殻と雛
 1、形骸

 始めはガラスか陶器かと思った。校門の側で、粉々に砕け散って散らばった白いそれは、幼い頃に陶器のティーカップを割って手を切り、大泣きした時の記憶にあるものと似ていた。だから私は、誰が学校にティーカップなんて持ってくるんだろうと、素直に不思議に思って近づいていったのだ。
 すぐ側に立ってみて、それはティーカップなんて人の作り出した陳腐なものではなく、もっと綺麗なものだったのだと気付いた。陶器なんかよりずっと繊細で薄い、真っ白な卵殻。けれど脆くも見えるそれは、中の雛にとっては自身を守る唯一のものなのだから、その殻を失った雛は、粉々になった殻の側で静かに朽ち果てていた。
 それを雛と呼んで良いのか、私にはよく分からなかった。まだ殻を破って出てくるには早すぎたのだろう。その形は、鳥と呼ぶにはあまりに歪だった。鳥になることもできなかった小さな小さな雛は、熱いアスファルトの上に投げ出され、悲鳴さえも上げず、干からびていくのにただ身を任せているのだった。
 そこから流れ出す透明と黄色の液体は、その場に何とも奇妙な光景を作り出していた。雛から筋を引く透明な色は、まるで雛の涙みたいで、まだ生の喜びさえも知らないのに泣くなんて、と私は笑ってしまいそうになる。
 一言で言えばグロテスクなその光景を、私は無表情でただ見下ろしていた。だって、絵の具をぶちまけたような黄色のせいで、それらは妙に現実味を欠いていたから、気持ち悪いとか、そういうことは思わなかった。それは、雛の嘆きを憂うには、ひどく不釣り合いな色だった。
 絵の具というと語弊があるかもしれない。絵の具なんかよりよっぽど鮮明で、リアルで、だからこそもう二度とリアルを手にできない雛の隣にあるには、ひどく不釣り合いだったのだ。
 そして、動かない雛の横でそれらは、静かに静かに流れていくのだった。

 そうして私は誰もいない校門をそっと立ち去り、早朝だというのにすでに照りつけ始めている夏の日差しの下、まだ静まりかえっている校舎へと足を進める。
 殻さえ割れなければ死なずに済んだのにと、雛を哀れむわけでもなくこの光景を作り出した犯人に憤るわけでもなく、無感情にただ思った。
 


 2、彼女

「美和、おはよ!」
「はよー」
 朝練を終えて教室に戻ると、ぱっと笑って奈々が立ち上がった。それに気のない返事を返し、私は自分の席につく。泳いできたばかりで濡れた頭に、いつもは熱い空気をかき回すだけで大した貢献もしない扇風機の風が冷たい。この状態での居眠りは至福の一時なんだけど、私七草美和はそれでよく先生に怒られている。
 次第に、奈々を含めたいつもの三人が集まってきた。授業中ではないが、今は今で眠れそうにない。
「もー! 美和、朝から何よそのやる気のない挨拶!」
「奈々が元気すぎるんだよ……」
「にしても、お前は朝から疲れすぎな」
 机にぐたっとへたり込んでぼやいた私に、男の子みたいな言葉遣いで言ったのは満里奈だ。そんな彼女に、私は上目遣いにむくれてみせる。
「だってさあ、朝からめっちゃ泳がされたんだよ。うちの顧問鬼だよ」
「えー、美和朝練行ったの? どうしよう、私傘持ってきてないんだよね。困ったなあ……」
 私のセリフに、蘭子がわざとらしい感想を漏らした。何だか私、今日はよくいじられているような。
「何その反応ー。私だってたまには行くってばあ」
「へー、じゃあ前行ったのはいつ?」
「蘭、そういう答えられない質問は聞いてやるな」
「ほんとは今年初めてなんだよねー! そうだよねー!」
 うう。やっぱり今日はいじられ日だ。みんなひどい。まあ確かに、私はかなり不真面目な水泳部員ではあるけれど。
 ますますぐたーっとした私に、三人がどっと笑った。これで、私を含め全部で四人。私の愛すべき仲間たちだ。
「あ、じゃあ美和朝早かったんだよね? ひょっとして見たんじゃない、卵」
 蘭子がふいに思い出したような声を上げた。
「卵お? 何だそれ」
 私が答える前に、満里奈が聞き返す。
「え、まり知らないの? 朝からめっちゃ噂になってるじゃん!」
「そんなこと言ってもさ奈々、あたし今来たばっか」
「あ、そだった」
 放っておけば誰かが説明を初めてくれそうな雰囲気だったので、私は何も言わずに皆の会話を聞いていた。案の定、蘭子がくすりと笑って口を開く。私が卵を見たか否かという話は流れてしまったようで内心ほっとした。
「まり、飼育小屋の鶏が卵産んだじゃない」
「ああ、この前みんなで見に行ったな」
 私の高校の飼育小屋には鶏のつがいがいるのだが、それが最近卵を産んだ。その話を聞くなり私たちは早速見物に行き、そして幸運なことに、鶏が立ち上がった拍子に五つの白い卵を見ることができたのだった。
 満里奈の言葉に、蘭子がうなずく。
「それがね、全部盗まれてしまったらしいの」
「まじかよ。盗んでどうするんだ。卵焼きでもするのか?」
 真顔で出たそのセリフに、奈々が思わず身を乗り出した。
「いやいやいやいや、するわけないでしょ! 有精卵だよ! そんなことしたら雛の丸焼き……」
 突っ込みつつ、彼女は実際にそれを想像してしまったようで、変な顔になって黙ってしまった。同じく想像してしまった私も、机に頬を付けたまま苦笑いを漏らす。
「で、蘭、話の続き」
 皆の気持ち悪い想像をどうにかせねばと思ったのか、満里奈が蘭子に続きを促した。
「あ、うん。でね、そのうちの一つが今朝、校門に投げ捨てられてたって話」
 蘭子の話を聞きながら、今朝の校門の惨状はそういうわけかと私は納得していた。
 砕け散った殻と、息絶えた雛。事件の内容もあまり穏やかではないが、あの光景も結構なものだった。あまり思い出したくはない。
 そんな私の内面を代弁するように、奈々が甲高い声を上げた。
「もちろん卵は粉々で、中の雛は放り出されてたんだって! やばいよねー!」
「まじかよ。超グロいじゃねえか……。美和お前、朝っぱらからそんなもん見たのか」
 流れたと思った話題が押し戻されてきた。がっかりしたが、そんなため息は喉の奥にいそいそとしまい込み、私は満里奈をちらりと見て言った。
「見てない。何か落ちてるなとは思ったけど、良く見てないからわかんない」
 嘘だったが、さらりと口をついて出ていた。見たとなると、どんな状態だったのか説明する羽目になりそうで、それはちょっと嫌だった。
「……校門に変なもんあったら普通見ないか?」
「だって私に関係ないじゃん? 興味ないから、いちいち見ないよ。めっちゃスルーした」
 言ってしまった後で、別にこんな嘘をついてまで隠すようなことじゃないのにと不思議に思ってしまったのだけど、もう言ってしまったものは仕方ない。
 すると、
「そこでそうくるんだ。さすが美和だわ」
 そう、間髪空けず蘭子が吹き出していた。
「ほんとっ! 美和らしいよね、そういうの」
「だな、お前ある意味すげえ」
「何よみんなそろってー!」
 しきりに言う三人に、私は机から顔を上げてふくれてみせる。手を上げる振りをすると、奈々が「おお怖い怖いっ」とふざけて一歩下がった。彼女は、いつでも大げさにけらけら笑っているような娘だ。
「それ、犯人は誰なんだ?」
 満里奈が尋ねる。蘭子は首を振った。
「まだわかんないんだってさ。まあ、誰であれ、相当な変人なんだろうね」
「だよねー。そんなことして何が楽しいのかな? キモいやつ!」
 奈々の言葉に私はうなずく。
「目立ちたかったのかなあ。そんなアホなことやってないで勉強すればいいのに」
「それお前の言えたことか」
「えー、何ー? 聞こえなーい」
 わざと耳に手を当てると、こいつ、と満里奈に小突かれた。四人の間に笑いが弾ける。
 皆と一緒に笑いながら、けれど私は頭では全く別のことを考えていた。盗まれてから校門に捨てられるまで、どのくらいの時間があったのかは知らない。だからその雛は、卵が落とされるまでに死んだのだろうか、それとも落とされ投げ出されたその時に死んだのだろうかと、ふと疑問に思った。願わくば、前者であってくれれば良いのにと思う。その方が、雛にとっては幸せな気がしたから。
 三人のうちの誰かの笑い声ではっと我に返った。こんな不毛で無意味なことではなく、もっと楽しいことを考えようと、私は会話に耳を傾けなおす。
 妙なことを考えていたって、気分が落ち込むだけだ。私たちの日常に、そんな暗い要素はいらないのだから。
 


 変なことを考える人間というのは、やはり存在するのだと思う。今朝の卵泥棒も十分な変人。だが、変人というよりは狂の字が見え隠れしている。
 なら、私にこの鍵をくれた人は変だけどどちらかというと暇人だろうかと、そんなどうでもいいことを私は、あまり思考の回っていない頭で考える。
「あっつー……」
 つぶやきに大した意味はないし、我慢できないほど暑いわけでもない。時々、何というわけでもなく口を動かしたくなることがある。これもその部類。手の中には一つの鍵があり、さきほどからずっと無造作にいじり続けている。今はそれぐらいしかすることがない。
 名前はもう忘れてしまったが、もう卒業した水泳部の先輩に、随分と学校に反抗的だった人がいた。その人は思いついた悪い事を片っ端からやってみるような人で、でもいまいち飛び抜けられないようなところがあって、だから悪事というよりはいたずらという感じだった。
 その先輩のいたずらの一つが、いつもは鍵のかかっている屋上に勝手に出入りするというものだった。どうするかというと、いちいち職員室に屋上の鍵をこっそり取りに行くのは面倒だしリスクが高いというので、こっそり取ってきた鍵を鍵屋に持って行きスペアを作ってもらったらしい。何ともどうでもいいことに力を注ぐ人だった。
 その先輩が卒業後どうなったかは知らないけれど、鍵の行方なら知っている。それはなぜか今、先輩と大して仲が良かったわけでもない私の手の中にあるのだった。
 卒業式の後、部室でお別れパーティー的なものをやっていると、先輩がこそこそ私の方によってきて、私にだけ聞こえる声で言ったのだ。この鍵はお前にやる。俺にはもう必要ないし、お前って何かいつもつまらなさそうだから、と。
 私そんなにつまらなさそうに見えたのかと、今でも時々考えるが、それは先輩の思い込みだと思うのだ。別に何かに退屈してるなんてことはないし、言われたこともない。
 だから屋上の鍵なんてもらっても困ると最初は断ったのだが、結局押し切られ、そして今はその屋上にもらった鍵を使って自分から来ているのだから変な話だ。
「晴れてんなあ……」
 見上げると、真っ青な空の中でマイペースに散歩する羊たちが見えた。錆びた鈍色のフェンスで囲まれた屋上は、何の変哲もない長方形の形に閉じられているけれど、そこから見える空はどこまでも続いている。
  ○○県立星和高校。その屋上で、いざという時のために取り付けられた給水タンクの作る小さな日陰が私の指定席だ。私はフェンスにすがって、陰からはみ出ないように体操座りで縮こまる。こうしていれば、フェンス越しの背中の向こうにあるのは裏庭だから、滅多にやってくる人はおらず、見つけられることもない。
 今日の昼休憩は、蘭子は委員会でお呼びがかかり、奈々と満里奈は補習で呼びつけられていた。私のグループは基本的に蘭子以外はアホの集まりなので、よくこうやって誰かが欠ける。暇になった私は何となく屋上にやってきていたのだった。
 前も似たようなことがあって屋上に来てみたところ、なぜか気に入ってしまい、暇な時はこうして時々来ている。眠ければ寝ればいいし、マンガ見ててもいいし、ぼうっとしているだけなのも有り。何より周りに誰もいないから、何したってお構いなし。暇つぶしにはなかなかの場所だった。問題があるとすれば、何だか先輩の思うつぼのようで、ちょっと気にくわないということだけだ。
 先輩が言ったのは、単純にこういうちょっとした暇が多そう、という意味だったのだろうか。でも、それなら別に鍵を渡すのが私でなくても良い気がする。誰だって、これぐらいの暇はしているだろうし。
「教室、戻ろう」
 もうそろそろみんな帰ってくるだろう。戻って会話に参加しようと、私がそろそろと腰を上げると、顔に日差しがかかって目を細めた。

 教室の前まで来ると、中から授業直前の少しだけ慌ただしい空気が漂ってくる。といっても、ちゃんと机に教科書を準備しているやつ、まだ呑気に廊下でおしゃべりしているやつ、チャイムが鳴りそうなのにやってきた先生の横をすり抜けてトイレに行くやつと、色々混在している。
 私は中に入ろうとドアに手を伸ばしたが、指が窪みにかかる前に、中からガラッと横に引かれた。だから中から出てきた生徒と鉢合わせする格好になり、思わず相手の顔をまじまじと見つめてしまったのだが、そんな私とは対照的に相手はにこりと大きな黒目を細めて綺麗な笑顔を作った。
「こんにちは。また会ったね、七草さんっ」
 挨拶されたというのに、私はやや間が空いて「え?」とちぐはぐな反応を返してしまった。だって、まさか彼女の記憶の中に私の名前が存在しているなんて思わなかったし、「また会ったね」なんて言われる理由もわからない。今日、どこかですれ違ったのかもしれないけど、普通それだけで「また会ったね」とはならないのではないか。
 一拍遅れて今の態度は失礼だと気付いたが、その時にはもう彼女は、私になんて興味を失ったように、ふわりと歩き始めていた。その後ろ姿を眺めながら、何だか蝶々が次に留まる花をひらひら探してるみたいな歩き方だと思った。そして同時に、ひどく違和感を覚えたのだ。
 彼女と周りの風景とはこれ以上ないほどに馴染んでいるのに、それでいて彼女は私たちとは別の場所にいるような、そんな違和感。全体としてみれば彼女はとても自然に風景の一部になっているのに、彼女単体で見れば何かがおかしい。
 それはとても歪な在り方で、私はその人知れず落とされた歪みに、一瞬真っ白で何も見えなくなった中、たった一人立ちすくむ。 
「美和、浅井さんと知り合いだったの?」
 ふいに、空いたドアからひょいと顔がのぞいて、私の世界は唐突に色を取り戻した。がばっと振り返った私に蘭子はちょっと驚いたようだったが、対して気にした風もなく続ける。
「何か話してた?」
「ううん。ぶつかりかけて、挨拶されただけ。知り合いでもないよ」
「ふーん。ま、そうか。美和が浅井さんと知り合いなわけないよねー」
「……何気失礼だよ最後の」
 まあ確かにそうだ。成績優秀。運動も万能。リーダー的役目にも積極的。そして美人。そんな、どこぞのマンガのキャラだと突っ込みたくなるような浅井優菜と私が知り合いなわけがない。私の名前が記憶されていただけで奇跡だ。
 そんな万能な存在である彼女だからこそ、さきほど感じた歪さを意外に思い、それが唐突に落とされた波紋のようにまだ私の中に残っていたけれど、気にしないことにして席に向かう。
「浅井さん、うちのクラスに何しに来てたの?」
「誰か探しに来てたみたい。でも、しばらくうろうろした後何もせずに帰って行ったから、いなかったんじゃない?」
「そっか。……ねー、それより、宿題やった? 写させてー」
「やったけど、何、あんたやってないの?」
「もち」
「……はあー、はいどうぞ」
「さんくす! 今度なんか奢るよ」
「じゃあアイス。ハーゲンでよろしく!」
「げ、あれ高いじゃん」
 そんな会話の後、席につく。
 挨拶されただけにしては立ち止まっていた時間が長かったことについては、何も聞かれずに終わり、私はこっそりとため息をついた。でも、もし聞かれていたら、私は「浅井さん何かに声かけられると緊張しちゃってさあ。しばらく固まってたわ」なんて言って笑うんだろう。そして、「あんたそんなキャラだっけ?」なんて突っ込みが入って、また私が――。
 うん。こうやって、時々一人になることもあるけど、私の周りは大抵いつも誰かがいて、私は誰かと一緒に他愛もないことをしゃべって、笑っていられる。
 だから私はいつも楽しくて、間違っても退屈なんてしてない。だから、やっぱり先輩の言ったことは間違いなんだと、頭の中でつぶやいた。
 先輩はきっと、人を見る目がなかったんだろう。これは、それだけの話なのだ。



