ムーンリバー
 男と女は月を見ていた。別々の場所で、別々の月を見ていた。二人は夜空に輝く黄色い月を眺めながら、互いに別々のことを考えていた。
 男はこんな夜にぴったりの音楽は何だろうと考えて、少し悩んだ後に、ローリングストーンズのチャイルドオブザムーンを頭の中で思い出すことに決めた。濡れた目の少年が男に笑いかけていた。少年は月の光を受けながら三日月のように目を細め、口元を吊り上げた。
 女はオードリー・ヘップバーンが歌うムーンリバーを思い出しながら月を眺めていた。彼女は自分の元にもポール・パージャックのような誠実な男が現れ、雨の中でお互いを強く抱きしめあいながらキスをすることにあこがれたが、自分のロマンチックに過ぎた想像に恥ずかしくなり、ムーンリバーを流れていく一人の小さな女の子について想像することにした。ヘップバーンのような美しい女性に憧れる小さな女の子。
 濡れた目の少年は川の上にボートを浮かべ、小さな体には不釣合いな大きなオールで水面を月に向かって漕ぎ出していた。こぎ疲れると少年はボートの行く末を川の流れにゆだね、月を眺めながら冷蔵庫いっぱいに並べられたアイスクリームを食べることを想像した。少し溶けて柔らかくなった甘く冷たいアイスクリームは、銀のスプーンによって削り取られ、少年は食べきれないほどにあるアイスクリームを前にそれでも目の前にある一つの味を最大まで味わおうかとするかのように少しずつその甘さと冷たさを味わっていた。
 幼くして細身の女性に憧れてしまった少女は、アイスクリームを憎んでいた。彼女はかつてアイスクリームを愛していた。しかし、アイスクリームの持つその甘く冷たい、口の中に入れたときに広がる幸福感は、ある時から彼女の憎しみを一層募らせた。物心ついたときから抱き続けた彼女の愛情は、体重計とダイエット雑誌を目の前にして急激に冷めていった。アイスクリームに対する愛情と彼女の痩身への憧れの間に、ジレンマの発生する余地は無かった。彼女はかつて愛した物を憎むことに決めて、その代わてにその憎しみを糧にして苦手だった野菜を好きになろうと決めた。彼女は輝かしい未来の野望のために、現在から未来にかけての望めば手に入るであろう合計アイスクリーム百個分ほどの幸せを、将来のための貯金にすることに決めた。彼女の求める美しさは、彼女が望む望まないに関わらず常に彼女に付きまとい続ける、恐ろさと希望に満ちたものだった。彼女は優しい両親に囲まれ、彼女の成長のために栄養豊富な食事を用意する両親の元で、余分なカロリーをひたすらに憎み続けた。彼女の求める美しさはいつでも彼女自身の成長の少し先であり続け、彼女は年を重ねるごとにその距離の遠さを実感した。彼女は自らの理想のために目の前に現れる様々なものを見逃し続ける。手に入るはずのもに目もくれず、遠くにあるものを眺め続ける。そんな風にして彼女は少女時代をすごして行く。



 少年は月を眺めながら釣竿を取り出し、水面に釣り糸をたらした。長い時間釣竿を持ち続けたが、魚は一匹もかからなかった。少年は忍耐強く待ち続けた。釣れないときは魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい。少年はアーネスト・ヘミングウェイの言葉を思い出したが、彼の死因が拳銃自殺であることを思い出して、再び月を眺め続けた。
 川の水は音も無く少年を乗せたボートを下流へと押し流していき、少年は心地よく揺れるその流れの中で少し冷たくなり始めた空気を胸一杯に吸い込み、目を閉じた。この流れはどこまで続くのだろうかと少年はまぶたの裏側にその姿を思い浮かべてみようとした。川の水はやがて海に注がれていくだろう。少年は海を見たことが無かったが、自分の想像力の及ぶ限りその姿を思い浮かべてみようとした。

