ、ちゃんと見てる?」 「うん、見てるよ」 その声は、少し震えていたのかもしれない。 「――何を?」 火垂はこちらを振り返って、慧の目をじっと見つめて、問いかけた。 「ほたるを」 今、この瞬間だけではない。ずっとずっと、見続けてきた。彼女と同じ学校に入るために必死に勉強をした。彼女に認めもらいたくて、毎日必死に追いかけている。 「そっか」 火垂は少し頬を染めて、笑った。 「――綺麗?」 慧は迷わなかった。迷う必要なんて無いと思った。だから、自分の気持ちをそのまま伝えた。 「うん。綺麗だよ、とても」 「そっか」 火垂は顔を伏せた。慧の手を握って、小さく、帰ろ?と言って歩き始めた。 慧は驚いていた。あんなに顔を赤くした火垂は、はじめて見たから。 引っ張られるようにして慧も歩き始める。火垂に握られた右手が、少し熱いと思った。 「慧は、誰かと付き合ったりしないの?」 家に帰る途中、気恥ずかしい沈黙を破ったのは火垂だった。 「俺は、そういうのは興味が無いから」 それは半分本当で、半分嘘だ。 「そう、なんだ」 「姉さんは誰かと付き合ったりしないの?」 「私からすれば私に言い寄ってくる人は皆、ピテカントロプスだから」 「……猿人扱いはどうなんだろう」 「お猿さんだもの。どうせいやらしい事がしたいだけなんでしょうから」 これ見よがしにため息をついて、火垂は目を閉じる。 「私もそういうの、興味無いし」 そう言って、慧の右手を握っている左手を少しだけ優しく握りなおした。 フリルのついたシャツを脱ぎ、火垂はため息をついた。2枚着ているといっても、やはり少し肌寒かった。長袖のシャツではないし、長い丈のスカートでもジーンズでもないのだから当然なのだが。 「少し寒いくらいじゃないと、困るんだけどね」 一人呟いて、シャツを綺麗に折りたたんでいく。今日も私の頬は赤くなっていなかっただろうか。ちゃんと私は彼の憧れでいられただろうか。だけど、今日は少しやりすぎたかもしれない。思わず彼の手を握ってしまった。二度も。一度目は、彼がまた無茶をしているようだったから、思わず。二度目は、どうしても我慢ができなかった。ううん、あれで我慢できる女の子なんてきっといない。そう、大好きな人にあんな事を言われて、我慢できる女の子なんて、いない。ああもう、本当に。 「――慧」 慧。私の愛しい弟。私の大切な半身。私の大好きな男の子。彼の右手を握った両手で自分の体を抱きしめる。彼の温もりがまだ残っているように思えて、心が締め付けられる。火垂はベッドに座って、吐息をこぼした。 「下も、脱がなきゃ」 自分の声が熱を帯びているのが、わかる。ああ、本当に私は、どうしてこんなに。ホットパンツのボタンを外し、ファスナーを下ろす。 「慧だったら、いいのに」 自分の服を脱がしていくこの手が、彼のものであればいいのに。太ももをそっと触って、両足のニーソックスに手をかける。素肌とニーソックスの間に親指を滑り込ませ、ゆっくりと、少しずつ肌をあらわにしていく。机の上に置いた鉛筆が目に入った。だが、すぐに思い直す。今日は要らない。そう、だって私の指は彼の指を覚えている。 そんな事を考えている自分自身に、火垂は苦笑した。そんなつもりではなかったのに。私が慧に鉛筆を渡すのは、こんな事に使うからではなかったのに。 あの子は己を労わる事が酷く下手だから。誰かが止めなければいけないのだ。適度に休憩させ、体を休ませる。彼には手綱を握る人間が必要なのだ。勿論、私以上にその役割に相応しい人間はいないし、私以外の人間にその役割をさせる気は欠片も無い。鉛筆はその指標の一つ。彼が根を詰めすぎないように、私が見守らないといけないのだ。 学校がある日は『散歩』と称して、休日は『買い物』と称して自然の緑を見に出かける。彼の体を、両目を休ませるために。手間のかかる、仕方のない弟。火垂が世話を焼かなければきっと彼は壊れてしまう。