「美和、もう帰る?」
「私部活行って帰るー」
「そう? じゃあバイバイっ。頑張ってね〜」
 バイバイと私も返してからドアをガラリと開け、廊下へ出た。窓からの西日が、床をオレンジ色の模様に彩っていた。
 気だるい空気の流れる放課後、今日も何事もなく一日が過ぎて、何事もなく終わろうとしていた。廊下の窓から見える空は青く、太陽はまだまだ仕事中。こんな日差しの中帰るのは億劫なので、私は泳いでから帰ることにする。そうすれば涼しくなるだろうし。
 目元を刺す斜陽に目を細めつつ歩いていると、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。細めた目を少しだけ開いて、それが浅井優菜だと気付いた時、少しだけ胸の奥がざわついたがそんなものは無視して歩き続ける。昼間挨拶されたのは、単にお互い至近距離になってしまったからだ。別に彼女と私は仲良くなんてないのだから、無言で通り過ぎたって構わないだろう。そう思って私は元の細目に戻した。
 だが、私の肩と彼女の肩の線が一直線になったとき、秘め事を誰かに話す時のような独特の甘さを含んだ声が聞こえた。
「こんにちは、卵泥棒さん」
 それは全く予想だにしないことで、最初は私に向けられた言葉だということもわからなかった。今廊下には私と浅井以外には誰もいないことに気付いて、そこで初めてはっとして後ろを振り返る。もう大分進んだ先に、ゆらゆらと揺れる長い黒髪が見えた。
 そして言われた内容を反復する。ライトを当てられて眩んだ目が段々戻っていくように、驚愕はじわじわとやってくる。
 卵泥棒? 私が?
「ちょ、ちょっと待って浅井さん! 今のどういうこと」
 教室の中の人たちに聞こえないように、声を抑えて叫んだ。けれど彼女は少しも振り返らない。眩しく空気中を焦がす光の中、風景と一つになったかのごとく自然に、けれど何かかみ合わない歪みをばらまいて、彼女はひらひらと歩き続ける。その姿に私はくらりと目眩を覚えた。
 浅井の黒髪が日差しを照り返し、思わず目をつむった次の瞬間、彼女は曲がり角の先にすうっと消えていた。少し迷って、私は彼女の後を追って駆け出す。
「浅井さん!」
 呼びかけながら曲がり角を曲がって上を見上げる。二つある階段。上に続くそれも下に続くそれも、誰の姿も見当たらない。どちらか迷っていると、上の方からガチャンと重い物が閉まるような音がした。
 それを聞いた私は、反射的に左の階段を駆け上がる。上がるにつれて暗さは増し、くるりと曲がったところで大きな扉が現れた。
 昼間も来た、屋上へと続く扉。手前に引くと、すんなりと開いた。けれど、このまま中へ入っていいのかと、数ミリ開けたところで止まってしまった。でも、さきほど耳元でつぶやかれた不穏すぎる一言が反芻され、戻り道にもまた壁ができる。前にも後にも進めず、浮かせた片足には行き場がない。
 そんな状態をしばらく続けた後、私は意を決しておもむろに扉を開け放った。途端に、じりじりと灼ける日差しが薄暗い四階へと飛び込んでくる。
「浅井さん」
 浅井は屋上の一番奥で、フェンス越しに外を眺めていた。鉛色のフェンスに重なって、彼女の色白の腕が、日差しに白く光ってくっきりと見える。
 その彼女が、ゆっくりと振り返ってにこりと笑う。その右手には、職員室の屋上の鍵。扉はそれで開けたのか。
「来てくれたんだね、七草さんっ」
 それはそれは楽しそうな声色だった。彼女がそういう言い方をするととても可愛いのだが、でもこの場には不釣り合いすぎて、逆に私の険悪な雰囲気が強調されるだけだった。
「説明して。卵泥棒ってどういうこと」
 私は、自分の口からこんなきつい口調が出てくるのを、かなり久しぶりに聞いた気がした。
「ん? それは七草さんが一番良く知ってるはずだよねえ」
「わからないから聞いてるの。ふざけてるの? 勘違いなの? どっち?」
「どっちでもないよー?」
 そう言ってまた笑う。
「私知ってるのー。鶏の卵盗んだの、七草さんでしょ?」
 静かにゆっくりと、風を切って虚空へと突き刺さるナイフ。――少なくとも、その言葉は私にはそう感じられた。
 けれど彼女の声は、ナイフという一言で片付けてしまうには、あまりに本当に不思議な声だった。砂糖菓子のように甘くて、けれど同時に精巧な氷像のように冷たく大人びた声。相反する二つの要素が、危ういバランスで共存している。
 その不思議で奇妙な声にくすぐられて、私は私の無実を知っているのに、本当は自分でも知らないところで私が盗んだのではないかと、一瞬錯覚してしまいそうになる。けれどすぐに、体の奥からの猛烈な反発を覚えた。だって認めていいわけがない。私が犯人であるなどと。
「違う! 私なわけないでしょ? 証拠は?」
 あるわけないと付け加えた最後の一言に、けれど彼女は優雅に微笑んで、私は彼女に格好の餌を与えてしまった自分に気付いた。じりじりと焦げるように、焦りの感情が頭の中に張り付いていく。
「あるよおー、証拠」
 コツリと上履きを鳴らせ、浅井がゆっくりと私に近づいてきた。私は反射的に後ずさりそうになったが、ここで下がってしまえば負ける気がし意地になって踏みとどまる。
「嘘だ。じゃあ見せてみればいい、今ここに」
 あるわけない。あるわけないんだ。だって私は犯人なんかじゃない。強がりな私の中に、一方で彼女の言葉に呑まれそうになる自分をねじ込んで、私は浅井をにらみ付けた。けれど、彼女はそんな足掻きには少しも怯んだ風はない。
「鞄」
「え?」
 私の目の前に立って、浅井は私が右肩にかけている珍しくもない黒い通学鞄を指さした。思わず私は自分の鞄をぎゅっと掴む。
「開けてみてー?」
「何で! 関係ないよね!? って、ちょ、何やってるの!?」
 叫んだ私など意にも介さず、浅井は鞄を掴む私の指を一本ずつ解きほぐし始める。いい加減頭に血が上り、もういいや思い切り怒鳴ってやろうとのど元まで言葉が出かけたところで、浅井がふいに私の顔を見上げてにこりと笑った。その瞬間思わず毒気を抜かれてしまい、私が吐き出そうとした言葉の数々は、ただの乾いた息へと変わる。
「馬鹿じゃないの!? 見たければ見ればいいじゃんどうせ何もないんだから!」
 段々抵抗するのもアホらしくなってきた私は、ヤケになって言った。
 そんな私の了承など待つこともなく浅井はとっくにファスナーに手をかけている。彼女の白い手が、さっとファスナーを引いた。
 中が見えた鞄の中には、当たり前だが私の教科書やノートと筆記用具、後は化粧道具などしか入っていなかった。
「だから、さっきから私は盗ってないって言ってる!やっぱり何もないじゃん」
「あるよ」
 落胆も何も見せず、ただ笑う浅井。そして、彼女はすっと私の鞄の中に手を入れた。その動作が自然すぎたせいで、私はとっさに何も反応できない。
 そして、浅井はふわりと微笑んだ。
「なん、で」
「だから言ったでしょ? 卵泥棒さん」
 驚愕した。頭の中は完全な空白で、何も考えられなくなる。
 本当に信じらず立ち尽くす私の前で、浅井の手の上にあるのは、その手よりさらに白い、一つの卵。
 今朝の校門で見た白く繊細な欠片が、記憶の中にくっきりと浮かび上がり、目の前のそれと重なった時、私は掠れた声で叫んでいた。
「何で! 私はこんなもの入れてない! あるわけない!」
 心からの主張だ。こんなものが私の鞄の中にあってたまるわけがない。
「見苦しいよお、七草さん。それに、こんなものもあるし」
 そう言って浅井が私の前に差し出したのは、彼女のものらしきピンク色の携帯電話。そして、画面に再生されたのは、校門の割れた卵の側で突っ立っている今朝の私の姿だった。昼間の「また会ったね」は、浅井がこうして私を一方的に見ていたからか……? そう思った瞬間、今まで押さえていた何かが切れた。
 無意識に手が動き、浅井の胸ぐらを引っつかむ。その、憎らしいまでににこやかな顔をにらみ付けて怒鳴った。
「ふざけんなっ! あんたいったい何がしたい!!」
「何って、卵の犯人見つけたいだけだよ?」
 嘘としか思えないセリフ。
「じゃあ何で私を無理矢理犯人にするの!? これ盗撮だよね。あんたのやったことは犯罪だよ!?」
「だって、この動画の七草さん怪しいよね。普通の人なら、気味悪がるがってすぐにどっか行くよね。何で七草さん、表情も変えずにずっと見下ろしてるのー?」
「違う私じゃない! これは単に、」
「単に?」
 問われて、返答に詰まる。何で私はずっと見ていたんだ? 別に、見ていたいわけでも何でもなかったはずなのに……!
「ほら、答えられない。鞄から卵も出てきたし、決定だよねっ」
「浅井さん!」
 怒りを通り越して、悔しくて泣きそうになってきた。混乱した頭で、私は何で卵なんか出てきたのかと考える。
 こいつがなんと言おうと、犯人は絶対に私じゃない。それだけは本当。その事実だけは、浅井に握りつぶされなんてしない。
 なら、私でないならば、誰かが意図的に入れたのだ。この状況から見るに、それは浅井本人しかありえない。
 そこまで考えたところで、私は昼間、浅井と鉢合わせしたことを思い出した。なぜか、別のクラスなのに私のクラスにいた浅井。蘭子は、何もせずに帰って行ったと言ったけれど。
「浅井さん、あんたまさか昼休みに……!」
「何の話ー?」
 きょとんとする彼女。そして私はもう一つの事実に思い当たる。なら、こんなことをするからには、卵泥棒の本当の犯人は、もしかして浅井なんじゃ。
「浅井さん……!」
 浅井の服を掴む手に力がこもる。悔しくて、悲しくて、もうわけがわからなかった。こんな女に私は犯人に仕立てられようとしているのかと思うと、情けなくて涙も出てこない。
 同時に、掴んだ手が震えているのが分かった。今までずっと大切にしてきた日常が壊されていくのを感じる。それがとても怖かった。
 私、これからどうなるんだろう。やっぱり先生たちに言いつけられるんだろうか。濡れ衣だと主張したところで、浅井のような優等生相手じゃ、きっと誰にも信じてもらえない。このままいけば、最悪、退学なのか。何で、私だけこんなことに――。
「でも、誰にも言わないであげるよー」
 もう力は抜けていた私の手を振りほどいて、耳元でそっとささやかれた悪魔の呟き。私は、びくっとして浅井を見た。
「どういう……?」
「ただし、私のお願い一つ聞いてもらえたら」
 その言葉に寒気が走った。さっきからの浅井の行動を見ていると、本当に何でも言い出しかねなかった。
 いったいどんな無茶なことを言い出す気だろう。ものによっては、退学よりひどい自体になりかねない――。
「ゲームをしようよ、七草さん」
「え?」
 だからこそ私は、ゲームなんて言い出した浅井に呆けたし、言いたいこともわからなかった。
 驚いた拍子に、するすると、怒りで火照った体は体温を少しずつ下げ始める。
「ゲームをしようよ。私と」
 もう一度、浅井が繰り返す。にこりと、普通に可愛い笑顔で笑った彼女に私は目をしばたいた。
「ゲーム……!? それが、浅井さんの要求……?」
「そう、ゲームっ」
 まだ呆然としている私に、彼女はもう一度にこりと笑う。子どもが新しいおもちゃを見つけたような、あるいは蝶々が次に留まる花を決めたような、そんな類の無邪気さで。一切の邪気のない笑顔で。
 そしてその無邪気さに絡め取られ、私の熱は今度こそ急激に冷めていったのだ。

 七草美和。浅井優菜。
 それが、私たち二人の、最悪かもしれない出会いだった。



 3、ゲーム

 一度うつむいて、顔を上げる。間近に浅井の顔があり、変わらない笑顔を浮かべている。しばらく二人とも静止して、そのままの時間が流れた。二人の間にある空気はわずかだが、それでも彼女の瞳の奥の色を知るには厚すぎる。
 視線を外したのは、私の方からだった。そのまま、浅井を直視することなく、私は尋ねる。
「ゲームって、何の?」
 上辺だけは取り繕っても、内心恐る恐るの言葉だった。要求はゲームということで、先ほどの最悪の想像は回避されたが、その内容次第では同じような結果を招きかねない。
 そう思いながら彼女の顔を斜め見たのだが、
「何が良い?」
「何が良いって、私が決めるの?」
 思わず素っ頓狂な声が出た。
「何でもいいもん。七草さん、好きな遊び選んでよー」
 心底意味不明だと思った。さっきまでの怒りも忘れ、私は彼女に呆れた視線を向ける。犯人に仕立て上げられるというダークな状況から一転して妙な展開続きで、体内で渦巻いていた炎はすっかりなりを潜めてしまった。浅井に完全に煙に巻かれてしまった気がして、調子が狂う。
「そんなこと言われても困る。大体、私は浅井さんと遊びたくも何ともない」
 けれどその火は、消えたように見せて実のところは奥の奥でくすぶっている。だから私の言葉には棘が混ざる。
 でも浅井にとっては、それすらも楽しそうだった。
「えー、ホントに何でもいいのに」
「だからそういうのは困るってば!」
 再び炎が再燃しそうになるが、「じゃあー」と笑った浅井の笑顔で、ちろちろと燃える残り火に戻った。
「じゃあこうしよう。ゲームをしようよ、七草さん。私は逃げて、あなたは追いかける。私を捕まえられたらあなたの勝ち。捕まえられなかったら――私の勝ち」
 両手を広げ、芝居めかして言う浅井に、私は瞬間的に息を呑んでしまった。
 一方浅井は、へへ、と舌をちろりと出す。
「何てね、つまり、鬼ごっこ」
「え? それ……だけ?」
「それだけだよ?」
 他になにがあるのと言わんばかりの浅井の態度に、私はそれ以上二の句が告げず、しばらく突っ立ったまま浅井を凝視してしまった。
 鬼ごっこ? ただの? 本当にただの鬼ごっこ?
 それだけのために、浅井はこんな脅迫紛いの真似をしたというのか。わざわざ卵まで盗んで割っておいて。
 安堵とともに、沸々と沸いてくる疑惑。いったい浅井は、何を考えているというのだろうか。彼女がまるで人間ではない別の生き物のように見えて、私は途方にくれて立ち尽くす。
 しかしこちらの困惑なんかお構いなしで、気付けば彼女は私の横をするりとすり抜けていた。微かに風が吹く。
「鬼は七草さんだよ。じゃあ、早速明日の放課後よろしくねっ」
 勝手すぎるセリフに、私は文句を言おうと思った。けれど、浅井の気配が私の側を通り過ぎた瞬間、彼女の持つ例の奇妙な歪さにぞくりと鳥肌が立ち、言葉が音に変換される前に浅井は私の視界から消えていた。
 慌てて振り返ったがもう遅く、目の前で扉が閉まる。続いて、階段を駆け下りていく軽い音が微かに聞こえた。
 私は追いかける気にもなれず、立ち尽くしたまま長いため息をつく。それは尾を引いて、やがて虚空にじんわりと消えていった。
 


「美和、知ってる?」
 時計の短針がぐるりと二回まわって、また放課後のチャイムが鳴った。話しかけてきた奈々に、私は教科書を鞄に詰めていた手を止め視線を変える。
「何を?」
「聞いてびっくり! 卵泥棒は今日も現れたんだって!」
「マジで! 今日は何やらかしたの?」
「昨日と同じ事ー。また校門に卵落としたんだってさあ」
 少し離れたところから、満里奈と蘭子が集まってくるのが見えた。誰かと誰かが話し出すことは、放課後のおしゃべり開始の合図なのだ。こうして、私たちは放課後を有意義とは言えない過ごし方をするわけだが、私はそんな何でもないことを大切に感じていた。
 何でもない、私の日常の一部。
「つまり……また雛はぐちゃぐちゃ?」
「ぐちゃぐちゃ言わない! 想像しちゃう!」
 気付けばいつの間にか奈々の後ろに満里奈が立っていて、奈々の言葉に反応してきた。
「へえ、何度も何度も物好きなやつ。狂ってんじゃね、そいつ」
「絶対頭おかしいよね。 死体趣味とかあったりして!」
「それはありえる! やばーい、そんなのと同じ高校とかあえない」
 私は卵泥棒の犯人を知っているけれど、知らない風を装う。こういう雑談は笑えるものではなくてはならない。本当の犯人とか、脅迫とか、そんなつまらないリアルな要素はいらないのだ。
 三人の間に笑いが弾けたとき、横でもう一つくすくす笑い声がした。
「じゃあ、こういうのもありじゃない? 犯人は、本当は殺したいやつがいて、でも実行するわけにもいかないから代わりに雛を殺してる」
 蘭子だった。なぜか不敵な笑みを浮かべている彼女に、私は浮かんだ疑問を口にする。
「それさ、何でわざわざ卵なの? 盗むのめどくさいじゃん。野良猫とかにしといた方が楽じゃない? 見た目はいっそうエグいことになるけど」
「殺したい相手が飼育委員、とか」
「……それ結構めちゃくちゃ」
「えー、じゃあこれは? 飼育委員の子が好きで、振り向いてもらいたいけど見向きもしてくれなくて、でも鶏のことは可愛がって雛の生まれるのをとても楽しみにしてる。それに嫉妬して雛をどうにかしてやろうと思った」
 何でそんなに飛躍したことを思いつくのかと、呆れる前に感心してしまった。他の二人も同じだったらしく、そろって長いため息が漏れるのが聞こえた。
「……お前、見かけによらず想像力すげえのな」
「でも、お勉強はできる割に推理力ゼロだね」
「推理ってゆうか、大分暴走してたよねー!」
 立て続けに言った私たちに、蘭子はすっかりへそを曲げてしまったようだった。ぷいとそっぽを向いて口を尖らせる。
「……いいですようだっ。馬鹿な君たちには私の素晴らしい推理なんて理解できないんだから」
 途端に満里奈が思いっきり吹き出した。私と奈々もつられてくすくす笑い始める。蘭子が頬を膨らませてみせたのが可愛かった。
 こうやって私たちは、リアルで君の悪い事件も、ただの笑い話に変えてしまう。それが私たちの原動力で、だから私たちは今日も燃料集めに必死なんだろう。今も。
 教室の時計に目をやった。「でも犯人誰かなっ」「そういうのが好きそうなやつだよな」「山井とか」「っぽい!」「あたしあいつの隣なんだけど」「次ターゲットにされたりして」「お墓参りはしてあげるよ!」「お前らひでえ」と話題が移っていったところで、私は鞄を持ち上げる。
 もっとこうして話していたいけれど、仕方ない。私は荷物片手に立ち上がる。
「じゃ、私部活行くからー」
「いってら。最近真面目だな。めっずらしい」
「けど、雨降らないねえ」
「そのうちまとめて降るんじゃない? 美和、この町沈めないでね」
 言いたい放題なやつらだ。そんな騒がしいけれど愉快な彼女たちに笑いかけて、私は教室を出た。途端に静かになった廊下で、ふっとため息をつく。
 他愛のない話が私たちの原動力――けれど、その燃料は随分と切れるのが早いなと、廊下まで聞こえてくる彼女たちのおしゃべりを背で拾いながら思った。こうして廊下に出てドアを閉めてしまえば、さっきまで聞こえていた声も笑顔も、意味を成さないただのノイズになり果ててしまう。記憶の中の声も、今現在漏れ聞こえる声も、両方とも。
 だから私たちは、燃料を切らすまいと、動けなくなるまいと、静寂に恐怖し、次に口にする言葉をいつも探し続けているのかもしれない。だって、燃料がなくなったら、私たちは生きてはいけないから。殻が割れて死んでしまった雛と同じように。
 でも、そんな日々は楽しい。馬鹿みたいな笑いに溢れているから、それ以上の何もいらない。
 だからこうして一人先に教室を出ないといけないことは、素直に残念。そう、誰かさんのせいで。

 ルルルー♪

 唐突に携帯が歌い出して、心臓が跳ね上がった。電源を切り忘れていたらしい。近くに教師の姿は見当たらなくてほっとした。
 誰だろうと思いつつ画面を開くと、知らない番号が表示されていた。ボタンを押して、携帯を耳に押し当てる。
「……もしもし」
『こんにちはー、七草さん。私だよお。浅井優菜ですっ』
 途端、明るすぎる声が飛び込んできた。その元気具合にむっとする。
 私と浅井本人以外は誰も知らないが、実はさきほどの会話の話題の超重要人物であり、そして私が早めに切り上げなくてはならなくなった原因である張本人。少しは殊勝にしてくれればいいのにと思う。
 さっさと先生たちが浅井が犯人だと気付いてくれればもっといい。でも、浅井が犯人だなんて誰も思わないんだろう。実際こうして浅井は何事もなく校舎内を闊歩しているわけだし。
「私の番号、誰に聞いたの」
『村山さんに聞いたら、すぐに教えてくれたよー』
 村山は奈々の名字だ。まったく、何勝手に教えてんだか。
「何の用」
『んー、七草さん連れないなあ』
 当たり前だと怒鳴りそうになったが、こんなところで大声を出すわけにもいかず、すんでの所で押さえる。そんな私の思いを知ってか知らずか、あははっと笑い声がした。
『じゃあ、今から鬼ごっこはーじめっ。タイムリミットは六時まで。ちゃんと捕まえてね? 七草さん』
 聞きたくもない言葉だ。用はそれだけかと、何も言わずに通話をぶち切ろうとすると、『あー』と間延びした声が聞こえた。何、まだあるの。
『そうそう、言い忘れてた。今からのは、ほとんど普通の鬼ごっこなんだけど、ちょっと違うところがあるの』
 電話越しの、少しフィルターのかかったボイス。それが、くすりと楽しそうな色を帯びる。
『追加ルールが一つ。よーく聞いてねっ』
 やや、間があってから、
『追いかけられる人間は、鬼に捕まらなければ死んでしまう』
「え……?」
 すぐにはその言葉の意味を理解できず、反射的に聞き返していた。まだ、携帯の向こうではくすくすと笑い声が響いている。
『あれ、聞こえなかった? もう一度言うよ? 追いかけられる人間は、鬼に捕まらなければ死んでしまうの』
 二回目で、ようやく理解した。その瞬間、呼吸が止まるかと思った。ずん、と重い衝撃がかかって、指の一本さえ動かせず、息を吸い込むこともできなかった。けれどそれは一瞬のことで、浅井の笑い声が聞こえた瞬間、全ての重力が消えて、ふわりと宙に浮いているかのような感覚に襲われた。
 周りは透き通るように真っ白だった。そんな中、携帯の向こうの浅井の姿だけが見える気がした。軽い軽い浮遊感の中、私は息をするのも忘れて彼女を見つめていた。
『じゃあ、はじめっ』
 その言葉に続くぶちっと通話の切れる音。その音で、さっきまでの私の錯覚は全て消え去っていた。私は変わらずに廊下に立っていて、生徒たちの微かなノイズが鼓膜を気だるげに揺らすだけだ。
 ツーツーと鳴る携帯を耳元につけたまま、私はしばらく固まっていたが、はっと我に返った。
「待って浅井さん、今のどういうこと!?」
 叫んだが遅い。私の声は彼女にはもう届かない。力なく、私は携帯を掴んだ手を下ろす。 どうしていいかわからず、突っ立ったまま窓の外を見た。変わらない見飽きた青空と、グラウンドでは放課後の練習に励むサッカー部員たち。何も異変はないと、そのことを確認してほっとする。
「何、さっきの……」
 あんな衝撃も感覚も初めてだった。何が私にそう感じさせたのか、全くわからない。あんな意味のわからない浅井のセリフに、いったい何を感じたというのか。
 そこまで考えて、私は一人首を振った。そんなことは今はいい。それより、これからどうしよう。
 
 『追いかけられる人間は、鬼に捕まらなければ死んでしまう』

 いったいどういう意味だ? 彼女の意図は何? 考えたが、頭の中の疑問符は少しも減らない。どうしてこの鬼ごっこを始めた張本人である彼女が、わざわざこんなデメリットを自分自身に追加するんだろう。
 でも、今はとにかく探して追いかけるしかない。卵泥棒の犯人になってしまうかしまわないかという、私の命運は彼女に握られているのだから。
 時計を見る。今は五時。後一時間しかない。
 私は床を蹴って駆け出した。



 走りっぱなしで息が切れる。耐えきれず立ち止まって息を吸い込むと、乾いた喉がひりひりと痛んだ。
 学校中、探せる所は全部探した。けれど浅井は見つからない。いったいどこにいるのか。
 鬼ごっこのはずなのに、これではかくれんぼではないかとも思う。
 駄目元で電話もしてみたが、やっぱり浅井は出ない。もう既に六時十分前。タイムリミットは近い。
 浅井の言葉通りなら、六時になって浅井の勝ちが確定すれば、彼女は死んでしまうということになる。――それはどうしてなのか、どうやって死ぬのか、何から何まで意味がわからない。意味不明すぎて、追いかけるのを止めようかとも考えた。
 そもそも、浅井が勝てば彼女が死んでしまうのなら、このまま放っておけば彼女は勝手に死んでくれて、私が濡れ衣を着せられる心配もなくなるんじゃないかと、さっき気付いた。でもそうと見せかけ、私が追いかけるのを止めたところで先生に言いつけるという、浅井の罠である可能性もなくはない。
 でもそれはさすがに勘ぐりすぎのような気がするし、大体私は浅井があの言葉を本気で言ったなんて思ってはいなかった。ふざけてるに決まっている。このゲーム自体が最初から、ふざけているとしか思えないものなのだし。
 だが、とりあえず参加はしておかないと何をされるかわかったものではない。浅井優菜が危険な女であることは昨日の出来事でわかっている。
「浅井さん、どこにいるんだ……」
 ぼやいたが、答えが返ってくるわけもない。途方に暮れて挙動不審に辺りを見回した時、私の視界の片隅に何かが映った。
「浅井さん……!」
 はっきりと見えたのは、曲がり角に消える長い黒髪だけだったけれど、私は迷わなかった。見ているこっちが目眩を覚えるあの歪な在り方は、間違いようもなく浅井優菜だ。
 その姿を追いかけ走り出す。曲がり角を曲がると、その先にある、東校舎と西校舎結ぶ連絡通路に達した浅井の姿が目に入った。その通路に続くのは、私のクラスに面する廊下だ。
 猛ダッシュをかけ浅井との距離が大分縮まったころに、私はクラス前の廊下に踏み入った。またこの廊下で浅井と追いかけっこ。昨日の放課後と同じような状況になっている。
そして浅井は、昨日と同じくその先の階段へと走っていった。上に行ったのか下に行ったのかここからはわからないけれど、私にはなぜか、上ったのだという確信があった。上――屋上へと、浅井は行ったのだ。
 ただ、全てが昨日と同じわけではなかった。私が教室にさしかかった頃、そのドアがガラリと開く。
「あれ、美和?」
「あ、奈々――」
 奈々の顔を見た途端、思わずため息がこぼれた。思いっきり非日常的な事件に巻き込まれている最中だったから、いつもの顔がのぞいたことに安心し、嬉しかった。 
「どうしたのっ? 部活行ったんじゃないの?」
「あ、いや……ちょっと忘れ物」
「そうなの? ねえ、今から蘭とまりと遊びに行くの! 美和も部活なんかサボって一緒に行こうよ!」
「え、えっと」
 返答に困った。元々部活は放課後の団欒を抜ける口実で、私は浅井と鬼ごっこをしなければならないのだ。
 どうしようと思ったところで、私は唐突に気付いた。別に、馬鹿正直に浅井に付き合ってやる必要なんてないじゃないか。
 さっきの時点で、恐らく私は浅井に目撃されている。これで、私はちゃんと鬼ごっこをしていることが浅井にはわかったはず。鬼ごっこには参加した。でも、浅井さんを見失ったから仕方なく家に帰った。それで十分では……?
「じゃあ、行く」
「まじ!? やったあ! 二人は先に靴箱行ってるから追いかけよう!」
 奈々が私の手を引く。最近は妙に真面目に私が部活に行っていたせいで、三人で遊びに行くのは久しぶりだ。きっと楽しいだろう。お店まわって、可愛いもの見て、あれやこれやとぎゃーぎゃー言って、笑って。それはきっと――。