 燃えるように赤い夕日。世界の半分が赤く染まり、少年の視界の下半分には、見渡す限りどこまでも続く巨大な青い水溜りが広がっていた。太陽は空を赤く染めながら、東からくる夜の暗闇に追いやられるかのように海に向かって落ちようとしている。少年は赤く燃える夕日が海に落ちるときを想像した。巨大な炎の固まりが巨大な水溜りに触れた時に、海と太陽は互いの熱で音を立てるのだろうかと少年は考えた。少年は待っていた。太陽が海の水分を瞬間的に熱しながら、はじけるような轟音と空に向かい白い泡と蒸気を立ち上らせながら燃え尽きるとき瞬間を。
 しかし少年が見たものは太陽と海が溶け合う瞬間の、揺らめきながら横に広がっていく赤い蜃気楼だった。少年はその赤い光に近づいて、蜃気楼の正体を確かめたいと望んだ。蜃気楼の先にはため息の出るような美しい世界が広がっているはずだ。彼は太陽と海が溶け合う場所の先に広がる、氷河と吹雪で閉ざされた凍りついた海や、灼熱の太陽が輝くどこまでも広がる海のような砂の世界を想像した。少年が想像するのはどこか遠くにある、いまだ見たことの無い世界の姿だった。そこには悲劇的な要素は何一つとして含まれていない。少年のための世界には、食べるものを見つけられずに飢えて死んで行くホッキョクグマや、オアシスの手前で力尽きる旅人の姿は存在しない。それは少年の知らなくとも良いことだ。

 やがて、少年が目を覚ました時、川の流れは彼を来たことの無い見知らぬ流れへと運んでいた。川の流れは少年を遠くに運んでいた。どこまで遠くに来たのかは分からない。少年はもう帰れないだろうと考えた。川は上流から下流へと向かって流れていく。手漕ぎのボートではもう戻ることはできないのだ。夜の冷たい風と共に木々が音を鳴らし、聞いたことの無い鳥の鳴き声が聞こえた。少年は恐ろしさと寒さに体を震わせ、大粒の涙を流した。

 月は水面にその姿を映し、流れと共に揺らぎながらその光を少年の元へと水面を伝って伸びた。少年の目にはまるでその光が道のように見えて、少年は涙を拭い、再びオールへと手を伸ばした。ボートはもうすでに少年の家からは遠く離れていたが、もう少年は帰りのことなど考えなかった。月を写した川は冷たい水以外の何かを運んでいるかのように少年の目に写った。甘く温かい乳白色の光は、うねうねと蛇行を繰り返す川の流れとどこまでも平行に、その光の始まりまでも続いていくように思えた。せめて帰れないのなら、あの光の向こう側に漕ぎ出していこうと少年は考えた。



