コスモス |
浅黒く小つぼな丸顔だが、笑みを浮かべているから、ちょっと見たところでは、穏やかで、いかにも好々爺という感じである。[illust1] だが、よく見ていると、眼窩に落ち窪んだ銀色の目は妙に鋭く、面には、遍歴した人生の、裏も表も、善も悪も、それらの何もかも刻み込んだと言わんばかりの、太くて醜い皺が、幾重にも這っていて、思わず、ぞっとするほど薄気味が悪い。 ところが、身なりは悪くない。いや、それどころか、むしろ年相応のセンスある着こなしといっていいだろう。ワンポイントの付いた紺色の半袖に、グレーのズボン姿だが、上下とも極上の麻織りである。 だがその色黒とは対照的な、やけに白い素足に突っかけたサンダル履きは、いかにも不自然だが、それからすると、どうやら近くの住人らしい。 この辺り一帯は、N市のベッドタウンともいえる郊外都市の緩い丘陵地帯を、古くから開発して造られた閑静な住宅街だが、緑濃い並木路など歳月を経てきて、風格のある情緒を醸し出している。 立ち並ぶ家々は、重々しい石造りか、土塀に囲まれているが、内側の木々も蒼然として、奥深い屋敷の中はひっそり閑として静まり返る。 それでも、どこからともなく微かに聞こえてくるピアノの音は、もの悲しいチェルニー三十番程度の調べのようだが、かえって、この静寂さはひとしおである。 ところが、まだこの界隈に雑草の生い茂った空地になっている所が何か所かある。実は、ここもその空地だが、T字路の角地であり、五、六十坪ぐらいの広さだろうか。 直ぐ西隣は四百坪ほどの豪邸で、東側、北側は道路、南は一段下がって百坪ぐらいの邸宅がある。 今し方の老人は、西の豪邸から、ふと、影でも差したかのような気配でここに現れた。 「おうおう、よう精が出ますわなあ」 老人はその角地の空地で真夏の草刈りに余念のない若者の背後から、嗄れた声を掛けた。 若者は、神経質なのか、ぎょっとしたかのように振り向いた。それほど驚くほどの声高でもなかったのに、なぜか、彼の素振りは大仰で、しゃがんでいた腰を一尺ほどバウ ンドさせたくらいだった。 麦わら帽の首にタオルを巻いているが、頬のこけた青白い額からは滝のように汗が流れていた。手にした鎌は真新しいもののようだが、どうみても、こういう仕事は不馴れに見える。とにかく、鎌の持ち方が妙にぎこちなく、ここにいる時間の割りには幾らも刈られていない。だが、刈り取った後の仕上がりを見ると、まるで、床屋の五分刈りのように整って見られるから、余程几帳面な性格がそうさせているのだろう。 一瞬の、驚愕の容貌が、振り向きざまに無愛想な面に急変し、老人をチラリと斜め上に見上げてから、すぐ目を落として、ええ、と言っただけでそのまま鎌を動かした。 「モーターあるが出そうかね」 見かねて、老人が助け船を出した。 「いや、結構」 若者は素っ気なく断って、コホンと軽い咳をした。だが、老人は彼の返事を無視したかのように、踝を返して屋敷の裏門から中へと戻っていった。 老人がいなくなると、彼は、なぜか、怯えた魚のように目と口をぱちぱちさせ、その場に腰を下ろすと、再びコホン、コホンと言った。 数年程前、冷やかし半分で、この辺りの不動産屋に宅地はないかと訪ねたのがきっかけだった。 バブル崩壊で、閑古鳥の鳴く不動産屋は、彼の年格好、身なりから、この宅地が不相応なことを承知の上で売りつけることに専念したのだった。 もともとこの角地、百五十坪ほどの仲介物件だったが、そっくりそのままを、この若者に持ちかけるほど無能ではなかった。若者の負債額としては身分不相応、不適当と考えるのは当たり前である。 そこで、五十坪程に分筆し、あとの百坪を地続きの豪邸に押しつければ一気に解決すると考えた。仲介手数料は売手、買手から三パーセントづつの六パーセント、土地代は六千万だから三百六十万がまるまる手に入るのだ。不況の最中である。この際、三 百六十万は得難い収入である。大柄な不動産屋は身なりを整え、オーディコロンを吹き付け、老人宅を訪れた。 「実のところ、お宅様の隣地を五十坪ほど分けて欲しいという人物が現われましたのでござりますが、この際、地続きでお増やしになるにはまたとないチャンスでございまして、これが、まともに全部買われてしまいまして、直ぐさま、境界ぎりぎりに家でも建てられようものらな、まことに小煩いことだとご心配いたしましたので早速参上いたしましたのでござります」 と、申し出た。 だが、老人は、いらんお世話だ、と、簡単にはねのけた。なに、実のところ、老人は心のうちで、待っていましたと言わんばかりに、ほくそ笑んだ。というのは、かねてから、この地続きの物件に目を付け、値下がりのチャンスを狙っていたからだった。 結局、不動産屋は、老人の手玉にとられ、売手への単価を下げるべき交渉に右往左往、汗を流して走らされたばかりでなく、最後には、角地は、挟まれた間の土地より値段が高いのは常識で、同じ単価ならこの話は打ち切りだと言った。 そこで不動産屋は、やむなく、値切られた分を角地に上乗せさせることにしたのだった。 今度は不動産屋が若者を手玉にとることになった。だがそれは赤子の手を捻るより簡単だった。 不動産屋は、この地が、風格と通勤買い物の便利さを同時に兼ね備えており、それに、現在、土地価格がどん底で、へたすりゃあ、来年は目が飛び出るほど値上がりするのではないか、などと煽った後、 「あなた様がこの辺りの、高級宅地を選ぼうとされたのは、至極当たり前のこといたしましても、なにしろ単価が下がってしまったので、百坪以上の所を望まれても難しいのです」と、言った。 「では何坪ぐらいのものがあるのでしょうか」 若者は心の中で、百坪なんてとんでもない話だと、不安げな顔して俯いた。 「残念ながら五十坪しかないのです。でも角地ですから多少単価は高いのですが、将来に向け、何かをするには、まこと有望です」と、上目遣いに言った。 若者は、そのとき、唐突に、そのうち脱サラして、パン屋でもやろかという発想が頭の中をかけ巡ったが、何しろ五十坪というのが最大の魅力だった。 彼は、たとえ五十坪であろうと、この高級住宅街の住人になる可能性ができたこという思いが金の工面より先に突っ走ったのである。 話は不動産屋のシナリオに従い、超スピードでこと運び、ついに境界線立会に至るまでとなった。 そのとき、西の老人は境界線のど真中にブロック塀を建て、それを共有すれば厚さの半分はお互いに土地が広くなるがどうかと提案した。若者は尤もだと考えたが、更なるブロック工事の出費が脳裏を掠めたので言を左右にして躊躇した。煮え切らない彼の態度に業を煮やしたのか、老人は性急に、今、決めねば、境界の立会は断ると言い切った。 若者は家を建てることなど、ずっと先のことだし、今は土地代の返済のことで、頭の中が混乱しているほどだったから、顔を強ばらせ、ただおろおろするばかりであった。 そこで不動産屋が、早期決着を計らうと、若者の方のことはお構いなく、そのことはまことに合法的で、よい考えだし、ブロックは半永久的で腐るものではなから、そうするのが業界の常識だと、きっぱり言った。 若者は、力で押し切られたというより、業界の常識という言葉で怖じ気つき、渋々それに従うより他なかった。実のところ、そんな常識は、業界のどこを探してもなかったのだが。 話がつくと、直ぐブロック工事が始まった。老人は在来の境界線になっていた古いブロックを取り壊し、自分の家の道路に面した部分は、新しい石積みに取り替え、境界線のブロックは、その石積みに見合う冠瓦を乗せた最高級の化粧ブロックに積み替えたのだった。 工事が終わってから業者が出した請求書の、若者の負担する割り合分は目の飛び出るほどの額だったので、これは後、彼の深刻な経済問題にもなった。 若者は、ブロックでもピンから錐まであるとは知らないで、普通のモルタルを固めたものだけだと思い込んでいたのが悪かった。 こういう経緯で、彼が共有する境界ブロック塀は、まるで老人の家のもののように見えた。 彼はそのことがいまいましく、今でも根に持っていたから、先程の老人の親切な掛け声に対して、不機嫌だったのも当然だろう。 若者が、またコホンと、一つ咳をしてから重そうな腰を上げ、鎌を使い始めた頃、 「小杉さん、わし今暇だで手伝いますがね」 いきなり西の老人が、手拭い頬被りのニッカーポッカー姿に変身し、動力草刈機を持って現れた。 小杉と呼ばれたその若者は呆気にとられ、ポカーンと口を開けたまま、再びコホン、コホンと上腹部の辺りを波立たせた。 老人は機械に付いた紐を引っ張りエンジンを掛けると、敷地の端のほうから手際よく草を刈り始めた。 手慣れたというか、かっては、百姓やっていたのか、それともその道の専門家なのか、 ともかく豪邸の主とは考えられぬ立ち振舞で、作業は実に鮮やか、年とは思えぬ身のこなしの早業だった。 小杉は自分の心の行方がつかめぬまま、ただ自分に向かって焦るばかりであった。 口利くまもないまま見とれているうち、草刈りは瞬く間に終わってしまった。老人はモーターを止め、 「後、これで掻き集めておきなされ」 と言って熊手を彼に渡した。 「いやいや、熊手は持ってきておりますから」 小杉は狼狽し、妙な瞬きを一つしてから、慌てて右手を激しく振った。 「若いのにようやりなさる。内の倅は、この屋敷の母屋の方に住んでおるがのう、年格好はあんたと同じぐらいだが自分で家のことはようやらなんだ。土地転がしなどと言う芸当は全く不得手でなあ」 老人はその場に腰を下ろすと、開いた両膝を腕に抱え込み、棒立ちしている小杉を見上げて話し掛けた。小杉も何となく身体がだるかったので、彼の斜め左にしゃがみ込んだ。 「いやあ、とんでもありませんです」 何の予備知識もないまま、この土地を手にした気恥ずかしさがそのまま面に現れた。 「ところで家はいつごろ建てなさる」 なぜか、老人の表情に、一瞬、緊張感がみなぎった。「いやいや、まだまだ先のことで」 「それにしても二、三年のうちか」 「いやいやとんでもないです。ずっと先のことで」 小杉は嬉しそうに、やつれた顔を綻ばせたが、それと同時に老人も和んだ。 「先のことならよ、ここらで一儲けしてみんかね」 「……はあ?」 「買った値より高こう売ると言うこっちゃ。ここらはもう値上がりせん。下がる一方じゃで」 小杉は、その言葉を漠然と聞いたが、真意が分からぬまま、ポカーンと口を開けて彼を振り返った。 