嘘つき |
上京する前夜、私は彼女の部屋で、ソファの上に彼女と並んで座って何をするでもなくじっとしていた。 外から微かに車が走る音が聞こえる。上の階の住人の足音が、時折聞こえる。互いの息を吸って吐く音が、意識せずとも聞こえてきた。 「何か肌寒いね」 と彼女は言った。 「そりゃまだ3月の末だもん、寒いよ」 と私は無難な言葉を返した。 「東京は、多分暑いんだろうね」 「この時期は、丁度良いくらいだと思う」 「今頃桜とか咲いてるのかな」 「かもね」 「私も見たいな、桜」 彼女はそう言うと、私の右腕に自分の左腕を絡め、寄りかかるように、そっと体を私に寄せた。 肌寒いと彼女は言ったが、私は別にそんなことは思っていなかった。しかし、彼女の体温を感じて、初めて私が寒いとか暑いとかそういうことを気にも出来ないほど特殊な精神状態に居ることに気付いた。 彼女の体は、温かかった。 「ねぇ」 彼女は言った。 「あっちに行ったら、君は新しい人を好きになるのかな?」 「ん……どうだろ。そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない」 自分の答えが卑怯なものであるということは、自分が一番よく分かっていた。ただ、「新しい人」という単語に、真っ白のキャンパスに誤って垂らしてしまった青い絵の具のような違和感を覚えた。 「私はね、新しい人を好きになると思う」 と、彼女はささやくように言った。 「……まぁ、そうだろうね」 「君より好きになる人が、出来るかも知れない」 「うん」 「何てったって、互いの距離が長いからね。半年に1回くらいしか会えなくなるんだもん。それなら、私はきっと寂しくなるし、周囲に男の子だって一杯いる。繰り返しの毎日の中で、君と私の『日常』は、徐々に重ならなくなって、共有できなくなっていく」 彼女は、言った。 「多分、私はそれに耐えられない」 いつの間にか、彼女は私の右手を、左手で弱々しく握っていた。 「……別に会えなくなる訳じゃない」 私は言った。 「メールだって電話だって、スカイプだってある。連絡しようと思えばいつでも出来る」 私はそう言ったが、彼女は言葉を返さなかった。 「君はさ」 しばらくの沈黙の後、彼女は言った。 「いつだって私を傷つけないように、怒らせないように、不快にさせないように、気を遣ってくれてるよね」 「うん……結果として君がそう思ってくれているなら、光栄なのかな」 私は口ではそう言ったが、実際、彼女の言う通りだった。 彼女が不快な思いをしないよう、私はいつも彼女の表情を見て、声色を聞いて、最善の行動を選んできたつもりだ。 それでも彼女が怒って私と口を聞いてくれなくなる時もあった。その時は、私が言い訳一つせず、頭を下げて、真っ先に謝罪の言葉を口にした。 「……私は、君の本心が聞きたい」 「本心?」 僕は言った。 「僕は君に、いつも自分の思ったことを正直に伝えているつもりだけど」 「伝えている『つもり』」 彼女の声が、心持ち大きくなった。 「そういうのが、嫌いなの。多分、つもり、かも知れない、そうやって予防線張って、自分の気持ちをオブラートに包む。私に気を遣ってくれてるつもりなんだろうけどさ、それだから、今まで私は、君の汚い部分を見たことが、ほとんどないの」 「……汚い部分、ね」 私は、十分に汚かった。彼女がそれを分かっているか否かは、わからないが。 私の言葉遣いや言動は、彼女の気分を損ねないということが目的なのではない。自分を守る為だ。不用意に、自分が傷つかないようにする為だ。そうだ、そうなのだ。 「僕は取り立てて優しい人間でもないし、見た通りカッコよくもない。秀でた特技がある訳でもないし、君に何か提供できるものがある訳でもない」 だから、いつも君が僕を本当に好きでいてくれているのか、不安になる。とは、言わなかった。 「だから僕は、汚い部分をいつも、君に自然に晒しているはずだよ」 違う。 声はしなかったが、彼女の口が、そう動いているように見えた。 「別れよう」 私は、言った。 「…………ん」 彼女の体が微かに震えた。 「君は、もっと僕なんかより良い人と、これからの生活で数多く巡り合う。だから、僕なんかが遠い場所から君を縛っておくのは、勿体ない」 これは、私の精一杯の本音だった。 昨年の7月に、私は彼女から告白された。生まれて初めて、告白されたのだ。 君と、いつまでも話していたいと思った。いつまでも一緒に居たいと思ったんだ。好きです、付き合って下さい。 夜に、学校の近くの公園でそう言われた時、私は驚いて、同時に形容のし難い温かい嬉しさに包まれて、こんな私でも好きになってくれる人が居るんだ、と思った。 彼女は、小柄で、黒髪で、クラスの中では大人しくて、ピアノが弾けて、歌が上手かった。そして、可愛かった。 そんな、私を拾ってくれた彼女に対する、精一杯の本音であると同時に、精一杯の見栄だった。 「だから、別れよう」 車の音も、住人の足音もしなかった。 