夜 |
あなたの臭いが充満しているこの部屋で独り眠るのはつらすぎることに今になって気がついた。 美化しようとはしていない。私とあなたの感情は恋と呼ぶには歪んでいるうえに、濁りきっている。 例えば、色を混ぜすぎた絵の具のように。雨が降ったら濁流する川のように。 少しでも亀裂が入ったら脆く崩れるのだ。ぎりぎりの線で成り立つ関係はふとした瞬間に背筋を冷やし、逃げ道をなくしそうとする。 帰る場所があり、守るべき存在がいるあなたにとって私は避難所であり、誘惑にしかすぎない。それぐらいのことは私もあなたもわかっている。 わかっているうえであなたは私に甘え、私もあなたを手放さない。 もっと早く出会えれば良かったのに。そう思ったことなら何十回もある。だけどそのあと必ず気づくのだ。私は今のあなたが好きなのであって、昔のあなたには興味がないということに。社会的な地位も安定して、大人としての世間体も定まって、余裕のあるあなたが好きなだけなのだから。 寝返りを打って微かに体温の残っているところに鼻を擦り付ける。わずかにあなたの臭いがして、息が苦しくなった。シーツ、洗っておかないと。代えのやつあったっけ。 起き上がるために両腕をつこうとして、やめた。力をぬいて全身を弛緩させる。まだ動かなくてもいいだろう、あと少しだけ。もう少しだけあなたに包まれている感覚に浸りたい。 思考が霞む中で先刻の会話を思い出し、私はひとりその空虚さを嗤った。 喉の奥がねばついているようで気持ち悪い。咳をしてみるけれど不快感はいっそう深まるばかりだ。飲み込まれそうな不安が急に込み上げて、上掛けを肩まで引っ張りぎゅっと握った。無意識のうちにでもあなたの顔を浮かばせた自分自身に反吐がでる。 久しぶりのあなたは前会ったときより頬がこけており、顔色もどこか蒼く、疲労の色が滲みでていた。そのくせ会うなり私を強く求め、思うままにむさぼった。 言葉をかけるひまもあたえずに、私の唇を塞いで黙らせる。余計なことは言わなくていい、とにかく今はされるがままでいてくれ。普段より荒々しい手つきなのにそう切望されているような気がして、私はただ黙って組み敷かれ、甘受していた。 私が手を伸ばし背中へ触れそうになったのと、ベッドサイドに置かれていた携帯電話が重く鈍い音を鳴らしたのはどちらが先だったのだろう。 あなたは瞳に諦めに似たようなものを翳らせたあと、黙ってそれを手に取った。その声音で相手が誰かと悟って、私は行き場の失くした右手をぼぅっと眺める。重みを感じなくなった上半身をゆっくりと起こして。 きっとあなたは今すぐ私を置き去りにするのだろう。一人の女を激しく求めたその手で、愛してやまない自分の子供の頭を撫でにいくために。 短いやりとりを終えて、あなたは携帯の画面を閉じた。静寂にその音は嫌に響く。あなたは深いため息を零してからどこか気だるげに腰を浮かし、床に放り投げられている衣服を身につけていった。予感が当たり、胸の奥が焼けるように熱い。 背を向けたままで表情がみえない。あなたは機械的に着替えを済ませ、帰り支度を整える。私は人形のように後ろからその作業を眺めていた。 重苦しい空気の間に布の擦れる音が混ざる。 「悪い」 玄関へと続くドアに手をかけて、かわらず振り向きもしないままあなたが発した声はいつもより低かった。 「ええ、さようなら」 それだけ返して、私も背を向けて横になる。あなたから口を開く気配がしたが、結局何も言わずにでていった。 ドアノブが引っかかって閉まりきらないのがもどかしい。こんなこと前にもあったのに、久しぶりに会えたせいで浮かれていたのかしら、私。 途中で放り出された身体は熱を帯びたままだ。一人で発散させることもできなくて、もやもやばかりが残り、積もる。 ちらりと横目にみた時計の針は、まだ宵の口をさしていた。この時間なら電車も動いているだろう。あなたがどこに住んでいるのかは知らないけれど、無事に帰れているといい。私を切り捨てたぶんだけ、確かなものを守るべき人達に与える義務があるのだから。 そして、すぐに私のことなんか考えなくなればいい。 徐に立ち上がり、リビングへとうつる。電気もつけずにペン立ての中からはさみを取り出して、洗面所へと向かった。 鏡には知らない女がいる。私であって、私じゃない私。普段からは考えられないぐらいの色香と、遊女のような玄人の空気を纏わせた私。 