海辺のドライブ |
僕が暮らしている街は、温暖化の影響で少しずつ水没していた。湾の水が上がるたびに、僕の隣の家に住んでいる猫背の山尾君は、「アクビが出るぜ」といって笑った。僕が何故、水位が増えるのにそんなことをいうのかと何気なく尋ねてみたら、「沈むなら早く沈んじまえばいいのさ」とだけ、笑顔で返した。僕はそんな山尾君が好きで、深夜によく彼のギターを部屋まで聴きに行った。 山尾君がこの街を出るといった時、僕もそろそろ街を出なければと思った。水没寸前の街で、いつまでも暮らすことはできなかった。山尾君はギターを背負って、小さなトラックに三匹の野良猫を乗せて、僕に別れの挨拶をいった。それは山尾君の新しい人生の始まりで、旅立ちだった。僕も自分の荷物を整理して、この街から別の街へ向かおうと決意した。 出発する三日前頃だろうか、僕の大好きな比呂奈が深夜に電話をかけてきた。普段は眠っている時間帯なのに、どうしたのだろうと思った。比呂奈はしばらく、読んだばかりのポール・オースターの『ムーンパレス』の感想を僕に聞かせてくれた後に、僕の男心をくすぐるような甘い声色で、「今から行ってもいい?」と尋ねた。僕は比呂奈の暮らしている隣街の傍の、広い川べりの車道を走る予定だったので、待ってくれていてもいずれ辿り着くさ、と優しく返した。けれど、比呂奈はどうしても明日には傍にいたい、と強い口調でいったので、僕も笑顔で返事をした。「もちろんだよ。じゃあ、いっしょに旅立とう」。 翌日、比呂奈は麦藁帽子を被ってやって来た。僕の街には蝉が多い。この街の女の子の大半は皆、日焼けして浅黒い肌をしているけれど、生まれつき肌の白い比呂奈だけは月の世界からやって来たみたいだった。比呂奈が到着した昼下がり、向かいに住んでいる双子の健太と雄太は、声を揃えて「白い!」といった。僕は二人に近付いて、後ろにいる比呂奈に視線を送りながら、笑顔で「あそこにいるお姉ちゃんが、俺の彼女なんだよ」と教えてあげた。二人はキョトンとして、男の子らしくヤンチャに笑うと、「なんだあ、そっか!」と声を揃えて元気にいった。比呂奈はずっと、優しく二人に微笑んでいた。 僕はガレージのシャッターを開けた。父親が僕に残してくれた、フォルクスワーゲンのカブリオレ:Typ15がそこに置かれている。僕は比呂奈が来る前に、旅立ちに備えてこれにしっかりとワックスをかけていた。タイヤも新品に交換して、もう準備万全、いつでもこの街を出発できるという状態だった。父親は赤いフォルクスワーゲンが好きで、その理由はどうやら彼が昔観た、フランスの古い映画にそういうシーンがあったからだそうだけれど、僕は本当は黒いフォルクスワーゲンに乗りたかった。赤は目立ちすぎるし、黒の方が落ち着いていてクールで知的だと思ったからだ。 「赤いフォルクスワーゲンって、見てると元気が貰えるね」 比呂奈は笑顔でそういうと、助手席に乗り込んでしまった。 「もう行くの?」と、僕がきいた。 「ううん、座ってみたかっただけ」 比呂奈は麦藁帽子を取って、僕の頭に乗せた。 その晩、僕らは久しぶりに深く情熱的に愛し合った。僕は比呂奈を腕枕してやりながら、山尾君の口癖の話、ギターの話、それに双子の健太と雄太と合わせて作った裏山の秘密基地の話など、沢山聞かせてあげた。比呂奈は僕の胸の中で、小さく丸まりながら瞳をキラキラさせて耳を澄ませていた。僕はとても幸せで、比呂奈にもこの僕の気持ちがきっと伝わっているのだろうな、と感じた。 「腕、痛くない?」と、比呂奈が心配した。 「全然、平気だよ」 「よかった」 比呂奈はそういうと、優しい瞼をゆっくり閉じた。僕はもう一度彼女のおでこに、たっぷり愛情をこめたキスをした。 翌日、僕らは予定よりも一日早く出発した。父親がくれた、赤いカブリオレに乗って。出発する前に、健太と雄太のお婆さんがスイカを二切れずつ僕らにくれた。