ただ、交互になる2つの心臓の鼓動だけを、感じた。 何がどうあれ、私は上京してしまうし、彼女はこの街に留まる。少なくとも向こう10年は、私がこの町に帰ってくることはないだろう。 そんな中で、彼女を私に「恋人」という名の鎖で繋ぎとめておくのは、あまりにも無粋で、勿体ないように思えた。花の10代後半、そして20代。彼女は、色々な人に出会うだろう。様々な男に出会うだろう。必然的に、恋もするだろう。離れている私なんかより、ずっとずっとその男を好きになるだろう。 だから、これは私なりの、彼女に対する礼儀のようなものだった。 気が付くと、彼女は、俯きながら泣いていた。 静かに、夏の夜に降る雨のように、泣いていた。 私は、何か言葉を探したが、どこにも適当な言葉が見当たらなかった。ただ、彼女に寄り添って、震える彼女の背中をゆっくりとさすってあげることしかできなかった。 「行かないで」 彼女は私の袖を掴みながら、呟いた。囁くような、息に交じってすぐにでも聞こえなくなってしまいそうな、声だった。 あの時、私がかけるべき言葉は、「僕は、新しい人を好きにはならない。なる訳がない。ずっと君を好きでいる」だったのかも知れない。もしかすると、彼女はそんな言葉を望んでいたのかも知れない。 そうすれば、私が上京した後も、関係を続けられたし、どちらかに「新しい人」が出来てもそれを隠して、付き合い続けられたのかも知れない。 しかし、私は彼女に、別れようと言った。 自己嫌悪に陥った時、孤独や寂寥を感じた時、私はきまって彼女のことを思い出す。 彼女は元気だろうか。まだあの町に居るのだろうか、それとも違うところに住んでいるのだろうか。友人は出来ただろうか、進路はどうするのだろうか、まだピアノを続けているのだろうか。 新しい人と、巡り合っているだろうか。 私は、彼女のささやかな幸せを祈る。 彼女が元気で、出来ればまだあの町のあの家で暮らしていて、元来の友人と新しく出来た友人と共に笑って過ごし、悩みながらも進むべき方向を決め、ピアノを続けてくれていたらな、と思った。 新しい人と、幸せに過ごせていたらいいな、と思った。 違う。 彼女が、そう言っているかのような気がした。 しかし、それは彼女の声ではなかった。 それは、私の声だった。 |
イロリ
2011年05月08日(日) 21時01分17秒 公開 ■この作品の著作権はイロリさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.2 ゆうすけ 評価:20点 ■2011-05-10 09:42 ID:oTFI4ZinOLw | |||||
拝読させていただきました。 丁寧の描かれていて感情移入できました。切なさが伝わってきていいですね。 情景を思い浮かべやすいですが、よくあるパターンであることは否めないですよね。 嘘つきという題名なのですから、自分を欺いている苦悩を明確な主題とした方が独自性が出るかと思いました。 まあ私自身が、恋愛小説を読むこともないですし、書くのはSFギャグなので、門外漢の言うこととして聞き流してくださいね。 |
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No.1 二号 評価:30点 ■2011-05-09 19:20 ID:ryO5XzxegP2 | |||||
若い二人の別れの様子と、それを切り出す主人公の感情がとても丁寧に描かれていますね。楽しく読ませていただきました。 『嘘つき』という題名の『嘘』とは多分語り手『私』のそれまで取ってきたあいまいな言動、態度のことなのだろうなと受け取りました。別れの際に彼女から『本心が聞きたい』と言われ、嘘を捨て別れを切り出す。しかしその後も、あの時嘘をつき彼女が望む言葉をかければよかったかもしれないと考え、さらには彼女の幸せを願った後にそれが自分を偽る嘘だと気がつくという、彼女から自分への嘘の方向性が転換するという展開は非常に面白かったです。 ただボリューム的な物足りなさと、全体として少々味付けがあっさりしすぎているかなと言う印象を持ちました。また『そんな中で、彼女を私に「恋人」という名の鎖で繋ぎとめておくのは、あまりにも無粋で、勿体ないように思えた』と『だから、いつも君が僕を本当に好きでいてくれているのか、不安になる。とは、言わなかった。』という言葉から、『私』が別れを決意した理由に、『彼女を縛り付けること』と『私自身の不安』というの二つの理由があったと受け取りましたが、『縛り付けることへの抵抗』に比べて、『私自身の不安』についての描写が少ないかなと思いました。この嘘をつく理由としての『不安』を抱える彼の内面にもっと踏み込んだ描写が見たかったと思いました。 物語の理解の仕方を間違えていたらすいません。正直に『面白かった』と言うのが一番の感想です。長文失礼しました。 |
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