「どうかね、税金のことはまた別に考えるがね」 彼は、老人が持ちかけた話を噛み砕くように頭の中で反芻しているうちに、言いようのない怒りが込み上げ、一瞬むっとした顔つきで鼻の穴を膨らまし、 「冗談じゃない!」 唾棄するように言った。その気迫に驚いたのか、老人はたじろぎ、途端、手の裏を返したように、 「いやいや悪い冗談言ったよ。勘弁しておくれ」 卑屈なほどの仕種で頭をペコリと下げ、素直に謝ると、付け加えるように、 「大事にしていなさる土地に、つまらんことほざいてしまったわい」 ばつのわるそうにして立ち上がり、 「何か用があったらいつでも言ってくだされ。隣どうしのことじゃに。なあーに、ここは角地のせいか、通りがかりに時々ゴミ袋など捨てる不埒ものがいるのでなあぁ。わしが始末していると言うだけのことで、別に悪きはありませんのでがんす」 皮肉めいた言葉を吐いた。小杉はそれを聞くと、こけた頬をちょっと引き吊らせたが、 間をおいて、 「そりゃあ、どうもすいません」 取って付けたような言い方をして顔をそむけた。 老人はそのまま立去ったが、小杉は、ゴミが捨てられるという一件が妙に頭にこびりついた。 ………わしの地所に!ゴミが捨てられるという。これは極めて大きな問題ではないか。もしかしたら、自分はここらの住人にバカにされているのではないか。差別を受けているのではないか。……… 霧のように広がる不安が、抗いがたい一つの想念にかたまるのを意識しながら、小杉は重い腰を上げ、刈り取られた草を敷地の片隅に寄せ始めた。 その頃まだ昭和四十年初頭に建てられた県営アパートがあって、小杉は、その四階の三DKに、今年七十歳になる母親と、妻の節子、それに小三になる娘の弘子と一緒に住んでいる。母は、玄関脇の三畳に、亡くした夫と、夭折した末娘の位牌を祭った仏壇を置き、ひっそり、息を潜めるように暮らしている。 彼がこの屈辱的な空間から一刻も早く脱出して、小さくても自分たちの城を築きたかったのは、ここにいる大抵の人たちが、とうの昔に、ローンを組んで洒落たマンションに替わるとか、一戸建てに移り住んていたからばかりではなく、彼の心の片隅に、自分の家の庭先に、コスモスの花を一杯咲かせたいという、まるで少女のような願望が潜んでいたからだった。 だが小さな町工場の事務員の収入ではでは、たかが知れている。悲しいことに、買う算段の立たないまま、不動産屋を訪れ、話を聞き、物件を見て歩くと何となく心が休まるのだった。 「ねえあたしもっと頑張るから思い切りましょうよ」 スーパーのレジスターの係で生計を補っている妻の節子が角地の話が出たとき小杉を励ました。 それを聞いていていた母親が、夫の遺産の株券を売却してそれを頭金にしたらどうかと言った。それだけではとても足りなかったが、退職金も前借りし、更に銀行のローンを組めば何とかなると思われた。 だが月々、収入の三分の一近くを返済に充てねばならぬ家計には、身を捩って懊悩し、 決断するのに二ヶ月もかかった。だが、 やっと登記が済んだとき、一家全員が弁当持参で、いそいそと草抜きに来たものだった。 小杉は、来るや否や、この辺りに家が建つとか、ここにコスモスを植えるとか、皆に得意気に説明をした。 そして昼になり、弁当を開こうとしたが、東と北は道路に面しているし、南は直ぐ目の前に、邸宅の窓があって見られているような気がしてならなかったし、東は豪邸だから節子はどっちを向いて腰を下ろしていいものか戸惑った。 そのとき、弘子はお暑さと退屈さでだだをこね始めていたが、義母は小用をこらえ、節子さん、どうしましょうか、と、耳打ちするし、もう頭が混乱してしまい、逆に捨鉢な気持ちが湧いてくるのであった。 結局、義母を車に乗せスーパーへ突っ走り、帰ってから持参した筵を自然生えの一本松の下に敷き、弘子を座らせ、持ってきた猫のぬいぐるみを与えた。やがてみんなが揃ったとき、松を取り囲むように丸座になって、お握りの包みを開いたのであった。 夫は、満面に笑みを浮かべながら、おいしいね、と、言った。 それ以降、家族で草抜きに来ることはなかったが、小杉は夢だったコスモスの花を咲かせようと、独りでここへやってきて種を蒔いた。 バブル崩壊の影響は、業界の腰の骨を長い間痛めるだけ痛め続けているので、なかなか立ち上がるには難しかった。やっと立ち上がったかと思うと、直ぐにへたって倒産する業者が続出した。 節子の勤めていたスーパーも、業界では二流の下の地位だったが、合理化して巻き直してきた大型店の出店で、たちどころに潰された。 小杉の勤める会社は、遮二無二、元請けの裾に縋り付いていて離れなかったので倒産こそ免れたものの、社員のボーナスを半減した。 そういう経済状況だったから小杉の夢は遙か遠い所に霞んでいった。だがコスモスの夢だけは実現して、秋になると敷地の一遇に色とりどりの花を咲かした。 彼はそれを見ていると、どういうわけか、あの世へ行って、眩いばかりの光の中に咲き誇る花畑の中にいるような幻想にとらわれるのであった。 今年も既にその一遇は小さなつぼみを一面に付けていた。先程、隣の老人が草刈り機を使ったときコスモスまで切り取られるのではないかと気が気でなかったが、老人はちゃんと心得ていてコスモスの叢に刃を入れるようなことはしなかった。 彼は、何となく息が切れるような感じがして、時々コホン、コホンと軽い咳をしながら、切り取られた草をやっとコスモスの一偶を取り囲むように集め終わるともう一度ありを見回した。 西の豪邸との境の高級ブロック塀は共有のものだが、まるであの家所有のもののように見えた。その高塀の向こうは、百坪買い足して増やした部分だが、今ではこんもり常緑樹が生い茂り、ずっと奥の方には入母屋造りの日本瓦が高々と二棟に分かれて日に輝いている。 東の棟は息子夫婦の住む母屋だろう。屋敷全体のたたずまいは、いかにも重々しい。つい今し方、ここにいた老人のいる気配など微塵も感ることなく、しーんと静まり返っていて、数年前分け合った、自分の宅地とはおよそ無縁の、まるで別世界の空間であった。 小杉は草刈りの用具を年式の古いカローラのトランクに積み終わると、もう一度敷地に立ち戻り、すっかり奇麗になった敷地の隅々を丹念に見て回した。 そして今度来るときは、〔ゴミ捨て無用〕の看板を是非とも建てねばならぬと考えた。 「どうじゃった?」 似た者夫婦とでもいうのだろう。猫背で小つぼい丸顔の梅干し婆が爺の顔を覗き込んだ。 「だちかん」 爺は不機嫌な顔して、晩酌用の地酒を手酌で飲み干した。 広さ三十畳程の、ここの食堂の床板は、無垢の楢樫を、幅二寸五分、厚さ八分で本実加工した縁甲板だが、磨き込まれた木目の色艶、美しさは、今様の合成材の比ではない。 中央に、ゆったり掛けられる六人掛けのメインテーブルが、窓際には、予備テーブルが二セットもある。壁に立ち並ぶ紫檀の飾り棚類は、この部屋に見合うたげの風格を備えているが、向かい側の壁に掛けられた三十号の油絵は、なんと、長年画壇の巨匠として君臨し、昨年亡くなられた、かの著名な世界的洋画家、M氏制作の裸婦である。 M氏が亡くなられてから、彼の作品は、今現在、号、百万万で取り引きされている。 主テーブルには、この家の花壇から切り取られたと見られる草花が盛られており、並べられた数々の和洋折衷料理は、ここの嫁が隣のキッチンからワゴン車で運び込んだものだ。 上座は爺婆、その横側に息子夫婦の席、隣は男の孫二人、合計六人の席である。この他、婆の遠縁に当たる後家のお手伝さんが住み込んでいるが、滅多にここに席を置くことはない。 息子は当地に本店を置く銀行勤めだが、入社間もない頃東京支店に転勤し、その三年程間に、たまたま、ここに勤めていた娘と交際し、やがて、結婚したいと相談話を持ちかけた。 爺がそれを素直に認めたのは、息子はもちろんのことだが、娘の思想が、思いの外保守的だったからだ。 このご時世である。個人思考が跋扈し、夫婦別性の論議すら華々しい。高級スポーツ車付、家持ちだが、爺婆抜きはもちろんで、ご先祖のことなどカンケイない。へたすりゃあ、社会のこと、政治のことまでカンケイないなどという。今、おのれの物欲が満足さ得れば、彼らは、他人のことなどどうでもいいのだ。 実のところ、爺の故郷はG県の山村であった。彼が少年の頃、実家は代々続いた地酒造りの豪農だった。昭和初期の不況で家業が凋落し、丸裸にされた一家八人が故郷を追われてこの地に住み着いた。以来、祖父母、繋累の人たちとは離散してしまい、家族ばらばらの明け暮れない貧乏のどん底を味あわされた。 幼い姉弟三人が三畳の一間に肩を寄せ合い、工事現場へと、共稼ぎに出掛けている両親を待った。 夕方帰ると、母は、埃まみれの髪の毛を繕う暇もなく飯を炊き、買ってきた鰯の丸干と味噌汁で一家五人の夕げを調えた。親父は、丼みたいな茶碗で飯を喰い、味噌汁は音を立てて啜り、また飯を喰い、うまいなあと言って、今度は、鰯の頭も取らずにかぶりついた。 母は飯の片づけが終わると、賃稼ぎの針物の夜なべをした。父は身体に障るのでそのへんでやめるようにと忠告したが、母はなかなか止めようとはしなかった。 彼女は止めたかったのだが、止めようにも止められない極貧の現実に晒されていたのだった。 爺らの姉弟三人は、三畳の間で枕を並べたが、両親は、飯を食う所と兼用の四畳半で寝た。 これが、かって豪農、資産家の成れの果てだった。 翌朝は五時半頃起こされたが、両親は冷や飯に残りの味噌汁をかけたものを三分足らずでかき込んでから、五年生になる長姉に五銭を与え、昼食には皆に桜パンを買い与えるように言いつけると、慌ただしく家を飛び出すのであった。 山村から見ず知らずの都会に放り出された、恐怖に近い不安感が、今でも爺の脳裏を過る。 両親は、子供のことや、生活のことばかりに追われ、一刻も楽にならず、ただ困ることが人生みたいだった。 爺は、そういう生活のうち尋常高等小学を卒業した。姉たちは、既に紡績工場やデパートの売り子として親を助けていたが、やがて、彼も土建屋に丁稚奉公することになった。 そのとき、両親は涙を流して喜んだ。 それから三年後、爺のお袋は、身体の使いすぎか、五十歳の若さで過労死した。嫁いだ頃、名門出で美人だったお袋の死顔は、まるで幽霊のようだった。 