死 顔 |
★ 死が見えなくなった社会の中で ★ 仄暗く灯されていたスタンドが、突然明るくなると、いきなり掛け蒲団を剥がされ、背後から抱きすくめられた。康子は、反射的に裾を掻き合わせ、鞠のようになって縮こまった。 「何ですよ ! いきなり」 目の前の障子に、まるで獣が覆い被さっているかのような、無気味な夫の影がうごめくのを見て、一瞬、康子の背に不思議な恐怖が流れた。 この唐突な欲望は何なのか。混乱が彼女の脳裏に渦を巻いた。既に三ヶ月も跡絶えていた思いもかけない迫り方だった。 沸き上がった疑問の解けぬまま、煉り続けていた不満の心理が先に芽生えて、彼女の心を一層、頑なにした。 「いけませんたら」 「………」 湿った息遣いを耳もとに感じながら依悟地になって更に身を縮めた。 ずっと放っておいて今頃なんですか、という期待の滲んだ拒絶だが、かって感じたことのない、この異常なまでの昂ぶりは何だろう。薄々感じていた疑惑が、一瞬、彼女の脳裏を掠めた。 ……これは?……もしかしたら、想いを寄せでもしていた、バーかどこかの、女の身代わりのっもりでいるのじゃないのかしら。…… 暫く弧閨におかれていた康子の妄想が唐突に沸き上がると、まるで魂を何かに預けているかのような不安な気持ちに駆り立てられた。 いきなり、生暖かいぬめりが彼女の項を這った。 それは身震いするほどの嫌悪感だった。あたかも目に見えない毒物のように、生理的な作用さえも及ぼしてくる最も耐え難い種類の嫌悪であった。 定年間近で、間もなく還暦を迎える夫の石本だが、一回り近い年下の康子にとっては、近頃の彼は不満だった。しかし、自分もそろそろ五十路だからと、古風な思いに捕われて、最近始めた水彩画の世界に魅かれている矢先、取って付けたように、目も眩むばかりの交わりを強いられて、否応なく陶酔にいざなわれてしまうことは、これまでにもしぱしばあった。だが今夜の夫の振舞に、康子はかってない異常さを感じていた。きっと何かがある。ふと、康子は淵のように淀んで、不吉な予感を背筋に感じた。 「……だめったら、だめですよ」 いつのまにか、最初の期待は影を潜めてしまい、うすら寒い疑惑が彼女の心を占めた。夫は、貝のように閉じた妻の身を開かせようと、顎を突き出し、鼻の穴を膨らませ、額に脂汗まで滲ませている。 むし熱い体温、吐きつけられる言葉のない湿った坤きと唾液のぬめり。夫は獣の妖気を漂わせながら必死になって彼女を揺さぶった。 やがて、吐き気に似た嫌悪と猜疑が、彼女の心の中で、ぬるぬると青灰色で織りなされた。 「いや ! ……いやですよ ! 」 ついに、憤怒に似た激情が身体の中に突き上げてくるのを覚えた。青灰色の塊は彼女の頭の中で、あたかも汚物が詰まった大腸のように、ぐねぐねと蠕動した。妄想が疑惑を呼び、勃然として焼くような嫉妬が康子の胸の中に固くこびりついたのだ。 だが、彼女の激しい抵抗は、彼をかえって興奮のるつぼに巻き込み、サデイステイックな気分に駆り立てた。 とはいっても、初老の彼には逞しい腕力などあるはずがない。あたかもカマキリが獲物を片足で抱え込み、もう一方でいたぶるさまに似ているところがあった。 動作に敏捷さはなく、スローなのだ。おのれを失い、硬直した顎は逆三角に尖った上、緊張した顔面は青ざめている。 いつものやり方は、年相応のそれらしい愛の言葉がないでもなかった。 「ねえ康子、お前を見ていると何だかほのぼのとしたような気分になるがどうしたことだろう」 などというようなことを呟いたことがある。 だが今度の場合、一言の言葉はなく、いきなり、掛け布団を跳ね上げるやら方であった。この不相応な行為は突然変態とでも言うのか。 暴行は飽くことなく繰り返された。荒い息遣いと、坤き声の続くうち、カマキリは、( もちろんこのとき彼は日常使うトンボ目型の眼鏡を外していたのだが ) 痩せた手足を巧みに使って、ついに康子を、上向きにひっくり返してしまった。 素早く馬乗りになったかと思うと、いち早く妻の両手を押さえ込み、すぼめた口を下にずらしていき、襟からはみ出た彼女の乳首に吸い付いた。 康子は屈辱と養恥に堪え切れず、思わず悔し涙が滲み出て、水晶の玉ようにこぼれて落ちた。 ふと、それを見た夫は、より性的に昂揚させられて、押さえつけたまま更に頭部を下へ下へとずらしてゆき、妻のあらぬところに唇を寄せてきた。 両手と両腿が固定された状態の彼女は、あたかも幼女が嫌々でもするかのように、ただ首を振るだけで、どうすることも出来なかった。 もはや手脚が癖れてくるほどの限界に達し、憤怒の絶叫が屈辱の空間を切り裂くかと思われたとき、どうしたことか、 「ねえ、許してえ、お願い」と、康子が言った。 深刻とも思われない、まるでセントヘレナにでも流されて行きたいようなやるせない言い方だった。 苛まされ続けている肉体が、無意識下に、沸き立つ嫉妬と憎悪の感情を、密かに、そして緩除にねじ曲げて、マゾヒティックな気分に変化させたのだろうか。康子は暴漢に犯されているかのような、やや後ろめたい感覚に捕われた。 彼女の無意識が暴力を認めたのだ。 意識下でマゾなど認めたことのない康子だが、この無意識下では、自分が苛まされてひどい目に遭っているなど、思いも寄らないのた。彼女の抵抗は、抑圧された願望 ( 欲望 )の隠れ家だった。 