 ルルルー♪

 だが、にっこりと奈々に笑い返したその時、ポケットの中で携帯が振動し始めた。
「あ、ちょっとごめん」
「いいよいいよ、じゃあ先行ってるね!」
「うん」
 奈々に背を向け、画面を見た。浅井の番号だった。耳に押し当てる。
 笑みを含んだ声がした。
『もうすぐ六時だね。私の勝ちっ。じゃあ、私、死ぬね?』

 パタン――……

 携帯を閉じる。もう人の声は聞こえない静かな廊下に、その音は思いがけず強く響いて吸い込まれていった。
 息を短く吸った。
「奈々」
 奈々は、まだ廊下にはいるだろう。そう思って名前を呼ぶと、少し離れた私の後方から「何?」と問いかける声がした。
 すぐ側に、いつもの日常があった。大切な、何でもない日常。いつもなら、それを犠牲にすることなんて絶対にしない。けれど私は今、
「ごめん、私――行けない」
 彼女の返事を待つことなく、私は思いっきり床を蹴った。奈々が何か叫んだのが聞こえた気がする。でも、私にはもう何も聞こえない。奈々の声も、耳元で鳴る風の音も、廊下を駆ける足音も、何も。
 ただ、浅井の「私、死ぬね?」という一言が、頭の中で何度も何度も反響して、苦しいぐらいにわんわん鳴っていた。
 行かなきゃ犯人にされてしまうからとか、行かなきゃ浅井が死んでしまうかもしれないとか、さっきまで考えていたようなことは全部がどうでもよかった。奈々たちと遊びに行くことなんて、もう覚えてさえいなかった。
 理由なんてわからない。でも、私は浅井の元へ行きたくて仕方がなくて、その衝動に逆らうことなんてできなかった。こんな感情は初めてだった。自分がよくわからない。でも、それでも足は勝手に浅井の元へと向かっている。
 走る先に浅井がいる。にこりと笑って、そのままの顔で「死ぬね」とつぶやく。彼女の声はあまりに楽しそうで、その言葉は甘く甘く、私を彼女の元へと誘うのだった。


 鍵は浅井が開けたのだろう。屋上の扉は抵抗なく簡単に開いた。
 屋上に踏み居ると、夕闇の包み込む屋上の光景が目の前に広がっていた。その中央に、浅井がたった一人、黒髪をなびかせて立っていた。風の音に混ざって、可愛らしい声で歌が聞こえる。最近はやりのリズミカルなポップス曲を、彼女はトーンの高い声で、一人口ずさんでいるのだった。その様子は、無邪気な幼い子どものようにも見えて、「死ぬ」という言葉が頭から離れない私の目には、ひどくちぐはぐに映った。そんな彼女の雰囲気と歪さに、私は途方に暮れて立ちすくむ。
 その浅井が、ゆっくりとこちらを振り返った。彼女の大きな黒目が、じっと私を見つめ、私はまるで吸い込まれるかのような錯覚を覚えた。
 やがて、その目がきゅっと猫のように細められる。そして、浅井は私に背を向け、屋上の端へ向かって走り出した。黒髪が空に散らばる。
「浅井さん!」
 はっとして、私は叫んでいた。彼女の走り出した方向を見て、私も地面を強く蹴る。すると彼女は驚いたように走る向きを変えた。私は体を傾けて急カーブ。徐々に私と浅井の距離は縮まっていって、そして、
「捕まえ、た」
 彼女の肩を掴んで、私はゲームの終わりを宣言した。そのまま、その手を肩から放そうにも手が動かず、荒い息を繰り返しながら浅井を見ていると、彼女は頬を膨らませた。
「あーあ、負けちゃったあ。残念っ」
 至って普通のセリフだった。だから余計にちぐはぐで、歪だと感じる。そして、私はその歪さから視線をそらせない。浅井の肩の上の私の手が、微かに震えているのを感じた。
 やがて、動けずにいる私の手にそっと浅井の手が重ねられ、肩からゆっくりと下ろされる。夏だというのに、びっくりするぐらい冷たい手だった。
「今日は七草さんの勝ちっ。明日もよろしくねえ」
 私と握手するような格好になって、浅井が言った。私も何か言おうとしたけれど、ひりついた喉からは乾いた息しか出てこない。そんなもどかしい動作を数回繰り返した後、ようやく私は言葉を絞り出した。
「……教えて、浅井さん」
「なあにー」
「私に捕まらなかったら、浅井さん……どうする、つもりだったの」
「死んでたよ?」
 馬鹿みたいなセリフ。でも、もう、ふざけていることに対する苛立ちも怒りもわいてはこなかった。ただ私は、「ああ、そうか」と、無感情に思った。
 私は気付いたのだった。仲の良い子に「おはよう」と言うのと同じ調子でそれを言ってのけた彼女の笑顔に。何の疑問も持たず、むしろ私の質問の意味がわからないと言わんばかりの彼女に。
 ああ、そうか。浅井は、「死ぬ」という言葉も何もかも、最初から全部本気で言っていたんだ。
「……どうやって」
「もちろん、ここから飛び降りて」
 だからこその屋上なのだと、その事実はすんなりと私の中に入ってきた。
 そしてようやく自覚する、そんな馬鹿らしいことをどこまでも本気で言ってのける彼女に、どうしようもなく惹かれている私――。
「最初に言ったでしょー? 捕まらなかったら死ぬんだって」
 微笑む彼女に、私は何も言えなかった。とてつもない違和感だった。何か変とかそういうレベルじゃない。何かを致命的なまでに掛け違えてしまっている。
 でも、同時にその違和感は、甘くて、とてもとても心地よい。私はそんな自分を否定したくて、けれどその術を見つけられず、浅井に手を握られたまま私は喘いだ。
「これはね、賭なの」
「かけ……?」
「そう、捕まったら死なない。捕まらなかったら死ぬ。どっちに転ぶかは私の運次第ー。そういう賭っ。ただ死ぬよりそっちの方が面白そうでしょ?」
 ふざけてる。自身の命を賭けるなんて。そう私の理性は言った。それなのに、実際に口に出すことは出来なかった。
 上手く呼吸が出来ない。周りの空気がひどく重い。まとわりつくような粘り気を持って、私に絡みついてくる。
 くらくらした。足下が傾いていくような錯覚を覚える。自分が真っ直ぐ立っていられているのかどうかは、もう自分じゃよくわからない。
「……ばかげてるよ、こんな鬼ごっこ」
 無意識に、口が勝手に言葉を吐き出していた。それが本当に私の本音だったかなんて知らない。わからない。
「どうして? どうしてそう言えるの?」
「どうしてって、だって、死んだら終わりだよ。何もないよ……!」
 掠れ声になりながら、浅井に訴える。でも一方で、こんな私の言葉、嘘だと叫ぶ自分がいた。
 それでいて、私は憑かれたように言葉を紡ぎ続ける。
「死んだら自分という存在は消えるんだ。消えたら何も感じないし何もない。何の意味もないし、何も変わらない!」
 分かっている。浅井がやっているのは、命の尊厳を踏みにじる行為であり、命はそんな暇つぶしの道具になんてしてはいけないもので、彼女が言うより、ずっとずっと重いんだってこと。だから私は浅井に向かって叫ぶ。こんなことはいけないんだと、私はそれをわかっているから。
 ――分かっているのに、どうして、彼女の言葉はこんなにも甘く響いてしまうんだろう。どうして、さっきからずっと、死≠ニいう言葉が私をくすぐって、なで続けているんだろう。その言葉は、私のつま先から頭の上まで、まるで処女を陵辱するように甘く強く伝っていく。そして、私の頭の中に、麻薬のように感覚を麻痺させながら充満していくのだった。
 いけないとわかっていながら、どうしようもなく惹かれている自分に、私は今にも泣き出しそうだった。
「なのに何でこんなことするの? 何で鬼ごっこに勝ったら死ぬなんで言い出すの!? それはいけないことだよ……!」
 そうして、自分の今までの立ち位置を守りたいが故に、紡ぎ続ける欺瞞。
「変わらない? そう? 変わるかもよお、ひょっとしたら。変わらなかったら、それもそれでありだよねえ。馬鹿でつまんない女の子が一人いました、ちゃんちゃん。それはそれで面白いからありだよー」
 「何も変わらない」という私の叫びに、浅井はそんなことどうでも良いのだとでも言いたげに、くすりと笑った。
 狂気じみた言葉の中に、一つだけ、引っかかる。
「面白い……? どう、いう……?」
「うん、面白い。面白ければいいの。何でもいいの」
「……どうして」
「私、面白いことがしたかったの。だって、全部つまらないでしょ? 何もかも、退屈でしょ?」
 たくさんあるうちの何かがつまらないんじゃない。全部だと彼女は言った。楽しそうに、笑ったままで。
「つまらないから、何かやってみるの。委員長やってみたり、スポーツしてみたり、勉強頑張ってみたり、ボランティアやってみたり。知らないことから適当に選んで、やってみるの。だって、私がまあ知らないことの中に、何か面白いことあるかもしれないでしょ? やってみたら、ひょっとしたら面白いかもしれないでしょ? そう思ってやってみるんだけど、やっぱりつまらないの。だからまた次の面白いこと探して新しいことやってみるんだけど、それも同じようにつまらない。思いつく限りのことやってみて、結局全部つまらなかったの」
 さらりと言う彼女に、私は呆れてしまった。同時に寒気がした。誰もが羨む多才さだというのに、頑張ったところでできないやつだっているというのに、こいつにとっては全部ただの暇つぶしにすぎなかったというのか。そして、浅井の話によるなら、それらは暇つぶしにさえなっていないのだ。
 本当に滑稽な話だ。そして、何と哀れなことか。
「……だから、死にたいの?」
「うん。だって、死ぬのはまだ体験したことがないだもん」
 現実味のない笑顔を振りまいて、浅井は無邪気に言った。まるで歌っているような声だと、私は何となく思う。
 その、彼女の歌と、死≠ニいう言葉に包まれて、私はもうそれ以外の何も感じられない。盲目になったみたいに、世界は真っ白で、そんな中、浅井だけが見えるのだった。こんなのは駄目だと、相変わらずもう一人の私が叫び続けているにも関わらず。
「あー、何か面白いことないかなー」
 甘さと罪悪感の交錯する中、彼女のつぶやきが聞こえた。その雰囲気はまるで、幼い少女のようだった。
「……面白ければ全て許すの?」
「うん」
「今だけでも?」
「うん」
 私の問いに、予想通りの返事。なんて刹那的なんだろうと、私は思う。
 浅井はきっと、今しか見ていない。先なんて少しも見えていない。小さな子どものように、欲しいのは今だけで、ただ一時の快楽を求めて、彼女は危うすぎるぎりぎりの場所をふらふらと歩む。それが、浅井優菜という少女の在り方なんだ。
 だから、彼女の歌うように紡がれる言葉はこんなにも狂おしく愛おしく、ひどく甘い。けれどそれは歪で、あってはならない形なのだった。
 だから、この歌は聞いてはならないものだと、私は直感的に思った。わずかに残った理性で、未だ繋がれたままだった浅井の手を無理矢理離して耳を塞ぐ。けれど、塞ぐと他の音まで聞こえなくなって、そんな中、指の隙間を縫って鼓膜に届くのは、やはり彼女のくすりと笑う声なのだった。
 思考も耳もどうにかなってしまったみたいで、そんな自分が馬鹿みたいで、私も浅井につられて笑えてしまった。
 そして私自身の乾いた笑い声が耳に届いた瞬間、道徳とか正義とか罪とかそんなものはたちまちどうでもよくなって、居場所を失ったそれらは虚空へ吸い込まれて消えていった。
「七草さん?」
 そんな私を、浅井が不思議そうに見てくる。私は笑いが止まらなかった。
「浅井さん、あんたおかしいよ、とっても」
 そして、それは私もなんだろう。その浅井を追いかけてここまで来た、私だってとっくに普通じゃない。
「わかってた――」
 つぶやいた。
 わかっていた。頭のどこかではとっくに気付いていた。それを悪とする私が必死に押し留めてていただけで――死という言葉は、最初から私の中で甘くささやいていたのだ。
 だから、鬼ごっこのルールを言われた時に、私はあんな衝撃と感覚を味わったのだろうし、奈々との約束を反故にしてまで浅井を追いかける方を選んだんだ。
 何ておかしいんだろう。ふと気付けば私はこんなにも、どうかしてしまっていたなんて。
「七草さん、楽しそうだねっ」
「……そう?」
「そうよ」
 そして、そう言う浅井が一番楽しそうに、綺麗に綺麗に笑ったのだった。
 


 4、綻び

 発信者:村山奈々
 本文:ねえ、犯人突き止めてやろうよ! 朝の五時に校門で待ってるね!

 浅井と別れて、私はぼんやりしたまま歩いていたような記憶がある。でもそれはかなり曖昧なもので、気が付けばいつの間にか家に着いていた。母にただいま的なことを言ったような気がする。その後はすぐに、ご飯も食べず制服のままで寝てしまって、明け方に空腹で目が覚めた。携帯がピコピコ光っていて、開いてみるとそんなメールが来ていた。ついでに時間もわかった。四時だった。そして私は、寝ぼけた頭で、あいつら何やってんだかといつもの調子でつぶやいたのだった。
 夢から覚めたときの感覚に近くて、昨日のことはぼんやりとしか思い出せなかった。思い出そうとすると、分厚い壁のようなものに遮られる。
 何だか変なことをしていて、変なことを思っていたような気がするけれど、でもそんなのは私らしくないから、別に今考えなくてもいいことだと思った。私の日常は、今日も始まろうとしているのだから。
 
「で、いったい何の話なわけ?」
 そして当然のごとく、会話はこの疑問から。あのメールだけで説明になってるわけがない。むしろ、あのメールだけで五時にわざわざ学校まで来てやった自分がすごい。
「あのねあのね! 美和が教室出てった時、私たち、卵泥棒の犯人誰かな?的な話してたでしょ? あれから、じゃあ犯人突き止めてやろう! って話になって」
 こんな朝早くから、奈々は元気いっぱいだった。他の二人はやっぱりちょっと眠そう。
「……うん、それで?」
「でね! じゃあ朝早くから校門見張ってればわかるじゃん! ってことになって」
「……」
 眠いのもあって、ろくに反応する気になれない。この単純思考を行動に移してしまう辺り、実は奈々はすごいやつなのかもしれないという気がした。
「……蘭、何で止めないの」
「いやあ、何か、面白いかな? なんて」
 ストッパーが機能していなかったのか。なるほど。
「……うん、まあ、来ちゃったし、付き合ったげる」
「おおー。さすが美和さん心が広い」
 満里奈がひゅうと口笛を吹いた。彼女までなぜかノリノリな様子だった。
 まあ、言った通り来てしまったものは来てしまったのだし、みんなでわいわい張り込むのも楽しいかもしれない。
「具体的にどこで見張るの?」
 蘭子が聞いてきた。そこ一番重要じゃない? 考えてないの? という突っ込みはこの際置いておくことにして私は考える。
 校門の外には、誰にも見つからずに見張れるような場所はない。そうなると、中で待つことになるんだけど、中に入るのには門をよじ登ればいいとして、問題は中のどこで張り込むのかだ。
 校門周辺は、四人もこっそり隠れていられるスペースはない。となると、校舎の中ということになるんだけど、
「あー!」
 突如声を出してしまい、みんなの視線を一気に浴びる。
「良い案あるの!?」
 目を輝かせた奈々に、私は笑って口を開いた。

「なるほど、プールね! これは確かに名案」
 蘭子が納得げにうなずきながら言った。それに、「でしょー」と応えながら、私は屋内プールの、校門側の窓を少し開ける。そこからは丁度、校門の様子がよく見えた。
 私の高校では、校門のすぐ側に体育館があり、その二階に屋内プールがくっついている。まだ誰も入っていない、朝一番のプールの水は普段あまり見られない澄み具合だった。静かに凪いだ水面は、天井をきれいに映している。
 体育館にもプールにももちろん鍵はかけられるので、こんな朝早くから入れるはずはないのだが、バスケ部の顧問の先生がこっそり体育館の鍵を扉の脇の見えない所に隠していることを私は知っている。そして体育館に入れれば、プールにも行けてしまう。
 生徒たちが朝練を手早く始められるようにとの配慮なのだが、変質者がプールに入りこんだらどうするんだと思わないでもない。まあ、わざわざ鍵を探しでもしない限り見つからないだろうから、可能性としては低いけれど。
「ここなら、窓開けておけば校門よく見えるし、反対に校門通る人からは見えにくいから、見張るにはもってこいだよ。あ、でも、あんまり開けたら目立つからちょっとね」
 私の言葉に、奈々と満里奈が「はーい」と素直な返事を返してきた。
 それを聞いて、私はもう一度校門に目を向ける。私はこのままここで犯人を待っていていいものか少し迷った。犯人が現れるということは、つまり浅井が現れることになるんだけど、そのときに私はいったいどういう反応をすればいいんだろう。
 そんなことを思い巡らしていると、校門の光景に何となくの既視感を覚えた。明け方の、誰もいない校門。どこかで同じような情景を見た気がする。死んだ雛と行き会ったあの朝のことだろうか。本当にそれだけなのかと、妙な考えが沸いてくる。 
「でも、ちょっとだけ開けるんじゃ、みんなで覗くのは無理だねー」
 私の思考を遮って、奈々が小首をかしげた。
「交代で見張ればいいんじゃね?」
 満里奈の案が採用された。一人が窓の側に陣取り、その他三人はちょっと引っ込んだ場所で無駄話に励むこととなった。話の内容は色々だ。誰々に彼氏ができたとか、この曲超良いから聞いてみてとか、今度海でも行こうかとか、そういうどうでも良いこと。
 四人もいると、見張ってる時間よりしゃべってる時間の方が多いので、何のために来たんだろうと主目的を見失い始めた頃、ようやく一時間たって六時になった。未だ浅井は現れていない。今日はやらないんだろうか。
 さきほどの既視感は、大分薄れてどうでもよくなってしまっていた。
「誰も現れないね……」
 奈々が残念そうにぼやく。三人がふんふんとうなずいた。三人……つまり、四人全員窓を離れて一カ所に座り込んでいたりして、もはや見張ってさえいないけど、私ももういいやという気になってきた。私を含め、みんな飽きてしまったようだ。
「今日はやらないのかな」
「昨日もその前も来たのにね!」
「飽きたんじゃない?」
「案外適当な犯人だな、それ」
 犯人も適当かもしれないけど、私たちもかなり適当だ。途中放棄とか、本当に何のために来たんだろう。
「まあいいか、楽しかったし!」
「そだな」
「たまにはこういうのもありよね」
 私も同意の言葉を口にしようとして、喉元まで出てきたのに、どうしてかそこでつっかえてしまった止まってしまった。ふと頭を横切っていく疑問。
 楽しかった? 本当に? しゃべってるだけだったのに? どうせ最初から、犯人を捕まえてやろうと強く思ってたわけじゃなくて、単に四人でわいわいぎゃーぎゃー何かをやりたかっただけなんでしょ? それにこの事件を利用しただけなんでしょ? 
 そんなの、意味なんてないじゃん――そう一瞬でも思ってしまった自分に自分で戸惑った。こんなこと、私らしくない考えだ。いつもは、しゃべってるだけで十分楽しいと思っているはずなのに。
 そんな余計な考えを振り払うように私が唐突にすっと立ち上がると、三人がやや驚いたような視線を向けてきた。
 そんな三人とは視線を合わせないようにして私は言い放つ。
「私、泳ぐ」
「え、美和?」
「プール見てたら泳ぎたくなってきた。水着持ってるし、泳いでくる」
 呆気にとられている三人をよそに、私は鞄の中の水着をさっさと取り出しにかかっていた。

