サヨナラに寄り添って
ここには何もない。
あるのは少しの闇の中の光と、さっきまで行われていた行為の後の匂いだけだ。
私は小さく萎縮してしまったような手足をゆっくりと伸ばす。私の思いの通りに動いてくれるか、しっかりと夢の中から抜け出すことができたか確認するのだ。
 静かに哲生の腕時計の音が聞こえてくることで、安心する。視界がきかない世界で私を外の世界と結びつける唯一のクモの糸のような存在。
 口の中がねっとりとし、喉が強烈に乾いているが、冷蔵庫からミネラウォーターを取り出すどころか、ベッドからはい出すことすらも途方も無くめんどくさい。私はこのまま夢の際を綱渡りしてゆけるだろうか。ふと、油断した途端に底の見えない深い世界の果てに落ちてしまうんではないだろうか。
 「どうした?」哲生はまだ夢と現の間をゆらゆらとしているような声でつぶやく。私は聞こえないフリをしようか迷いながらも、私がこうしてヒッソリと起きていることに気づいた彼を愛おしく感じるのだ。もう何度も彼とは寝ているのに、やはり私は彼の全てにはなれず、彼も私の全てにはなれないのだけれど。

 哲生との出会いは簡単なメル友サイトで、そのときは彼のことを“単なる若い男の子”という感じでしか見ていなかった。私に旦那も子どもも居ることを知っていて10歳も年上の私を可愛いと言った。不思議なことに歯の浮くような哲生の台詞の一つ一つがとても心に響いた。寂しさを紛らわせる為のメル友であり、決して性的な興奮を求めた訳ではなかったが、哲生との出会いは私を少し変えてしまった。
 哲生はおもむろにベッドから這い出すと冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しぐびぐびと飲みだした。私に飲みかけのボトルを手渡しながら、いつものように小さな声でぼそっとつぶやいた「出ようか」。

 見慣れた駅前の風景も哲生と歩いていると少し角度が変わって見える。いつもなら見落としてしまうようなポストの小さな落書きや、ポイ捨てされ、踏みにじられたガムなど、町の細部がよく見える。一度このことを哲生に話したところ「それは誰か知っている人に見られてないかな?と神経が過敏になってるんじゃないかな」と言われた。私はそういう事を平気で言ってしまう哲生の冷たさが好きだ。人に対する考え方にとても冷たい一面があるのは、育ちのせいなのか生まれつきなのか、私には理解できない部分なのだが、愛おしいと感じてしまう部分でもあるのだ。
 同じ電車に乗って私の方が5駅ほど先に降りる。私が降りる際はいつもお互いに小さくコクリとうなずき別れる。いつも同じ、それはいつしか神聖な儀式の様になってしまった。この儀式を終えればまた、いつもの生活に戻り、私は母になり妻になる。電車から降りたら振り向かない。こんなにも哲生を深く愛していることを自覚したくないから。

 哲生にも奥さんがいる。始めのうちは彼女だと嘘をついていたが、あるとき急に奥さんについて話をしてくれた。哲生は私のことをユミさんと呼び、好きだと言う。しかし、奥さんの事もとても愛しているのだと言う。私は夫に何の愛情も感じていない。子どもが居ることで成立している家族だ。
 一度私は哲生と会うのを辞めようかと真剣に考えた時期があった。彼はあまりにもストレートで、純粋に見えた。私は彼の水晶のような空っぽの目玉の中でまるで出番を間違えたピエロの様に場違いに映っているように思えた。私は哲生との関係を少し真剣に考えすぎてしまう。この先のこと、未来のこと。そう遠くない未来に私たちは会うことがなくなるだろう。どんなに愛していて、好きだと伝えることが出来てももう遅いのだ。私たちは始まりも終わりも無い二人なのだ。
多摩
2011年06月10日(金) 20時37分19秒 公開
■この作品の著作権は多摩さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
まだまだ未熟な作品です。日常のひとかけらという感覚で短いものを書いてみました。
宜しくお願いします。

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No.3  蜂蜜  評価:20点  ■2011-06-18 22:23  ID:8SlA.arG1XM
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拝読しました。
文章がもう少し濃密に練られていて、匂い立つような感じだったら、もっとよくなったかな、と思いました。
No.2  お  評価:30点  ■2011-06-16 23:52  ID:E6J2.hBM/gE
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「日常」なんだw。
ということで、こんちわ。
「純情」ていうのはそうか、子供が持つ残酷な純粋さにも似た、ピュアな心なんだ。とか。そんなことをつらりつらりと。逃避なのか純愛なのか、すごく微妙なところにいる二人ですよね。幸せって何だろう、不幸せって何だろうとか考えちゃう。まぁしかし、しょせんいつまでも境界線上に戯れることは出来ないから、いつか正面から向き合わないといけないんだろうけど、それまでは……的な。
最初に匂いを持ってきたのは、演出的に冴えてるなぁと思いました。
No.1  桜井隆弘  評価:30点  ■2011-06-16 22:07  ID:Cl3md6xndOI
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ストーリー性こそ薄いものの、多摩さんの言われる「日常のひとかけら」にリアリティを感じながら読むことができました。

五感の描写が巧みですね。また、設定もしっかりしていると思いました。
主人公の悟っているような感覚が良いですね。
最後の一文「私たちは始まりも終わりも無い二人なのだ。」が、最初の一文「ここには何もない。」をまた巧く言い得ていると感じました。

強いて言えば、
>あるのは少しの闇の中の光と
良い表現なのに「の」が多くて、くどく感じて勿体無いかなーと。

あと数字は、漢数字表現が基本だったと思います。
不倫はほどほどに(笑)
総レス数 3  合計 80

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