僕は車に乗ったまま、比呂奈と甘いスイカを頬張った。健太と雄太は、「いつ秘密基地に戻ってきてくれるの?」と僕にいった。僕が、「もう戻れないよ」というと、健太が泣き出して、雄太は怒り出した。「じゃああの基地はどうするのさ!」と、雄太がいった。僕は笑顔で、二人の頭を優しく撫でながら、「二人が好きな女の子を連れてきて、そこでお弁当を食べてごらん? きっと美味しいから。今日から、あそこは君たちがリーダーだ」といった。すると、二人は顔を見合わせて、気を取り直したようだった。もちろん、僕も淋しかったけれど、少年時代には、必ず乗り越えなければならない別れが訪れるものだった。 こうして、僕と比呂奈を乗せたカブリオレは出発した。助手席にいるのは比呂奈で、運転しているのは僕だった。比呂奈は白いバッグのポケットからアップルの新しいケータイを取り出した。コードを伸ばして車のオーディオに接続すると、音楽が流れ始めた。 「これ、ボサノヴァかな?」と、音楽についてあまり詳しくない僕がいった。 「うん、そう。イパネマの娘よ」と、比呂奈が笑顔で答えた。 街を抜けると、広い一本道に出た。周りは丈の長い草原で、夏の陽を浴びて黄金色に輝いていた。まだ、蝉の鳴き声がどこからともなく聞こえている。しばらく走ると、助手席側の草原が消えて、湾が見え始めた。湾の水面も夏の陽を浴びて、キラキラ輝いていた。隣にはそんな湾を眺めている比呂奈が、リラックスした眼差しで風を受けていた。なんだか、この瞬間をずっと昔から夢見ていたような、そんな懐かしい感じさえした。赤いフォルクスワーゲンも悪くないな、と僕は思った。 「ねえ、スズくんはこの世界に楽園ってあると思う?」 比呂奈は時どき、気分によってサトくんと、スズくんを使い分ける。今日の比呂奈の気分は、スズくんみたいだった。 「うん。あるよ」 僕はハンドルを回しながら、そう冷静に答えた。比呂奈がこちらを見つめた。比呂奈の視線を感じる。僕が彼女の横顔を見やると、目が合った。僕は笑顔でこう続けた。 「創世記では、僕らは楽園を喪失したことになってるよね。でも、喪失するってことは、新たに見つけ出すチャンスを与えられたってことでもあるんだ」 僕がいつになく真剣な眼差しでそういうと、比呂奈は明るい眼差しを返した。 「もしかして、今がそうなのかな?」 「そうだよ」と、僕は嬉しそうな比呂奈に、笑顔でそういった。 「そういや、俺の馴染みの親友が書いた詩の中に、こんな一節があったな。大切なひとには限りなくやさしく、そうでないひとには限りなく残酷に。なぜか今、あのフレーズを思い出したりしたよ」 僕はそういって、今こうしてドライブしながら比呂奈と話していることに幸せを感じていた。こうやって、のんびりと話しているあいだに、僕らはきっと新しい街へ着くだろう。 「そのフレーズ、なんか『ゴッドファーザー』みたい。歌になった詩なの? なんていうか、敵を作って生きていかざるを得ないのが、人間のサガなんだって感じの言葉だね。守るべき家族がいる一方で、憎むべき敵もしっかり用意されてる、みたいなね。そういうものなのかものね、生きることって」 比呂奈はそう、静かに返してくれた。僕は真面目に答えてくれたことが嬉しかった。山尾君が作ったあの言葉に、僕は高校時代に出会って、自分はいつかこういう男になってやろうと決めていたのだ。比呂奈がいうように、愛する人がいる一方で、確実に憎しみを受けてもいるような男。その時の僕にとって、そういう男が凛々しく見えた。かっこよく見えたのだ。だから、大切なひとには限りなくやさしく、そうでないひとには限りなく残酷に、その言葉が僕の青春の合言葉になった。 「サトくんはどうなの? 今の言葉に対して、どう感じてるの?」 比呂奈はそうきいていた。スズくんから、今度はいつものサトくんに戻ったのが、なんだか可愛らしかった。 