 飛び込み台の上に立つと、いつも何とも言えない感情を覚える。それは、敢えて言うならスリル。でも、スリルというにはもっと甘酸っぱいものだ。今から、この高い場所から眼下の水の中へと飛び込んでいくのだと思うと、ぞくぞくして、少し背中がむずがゆくなる。でもその感覚は、普通の生活の中では味わえないもので、下手すればこのまま飛び込み台の上に居続けてしまいそうになるほど心地よかったりする。だから飛び込みの時、私はいつも心を空っぽにする。そうして前に進むことだけを考えて、宙に身を任せる。
 息を吸う。台から足が離れた。しばらくの間の後、がっと抵抗があって、私は水の中へと放り出される。しばらく潜水したまま前へ進んで、やがて水面へと上がってくる。足をバタ足に切り替え、手は水をかきはじめる。前へ前へ。水の中で必要な思考は、それしかない。
 スタートした方とは反対の側の壁が視界に入ってきた。もう少し。そう頭の中でつぶやいて水をかく。壁に届いた。くるりとターン。またしばらく潜水。そして浮上。
 「美和、はやーい!」という皆の歓声が聞こえてきたけれど、それもさっさと追い出す。やっぱり今は余計なものだから。
 でも、時々唐突に、真っ白な絵の具に他の色が混じり込むこように、余計な考えがするすると頭の中に染みこんでくることがある。私の場合それは大抵、ここは私の居るべき場所ではないんだな、ということだった。変な話かもしれないけど。
 水の中にいると、ああここに自分はいてはいけないんだなと思ってしまう。人は水の中で生きるようには作られていないから、水の圧力がやんわりと私を追い出そうとする。でもだからこそ、ここに居続けてみたくなって、だから私は泳ぎ続けている。
 今も、そんなことを思い巡らしてしまっていると、急に泳ぐのが面倒になってしまった。私の悪い癖だ。タイムが伸びないのはこのせい。どこかで必ず飽きてしまう。
 飽きてしまった私は、かといって水の中から出たいわけでもなく、進むのを止めてその場で静止する。そして、膝を抱え込んで丸くなり、ゆっくりとゆっくりと、プールの底へと沈んでいく。周りは真っ青で、世界と断絶されてしまったような感覚。水の感触が心地よくて、ずっとこのままこうしていたいなと思った刹那、誰かに腕を引かれた。
 唐突に、周りの青は視界から消え去り、ひんやりした空気の中に引っ張り出されていた。
「美和! 大丈夫!?」
「え、奈々……?」
 目の前に奈々の顔がある。ちょっと泣き出しそうな顔で私を見ていた。
 でも不思議なことに、何で奈々が制服のままプールの中にいるんだろうとか、何で私は引っ張り出されているんだろうとか考える前に、私がプールから出て真っ先に感じたのは虚脱感だった。
 空気ってこんなに軽くて空っぽだったけと、しばらく呆然としてしまい、奈々への反応が少し遅れた。
「……奈々、何で?」
「何でって、美和がいきなり沈んじゃって上がってこないから、溺れたかと思ったんじゃない!」
 あ、そうか。上から見てればそう見えてしまったのか。私はただ、水の中にいたかっただけなんだけど。
「ごめん、でもさすがにプールで溺れないよ……」
「でもでも、本当に怖かったんだから! 何で急に沈むの!」
 そう言う奈々は本当に泣き出しそうで、私はちょっと申し訳なく思う。
「いやあ、水が気持ちよくってさあ、潜ってたら……」
「潜ってたら?」
「息するのすっかり忘れてた」
「あほかぁー!」
 軽くげんこつが飛んできた。
「だって、呼吸って割と面倒じゃない? 何でわざわざ吸ってないと生きてけないようにできてるんだろうね、人って」
 そう言うと、奈々の肩ががっくりと落ちた。
「……心配した私が馬鹿だったよ」
「だから言ったじゃねえか。美和が、溺れるなんてガチでやばいことになるわけねーって」
「そうそう、美和って心配ばっかりかけておきながら本人けろっとしてるじゃない、いつも」
 プールサイドから呆れたような声が二つ。ますますしょんぼりした奈々が、とぼとぼとプールの中を端に向かって歩き始める。
「もー、制服びしょぬれじゃんっ。どうしてくれるのよー!」
「保健室行くか?」
「先生に、何で濡れたのって聞かれちゃうよ!」
「大丈夫あのお人好しなら笑って許してくれる。一緒に行ってやるから」
 奈々がプールサイドに上がるのが見えた。「美和もそろそろ上がっておいで」と蘭子が手を振っている。私はそれをぼんやりと眺めながら、何気なく手元の水を掴んで手を引き上げた。当然のように、水は指の間から流れ落ちていって、手には少しも残らなかった。
 息を吸い込む。入りこんできたのは、軽すぎる空気の感触。
 水のそれと比べて、空気はなんてに薄くて空虚なことだろう。水はあんなにもぎゅっと詰まっているのに、地上の空気はなんて空っぽなんだろう。
「美和、上がんないのー?」
 蘭子がまた呼んでいる。でも私はどうしてか皆の元に行くのがためらわれた。皆がいる場所の空気が、どこよりも一番薄くて空っぽな気がした。だって、みんながいて、それぞれ、その場の空気を吸い込んでいるから、きっと私の吸う分なんて残っていない。
 それよりは、ぎゅっと詰まった濃い水の中にいたかった。
「私、まだ泳いでる。さき行ってて」
 皆に背を向けて、私は再び水の中へと飛び込んだ。後ろで呆れたような声がしたけれど、何て言ったのかまではわからなかった。

「ふう――……」
 更衣室でため息をついた。登校時間になり、他の水泳部員が朝練に集まってきたところで私はプールを引き上げていた。一番最初に来た生徒に、よりにもよって私が何でこんなに早くからいるんだという顔をされたけど、どうでもいいと思ったので何も言い訳はしなかった。
 みんなは今頃教室かな。奈々はちゃんと着替えられただろうか。
「教室戻るの、やだな……」
 きっと教室の空気はもっと空っぽなんだ。苦しいぐらいに。だから戻りたくなんてない。
 こんなことを考えるのも初めてだった。何だか、今日の私は朝からずっとおかしい。昨日変な物でも食べたんだろうか。
 着替えるのは止めてまた泳いでこようかなと、そんなことまで考えたとき、唐突に脳裏に閃いた光景があった。そして、今までずっともやがかかったみたいだった昨日の事を思い出す。そうだ、私は浅井と鬼ごっこをしていたんだっけ。
 思い出すというより、頭の中に既にあった記憶に今気付いたという感じで、何で忘れていたのかと首をひねる。
「なあんだ」
 ちょっとおかしくて笑えた。わざわざ泳ぎに戻る必要なんてないのに。水何かよりよっぽどぎゅっと詰まって心地よいもの、私は既に知っているじゃないか。
 携帯に手を伸ばした。繋がる通話。相手の応答を待たず、私は話し始めていた。
「もしもし、浅井さん? 鬼ごっこ、今からやろうよ。私、今から浅井さん追いかけるから」


 
 始業開始ぎりぎりになって、私は浅井を発見した。向こうも私に気付いたようで、蝶のようにひらひらと逃げていくのを、私は必死で追いかけていた。
 この時間帯は、遅刻寸前に猛ダッシュでやってくる生徒たちに混ざってしまえるから、走っていたところで奇異な視線は浴びない。でも彼らと違って、私の行き先は教室ではない。
 浅井がどこに逃げていくのかは知っている。今の今まですっかり忘れていたのだけど、昨日の鬼ごっこの後、しばらく屋上の鍵を貸してくれと浅井に言われたのだった。何で先輩の鍵のことを浅井が知っているんだろうと疑問に思ったが、私はあっさりと渡してしまっていた。だから、きっと彼女は今日もそこへ向かう。
 でも、そんなことを考えるまでもなく、私の足は自然に屋上へと向かっていた。細かい理由なんて抜きで、そこへ行くのが当然だと思われた。
 ノブは、やっぱり抵抗なく回った。普段ならこのまま扉を開けて中に入るが、何となく、かろうじて中が見える隙間ができるぐらいまで、静かに開けてそこで止める。
 隙間から、浅井の背中が見えた。やはり彼女は、フェンスの前でじっと立っているだけだった。風に乗って、小さく彼女の歌声が聞こえた。私の着メロと同じ、最近流行のポップス曲を、たった一人で口ずさんでいる。
 そうやって彼女は待っているんだ。私が彼女を捕まえられなくて、自分が空中に見を投げ出す瞬間を。明日遊びに行くのを待つのと、同じような感覚で。
 その狂気と死への近さに、私はぞくっとするものを覚えてしまう。そして同時に、ひどく甘い感覚がした。それは私の奥底を振るわせて、つま先から頭の天辺までを溶かすように駆け抜けていく。そしてその感触は、ほら、やっぱり水なんかよりずっと甘くて濃い。
「このまま放っておいたら……どうなるんだろう」
 そう、ふと思った。このまま私が屋上に出て行かなかったら、浅井はどうなるのだろうと。
 もちろん、彼女はフェンスを乗り越えて、落下していくんだろう。それはわかりきった結末だ。けれど、その結末を知ってなお、私はこのまま放っておいてみたくなってしまう。酔っているのかもしれなかった。彼女の持つ雰囲気と、その彼女を取り囲む空気に。
 
 カシャン

 フェンスの軽い音がした。その音を聞くまでもなく、私は浅井がフェンスに足をかけたのがわかった。だって、私の目はずっと浅井を凝視していたから。
 そのまま眺めていると、以外に軽々と浅井はフェンスを乗り越え、向こう側のわずかな隙間に、器用にさっと降り立った。そういえば、こいつはスポーツも万能だったっけと思い当たる。
 コツっと、浅井の小さな足音がする。フェンス越しに彼女の背中が見える。今は指をフェンスに絡めてバランスを取っているけれど、それを離してしまえば、あっという間に彼女は下へと落ちていく。今彼女が立っているのは、あまりにギリギリな、生と死の境目だ。
 両肩にぞくっと震えが来て、それが恐怖ではなく歓喜から来るものだと気付いた瞬間、私ははじかれるように扉を押し開け地面を蹴っていた。途端に、全面に広がる屋上の風景。
「浅井さん!」
 叫んだ声に、浅井が振り返った。私は浅井のいる一番奥まで全速力で駆け抜ける。飛びつくようにしてフェンスに足と手をかけ、そして乱暴な音を立てながら一気に乗り越えた。浅井の隣にまだ足がつかぬうちから彼女へ片手を伸ばす。
「捕まえた」
 まだ手は届いた。
 息を切らしながら言い放つと、浅井はくすりと笑う。
「あー、ギリギリで負けちゃったあ。今日はもうちょっとで勝てそうだったのに、残念」
 丁度そのとき、始業開始のチャイムが鳴ったのだけど、そんな音はただの雑音として聞き流してしまった。先生やみんなが、何で私はいないんだろうと心配しているかもしれないけど、そんな様子はおぼろにしか想像できない。それだけではなく、今まで過ごしてきた日常の姿はまるで人ごとのようで、ぼんやりと私の頭の中を漂うだけだった。
 そんなことはどうでもいい。ずっと見ていたい、彼女の純粋すぎる歪みを。ずっと、彼女と同じ息を吸って、彼女の振りまく死≠ヨと触れていたい。
「七草さん、高い所は平気なの?」
「え?」
「ここ、屋上だよー?」
 その言葉でふと、ここが落ちるか落ちないかのぎりぎりの場所であることを思い出して、小さく悲鳴が漏れた。必死だったから、何も考えずに乗り越えてしまったけれど、今更ながらに、お腹の辺りにひやりとするものを感じる。恐る恐る下を覗くと、遙か下方に誰もいない高校の裏庭が見えた。毎年夏になると花を咲かせるひまわりの黄色が、鮮やかに点々と目に映る。
「高っ……」
 思わずつぶやいた。でも、なぜか怖いとは思わなかった。自分が落ちてしまうのでない限り、いかに危なかろうとここはただの「高い場所」で、だから私は人ごとのように眼下を見下ろす。
 自分だけはきっと落ちやしないと、そう思えた。この次の瞬間足を滑らせて落ちてしまうという未来が待っていたとしても、今この時だけは、落ちることなんて絶対にないと信じている。時が止まったみたいに全てが静止した一瞬に、私は落ちない平和な未来を大事に大事に抱え込む――そうして、生まれる前の雛のように、殻の中に閉じこもって何も見えなくなる。
 浅井といると、そうやって全てが現実味をなくしていく気がした。彼女だけが今の私にとってのリアル。彼女のはき出す歪んだ言葉だけが、私に今ここにいるという実感をくれる。
「ねえ、落ちてみない?」
 ふいに、楽しそうな声が飛び込んできた。視線を下から浅井に戻すと、彼女はにこりとチェシャ猫みたいに笑っていた。
「落ちてみようよ、ここから二人で」
 平和な未来を、自ら壊そうとする声。破滅を呼ぶ声は優しくて、微睡み始めた中でささやかれる子守歌みたいだった。だから私はその声に誘われて、ふわりと足の下に視線を向けてしまう。
「行こうよ、七草さん」
 浅井が、私の指に自分の指を絡ませてくる。その時に絡みついてきたのは、きっと彼女の指だけではなかった。人の指なんてつまらないものではなく、もっと形なんかなくてねっとりとして甘いもの。
 世界は、どんどん非現実へと変わっていく。足下から地面までの、眼下に広がる空間に漂う空気が、まるで世界という箱に中に詰め込まれた柔らかなクッションであるような錯覚を受け、私は対して意識もせず片足を中に浮かせていた
「――」
 次の瞬間、はっとして、思わず足を止めていた。頭の中を、駆け抜けていった何か。それが何なのか理解しようとすると、一瞬だけ見えたものがあった。でも、今私のいる空間を塗りつぶすようにしてよぎったそれはひどく黒くて冷たくて、私はそれを理解することを恐れ、反射的に思考を閉じていた。どうしてだろうと自分で不思議に思うほど、強くて暗い恐怖だった。
 恐怖から逃れ、別のことを考えようとしたところ、校門の光景が一瞬だけ浮かんではすぐに消えていった。どうして? どうしてここで校門なんて――?

 ガシャン

「遠慮、しとく」
 浅井の手を振り払う。自分のいらない思考をかき消すように、私は乱雑で大きな音を立てて、フェンスを最初とは逆に乗り越えた。
「七草さん?」
 浅井の不思議そうな声がした。だが私が何も答えずにいると、私のことにはすぐに興味を失ってしまったようで、ふんふんと歌を口ずさみ始めた。私が今日最初に屋上に来た時と同じ、可愛らしいあの歌だった。
 私は、フェンス越しの浅井の真後ろに座り込んで、そっと目を閉じる。聞こえるのは彼女の歌声だけで、風がないから体の周りの空気は感じられない。だから、自分と世界との境目がとても曖昧だった。そんな中、フェンスの堅さだけが、しっかりと私の後ろにある。
 ここでいい、とそう思った。ここでいい。ここに居られればそれでいい。フェンスの向こうには行きたくない。さっき浮かんだものが何なのかわかる必要だってない。ひょっとすると私は何か大切なことを忘れているのではないかと、そんな気もしたけれど、それもどうでもいいことだと思った。
 だって、ここはひどく幸せなのだ。強すぎる感情に泣き出しそうで、私は体操座りのまま両腕に顔を埋める。そして、見えもしないフェンスの向こうを想った。
 フェンスを挟んで向こう側、背中に当たる堅い感触のその向こう、死ぬか生きるかのぎりぎりの場所に、浅井は立っている。ちょっと足を踏み外しさえすれば、彼女は真っ逆さまに落ちていく。そして――。
 私は、両手にぎゅっと力を入れる。フェンス越しに感じられる彼女の気配は、あまりに鮮明で、生々しくて、そして幸福だった。



 5、逃避行

 浅井は口ずさみ、私は無言。二人の間には堅いフェンス。私たち二人は、しばらくそのままの状態で動かずにいた。
 どれくらいたっただろうか、突然、屋上の扉ががばっと開いたのだった。
 その音に反射的に顔を上げると、入ってきたその人と真っ直ぐに目が合う。息を呑む音は多分、私とその人、両方のものだった。
「美和、何してるの!」
 刹那、大きな声が屋上に響き、私はびくっと身を縮ませる。
「何で、ここに――奈々」
 屋上の入り口に立ちはだかった小柄な姿に、私は呆然としたつぶやきを漏らした。そのつぶやきの終わりに、奈々の甲高い声が重なった。
「何でじゃない! 教室行ったら美和がいなくて、何でって聞いたけど、みんなわかんないって。サボりだって言うけど、美和がそんなことするなんてびっくりして、それで――」
 走ってきたのか、彼女の息は乱れていた。一端言葉を切って、そしてまた続ける。
「何となく、屋上なんじゃないかと思って、来てみたら、やっぱりここだった」
「何で屋上って」
「だって美和、昨日の放課後、私の前ですごい勢いで屋上まで走っていったじゃない。あの時の美和変だったし、今日も何か変だし、だから、そんな気がして」
 そうか……。そういえば、昨日、私が浅井を追いかけるのを奈々は見ていたんだった。変な態度だったのに奈々が何も言ってこないから、すっかり忘れてしまっていた。
「そんなことより! 授業サボって何してるの? 浅井さんも、何でそんなとこにいるの? 美和に何したの?」
 奈々の目は今度は、私の後ろの浅井へ向いていた。くるりとした丸い目が厳しく細められる。いつも元気に笑っている奈々が、こんなに怒るところなんて初めて見た。
「何でそんな危ないことしてるの? 美和、昨日から何だか変。浅井さん関係あるんでしょ? 美和を何に巻き込んでるの!?」
 意外に感じた。こんな真剣に物事を考えられる子だったのだと、想像以上に私のことを考えてくれていたのだと初めて気付く。いつも、大げさに騒いでいるだけだと思っていたのに。
 そして、優等生で完璧な浅井とただの友達の私。友達の方を信じてくれたことが少し嬉しかった。
 その時、私の後ろで気配がした。
「別に、単に遊んでただけだよお」
 浅井の、この状況に全くそぐわない声がする。相変わらずフェンスの向こう側で、浅井は奈々の方を笑顔で振り返っていた。奈々が浅井を睨む。
「遊んでただけって、そんなわけ」
「じゃあ、どういう風に見えるのー?」
 言葉に詰まる奈々。浅井がにこりと微笑んだ。私は、その間に挟まれてただ無言でいる。
「ほんとに遊んでただけだよねっ。ねえ、七草さん」
「そんな風には見えない。いったい何なの、美和!」
 その問いに、私は答えられなかった。遊んでただけと言えばそうなんだけど、とても奈々は信じてくれそうにない。正直に言うとしても、いったい何て説明すればいいんだろう、浅井を命を賭けて鬼ごっこをしてるだなんて。
 それに、私は言いたくなかったのだ。言ってしまったら、もう浅井とこうしていることはできない気がした。
「答えて、美和」
「……奈々……」
 言いよどんでうつむいた私に、奈々のため息が聞こえた。
「そう。じゃあ、美和の言えないこと、私が言ってあげる」
「えっ、奈々――?」
 驚いて顔を上げる。でもその時にはもう、奈々は片手で屋上の扉のノブを掴み、一気に開け放っていた。小さな目が、きっと強い意志を帯びる。
 そして奈々が、すうっと息を吸い込んだ。扉の向こうを振り返る。
「誰か来てえ! ここに――屋上に、自殺しようとしてる人がいる!! 卵だって、こいつが盗んだんだから!!」

