他人(U)虚構として |
他人(U)虚構として ある日目を覚ましたら、友人のAの体の中にぴったりはまっていることに気づいた。ちょうどガンダムに入ったアムロ少年のように。いやもっと密着してもっと動物的になまなましく。起き出してすぐわかったことは今まで見たこともない世界がまわりに広がっていることだった。第一目がチカチカして光景が微妙にぶれている。Aが棚から眼鏡をとってかけた。大分落ち着いたがそれでもどうも見にくい。レンズをふいていないので、指紋やほこりがベタベタついている。神経質で通っている男の眼鏡がこれだ。Aは乱視がひどいと言っていたことを思い出した。毎日こんな光景を見てくらしていたのかと思うと、Aの性格がひねくれているのも納得ができる。それにしてもこの全身のだるさはたまらない。鉛を背負っているようだ。しかもふしぶしが痛い。できるだけ早くAから脱出するにはどうすればいいのかと思う。合宿の時、Aはいつも最後に起きてきてヒンシュクをかっていたが、この体調だと無理もない。合宿の時なぜ気づかなかったのかと今にしてみれば思うのだが、考えてみればAに興味はなかった。むしろ非難するほうにまわっていた。Aは面倒くさそうに脚をマッサージして、屈伸をするといくらか体が軽くなった。隣の居間でAの母親が朝食の用意をしている。Aはいい年をしてまだ母親と二人でくらしている。母親はAを見て 「おはよう」 と言った。Aは無言だ。頭がフラフラしている。おはようと言われたのに返事しないのかと思っていると、突然Aは 「おはようございます」 と言った。母親は妙な顔をして 「具合でも悪いの?」 と言った。Aが否定すると 「なによ、なんだかよそよそしいわね」 と母親は疑わしそうにこっちを見る。バレたかとひやっとした。やがてテーブルに朝食が並べられる。Aはいつもの椅子に坐った。坐って椅子の上であぐらをかく。バカな坐り方をするものだと思ったが、不思議なことにそれで下半身のだるさがかなり軽減されることがわかる。人それぞれにさまざまな事情があるものだ。テーブルにはみそ汁と白菜のつけもの、ベーコンエッグと五穀米のごはんがある。Aはいきなりつけものにしょう油をたっぷりかけ、それをごはんにのせてかきこむように食べる。驚いたことに三回ほどかむともうのみこんでしまう。のどが苦しげにグルルと音がするほど無理矢理のみこむのだ。しかし長年の習慣のせいか、Aはいたって無頓着だ。同じ食べ方でごはんが三分の一ほどになると、今度は少々気が進まない感じで、ベーコンエッグにもしょう油を十分かけてそれをそのままごはんの上にのせて又かっこむ。そしてもう席を立とうとするAに、母親は 「みそ汁は?」 と言った。Aは不機嫌そうにみそ汁を一口のんで 「もういい」 と言って席を立った。食べはじめて十分もかからない。 Aはすぐ自分の部屋に戻り鍵をかける。母親と二人きりなのにどうして鍵をかけるのかわからない。Aは書棚から大判の画集を取り出して、ゆっくり机について見はじめる。かなり高度な印刷技術の画集だが、何度もページをめくった痕跡がある。フェルメールの街の一角の壁の絵で手が止まった。路地の奥を見て女の姿を見て壁のレンガの質感やシミを見て壁を斜めに見て何かを待っている。何かが通りかかるのを待っている。陽の光の明度や空気の澄明さ、ざらざらの建物の感触が迫ってくる。Aが常々絵に親しむことも全く知らなかった。次に手が止まったのはマチスの「ダンス」だった。絵は見開きに大きくのっている。つながってダンスをする人の輪郭が背景をリズミカルに大胆に切っていく。背景の色と人の色の諧調を楽しみながらAの目は人の輪郭線をていねいになぞり、と同時に遠くから肢体のフォルムを見極め、とくに隣の人との手のつながりを見、そのような手のつながりができる肢体の限界ともいえるフォルムを見、次の人に速やかに移っていく。明らかにAはウキウキとダンスをしている。朝起きた時から続いていた目の違和感も体のだるさもどこかに飛んでしまった。モネの茫洋とした寺院の絵に手が止まった時、Aの目はファサードの窓やレリーフに一旦取り付いたのだが、何も得られず、急に中空に漂いはじめ、絵全体の陶然とした雰囲気にまきこまれていく。このようなAの愉悦の状態をはじめて知った。おそらく誰も知らない。 その時ごく小さい鈴虫の音のようなAの携帯が鳴った。数回コールして鳴り止まないのでAは仕方なく携帯をとった。驚いたことにBからだ。私が長くつきあっている女だ。美人だからか少々冷たいが内実は女らしく可愛いことを私は知っている。そう言えばフェルメールのあの青いターバンの女に似ている。しかしどうしてAはBを知っているのか。Aからそんな話を一度も聞いたことがない。