「そうだなぁ」と、僕は夏の大空に目を移しながら呟いた。逞しい入道雲が、湾の上で夏らしさを主張している。この先も、まだまだ一本道が続いている。僕らはカブリオレに乗ってその一本道を、ひたすら走っているのだった。夏らしい、そして少年と少女だった時代に経験した、かけがえのない秘密のような時間を、僕らは過ごしていた。 「大切なひとにも、そうでないひとにも、限りなく残酷になるような時が、きっと人間にはあると思う」 「えー、怖いよぉ」と、比呂奈はふざけたように笑った。僕もその笑顔につられて笑ったが、内心では真剣だった。 「愛している人にさえ、牙を剥いてしまうような時が、たぶん一番問題なんだと思う。そういう瞬間に、僕らは本当の意味で、試されてるんだ」 「そんな時は、比呂奈、サト君にキスするよ」 比呂奈が甘い声色で、そっと夏空を見上げながらいった。僕は優しい気持ちになって、この女性とこれまで共に時間を過ごしてきて、本当に良かったなと、しみじみ感じた。 「比呂奈、ロザリオ持ってきてる?」 「うん。鞄の中にちゃんとあるよ」と、比呂奈は少し慌てた様子で返した。 「だったらそれでいいんだ。あれは、御守りだからさ。きっと俺と比呂奈をこれからも守っていく」 僕らはこんな話をしながら、草村に引かれた広い一本道の車道を走らせていた。やがて空が綺麗な夕陽色に変わった。比呂奈は静かに瞼を閉じて、ボサノヴァのイパネマの娘に耳を傾けていた。僕はハンドルを握りながら、片手では比呂奈の髪の毛を撫でていた。それは僕にとって、銀河の下で星を吸って輝いている海辺を感じさせるほど、心地よい時間だった。僕らはこの星の、この水没しつつある国の中で、誰よりも自由で、誰よりも幸せだった。 その夜、僕らはすっかり湿地帯の方へと踏み出してしまっていることに気付いた。引き返して、再び一本道の車道へ戻った。走っていると、草むらが切り開かれた草原が現れた。そこには、ところどころに小さな屋根の家が点在していた。走行中なのですぐに通り過ぎていくけれど、夜の中で光る家の灯がメルヘンチックなおとぎ話に登場する魔法の灯りみたいで、僕らの心を平穏にさせた。 「さすがに疲れてきたなぁ。どこかで宿を借りよっか?」 「うん、そうしよ。民家で貸して貰えるかしら?」 「よし、じゃあ行ってみよう」と、僕はエンジンを止めて車のキーを抜いた。比呂奈はハイヒールだったので、カッカッと音を鳴らしながら夜の石畳の上に下り立った。僕はその音に何故か惹かれてしまって、思わずもう一度ハイヒールで音を鳴らして、といいかけた。月夜の光に照らされた石の上で鳴るハイヒールの音が、どこか僕の魂に心地よいサウンドとして響いたのである。 僕らは車をそこに止めて、近くにある農家へ向かった。辺りは梟の巣が張られたような涼しい閨に包み込まれていた。暗がりから、薄っすらと川べりまで続くブドウ園が見えた。 「ここ、ブドウ園なんだ」と、僕が見渡しながらそういった。夜の空気が気持ちいい。 「ワインとか、好きなひとだったらいいのにね」と、比呂奈が返した。 比呂奈は東の、まだあまり水没していない街でワインの営業をしている。僕は酔っている時の比呂奈の雰囲気が好きだった。舞っているような心地よい酔い方だった。甘えたような眼差しになって、キスして、という回数が増える。僕はその度に、比呂奈に唇を重ねたけれど、その直後に決まってこういうことをいったものだ。鍵のかかった部屋に入らない? と。僕が、鍵がかかってるなら、まず開けなくちゃ入れないよ、と返すと、比呂奈はそのまま瞼を閉じてしまうのだった。こういうやり取りが、比呂奈が酔った時にはけっこう起きたが、僕はまだ鍵の開け方を知らない。裸になって生まれたての子猫みたいにジャレ合っている最中でも、彼女はその話の中の部屋を、けして開けようとはしなかった。 