残された親父の落胆は、無惨と言うより、人間の極限を現した。それから二ヶ月もした頃、女房の霊が、子供たちはもう一人前になったのだから、彼らに迷惑を掛けないため早く来いと呼んだかのように、後を追って逝ってしまった。胃ガンだった。 そのとき爺は、胸の中ががらんどうになったような気がして、涙さえ出ないような悲しみにおそわれた。 彼らの人生は何だったのか、今でも、ときどき、爺は、そう思う。 家族の絆。後、爺が生きる信条となった。 爺は、十数年の丁稚奉公を終えた後、数人の手を得る機会に恵まれ、鳶土方の親方となった。やがて、そこの末娘を貰い、下請けとして独立した。一男一女をもうけたが、婆も爺の生い立ちに感銘し、共稼ぎしながら家業に励み、滅んだ家の再興を果たしたのだった。 その上、男の孫二人を授かったことで、彼らはご先祖に申し開きがついたと信じている。 この家の夕飯は、息子夫婦の住む母屋の台所でしつらえられるが、爺婆は、内線の呼び出しで、折れ曲がった渡り廊下を歩いてやってくる。嫁は彼らの好みを心得ていて、文句一つ言わしたことがない。たまに手を付けないものがあると、嫁は、食わねば長生きできぬと忠告する。 長男は彼女のそういう言葉を聞くと、心のうちで、妻は実に良くできた奴だと自ら感心するのである。 この夜は土曜日の休日とあって、夕食は、六人全員が打ち揃っていた。 「頑固だったかね」 婆が先の話を蒸し返した。 「頑固じゃ。あの形相には、頑固と言うよりそら恐ろしい執念を感じたわい」 「困ったもんじゃ」 「あのとき一歩早けりゃあ百五十坪、丸々買えたのじゃがのう。わしとしたことが。年じゃでなあぁ、勘も狂うわい」 爺の皺だらけの顔が苦虫をつぶしたようになったが、その表情は、いかに彼が、おのれの悲しむべき過失を悔悟したかを物語っているかのようだった。 倅は、上目遣いに爺の心をたちどころに読んで、親父を気使った。 「お父さん、何も今から心配することではないでしょうが」 爺は黙って項垂れた。 「いやいや爺様が目の黒いうち、ちゃんと決めておいてもらわんと、わしも安心してお陀仏できんでよ」 婆は即座に息子の思いやりの言葉を遮った。 「だって友彦は小学三年だよ。今から分家の段取りは早すぎないか?第一、将来どこの住むか見当も着かないのだよ」 「じゃあ何かい、お前は最初から友彦を遠方にでもやるつもりでいるのか」 婆は顎を突き出し、どんぐり眼を剥いた。 「そんなこと考えていないよ。仮にだよ、この屋敷内にもう一棟建てたって、買い増した百坪の余力があるじゃないか」 「いや、あの庭を、まるまる潰すの惜しいが、分家を建てる地所は別に必要だ。それに、 本家とは多少離れておらんと様にならんだろう」 今度は爺が意見を述べ立てた。 彼がこのご時世、都会地で随分と贅沢なことを言うようだが、それは、それなりの理由がある。かって爺ら一族が喪失した、莫大な不動産への執念が、既に、幼少の頃より彼の深層に潜んでいたからだった。 また、婆は下の孫の友彦が特に可愛ゆくてならない。つい先週の土曜日、夕食のときのことである。嫁が近くにある公園の菖蒲が満開だから、豪華弁当作って、皆で出かけようと提案した。婆の草花好きを承知の上のことだが、上の孫はもう中一だからそういう話にまったく興味がない。その話が出た途端、 「おれ行かないよ」 と、先ず、そっぽを向いた。ところが友彦は、 「ぼく行くう」 婆の席にやって来て袖を取るのである。 そればかりではない。 お彼岸、盆暮れには一家全員が故郷を訪れ、何百年来の石塔が立ち並ぶ墓地と菩提寺に参詣するのだが、婆は、爺に替わって一つ一つの石塔の由来を説明し、今の証だと説教する。 これを友彦がいつのまにか空暗じし、これは、お爺ちゃんのお父さん、これはお爺ちゃんのお婆ちゃん、これは大お婆ちゃんのお父さん、これは、……などと親すら、余り覚えていない古い石塔の一つ一つに手を触れて歩く。 そして、お婆ちゃん、ぼくが死んだらここのお墓のこの辺りに並ぶんだよね、などと言う。 それを聞いた婆は、両手を後ろに胸を反らせ、目が飛び出んばかりに仰天し、 「な、なんてこと言うだよ。お前は!」 思わず掻き寄せ、強く抱きしめるのである。それを見ていた爺も、つい目頭を押さえる。 偶然のことだが、倅が、あらかじめ考えていた次男の友彦という名は、家系図からご先祖の名をそれぞれ一字づつ取って付けたものだった。 婆は、上の孫が可愛ゆくないわけではないのだが、下の方がそういうふうだったので、 何かと力を入れるのであった。つい今し方、隣地が買い取れないという爺の話を聞いて、 婆は、内蔵を内側から噛まれるような苛立ちを感じるのである。 「ゴミが捨てられるそうだよ」 小杉は、入り口のベルを押して、出てきた妻の顔を見るや首を左に傾げ深刻な面持ちで呟いた。 大した労働するでもないのに、この頃やたらと息が切れる。まだ四十そこそこだというのに、アパートのたった四階まで上がってくるのが億劫だった。 妻の節子は、彼の言った言葉の意味の詮索より、病的とも言える疲弊の表情を漂わせた夫の、青白い顔が気になったし、以前から病院に行って診てもらうよう何度も勧めているにも拘らず、一向出かけないことの方が心配だった。 「ゴミが捨てられるんだと」 妻の顔をまともに見ないで、俯き加減に、もう一度同じことを言った。 「ゴミがどうしたの?」 「だから家の土地にだよ」 「たくさん?」 「さあ、それは分からないが……」 小杉は、ふと、あの老人が片づけてくれる程度のことならそれほど心配することもないと思ったが、妻にはわざと言わなかった。というのは、例え空缶一個と言えども許せない彼の心情の内に、妻にも同じ苦悩を持ってもらいたいという心理が働いていたからだ。 「余り多くなけりゃあそれほど心配しなくたって」 「いや、量の問題じゃない!」 彼は即座に妻を退けた。楽天的なことを言う妻の態度が気に入らなかった。だが、それ以上話をするのも煩わしかった。 薄暗い、わずか三尺四方の玄関土間から上がった、直ぐ前の引き戸を開けると、ダイニングキッチンと四畳半境の襖を取り外して使用している居間に入った。 最上階だが風通しがいいのでこの暑さも凌がれる。茶箪笥やテレビなど所狭しと積み立てられているが、ここは自分だち夫婦の寝室にもなっていて、その隣の四畳半を娘にあてがい玄関脇の三畳には母親がいる。テレビは居間にしかないので、母は夜、滅多にテレビを見ることがない。だから飯を食うときには、テレビが一番見やすい席に母親を座らせる。 節子は、ことこと音を立てながら夕げの支度に取りかかった。上向きに寝転がると、涼しい風が頬に心地よかった。漠然、そうしていると、再び頭の中に、ゴミのことが蘇った。 ……わたしの地所にゴミが捨てられる。生まれてこの方、このように不条理な冒涜を受けたことがあるだろうか。コスモスが咲く心の安息の場。それがいつのまにか汚染されているという……。 いつの間にか、彼の心に小悪魔が住み着いて、つい悔し涙がぽろりと落ちた。 ………微かだが臭気が鼻をつく。いや、これは死臭ではないか。どこから漂って来るのだろう。あの黒い塊ではないのか。巨大な風船のように膨ら始めたではないか。ああ、そいつがわたしを襲って胸を圧迫する。何百気圧ともなって押しつける。ああ、胸が苦しい。ああ、もう息が出来ない…… うとうとするうち、奇妙な悪夢にうなされた。 ふと気がつくと、すぐ目の前に、膝を崩した節子がスカートのポケットからハンカチを取り出そうとしていた。 「どうしたの?汗が滝のようだわ」 ぼんやり目蓋を開けると、霞んだ網膜に、妻の、裾の奥の方にある、白い三角の部分が焼き付いた。 流れ出た額の汗を拭う彼女の手は、幼子をあやすかのように優しい。 いきなり、小杉の胸の中に、むらむらと欲情が突き上げた。身内にしみとおるような緊張が漲った、その一瞬、節子の手はあたかも天敵のテリトリーにはまり込んだ小動物のように動きを止めた。 鎌首をもたげ、ぎょろりと辺りを見回す。誰も見当たらない。邪心は見る見るうちに膨張し、どこで、どう襲うべきか。手を引いて浴室に連れ込むか。それとも押入の方が安全か。雑多な考えが駆け巡る。 だが、身体のどこかにやけるような苛立ちたちさ、痛みのようなむず痒さがが感じられ、欲情は直ぐ萎えて衰弱した。疲弊し切った肉体が、束の間、昂ぶった精神を抑圧したに違いない。 ふと、おのれを取り戻すと、この頃、ずっと遠ざけている節子への良心が疼いた。 「一度診てもらうよ」 弱々しく、言い訳のように聞こえたが、白い部分はふと消え、 「いつ行くの?」 節子はハンカチを折り畳みながら夫の目の奥を見た。 「今週中にでも」 「なるべく早いほうがいいわ」 節子は座ったまま、くるりと向きを変え、立ち上がって台所の方へ戻っていった。 医者には行かねばという思いとゴミへの拘わりが頭の中で渦を巻いたが、先ずはゴミ対策が先決だと考えると、先程の節子への思いやりの心情は掠れてしまい、立て看板のことや柵をとり巡らせるための材料や道具のことが次々脳裏を掠めていった。 しばらくして、一家四人は夕飯を取り囲んだが、小杉は無口だった。 夏草は二週間もすれば瞬く間に再生する。 二週間後、小杉が全ての材料を調え(立て看板は既に作っておいた)妻と、子供の弘子すら伴い再び土地にやってきたのは悲壮な思いの現れであった。 この日には草刈りをして敷地の周囲に柵を巡らし、〔ゴミ捨て無用〕の立て看板を立ててしまわねばならぬ。小三の弘子ですら父の気迫を感じたのか、嫌がるでもなく素直についてくるのであった。 材料のうち、切り丸太がすべてトランクに入り切らなかったから後ろの座席に積み込んだ。節子は弘子を前の助手席に乗せ、自分は体を捩るようにして丸太と一緒に乗り込んだ。 小杉は、ゴミが捨てられていないことを祈るような気持ちで車を発車させた。 「大丈夫だろうか」 「何が?」 「ゴミに決まっているじゃないか」 「仮にあったとしても今日手立てをするんだから大丈夫よ。それより先週、病院行かなかったじゃない」 節子は、家がいつ建てられるかも分からないような土地に拘わる夫が哀れでもあったが、それよりなにより、精気を失った彼の身体のことが気になって、あのとき、病院に行くと言った夫を詰った。 「これがすんだら行くよ」 そう言い訳しつつ、今まで、無防備にも、柵すら巡らさなかったおのれの無能さを、彼は心の中で何度も噛み締めていた。