「ねえ、許してえ、お願い」 「? ………」 一瞬、夫は戸惑って、伏せた三角の顎をちょっと上げ、辺りをきょとんと窺った。が、すぐ、吸い付くように張り付いて、痩せた腕に力を込めた。 「……ねえ、許してえ〜」 言葉が次第に細くなると、強ぱった身体の力も頼りなげで、ただ、見せ掛けだけが突っ張ているだけのようにも思われた。先の憎悪にたぎった眼差しはいつのまにか、うっとり、どこかを見ているようだ。 やがて、康子の身体が弛緩してしまうと、解けたようになって夫に密着した。 妻の心理の変化に気づかぬまま、突然柔らいだ肉体を遮二無二むさぼり始めているうちに、からだの芯から凶暴な力が湧き出して、崩れた康子を腿の上に抱え起こし、再び新たな行為をした。 康子は、それに応えたかのように自ら進んでとった、あられもない姿態が堕落しているようで、それが快く感じられるのが、なんだか空恐ろしいと思った。 彼女は、自由になった夫の力で、いくらいたぶられてはいても、眉の間を少し寄せるだけで、その表情は、身体の芯の悦びに身をまかせているのではありませんよ、というふうにもとれた。 しかし、悦びを告げる声を歯をくいしばって洩らすまいと、懸命になって堪えていたが、やがて、彼女の小刻みな最後の息は、次第に強くなり、速くなって引き伸びた。その直後、あ ! という短い声が、微かに伝わって夫に伝わった。 抑制された妻の喜悦を耳にしたとき、彼の脳裏に、一瞬、あの女の白い面影が幻のように通り過ぎていった。 その幻影が掠れていく過程で、彼は目的を果たし、のちすぐ、虚脱感に襲われた。 康子はかって経験したことのないやり方に、ただ、恍惚となって肢体を横たえた。先の妄想の中で激しく燃え盛った嫉妬はけろりとしてしまい、滲み出る愛執に、心がほのかに暖まり、ほんのり微笑すら浮かんだ。 むろん康子は、今し方のあられもない自分の行為を意識していたわけでない。最初の抵抗は覚えていたが、いつのまにか、混沌とわけの分からぬうち、放心してしまったに過ぎない。その気持ちのいい加減さを、夫は、ちゃんと見抜いていて、このように仕向けたのではないか、と、自分の心の奥深いところを覗かれていたような気がして差恥を感じた。 だが、一方、もしかしたら、これが新しい彼のやり方なのだろうかと思ってみたりした。束の間の妄執から解き放されて、彼女が身仕舞いに立ち上がろうとしたとき、極めて唐突に、 「……明日入院だよ」 地の底に潜ったような陰欝な響きが漏れて出た。 「ええ?」 「………」 「いま何か言った ?」 「検査のためすぐ入院しろとさ」 「なんの検査なの」 康子は、夫の言葉の中に、秘められている先の行為が、彼の自我防衛の心理で生じたものであるなど、全く知る由もない。彼の激しい葛藤による、ある種の代償行動などとは考えもおよびつかないことだった。 それどころか、自分には喜ばしい彼の、新しいやり方と考えついたのだから、検査、入院などという言葉は先の行為と、どう結びつくのか見当もつかなかった。 「どうして検査までするの?」 「………」 夫の沈黙は、自分への思いやりだと思った。それほどまでして衰えた機能を回復させようとする彼が愛しく思えてならなかった。甘えるように夫の胸に顔を埋め、快い倦怠の中で康子は思いを巡らした。 再び、身仕度に裸の胸を隠そうと、明るいスタンドの灯を落したとき、 「……大腸の中に何かが出来ているかも知れん」 いきなり訳の分からぬことを言って、ぷいと背を向けた。 「ええ、何、どういうことなの?」 ほの暗い灯の中で、痩せた夫の肩に手を掛けた。 「………」 彼は、黙ったまま、不快な想像を掻き消し、不安な想いを胸から追い払うかのように努めていた。 異常なほど満ち足りていた密やかな愉悦の空間から、一転して、まるで、急に天気が曇り出したような心細い雰囲気が漂った。 康子にとって、戯言のようにいう夫の言葉が、後、重大な帰結を辿るなど思いも寄らないことだった。 「石本部長、専務がお呼びでございます」 オレンジレッドの口元は、笑みを浮かべてセクシーだが、瞳は知的に輝いて怜悧である。役員室の女性秘書が彼のデスクの前に来て声を掛けた。石本は直感的にその意味を理解した。 定年退職後の再就職のことである。内々、直属の役員から知らせられていたからだ。本来ならそのまま本杜で取締役就任が噂されていたのだが、不況による機構改革で、やむなく傍系の子会杜の役員として転属になると言うことだった。 専務は予想通りのことを言った。 「石本君、君のことだがね。本日役員会で決定したのだが、私としては君を本杜から追い出すのは身を削られるように辛い。だが、君の転出先は我が杜第一の要になる。ま、頑張ってくれ給え。本社の後始末がついたら、一ヶ月ぐらい、奥さん連れて海外に出かけるがいい。君、奥さん若いんだろう ? 少しは、まともに楽しましてやらなくちゃあ」 専務は優秀な彼をねぎらった。だがその一言は、鞭の過酷さと、香り高い飴の甘味を含ませて、彼の泣き所を突いたものだった。それが分かっていながら、石本は痩せた身体の血が沸き立つのを自覚し、昂揚した気分になって直立した。 社を七時過ぎに出て、このまま家に帰るか、いつものところへ寄るか迷った。持続している昂揚をそのまま康子のところにもっていく前に、今少し、この余韻を味わいたかった。