 美しくも無く醜くも無く育った彼女は、ほとんど毎週死んだ日曜日をすごしていた。毎週金曜日の夜に鳴る電話の音とともに彼女の日曜日は死に初め、土曜日の深夜には温かさを失い、完全に冷たくなった日曜日の朝に彼女は目覚めた。そして彼女はその日一日を何もせずに過ごす。死んだ日曜日は彼女を癒さない。彼女をどこにも連れて行かない。彼女はただ静かに家の中で日曜日が過ぎ去っていくのを待つ。 
 土曜日の夜に彼女は男と一緒になって日曜日を殺す。そしてそれと共に少しずつ彼女の中に何か硬く冷たいものが堆積していく。それが彼女には分かる。しかしなぜ自分が何度もそれを繰り返しているのかは彼女には分からない。よくできた円循環の中で日曜日の死は何度も繰り返される。その流れの中で彼女はいつまでも漂い続ける。どこにもたどり着かないことを残念に思いながら、もがきもせず、何も考えずにその流れの中を漂う。
 やがて堆積物は流れを遮り、行き場をなくした様々なものがそれぞれの方向へ向けて決壊を始める。彼女の中で何かが死に、何かが終わる。
 そしてある金曜の夜、彼女は電話に出ることをやめる。
 その時彼女は久しぶりに会う友人と共に食事をしていた。彼女と友人は大してうまいとも思えないような薄く甘い酒を飲みながら、互いの近況について報告しあった。
 女友達に仕事は順調かと聞かれ、まあまあだと彼女は応えた。彼女がそういうと女友達は自分の仕事場の愚痴を彼女に漏らし始めた。彼女は的確に相槌を打ちながら、彼女に同情し、時にはなだめ、女友達の不満を聞き続けた。
 それから話題は共通の知人へと移り、誰それが引っ越しただとか、結婚しただとか、転職をしただとかの話題に写っていった。話題に上がっては消えていく友人たちの顔を記憶の中で思い出しながら、彼女はポケットにしまわれ電源を切られた携帯電話を気にかけていた。
 金曜日の夜は男から電話のかかってくる日だった。そのことについて約束をしたことはないが、それはいつしか二人の間で暗黙の了解となり、金曜日の夜の電話で土曜日をどう過ごすかを相談し、土曜日に二人は会い、彼女は一人で死んだ日曜日を過ごす、ということは何度も繰り返されてきたものだった。
 男から電話のかかってくる時間はもうとっくに過ぎていた。男は何度も電話をかけなおしているのだろうか。それとも、彼女を心配するメールを送りつけてくるだろうか。少なくとも今日のところは、彼女はそのどちらにも応じるつもりは無い。場合によってはこれからもずっと。
 電話を握り締めている男の姿を想像しそうになればなるほどに、彼女は友人の話に耳を傾け、そのことについて考えないようにした。
 一通りの噂話が終わると、友人は彼女に恋人はいるのかと尋ねた。彼女はほんの少し、不振でない程度に間を置いた後に、いないと応えた。少し恥ずかしがるような笑みをせい一杯浮かべながら。
 嘘をついたとは思わなかったが、彼女の笑みは少しだけぎこちないものとなった。友人はそれに気づかず、別れ際、今度職場の男を紹介してやると言い、彼女は仕事が忙しいからと丁重にそれを断った。
 友人と別れ、彼女は一人自宅に戻った。玄関先から一直線にベッドの上に横たわり、化粧も落とさず着替えもせずに眠りにつこうとした。床に置いたバッグの中には電源を失ったままの彼女の携帯電話が入っていた。それには恐らく友人からのメールが届いているだろう。
 愚痴を聞いてくれてありがとう。休みが合えばまた飲もう。今度は二人だけでなく、共通の友人も誘って。そんなメールが届いているはずだ。しかし彼女は携帯電話を見ようとは思わなかった。彼女はそれを恐れていた。携帯電話に電源を入れ、彼からの着信履歴や何かを見ることを恐れていた。彼女は彼からの連絡を見ることを恐れていた。そしてそれ以上に、明日以降、男に自分から連絡を取ろうとすることを恐れた。
 ごめんなさい、昨日は携帯を家に忘れて友達と遊びに行っていたの。うん、女友達。来週の土曜日?まだ分からないかな。とっさにそんな言い訳を思い浮かべ、彼女は寝返りを打った。男とはもう連絡を取らないと決めたその決心が揺らぐのを恐れた。明日か、それ以降、彼からの電話は鳴るのだろうか。それとも、これからの毎週金曜日に彼からの電話は鳴るのだろうか。彼女は彼からの電話が毎日鳴り続ける未来を想像した。一週間で七回、一月で三十回。何度も繰り返される着信と、そのたびにため息を漏らす男の姿を想像した。それらを前にして自分は連絡を返さずにいられるだろうかと彼女は考えた。否定も肯定もできなかった。そこまで自分を求めてくれる男を、突然一人ぼっちにしていいのだろうか。彼女は考えた。しかし、何度連絡を無視しても、たった一度自分から男に連絡を取ってしまえばそれで全てが無駄になる。
 