だが、今日、この設備が完成さえすれば、胸に巣喰う小悪魔から開放される。 「お父さんコスモス咲いている?」 突然、弘子が安らぐようなことを言った。彼の心は仄々と開放され、娘が可愛ゆくてならなかった。 「まただよ、だけどもう直ぐだね」 娘の一言で、小杉は、家にコスモスがあるという実感が沸き上がり、誇らしい幸福感に満ち足りた。 以心伝心とでも言うのか、妻の節子も何だか浮き浮きした気分になって、 「家のコスモス、花屋さんに出回るのよりいいのよ」 ほとんど野放しで、大して手入れをしているわけでもないのに自慢したい気分であった。小杉は、自分たちが満たされていることを知り、この安らかさは幸福と呼ぶべきものかと思った。 家を出るときの不安や緊張感は次第に薄らぎ、まるでどこかへドライブしているかのような錯覚にとらわれ、人間はどうしてこんなに深い喜びが与えられているのだろうと、つい、ハミングまで漂う始末だった。 だが、呪われたとでも言うのか、その幸せなときは、彼の土地に着くや、一瞬で終わりを告げた。 彼らがそこに立ったとき、再び蘇った草むらの中に、黒いビニールのゴミ袋が二つ何気なく置いてあることに気がついたのだった。 慌ただしく車を降り辺りを見回すと、空缶が二つ、煙草の吸殻が散乱しているではないか。遠くに住んでいる者が、車で通りがかりに捨てて行った違いない。 この土地を買って以来、こんなことは一度もなかったはずだ。小杉は何かを度忘れしたかのように呆然と佇んだままだった。 「ともかく片づけましょうよ」 節子は気を取り直して促したが、片づけようがなかった。勝手に道路脇に置くことも気が咎めたし、まだここに住んでいないのだからゴミの収集日や場所も、どこにあるか分からない。 そのとき、弘子が煙草の吸殻を一つ一つ空缶の中に入れ、敷地の片隅にそっと持っていった。それは健気な行為だった。というより、 幼い少女が、既にこの過酷な運命を甘受しているかに見えた。 小杉は、呆然、娘の仕草に心を奪われていたが、ふと気を取り直し、柵の取り付けにかかった。彼は、先ず、敷地の端の方から木杭を妻に持たせ、木槌を餅つきの要領で打ち下ろした。だが地盤は固く、思うように突き刺さらなかったばかりでなく、ときには杭への的がはずれ、妻の手を打ち砕く危険すら孕んでいた。まさに、身体の弱った彼にとって地獄の責め苦に似ていた。たったの二、三本を打ち込むと、はや地面にしゃがみ込まねばならなかった。 弘子はコスモスの植えてある所の草を一歩一本抜いては寄せた。 ときどき節子が替わって木槌を持ったが、それは、喜劇的というより、むしろ悲劇的な様相を呈した。さすがの小杉も見るに見かね、弱い力を振り絞り、悲壮な面もちで槌を振った。その表情には妖気すら漂った。それでも昼過ぎには斜めに突き刺さった杭が何本か立ち並んだのである。 彼らが、今日中の完成は、とても覚束ないと、諦めの嘆息を漏らし始めた頃、突然、豪邸の老人が、例のニッカーポッカー姿に、地下足袋といういでたちで、一輪車曳いて現れた。 「おうおう一家おそろいで、よう精が出ますことで」 老人は笑みを浮かべながら、彼らが唖然と見ているうところで、ゴミ袋を積み込み、自分の塀の内側に運び込んだ。 「どうもすみません」 再び彼が現れたところで、小杉はぺこりと頭を下げた。節子も続いてお辞儀した。 「うっかりしておるとこういう有り様じゃで。ゴミ収集日まで、しまっておきやしょう」 小杉は恐縮したが、元々ゴミが捨てられるという不条理さの方が我慢ならなかった。それで、つい、 「それにしてもどこのどいつでしょう」 あたかも老人の責任を問うような強い言い方をした。 「そんなこたあ知らんわい」 老人の笑顔が急変し、むっとなった。 「あれいー、ごめんなさい」 節子が慌てて老人に近寄り最敬礼をした。小杉も誤解を受けたと直感し、申し訳ありません、と言った。 「いや、それはええが、柵はこのままではだちかん。手伝って上げやしょう」 「いやいや何とかやりますで」 小杉は俄に手を振ったが、老人は傍らの木槌を取り上げ、さあ、と彼を促し、木杭を持たせた。 老人の木槌の打ち方は手慣れたもんだった。槌は大車輪のように回転したが、一回転するごとに杭の頭に命中し、鈍い音を立てた。それに杭は真っ直ぐ刺さった。彼は、かって土方でもやっていたのか、それとも百姓やっていたのか、何しろプロの仕事ぶりだった。 続けて何本か打ったとき、さすがの老人も息が切れ、ヒヘイ、ヘイと荒い息をし顎を突き出した。そして、つい、犬のようによだれを流した。 だが五時を回った頃になると、杭は既に打ち終わり、今度は道具を使いビニールコーティングの鉄線を張り巡らせるまでになった。それには節子が手伝った。 その頃ちょうどそれを待っていたかのように、小杉が、いそいそと、あらかじめ用意しておいた、立て看板を担ぎ込んできた。 それには〔ゴミ捨てるべからず 地主〕と書いてあった。老人はそれを横目でにらみながら屋敷に取って返すと、草刈り機を持ち出し、後はこれを使って終わりにしてくだされ、と言って立ち去った。 草刈りは極めて容易だった。熊手を取りに車の所に戻ろうとすると、境界塀の所に老人のところのものが立てかけてあるのに気が付いた。 老人の気のききように感心し、再び、思わぬ助っ人で小杉は大いに助かった。全てが終わって、道路の方からつくづく眺めてみると、柵に取り囲まれた自分の地所は、以前と比べ、見違えるほど風格が備わったかのように思われた。それに、立て看板も世間に向け、この地主の威厳を示すかのように突っ立った。 もう、これで何も心配することはなくなるだろう、彼は、口の中でもごもごと呟いた。 かくして胸の中に巣喰う小悪魔が退散するのだ。 以前、余り快く思っていなかった東の老人に対し、小杉は俄に尊敬の念と、親愛の情がむらむらと込み上げてくるのであたった。 借りた道具を返し、お礼を言おうと三人連れだって豪邸の勝手口を訪れた。勝手口といっても普通の家の表門より立派であった。入り口の扉は道路から二メートルほど窪んだ石積みの塀に取り付いていて重々しい唐草模様入りの鋳鉄製であった。インターホンを押すと若々しい女姓の声が返ってきた。 「どちら様ですか」 潤んではいるが、うららかな声であった。 「西隣の小杉と申します。この度はいろいろお世話になりまして」 「扉の把手の部分にお触れになれば錠が外れ扉が自然に開きます。どうぞお入り下さい」 そうすると門扉は、音もなくすっと向こうへ開き、入ると自然にそれが閉じた。 塀の内側は緑で覆われ、地面には苔が生え、しっとりした佇まいの裏庭になっていた。 楓や花水木、柿の木が植えられ、飛び石伝いの通路の両脇には、青木、どうだんつつじ、 柘植などの懽木が埴裁されている。 庭のほぼ真中辺りには、釣瓶を下げた古井戸があり、傍らの柵に朝顔が絡ませてあった。 この辺りは自分たちの土地と分け合った新しい所のはずなのに、古井戸があるは不思議でならなかった。 裏玄関の入り口には、また、インターホンが付いており、それを押すや否や、すぐ、お入りください、と返事があった。恐る恐る中に入ると、広々とした玄関ホールの床が目の前に光り輝き、右側のガラス戸から入る緑の光を反射している。しばらくすると、すらりとした、美しい婦人が現れた。ここの若奥さんだろう。 若奥さんは、にこにこえくぼを浮かべながら、ちょっと首を傾げ、お上がりになりませんか、と、勧めた。 小杉は思わず自分の身なりを振り返り、内股に小便を漏らしたような恥ずかしさを感じながら俯いた。 そこですかさず、節子が前に出て、 「いいえ、作業しての、この身なりでございますから、ご遠慮させていただきますわ。ほんとに、ここのお爺様にお世話になりましてお礼の言葉もございません。ありがとうございました。それでお借りしたお道具類をどこへ置かしていただいたらいいかと存知まして」 小杉に取って代わり、日頃一度だって使ったこともない馬鹿丁寧な言葉遣いで挨拶をした。 「あら、庭先のどこに置いておいてくださつても結構ですわ」 「そうですか、それでは左隅に建っています物置き辺りの所にでも」 小杉夫婦は道具を置いて草々に退散したかった。 それでは、と言って出たところに、若奥さんがわざわざ付いてきた。小杉はもう結構ですらと、何度も頭を下げたものの、以前から、自分と分け合ったはずの所に古井戸があるのが不思議でならなかったので、つい、あの井戸は以前からあるのでしょうか、と、神妙な顔つきをして尋ねた。 「いいえ、浅い空井戸を掘って古井戸のように見せかけたものなんですよ。でも底の方は広く室として使えるようになってますのよ」 若奥さんは、微笑みながら彼の疑問に答えた。 小杉は、あのときの同じ空間が、よくもこのように変貌を遂げたものだと思った。 「私、ずっと昔からのものだと思っていました」 彼は、深い関心を示し、痩せて尖った顎を上下に動かして幾度も頷いた。 「そんなに巧く出来てますか?でも、夜な夜な幽霊が出るようなことはありませんのよ」 彼女は、明るく冗談を言って、最前から緊張している彼らをなごました。言葉使いが明かに東京弁だったから、きっと東京から嫁いで来た人だろうと思った。 「いいえ、そんな」 小杉は恥しそうに俯いたが、彼女の話し方や仕種に、そこはかとなく気品を感じ、自分たちとは別人種のように思えてならなかった。それにしても、随分セクシーであった。大きく開いた胸元にはピンク色した真珠のネックレスが輝き、半袖のブラウスから見える肌は、眩いばかりに白く美しかった。 彼は、一瞬、衝撃的な美意識を持ったが、たちまち、おのれを締め付ける苦痛にも似た憧憬をどうすることもできなかった。 パートでこの地方の方言を使い、汗と埃にまみれて働く妻の肌とは比較にならない高貴な輝きであった。 小杉はいっとき心が虚ろになり、ぽーっとなった。 突然、斜め後方から脇腹を小突かれたかのよう衝撃を受け、ふとおのれを取り戻し、慌てるように豪邸を辞して帰りの車に乗り込んだ。 いつもなら、どうにもならない疲労感が漂うのだが、この日はなぜか爽快だった。 その夜、小杉は、久しぶりに節子を抱いた。 節子は、近頃跡絶えている夫の、不可思議な昂ぶりに疑惑を感じると、俄に妄想が沸き上がり、一体、彼は、何を考えているのだろうかと、身を左右に捩って拒んでみたものの、知らず知らずの間に引き込まれていった。 