というより、潜在的な欲望の満たされる可能性を、一刻も早く、少しでも高めておく必要性があったからだ。 バー〈ちかこ〉は彼らが行き付けの常連客の多い店である。表通りを一本裏に入った比較的新しいビルの地下一階に在った。それほど広くはないが、一流のデイザイナーに設計させたというだけあって、質の高いインテリアが、そこらにある普通のバーとは格の違いを表わしているかに見えた。だがクラブ形式ではない。流している曲も、ほとんどがクラシックだ。 石本は、アンティーク調の扉を押して、入るや否や、ほんの一瞬、誰の目にも気づかれない速さで、まず、ここの女主人の存在を確認しておいて、おもむろに周囲を見回した。客は七分くらいの入りである。 ゆったりしたカウンターに、三っ、四つ空席があった。ここの若くて、オーナーでもある知佳子が、石本に見られた直後、彼を見つけて駆け寄った。 「お久しぶりね」 彼女の、はにかんだ表情に石本は満足した。だが、その、はにかみが、意識下に作られたものとは、彼も気づかない。知佳子にはスポンサーがついていないという。以前から、そういう評判が真面目な筋の通った話として語られていたし、美貌は言うに及ばず、知的な会話や、経済通らしい見識ある発言が、ここに来る客にもてはやされている。そればかりではない。雰囲気に応じて弾く、ここ備え付けのピアノの腕はプロ並みなのだ。中でもリストのカンパネラは度々リクエストされた。 「いよいよ首切られるんでね」 ことさら気鬱な表情を滲ませながら、ゆっくりスツールに腰を下ろすと、眼鏡を外し蒸しタオルを使った。 「あら ! すげ替えられるんじゃありません ? 分かってますのよ。石本さんのこと」 射貫くような眼差しだ。 一瞬、胸の底で心が踊るのを白覚したが、 「……ほう」と、三角の顎を突き出し、やけに取り澄ませてみせた。 既に、ここまで自分のことが噂されていることに戸惑うより、先の彼女のはにかみと、今の眼差しからくる、おのれの思惑の反芻が、否応なく彼の眼を虚ろにした。 やがて法螺貝のようになっていく頭の中に、やたらと、自惚れと妄想が夏雲のように沸き上がった。彼女に気があるのは、まず間違いないだろう。……ふと、 「石本さんって、すごいのね」 何となく、遠いものを漠然と憧れるような気分で千佳子は言う。 「……あたしだって嬉しいのよお。……あら、いけないわ。奥さまに悪いもの……」 悲しみに閉ざされたかのようなチェロの響き中で、甘く切ない眩きを、ふと、彼は耳にした。その哀愁に、疹み出る喜悦を心の底に感じ、無意識にグラスを重ねた。思惑は苦悩にも似て更に深まっていった。 湖畔の豪華ホテルのスイートか、それとも、森の中の、素朴なヒュッテがいいのか、彼女に最もふさわしい所はどこなのか。 甘美な光に包まれて、知佳子の白い裸身が彼の脳裏を過っていった。突然、抱きしめたい激情がむらむらと彼の胸を突き上げた。その思いが通じたのか、千佳子は、この上もなく澄んだ眼でじっと彼を見つめる。 「いらっしやいませ」 バイトの女子大生が上品な仕草で、潤んだ声を上げた。一目で素人娘の初々しさを感じさせるのは千佳子の指導によるものだ。 ドアーを勢いよく押してきたのはなじみ客だった。 「あら、飯島課長さんよ」 千佳子は、咄嗟に入り口の方を振り返り石本に微笑みかけた。 飯島に付き添ったその女子学生も心得顔で隣の席にいざなった。彼は同じ会杜の総務の者だ。色黒で小柄な体つきは狡滑な影を宿している。 「……よお。話し相手が出来たな」 とは言ったものの、折角の雰囲気を損なわれた不満がやつれた頬を掠めて去った。今夜こそ、知佳子の確証が欲しかったのだが。 「ねえ、石本部長、九州支店長、危ないようですよ」 席に着くや、両肘を張り出し、下から釜首もたげた感じの姿勢で獅子鼻を突き出した。 「……何が?」 「決まってるじゃありませんか。胸ですよ、胸、心臓ですよ。虚血発作もこれで三度目ですからね。先ず、駄目ですなあ。ところで、部長、今日、人事担当専務に呼ばれませんでした?」 総務にいれば早耳は当然だが、九州支店長の病状まで心得ているのはさすがである。石本の後を追うようにここへやってきたのも、定年間際の白分の保身だろうか。課長止まりで定年なら、せいぜい千五、六百万円程度の退職金でお払い箱だ。何とか彼が役員になる子会杜かどこかに引いてもらいたかったのだろう。 「不謹慎かも知れませんが、もし亡くなっても、石本部長は決定されたのだから流島のご心配はないでしょう。だからこうして……」 「……流島?」 「あっ!いけませんね。こういう言い方。……でも、部長が行かれるのは、子会社と言っても九州支店とはまるで格が違いますからね」 そのとおりだが、確かに今日、専務の申し渡しがなかったら、九州に飛ばされる可能性がないことはない。石本は思わずひやりとしたが、それはおくびにも出さず、 「まあ、一杯いこう」 傍らのブランディーのボトルを取り上げ、彼のグラスに注ぎ込んだ。 「巡業がいけないんですよ。こたえるんでしょうね。家族と離れぱなれの生活が」 飯島はグラスを掌で回しながら、しみじみとした気分で咳くように言った。 九州支店長が危ないとは初耳だったが、最初、彼が倒れたのが仙台支店だったことは知っている。