 短い眠りが何度も彼女の中を通り過ぎた。そして、同じ考えが何度も彼女の頭の中で繰り返された。眠りにつく彼女はこれから待つ週末について考えていた。これから金曜日が来るたびに男からの電話を恐れながらも心のどこかで待ちつづけ、疲弊してそれを取ろうとする自分を理性で押さえつける日々を恐れた。しかし、今はどうすることもできないのだ。彼女はそう思い直し、眠りにつこうと何も考えないようにした。これからどうするかは、彼の反応を見てからでいい。さあ、眠れ。彼女は自分自身に言い聞かせた。現実とは常に現在と寄り添うものなのだ。過去や未来や、後悔や希望は、全ては現在でしか語れない。さあ、眠れ。短い眠りを何度も繰り返した後、彼女は深い眠りについた。夢は見なかった。彼女の意識は深く、静かに暗い川の中に落ちていった。
 そして次の土曜日を彼女はほとんど一日中ベッドの中で過ごし。日曜日は窓の外を眺め続けて過ごした。温かいコーヒーを淹れ、窓の外を流れていく日曜日の風景を眺め続けた。そして夜になると彼女は月曜日のための眠りにつこうとした。窓からは月が透明な光を放っていた。そして、その光の中で、彼女には彼女の周りにある何もかもが実体を持たない透明なものに変わってしまったように思えた。透明な人々、透明なベッド、透明な時間、透明なぬくもり。その想像の中では実体を持つものは彼女一人で、彼女は何にも触れることはできない孤独な存在だった。
 
 
 
 川の向こう、月の出る海のどこかの港で二人の男女が酒を飲んでいた。一人は若い女で、もう一人は頭の上から鹿の首を模したゴム製の被り物をかぶっていた。
 夜の港にはオレンジ色の電灯が輝き、そらには暗く分厚い雲が立ち込め、海の上には二人が飲んだビールの缶がいくつも浮かんでいた。港に塩分を含んだ冷たい風が吹いた。

「この街を出て行くことに決めたの」
 彼女は言った。
「いつ?」
 鹿男は言った。
「分からない」
「行く先は?」
「まだ決めていない。ただ、この街にいると、きっとだめになってしまうってことは分かるの」
 そう言って彼女はぎこちなく笑った。
「だけど、どこにいったって同じさ。」
「そうかもしれない」彼女は言った。「理由は聞かないの?」
「分かるような気がするから」しか男は応えた。
 彼女はその考えに不満を持った。人間誰しもがそれぞれにそれぞれの事情を抱えて生きている。できることもあれば、できないこともある。これは一般論だが、恐らく全ての人に当てはまる。そして時折人々は他人の事情を垣間見たような気になり、互いに訳知り顔であきらめたような微笑をもらす。『君には君なりの事情があって、それは他の人とは共有できない類のものなのだろう。君の気持ちは分かる。君を苦しめる何かと同じように私も私自身のための何かを持っているからね。だけどみんなが同じようなものを抱えて生きている。君の気持ちは痛いほど分かる。だから何も聞かないよ』ぎこちない微笑にはそんな意味が込められている。だけど、人々が誰も彼も互いに問わず語らず、ただ表情や断片的な言葉で理解しあったような気になったとしても、そんなものは何の意味持たない。そこでは誰もが他人と心を通わせることもなく、ただ互いに互いを理解しているふりをし続けている不確かな世界が広がっている。彼女はもうずっとそんな世界で暮らしていた。そして、そんな世界にうまくなじめなかった。
 語られるべき時に語られるべき感情があり、それはその一瞬を逃せばどこにもたどり続くことは無い。行き着く場所を失った感情は、彼女の中に不安定な形で積み上げられていく。
 彼女はそれを表現する言葉を捜した。彼女は日々ただ目の前に横たわる茫漠とした時間を無感情に食いつぶしながら、少しずつ何かを失っていく感覚を持ち続けていた。そしてその結果どこにも行き着かない。それを彼女は恐ろしく思い、その事実に耐え切れなくなっていた。しかし彼女はそのことをうまく表現できなかった。そしてそれは口に出せば子供じみて馬鹿馬鹿しいことのように彼女には思えた。
 彼女はあきらめて言った。「自分の人生が、ただ流れていくだけの無意味なものであって欲しくなの」彼女は続けた。「今の自分が、ただ漠然と時間や何か大切なものを食いつぶすようにして生きていきていっているように思えてならないの。少し手を伸ばせば手に入れられるはずの何か素晴らしいものの存在に気がつかずに、取るに足らないもののために大切なものを手放そうとしているような感覚。私の言いたいこと、分かる?」
それきり彼女は黙り込んだ。
 しばらく考えた後で、鹿男は応えた。男の目は被り物の中から海に向けられていた。
「分かるような気はする。だけど、自分自身からは逃げられない。それはどこまでも君についてまわり、君を傷つけていく。だけどみんなそんな風にしていやいや年を取っていきながら、手に入れたものが少しずつ損なわれ失われていくのをただじっとやり過ごしながらすごしていくのさ。みんな同じさ。痛み無くして人は成長しない。みんな同じさ。そうだろう?」
 鹿男は言いながら、否定の言葉を待っていた。彼女は応えずにただ海の向こうのどこか遠くに視線を合わせていた。
 しばらくの沈黙が続いた後、あきらめたように鹿男は口を開いた。
「でも行くんだね?」
「うん」彼女ははっきりとうなずき、言った。「でも確かに、あなたの言うように、子供の頃は今以上に多くのものを持っていた気がする」
「そうだね」
「みんなどこにいってしまったのかな?」
「わからない」
 二人は同時にビールの缶に口をつけ、ぬるくなった酒を胃の中に押し込んだ。海からは湿った風が吹き続けていた。もうすぐ降る雨の気配を鹿男は感じた。
「明日の朝バスで出る」
 彼女は言った。
「寂しくなるね」
 鹿男は応えた。その瞳は人の拳ほども大きく、夜の海よりも暗い。前方に突き出した細長い顔の左右についた二つの瞳の焦点は、どこにも合わさっていない。
「そうだね」
「また会えると思う?」
「たぶん。いつか」
 鹿男はため息を漏らした。