 奈々の大声は廊下と教室に響き渡り、それによる教師や生徒たちのざわめきは屋上の私にまで聞こえてきた。
 唖然として口をぱくぱくさせるだけの私に、奈々が振り返ってその顔を歪めた。
「私、一昨日も昨日も、美和と浅井さんが屋上で会話してるの、ずっと盗み聞きしてたの。一昨日は、美和がプールへ行くのとは反対方向へ走っていくのが教室の中から見えて、気になって。昨日は態度が変だからおかしいと思って、追いかけたの」
「……じゃあ、奈々が犯人が来るの見張ろうなんて言い出したのは」
「運良ければ浅井さんが現れるし、そうじゃなくても美和が何か言い出してくれるんじゃないかと思ったから」
 驚いて何も言えずにいるうちに、会談から荒々しい足音が聞こえてきた。皆の視線が扉の先に集まった次の瞬間、年配の男が飛び込んできた。
「いったい何の騒ぎだ!」
 黒縁メガネの国語教師。厳しいことで有名な男だ。
 すぐに奈々が口を開いた。
「先生、卵盗んだの浅井さんなんです! なのに美和を無理矢理犯人にして、それを理由に美和を脅して、無理矢理変なことさせてるんです!」
「それは、本当か……!?」
 先生が目を見開く。だがその目に映った奈々への疑いの感情を、私は見逃さなかった。
「本当です! このままじゃ美和が可愛そう。先生、浅井さん捕まえて!」
「しかし、まさか浅井がそんなこと……。これは事実なのか、七草?」
 いきなり私に話が振られて、思わずびくっと肩を振るわせていた。
 知らずにいた奈々の思いに揺すぶられて、本当ですと言ってしまいそうになる。でも、私の体はまだ、浅井の振りまく甘い感触を忘れてなんかいないのだ。心の奥底が、まだ浅井の言葉を欲している。痛いほどに。
「美和、答えて! じゃないとずっとこのままだよ!?」
 奈々の必死な顔。私をじっと見つめるその表情に、思わず、心が揺れた。
「本当で……」
「違います先生」
 言いかけた私の言葉を遮って、私のすぐ後ろで鋭い声がした。皆が一斉に、その方向を見た。
 振り返ると、浅井が、見たこともないような泣き顔をしていた。
「私、犯人なんかじゃないです……。七草さんが犯人で……、私そのことを知ってしまったから脅されて……。屋上から飛び降りろなんて言い出すんです、七草さん。お前なんか死んでしまえって。でも、私、怖くて、怖くて……」
 すすり泣く声が聞こえ始める。未だフェンスの向こうにいる状態で言う浅井の言葉は、恐ろしく真実味があった。
 私は今度こそ唖然としすぎて何も言えなかった。こんな嘘をいけしゃあしゃあとついて、嘘泣きまでしてみせる浅井に、本気で呆れて、信じられなかった。
 いつの間にか、授業中であるはずの生徒たちまで入り口付近に溜まり始めていて、それを教室へ戻そうとする、他の教師の静止の声が聞こえる。
「嘘です先生! 浅井さんが犯人なのに!」
 奈々が声を上げたが、そんなのはもう先生の耳になんて入っていない。当たり前だ。絵に描いたような優等生の浅井を相手にして、勝負になるわけがない。
「……七草、ついて来い」
「先生! 違う!」
「お前は黙ってろ村山。……そうだな、お前も来い。話を聞かせてもらう」
 そして先生は、私を押しのけて、フェンスの向こうの浅井を助けにかかっていた。その様子を眺めていた私はぐっと拳を握る。
 まだ、奈々の言うことが本当なんだと抗議することもできる。先生は完全に浅井の側にいるけれど、私が言えば何か変わるかもしれない。そう思って、私は口を開こうとした。このまま浅井に犯人に仕立てられるのを黙って見てる必要だってないし、このままでは奈々まで犯人扱いされてしまう。このままではまずい。
「先生、待っ……」
「何か言うことがあるのか七草?」
「私は……」
 言おうとした。私は犯人じゃないと。――でもその言葉は、結局紡がれることなく喉の奥深くに沈んでいった。
 まさに口にしようとしたその直前、私は見てしまったんだ。集まってきた生徒たちの中の、蘭子と満里奈の姿を。二人が私に向けていた視線は、同情でも心配でもなく、下等な人間へと向けるそれだった。
 その瞬間、私の世界は急激に色褪せていった。今まで私を包んでいた全てが急速に、けれど静かに、私を離れて遠のいていった。先生の声も奈々の声も観衆たちのざわめきも、壁一枚挟んで聞こえてくるノイズでしかなくなっていた。
 そんな中、色づいて見えたのは浅井の姿だけだった。先生には言わないといったはずの浅井に、結局こんな裏切りを受けても、彼女の声だけは相変わらず私の頭の中で響き続けていた。
 私は、そんな自分がおかしくて仕方なかった。思わず漏らした笑いに、先生が顔をしかめる。
「……七草、何が言いたい」
「何でもないです、先生」
 出てきたのは、自分の声だなんて信じがたいような静かな言葉。
「……何?」
「何でも、ないです。本当に」
 私のセリフに、一番反応した奈々だった。
「美和!? 何言ってるの? 何でもないなんて、そんなことあるわけないじゃん!」
「……」 
「美和あ、何で黙ってるの、何か言ってよ……」
「……奈々」
 私自身は自分でも驚くぐらい冷静だったのに、反対に奈々が泣きそうだった。そんな彼女に、私はごめんとつぶやいた。あまりに微かすぎて、ちゃんと聞こえたかどうかはわからなかったけれど。
 ごめん。私はもう、あなたの友達を思う思いにさえ、何の価値も見いだせないんだ。だから、本当にごめん。
 浅井が先生に連れられて私の側を通り過ぎて行く。保健室にでも連れて行くつもりだろうか。そして、私の頬に彼女の息が触れた刹那、私にだけ聞こえる小ささで、密やかな声がした。
「七草さん、あなたは、そっちに戻ってしまうの? それとも――私の鬼に、なってくれる?」
 意味がよくわからない質問だったけれど、変なことを聞くなと思った。私は昨日も今日も、浅井と鬼ごっこをしていて、鬼はいつも私なのに。

「いい加減何か答えろ、七草っ!」
 先生の怒声が飛ぶ。けれど私は、それに対して身じろぎさえしなかった。フィルター一枚挟んだかのように世界は色を失っていて、そして遠い。だから、私は何を言われても何も感じなかった。
 集まってきた生徒たちを沈めるのにかなりの時間を要し、結局先生が私たちに事情聴取を始めたのはかなり後だった。色んなことを聞かれたけど、私は何も答えなかった。答えようもないと思ったし、その必要もないと思った。らちの開かない押し問答は続き、今はもう外では、夜の帳が落ち始めている。
 何も答えなかった私だが、ただ一つ、奈々は関係ないんだと言い張ったら、彼女だけは解放してくれていた。立ち去る際の彼女の表情が、私の胸を刺したけれど、でもどこか人ごとのような遠い痛みだった。だから私は、そんな彼女に何も言わなかった。
「いい加減にしろ!! 馬鹿にしてるのか!!」
 もう他の先生は皆帰ってしまった職員室で、国語教師の怒りは頂点に達しようとしている。それでも私が何も言わないのは、ここまま黙って待っていたらどうにかなるような気がしたからだ。
 そして、ほらやっぱりそうじゃないかと、私は先生の後ろにいつの間にか立っていた人影に向かって笑いかけた。半日ぶりに顔の筋肉を動かしたから、ちょっと頬が痛かった。
 私の態度を、馬鹿にしているととったのか、先生が真っ赤になってまさに怒鳴りだそうとしたその時、ゴンと鈍い音が響く。
「お待たせー、七草さんっ」
 次の瞬間、先生は床に倒れていた。主のいなくなった空っぽの椅子の後ろで、野球バットを持った浅井がにっこり笑っていた。
「……その行動は予想外」
「そう? これが一番手っ取り早いよお?」
 バットで先生を後ろから殴りつけた張本人は、全く悪びれず微笑んでいる。
「これ、多分犯罪だよ。捕まるよ?」
「だって、卵盗んで壊した時点で七草さんも犯罪侵してるでしょ。動物愛護なんたらっての。ならこれで私も七草さんと同じだしい」
 浅井と私が同じになることに何か意義はあるのかと思ったところで、浅井はくすりと笑んだ。
「じゃあ、行こうか、七草さん」
「行くって、どこに?」
「どこでもいいよお。とりあえず逃げなきゃっ。私たち二人とも犯罪者だもん」
 そういうことか。納得したところで、浅井の真っ白い手がすっと私の前に伸びてきた。私は、迷うことなくその手を取る。
 これからどうするかなんて決めてない。でもきっと、もう皆と笑っていられた日常になんて戻れないんだろう。けれど、そこに未練なんて感じなかった。
 私はもう、浅井のくれる甘い言葉さえあればいいのだから。
 
 私たちは窓からこっそりと職員室を抜け出し、駆け足で校門まで走った。人の姿は見えなかった。警備員ぐらいはまだ校内に残っているかもしれないから、それだけに気をつけて私たちは駆けた。
 誰もいないとも思ったのに、校門付近まで来たところで、人の話し声が聞こえてきて、思わず私は身を固くした。浅井が私を引っ張って、物陰へと連れて行く。そこで私は、話し声に耳を澄ませた。
「奈々、もう帰ろう。待ってても仕方ないと思う」
「そうだそうだ。いくら待ったって美和のやつ出てこねえじゃん」
 そこにいるのが奈々と蘭子と満里奈の三人だと気付いでも、自分でも驚くぐらい、私は何も感じなかった。ただ静かに、耳を傾ける。
「大体さあ、犯人美和なんでしょ? 待つ必要なくない?」
「今思えばやっぱおかしいよなあ。校門に何か落ちてるのに気付いて、でもそれが何かまで見てないなんて」
「……そんなこと! 美和は犯人じゃないよ!」
 奈々が必死で反論しているのが聞こえた。でも他の二人はまるで相手にしていない。
「何かさあ、ちょっとよくわかんない子だなあとは思ってたけど、結構危ないやつだったのな」
「だよねえ。びっくりびっくり」
 その話を聞いても、私は何も思わなかった。ずっと一緒にいた私よりも、二人は浅井の演技を信じたのだと、その事実が私の中にすっと入ってきて、でもたったそれだけだった。
「たまにすっごい嘘っぽい作り笑いとかなかったか?」
「あったあったー! ちょい気味悪かったよね」
 そうか。私自身でさえ気付いていなかったことを、二人はとっくに見抜いていたのか。でも、一つ大事なことを忘れている。あんたたちの笑顔だって、十分嘘っぽかったよ。
 だって、どうせ私たちは同じじゃないか。――同じ、殻の中に閉じこもった雛でしかないじゃないか。
「七草さん、ここはムリ。裏門から出よう」
「……うん。行こう」
 幸せだと思っていた。みんなと笑って、騒いで、そんな日常が流れ続けていくことが、幸福で大切なことだと思っていた。そう思える私が本当の私で、だから日常に溶け込んで過ごしていける私が私自身なのだと信じて疑わなかった。ただこの愛すべき日常が壊れないように、嘘でもいいから笑って、沈黙が来ないようにとひたすらしゃべって、流れされて、縮こまって、おびえて、そうやって私は「私」を手に入れたけれど、そんな「私」は私自身でも何でもなかったのかもしれない。だから二人は「嘘っぽかった」と言ったのかもしれなかった。
 そして、そうやって大切に守り続けてきたものが、いかに空虚で空っぽだったかと、私は今更のように知る。その事実はあまりに自然に私と同化していったから、ひょっとするとそんなこと私は最初から知っていたのかもしれないと思った。私は、全てを知っていながら、何も気付かないふりをして自分も周りもだまして、自分の狭い日常という名の殻に閉じこもって馬鹿みたいに大切に大切に抱え込んでいたのだろうか。
 ――いや、本当に私は知らなかった。例え意識の奥底に沈めていただけだとしても、それに気付かなければそれは無いのと同じこと。私は小さな雛のように、外の世界も知らず、中の空虚さも知らず、堅い殻の中にただただ縮こまって、それが幸福なのだと信じていたんだ。
 そして、だからこそ私は、
「……浅井さん」
「何?」
「また、鬼ごっこ、しようか」
「……うんっ」
 だからこそ私は、殻にふいに空いた小さなひび割れから迷い込んだ死≠フ鋭さを甘いと感じてしまったんだ。何も知らなければそのまま空虚な幸福に、そうと気付かぬまま埋もれてしまえたのに、迷い込んでしまったそれのせいで、私は自身の抱えた空虚を知ってしまった。そしてその瞬間、この空虚を何でも良いから埋めて欲しいと、無意識が必死でそれを求めてしまった。そしてその埋められていく感覚は、ひどく甘く、満たされていて。
 そして私は今度こそ、一点の迷いもなくこの甘さに身を任せる。もう何もいらない。浅井の声さえ聞ければそれでいい。
 聞かせて欲しい。いつものように、甘く歪んだ歌を、言葉を。そうやって私を甘く濃い死≠フ気配で包んで欲しい。
 もうその他になんて、何もいらないから。それだけでいいから。



 学校を逃げ出した浅井と私は、その足で、駅前の大通りをやや外れたところにある廃ビルに向かった。名前なんてもう忘れてしまったけれど、少し前までどこかのぱっとしない会社が使っていた。だが生憎この不況のあおりをもろにくらって倒産してしまい、それきりどこか他が使うわけでもなく取り壊すわけでもなく、とりあえず床と壁を剥がしたきり放置されてしまっている。
 そんな、普段なら誰として目もくれないようなうら寂しい建物の二階に、私たちはこっそり忍び込んだ。
 ここを選んだことに大して意味はなかった。何となく、人がいない場所を考えた時に思い浮かんだだけだ。どこに行けば一番良いのかなんて考えてなかった。ただ、窒息しそうなあそこから逃げ出せればどこでも良かった。二人で一緒にいられるなら、場所なんて構いはしなかったんだ。
 殻から抜け出た雛の気分だった。日常という空虚な殻を、私たちは壊してしまえたのだ。何て爽快なんだろう。
「浅井さん、これからどうしようか」
 懐中電灯さえない、光の届かぬ暗闇で、息を潜めて私は聞いた。すぐ隣の空間で、真っ黒なシルエットがうごめく。
「そうだねえ、どっか遠くに逃げてみるー?」
「いいねそれ。どこに行く?」
「うーん、北海道がいいなー」
「何で?」
「広いし、涼しいしー」
「じゃあアメリカのがいい。めっちゃ広いよ」
「おおー、海外への逃避行ね。何なら、アメリカと言わずオーストラリアでもブラジルでも何でもお」
「誰も知らない国とか。見つかりそうにないね」
「じゃあ、ドニエストル」
「どこそれ」
「知らない」
「……駄目じゃんそれ」
 どちらともなく笑顔が漏れる。暗闇にじんわりと響いて消えていく。
 わかっている。二人とも言ってるだけだ。逃げる気がないというわけではなく、むしろ先のことなんて考えてないのだ。冷たい剥き出しのコンクリートの感触と、体に染みこんできそうな暗闇と、浅井の存在だけが今の私の全てだ。それ以外のことなんて私には関係ないし、考える必要だってないんだ。
 そう思っていても、生理現象には逆らえないらしく、私のお腹がぐうと間抜けな音をたてた。
「浅井さん、お腹空かない?」
「……」
「浅井さん?」
「……」
 返事がない。訝しく思って浅井の方を向くと、表情は分からないが、彼女は何もない闇の方向をただ見つめていた。聞いていないのか?
「浅井さん……!」
「……え、何?」
 そこで初めて気が付いたように、浅井がやや驚いた声を上げた。
「さっきから何度も呼んでたのに」
「そうなの? ごめんごめん、ぼうっとしてたあ」
 本当に聞いていなかったのか。ぼんやりしていたなんて、彼女にしては珍しいと思った。
「もう一度言う。お腹空かない?」
「そうだねー、私、コンビニで何か買ってくるっ」
 そう言って浅井が立ち上がる。その時にはもう既にいつもの浅井で、無邪気にバタバタト駆けて、暗闇の奥に溶け込んで消えていった。その一見愛らしい少女のような後ろ姿を、私は何とも反応できずに黙って見送る。
 浅井が去ってしまうと私は、一人だと退屈だなあと、何をするわけでもなく膝を抱え直した。静寂が身に重く染みる。浅井の気配がまだ残っていて、ぎゅっと詰まった心地良い重さだった。

 真っ暗な空間にぱっと光が灯った。浅井が買ってきた懐中電灯が、コンクリートの無機質な床の上を照らした。
 続いて、浅井が買ってきた物をぞろぞろと並べていく。クッキーにポッキーにポテトチップス……お菓子ばっかりだ。
「体に悪いよ。太る」
「えー、いいじゃないそんなのお」
 そう言って浅井はにっこり笑う。何だか妙にご機嫌だった。まあ大抵いつも浅井は笑顔でいるんだけど、いつもの、それが彼女の普通の表情であるようなある意味表情のない笑顔じゃなくて、今は本心で笑っているような気がしたのだ。――気のせいだったのかもしれないけれど。
 そんなことを考えながら視線を逸らすと、浅井の横にあるコンビニの袋が目に入った。少し膨らんでいたから、まだ何か入っているのかと思って、私は袋を指さす。
「それ、何? まだ何か買ってきたの?」
「え、あ、これ? 何も入ってないよ。空っぽだよー」
 そう言って浅井は袋を私の視界からさっとよけた。不思議に思いはしたが、私はそれ以上何も言わなかった。その代わりに、ふと思いついた疑問を口にしてみる。
「ねえ、聞いていい?」
「何?」
「何で鬼ごっこの相手に私を選んだの? 適当?」
 あんな面倒な芝居をしてまで、浅井は鬼ごっこの鬼に私を据えた。そのわけを知りたいと思ったのだ。
 少し、言おうかどうしようか困っているような沈黙が落ちた。小さなため息一つ聞こえた後に、浅井がぽつりと言う。
「いつも、見てたの」
「え?」
「いつも見てたの、七草さんのこと」
 何の話? 戸惑う私に、浅井はくすりと笑った。
「七草さん、時々屋上来てたよねー。それを、私はいつも見てたのよ」
「……どうやって?」
 私は、屋上にいる時はいつだって給水タンクの横に座り込んでいた。そうしてしまえば、裏庭から真上をわざわざ見上げでもしない限り、見つけられることはないと思っていたのに。
「ある日、死ぬ場所はどこがいいかなって考えてて、やっぱ屋上かなーって思って屋上に行こうとしたら、階段を上ってる途中で扉の音がしたの。誰が入っていったんだろうって思ってしばらく隠れて待っていたら、屋上の扉が開いて出てきたのはあなただったのー、七草さん」
 知らなかった。そんなところ見られてたんだ。
「それでね、屋上で何してるのかなって校舎の周りをぐるっと回ってみたら、裏庭から七草さんの姿が見えたの」
「……浅井さん、暇なの?」
「前に言ったでしょ、つまんないんだって」
 浅井がくすくす笑う。私はため息をついた。
「それからいつも私を、裏庭から見てたの? 私なんか観察しててももっとつまらないんじゃないの」
「そうだねー、確かに面白くはなかったけど、興味が持てたから」
「興味?」
「うん。屋上にいる七草さん、苦しそうだった。痛いとかじゃなくて、どうやって呼吸していいのかわからないって感じだった。息苦しいなら酸素の多い場所に行けばいいじゃあに。なのに、ちっとも移動しない。だから、変な人だなって思ったの」
「……」
 黙ってしまった私をよそに、浅井は一人続ける。
「教室にいる七草さんも観察してみたの。そしたら、息苦しくて今にも窒息しそうって顔して、でも楽しそうに笑ってる。ますます変な人だなって思った」
「……だから私を?」
「うん、どんな人なのかなって。それに――」
 中途半端なところで、浅井は言葉を切って黙ってしまった。彼女にしては歯切れの悪いセリフ。
「それに?」
「ううん、何でもないっ。質問はそれだけ?」
 問いかける浅井に、私はうなずきかけてから、慌てて付け加える。
「あ、私が屋上の鍵持ってるの知ってたのはどうして? ひょっとして私が屋上にいる間に職員室の鍵置き場でも見に行ったの?」
「そう。大せーかい。屋上に入れてるのに、鍵はちゃんと職員室にある。じゃあ、自分で持ってるってことだよねえ」
「……ほんとに暇だね、浅井さん」
「だからつまんないのー」
 浅井の言葉に私が苦笑して、それきりしばらく沈黙が降りた。それから、ふいに私は浅井に向かってぐいと片手を伸ばす。
「浅井さん、鍵返してよ、あれ私のだし」
「えー、やだ」
「何で」
「何でもやだ。大体、もういらないでしょー」
 確かに、これからもう学校に行かないとした鍵は必要ないけれど……。
「いる、と思う」
「何で?」
「……何となく、そんな気がする」
 だって、屋上の鍵がないと屋上に入れなくて、それだと――。
「あ、れ……?」
「七草さん?」
「私、何で屋上に行かないといけないんだっけ……?」
 屋上に入れないと、何が困るんだっけ?
 理由を思い出そうとしたけど、頭の隅に引っかかって出てこない。けれど、これは思い出さないといけないことなのだと反射的に思う。
 思い出そうと、記憶を辿ろうとして、瞬間見えたのは黒い黒い黒い――
「七草さん!」
「……え?」
 浅井の名前を呼ぶ声で、とっさに我に返った。
「もう、寝ようよ」
 口調はいつもと変わらなかった。でも、顔にどこか焦りの色が重なって見えたのは私の気のせいだったのか。
「もう寝るの? 早い」
「もう十二時だよ。別に早くないよ」
「……じゃあ、浅井さん、何か言ってよ」
「何かって?」
「何でもいい。いつものように」
 聞きたかった。浅井の声を。そうすれば、他のことも、先のことも何も考えずにいられる。その甘さだけに、溺れていられるから。
 今の私は、それだけで満足だ。「先」なんていらない。知ってしまったこの甘美さと引き替えにしなければならないのだとしたら、あの殻の中へ戻らなければならないのだとしたら、もう未来なんていらない。
「うーん、じゃあ――」
 耳元で、いつもの調子でささやかれる言葉。甘く優しい死の気配。それさえあれば、どこであろうと生きていける気がした。そのことに自然と笑みがこぼれる。
 そして、ああやっぱり浅井は浅井なんだと安心して、私はそのまま眠りに落ちていった。
 