大学が同じで同期だったから、仙台まで駆けつけたことがある。たまたまそのとき、既に集中治療が終わって運び出されてくる寝台車の上で、痛々しく、 「……いやあ申し訳ない」 青ざめた顔に、歪んだ笑みを浮かべていた。飯島が言うように、今度は助からないだろうと思った。会杜の生け贄に遭遇するのは二度や三度のことではない。 だが、彼らの死は、石本にとっては無関係だった。 彼の無意識がそれを認めようとはしないからだ。無意識にとっては自分の生命がこの地上で終わるなど想像できないのである。だから、もし、この生命が終わらねぱならないとすれば、死は、当人にとって事故であり凶悪極まりない暴力だ。 今の杜会では、彼らが死んで三日も経てば、百年前に死んだと同じ感覚である。 康子の母親がついこの先、七十六才で生涯を閉じたことを石本は思い出す。 あれは確か小雨のぱらつく秋の真夜中だった。義母と同居の姉夫婦と、すでに予期して病院に行っていた康子から緊急の知らせが入った。 「いよいよ駄目らしいの。来てくださらない」 着いた病室の廊下には緊張感にみなぎっていた。あわただしく主治医と看護婦が駆けつけて病室に入ると、入れ代わり、既に付き添っていた妻や姉妹らが追い出されて出てきた。 「どういうことなんだ」 「出ていてくださいと言われたわ」 彼女らは、不安の緊張のため身を震わせた。 「どうして?」 「何か処置でもするのかしら?」 重苦しい時間の経過していく中で、医師たちは、母の死を、生きている彼女らから遠ざけたに違いない。死を隔離したのだ。 手足を打ち震わせ、のけ反り、白眼を剥いて苦悶に歪む表情は、生の終わりを予感させるが、それは、到底尊厳死とはいえない、肉親といえども見せることの出来ない忌むべき醜悪なのか。 厳かな死は、言いようもない後ろめたさに虚飾され、人目の付かないところでしか成り立たないのか。 宗教に見切りを付けた人々は、いつのまにか、死の、尊厳と残酷の葛藤から逃避して、往々果てしない長寿という夢を自らに与え、おのれを欺いている。国も社会も老人を大切にする。誕生日には紅白まんじゅうすら持ってくるのだからな尚更のことだ。 親類の若い美しい娘も、やがて自分が、醜怪な老婆となることを無意識の底に沈め、いつまでもお元気でね、などと人ごとのようなお世辞を言う。 不安な黒ずんだ重い液体のような淀みを、何時間ものあいだ感じていたが、やがて扉が開いて臨終が告げられた。人々は中に入り、そこに、眠るがごとき静かな老女の顔を見た。 一同は悲しみよりも、むしろ大いなる安堵を感じた。悲しみのほうは、このニカ月の間の入院生活の中で、いわばなし崩しにすんでしまっていたからである。 心の奥底の、最も深い部分に、病人と老人は一日でも早く見えないところに追いやってしまいたいという気持ちが隠されている。そして交わりを断ってさばさばしたい。後は見えないところで死んでくれれば、これほど都合のよいことはない。うしろめたさを感じながらも、今の時代、人々はそう思う。 だが裏を返せば、彼らも老いと死の観念に絶えず怯えながら生きていることになる。だからといって、死を、まともに見っめようとするわけでもない。それどころか、石本の場合、無意識に、おのれの死を認めようとせず、ほんの僅かな未来に ( 彼は六十才になる ) 思いを馳せる。知佳子 ( 欲望 ) を目の前にして、自分の死など矛盾に満ちているではないか。 「ねえ、部長、専務に呼ばれたんでしょう」 傍らの女の子に冗談飛ぱしながら飲んでいた飯島が、突然同じ質問を繰り返した。 「よく分かるなあ、君イ」 「これで安心しましたよ、部長。じゃ、お邪魔だから」 飯島は気を利かせて席を立った。千佳子は彼を出口の外までに送り出し、しばらくしてから戻って来た。 「飯島さんって優しい人なのね。あなたに随分気を使っているわ」 飯島は、以前からこの〈ちかこ〉に出入りしている。ここの常連は、ほとんどといっていいくらい彼が連れてきて紹介したものだ。もちろん石本もその一人である。本社の部課長のほか、下請や子会社など、関連会祉の幹部クラスが多かった。 彼の下心は、白分自身の定年退職後の再就職の取り付けだった。実は一ヶ月前ぐらいから、石本に取り入ってもらうよう知佳子に働きかけていた。というのも、石本が知佳子に熱を入れていることを、どうしたことか、いち早く見抜いていたからだった。 「でも飯島さん定年でしょう」 間をおいて、さりげなく知佳子が言う。 「たぶんね」 「課長さんの場合、五十七才が定年でしょう。行く先決まっているのかしら」 「そりゃあ、分からんよ」 「なんとかしてあげられない?お気の毒だわ。随分お世話になっているもの」 「………」 それは君次第だ、などという下種な思いがないではないが、それでは、おのれのプライドが許さない。だが、いいきっかけだ。……咄嵯に想いを巡らせながら、 「そういえば彼には見所があるようだが……」 彼女の希望に応えるかのような思案顔をして、ちらっと知佳子の目を覗いてみた。そのとき、 「ママ、橋本さんがちょっと来てって」 同じバイトの、髪の長い女子大生が奥のボックスから、このカウンターにやってきた。ミニスカートの、剥き出しの白い右腿を少し内側に折り曲げて、にっこり笑って彼に会釈した。 