「ねえ。最後にいい?」彼女は言った。「人生に沢山の種類があるとして、その中の一つに、ただ時の流れのままに一人ぼっちで年老いていきながら、何かを絶えず失い続けるような種類の人生があるとしたら、その中で何かを学ぶことはできると思う?」

「分からないな」
 鹿男は応えた。
「そう」
「だけど、べつの生き方もあるかもしれない」
「うん。そうかもしれないね」
「何かを失っていく代わりに、新しい別の何かを手に入れることができれば、年を取っていくこともそんなに悪くないような気がする」
「そうなるといいんだけど」
「大丈夫、きっと上手くいくさ」鹿男は言った。
 港には雨を知らせる湿った生ぬるい風が吹いていた。
「じゃあ、行くね」
 彼女は言った。
「寂しくなるね」
「そう。確かに、寂しくなるね」
「そうだね」

 そのまま二人は別れた。彼女は港から立ち去り、鹿男は海を眺め続けた。空には街の明かりに照らされた灰色の雲が浮かんでいる。

 鹿男は彼女を止めようと思えば止められたはずだ。しかし、鹿男はそれを選ばなかった。果たして、この結末は正しかったのだろうか。鹿男は考えた。そして、答えの出ないままに鹿男は海を眺め続けた。恐らく、再び彼女に会うことは無いだろうと鹿男は考えた。仮に再び会えたとしても、鹿はその時の彼女の中に鹿男の知る彼女を見つけ出すことはできないだろう。
 それからしばらくの間、鹿男は被り物の口の中から海を眺め続けた。
 やがて鹿男の下に雨が降り注ぎ、港にいる人々は町を歩く人々と共にそれぞれ雨をしのげる屋根を求めて足早に去っていく。
 生ぬるい雨は鹿男の大きく黒い瞳をぬらし、鹿男は空を仰いだ。そして両手で口先を開き、その素顔に大粒の雨を受けた。
 鹿男は自分の過去を思い出しながら、過去から現在に繋がる時間を回想する中で、彼女の言う、失われていく何かの正体について考えようとした。しかし、その瞬間、恐ろしい想像とたまらないほどの虚脱感が鹿男を襲った。その衝撃が一つに保たれていた意識の流れをばらばらの方向へ運んでいく。それらがどこにたどり着くのかは分からない。あるものは近くの流れと共に一つの流れを作り出すかもしれない。だけど恐らく全ては茫漠とした海に注がれていく暗い川の流れだ。どこにもたどり着くことは無い。鹿男には何も考えることはできなかった。鹿男は考えることを止め、ただ海を眺め続けた。