扉を叩くと、中から赤いワンピースを着た、髪の毛をお洒落にカールさせたおばあさんが顔を出した。僕らの顔を交互に見つめている。 「ごめんください。一晩で良いので、宿を恵んでもらえないでしょうか?」 僕が、二人いますということを伝えるために、比呂奈の方に目を配る。 「こんな夜遅くに本当に申し訳ございません」と、比呂奈も丁寧に御辞儀しながらおばあさんにいった。すると、おばあさんはニッコリ微笑んで、 「ええ、ええ。全然、それはかまいませんよ。その代わり、今ちょうどおじいさんが屋根裏を掃除しているところなんで、男手をお借りしてもよろしいでしょうか?」 僕は笑顔で快く首を縦に振った。多少、運転で疲労はしているかもしれないが、いざ女性に何かを頼まれるとそうしたものは何も感じなくなるのは僕の良い性格かもしれない。 「もちろんです。すぐにでもお手伝いさせていただきます」 「まあ、それは頼もしいこと。でもうちの屋根裏は大きいので、あまり無理をなさらないでくださいね」 「平気です。ちょうど車に座りっぱなしだったので、いい運動になります」 「終われば、ゆっくり檜風呂に入ってくださいな」 そういって、おばあさんは比呂奈に微笑んだ。お風呂を沸かすのは、私たち女性の仕事ですよ、という意味の親しみのある眼差しだった。比呂奈はすっかり、このおばあさんが気に入ったようで、まるで久しぶりに再会した故郷の祖母に接する時のような笑顔を浮かべた。 家は木造で、古く重厚だった。暖炉のある部屋には、大きな熊の毛皮が敷かれていた。西洋風の蔓草模様が美しい木製棚の上には、ジョサイア・ウェッジウッドの、あのクリームとブルーが優しく溶け合ったような色彩の古い陶器が飾られていた。その上には、何故かコペルニクス以前の、プトレマイオスの天球図の模写が大きく掲げられて、この部屋全体に秩序と、知性を与えていた。 ウェッジウッドの陶器が整然と並べられた棚のガラスケースには、やはり美しい食器が並んでいた。ルネ・ラリックの作品を思わせる、青白いネオンのような輝きを放つグラスも置かれていたが、これはきっと、おじいさんの方の趣味なのだろうな、と感じた。ピーターラビットの絵が描かれた、大きな洋菓子用の皿を見た時は、何故か母親のような温かみを感じて、安心したのだった。 全ての部屋を案内してもらったわけではないので、僕は早速、屋根裏へ向かった。おばあさんが屋根裏へと続く木製の移動式階段のある場所まで案内してくれた。比呂奈とおばあさんは、僕が上へ登り始めると、再び暖炉のある部屋まで下りていったようだった。 屋根裏は埃まみれで、白い絨毯になっていた。おじいさんが、水中ゴーグルのような異様に大きな眼鏡を額にかけて、今いらない書類をまとめていた。おじいさんは白い髭を生やしていて、肌は男らしく日焼けしていた。わずかな天井のカンテラの光に照らされて、額の汗が光っている。 「助太刀か?」 「はい。一晩宿を貸していただくことになったので、何なりといってください」 「うん、そうか。それじゃあな、そうだな、まず床を水拭きするんだ。それから、いらないものと、いるものをきっちり分けたい。わしがいうから、いるものを壁の南側へ、いらないものを北側へ置いてくれ。明日、業者が下ろしに来る。さすがにわしらであの小さい階段を使って荷物を運ぶのは無理じゃよ」 おじいさんは、どこか嬉しそうにそう僕にいった。屋根裏には、他にも色々なものが置かれていた。不思議なフランス人形もあれば、傷んで使えなくなった椅子、それにおじいさんの物か、息子さんのものか判らないが、けっこうな数の衣類もあった。要するに、屋根裏はまだ雑然としていて、汚かった。 僕は早速、おじいさんの指図を受けて、いるものを南側へ、いらないものを北側へ運んだ。屋根裏自体がそれなりに広いので、歩き回ることになった。 