「橋本さんって誰だい」 いきなり水の入った石本が目を剥いた。 「山三証券の営業部長さんよ」 千佳子はライバル意識を駆り立てるかのように語尾にアクセントを入れた。何だか、飯島のこと駄目なら、こっちに頼もうかしら、と思えなくもない。 「ごめんなさい。すぐもどるわ」 背を向けた丸いヒップラインがやけに誇張された。 二十分ほど過ぎたが、知佳子は戻ってこなかった。 待つか、それとも、あっさり切り上げるか。不安な気持ちの片づかない苦し紛れに、ふと、飯島の喜びそうな再就職先が思い浮かんだ。取り引き先での、人材の依頼を思い出したのだ。飯島が人材であるかないかは本人自身の問題だ。少なくとも、彼は、本社と相手先の掛け橋にはなるだろう。 この偶然性は、天の声だった。そう思うと、突然喜びが沸き上がった。彼は、言いようのない輝きを、さながら欣然とした愉悦の輝きを、痩せこけた満面に浮かべながら勢いよく席を立った。 電車の中でもその悦楽に浸り切った。飯島の為の、たった自分の一声で、彼女の望みは適えてやれる。七色に輝いて、泡のような妄想に包まれた。甘美な光だ。 家に着いたときは既に十時を廻っていた。 お帰りなさい、という妻の顔を上目使いに、やっとおのれを取り戻すほどだった。ふと、そこに妖気が漂った。出迎えた康子が本能的に背徳の匂いを嗅ぎ取ったのだ。 彼女は、この二、三ケ月来、得体の知れないぼんやりした不安を感じていた。それには、漠然とした嫉妬のようなものが入り混じっていた。嫉妬は、まるで女の皮膚のようなもので、あらゆる女は、子供の時からそれを磨き立てながら成長するものだ。茶の間に入った彼の目を疑い深く覗き込むようにして、 「夕飯おすみになりました?」 何でもない康子の言葉に、いつもにはない刺の不快を感じると、一瞬、緊張し、おのれの不倫の匂いを自ら掻き消すかのように、 「今日決定したよ」 いきなり高揚していて、それは、老けた顔には不似合いな高いトーンの響きであった。夫の先の不審は、これだったのかと思うと、康子の心は和らいだ。 昇進は以前から気にしていたことだし、康子にとっても、物心ともに彰響のあることだ。この年の身分の保障は何にも優先して先の暗い影を払拭した。 「杜長さんに呼ばれたのね?」 猪疑と嫉妬の眼差しが、突然変容して喜色に輝いた。杜長ではなかったが、うん、と答えた。 「軽いものでも作りましょうか」 生き生きと、弾んだ声に転調した。 「そうだねえ」 康子がキッチンに入った後、どっと疲れが出た。良心の疼きなどというよりも、秘められた愉悦が嗅ぎ取られなかったという安堵感だ。それに、どうしたことか、身体のだるさが、やけにかさなった。 康子は既に下ごしらえされていたタンシチューを調理して、葡萄酒とともに彼が座り込んでいる茶の間に運び込んだ。 「弘子夫婦や孫たち呼んでお祝いしなきゃ」 地方に転勤している一人娘一家に思いを寄せて、康子は上機嫌で言う。 彼も大きく頷いて笑顔で応えたが、突然、 「風呂沸いてるか」 食べかけたシチューをそのままにして、葡萄酒のグラスを一気に傾けた。そのまま立ち上がると寝室の方へ立去った。いつもの寝るときより一時間も早い。 そのとき、康子の心に淡い虹がかかった。以前もそうだが、何かいいことでもあったとき、思いついたように、目の眩むような行為をする。 彼女は、後片づけをして後、湯船に身を沈めながら、心が和んで、あたしだってこれからなんだ、人間にはどうしてこんなに深い喜びが与えられるのだろうと思った。 寝室の灯はスタンドだけになっていたが、灰明るかった。薄い地のネグリジェを選んで身に纏うと、意識して、ドレッサーの前に時間をかけて寝化粧した。 夫の背後からそっと滑り込んで身を縮めた。夫は軽い寝息を立てていた。そっと肩を揺さぶった。もう一度、揺さぶってみた。夫はそのまま振り向こうとしなかった。 鬱屈の朝,秋雨が降っていた。 朝食のとき,悄然とした彼女の姿を見て,それがどうしてなのか,石本は痛いほど分かっていた。昨夜,肩を揺すられたことすら知っていた。だが,妻を愛していないわけではない。 美しく,セクシーに装われた昨夜の康子を拒否する理由など,何処にもなかった。ただ,毒に冒された醜悪な肉体が彼の精神を支配し,マンネリ化した彼女との行為に倦怠を極度に意識したことも否めないが,それにも増して,残酷にも,愛の擬態を伴った智佳子との甘美な夢が彼の脳裏を満たし,無意識のうち,康子への拒絶となって現れた。 その朝いつもの通り,身支度して玄関に出た。 「……お気をつけて」 物憂い沈んだ声を背後に,康子の悲しい動悸のようなものを聞いた。思いやる胸の哀れな響きの中に,しばし彼はうっとりとしていた。切ない悲しさだ。 小雨の街路に出てしまうと,通勤する人たちのあわただしさが,彼の感情をかき消して通り過ぎていってしまった。 出社早々,部員は,いつものお早ようございますの替わりに,おめでとうございますと挨拶をした。 早朝の面映い緊張で影を潜めていた,これまで彼の全く気づかなかった病魔がも昼食を採って暫くすると,いきなり襲い掛かった。まるで暗い地のそこに落ち込んでいくような,陶酔にも似た意識混濁に陥った直後,激しい嘔吐の気分に襲われた。 トイレに駆け込み一気に吐き出した。暫くそこにしゃがみ込んでいたが,病魔は嘘のように消え去った。 