 やがて通り雨は降り止んで、街を歩く人々の笑い声が港に響くようになったころ、鹿男は被り物を脱ぎ去り、雲の切れ目から覗いた月を眺めながら、温かい雨で薄く温くなったビールを飲み干した。
 鹿の首は男の手から放たれ、半円に近い放物線を描きながら夜の海に着水する。男は港を後にした。
 少年はひたすら月に向かい漕ぎ出していき、次の日の夜に救助され泣きながら両親と再会する。
 アイスクリームを憎んだ少女は少年と共に海を眺める。
港を後にした彼女がどこに行くのかは分からない。少なくとも再び男と港で出会い二人でビールを飲むことは無いということは分かる。男は立ち上がり、歩き出す。失ってしまった物について考えることをやめる。鹿男が振り返るかつて歩んできた道のりは、今はもう存在しない。思い出そうとする全ては、暗闇の中で不確かな存在としてかろうじてその残滓を残すだけだ。
 夜の海には月の光と鹿の頭の被り物が浮かんでいた。無限に枝分かれを続ける暗い川の流れが注がれる海。終着点と中心。
 
 再び、男と女は月を見る。別々の流れの中で、同じ月を見る。

 おわり。
二号
2011年05月03日(火) 18時39分38秒 公開
■この作品の著作権は二号さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 実験作。感想が付けづらい作りかとは思いますが、感想いただければうれしいです。

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No.4  lico  評価:0点  ■2011-05-08 04:21  ID:dYdaXkyotak
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 二号さま、拙作へのご感想ありがとうございます。

 当該作は、水難事故をとりあげた点など、不適切で配慮に欠けるとのご指摘をいただき、自粛削除いたしました。せっかくお読みくださったのに申し訳ありません。ご感想はありがたく頂戴いたしました。大変励みになります。この場をお借りして心よりお礼申しあげます。
No.3  二号  評価:--点  ■2011-05-07 00:54  ID:ryO5XzxegP2
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 ゆうすけさん
 ありがとうございます。ご指摘のとおり、この話しには個々の人物、エピソードの間の繋がりが希薄ですね。完成度の低いお話を投稿してしまったと今さら反省をしています。すみません。
 こじつけのようですが、川を渡る少年が見た夢や、少年が夢を見ているうちに知らない流れへ流されてしまったことは、月を見て男が思い浮かべたものと、男が自らの歩んできた道のりが全て暗闇に飲まれていくことに気がつくことをを象徴するものです。いつの間にかどこかへ運ばれ、もう戻ることはできない。そして男は気がつけば訳の分からない鹿の被り物までかぶってしまっている。
 美しさとスリムな体系を維持しようと身近な幸福を自ら遠ざけていくアイスクリームの少女もまた、月を見る女が思い浮かべたもの旅に出る彼女が感じた何かを失い続けているということ感覚を象徴するものかもしれません。
 鹿男と彼女が土曜日に会う男は同じもので、死んだ日曜日を過ごす彼女は旅に出る彼女と同じものです。流されていく二人が出会い、一時愛し合うけれど離れていく。それぞれが別々の流れに向かっていく。
 彼女が街を出ることと、男がそれを引き止めないことは、一度交わった流れが再び別の流れに別れていく、どんなに考えようとしても答えの出ない物事について考え、その中で霧散する鹿男の思考とも同一視できそうです。
 という言い訳を頑張って考えました。すいません。笑
 
 初めは川の上にボートを浮かべて旅に出る少年のお話しだったんです。川を行く少年の目の前を通り過ぎていく、なにか美しいものや悲しいものを自分の精一杯の力で文字にしてみるということが今回の自分の課題でした。しかし、描いているうちに筆が僕の最初の思惑から外れ、どんどんと不思議な方向へと進んでいって、最終的に、こうなってしまいました。笑
 それでも変な方向へ進んでいく筆のなかで、なるべく自分の考えうる限りの文章で、色々なものを書こうとしたらこんな文章ができてしまいました。恥ずかしいです。しかしこれも何か次のものを描くための勉強だと思うことにします。ありがとうございました。