「それはいる」と、おじいさんは何故か、ボロボロになっている小さなフランス人形を南側へ置くように命令した。僕は笑顔で額の汗を拭いながら、頷く。 「それは、いる。いや、いらん!」と、おじいさんが昔着ていたらしいジャケットを北側へ置くようにいった。その時、僕はそのジャケットに、クリスチャン・ディオールという刺繍が入っているのを見て、愕いた。 「これ、ディオールのジャケットなんですね。しかも、まだまだ着れますよ。いっそ、古着に出されてはいかかでしょうか?」 「ほお、お前さんはディオールを知っとるのか? わしはな、自分で服を買い出した20歳の時以来、ここでしか買っとらん。ぴったり自分のサイズに合うタイトな作りが、わしは好きじゃったよ。わしの時代は、クリス・ヴァン・アッシュというデザイナーじゃった。それから、ガレス・ピューに変わって、スタイルが少しメタルっぽくなってしもうたんじゃ。わしはクリスの、クラシックでシンプルなデザインが好きじゃった。でも、時代は変わっていく」 僕はおじいさんの話を注意深く聞いていた。 「良かったら、お前さん着てみるか? 保存状態はそれほど悪くないはずじゃ。まあ、寝かせておいただけじゃが」 「じゃあ、一度着てみます!」 僕は正直、胸が高鳴っていた。僕が比呂奈のバースデイプレゼントに贈ったのも、ディオールの指輪だった。そして、実は僕が今はいている銀のデニムも、シャツもディオールのものだ。芸術を愛している僕にとって、ディオールの作り出す全ての物が、愛しく感じられる。 「この季節にジャケパンは暑いが、春、秋シーズンでは普通に着れるかもな」 僕は肩を曲げて、スムーズにジャケットを着た。長い鏡が壁に置かれていたので、その前に立った。肩幅がピッタリだった。そして、腕から手首にかけても、まるで自分の皮膚のように吸い付いてくるタイトさだ。まぎれもない、それはクリスのデザインしたエレガンスなジャケットだった。 「今のお前さんと、昔のわしの体型がきっと似とるんじゃな。本当に、ジャストサイズじゃ」 おじいさんは、その時だけディオールの路面店を取り仕切る代表のような威厳を帯びていた。ゴーグルを付けているのがおかしくて、笑い出しそうになった。それからも、僕らは屋根裏掃除に精を出した。僕は頂いたジャケットを、おじいさんが用意してくれた黒い衣装ケースに直した。いるものは、南側へ、そしていらないものは、北側へ。こうして残ったのは、ごくわずかの、おじいさんの想い出だけだった。人間が本当に必要なものは、もしかすると、非常に少ないのかもしれない。けれど、おじいさんが大切にしている、オルゴールが発見できたことは僕も嬉しかった。オルゴールに、笑顔が可愛いボロボロのフランス人形、そして花瓶に、何枚かのCD。それらはおじいさんと過ごした時間を刻印していた。 屋根裏掃除の後、僕とおじいさんは、比呂奈とおばあさんが沸かした檜風呂に入った。ぼんやりと体を湯船に浸していると、比呂奈が車の中でいった言葉を思い出した。「鍵のかかった部屋」。僕は自分の部屋に、これまで鍵をかけたことがなかった。かけるとすれば、誰にも見られたくないものを隠している時くらいだろう。でも、心の中のこととして考えると、僕にも確かにそれなりの「鍵のかかった部屋」があった。それは、誰かと話している時に、急にパタンと閉まってオートロックになるようなものだ。そうすることで、適度に自分を主張せず、秘密を隠したままコミュニケーションが穏便に進んでいくことを僕は知っている。 おじいさんが屈強な体を月光に光らせている。僕らは今夜だけ、こうした一緒に檜風呂に入っている。こんなことは、もしかすると二度と訪れないだろう。 寝る場所として与えられた部屋は、比呂奈と二人で使うことができた。空きベッドが一つあったので、それを比呂奈に譲り、僕は彼女の傍のソファーで眠ることにした。