はさみを手にして胸まである長い髪を一房つかむと、私は何の躊躇いもなくそれを挟んだ。良い音と一緒に重力で茶と黒の混ざったそれが落ちていく。 次々と切り落としていくと、まるで別の私がそこに生まれた。 あなたが綺麗だと、好きだといった部分を取り除いていく作業は快感と苦痛によって成り立つのだと、初めて知った。次会うとき、あなたはどんな表情をするのだろう。 『髪の長い女性がすきなんだ。君はとても似合うね』 そういったときのように、また目を細めてくれるだろうか。 記憶の中にあるその表情が愛おしい。本当はあなたが欲しくて欲しくてたまらないことに気がついてしまった私はどうすればいいの。 あなたの後ろ姿を思い出しながら、私は痛む胸に手を当てながらきつく唇をかみ締め、その場に蹲ったまましばらく動くことができなかった。 |
月子
2011年05月17日(火) 21時05分03秒 公開 ■この作品の著作権は月子さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.10 月子 評価:--点 ■2011-07-11 20:56 ID:WXOqqJBbeJ2 | |||||
afterさん 評価、感想どうもありがとうございます。 証からとのことで嬉しいです。 こっちにも目を通してもらえたこと、また褒めていただきありがとうございます。 村山由佳のADULT EDUCATIONですか・・・初めてききました。近いうち書店で探してみようと思います。 >飲み込まれそうな不安が急に込み上げて、上掛けを肩まで引っ張りぎゅっと握った。 何気ないこの描写をとりあげてもらえるなんて・・・! どうもありがとうございます。 次も楽しんでもらえるよう、頑張ってみます。 |
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No.9 after 評価:40点 ■2011-07-11 09:34 ID:NC9Vki8k22g | |||||
証のほうから来ました。 すごく好みなタッチだったので。 はい、やっぱり好みです^^ 先日、村山由佳という作家のADULT EDUCATIONという短編集を読んだのですが、どことなく雰囲気が似ているように感じました。きっと月子さんも気に入ると思うので、まだ読んだ事がないのなら、おすすめしたいです。 <飲み込まれそうな不安が急に込み上げて、上掛けを肩まで引っ張りぎゅっと握った。> こういう描写、すごくぐっと来ます。つぎの作品も楽しみにしています。 |
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No.8 月子 評価:--点 ■2011-06-01 22:40 ID:WXOqqJBbeJ2 | |||||
闇の吟遊詩人さん 初めまして。 評価・感想に読了とありがとうございます。 表現・比喩をしている引用していただいた部分なんですが、 くどいかなぁー・・・・・・と思いながら書いたところなんです。 裏目にでなくて本当に良かったです。 「ぎりぎりの線で成り立つ関係はふとした瞬間に背筋を冷やし、逃げ道をなく(し)そうとする」 ここですね。 完全に打ち間違いです。恥ずかしいっ。 「し」をなくして頂くのが一番だと思います。 でも、「『逃げ道を失いそうになる』『逃げ道を奪おうとする』」もいいですね。 勉強になりました、どうもありがとうございました。 |
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No.7 闇の吟遊詩人 評価:30点 ■2011-05-31 23:08 ID:/OPFohzmWlY | |||||
「嗅覚」から始まる冒頭部が印象的でした。「不倫の男女関係」を、 「恋と呼ぶには歪んでいるうえに、濁りきっている」 「色を混ぜすぎた絵の具」 「雨が降ったら濁流する川」 ……などと表現・比喩するセンスもいいと思いました。 唯一ひっかかったのは、 「ぎりぎりの線で成り立つ関係はふとした瞬間に背筋を冷やし、逃げ道をなく(し)そうとする」 →「(し)を削除する」か「『逃げ道を失いそうになる』『逃げ道を奪おうとする』など、他の表現に変える」方がいいと思います。 |