 6、深淵
 
 カチャリ――……。

 そんな音を聞いた気がして、唐突に意識が繋がった。最初に見たのは暗闇だった。真っ暗な中で、カチャリという音を聞いたのは夢なのか現実なのか、わからなくてしばらくぼんやりしていた。
 いつものように自分の部屋で目覚めた気でいたから、床の堅さと冷たさに気付いてはっとした。そうか、ここは家じゃないんだっけ。
 そして同時に、自分と一緒に廃ビルに忍び込んだのが誰であるか思い出した時、私は目の前の人影に気付いたのだった。
「浅井、さん……?」
 仰向けに横たわったままの私の真上に、深い闇に紛れて浅井の顔があった。何でこんなところに浅井の顔が見えるんだろうと、まだ覚醒しきらない頭で考え、浅井に覆い被さられているという自分の状況をようやく認識した。
「浅井さん……どうしたの?」
「……」
 返答はなかった。戸惑う私と無表情の浅井。その間に、ただただ沈黙が落ちる。
「浅井さん」
「……思い出してしまう……」
「……え?」
 様子のおかしい浅井に困惑する。二つの真っ黒な眼球が私を凝視していて、二つの瞳が何も言わずに私を見つめてる様子はこんな真っ暗闇の中ではなかなかにホラーじみていて、私はぞっとするものを覚えてしまう。
 どうしていいかよく分からず、私は浅井の顔から少し視線を逸らす――その瞬間、私の鼓動は苦しいぐらいに大きく荒ぶった。だって見つけてしまったのだ、浅井の右手の、中、に、
「浅井さん、それ、何……?」
「……」
「何で、カッターなんか持ってるの……?」
「……っ」
 浅井の右手の中で、鈍く光っている剥き出しのカッターの刃。
 カッターなんて浅井は持っていただろうか。まさか、コンビニに行った時に買ってきていたのか。それなら、浅井が隠したビニール袋に入っていたのは、まさかこのカッター……?
「浅井さん、何で……っ?」
 浅井が、持っているだけで何もしないうちは、また変なことを考えて芝居でもしているんじゃないかとまだ気休めも考えられた。けれど、浅井の右手がさっと動いた瞬間、そんな平和すぎる思考回路は一瞬で消え去っていた。
 暗闇の中で怪しく光った刃と、そして、首元に感じる冷たい感触。悲鳴は、乾いた音にしかならなかった。
「……あさいさん、やめて……っ」
「……」
「いや……っ、なんで……っ」
 いくら喚いても、浅井の顔色は変わらなかった。その口が、わずかに動く。
「……ねえ、七草さん、私、殺人もやったことないのよ」
「何言って……!」
「七草さん殺して、その後私も死のうかなあ。……それって、面白いかな?」
「浅井さん……!!」
 じわじわと背中を這い上がってくる恐怖の中、必死に浅井の名を呼んだが、彼女は変わらずに私を凝視しているだけだった。でも、見ているのは私なんかじゃないと、なぜだかそう思えた。私など通り越したどこか遠く――あなたはいったい何を見ているの、浅井さん。
「やめて! 何でこんなこと」
「どうして嫌がるの?」
 浅井がぽつりとはき出した。暗闇に落とされたそれは、たった一言だったが、ぞっとするほどの虚無を含んでいた。それでいて、セリフと重なって聞こえた笑みに、私は寒気を覚える。
 浅井が、もう一度くすりと笑った。吐息に混じって声がする。
「どうして? あなたは私の言葉に惹かれていたでしょう? 私の持つ死≠ノ惹かれていたでしょう? その死が今あなたのものになろうとしているのに、どうして嫌がるの?」
「……っ」
 言葉に詰まる。そうだ、私は浅井の振りまく猛烈な死の気配にずっと惹かれていた。でも、違うんだ。私が欲しかったのは、こんなんじゃなくて、もっと、もっと――
「違う……」
「七草さん」
「違うよ……違う……」
 私が惹かれた死は、もう一度知ったら忘れられないぐらいに甘かった。そこら中に、濃く甘い感覚が充満していて、その中で私はひどく満たされてそしてひどく幸せだった。その甘さをそのままずっとぎゅっと抱きしめていたかった。
 でも、今私に向けられている死は、違うんだ。
「私が欲しかったのは、こんなに暗いものじゃない――!」
 今ここにある死は、暗くて暗くて黒くて、冷たすぎる。底知れぬ深淵の闇が、私を引きずりこんで呑み込もうとする。
「止めて。浅井さん止めて。私、怖い……!」
 その闇は、あまりに怖かったのだ。目の前に広がる闇が怖すぎて、そこに手を伸ばすのが怖すぎて、指先に触れたのは冷たさしかなかった。コンクリートの床に投げ出された手が震える。いくらこらえたところでその震えを押さえることはできない。
「やっぱり、そうなのね」
 浅井の、自身の息の音にかき消されそうなつぶやきが聞こえた。
「やっぱりこのままじゃ、あなたは全部思い出してしまう」
 見上げると、二つの深淵が笑みの形に歪められて、けれど何も映さずに私を見下ろしていた。
「あなたはもう答えを知っている。だからそんなに怖がるんだ。いつか全部思い出して、あなたはあなたの世界に戻ってしまう。私の鬼にはなってくれなくなる。それなら、いっそ私が全部壊してしまえばいいんだ。七草さんのことも私自身も、私が壊してしまえばいいの」
「浅井さん、何言って……!?」
「屋上の鍵だって、絶対返してあげない。返してしまったら、あなたはいつか気付いてしまうから」
「だから、何の話っ……!」
 掠れた声で叫んだ私を、浅井はいつものように笑顔で見下ろした。
「……ねえ七草さん、あなたは、私の鬼にはなってくれないの……?」
 笑って、問う。でも決して笑ってなんかいない空っぽの笑顔の彼女から放たれたセリフは、私の鼓膜を強く揺らした。
 それは、以前にも何回か聞かれたセリフだったが、それより前にもどこかで同じようなことを尋ねられた気がした。一昨日の昼休み、浅井に挨拶されたのが、初めてまともに浅井から話しかけられた言葉だと思う。なのに、変な話だけど、それよりも前に聞かれた気がしたのだ。いつなのかはわからない。思い出せない。
 そして、その彼女が連れた暗すぎる死。それへの強すぎる恐怖もまた、私は既に知っていると感じた。どうしてこんなにも恐怖しているのか、自分でもわからないほどなのに、暗い深淵を目の前にして怯え縮こまるこの感覚を、私は知っている気がした。
「浅井さん……」
「何?」
「私たち、前に話したこと、あったっけ……?」
「……!」
 震えながら聞いた言葉に、浅井の瞳の奥が揺れたように見えた。でも、それはいったい何だったのだろう。焦り? 恐怖? 悲しみ? それを見定める間もなく、浅井が笑って右手を振り上げた。
「死ねばいいよ」
「待っ――」
 カッターの切っ先がきらめいた。見えたのは、目の前に差し出された明確な死の形と、その先に見えた黒々とした暗闇。
 ――そして、記憶にはないはずのいつかの風景。校門。立ち尽くす私。誰かの人影。響く誰かの声。問いかけられて、私の口が動いた。他には誰も居ない。二人だけ。そして、側に、
「いやあ……!」
「――な」
 それ以上思い出そうとすると、途端に漆黒の闇が記憶の中から噴き出した。それが猛烈な速さで私の脳内を浸食していく感覚と、今現在目の前にある鈍色の切っ先とが重なって、無意識に私の喉の奥から悲鳴がほとばしり出ていた。

 私の悲鳴に、浅井の動きがわずかに止まった。その一瞬の隙をついて、私たちの間に飛び込んできた声があった。
「誰かそこにいる!? その声、美和なの!?」
 聞き慣れた声とともに、間髪空けずに階段を駆け上がってくる足音がした。そして、
「美和!」
「な、奈々……!?」
 二階に現れた小柄な影。それの持つ懐中電灯の光が空間を切り裂いた。そして彼女は、床に仰向けになったままの私と、その上にいる浅井、そして浅井の持つカッターナイフに気付いて目を見開く。
「なっ……! 誰かを……警察、呼んでっ!」
 悲鳴にも似た声を上げて、奈々が携帯を取り出そうとしている。その時、頭上から浅井の舌打ちが聞こえたかと思うと、次の瞬間彼女はぱっと身を翻していた。カッターを握りしめたまま奈々のいる階段の所へ駆け出していくので、思わず私は息を呑む。まだ震えの収まらない手に力を込めて上半身を起こすと、そのまま夢中で叫んでいた。
「だめ! 浅井さん、やめてえ!!」
 浅井と奈々の姿が重なって、私は二度目の悲鳴を上げていた。けれど、重なった姿と姿は再び離れ、浅井は一度だけ振り返ると、階段の下へと消えていった。
 浅井は、奈々の横を通り過ぎて行っただけだったのだ。立ち上がりかけていた私は、それに気付いた途端またへなへなと座り込んでしまった。
「美和!」
 奈々が慌てて駆け寄ってくるのが見える。
「大丈夫!? 怪我してない!?」
「……大丈夫……」
 呆然と答えた後で、私は浅井の去った階段の入り口に目をやった。そこに浮かぶ闇はもう私を恐怖させはしなかったけれど、代わりに抱いたのは胸を締め付けるような苦しさだった。
「……奈々、何でここに?」
「ずっと美和を探してたの! 先生を気絶させたのは美和じゃないよね? 浅井さんだよね? あれのせいで騒ぎになって、今は警察まで美和たち探してるよ……」
「……そう。じゃあ、私を警察に連れて行く?」
 試しに聞いてみた意地悪な一言に、奈々は悲しそうな顔をした。その顔が本当に悲しそうだったから、そんなことを言ったことに、私は本気で後悔しそうになった。
「そんなことしないよ……! 私は、ただ美和が心配で……」
「……うん。わかってる。ごめん。そして、ありがとう」
 そう言うと、奈々がぱっと笑った。でも、その顔を真正面から見られず、私は視線を避けてしまう。
 変な感じだった。一昨日には、私は奈々と教室で笑い合っていたのに、今はこんなところで私は彼女をまるで他人みたいに感じている。
 それはさすがに言い過ぎかもしれないけれど、でも笑っていた時のことはもう、昔の出来事のようにひどく遠かった。そして、今こうして彼女の隣に立っていることさえ、私にとってはとても苦しいんだ。
 何で、あんな笑いが、会話が幸せだったんだろうと思う。何で、あんな空っぽなものを大事に大事に抱えていられたんだろう。何で、あんな空虚な日常に埋もれていられたんだろう。だって何もないじゃないか。空っぽじゃないか。その、ひどく希薄で貧弱な幸福を守るために、自分さえもなくして見失って、ぬくもりなんて残ってないぬるま湯の中に沈んでいくだけなんだ。しまいには、自分がなんなのかも、生きてるのかもわからなくなって、ただただ一日を消化するためだけに過ごしてるってのに、それにさえも気付かずにそれを幸せだと私たちは呼ぶのだ。だって、それは確かに幸せなのだ。何も考えず、痛みも感じず、たゆたっているだけなんだから。
 でもそれは、気付いてしまえば恐ろしいほどに空虚な世界で、私はもう、そんなところに一秒だっていられないのだ。
 それなのに、
「怖い……」
「美和……?」
 まだ残っている。さっきの、自分のすぐ側まで迫ってきた死の恐怖。そして、私の中を駆け巡っていったいつかの光景と、その中にたたずむ闇の気配。これはいったい何? 私は何か忘れてしまっている? ――何を? どうして?
「美和、帰ろう?」
 奈々が優しく言ってくる。私はそれに対して、今すぐ黙れと叫びたい衝動に駆られていた。やめて。私をそっちに連れ戻さないで。そんなことされたら私は今度こそ窒息死してしまう。だってそっちには何もない。何もないのに。
「正直に話せばきっとわかってもらえるよ。だって美和は悪くない」
「……黙って」
「え?」
「黙ってよ!」
 奈々に背を向けて走り出そうとすると、「美和!」と名前を呼ばれて腕を捕まれた。それに大して離してと甲高い声を上げる。
 苦しくて、この場にとどまってなんていられなかった。ここには、どうしようもないほど何もない。今までの私の世界は空っぽすぎて、その世界へ私を連れ戻そうとする奈々だって、私を満たすものなんて何も持ってない。
 けれど、さっきの闇が私の頭から離れない。怖くて怖くて、今すぐ浅井を追いかけようとするのを躊躇する。それらの二つの感情がせめぎ合って、もうどうしていいのかなんてわからない。

 ――死ねばいいよ。

 何で、そんなこと言うの? いつもみたいに甘い感覚で私の世界を満たしてよ。それだけで良かったのに。こんな暗くて怖い闇なんて知らないままで良かったのに。いつのどこだかもわからない光景なんて、忘れたままで良かったのに。
 いつもみたいに私にささやきかけてよ。でないと、私はどうすればいいのかさえわからないのに。今いるこの場所は苦しすぎて逃げたくて仕方ないのに、どこに行けばいいのかもわからないよ。ねえ、浅井さん。
「美和、帰ろう!」
「嫌! 離して!」
 感情にまかせて奈々の手を振り払った。奈々が押されてよろめくのが見えた気がしたけど、頭の中がぐちゃぐちゃすぎてまともな映像処理ができない。そんな中、ある単語が一つだけ浮かんでくる。
「逃げ、なきゃ……!」
「美和!?」
 どこでもいいから逃げないと。ここじゃないどこかへ。空っぽでもなく、暗闇もない場所へ。
 ただそれだけを思って、ふらふらと歩き始めた私の腕を、奈々が再度握りしめた。それでも私は止まろうとしなかったから、引っ張られる形になった奈々が「みわあ」と泣きそうな声で呼んでくる。その手を、私は今度こそ力いっぱい横に引き払った。奈々が悲鳴を上げて床に尻餅をついたのが分かったが、そんなことに構ってる余裕なんて残ってなかった。
 どこに行けばいいのかもどうすればいいのかもわからない。でも、ともかくここから逃げないと。ここから――私を連れ戻そうとする者から。
 苦しくて苦しくて、もう耐えられない。あまりの虚無感に押しつぶされそう。だから、ここから逃げなきゃ。
「……美和! 駄目!」
 床を蹴って駆け出すと、後ろから奈々の必死な呼び声が聞こえた。でも、そんなものはもう私少しだって届きはしなかった。振り返ることさえせず、一気に階段を駆け下りると、待ち受けるようにたたずんでいた階下の闇が一斉に私を呑み込んでいった。
 


 何度も何度も電話した。何度も何度も浅井の番号を入力して、何度も何度も「ただ今電話に出ることができません――」という虚しいメッセージを聞いた。その度に焦りは募っていって、次第に、電話しなきゃいけないという強迫観念だけが私を支配していく中、最後は叩くように携帯のボタンを押していた。
 そして、何十回も電話した後、ようやく呼び出し音が途中で途切れた。私は、恐る恐る喉の奥から声を絞り出す。
「……浅井、さん……?」
「……」
 長い長い沈黙が落ちて、ひょっとして通話が繋がったわけではなく単に切れてしまっただけなのではないかと不安になる。でもしばらくして、微かだが確かに浅井の息づかいが聞こえてくることに気付いた。
「浅井さん」
 切実なその一言が、浅井にちゃんと届いたのかどうかはわからないが、数秒後、浅井の小さなため息の音がした。
「なーに? 七草さん」
 そのセリフには、さきほどの様子のおかしさは微塵も感じられなかった。笑みの響きさえ含んだいつも通りすぎる口調に、私は逆に不安になって電話口にすがりついた
「浅井さん、今どこにいるの? 戻ってきてよ。お願いだから……っ。私、一人じゃどうしていいのかわからないよ。浅井さんいないと苦しくて仕方ないよ。それなのに、さっきの浅井さん思い出すと怖くて仕方ないよ。私、どうしたらいいの? どうして浅井さんは私を殺そうとしたの? 私、何か悪いことしたの? そうだったら謝るから、だから、戻ってきていつもみたいにしゃべってよ、ねえ――」
「何でそんなに必死になってるの? さっきの全部冗談なのに、もうー」
 そう、笑って返された浅井の言葉に、私は「え?」と固まってしまった。さっきのが全部冗談なんて、そんなわけない。
「そう、なの?」
「そうだよお。ちょっとふざけただけなのに、本気にしないでよー」
 いつも通りな浅井と言葉。私は、そのことに一人で泣きそうになってしまっていた。まだ、あの本気でおかしかった浅井の様子が全部冗談だったなんて信じられなかったけれど、それでも泣きそうなぐらいにほっとしたのだ。
「でも、私……何か忘れてるんだよね?」
 記憶の向こう。時折過ぎる暗い影。私はそれが何かも知らないけど、思い出しそうになる度に指先が震える。
「思い出したくないけど、思い出しそうで。でも、それは怖いよ……。思い出してしまったら、浅井さんは、私を殺す?」
「……忘れてないよ、七草さんは、何も」
 浅井の静かな声がした。
「忘れてない。だから、思い出すことを心配する必要もない。七草さんは何も考えなくていい」
「ほんとに……?」
「うん。本当。そんな余計なものはいらないの。そんな暗い事実は、私たちになんて必要ない。だから、七草さんは何も忘れてない」
 静かに、けれど歌うように、浅井が言い放った言葉は、私をそっと包み込んでいった。今の私にとっては、それが何よりの救いだった。
 そうだ。いらないんだ。余計なものなんて。
「じゃあ……私、今からそうすればいい? 
「そうだねー、とりあえず鬼ごっこしよう」
「え……今?」
「そう、今」
 即答された返答に、私は少し目を見開いた。
「今すぐ? 明るくなってからとかじゃなくて?」
「うんっ」
「場所はどうするの?」
「この辺全部」
「それ、曖昧すぎだし広いし、よくわかんないよ」
「じゃあ、駅から半径一キロ」
 それでも十分広い。しかも、いつものごとく浅井がどこからスタートしているのか私は知らない。難易度としては相当上だ。
「ちゃんと捕まえられるかなあ。かなり難しいよ」
「頑張ってねーっ。タイムリミットは午前五時までの後三時間」
「もし駄目だったら?」
「もちろん、私は死んじゃう」
 どこか楽しそうな浅井に、ああ、やっぱりこの甘さだと私はまた笑ってしまった。浅井の一言だけで、私の世界は満たされてくれる。
 そして思う。やっぱり、この事実だけで十分なのだと。それ以外のものなんて、何もいらないんだと。
「浅井さん、ほんとにほんとに、もう私を殺そうとなんてしない? ずっと一緒にいてくれる?」
「うん。いるよ、ずっと」
「うん……じゃあ、私はもう何も考えないし、思い出さないよ。――思い出すものなんて、ないよ」
 いらないもの全てに目を閉じよう。そして、目を閉じた世界で開いた瞳が映すのは、たった二人だけの存在。
「じゃあ、やろう。鬼ごっこ」
「おっけー、いくよ……よーい、始めっ」
 開始を告げる声がして、通話が途切れた。私は携帯を閉じてポケットに突っ込み、夜の街へと駆けだしていく。
 邪魔になるなら忘れたままでいい。そう思った。
 暗い真実なんていらないの。私たちはせっかく日常から逃げ出してこれたっていうのに、余計な付属品はいらない。
 この世界でたった二人、手を伸ばして触れ合えるという、その事実だけで十分なんだ。それ以外の不必要なものは、全部はぎ取って捨ててしまえばいい。全部全部、跡形もなく破り裂いて放り投げてしまえばいい。後に残るのは、私二人だけの存在でいい。
 空っぽの日常も、黒い記憶も、私にはいらないものなのだから。
 だから――。



「あーあ、やっぱり駄目だったか」
 強い風に髪を弄ばれながら、私は一人つぶやいた。そのつぶやきを聞く者は一人としていない。ここには、私――浅井優菜以外誰もいないんだから、当たり前だけど。
 叶わないなあ。こんなに単純な願いも珍しいと思うのに、どうやっても手が届かない。
 まあ、仕方ないか。どう足掻いても無理だってのなら。
「笑えるなー」
 かなり滑稽だと思う。自分の状況が。
 そして、私は心から笑ったことなんてないっていうのに、今こうして自嘲を心から漏らしている。それがもっとおかしい。
 でも、やっぱり私は本当の純粋な笑顔なんて知らない。
「今度は笑える気が、したんだけどなあ」
 でも、もう駄目みたいだ。柄にもない悪足掻きも徒労に終わり、どうやら限界っぽい。結構早かったなあ、つまんないの。
 だから鬼ごっこはもうおしまい。鬼は誰も捕まえられなかったけれど、それでもおしまい。どんなに楽しい遊びもいつかは終わってしまうように、例え鬼が誰も捕まえられなくても、鬼ごっこはいつか終わりを迎えるの。
 だって、鬼ごっこは一人じゃできないから。追いかけられる方がみんな去ってしまえば、鬼だけが一人残されて、鬼ごっこはもうできないの。そうでしょう?
 じゃあそろそろ遊びはやめておうちに帰りましょう。バイバイ、また明日。
 また、明日。