小杉は、節子が遂に耐え難い小声を出すまで、堅く目をつむり、あの豪邸にいた、若奥さんの白い顔を、頭の中にずっと描き続けていたのであった。 偽りの愛の行為とも気付かぬ放心状態の、妻の傍らで、彼は、虚脱感に襲われながらも、柵が完成したことで自信に溢れ、地主としての誇りが心を占めた。将来、自分はあの豪邸の人たちと同じ住人になり、おつき合い出来る身分だと考えた。 だが、これからそのときまで、ゴミは絶対捨てられないか。その保障はあるのか、という疑問が沸いた。 ゴミが捨てられていると言う事実は、自分たちが軽蔑され、差別されている象徴であって、あそこに住む資格がないということになりかねない。 既に胸の中から追い払われたはずの小悪魔が再び囁いた。あそこの住人になれるという可能性を確かめれば確かめるほど小悪魔が顔を出すのであった。 いや、それはないと直ちに否定する。立て看板に気づかぬ者がいないはずはない。柵も巡らしてある。 だが、それは絶対か。と、再び小悪魔が反抗する。 その応答は際限なく繰り返される。 小杉はいつまでも、そいつの就縛から抜け出すことが出来ず、深夜まで寝付かれなかった。 そのような確信と疑惑の葛藤する一週間の、暑くて長い一日一日は、この不況の最中、 彼の仕事振りにさえ影響を及ぼし、上司の心証を悪くするばかりでなく、自らリストラへの墓穴を掘る結果になりうることにすら気が付かなかった。彼の奇妙な拘りが、病んだ肉体と精神を更に消耗していった。 だが、この一週間後の、休みの日、小杉は内に巣食う小悪魔に打ち勝つべく、悲壮な決意を持って再度土地を訪れた。 緊張を腹の底に感じながら、心のふるさとに立ち戻ったとき、一瞬にしてその確信が瓦解したのは、あの、おぞましい黒色のビニール袋が二つ、そっと、隠されるように置かれていたからだった。 彼は全身から血の気がひくのを感じて、ふるえながら俯いた。 呪われているのではないか。そう思うと、自分で自分に慄然とし、手足がすくむような気持ちになった。今すぐにでも、妻に救いを求めたかった。 彼は呆然、虚脱の状態で立ちすくんでいたが、突然、獣のように呻き声を上げ、車に飛び乗ると、無意識のうちにアパートに立ち戻った。 「……ゴ、ゴミが」 玄関土間に立ちすくんだまま彼は、震えながら節子に訴えた。 「ゴミがどうしたの?あったの?なかったの?」 夫のただならぬ様子から、節子も落ち着かない不安が、傷口の血のように滲み出た。 「どうしてなの?わたしたち。どうすればいいの?」 玄関の、不穏当なざわめきに、老母が、脇の三畳間から戸を引いて、顔、突き出した。 「何かあったのかい」 「おっ母かあ!うちの地所が汚されるんだよ」 小杉は、まるで子供のように、泣き顔で訴えた。 「それは誰かのわるさだよ」 母親は、まるで他人ごとのように言った。 「なんで悪戯するの?あの辺りは立派な人たちばかりが住んでいるところだがね」 節子は、それはないとばかりに訛の言葉で反論した。 「そいじゃあ何か恨みでもあるのだろう」 老女の思案げな眼はいかにも深々しい。 「?…そうか。もしかしたら、あの土地買う直前、買い損ねた人がいるんだわ。その人、 直ぐにでも家を建てたかったかも知れん。……その人の嫌がらせよ。間違いないがね。私たち、あれから一向家も建てず、この二、三年、コスモス植えたり手入れしたりするだけだから、値上がり待つ土地転がしとでも思っているんだわ。それが憎いのよお。そうに違いないがね」 節子は推理を働かせ、早口に喋り立てた。 「看板がかえっていかなんだかも知れん」 「何でえ?」 息子は不審そうに妻を睨み付けた。 「だってそうじゃない。地主とか書いたりしてさあ。まるでこれ見せよがしじゃない。反感よ。反感かったのよお」 「やっぱしねえ」 老母が感心したかのように頷くと、小杉は悄然となって項垂れ、皆も黙り込んだ。突然、 「先ず、そうに違いはあるまい!」 小杉はいきなり確信のある断言をした。思わぬ強い口調であった。 「何としてでも捕まえてやる」 彼はその場で目を据え、考えに耽った。いきなり、何を思ったのか、再び外に飛び出そうとしたとき、急に咳き込んだ。咳はいつもより激しく苦しかった。 「だから言ったがね」 節子に抱えられるようにして居間に入った。一時、咳は納まったので、彼女に氷の入ったジュースを貰い、それを飲もうとしたとき、再び痛いような咳が出た。いつもなら軽い空咳程度なのだが、今度は湿っていて痰もからんだようだった。 思わずティッシュに取った痰にチョコレート色した部分があった。彼は見てならぬものを見てしまったかのように慌てて始末した。もしかしたら肺ガンではないか。唐突に不安が、重く心にのしかかってきた。 だが、咳が止まってしまうと、何の自覚症状もなく、これまでの苦痛は嘘のように消滅した。 それにしても、明日は、会社を休んで、病院で診てもらわねばなるまい。つい今し方、 思いついた、ゴミの始末と、土地を監視しようという考えは、明日の、病院の帰り実行することにした。だが、それまでに老人が片づけてしまうかも知れない。 もしかして、あの若奥さんに、 「お隣は、地所の管理も儘ならず、なんてだらしがないのでしょう」 そんな陰口言われているのではないか、彼は、胸か掻きむしられるように辛らかった。 またそう思う反面、今頃奥さん、どうしておられるのだろう、何をしておられるのだろう、自分のことを少しは思い出していてくれるのではないか、微かな慕情が、彼の胸の中に、捕らえがたい雲か霧のように沸き上がるのであった。 再び思い直して、出かけようかと逡巡する。 迷う心のうち、ふと、将来あそこで住むようになったときのことに思いを巡らすと、彼は、いても立ってもいられないもどかしさが、苦しく胸に迫ってくるのであった。 その日の夜半、彼の地所の片隅に、一匹の黒猫が、捨てられた腐肉の塊を貪り続けていた。 しかも、この様子を一間ほど離れた自然生えの一本松の根元で、じっと窺う人物があった。 異形な黒猫は、ひたすら、その腐肉に全神経を集中している。 一瞬、影が躍って、棍棒が振り下ろされた。と、同時に、獣の断末魔が闇夜を切り裂いた。 「ぎゃあ!」 ひととき静止した影が、再び鋭く動いた。影は、近くに積まれた枯れ草を運び、猫の死骸に被せて、直ぐ、消え去った。 闇夜は、今起きた一瞬の出来事を吸い取ってしまったかのように静まり返えり、さらに更けていった。 病院は休日の翌日とあって混雑を極めていた。それに、初診のものは手続きや病状など記した書類を提出しなければならなかったから、実際の診察は十一時を回っていた。とりあえず胸部レントゲン撮影に行き、写真をもらってから診察室の前で待つことになった。 やがて、小杉さん、と看護婦に呼ばれて中に入ると若いドクターが写真をシャーカステンに張り付けているところだった。じっと覗き込んでいたが、 「これは、ちょっと精密検査が必要ですね」 独言のように言ってから、彼の方に振り向き、空咳のことや、痰の交じり物などと、二、三の問診をした。 「ガンでしょうか」 小杉は唇を白く乾かし、膝頭を震わせながら医師の顔を覗き込んだ。 「いやあ、そうではありません」 「じゃ、何ですか」 ほっとしたものの、不安は極限に達していた。 「今直ぐには言えません。二、三日入院していただき、精密検査をしなければなりません」 「えっ?入院ですか」 「そうです。入院していただかねば出来ない検査もあるのです」 「というと、とりあえず検査だけすることですね」 小杉は、今、会社でリストラのことが話題になっており、長期欠勤すれば真っ先に槍玉に上げられるのは必死だったから、それを恐れたのであった。 「その通りです」 医師は余分なことは言わず、彼を促した。診察室を出てベンチで待っていると、縁なし眼鏡をかけた中年の看護婦が近寄り、彼の傍らに、くっ着くようにして腰を下ろすと、もの柔らかな言い方で入院についての細かい指示をし、では、いつにしますかと言った。 小杉は、彼女の優しさと親しみにほだされ、つい、 「あのう……今のところ、別にイ、それほどのこともありませんしい……」 などと入院日を曖昧にしたが、突然、強い口調で、 「今決められなければ、家に帰ってから、必ず、その日を連絡してください!」 叱りでもするかのように、強く言いつけられた。 彼は急に虫が這うような気分になり、悄然として引き上げた。病院を出ると夏の日差しが和らいでいて、そよ風は秋を運んでいた。 底知れない病気への不安の中に、住み着いた小悪魔がときどき顔を出した。 昼時はとっくに過ぎていたが食欲はなかった。これから土地に行って、ゴミ袋を片付け、見張りをしなければならない。だが、真っ昼間から他人の土地にゴミを捨てに来る不埒者もいないだろう。 彼は遅い昼食で暇をつぶそうと、この近くのうどん屋に入っていった。 そこで五百円の天ぷらうどんを取ったが、腰の曲がった老婆の運んできた天ぷらは、見せかけだけで、中味の海老は、たった二センチほどの小海老、一匹だけだった。それをゆっくり食べたが、時計はまだ二時をちょっと回ったばかりだった。 とりあえず、あのゴミ袋だけは車のトランクに入れて始末しておこう。そう思い直してうどん屋を出た。 小杉の、中古のカローラは、エンジンのかかり具合が良くなかったから、いつもバッテリが気になった。だからキイーを捻るときは、頭を傾け、上目遣いで、微妙な感触を確かめねばならなかった。 胴震いして回ったエンジンは弱々しく、車体は時々きしみ音を出した。彼は車を走らせながら、この時間帯、土地を訪れるのがはばかられた。というのは、あそこの若奥さんに見られているのではないかという思いがあったからだが、もし、ゴミ袋が片づけられているとすれば、自分の無能さを曝け出すことになる。 とりあえずは、土地の前には車を止めず、素通りしてみることにした。ゴミ袋があれば急いで積み込めばいい。もしなければ、出来るだけ遅くまで、遠くの地点から監視しよう、と考えた。 土地の近くまできたのが三時頃だった。なぜか胸の奥がどきどきした。 小杉は、土地の前の道路を横目で通過した。ゴミ袋の存在を確認するつもりが、無意識のうち豪邸の方に気を取られたのでゴミ袋には気がつかなかった。もう一度廻ってきて今度はゆっくり通過した。 やはり、ゴミ袋はなかった。念のため、もう一度やり直したが、土地に多少草は伸びているものの、さっぱりしていた。