彼はこの三ヶ月ほど前,会社の社内健康診断で血液検査を受けたとき,赤血球の急激な減少を指摘され,総合病院へ行くよう指示されていた。退職直前の事務引継ぎや,挨拶回りなど,多忙を極めていたのでつい先延ばしにしていたのだった。 先の急激な症状から,今日こそは総合病院に出かけねばと考えたが,今,自覚症状がないばかりでなく,就任が正式に決定した子会社からの連絡があり,明日に引き伸ばすことにした。 新しい勤務先との打ち合わせは,事務引継ぎの概要と社長,役員への挨拶回りなど,管轄部課長など,幹部職員の紹介であった。そして,本社退職後,一ヶ月余りの休暇を取って出社することにした。 燃え立った彼の新しい野心は,先の,おのれの肉体の悲痛な叫びに耳を貸すこともなく,バー《ちかこ》にまで及んだのは言うまでもない。 智佳子は,その夜,彼が来ることを確信していた。あのとき,駆け引きしたのも事実だが,あのまま,見切られるようなことは先ずあるまいと考えている。 《ちかこ》は,いつものように,恍惚とした甘い弦の旋律を嘆くように流していた。 七時過ぎ,表の扉が押されて開いた。 「お待ちしていましたわ」 石本が智佳子の存在を確認するのと,智佳子が彼の視線を捕らえたのは同時だった。駆け寄るように寄り添って,昨夜直ぐ戻れなかった言い訳を,あたかも自分の胸に,不意に,波のような悲しみが押し寄せてきたかのように,沈み顔で訴えた。 「いいんだよ,俺だけが客じゃないんだから」 特に意識して,自然さを失わない言い方をした。 「あら,いやよ。そんなの」 あたりに気を使いながら,いやいやの仕草で,彼の耳元に甘く吹き込んだ。流れているチェロの響きが,彼の胸を押しつぶさんばかりである。 「……分かっているのよ,石本さんの気持ち。ずっと以前から」 カウンターの席に誘ってから,智佳子は口には出せない,心のこもった煩悶に閉じ込められているかのように,しょんぼりと言った。 その憂愁に,彼は心地よく酔った。 「……だから,……いいのか?」 「……」 「君の望みなら,何でも叶えてあげるよ」 「……うれいしわ」 智佳子の,聞こえぬほど,か細く潤んだ声に,彼は夢中になって叫び出したいような,魂の歓喜を味わった。 少し震える指先を意識しながら,注意深く両手でグラスほ支え,ブランデーをすすり,口笛を鳴らしたいほど昂揚していた。この指先の微かな震えは,彼が興奮しすぎているためであり,これから先のことを思えば,彼の身体は緊張し,吐き気がして胸が痛いほどだった。 その,おののくような喜ばしさが,小刻みに,彼の全身を波立たせようとしたとき,軽いめまいが起こったが,直ぐ気づかれないよう建て直して, 「来週の今頃,ブラン持ってくる」 青白く晒された精神が悲壮になって昂揚した。 「……」 智佳子のとび色の目の中を一瞬不安が過ぎっていった。目の表情がうつろで落ち着きがない。だが石本がそれに気づくようなことはなかった。 輝いた彼の視線をちょっと見て,ふと,智佳子は,土壇場では,とりあえず,たまたまその日はあれなのよ,で,逃げようかと思案した。この商売での綱渡りなど,彼女にとってゲームの楽しさだった。きわどくなればなるぼと,より刺激的なのだ。 翌朝,朝食のとき,康子に,この二,三日身体の調子がおかしいので,午後から会社を休んで,予約しておいた総合病院に行って来ると言った。 康子は,昨夜からの刺々しい自分の態度を意識していたが,ふと,彼が体調を崩していたかと思うと急に優しい気持ちになった。 「大丈夫なのですか」 能面に似ていた表情が唐突に生き返った。夫が病院に行くという不安よりも,これまでの鬱屈が晴れて,康子は,むしろ心軽やかであった。 彼は,大したことはあるまい,と言って腰を上げた。康子はその日に限って,わざわざ表通りまで送り出したか,虫の知らせとでも言うのか,なぜか,急に彼の痩せた背に不吉を感じると,心配が心に重くのしかかってきた。そのまま佇んで見送っていると,石本も後ろに彼女の視線を感じ,ちょっと振り返って手を上げた。 総合病院は,社とも関係があって,帰宅の電車を途中下車すれば,歩いて十分程のところだった。 待合室のベンチは予約の患者で塞がっていたが,一隅を見つけ,隣の人に遠慮深く会釈して腰を下ろして俯いた。智佳子への妄想と,おのれの不安が交錯して,待ち時間は瞬く間に過ぎ去っていった。やがて看護婦が次の患者を呼び出した。 「石本さん,お入りください」 びくっとなって,ハイ,と答えた。若い看護婦が彼を確認すると笑顔を傾げた。仕切られたカーテンを開いて中に入り,丸椅子に腰掛けると,中年の口ひげを生やした初診担当医は,カルテで,年齢,職業、保険の種類などに目を通しながら,何気なく彼の顔の色艶や体格を観察した。 「最近の自覚症状など話してください」 石本は身体のだるさや眩暈,それに下痢と便秘の繰り返しなど,なるべく,それがあまり大したことでもないと言うふうに話した。 ドクターは触診や血圧測定など、ひと通りの診察をした後,既に回されていた診療所の血液検査結果表を見ていたが,今の問診などから,直感的に消化管からの出血を疑った。だがそのことはおくびにも出さず, 「会社もお忙しいでしょうが,ちょうどいい機会です。