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No.6 月子 評価:--点 ■2011-05-26 00:11 ID:WXOqqJBbeJ2 | |||||
桜井隆弘さんへ 初めまして。 評価・感想どうもありがとうございます。 お褒めの言葉ありがとうございます。 そうですね。たしかにこれは「大人ごっこ」の物語です。 桜井さんに「大人ごっこ」という表現を書いてもらわなければ私はこの言葉がでてきませんでした。 恥ずかしながらこのSSは本当に思いつきのものなので、こうして感想にお礼を書いていくなかで内容に肉がついていっている、とでもいいますか。 いい年した男と女が「大人ごっこ」しているんです。 ・・・たしかに、最近の女性は強いですね。私のまわりにも強い女性ばかりです笑 男性がかっこよすぎる・・・気付きませんでした。 正直なところ、社会にでていない私にとって大人の男性というのが一番難しいところです。 世の中の男性がどのような恋愛をしているのか、というかまず大人の男性っていったいなに? なんてところから始まってしまうという苦笑 冷めた恋愛はこんな感じなのかなーという想像でかいてしまいました。 ご指摘、ありがとう御座います。参考になりました。 また興味をもってもらえるようなものを書いてみたいと思います。 よろしければ、また付き合ってくださいませ。 どうもありがとうございました。 |
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No.5 桜井隆弘 評価:30点 ■2011-05-24 22:48 ID:wlRylF.wTcM | |||||
作品を通して最も感じたのは、主人公の女性らしさであり、それがまた魅力的でした。 冒頭は、自分の置かれた状況を冷静に理解して、大人の付き合いをする主人公が見て取れました。 しかし、読み終えて残るものは、主人公の弱さであり、また素直さでした。 大人ごっこを気取りながら、自分を騙しきれなくなったことに気が付く心理描写には、女性特有のものを感じました。 ・・・新鮮で良かったです、最近の女性は強過ぎますから(苦笑) それにしても、男性がカッコ良過ぎますね。 僕は割り切った関係の中にも、愛想とか笑顔はあるべきだと思いますが(笑) こじれた関係ではない中で、依存し切れない弱い女性を描いた月子さんの作品も読んでみたいです。 |
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No.4 月子 評価:--点 ■2011-05-21 18:40 ID:WXOqqJBbeJ2 | |||||
Physさんへ はじめまして! まずは読了に加え、評価までしてくださりありがとうございます。 綺麗な文章、構成の秀逸、形式美などもったいないお言葉です。 ほんとうにありがとうございます。 >飲み込まれそうな不安が急に込み上げて、上掛けを肩まで引っ張りぎゅっと握った。無意識のうちにでもあなたの顔を浮かばせた自分自身に反吐がでる。 >記憶の中にあるその表情が愛おしい。本当はあなたが欲しくて欲しくてたまらないことに気がついてしまった私はどうすればいいの。 このSSは登場人物に名前もありませんし、恥ずかしながら思いついた言葉達を並べていった末に出来たものなので、決まった設定みたいなのがないんです。 なので、引用してくださった二文のようにところどころで主人公(女性の方ですね)の 心情を描くのが大変でもありました。 気が狂いそうなほどの切なさを書きたい! と思ったのが始まりだったので、こういう感想をもらえてすごく嬉しいです。 とんでもありませんよ! 私の日常は他の方々に比べて頭を使っていないと思います。 むしろ、尖るどころか先端すらも見当たらないぐらいです(いい間違いや表現がおかしいとよく注意されるんです) なので、Physさんのように丸く豊かな感性を持っている方が羨ましいです。 中編や長編もいつか書いてみたいと思っています。 もっとも、今までこういうSSしか書いたことがないので物語として成り立たせることができるのか心配ですが。 拙い文章ですが、よろしければまた読んでくださると嬉しいです。 どうもありがとうございました。 |