一度は眠りに入ったものの、僕はトイレに行きたくなり、目覚めてしまった。おじいさんから教えてもらっていた廊下の奥の部屋へ向かった。でも、廊下にはトイレの奥にまだもう一つ、最初通ったときには気付かなかった部屋が存在しているのを発見した。その部屋の扉の下からは、夜なのに夕陽のような淡い光が射していた。 火か? と最初は思った。けれど、近付くとそれはカンテラの火のようだった。僕はトイレを済ませてから、光が洩れている部屋の扉をノックした。返事はない。後ろを振り向くと、僕が起きたことで目覚めた比呂奈が、トイレに入ろうとしていた。 「どうしたの?」と、比呂奈がまだうつら、うつらしながらいった。 「この部屋、一体何だろう」 「鍵がかかってるの?」 比呂奈がそういったので、僕はノブを回してみた。やはり、扉には鍵がかかっている。けれど、部屋からは先ほどにも増して、光が燦爛と溢れ出している。それは優しい蝋燭たちの呼吸を感じさせた。廊下の壁で、光と影がダンスしているみたいだった。 「中に何があるんだろう?」と、僕がいった。 「ダメよ。入ったらダメ」と、比呂奈が即座に僕を諌めた。そして、こう付け足した。 「鍵をかけておられるんだから」と。 そして、比呂奈はトイレを済ませると、寝室へ戻った。僕は何故か、ぼんやりと廊下の影を見つめていた。この先に何があるのか知らないが、強い光源があるのは間違いがなかった。思い切って、僕は鍵穴から部屋の中を覗いた。 すると、部屋の中央には一台の古い安楽椅子が置かれているだけだったのだ。椅子の上には、アルバムが置かれていて、ゆっくり静かにページを一枚、一枚と誰に捲られることもなく、たなびかせているのだった。誰かがそこにいるというよりは、アルバム自身が自らを展開している様子だった。アルバムのページが一枚、捲られるごとに部屋は眩く輝いていた。 僕は目を凝らした。アルバムに何が映っているのか、僕は知りたかったのだ。ずっと目を凝らしていると、ギターを背負っている少年とおじいさんの姿が見受けられた。それは僕の暮らしていた街にいた隣家の、あの山尾君と、この家の主人であるおじいさんだった。二人は肉親だったのか、同じ一枚の写真の中で家族のように微笑んでいた。 アルバムは、山尾君の幼年時代の写真や、中学時代の喧嘩の瞬間の写真などをも見せていた。それは、山尾君のアルバムだったのだ。ということは、やはりここは彼の祖父母の家だったということになる。奇遇もあるものだ、と思った矢先、僕はアルバムが全体の三分の一で終わっていて、最後の写真がギターと三匹の野良猫だけになっているのを見た。それは僕に漠然とした恐怖を感じさせた。 翌日、僕らは早朝に起床して、おばあさんに朝食を作ってもらった。僕らは深々と御辞儀をして、宿泊させていただいたことを心から感謝した。おじいさんもやって来て、笑顔で挨拶してくれた。 僕と比呂奈は、カブリオレに乗った。一本道を、再び新しい街目指して走り続ける。比呂奈はケータイで朝のニュースを流していた。僕らは今度は、Fly me to the moonをつけていた。優しく甘い声色の歌声だった。僕の知らない歌手だが、比呂奈は知っているらしかった。ちょうど、ニュースのBGMがこの曲になったみたいな雰囲気だった。冷たい声の女性キャスターが昨夜、ホテルのパブで起きた火災について伝え始めた。 パブにいた全員が遺体で見つかり、三名だけ身元が判明したらしい。そのうちの一人が、山尾彰(24)とあった。僕はハンドルを回しながら、比呂奈の顔を見た。何か、得体の知れない緊張感が、この風景を満たしていた。きっと、山尾君じゃない、そのはずがない、と僕は思っていた。同姓同名ならいくらでもいるはずだった。昨夜見た、あの幻のようなアルバムが、彼の運命の予言書であるはずがなかった。 