立て看板も柵にも異状はなかった。 老人が始末してくれたものに違いない。そう思うと、小杉は縮んだ局部を人目に曝け出したかのような羞恥を感じた。きっと、あそこの若奥さん、高笑いしているに違いない。 「貧弱な柵、夫婦友働きでやったけど、何にもならなかったわね。ゴミ捨てるべからず、 地主、というのも、お笑いだわ」 小杉は、奥さんの白い顔を思い浮かべながら、そのような想像をした。 もう自分はこの土地に住めないのではないか。 彼は自虐と妄想に駆り立てられ、体の奥深い場所に暗く激しい失墜感を覚えた。 車を徐行させながら、どうしたものかと煩悶する。検査入院の不安はとうの昔消え失せていた。ともかく犯人を捕え、二度と過ちを侵さないよう厳重注意をすれば、全てが解決するのだ。この際、日はまだ高いが、土地を見張ることが先決だと心に決めた。 道路を隔てた柿畑を通して土地を見渡せるもう一本、東の道路に車を廻して停めた。窓を開ければそれほど暑くはない。しばらく眺めていたが、それらしい気配はまったくなかった。今頃の時間にゴミを捨てに来るものなど、いるはずがない。捨てるとすれば、余程早朝か、暗くなってからだろう。 小一時間ほどそうしていたが、眠くなり、うとうとししていると、車体をコツコツ叩く音がした。 「ちょっと、ちょっと、あなた。最前からここで何しているのですう?」 白髪の老人が不審顔で覗き込んだ。慌てて、流れ出たよだれを右の手の甲で拭いき、 「あっ!すみません」 小杉は頭を下げ、逃げるように車を出した。おそらく、門前に車を停められた家人の困惑だろう。 彼は車を離れた空き地の前に移動したが、その場所からは土地の監視ができなかったので、その辺りを行ったり来たりした。だが土地への監視は怠らなかった。じりじり、時は過ぎていったがそれらしい影は見当たらない。女の子が一人、手提げ袋を振りながら、土地の前を通り過ぎて行った。 時計を見ると、まだ、五時前だったが夕食を早めに採ることにし、急いで車のところに戻った。 食事を終え、再び、慌てるようにして帰って来た頃には薄暮が滲み始めていた。辺りに目を配りながら、道路から人目の付かない、土地の東の方にある柿畑の中に潜り込んで、太い柿木の根元に小ずんだ。 見る見るうちに薄暮は濃くなっていった。 不埒ものは、ゴミが片づけられたことを確認しに来るか、あるいは、片づけられたことを知っていれば、また、捨てに来るに違いない。どっちにしても粘り勝ちだと思った。少なくとも彼がここに来てから夕食の時間以外はそれらしい人物を見かけていない。恐らく、片づけられたゴミ袋の存在だけは確認するだろう。 いずれにせよ真夜中が勝負だと彼は意志を固めた。まったく暗くなるまでに、土地の 前を通過した人は十人程度だったが、そのほとんどは家庭の主婦か子供たちで、自分の土地の看板すら見ていかなかった。後は勤め帰りと思われるマイカーであった。 星明かりもない暗闇となった道路の常夜灯を頼りに、土地の前の道路まで柿畑を前進し、再び木の株に小ずんだ。もうそろそろ土地を覗き込む人物が現われるだろう。 彼は、期待と不安と恐れの入り混じった心持ちで胸をときめかした。 だが近所の、窓の明かりが一つ二つと消えるようになった頃になっても猫一匹現れなかった。 ふと、彼は、昨日発見したゴミ袋は、この一週間の間の、たった一日の真夜中か、早朝に捨てられたものであって、犯人を見つける確立は、十四分の一ではないかと計算した。すると、ばかばかしくなった。 また、不埒ものが、ゴミ袋の片づけられたかどうかを今夜確認に来るという保障もない。 彼は、やることなすこと、自分は駄目男だと、次第に腹立たしさが昂じて、不覚にも涙が出るほど、胸がつまってきた。 諦めて帰ろうとしたが、念のため、敷地の中を細かく検索してからにしようと、用意してきた懐中電灯を手に、柵の鉄線をまたいて入った。 暗闇に丸い光を動かしながら隅の方から見て歩いた。何も替わったことなど、あるはずもない。 ふと、刈り取った枯れ草が散らかっていて、一部分が盛り上がっているところがあった。近寄ってみると異臭が漂った。何だろう?手で払いのけると、 「うわあー!」 光の輪の中に、頭を割られ、口から血を流した黒猫の目が、自分の顔を睨み付けた。 「うわあー!わあー!」 もう一度、彼は絶叫し、腰を抜かした。へなへなとして立ち上がることもままならない。 ガクガクと顎を動かすだけの、血も凍るような無気味な時間が過ぎた。突然、コホンと咳が出た。やっと気を取り戻すと、足をガクつかせながら逃げるように車のところへ戻っていった。 自分でもどうしてこの交番が分かったのか、無意識のうちに駆け込んでいた。 「た、た、助けてください!」 デスクに警官はいなかったが、大声を張り上げた。しばらくすると奥の方から若い制服が現れた。 「どうしました?」 警官も緊張した面持ちで彼の顔を覗き込んだ。 彼は、咳き込み、声を嗄らせ、ことの顛末を、こと細かに説明した。 「あんた、それ、警察の問題じゃないでしょう」 警官の強ばった面持ちが次第に緩んでくると、多少軽蔑した調子を滲ませ、冷ややかに言った。 「なぜです?」 小杉は、簡単にかわされたような言葉が癇に障り、つっけんどんに食いついた。 「いいですか、警察はですよ、殺された猫が捨てられているという事件でですよ、その犯人を探すほど暇ではないのですよ。仮にですよ、真夜中に飛び出した猫を誰かが車で跳ねた、それを空き地に放り込んだ。 そういう事件をですよ、刑事罰でもって取り扱えと言われましてもねえ」 警官もこの真夜中に、何を言っとるか、とでも言いたげな表情で彼を見据えた。 「いや猫だけの問題じゃない!」 小杉は、警官の冷ややかな態度に、憤まんやるかたなく、なお、食い下がった。 「ほかに何があるのです?」 「何がはないでしょう。うちの地所に何度もゴミが捨てられるんですよ。不法投棄されるんですよお。こんな迷惑な話ありますか!」 小杉の言葉は怒気を含んで激しかった。 警官は、不法投棄という言葉を聞いて、ちょっと首を捻った。産業廃棄物ならそういう言葉も当てはまると思うが、ゴミ袋二つでも該当するものかどうか、今、彼の法律知識では如何ともしがたかった。 「何とかするのが警察というものでしょうが!」 警官がぽーうと首を捻っているところへ、小杉は、激しく追い打ちを掛けた。 「あなたねえ、警察にあんたの地所の見張りをやれとでも言うのかね」 警官も、小杉の剣幕の凄さでやや感情的になった。 「そうは言ってません」 「じゃ何です?」 小杉はそう言われると、はたとして、項垂れるよりほかなかった。 「どうしても自分で警備ができなかったら、警備会社と言うものがあるのですよ。自分の財産は自分で守るのが常識でしょうが」 小杉は、今まで財産らしいものがなかったので、改めて財産と言われると、妙な心持ちになった。そのとき彼は、警備会社はこういう場合にあるものだということを始めて知った。 「あなたね、先に柿畑に隠れていたと言ったでしょう、その柿畑あなたの所有ですか」 警官は、怒鳴られた腹いせかどうか、妙な言いがかりを付けた。 「いいえー」 小杉は、目玉を剥き、胸を反らして手を振った。警官に柿泥棒と勘違いをされたのではないかと思った。 「わたし、柿の実など一つとして千切ったりしません。第一まだ青く食べられたものではありませんからね」 余計なことまで申し立てた。 「いや、あなたが柿を取りに入ったと言っていませんが、他人の土地に無断立ち入りは注意してください。念のため、あなたの住所、氏名、生年月日、職業など聞かせていただきましょうか」 警官は黒い表紙の帳面を取り出し、あたかも容疑者を取り調べるかのような態度になった。 小杉はその雰囲気に、これはえらいことになったと、急所が縮み上がり、ここに踏み込んだことを後悔した。 「今後は注意しますで。もうこの件は結構ですから」 腰を浮かし、逃げ腰になろうとすると、 「ちょっと、ちょっと、何か疚しいことでもあるのですか」 鋭い目つきで睨み付けられた。警官は、例え些細なことでも今後の事件の参考にするため記録しておく義務があったからだった。 結局、小杉は、事情聴取のため、住所氏名などまで警察に記録され、不愉快な思いで帰途につかねばならなかった。 自分が悪いことをしたわけでもなく、逆に悪いことをされた被害者であるにも拘らず、 警察に記録されたということの矛盾は無性に腹立たしかったが、先に警官が言った、財産という言葉が脳裏に焼き付いた。 財産は自分で守らねばならないという。当たり前のことだが、えらく彼の心の重荷となった。 交番を出ると、心に住み着いた小悪魔は追い払われ、それに入れ代わって、底知れない焦燥感と、重い黒ずんだ不安が彼の胸の奥に、じっと澱んでいるのを彼は感じていた。 入院しなければならない。警備会社に依頼いするほどの余裕は、更々ない。切羽詰った心境で帰宅したのが午前一時過ぎだった。 「えぇっ!入院って、どういうことお?」 節子は黒猫の戦慄よりもはるかに現実的であった。夫の入院は、リストラ必死という情勢下で、まず、彼がその第一候補になるだろう。 「何がいかなんだの?」 先ず、彼女の脳裏を真っ先に過ったのは、ゴミのことでもなければ、夫の病でもなく、 自分を含めた家族の生活問題だった。 「ともかく、検査のための入院だと」 節子は検査と聞いてほっとした。 「検査だけなんだね」 念を押すように彼の目の奥を覗き込んだ。 「どうもそうらしい」 「いつ入院?」 「家に帰って相談し、直ぐ病院に連絡するように言われたよ。えらく厳しかった」 「厳しかった?」 「曖昧にしとけんということだろう」 再び節子の目の中を一瞬不安が横切った。目の表情が虚ろで落ち着きがない。 翌朝、朝食のとき、義母を交えて相談したが、そりゃあ早いに越したことがないということになり、彼は会社の都合次第だが、病院へは自分で連絡するからと言って出勤して行った。 出社早々、会社の総務部の担当課長は、 「そりゃあいかんなあ、君イ、気イつけてくれよ」 と、労ってくれたが、そのすく後、 「明日から休んで結構」 課長は横を向いたまま即決した。 小杉は、一番恐ろしい、胸の底にありながら、しかも誰も決して口にしようとはしない不安に襲われた。 数日後、彼は六人部屋の、一番廊下側にあるベッドに横たわっていた。 