 licoさん
 ムーンリバーは素敵ですよね。僕も好きです。ご指摘のように話しの流れのモチーフにしています。誤植の指摘もありがとうございます。うわあ恥ずかしいです。
 『夢からさめるとき』について感想を書きたかったのですが消えてしまったようなのでここで感想を書かせていただきます。
 大人びた、もしくは背伸びした考え方を持つ少年の視点が良く描かれていたと思います。描くべきところが丁寧に書かれている作品だと思いました。少年の見る世界、川の事故の臨場感、とても興味深く読ませていただきました。
 よくできていると思います。あえてあら捜しのようにして問題を探すとすれば、ラストシーンの兄についてでしょうか。少年が立ち直るのと同時に、少年の周りのものも少しづつよい方向へ進んでいくということを思わせるような希望のあるラストシーンとして読ませていただきましたが、前半に一度だけ登場した兄をラストに持ってくるならば、もう一場面ほど兄について語られる場面があっても良かったかなと思いました。
 しかし、よく描かれた作品だと思いました。ネットで読むには少々長い作品なので感想をつける人が少なかったのだろうと思いましたが、いい作品だと思います。素敵な作品と、素敵な感想をありがとうございました。
No.2  lico  評価:40点  ■2011-05-04 16:59  ID:dYdaXkyotak
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 読ませていただきました。

 素晴らしかったです。文学、ですね。美しい詩を読んでいるような、古い映画を観ているような、それだけで心打たれる何かがありました。読点少なめで一文が長いので、横書きでは少し読みづらいかも知れません。縦書きで、明朝体で、クラシカルな情緒を愛する方にぜひとも読んでいただきたい、なんて小声で言ってみたり。万人ウケする作品ではないかも知れませんが、私はとても好きです。個人的な趣味でいえば、時代背景が現代というところが、少し残念な気もしました。

 >人々が誰も彼も互いに問わず語らず、ただ表情や断片的な言葉で理解しあったような気になったとしても、そんなものは何の意味持たない。そこでは誰もが他人と心を通わせることもなく、ただ互いに互いを理解しているふりをし続けている不確かな世界が広がっている。
 >彼女は日々ただ目の前に横たわる茫漠とした時間を無感情に食いつぶしながら、少しずつ何かを失っていく感覚を持ち続けていた。そしてその結果どこにも行き着かない。

 普遍的なテーマですね。しかして旅立ってゆく女と、引きとめない男。「だけど、自分自身からは逃げられない」という彼の言葉がまた真理をついています。別々の場所で別々の月を眺め、別々のことを考えているはずの男女が、結果的には単に別々の流れの中で同じ月を眺めているのだ、というところにまたぐっときました。幼少時代から、常に彼らは「two drifters」で在りつづけたのでしょうね。まさに『ムーンリバー』ですね。この曲も大好きです。

 ゆうすけさんも仰っていましたが、人物の相関が明かされていない冒頭で、男、女、少年、少女、と立てつづけに四人が登場し、視点があちこち飛んでしまうのは、序盤だけについていくのが大変で、少し戸惑いました。後半の男女の会話は、味があって洒落ていて、とても素敵でした。鹿のかぶりものといえば、謝肉祭、でしょうか。そんなエキゾチックな祭りのさなか、そうした喧騒から離れた港で、ひっそりと別れの儀式が執りおこなわれたのかと想像すると、それもまた渋くて格好いいなぁ、ともうめろめろです(笑)。

 蛇足ですが、ラスト付近に誤植がありましたのでお知らせさせいただきます。
 >少なくとも再び男と港で出会い二人でビールを飲むことは無いということは無いということは分かる。

 とても素敵な作品を読ませていただきました。つたない感想、どうかご容赦くださいませ。
No.1  ゆうすけ  評価:20点  ■2011-05-04 09:51  ID:KDK/MQZX1DE
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拝読させていただきました。
難解ですね。なんらかの問題、哲学的な問いを投げかけてきているようであり、考えさせてくれます。
それぞれの人にそれぞれの道がある、そういう事なのでしょうか。それとも、降った雨が川となって最後には海へといたり交わる、万川集海のような感じでしょうか。独特の読後感で、今、心の中で月を見ています。二号さんと同じ月を。
冒頭で立て続けに、男、女、少年、少女、四人が登場しますが、抽象的すぎて現実感が希薄だと思いました。中盤に登場する彼女、終盤の男女、場面と人物の移り変わりに付いていきにくいというのが正直な感想です。
役に立たない感想で申し訳ないです。
総レス数 4  合計 60

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