 
「ねえ七草さん、何か話そう」
「何かって?」
「何でも良いよお」
 浅井からそんな電話がかかってきたのは、鬼ごっこが始まって既に二時間ほど経過した後だった。開始から、私はあちこち走り回ったが結局浅井は見つからない。そろそろ見つけないとまずいなあと思い始めた頃、携帯の着信音がしたのだ。
「何でもって……、そんなことで電話したの?」
「だって暇なんだもん」
「今鬼ごっこの最中でしょ? 逃げてるのに暇なわけないじゃん」
「口が暇なの」
 なるほど、と妙に納得してしまった。
「でも私、浅井さん探さないといけないんだけど」
「話しながら探せばいいよ」
「……それ鬼ごっことしてどうなのかな」
 割と無茶苦茶な浅井の言い分。まあ、今までもずっと浅井は無茶苦茶だったから、今更ではあるけれど。 
「ねえ七草さん、聞いてよ」
「何?」
「もし、七草さんがちゃんと私を捕まえられたら……」
 浅井がふいにそんなことを言い始めた。
「捕まえられたら?」
「ほんとにどっか遠くに逃げちゃおうよー、ほら、七草さんさっき言ってたじゃない」
「いいけど、逃げてどうするの?」
「知らないよお、そんなこと」
「適当だねえ」
「きっとどうにかなるってばあ。とりあえず、毎日鬼ごっこしてればいいよー」
 それを聞いた私は思わず噴き出してしまった。それはなかなかな名案だ。
「うん、いいねえ。どっか行こう」
「うんっ」
 少しの間沈黙が落ちて、それからまた浅井の声が聞こえてきた。携帯を挟んだ、ややノイズ混じりの声。
「そうすれば、七草さんは私の鬼になってくれる?」
「当たり前だよ。ていうか、今も鬼やってるじゃん」
「そっか。そうだね」
 携帯の向こう側で笑い声がした。電波が悪いのか、ノイズが大きくなっている気がする。
 そんなに電波が悪いなんて、浅井は建物の中にでもいるんだろうか。それでは見つけられる気がしない。
「でもさ浅井さん、浅井さんは何で鬼ごっこを選んだの?」
 会話を続けようとして、私は何気なく思った疑問を口にする。浅井からは、「え?」とやや呆けたような声。
「浅井さんがしたかったのは賭けなんだよね。死ぬか死なないかの。だったら、別に鬼ごっこじゃなくても、ゲームなら何でも良いよね」
「……」
 すぐには返答がなかった。答えられないというのは、ひょっとして単なる気まぐれだったんだろうか。浅井ならありうる。
「それに、捕まらなかったら死ぬって何か変。何で捕まったら死ぬにしなかったの?」
「そうだねー、何でかなあ」
 今度は、返ってきたはいいがどうでもよさそうな口調だった。全部気まぐれだったのかもしれない。
 まあ、細かいルールについてのあーだこーだなんて些細な問題だし、浅井でないけどどうでもいいやと思って話題を変えようとしたところ、
「ねえ……七草さん、鬼ごっこって何だと思う?」
「な、なに?」
 逆に質問が返ってきた。でもその聞きたいことの意味がわからず、私はとっさに答えられない。
「何って、聞きたいことがよくわかんない」
「――鬼って、何で鬼じゃない人を追いかけるのかな」
 質問が変わったけれど、私はまた答えられなかった。そんなこと聞かれたって困る。鬼ごっこなんだから、鬼が追いかけなくて誰が追いかけるというのだろう。
「……鬼だからでしょ?」
「そうじゃなくて、何で鬼は人を追いかけるのかってこと。鬼に捕まったら、捕まった人も鬼になるよね。でもそれって変じゃない? だって、捕まった人は捕まった後でも死んでないってことなんだから。鬼って、一般的には人を食べたり殺したりするものだよね。なのに、捕まえても殺してないんだよ。変だと思わない?」
「それは……」
 そんなこと、考えたこともなかった。黙っていると、浅井の静かな声がする。
「こんな話があるの。昔々あるところの、ある山の奥で、数人の鬼たちが暮らしていました」
「うん?」
「鬼たちはとても愉快な性格でした。でも、鬼の人数はそんなにいなかったので、いつも寂しく思っていました。彼らは、もっと仲間が欲しかったのです」
「……」
「ある日彼らは、偶然山の中まで迷いこんだ人間たちを見つけました。山の麓に住む人間たちでした。鬼は人間たちを、自分たちの住処まで連れてきて、疲れた彼らにごちそうしてあげました。最初は怖がっていた人間たちですが、鬼たちはとても愉快なのですぐに仲良くなり、結局鬼たちの所に居着いてしまいました」
「……」
「そして鬼たちは思いつきます。こういう風に人間を仲間にしていけば、もう寂しくないんだと」
 楽しそうに浅井は語り続ける。それを、私はじっと聞いていた。
「鬼たちは、人間を仲間にするために麓の村へと行きました。もちろん、人間たちは怖がって逃げてしまいます。だから鬼は彼らを追いかけ始めました。自分たちは怖い鬼じゃないんだとわかってもらうために、そして、仲間になってもらうために」
「それが鬼ごっこ……?」
「うん。仲間が欲しいから、鬼は鬼となって人を追いかける。そして、自分たちの住処へと連れて行く。捕まえた人間が逃げ出しても、鬼たちは何度でも何度でも追いかけては連れ戻す。追いかける相手がいなくなって、鬼ごっこが終わるまで、ずっとずっと、鬼たちは人々を自分たちの日常へ連れ戻し続けるの。
 鬼に捕まった人は鬼になる。それは、鬼の仲間になるってことだ。だから、鬼が相手を追いかけるのは、自分の世界へ来てもらうため――自分の日常へ、一緒に来てもらうため」
「浅井、さん……?」
 意味もなく、私は浅井の名を呼んでいた。また思い出しそうになって、そして、色んな事が見えかけた気がした。でも、それは理解してはいけないことのようが気がして、私は再び全てに目を閉ざす。
「七草さん」
 浅井が、ぽつりと私を呼んだ。
「もう、いいよ」
 その言葉の裏にある感情を、私は読み取れない。
「もういいよ。もう――思い出して良いよ」
「あさい、さん」
「思い出しかけてるんでしょう、ほとんど。今ここで思い出さなくても、いつかは思い出して、どうせ結果なんて変わらない。だから、もういいよ」
「……」
「さっき、七草さんは何も忘れてないって言ったのは、もう少しだけ時間が欲しかったから。それと、まだ話したいことがあったから。――だから、最後にこれだけ聞かせて? ねえ七草さん、私があなたの鬼なの? それとも、あなたが私の鬼なの? ねえ七草さん――」
 少し、間があった。
 ノイズが聞こえてくる。ふと、これは電波が悪いからなんかじゃないと私は気付いた。これは、風の音だ――。
「あなたは、私の鬼になってくれる?」
 ほどける鎖。きつく閉めたはずの記憶の扉は、いとも容易く、するりと開いた。
 私が、自分から開けたわけではなかった。しまい込んだものがいつの間にか、押さえきれないほど膨れあがっていたことに、私はその時初めて気付いた。いくら恐怖しても忌避しても、もう閉じていられないほどに、限界はこんなに近くにあった。
 そして、私は知る。全ての答えと、浅井の問いへの私の答えるべき答えを。
 だから、震える唇を、私はそっと開く。
 鬼は相手を、自分の側へ、自分の日常へと引き込む者。その鬼になってくれと願った、浅井への答え。
「なれ、ない、よ――」
「そう――じゃあ、バイバイ」
 浅井の声がした。携帯の向こうで、風の音が唸っている。浅井が何かつぶやいた気がしたけれど、風にかき消されて聞き取ることなんてできなかった。
 そして、それきり通話は途切れて、浅井の声はもう聞こえなかった。


 
 7、空っぽの結末

「……そうか、もう、全部、私は知っていたんだ……」
 答えなんて、こんなすぐ側にあったんだと、私は一人つぶやいた。その言葉を聞いてくれる人なんてもう誰もいなくて、私のつぶやきは道路に虚しく転がるだけだってのに。
 時刻は五時を回っている。朝日はもう昇ってしまっているから、余計に目の前の光景がはっきりと見える。
 集まってくるパトカーと救急車。その騒ぎを聞きつけて、既に早起きの人々の人だかりができている。でも私の目はそれら全てを通り過ぎて、ただ中央の光景だけを凝視していた。
 赤かった。ただひたすらに、赤くて、それが私の視界を浸食していく。そして、その赤さに中心に一人の少女が倒れ伏していた。その顔に浮かんだ表情は、丁度陰になっていて、のぞき見ることはできなかった。
 でも、顔なんか見えなくても、私にはそれが誰なのかわかる。彼女の持つ、歪な雰囲気だけは間違えたりしない。だから私には、これが――浅井なんだとわかってしまう。
「……」
 浅井は飛び降りたのだった。たった一人、ビルの屋上から。捕まらなければ死ぬというその言葉を、浅井は本当にやってみせたのだ。そうして、一人で鬼ごっこを終わらせてしまったのだ。
 でも、それを知りそれを見ても、私には何の思いもも浮かんでこなかった。悲しみも落胆も怒りも、何も。顔をしかめる人、目を背ける人、痛ましそうに顔を歪める人、それぞれが思い思いの反応をする中、私だけが無表情で立ち尽くしていた。
 そして私は思い出す。無感情に、全ての始まりを。
 卵泥棒は、本当は私だったってことを。
 
 いったいいつかだらろう。私の記憶がぽろぽろ抜け始めたのは。今思えば、忘れてしまっていたことがたくさんある。私は忘れてしまっているということにさえ気付いていなかったが、ここ数日間の私の記憶は、虫食いのように欠落していた。――全て思い出した、今ならばそれがわかる。
「ねえみんな、飼育小屋の鶏が卵産んだって!」
「まじ!? すげえな」
「見に行こうよっ」
「行こう行こう!」
 きっかけはそんな会話だった気がする。誰が何を言ったかなんて覚えていないが、そんな感じの内容だった。ともかくその会話のために、私たちは昼休みに飼育小屋へと出かけていった。
「ねえ、親鳥が陣取ってるから卵見えないじゃん」
「ほんとだね。どいてくれないかな……」
「つついてみようぜ」
「え、それまずくない?」
 細かいことは覚えてない。でも、なんやかんやと親鳥を立たせようと頑張った記憶がある。そして、あの手この手で頑張っているうちに、何かの拍子で親鳥が立ち上がり、その時に真っ白い卵が五つ見えたのだった。
「見えた!」
「わー、可愛いっ」
「早く雛生まれないかな」
 みんながそうやって騒ぐ中、私が抱いていたのは全く別の感情だった。唐突に、私の中で渦巻いたのは、「壊してやりたい」という思いだった。外の世界も何も知らずに眠る雛たちの殻を、粉々に砕いてやりたくなったのだ。
 それは、押し込めて知らない振りをし続けていた、私の自分の日常に対する虚無感と息苦しさが形を成した瞬間だった。かつて私がそうと信じ続けていた「幸福」を守るために押し込め続けていた私の思いは、そこで臨界点を越えた。きっと、限界なんてとうに来ていて、きっかけさえあればいつでも破裂してしまえたんだろう。
 だから、私は殻を壊してしまいたいと思った。でも本当に壊したかったのは卵なんかじゃなくて、空っぽの日常に埋もれて何も知らない振りをする自分自身だった。――わかっていた。これは愚かな代償行為だ。何もできっこない自分の代わりに、私は雛に全てを重ねていた。
 そして、私は実際にそれを実行した。夜が明ける前に学校に忍び込むと、飼育小屋の鍵を無理矢理壊し中に押し入る。騒ぐ親鳥を蹴っ飛ばして、卵を盗っていった。
 周りには誰もいなかった。こんな朝早くになんて、誰もいるわけがなかった。
 けれど、いたのだ。たった一人、私のことを見ていた人が。

「おはようー、七草さん」

 校門まで出てきたところで、そんな緊張感のないセリフとともに私の前に現れた彼女は、にっこりと笑って私の抱えた卵を一つ抜き取った。そして、驚きで動けない私に再び微笑む。
「こんなところでこんな時間に出会うなんて奇遇だねえ。どうしたの? 七草さん」
「浅井、さん……」
 私のしたことも十分異常なのに、この時ばかりは自分のことなんて棚に上げて、こいつはどこかおかしいと直感した。思わず後ずさると、浅井が残念そうな顔をする。
「もう、そんなに警戒しないでよー。私たちは同じじゃない。ほら、こうして同じ事をしようとして集まってるんだもん」
「え……?」
 浅井の無邪気な、状況とちぐはぐすぎる歪な笑顔に、私は再び警戒を強める。けれど、同時にひどく惹かれる自分も感じていた。
 昼休みに浅井と鉢合わせた時、なぜ浅井が「また会ったね」と言ったのか、今ならわかる。私は確かにあの時より前に浅井と会っていて、その時に既に浅井に惹かれ始めていた
「ねえ、壊さないの? それ」
 そうして浅井は、楽しそうに口を開く。
「……!」
「壊してしまいたいんでしょー? 壊さないの? さあ」
 にっこりと笑う浅井。その笑顔にくすぐられ、私は卵を一つ抜き取り、思いっきり放り投げた。
 当たり前のように、砕け散る殻。
 雛は無残に地面に打ち付けられ、すぐに動かなくなる。
 そして、流れていくのは雛を包んでいた液体。
「い、や」
 喉の奥から悲鳴に似た声が漏れる。自分のしたことに対して私が感じたのは、喜びでも満足感でもなかったのだ。
「やだ。やだ……」
「どうしたの? 七草さん。これがあなたの望んだことじゃないのー?」
「違う……!」
 そこにあったのは何でもなかった。――いや、そこには何もなかった。殻を割ることで雛が得たのは死だけで、その死は、本当に空っぽだった。暗くて真っ黒で、空っぽの死しか雛には残されなかった。
 当たり前だ。自身を守る物を壊せば死んでしまうのは当然で、そして、私の感情一つで殺された雛の死に、意味なんてあるわけもない。
 だから私は知ってしまった。殻を壊した先に待ってるものなんて、何もないんだってこと。――私は、この日常で生きていくしかないんだってこと。
「七草さん、それを知ってしまうには、まだちょっと早いよ」
 浅井の声がする。それを鼓膜に感じながら、私の意識は薄れ始める。
 ここで生きていくしかない。私はどこへも行けっこない。――それは、ひどい絶望感だった。感じた絶望の重さに私は耐えられず、朝学校に来てこうして卵を破壊した記憶ごと全て、閉じることを選んだのだった。
 愚かな自己防衛として薄まり始める意識の中、そんな私の状態を知ってか知らずか、浅井がささやく。
「まだ、少しの間忘れていてくれないかな」
「なぜ……?」
「私とあなたは、似ているようででも違う。そんなあなたなら私の鬼になってくれるかもしれない」
「おに……?」
「似ていて違うあなたなら、私を連れ戻せるかな……。私に、普通の日常を教えてくれる……? あなたの日常へ、私を連れ戻してくれる? それを楽しいと、感じさせてくれる? ――でもそのためには、もうちょっとだけ、忘れていてね、全部。私を連れ戻すためには、まだ何も知らないままに、あなたにはあなたの日常にいてもらはなくてはならないから」
 浅井が笑った。でもそれは、いつもの無邪気な笑顔ではなく、諦観の混ざった儚げな笑顔だった。
「ねえ七草さん、私の鬼に、なってくれる?」
 浅井の懇願するような声色を最後に、私の記憶は途切れている。次に覚えているのは、登校してきた校門で、無感情に雛を見下ろしている私の姿だ。全てを忘れてしまって、この光景を作り出したのが自分だなんて、夢にも思っていない私自身だ。

 目を閉じる。そして、再び開いた。目の前に広がる光景は変わらない。赤い色は決して消えない。浅井が私の隣に戻ってくることも、もう二度とない。
 死は決して甘くなんてなくて、空っぽで、真っ暗だってこと、私は既に知っていた。無意識のうちに忘れて知らない振りをしていただけで、本当は全部知っていたのに、結局私はこうして同じ光景を繰り返している。
 記憶の中の雛と、目の前の浅井の姿が重なる。同じだ。そこには何もない。空っぽで、何もないんだ。甘くなんてもちろんなくて、空虚なだけ。甘い死なんてあるわけない。死はこんなにも暗くて虚しいのに。こんなにも、無意味なのに。
 そして、知っていながら繰り返してしまった私は、本当に何て愚かなんだろう。

 ねえ七草さん、私の鬼に、なってくれる?

 全て思い出してしまったから、私は答えなければならなかった。「なれない」と。その意味するのが、全ての喪失であっても。
 浅井のくれる甘い死の先にあるものを、私は知っていたから、もう浅井と一緒にいることなんてできないんだ。浅井の鬼になんて、なれないんだ。
「美和!」
 後ろで甲高い声がしたかと思うと、いきなり後ろから抱きしめられていた。振り返らなくても、声で奈々だとわかった。そのまま動かずにいると、嗚咽のようなものが聞こえてきた。泣いて、いるのか。
「奈々、帰ろう」
 私は一言ぽつりと告げる。そう言うことに、自分でも驚くほど何も感じなかった。
「え……?」
「帰ろう」
 もう一度言う。やっぱり何も感じない。
 私が今までいた世界は空っぽで、何もないけれど、でも、浅井のくれる死だって空っぽでしかなかった。私が求めていた甘い死なんてただの幻想で、結局、私は行き場なんてどこにもない。
 だから、どこにも行けないのなら、どこにいたって同じこと。
「……行こう」
 浅井から視線を切る。そのまま静かに背を向けた。
 人がいつかは水から地上へ戻らなければならないように、生まれることすらできない雛は、暖かな殻の中へと戻っていく。一瞬は外に夢見た雛は、殻を割ったってそこには黒くて空っぽな闇しかないと知って、再び幸福な殻の中へと帰って行く。
 そこには、何もないのだと知っていても

 それが、私たちの結末。
 あまりにつまらなくてくだらない、私たちの行き着いた場所。
 


 8、殻の中で私たちは

 階段を上って、その上にある扉に鍵を突っ込む。そして思いっきり押し開けると、目前に広がる屋上の風景。
 いつかの焼き増しのように、やっていることは同じだった。たった一つ違うのは、そこに浅井がいないってこと。
 そうやって私は、浅井のいない屋上にたった一人で立っている。
「久しぶり、だ」
 鬼ごっこが終わった日から、既に一ヶ月が経過した。夏は終わり、もう大分涼しくなっている。制服も、夏服から合服へと変わった。
 その間、私は一度も屋上へ来なかった。来なかったのは単純に鍵がなかったからだ。私が持っていた屋上の鍵は、浅井が借りていってそのままだったから。職員室の鍵を持ってこれば入れたのだけど、そんなことを気軽にするには、ちょっと色々ありすぎた。先生の目も厳しい。
 今日、一ヶ月ぶりに屋上へやってきたのは、浅井にとられたままだった鍵が私の元へ戻ってきたからだ。浅井の両親が、私の元へ鍵を返しにやってきたのだった。
 そして私が、もう浅井のいない屋上へ、わざわざやってきたのには理由がある。
「やっぱりここか……」
 ため息とともにはき出した。給水タンクの裏に、真っ白な卵が三つ隠されていた。隠したのはもちろん、私自身。
 結局、卵を放り投げてから、全部忘れて校門にやってくるまでの記憶は曖昧なままだから、いったい自分が残りの卵をどうしたのかはわからなかった。もしやと思って屋上にやってきたら、やはりここに隠されていたのだ。
 卵が校門に投げ捨てられた日の昼休み、私は一人で屋上にやってきている。暇だから何となく来てみただけだと思っていたけれど、ひょっとして無意識のうちに、隠した卵の監視の意味もあったのか。そうだとしたら本当に笑える。
「……残りは三つか」
 一つは私が壊した。次の日に二つ目を投げ捨てたのは私ではないから、恐らく浅井が、あの朝に出会ったとき私から抜き取っていった一つを壊したんだろう。詳しいことは本人しか知らないことだけれど、恐らく、卵泥棒に仕立て上げられたと思っていた私に対する牽制だろう。ちゃんと鬼ごっこに参加してよ、という。
「これ、どうしよう……」
 もう私にはいらないもの。それなら残りも全部壊してしまおうか。屋上から地上に放り投げておいたら、後でどんな騒ぎになるだろう。
「……やめた」
 わずかだが本気で考えかけた思考は一瞬で冷めた。そんなことしたって無意味だ。何にもならない。くだらないだけ。
 このままにしておけばいい、と思った。どうせ私はもうここには来ない。このままにしておいたって、きっと誰も見つけない。ここで、静かに朽ちていくだけ。
 中の雛はきっととっくに死んでいるだろう。いつかはその痕跡さえも消えてしまう。殻の中で、そうやって雛はそっと朽ち果てていく。
 まるで私みたいだと思った。この空っぽの世界で、静かに静かに死んでいく、私みたいだと。
「鍵、もういらないな」
 手のひらにのった鈍色の鍵をじっと見下ろして、この鍵をくれた先輩のことを思い出す。何で私にくれるのかと聞いたら、何かつまらなさそうだからと答えた先輩のことを。
 あの言葉に大した意味なんてなかっただろう。でもあの先輩は、ひょっとすると本人すらも気付かないところで私の未来を直感していたのかもしれない。
 でも、この鍵はもう私にはいらないものだ。もうここに来る必要なんてない。ここに来る意味なんて、残されてはいない。
 鍵をぎゅっと握りしめる。そしてそのまま、腕を振り上げると力いっぱい屋上の外へと鍵を放った。鍵は、きらきらと光ってそのまま地へと落ちていった。
 これで、私は屋上の扉を開ける術を失った。同時に閉じることもできなくなったけれど、放っておけばそのうち警備員か誰かが気付いて閉めるだろう。そうすれば私は、本当に二度と屋上へと入ることはできなくなる。
 それでいいのだと、私はそっと目を伏せた。

 一ヶ月前のことは、まだ昨日のことのように覚えている。かと言って、それははっきり覚えているというわけではない。一ヶ月前のあの日を境にして、その前はまるで夢でも見ていたかのように、フィルターがかかったような印象を受ける。
 奈々と一緒に家まで帰った私は、まず、ずっと心配して待っていたらしい両親に迎えられた。正直そこまで心配していると思ってなかったので、少しだけ申し訳なく思った。
 その後は、かなり色々あった。人生で初めて警察の事情聴取を受けることになったのだが、卵の事と浅井が先生を殴った事は、学校側が警察へは伝えなかったようで、それについては何も言われなかった。先生は結局こぶができただけで大した怪我もしなかったし、学校も不名誉なことは表へ出したくないのだろう。それはどうでもいいことだが、罪にならなかった事は幸運だ。 
 なのになぜ事情聴取かというと、浅井が飛び降りてしまったためだった。どうやら私が浅井を突き落とした可能性も疑われていたらしい。けれど、全部忘れましたを突き通したところ、驚いたことにそれで通ってしまった。どうやら、浅井が飛び降り自殺をしたショックで記憶喪失になったということにされたみたいだった。
 浅井が勝手に飛び降りたのだと言わずに、忘れましたと嘘をつき続けたのは、、自分の罪が明るみに出ることを恐れたわけではない。単に、何も話したくなかったのだ。浅井と私との間にあったことを正直に話したところで、理解してもらえるなんて思えなかったし、言葉にするという作業がひどく億劫だった。
 記憶喪失ということで最初は医者に診せられたりもしたが、そのうちに私がもういらないと言い出し、周りの人間も「思い出さない方が幸せ」と勝手な解釈をしてくれたため今はどこにも行っていない。