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No.3 Phys 評価:40点 ■2011-05-21 22:56 ID:YyqzxAWUfcw | |||||
拝読しました。 非常に完成された作品だと思います。どこに手を加えるのですか? と質問を したくなるくらい、綺麗な文章でした。そのショートショートでこのレベルの 作品を読んだのは久しぶりな気がします。 何よりその構成が秀逸でした。台詞や描写があるべきところに収まっている、 そういった形式美を感じます。呼吸をするのも忘れてしまうくらい引き込まれ ました。 >飲み込まれそうな不安が急に込み上げて、上掛けを肩まで引っ張りぎゅっと握った。無意識のうちにでもあなたの顔を浮かばせた自分自身に反吐がでる。 >記憶の中にあるその表情が愛おしい。本当はあなたが欲しくて欲しくてたまらないことに気がついてしまった私はどうすればいいの 切なくて、ひどく哀しい。こういう物語を書きたいと私は常日頃考えているの ですが、なかなかできません。小説世界で人を感動させたり、人の心を動かす ことのできる文章が書ける月子さまは、それだけ日常の中にアンテナを張り、 感性を尖らせていらっしゃるのだろうと思いました。(私は、削る直前の鉛筆 の先みたいに、丸くのんびりした感性で日々を過ごしています) この水準で中編や長編を書かれたら、もうプロのレベルだと思います。次回作 期待しています。 また、読ませて下さい。 |
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No.2 月子 評価:--点 ■2011-05-18 22:19 ID:WXOqqJBbeJ2 | |||||
鈴村智一郎さんへ 初めまして! まずはコメント、評価をしてくださってありがとうございます。 どうなんでしょう・・・。滅多に投稿しないので違うかもしれないですね;; 鈴村さんの知っている月子さんの作品を、私も読んでみたいです^^ 私は滅多にこういう雰囲気のものは書かないので笑 どきどきだったのですが、セクシーといってもらえて嬉しいです。 >一人の女を激しく求めたその手で、愛してやまない自分の子供の頭を撫でにいくために。 この部分を好きを言ってもらえるなんて・・・! ここは勢いで書いたところなんですが、自分でも気に入っているんです笑 「フランス映画」は初めていわれました。 鈴村さんは男性なんですね。普段読んでもらう人たちは皆女性なので(私もですが)男性からの意見というのはすごく参考になります。 印象に残った。もったいないお言葉、ありがとうございました・・・! 女らしさ、男らしさってすごく難しいですよね。 私も考えてしまいます笑 考えるということ自体が楽しいのでなんともいえませんがw また機会があれば投稿しようと思っています。 そのときは是非笑 私も鈴村さんの作品を心待ちにしておりますので。 どうもありがとうございました。 |
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No.1 鈴村智一郎 評価:50点 ■2011-05-18 21:56 ID:r/5q0G/D.uk | |||||
はじめまして! じゃなくて、もしかすると私が知っている月子さんかもしれないのでもしそうだったらここでも出会えて嬉しいです^^ 非常に魅力的でセクシーな雰囲気の掌編でした。 前に飲んだブラッディマリーみたいなw >一人の女を激しく求めたその手で、愛してやまない自分の子供の頭を撫でにいくために。 このあたり、もうなんか「ああ、フランス映画!(しかも何故かゴダールあたり)」といった感じで、好きです。 私は男なんですが、男視点で読んだ場合、この女性を慰めたくなるようなそんな不思議な「やさしさ」を思い出させてくれる作品でした。 最近読んだ作品の中では、カーヴァーの「ぼくが電話をかけている場所」よりも印象に残りました。 こういう女らしさを感じさせる作品にとても惹かれます。 同時に、男なので逆に男らしさを感じさせる作品とは何ぞや? といったことまで考えてしまいますね笑 また読んでみたいです。 |
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