「比呂奈、昨日見たあの部屋なんだけど」 「あの部屋?」と、比呂奈が目を丸くしていった。 「うん、トイレの横のあの部屋だよ。光が溢れ出してたけど」 「えっ?長い廊下が続いていた奥にあるのがお手洗いで、その先にはもう何もなかったわ」 「それじゃあ、僕の錯覚なんだね」と、僕は笑顔でいった。 「そう、きっと夢よ」 僕は少し安心して、溜息を吐いた。次の瞬間、比呂奈の持っていたケータイの画面に、山尾君の顔写真が出ているのを見た。僕は思わず、急ブレーキを踏んだ。比呂奈が大きく前に髪の毛を振り乱した。愕いて僕を見ている。 「どうしたの!」 「俺は、俺は鍵を開けていないんだ。俺はただ、覗いただけだった。それなのに」 僕は冷たい汗を流しながら、得体の知れない感覚に支配されていた。 「山尾君は、俺の親友だったんだ。カート・コバーンが好きで、いつもヒステリックグラマーのシャツの上に灰色のイヴ・サンローランのジャケットを着てた。彼は俺が旅立つ前に、別の新しい暮らしを求めて旅立ったんだ。野良猫三匹と、ギターをトラックに詰め込んで。それからのことは、俺は知らない」 比呂奈は困惑したような眼差しで僕を見つめていた。彼女は、ニュースの山尾という男性と、僕の親友はきっと違う人間だといった。彼女のその主張には、何故か強い確信が宿っていて、僕は信じることにした。山尾君ではない。彼は新しい街で、またギターを弾いているのだから。 僕は再び車を出発させた。喉かで、呆れるほど静かな一本道の広い車道がずっと続いている。あと十年もしないうちに、ここも水没してしまうだろう。そう思うと、僕は何故か、とても淋しい気持ちになった。 (FIN) |
鈴村智一郎
http://slib.net/a/178 2011年05月15日(日) 10時44分14秒 公開 ■この作品の著作権は鈴村智一郎さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.4 蜂蜜 評価:0点 ■2011-06-18 02:34 ID:8SlA.arG1XM | |||||
下で指摘されているような、日本語の文法として正しいかどうかなんてことは、小説にとって全く重要なことではないと思います。 小説を書くということは、そもそも、学校の国語の時間の作文とは全く違うことなのですから、文法的な正しさなんてものは、まず最初に疑ってかかるべきものであり、忌避すべきものであり、中指立ててファックユーと言うところから始まらないと、むしろ「まとも」な小説なんて、絶対に書けません。あえて断言します。 絶 対 に 書けません。 この作品がどうのこうのと言うよりも、ただそれだけが言いたくて、ここに明記いたします。 作品自体に対する感想ではないので、点数はつけずに失礼します。 |
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No.3 闇の吟遊詩人 評価:20点 ■2011-06-03 19:26 ID:/OPFohzmWlY | |||||
人によって好き嫌いは分かれるでしょうが、「哲学的・幻想的な雰囲気」は悪くないと思います。特に「アルバムの場面」は白眉。これが「俺は、俺は鍵を開けていないんだ。俺はただ、覗いただけだった。それなのに」と「何故か強い確信が宿っていて、僕は信じることにした。山尾君ではない。彼は新しい街で、またギターを弾いているのだから」につながっています。 月子さんと正反対の意見になりますが「親友である山尾君が結局どうなったのか」が不明だからこそ、「水没」という言葉と共に「切ない余韻」を感じました。 「これは名言」と思った言葉を並べてみます。 「創世記では、僕らは楽園を喪失したことになってるよね。