そうなってしまわないように、火垂が一人の女の子として、慧を散歩や買い物に誘うようになったあの日から。火垂の心に現れた悪魔を抑え付ける日々が始まった。 今すぐにでも隣の部屋に駆け込んで、押し倒してしまいたい。柔らかい物とは無縁そうな彼の右手を、自分の胸に押し付けたい。彼の唇を貪ってしまいたい。 そんな衝動を心の底にこれでもかと押し込んで、縛り付けて、姉として振舞う。だけど、『散歩』や『買い物』が終わった後はもう、どうしようもなくなってしまう。熱に浮かされて、姉弟だとか家族だとか、そういう言葉がどこかに消し飛んでしまう。 両親以外の全ての大人たちは、火垂と慧を比べては慧を哀れみ嘲笑った。火垂は何もできなかった。彼を庇う事はできなかった。火垂は気づいていたから。慧には慧の誇りがあると。そう、彼は男の子なのだから。 あの日、慧は泣いていた。火垂は必死に考えた。どうすれば彼が彼のまま立ち上がれるのだろうか、と。見ていられないほどに薄く、脆くなってしまった彼の誇りは、どうすれば元に戻るのだろうか、と。 「見返したいなら、頑張りなさい」 「絶対にいじけたりしちゃダメ。勝ちたいって思うことはとても大事なことだから」 ――どこかの嫌なお嬢様みたいだ。あの日の事を思い出し、火垂は自分の顔を枕にうずめた。きっと、あの日から。あの日から私の恋は始まったのだ。 火垂は枕元に置いてある文庫本を手に取り、目を閉じた。カバーは取り払われ、外見からはそのタイトルはわからない。それは火垂が恋をした時に手に取った本。大丈夫、私は完璧に出来る。負けるものか。明日も、明後日も彼の憧れのままでいられるように、頑張れる。 火垂は文庫本を抱き締めた。とても強く、強く。言い聞かせる、自分自身に。大丈夫、慧は私以外の女の子に魅力を感じたりはしない。ずっと私の傍にいてくれる。 そして彼女は、そのタイトルを呟いた。 『インセスト・タブー』 |
ハコ
2011年06月19日(日) 23時52分32秒 公開 ■この作品の著作権はハコさんにあります。無断転載は禁止です。 |
|
この作品の感想をお寄せください。 | |||||
---|---|---|---|---|---|
No.2 RYO 評価:30点 ■2011-06-28 00:01 ID:Uq205UTMzCA | |||||
どうもRYOです。 拝読いたしました。 三語の作品でよかったでしょうか? 三語ということを抜きにして、面白かったです。 ピテカントロプスの使い方がよかったです。このへんにツンデレを感じたわけですよ。 全体的に、欲を言えば、何かもうひとつほしかったかなと。 それは二人の関係を示しただけで終わってしまっていることにあるように思います。 弟なり、姉なりに言い寄ってくるキャラが、あるいは両親が二人を裂こうとしているとか、あるとぐっと良くなったように思いました。 ではでは |
|||||
No.1 お 評価:30点 ■2011-06-27 02:42 ID:E6J2.hBM/gE | |||||
題材は良いのに…、なんだかもうひと味。 てことで、こんちわ。 前にすこし、お話ししたことがあったような、なかったような。 後書きを見ると、少し内容が変わってしまったのかと伺える記述がありましたが、一読して思ったのは、意図する演出がいまひとつしゃっきりしないなぁ。という感じ。萌えものってのは、興味のない人間が見れば食傷するようなくらいこれでもかってほど萌を詰め込んでいくのが横道じゃないかと思うわけでが、微妙に萌なのか萌え出ないのか路線がしゃっきりしない印象といえばいいのか、いまいち、割り切ってない感じが僕はしました。 もっと、うひゃひゃな感じを期待してたからかも。 先入観はいけませんね。 でも、けっこう、うひゃひゃしました。 どうもです。 |
|||||
総レス数 2 合計 60点 |
E-Mail(任意) | |
メッセージ | |
評価(必須) | 削除用パス Cookie |