そこは出入り口の近くだったから、仕切りのカーテン越しに、トイレに立つ患者など、 人の気配が絶えることはなかった。その上、壁の直ぐ外側は廊下だったので、真夜中の緊急時に医師や看護婦の走る様子が手に取るように分かった。ときには、看護婦が、先生、叙脈が十一と限界で、もう駄目だと思いますが、などと囁いていることすら聞いたことがある。 初診のとき、医師は検査のための入院と言ったが、もともと、引き続き手術の行なわれることが予想されていた。むしろ手術のための検査といってよかった。それは節子が医師に呼ばれたとき決定的となった。 義母から新しい勤め先である機械工場に連絡が入ったのだ。病院に駆けつけると、担当の外科医は、 「率直に言いますが、ご主人、肺ガンです。進行度Uで、かなり大がかりな手術が必要でまり、右肺を全部摘出します。手術ができるということは、長期生存の可能性が大 きいと言えます。しかし、予後は、今の所なんとも言えません。いずれにしろ後遺症も考えねばならないでしょう。出来るだけのことはいたしますから、ご協力願います。念のためですが、ご主人には、病名を中葉症候群として、ガンという名は使っていません。中という字に葉っぱの葉です。肺に炎症が起こり、無気肺となって縮んでしまう病気です。肺切除という治療法も似ているのです」 若いハンサムな外科医は淡々と述べたが、ここに至るまで放置していた彼らの無神経さに、怒りすら感じているかのようだった。 「それで入院期間はどれぐらいになるのでしょうか」 節子はガンと言われ、一瞬死の恐怖に怯えたが、夫の病状が今直ぐそれにつながるというわけでないことにほっとした反面、今度は彼がリストラの対象になるのではないかという新たな恐怖が蘇った。 「一カ月ぐらいだと思いますが、すぐ社会復帰と言うわけにはいけません。リハビリなどしていただきながら経過を観察します。ですから普通の生活に戻るには三カ月はかかるでしょう」 「三カ月ですか」 節子は、愕然として項垂れた。と同時に、もはや、土地は手放すしかないだろうと考えた。だが夫の心情に思いをやると,どうすればいいものやら、うちひしがれて喘ぐような惨めな気持ちになった。 「この頃、お隣、草刈りにも来られないわね、どうされたのかしら」 豪邸の若奥さんが、いつもの通りの週末、一家六人と夕食を採りながら、ふと口に漏らした。 「そういやあ、そうだね。草ぼうぼうだよ」 銀行勤めの夫が相槌をうった。 「あんなに一生懸命やってらしたのに」 「病気にでもなっているのじゃないか。そういやあ、親父さん、この間、咳してたけど病院行ったかい」 倅はふと思い出したかのように老父を気遣った。 「心配ないよ。おまえ」 息子の心配顔に、婆の方が直ぐに答えた。 「どうだったの」 「徹底的に検査したそうだが、どこも悪くないと言われたそうだよ。この分だと九十歳ぐらいは生きられると太鼓判押されたんだと」 婆は、爺の丸い、皺だられの顔を振り向き、得意気な顔してみせた。 息子は、ほっと顔を緩ませ、 「親父さん、ま、一杯いこう」 親父の好きな、地酒の入った素焼きの徳利を突き出した。爺は、おう、と言ってそれを飲み干し、息子に返杯した。息子は会釈し、ちょっと口をつけてから、 「それにしても、お隣さん、草刈りぐらいはやってもらわんと不衛生だわなあ」 息子は、親父が隣をときどき手伝ってやっていると聞いていたので、先の妻の話を蒸しが、爺は、無口だった。 「でも、すすきが満開だわ」 嫁は無邪気なことを言った。 「すすきはいいけど、あれだけ草が生い茂るとねえ」 「そうねえ、コスモスが可哀想だわ」 嫁は、ふと草刈り機を返しに来た、親子三人の、あの心細そうな顔を思い出した。父親の、頬のこけた青白い顔、母親に寄り添い、隠れるようにしていた女の子の不安気な眼差し。彼らの、おずおずと立ちすくんでいた姿が不憫に思えてならなかった。 「連絡取ってみたらどうだろう」 息子は妻の思いを汲み取ったのか彼女を振り返った。 「いや、そのうち、爺様が刈られるで」 婆は、そう言いながら爺の顔を横目で睨んだ。 爺は、うん、そうだなあ、と、気のないような言い方をした。 小杉は、十一月の始めに退院することになったが、その日は、予定より一月も遅かった。急な片肺呼吸が彼の身体に深刻なダメージを与えたからだった。廊下の手摺に掴まり、一歩、一歩、トイレに行くにも息が切れた。医師も通常は、こんなことはないはずだと首を傾げるほどだった。 会社を休んで二月余り経ったのだが、まだまだ出勤どころではなかった。週に一回のリハビリと、月に二回は、検査に行かねばならない。 節子が、彼の中古のカローラに義母を乗せて迎えに来たのはその日の午後になってからだった。 本当は朝からでもよかったのだが、節子の工場の都合があったので、小杉は午前中の時間を持て余していた。土地のことが気がかりでたまらなかった。 黒猫の死骸は、西の老人が片づけてくれただろうか、草は刈り取ってくれただろうか、 そんなことばかりを考えて過ごしていた。 節子が病院に着いたとき、小杉の喘ぎ喘ぎ整理した荷物が山のようにあった。老母も、 腰を曲げ、前屈みになりながら両手に荷物を持って車に運び込んだ。 トランクに入り切れなかった荷物は、後ろの座席のほとんどを占めたから、老母は荷物 の中に身体をねじ曲げ、間に挟まるようにして乗らねばならなかった。 小杉が助手席に乗り、節子が発車させると、すぐ、 「まず土地に行ってくれ」と、言った。 節子は、既に、頭の中に土地は処分しなければならないだろうという考えがあったが、 夫に従った。 「着いたら降りてみる?」 まもなく地所へ行く曲がり角にさしかかったとき、節子は彼の心を思いやった。 「そうしてみようか」 そうは言ったが、このやつれ姿を、もしあの若奥さんに見られたらという不安が過った。 「いや、今日は通ってみるだけにしょう。今度また来たときにするわ」 小杉は言い直してからあの若奥さんの顔を浮かべた。 今頃あの豪邸の一室で、何をしておられるのだろう。秋の摘み草で、お花でも生けておられるのだろうか。 寂然となった心の底から、ふと、恋しさがむらむらと沸いて出て、彼は思わず涙ぐんだ。 節子は土地の所にさしかかると、車をゆっくり走らせた。小杉は車の窓を開けず、ガラスに額を押しつけるようにして土地を見渡した。豪邸の高塀を背景に、生い茂った雑草と、すすきの中に、ぽつんと、立て看板の上の部分を見せていているだけの風景だった。 ゴミ捨て、という字までしか読めなかった。ふと、あの草むらの中に黒猫の死骸がまだあるのではないか、一瞬、あの悪夢のような忌まわしい恐怖が蘇った。 「節子、お前ちょっと降りて見てきてくれないか」 土地の前を通り過ぎてから、小杉はそれを見てくるよう言いつけた。 「どこらなの?仮にあのときあったとしても、お爺さん片づけてくれているわよ」 節子は内心ばかばかしいと思った 「一本松の付近だよ」 豪邸から見えないところに車を停めると、彼女は嫌々ながら車を降り、土地の方へ歩いて行った。 誰かに見られているのではないか。つい、気が焦り、自分たちで囲った針金の柵に気がつかず、それに引っかかり、どっと、前に倒れた。その拍子にスカートが捲れ、太腿が丸出しになった上、ストッキンクが破れた。稲妻のような速さで周囲を見回し、慌てて繕うと、直ぐ、立ち上がった。恐る恐る一本松付近に近づき、草を手で押し開けながら見て廻ったが、それらしき物は何もなかった。ふと、この土地の荒れようが、豪邸の人たちに対し、俄に恥ずかしくなり、片腕で顔を隠すようにして車に立ち戻った。 「猫の死骸なんかあらせんがね。それより身体がまだ回復していないのだから早よう帰らんと」 節子は、転んだ恥ずかしさと、苛立ちに、つい荒々しい口調になった。膝頭の破れたストッキングには血が滲み出て、ずきずき痛んだ。 「やっぱ隣りが片づけてくれたに違いない。だが、あれだけ草が伸び放題ということは、 最早、爺さん諦めたのだろうか。すると、あの草むらに何が放り込んであるやら分かったもんでない。丹念に調べんと」 「あんた、何いっとるの。今病院から出てきたばかりだというのに。今度来たとき調べればええがね」 「そりゃあ節子さんの言うとおりだに」 老母が荷物の中から呻くような声を出した。 小杉も諦め、この件は次に出直そうと考え直した。 家に着いたとき、四階までの階段を上がるのに節子はもちろん、老いた母親の力すら借りねばならなかった。だが戸が開けられ、三尺四方の玄関に立ったとき、小杉は、郷愁に似た胸のしめつけられるような見知らぬ感動で一杯になった。 節子のパート勤めは、直ぐその日の夜から続いたが、彼の一週間は瞬く間に過ぎた。 彼が会社を休んでいる間の給料は、四割減らされたので、それを補うため、節子は朝七時に家を出て、夜の帰りは八時過ぎだった。仕事は小さなボールトに、一個一個ナットをねじ込む手作業だった。 老母は六時に起き、電気釜で飯を炊き、味噌汁と昆布の佃煮と漬物をしつらえた。昼は前日の夜の残り物だったが、夜は、節子があらかじめ買って用意してある干し魚とか、たまには生物で、豚の細切れや、冷凍マグロで賄った。娘の弘子のおやつは、いつもあんパンか、かりん糖だった。 丁度、一週間が経ったその日の午後、会社から総務課長が彼のアパートを訪れた。 老母が慌ててお茶の段取りに取りかかったが、居間の座卓に座るやいなや、能面のような表情で、直ぐお暇しますで、と言ってから、いきなり、 「病気中の君に対し、残酷な言いようだが、知っての通り、我が社もリストラを余儀なくせざるを得ない状況にある。このまま放っておくと、倒産は必死だ。この際、長期欠勤者から退いてもらわなければならない。再就職のことについては君の健康が回復したとき、また相談に乗ることにしよう。退職金は既に前借りで支払われている。これはほんの寸志だ」 帰す言葉のない小杉の前に、のし袋が置かれた。 「じゃ、これで失礼する」 課長は母が用意した渋茶にも手を着けず、そのまま、何か悪いことでもしたかのような素振りで、慌てて帰ってしまった。屈服を、何が何でも受けねばならぬ、息の詰まるような圧迫感だった。 小杉は、突然、奈落の底の落ち込んだかのような深い絶望感に捕われた。そして、この通告は、神の摂理か、と思った。 