「はぁ――……」
 屋上を出た私は、閉めた扉を擦るようにしてずるずると座り込んだ。長い長いため息をつくと、暗がりに吸い込まれて消えていった。階下からは休憩時間の喧騒が聞こえてくるけれど、ここはまるで別の世界のようにひどく静かだ。
 昼休みはもうちょっとある。それまで、どうにかしてここで時間を潰さなければならない。――だって、もう教室に私の居場所なんてないから。
 法律上は、私は何の罪もないことになった。けれど、だからといって、あれだけ色々やった私がすんなりと受け入れられるわけなんてなかった。本当に罪があるかどうかなんて、皆にとってはどうでもいいことなのだ。重要なのは、私と友達でいて自分が安全でいられるかどうか、それだけだ。
 別に、全部皆のせいというわけではない。私も、受け入れられようとする努力を一切しなかった。だから今のこの状況がある。
 だってここは空っぽだから、もう、どうでもいいのだ。
「美和……」
 どこからか控えめな声がして、声の主を捜すと、階段下から奈々の顔がのぞいていた。「奈々」と私が名前を呼ぶと、にっこりと笑ってこっちへ上がってくる。
「もう、いったいどこにいたのっ。随分探したんだから!」
「あ、うん……」
 思わず「ごめん」と言いかけた言葉を呑み込んだ。代わりに、無感情にぽつりとつぶやく。
「もう私と関わらない方がいいよ」
「そんなこと言っちゃダメって何度言ったらわかるの!」
 途端に可愛く睨まれた。幾度となく繰り返した会話だ。居場所を無くした私に、奈々だけはこうやってついてきてくれているのだが、これでは奈々までも孤立してしまう。私のことなんてどうでもいいから、私はもう全部どうでもいいから、気にせずに元の場所へ戻っていって欲しいのに。
 そうこうしているうちにチャイムの音が聞こえてきた。私は無言で立ち上がる。
「あ、美和、教室帰る?」
 奈々が慌ててついてくる。私は、それには何も返さなかった。
 本当は授業も全部サボってしまいたい。授業中にちらちら向けられる視線が結構痛いのだ。全部どうでもよくても、そういう心は残っているから面倒だった。どうせなら、本当に何も感じなくなってしまえればよかったのに。
 でも、じきにそうなるかもしれない。今の私は、ゆっくりゆっくり死んでいくだけだから。殻の中で孵化することもできず、ただ静かに死んでいくだけ。空っぽの世界で、きっと私も空っぽになっていく。
「美和、放課後先帰ったりしないでね! 一緒に帰ろうね!」
「……今日は寄る所があるから、一緒には帰れない」
 「そ、そうなの?」としょぼんとする奈々が見なくてもわかる。また「ごめん」と言いそうになったけれど何も言わなかった。
 寄る所があるというのは、一緒に帰らないための嘘だと、そう奈々は思ったかもしれない。――少なくとも、今までこの理由を使った時は確かにそうだった。
 でも、今日は本当に寄るところがある。

 放課後、授業が終わるなり私は、既に片付けてあった荷物をさっと取って脇目もふらずに教室を出た。下駄箱で靴を履き替えて校門を出るまで、誰にも会わなかった。
 街に出ると、そこには人が溢れていた。一ヶ月前と比べると、日が落ちるのは早くなったけれど、まだ日が沈む時間帯ではない。光の溢れた街で、多くの人々が行き交っている。
 その波の中を進みながら私は、真っ暗な街を走り回った夜を思い出していた。もう戻れない、遠い夜。
 結局私は何がしたかったのだろう。浅井の振りまく死に惹かれた。それは本当だ。あの甘さに包まれた幸福な思いだけは、きっと嘘ではない。
「ほんと、みんな、すごい変わりよう」
 くすりと笑みが漏れて、近くにいた人が不審な目を私に向けてきたけれど、どうせ二度と会わないのだから気にもしなかった。
 皆の、手のひらを返したような見事な裏切りっぷりに、自分のことなのに笑えてくる。だから、何度も思った事実を、今更のように確認し直す。私が今まで大切に大切にしてきた日常だとか絆だとか、そんなものはただの空虚な幻想だったんだってこと。
 いつもみんなといたけれど、その「みんな」って何だったんだろう。繋がってると思ってた。そう信じてた。でもその実、私はいつも「私」を演じていた気がする。話題を提供して、笑いを提供して、自分の居場所を失わないように、一緒に笑っていられるように。
 振り返れば、そこには何もなかった。笑顔がそんなに大事だったの? 笑ってさえいることが、笑っていてもらえることが、そんなに大事だった? そんな世界を守り続けることに、どうしてそんなに必死だった?
 空っぽの笑顔と会話と絆で埋められた日常は確かに幸せだったかもしれない。でも、その幸せは、ぬるま湯につかり続けているような感覚しかしなくて、私が私であるという実感も、今を生きているという思いもなかった。
 だって、私がその場所に何も見いだせていなかったんだから。何もないくせに、無理矢理幸せな私を演じていただけだったんだから。
 だからこそ、その何もない日常に迷い込んできた強烈な死≠フ気配に、私は虜になってしまった。別に死≠カゃなくてもよかったに違いない。私は、空虚な私を満たしてくれるものが欲しかっただけなんだから。
 何かがある気がしたのだ。死んだら終わりなことはわかっていたけれど、それはただの知識としての理解で、私は無意識に死へと惹かれていってしまった。空虚な日常と比べれば、死はずっとずっと密度が濃くてぎゅっと詰まっていて、だから、その先に何かがある気がしたのだ。そして、その感覚はひどく、甘かったのだ。
 でも、私が欲しかったのは、空虚さを埋めるためだけの死≠セった。形のない死≠セった。虚しさを埋めたくて、何でもいいから代わりが欲しくて、死≠ニいう暗くてふわふわした存在を求めただけ。けれど、そんなものどこにもありはしなかった。空虚な私が求めたものは、やっぱり空虚な存在でしかなかったのだ。
 そして全ての感情と記憶が解きほぐされた先に私は、全てを失い、それでもどこへも行けない自分を知る。殻の中で、もがき続けているだけの自分を。
 浅井といる時だけ、その殻を壊せたような錯覚を覚えていた。でもこうして振り返れば、私のしたことは殻の破壊でもなんでもない。殻に包まれた狭い世界で、無様にもがいていただけだ。
 じゃあ、浅井はどうだったのだろうと、ふと思う。
「あさい、さん――」
 何度この名前を呼んだだろう。あんまり何回も呼んだものだから、すっかり私の喉に馴染んでしまっている。
 浅井は、一人宙へと落下していった。この世界から消えてしまおうとした彼女は、殻を破ることができたんだろうか。空っぽの世界から抜け出すことがを壊すことになるのなら、彼女にはそれができたんだろうか。
 ――違う。彼女だって、殻の中から抜け出せてなんかない。なぜって、だって浅井は、
「入るよ……浅井さん」
 私は、目的地である個室の白塗りのドアを、中からの返事を待つことなくそっと開けた。
 その中にいた、ベッドの上でまどろんでいた風の少女が、私に気付いてわずかに目を開ける。途端にその目が見開かれた。
「七草さん……」
 その顔に、見慣れた笑顔はなかった。私は無言で見つめ返した後で、静かに口を開く。
「久しぶり、浅井さん」
 言葉とは裏腹に、出てきた声は冷たいぐらいに無感情だった。
「……あなたは、ここには来ないと思ってた」
 端正な顔に微かな憂いを乗せて、浅井がうつむく。私は、そんな浅井を眺めやって片手をぎゅっと握りしめた。
 殻を壊せなかったのは、浅井だって同じだ。彼女だって、私と同じだ。
 だって、彼女はそもそも死んでなんかないのだから。
 ビルの上から飛び降りたものの、所々引っかかりつつ落下したようで、意識が戻るのに時間はかかったし途中は結構大変なことになっていたようだが、結果として大した後遺症もなく浅井はまだ生きていた。
「一応お礼だけ言いに来た。警察、庇ってくれてありがとう」
 浅井は、うつむいたまま顔を上げなかった。町中にある病院の一室で、軽く開かれた窓から吹き込んだ風が、私たちの間を通り抜けていく。
 警察に連れて行かれていた時の話だ。全部忘れたなんて陳腐にも程がある嘘だけで、警察が許してくれるわけがなかった。実際、私が突き落としたという線はかなり有力だと思われていたらしい。当然だ。浅井の携帯には、飛び降りる直前に会話した私の着信履歴が、ばっちり残っていたのだから。
 そんな私があっさり解放されたのはただ単純に、病院に搬送されて数日後に目覚めた浅井自身が、自分で飛び降りたのだと証言したからだ。
「庇ったわけじゃない。……ただ、本当のことを言っただけ」
 浅井が小さな声で言ったが、そんなことは私にとってはどうでもよかった。浅井の証言の意図なんて知らないが、浅井がそう言ったことで私は逮捕も何もされていない。だから礼はするべきだと思った。ただそれだけ。
「……用は、それだけ?」
「ああ、後一つ、言いたいことがある」
 すっと息を吸い込む。胸の奥が微かに疼いた。
「あんた、勝手すぎる」
「……」
 浅井は相変わらず顔を上げない。私は、以前よりずっと小さく見える彼女を、静かに見下ろして、再び口を開いた。
「馬鹿じゃないの。たったあれだけの願いのために人を巻き込んで、これだけのことをして」
「……」
 浅井の願い。それは、とてもとても小さなこと。笑ってしまうぐらい、くだらないこと。
「本当に、馬鹿じゃないの」
 浅井は何も言わなかった。
 言う必要なんてない。浅井の言葉と声は、未だに私の中に全部色濃く焼き付いて離れない。
 そして、だからこそ思い知る、浅井の思い。

 ――全部つまらないでしょ? 何もかも、退屈でしょ?
 ――鬼たちは人々を自分たちの日常へ連れ戻し続けるの
 ――似ていて違うあなたなら、私を連れ戻せるかな……。私に、普通の日常を教えてくれる……? あなたの日常へ、私を連れ戻してくれる? それを楽しいと、感じさせてくれる?
 ――七草さん、私の鬼に、なってくれる?
 
 単純すぎる浅井の願い。それは、ただ普通の日常を楽しく送ること。それを楽しいと、思えるようになること。たった、それだけだったのだ。
「似ていて違う私なら、自分を連れ戻してくれると思った? だから、忘れてしまった私に、私が卵泥棒だなんて言って脅迫して巻き込んだ? 鬼ごっこにかこつけて? ――ふざけないで。勝手にもほどがあるよ」
 浅井も私と同じように、日常の空虚さを知ってしまった一人なのだろうか。ここには何もないんだと、ある日気付いてしまったんだろうか。
 それらについてはわからない。でも、ともかく、楽しさの意味も知らずただ空っぽに生きていた浅井は、ある日屋上の私に気付いた。私を観察し始めてしばらくして、奇しくも私と浅井は、あの日の早朝に出会ってしまった。そこで浅井は、私の中に自分と同じものを見てしまった。
 でも、鬼ごっこというオブラートで包まなければ、卵泥棒の仮面を被らなければ、そして甘い死という鎧で覆わなければ、浅井は私に近づくことも言いたいことを言うこともできなかったのだ。何て愚かでくだらなくて――そして何て弱いんだろう。
「巻き込んでおきながら、私が思い出しそうになったら、思い出すことで自分から離れていってしまうのを恐れて、去ってしまうのが怖いからいっそ殺してしまおうとして、でも結局できなくて、今度は自分で死のうとして」
 浅井が私にカッターを向けた時、私が助かったのは、奈々が丁度飛び込んできたからではないと、そう思える。例え奈々が来なかったとしても、浅井は私を殺すことなんてきっとできなかったと、そんな気がする。
 浅井だって、結局は弱くて無力な雛でしかなかったのだと、私は気付いてしまっていた。
「最初から、最後は自分が死ぬつもりだんたんだよね。『鬼に捕まらなければ死んでしまう』って、そういう意味だったんでしょ」
「……」
 私が浅井の鬼になって浅井を捕まえられなければ――私が浅井を日常へと連れ戻せなければ、浅井は最後には死んでしまうつもりだった。最初から浅井は、そう言い続けていた。
「だったら――っ」
 声が震える。それはいったい、なんのためか。
「だったら最初からそうすれば良かったじゃない。私なんて巻き込まずに、さっさと自分で死ねばよかったじゃない。私を巻き込んだって結局何も変わらなかった。それなら最初から飛び降りて死んでしまえば良かったじゃない!」
「……」
 浅井さえ現れなければ、私は何も変わらずに過ごしていられた。例え虚構とごまかししかそこにはなかったとしても、私は幸せでいられた。
「浅井さんがいなければ、私は何も知らないままだったのに。全てに目を背けて、殻の中に閉じこもって生きていられたのに。それで良かったのに! 十分だったのに! なのに、何で……!」
 私はもう、全部を知ってしまった。知らなかった頃に戻ることなんて、到底できやしない。
「何で、あのまま放っておいてくれなかったの……」
 今の私にあるのは、乾いた絶望と空虚だけ。それを私は、これから一生抱えて生きてかなきゃいけないんだ。
「……そうだね。ごめん」
 うつむいたままの浅井から、ぽつりと謝罪の言葉がこぼれ落ちた。その姿に、彼女が最初私に話しかけてきた時の、独特な雰囲気とその身に纏った甘い空気は少しも感じられなかった。
 当たり前かもしれない。だって、そんなのは私の勝手な勘違いでしかない。浅井がずっと言っていた「死」は、私がとりつかれた甘美なものなんかではなく、全てに絶望した先の、疲れた諦めの死。
 私は、ずっと浅井が特別な存在であるような気がしていた。でも、浅井は私と同じ醜い雛でしかなかった。自分の世界に絶望して、必死に殻を破ろうと足掻いて、でも結局何もできなくて、空っぽのまま少しずつ少しずつ死んでいく、哀れな雛だ。
「浅井さん、私たちは似ていて違うって、言ってたよね」
「……うん」
「そうだね。確かに私たちは似ているよ。というより、同じなんだ」
 でもそんな私たちは、そうであるが故に、歩み寄ることなんてできやしない。
 私たちは同じ、空っぽの殻の中で生きる雛。でも、手も足もない卵が鬼ごっこをしたところで、誰も捕まえられやしない。殻を越えて誰かに手を伸ばす術なんて持ってない。厚い壁に阻まれて、誰の手を掴むこともできない。殻を割って外に出て、私たちは初めて誰かを捕まえられるのに。
 だから私は、浅井の鬼になんてなれないんだ。彼女も所詮は、何にも触れられない、卵の中で膝を抱える雛でしかなかったというなら。外に夢見て、けれど出ることのできない雛であったというなら。
 幼すぎる雛は、殻の外の剥き出しの空気の中では生きてはゆけない。殻が壊れた雛は死ぬだけ。だから私たちは、これからもずっと殻の中。だから私たちは永遠に、一人と一人。
 私は私で、浅井は浅井。だから何も変わらない、これからも続いていく私たちの日常。何も変わらない、空虚な世界。
「……っ」
 言いようのない感情が溢れてきて、私はたまらず浅井から視線を逸らした。噛んだ唇がちくりと痛む。
「……私、もう帰る」
 返答は待たず、私は浅井に背を向けた。もう私は、二度とここには来ない。浅井と話すことも、きっともうない。
 病室のドアに、そっと手をかける。
「七草さん」
 呼び止める、声がした。
「あなたは、私の鬼に、なってくれる?」
 耳慣れた声に、耳慣れた言葉。そしてもう、全てさらけ出してしまった後の、形骸でしかないはずの言葉だった。
 なれないと、言おうと思った。それが事実のはずだった。実際、あの夜私は浅井の問いかけになれないと答えた。だから浅井は落下していった。
 けれど、
「……わからない」
 答えた声は震えていた。そして私は、ひんやりと薄暗い廊下へとたった一人出ていく。
 
 病室を出て、ドア沿いに崩れ落ちるように座り込んだ。剥き出しの膝に触れた廊下はただただ冷たかった。小刻みに繰り返していた吐息はいつしか嗚咽に変わり、座り込んだまま、誰もいない廊下で泣き出していた。
 苦しくて、痛かった。私は空っぽに近づいていっているはずなのに、どうしてこんなにも痛みを感じるんだろう。どうして、心は空っぽになってしまえないんだろう。
「どうして、浅井さん――っ」
 無意識に、浅井の名を呼んでいた。二人で一緒にいた数日間を思い出す――まだ私の中から少しも消えていない、幸福な甘さを。でもその感情は、ひどく切なくて苦しかった。
 だから嫌でも自覚する。空っぽだと悟って、諦めたはずのこの世界で、私はまだ何かを求めようとしているんだってこと。でもそれは、ただ形のない物へ向かって、知りもしないのに手を伸ばしているだけなんだってこと。そしてその手は、どこにも届きはしないんだってこと――。
「浅井、さん」
 空虚の中で、何にも触れられない私。そして同じように、どこにも手が届かずにいる浅井。病室の中と外。壁一枚隔てただけなのに、その距離はひどく遠い。
 互いの殻の中にこもりきって、自分の狭い世界を守ることしか知らない私たちは、永遠に一人と一人。何もない空虚の中で、何もつかめず、何にも触れられず、一人と一人。
「浅井さん……」
 いつか、この空虚の中にも何かを見つけられる日が来るんだろうか。いつか、形ある意味を見つけられるんだろうか。真っ暗な死なんかではなく確かな光を握りしめて、生きていけるんだろうか。
 そうすれば私たちは今度こそ、お互いの鬼になって、確かに触れ合うことができるんだろうか。
「そんなの、わかんないよ……」
 病室の冷たい床に身を任せて、私はいつまでも泣いていた。いつしか、聞こえてくる泣き声は、私一人だけのものではなくなっていたような気がした。
世菜
2011年03月20日(日) 22時06分12秒 公開
■この作品の著作権は世菜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めまして。世菜と申します。
自分ではどう改善していいのかわからなくなってきてしまったので、皆様の批評をいただきたいです。思いっきり辛口で構いません。
長いですが、どうかよろしくお願いします。

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No.2  世菜  評価:0点  ■2011-03-24 01:25  ID:pE31/wBS40k
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永本さん

感想ありがとうございます!そしてこんな長いものを読んでくださり本当にありがとうございます。書かれたことを拝見すると、相当に丁寧に読んでくださったようで……ひたすら感謝です。予想外の高得点にも驚いています。
「小説」になっていたと言っていただけるのは大変嬉しいです。でも私は、短く上手にまとめることができない人間なので(そして結果的にこういうことになります)、短編を書ける方々をうらやましく思っています……。

>綿密に書きこまれた描写の徹底ぶりは本当に素晴らしいです。

ありがとうございます。そう言っていただけると、頑張った甲斐があります。

>異端児でどこか宙を舞っているような非現実的な浅井という存在も、自分に嘘を吐くことで自身を必死に守っていた保身的な美和も物語が進むにつれてちゃんと人間になっていく。……

これ以下のお言葉に本気で感動しました。ここまで理解してくださった方は初めてです。私は、この物語で二人は結果的に色々な物を背負うことになりましたが、でも、それによって確かな「人」としての生を得られたのだと、そういうつもりで書いていました。また、二人の対比も苦心したつもりでしたので、それを全部理解してくださって嬉しい限りです。
また、本当の主人公は浅井なのではということですが、自分では明確にそういうつもりはありませんでした。ですが、どっちが主人公とはっきり決めるつもりは実はなかったのは事実ですし、浅井の弱さと脆さは確かに力を入れました。なので、そうとっていただいて構いません。むしろ私もその解釈の方が気に入りそうです……。
「14歳」という映画は初めて聞きました。とても興味がわいたので、今度探してきたいと思います(まだ見られれば、の話ですが)。

>世菜さんならこうした現実的な作品または純文学で必ず芽が出ると思います。次回作はこの『殻と雛』を超えるような、またはこれと同じくらいに”殻”を突き破った作品を読みたいです。

本当に色々とありがとうございます。
ここまで言って下さった後に何ですが、実はこれ、本格的には初めて書いた現代ものです。普段はファンタジー書いています……(相変わらず心理描写多めの、半ファンタジーという感じになりがちですが)。
今書いているのもファンタジーなんですが、ジャンルが何であれ、常に進歩していけるよう頑張っていきたいと思います。

それでは、本当にありがとうございました!
No.1  永本  評価:50点  ■2011-03-22 16:41  ID:l0JpXo/GvK6
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いきなり変なことを書くようですが、私はアマチュアや作家志望の人こそ長編を書くべきだと思っています。プロでもないのに変に短くまとめた作品は正直言って小説の体をしているだけの「小説モドキ」だと思っています。そういった意味でこの作品はちゃんと「小説」になっていましたし、こういった投稿サイトで「小説モドキ」が乱打されるなか、このような作品を読めたのは嬉しいことです。
純文学+青春物のこの『殻と雛』は少女の内面に焦点を当てて、というよりその一点のみに絞って展開していくわけですが、その描写が徹底しておりまたリアルで非常に読み応えがありました。作者様がこのような心情になったかどうかは分かりませんが、綿密に書きこまれた描写の徹底ぶりは本当に素晴らしいです。リアルで痛々しいまでの少女の心情をガツンとぶつけられるかのようなこの作品は目を背けたくなるけど、思春期にこのような中二病的な思想を抱いていた人間つまり私には読まずにはいられませんでした。
キャラクターも等身大で良い意味で、頭で考えずに体が生み出したのだなと感じられて、ものすごく人間臭くてよかったです。異端児でどこか宙を舞っているような非現実的な浅井という存在も、自分に嘘を吐くことで自身を必死に守っていた保身的な美和も物語が進むにつれてちゃんと人間になっていく。その過程、結果を無骨ではあるものの描き上げているところは素晴らしく小説的な喜びで満ちていました。美和と浅井の対比も実に良く出来ていました。
そしてこれは完全に個人的な質問なのですがこの作品の本当の主人公は美和ではなく浅井なのではないでしょうか? 美和よりも弱く脆く必死に現実を求める浅井の方に主人公としての格・品のようなものが感じられました。変なことを書いてすいません。
これまた個人的なことなのですが以前すごくマイナーな傑作青春映画『14歳』という作品を観たことを思い出しました。あの作品をを文章にしたらこのような感じになるのではないかと思いました。
これからもこういった作品をというより長編を書いてください。世菜さんならこうした現実的な作品または純文学で必ず芽が出ると思います。次回作はこの『殻と雛』を超えるような、またはこれと同じくらいに”殻”を突き破った作品を読みたいです。
長文失礼しました。
このような作品を読ませていただきありがとうございました。
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