ちょっと入院して頂いて,詳しく調べてみましょう」 医師の表情が極めて穏やかで,静かな口調であるにもかかわらず,いきなり入院せよと言う意外な話だった。 「ええ!入院ですか?」 その一瞬,石本は青ざめて,鼻から口元へ微かな震えが走った。 「そうです」 医師はきっぱりとした口調で言った。その言葉にはこのことは全てに優先するという,絶対的な権威が滲んでいた。石本には未だかって入院などと言う経験は一度だってなかったので, 「入院までして何を?」と,やや,むきになった。 「精密検査です」 「何日くらいの入院なのでしょうか」 「それは調べてみてからでないと分かりませんね」 「仕事のことなどあって忙しいのですが」 確かに仕事のこともあったが,それより何より,智佳子との約束が苔のように脳裏に張り付いている。 「身体には替えられないでしょう」 最前からのドクターの言葉は,彼の人生を決定すると言わんばかりに聞こえた。すると,底知れない不安な感情が湧いてきて,彼は当惑し,顔を曇らせた。 「何が疑われるのでしょう」 「今,特別,何をということではありません。科学は全て,疑いが出発ですよ」 唇は白く乾き,目は宙をさ迷った。診察室を出てから,入院の手続きをするまで,頭の中は,素焼きのつぼのように空洞だった。ふと,これが他人事でもあればいいのだがなあという空想に取り付かれた。 帰宅の電車の中で,突然,その空洞に,妖しげな陰が忍び込んだ。もしかしたら,ガンではないのか。それは,一番おそろしい,心の底にありながら,しかも,誰も決して口にしようとはしない不安であった。まもなく定年退職なのだ。だが次に待っている第二の人生,それは光り輝いている。 先ず,妻との豪華客船による世界一週旅行,帰ってからの再就職は,傍系子会社の役員就任,更に,住居空間の大改装,それは,妻の好きな薄紫色で装われる。 いや,それにも増して,悪魔のささやき,背徳の愉悦。 だが突然,その夢の前にはだかった不気味な黒い陰。彼は自分で自分にりつぜんとし,手足がすくむような気持ちになると,激しいフラストレーションに見舞われた。思わず心の中で,「康子!」と,叫んだ。 電車を降りてから,まるで夢遊病者のように,薄暮の滲んだ街並みをふらふらと歩いて家にたどり着いた。 日頃の妻の安らかな心持は,あたかも明け方の寒い光が次第に闇の中に広がるような,不思議に朗らかな感触で包み込んでいた。それにもかかわらず,この二,三ヶ月,妻との接触を拒否しつづけてきたのは,彼の蝕まれた肉体が,彼女への愛を抑圧しつづけたのも一因だが,それにもまして,魅惑の毒に冒されて,灰色に染め上げられた彼の精神が,相互排他の葛藤に晒されながらも,次第に悪魔の匂いに惹かれて虜になった。 このとき,突然のように,あたかも巨大なレンガの壁が積み上げられたかのように,行く手を阻まれた。息も出来ない重い圧迫感を胸に受けた。何処を向いても,厚い壁が自分を取り巻いている。 行き場を見失った情念は,困惑し,途方にくれた。咄嗟に不可能を悟って,代償行動わとるのは,心の必然だった。とりあえず,苦悩から逃避し,精神を安らげ,癒さねばならなかった。 …………これからの記述は、冒頭の記述に続いています。……… つい今しがたの行為は,智佳子への思いを妻の康子によって補償された偽りの愛だった。その朽ち始めた肉体が,毒された精神に支配され,彼の無意識は愛を偽り,最後の灯が尽きるかのような一瞬の光を放ったに過ぎなかった。 光が燃えきった後の暗闇に,今尚,智佳子の面影が亡霊のように浮かび上がっていた。 「何か出来ているって,どういうことなの?」 康子の揺さぶりで,智佳子の幻が闇から消えると,ふと,おのれを取り戻し,妻を振り返った。怒りにも似た彼女の不安が漲っている。 先の、無意識に口をついた、何かが出来ているという言葉が、彼女の心に言いようもない暗い影を落としたのだろう。 彼は胸に潜んだ病名を口にする恐怖と、欝屈を吐き出してしまいたいジレンマに苛ち、突然、康子に背を向けると、両手で頭を抱え込むようにして左右に激しく振った。まるで魂を絞め上げているかのようだ。彼は心の中で激しく拮抗しているに違いない。 「ねえ、どうしたというのよ!」 ようやく促されて、ふと、その仕種をやめ、こちらを振り向き虚ろな眼をしばたいた。 「……も、もしかしたら……ガンかも」 心のうちで断固、否定していながらも、ほそぼそと、声は怯え切っている。重い黒ずんだ不安が、胸の奥底に、じっと澱んでいるのを彼は感じていた。 「えぇっ!」 弛緩した肢体が冷水を浴びたかのように、急に引き締まって、夫を凝視した。 「いやですよ、いきなり。冗談でしょう?」 「………」 「ねえ、冗談でしょう?」 身内の血が一時に逆流する恐怖に、康子は思わず、 「ねえ!嘘でしょう?」 叫ぶと同時に、夫の裸の胸に顔を埋め、激しく頭を揺り動かした。 病院は、取引先と関係のある私立の総合病院だったが、四人部屋では嫌だからと、特別個室を希望して予約することができた。康子は、こまごまと彼の身の回りの品々を整えて、翌々日、病院に同行した。 差額ベッド代は高額だが、設備はホテル並みだった。バス・トイレの他、電話、応接セットまで整っている。ただホテルと異なっていたのは、内側からは鍵がかからないことだった。もちろんベッドは一つ、付き添いのための用意はしてなかった。 