体中から力が抜けたような気持ちでぼんやりしていると、ホラ貝のような脳裏に、ふと、あの豪邸の、若奥さんの白い顔が、すうーと過ぎっていった。 「土地、処分するよりほかに手はないわね」 節子が小杉から事情を聞いたのは、勤めから帰ってまだ夕食を採る前だった。妻を待ちわびるようにしていた小杉だが、意に反した彼女の言葉は、無惨であり、あたかも自分の胸に五寸釘を打ち込んだかのような激痛になって響いた。 「何い!処分だと」 一瞬、すざまじい怒りが眉のあたりを這った。 「じゃあ、どうするというの」 節子は黒猫の話を聞いたとき以来、土地の管理は、最早手に負えないと諦めていたし、 夫がガンと言われたとき、既に、これは当然のことと考えていた。 だが彼の場合、妻に具体的な何かを期待していたわけではないが、自分の生き甲斐とも言うべきものを、平然と否定されたのが我慢ならなかった。 「俺がなんとかする!」 どうにもならないことが分かっていても、そう言わざるを得なかった。 「何とかするって、どういうこと?」 疲労の極限にいた節子の言葉にも刺があった。 「何じゃその言い方は!」 「だって、どうしょうもないじゃない」 それは意識の上では充分わかっているのだが、あからさまに言われたことが我慢ならなかった。だが土地を手に入れた時点から最早彼の深層に、土地はおのれの何にも代え難い心のふるさと、となっていた。 「少しばかり働いているからと言って、でかい口を叩くな!」 「何よ、あんたこそ馘になったじゃない」 「何を!」 小杉の怒りは再び激しい波のように彼の全身に拡がっていった。思わず、目の前の、夕食の茶ぶ台に両手を掛けてひっくり返した。 「何てことするの!」 節子はびっくりして飛び退き、彼を見つめた。 ただならぬ騒ぎに、隣の三畳にいた老母が目を剥き、飛び出してきた。と同時に、節子が両手で顔を覆い、玄関へと突っ走った。娘の弘子が襖を開き、顔を突き出し、直ぐ引っ込めた。 一瞬の静寂は、彼の勃然と沸き上がる怒りと、不安の入り交じった複雑な緊張にみなぎった。まもなく、激しく鉄扉を閉じる音が伝わった。呆然と母が佇む。 取り残されたかのような母と息子。 だが、老女は気を取り直し、散乱した食べ物を片づけ始めた。 彼は、憎悪が次第に噴き上げてくるのを押さえることが出来なかった。ここにあるすべてのものを、破壊尽くしてしまいたい気分であった。自分の心を踏みにじった妻が許せなかった。 コスモスの叢る芝生の庭。そこに寝転び、透き通った青空に思いを馳せる。そういう空間は、ここ住んでから、十数年来の、生きる希望でもあった。 しかも直ぐ隣には、夢でも見得ぬ憧れの人がいる。週に一度、いや月に一度でいい。彼女の微笑みが得られるなら、傷んだ心も癒やされるだろう。 妻は、自分を無視し、平然、それを処分するという。 すべての決心をくつがうしてしまうような堪らない憂鬱が、彼の心に迫ってくる。 「お前の気持ち分かるが、今、節子さんがいなかったら、わたしたちどうなるの」 突然、母が話しかけた。 「………」 ふと現実に引き戻されると、緊張が俄に緩み、妻への憎しみは、次第に濃霧の森に踏み込むようなある種の不安となった。 「はよう連れ戻してこんかね」 老母は、息子の心を読みとったのか、そう言いながら節子の食事を作り直しにかかった。小杉は、おのれの魂を何かに預けているかのような気分であった。 節子は富山の実家に帰ってしまったのではないか。それとも、どこかで自殺でもしているのではないか。 経済負担と、おのれの欲望の狭間に喘いで、節子は身動きできなくなってしまったのではないか。 彼は、まだ充分回復したとはいえない身体をふらつかせながら、母親の言いつけどうり玄関を出た。 階段の手摺に掴まりながら、一段一段、胸の傷痕をかばうかのように、ゆっくり降りた。 外は、向かい側の棟の窓の灯りが歯の抜けたように消えていて、それがなぜか不気味に思われた。 目を据え、辺りを見回す。 節子は、透き通った星空の下、直ぐ前広場の、常夜灯の下にあるベンチに、ぽつんと項垂れていた。ほっとして、近寄り、 「悪いことをした」 率直に謝った。謝ると涙が滲み出た。 「戻って食事してくれよ。頼むから」 「………」 「のし袋に十万円入っていた。あれで君の欲しいもの何でも買ってくれよ」 小杉にとって、精一杯の機嫌直しだった。 「それどころしゃないでしょ!」 節子はヒステリックに言葉を突っ返した。 「なんで?」 「土地代に決まっているじゃない」 「?………」 小杉は、突然、節子が自分の気持ちが分かってくれたような気分になり嬉しくなった。 彼は、既に土地の管理は無理だと言うことは充分分かっていたのだが、これまで気持ちが吹っ切れないでいただけだった。 というより、彼女の言葉が、彼の深層から現実を引き戻したと言った方がいい。 「もう諦めたよ」 「えぇっ!」 彼女は、下から夫の顔を覗き込み、驚愕の表情を見 せた。 「もう諦めるより仕方がないじゃないか。所詮、あそこは俺たちの住むところじゃない」 「……だって」 割り切っていたはずの気持ちだが、夫の言葉で再び悔しさがよみがえり、節子の未練が、線香の煙のように糸を引いた。そればかりでない。ガンという病を背負い込んでいるとも知らぬ夫の思いを、無惨にも断ち切った自分が許せない気持ちだった。 「豪邸の老人、税金のことは考えると言っていたし、儲けるなら今だとも言った。売れば借金を返済し、新しいマンションだって借りられる。俺も回復すれば、何とか仕事もあるだろう。いずれにしても、ここに住むのは、うんざりだ」 小杉は、胸の中に溜まったゴミを吐き捨てるように言った。 「あなたあ!ごめんなさい」 節子はわっと泣き崩れて彼の胸にしがみついた。 豪邸の隠居部屋で、呼び出しのホーンがホロホロと丸い音をたてた。 婆は腰を上げ、小走りに行って電話台の受話器を取り上げる。 「あら、お義母さん。とても美味しいハーブ茶いただいたのよ。今からそちらに持っていって煎れるけどいいかしら?」 「そうかい、そりゃあ、ありがたいね」 婆は受話器をおろし、爺の傍らに寄り添った。婆は何かない限り、いつも陰のように爺の側にいる。 母屋と隠居所を結んでいる、折れ曲がった渡り廊下を通るときは、南側の本庭園と釣瓶井戸のある東の裏庭の両方が眺められる。 本庭園には大小二つの築山があり、その間に石組みで囲まれた池が淀んでいる。大きい方の築山は、今、紅葉と、どうだんつつじが真っ赤に色づいていて、背景の濃緑と色彩の調和を醸し出している。小さい方は羅漢槇が主木となっており、その裾まわりには白ヒイラギや、躑躅などの灌木が植え込まれ、少し離れた傍らに六尺の春日灯籠が立っている。 灯籠は夜になると灯が点る。どの築山にも苔が這い、飛び石伝いで池を廻れるようになっているが、あちこちに配された置き石は、いかにも古めかしい。 五分くらい経つと、嫁がお盆に品を乗せて現れた。彼女は、爺婆の居間となっている座敷の勝手を心得ていて、隣の予備室から、湯ポットと茶道具を持ち出し、持ってきたハーブを煎れると、亀屋の和菓子を添えて差し出した。 「お爺ちゃん、先に来られたお客さん、どこかで見たことのある奥さんだったと思ったけど、あの方、お隣の方じゃありません?」 嫁は、先刻、裏門から訪ねてきた節子に、義父への面会を求められ、母屋の応接間に通したのだが、以前、草刈り機を返しにきた親子三人のことを思い出した。 それにしても、あのときの節子とは、まるで人が変ったように窶れて果てていた彼女の強ばった表情が、不審に思えてならなかった。 「……うん」 爺は、そう言ったきり何も言わなかった。。 嫁は、いちはやく彼の不機嫌な心を読みとったのか、それ以上追求せず、直ぐ話題を変え、 「このお菓子、亀屋から届けてきたの。新製品ですって。美味しいわよ」 そういうと早々に立ち去った。 爺婆はそれを広縁に持ち出し、紅葉を愛でながら食べた。爺は、秋は深まったなあ、と嘆息の言葉を漏らした。食べ終わると、巾、六尺ほどの沓石に降り、庭へ出た。秋の空は青く、透き通るように高かった。 「そいで、ついに諦めたか」 影のように連れ添っている婆が嗄れた声で尋ねた。 「……うん、とうとう諦めようったわ」 爺がぽつんと、言った。 爺は、ずっと遠い昔の、屈辱と貧困と、困ることが人生みたいだった少年の頃のことを思い出していた。 (完) |
田尻晋
2011年02月18日(金) 15時39分51秒 公開 ■この作品の著作権は田尻晋さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.1 OZ 評価:50点 ■2011-03-06 22:10 ID:4MvGQJq3VCA | |||||
読ませていただきました。 田尻様の作品は本当におもしろいですね。前作の「死顔」同様、一気に 読みました。前作よりもサスペンス的要素が強くなりその分メッセージ性が 薄くなったような気がしますが物語として展開を追う楽しみと、相変わらず の迫力があってとてもおもしろかったです。 田尻様の作品では時間(年齢、季節、現在、過去)と場所(社会的・物理的 居場所である家、情景等)をはじめ、登場人物の心情から容姿まで、 あらゆる作品の細部を作者様が把握しているようで、文章が現実を押し切る ぎりぎりのところまで来ているように感じられます。現実を押し切る、 というのは自分でも非常に曖昧な表現だと思いますが、客観的な世界と 作者様の心で捉えた世界が幻想のように離れることはなく、しかしながら 簡単に折り合うこともせずに、せめぎ合っているというような印象とでも 捉えていただければと思います。現代人の精神的孤独を生々しく描く一方で 美しい情景描写と時折見られる人間への信頼が揺らぎつつも浮き上がり、 一種のグロテスクな世界ができあがっていると思います。そしてそれが 読み手(というより私)をひきつけてやみません。 是非書き続けてください。次作も楽しみにしています(読むの遅いですが)。 なお、非常に個人的なことで恐縮ですが、背景に色がついていると、 目が疲れてしまいます。特に作者様にこだわりがなければ、背景は白に していただければ多くの方にとって読みやすくなるのではないかと思います。 野暮なことを書いてしまってすみません。 |
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