しかもBから電話をしてきている。私はBとは一年ほどのつきあいだが、Bから一度も電話をもらったことはない。ということはAとBはBと私より余程親密な関係ということか。さっきからAは「あー」とか「うー」とか言うばかりでハラハラするほど素っ気ない。Bはこれまで自分に起こったことやAとBの共通の友人のことを歌うように話している。声が新体操のリボンのように艶やかで伸びやかでよくくるくる回転する。こんな風にBがしゃべっているところを私は見たことがない。二時間後にAがいる街のレストランでランチをとる約束をして電話が切れた。Bが住む街からAが住む街まで小一時間はかかる。私にとっては考えられないことが起こった。Aは大きなため息を一つつくと、ポットから湯を出して熱いココアをつくって又いそいそと机についた。 Aが待ち合わせのレストランの席について五分もしないうちに、Bが「ダンス」の中の一人のように弾んで現れた。 「待ったー、ごめんごめん」 待ち合わせ時間内なのにどうして謝るのか。私はBとの待ち合わせで一時間半も待たされたことがある。しかも謝られた記憶がない。Bは花のついた明るい浅黄色の帽子と同系統の花柄のワンピースを軽やかに着こなしている。小走りしてきたのか頬が上気してほんのりあかく花のように笑っている。Bのこのような艶やかな姿も私は初めてだ。Bと私はいままでどんなつきあいかたをしてきたんだろうと愕然とする。 私はBをずっと見ていたいのに、Aは椅子にあぐらをかきそうになる衝動を抑えるのに必死になっている。Bはこのレストランははじめてではないらしく、ウエートレスを呼んでAの希望をたしかめもしないでランチを二つ注文した。Bの口から溢れるように言葉が出てくる。出てくるそばから消えていく他愛ない言葉。Aはそれをバックミュージックのように聞いている。時々うつあいづちがずれていることが大して聞いていないことを表している。ランチがくるとBは奇妙なことをはじめた。Aのランチのトレーを自分の方へ引き寄せて、サラダとオードブルにしょう油を適度にかけ、トーストを四つ切にしウインナーを半分に切ってAに戻した。Aがもっと入れようと思ったのかしょう油のビンに伸ばした手をBは軽くたたいて止めてしまった。まるで世話女房だ。Aの食べ方の癖をよく知っている。Aがトーストのかけらを口に入れて又すぐトーストに手を伸ばすとBはその手を握って止める。 「で?」 とAは話のつづきをうながした。 「○のこと?」 ○は私だった。なぜBと私のことをAが知っているのかと思ったが、AとBの関係を考えれば納得せざるをえない。BはなんでもAに話をしている。 「いい人よ。お友達」 Aはまんまとウインナーを三つ口にほうりこんで、ついでに貧乏ゆすりをはじめた。そうするとたしかにだるさが軽減される。 「ちょっとしつこいけど」 とBは言った。私のことだ。これで終わりかと私は思った。ショックだった。 「違う」 とAは言った。Bはあわてている。○のことではないという意味らしい。Bには何のことかわかっているようだ。ということは、○のことを言ったのは単に時間稼ぎかカムフラージュということだ。どうしてこれほど簡単に残酷なのか。 「仕方なかったのよ」 とBはハンドバックから有名歌手のディナーショーの券をテーブルに投げた。会社の上司からの招待券だ。これまで六回申し出を断り続けて、これ以上は関係が壊れそうだとBは言った。 「辞めたら」 とAはぽつんと言った。さっきからAはBを見ていない。その時私にAの気持がスーッと入ってきた。逆かもしれない、私がAの中に入っていったか。長い間考えていたのだ、上司の上の人脈を探し出して圧力をかけると同時に上司かBかを転任させる、AとBが結婚して仲人を上司に頼む、Aが単独上司のところに乗り込んで談判する、公的機関を活用する・・・何もできない。無力感と情けなさ。Bは涙を浮かべてAを見ている。AはBを見ることができない。Bと目が合ったら助けなければならないが、できない。私は当分Aの中にいてもいいかなと考えはじめている。というより私の意識が消えたら私はAだ。というよりもともと私はAであり、「私の意識」という病気をかかえていたのかもしれない。当分Aの中にいてもいいと思う。たとえ次の朝私に戻ったとして、その間だけでも・・・ (二〇〇八年九月十七日) |
内田 離
2011年06月05日(日) 11時26分23秒 公開 ■この作品の著作権は内田 離さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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