でも、喪失するってことは、新たに見つけ出すチャンスを与えられたってことでもあるんだ」 「大切なひとにも、そうでないひとにも、限りなく残酷になるような時が、きっと人間にはあると思う」 「愛している人にさえ、牙を剥いてしまうような時が、たぶん一番問題なんだと思う。そういう瞬間に、僕らは本当の意味で、試されてるんだ」 ……この三つは「精神錯乱」に苦しむ私が「現実世界で体験したこと」なので特に印象に残りました。 後は読んで気になったことを書いておきます。 1.「全然」の使い方。→月子さんの指摘の通りです。「全然」は「文語の形容動詞」では「余すところのないさま。まったくそうであるさま」、「現代語の副詞」では「残りなく。すっかり」、「俗な言い方」では「非常に。とても」という意味もありますが、「全然、問題はない」といった感じの「打ち消しの形」にした方がいいと思います。 2.「スズとサト」→これも月子さんの指摘の通りで、「スズとサトと呼ばれる理由」を書いておいた方がいいと思います。ただ、「あえて曖昧にして、謎めいた雰囲気を出す」のも一つの手かもしれません。 |
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No.2 月子 評価:10点 ■2011-05-21 20:41 ID:WXOqqJBbeJ2 | |||||
こんばんは。 読ませて頂いたので感想を。 生意気なことも書くかと思いますが、どうかお気を悪くなさらないでくださいね。 まず、「この物語のテーマはなんなのか?」ということです。 とても長く、手のこんだものだったと思います。 ですが、失礼ながらキャラの設定がいまいちつかめませんでした。 例えば、結局主人公の名前はなんだったのか。 スズとも呼ばれているし、サトとも呼ばれている。 共通点がまったくみつからない二つの呼び名に困惑しました。 また、親友である山尾君が結局どうなったのか。 ひとつひとつの展開がはやく、「あれ?」と状況がよめなくなりました。 ここで主人公の心情を描いて欲しい、そう思う場面が多々。 ちりばめられているピースが上手く回収できず、もやもやが残りました。 (ここからはかなり個人的で細かいことなので、本当に流す程度でかまいません) >「全然、平気だよ」 全然、の使い方についてです。 きいたこともあるかと思いますが、全然のあとは否定でおわる、というのが日本語の決まりです。 本文中に何箇所か引っかかる部分があったので書かせていただきました。 もう一つ。 >健太と雄太は、「いつ秘密基地に戻ってきてくれるの?」と僕にいった。僕が、「もう戻れないよ」というと、健太が泣き出して、雄太は怒り出した。「じゃああの基地はどうするのさ!」と、雄太がいった。僕は笑顔で、二人の頭を優しく撫でながら、「二人が好きな女の子を連れてきて、そこでお弁当を食べてごらん? きっと美味しいから。今日から、あそこは君たちがリーダーだ」といった。 ・・・・・・長くなってしまいました。 この一文、とても会話が多く、長いですよね。 読む側としては(私だけかもしれませんが)「」のあとに文章が続くよりも、 「」で一回きってもらって、次の行にうつってもらったほうがとても読みやすいです。 以上、勝手なことを書いてしまいました。 お気を悪くされたなら、本当に申し訳ありません。 これからも鈴村さんの作品を待っています。 では、失礼します。 |
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No.1 三村 評価:0点 ■2011-05-15 17:26 ID:MU5ljc0IVPA | |||||
とても偽善的な小説でした。 | |||||
総レス数 4 合計 30点 |
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