「お前、どこで寝るう?」 入るや、むしろ怯んだような表情で、康子の顔を覗いた。あの夜の苦悩が彼の人格を変えたのか、薄ら寒い気弱な老人になり下がっていた。 「大丈夫よ、ソフアーでも寝られるわよ」 康子は、内心、やや困惑気味だったが、今まで一度だって入院など経験したことのない突然の出来事だっただけに、彼女自身どうしていいのか分からなかった。 いきなりドアーがノックされた。 こちらの返事のないまま、一方的に扉が開かれて、中年の看護婦が入ってきた。この病院の看護婦が着ている白衣は淡いピンク色だ。白の恐怖を和らげる配慮だろう。笑顔をみせて、 「変わったことありませんか」 康子が頷いて軽く会釈をすると、 「血圧と体温計りますね」 そういって彼に近づき、ベッドに仰向かせて、マンシェットを腕に巻き付けようとしたとき、 「あのう、もう一つベッドが……」 石本は、右腕の袖をたくしあげながら口籠った。 「ええ?何ですか?」 彼女はしばらく考え込んだが、何を勘違いしたのか、明らかに年の差の分かる康子を振り向き、思わず、もじもじしながら俯いた。 「付き添ってもらうためですが……」 看護婦の素振りに気がつき、ことさら言い訳がましい返事をした。 「あら、まだ今のところ付き添なんていりませんよ。今からそんな」 看護婦は、もう一度康子を振り返ったが、彼は特別個室にこんな美人の奥さんを連れ込んで一体何を考えているのだろうと思った。 康子は、つい先日の、彼の激しいやり方が思い浮かび、何かそれが自分たちの顔色に現れているのではないかと、妙なうしろめたさを感じ、思わず顔を赤らめた。 看護婦は、てきぱきとして、笑顔も絶やすことがなかったが、石本は血圧を計られるとき、なぜか、彼女の手加減に邪険な感触を抱いたのだった。 「明日から検査が始まりますから、夕食以後は何もとらないでくださいね」 彼女の絶え間ない優しい笑顔は、出ていくときに、心なし無表情にとり澄まされていた。看護婦が出て行くと、 「心配しなくても大丈夫よ」 康子は看護婦が部屋を立去ってから、彼のベッドの傍らに来て佇んだ。 「これから、どうなるのだろう」 虚ろな眼は宙に浮き、おろおろと、底知れない不安な感情が沸いてきて、顔を俄に曇らせた。 初診の日から今日の入院まで、突然のように変貌した彼の生活態度を見る限り、社会での地位や仕事がなんであれ、男としては余りにも退屈な人物に思われた。なぜなら、会社の第一線で立ち働いたときの勇気は消失し、ただ、ガンという不安に怯えるだけで、自ら病を調べるでもなく、闘う気力もなく、何一つ考えようともしない優柔不断な男に成り下がっていたからだ。 そうは言っても、もともと人間は、生命を脅かされた瞬間には、ほとんど恐怖を感ぜず、ことの起こらぬ先と過ぎ去った後に、心で予想したり再想したりして、ひどく怯えるものだ。だがいつ、彼が自分を取り戻すことが出来るか、それは問題だった。 しかし、病老苦死、まさに眼前に在り、と思う瞬間に、反射的に考えるのは、老いも病も死も、まるで存在しないかのように、きれいに日常から追い払われている現実が在る。 血を送る動脈の、年を重ねるごとに硬化し脆くなるのは生理だが、その血管に血栓が詰まって閉塞するか、破裂すれば、白目を剥き、激しく嘔吐して昏倒する。その現場は凄惨であり、残酷である。人はつい目を背け、落ち着きを無くし、逃げ腰となる。 幸いにも、すぐ救急車が走ってきて、あっという間に、この困惑、不潔、醜悪は取り除かれてしまう。 また、死ねば死んだで、誰にも不快を与えないよう葬儀屋が、まず装置や演出に工夫を凝らし、その遺族を悲劇の主役に仕立ててしまう。そして、悲しみは陶酔となり、参列者は芸術でも鑑賞したかのような気分になって、後、手提げ袋を手にしながら帰路につく。 この社会では、死の場面は一切遠ざけられ、忌み嫌われ、目隠しされる。死が見えなくなった社会では、長寿が唯一の社会善であり、死に瀕した病や、葬儀は、彼ら個人にとっては、それが、例え身内の者であろうとも、すべて他人ごとにしか思えなかった。 石本の幼い頃は、死は日常的であった。彼の婆が死ぬときは、家中の者が、縮こまってしまった老女を取り巻き、手を握り、医者と看護婦は、片隅に小さくなって付き添った。やがて婆が白目を剥き始めると、医者そっち退けで代わる代わる家族の者で背中を撫でてやった。 顎式呼吸をし始めると、もう、これで終わりだ、と言って嘆息の声を上げた。間もなく息跡絶えると、代わる代わる死顔を覗き込み、これは大往生だったとか、よく苦しみに耐え抜いたとか、そう言って評しながら、大声を張り上げて泣き出した。 だが今そういう話は、時代遅れの不潔と化した。 「……いつまでこうしていても、変に思われるから帰るわね。また来るわ」 康子は、まだ検査も始まらない段階で、べたべた旦那に付き添って、まあ何と嫌らしい奥さん、いい年してさあ、そのように先の看護婦に思われたのではないかと、最前から羞恥を感じていたので、病院の早い夕食が運ばれる気配を期に帰り支度を始めた。 「明日何時頃来てくれるう?」 「なるべく早く来るわ」 そうは言ったが、内心、余ほどのことがない限り、付き添うのは止めようと思いながら帰っていった。 ところが、翌朝行なわれた、最初の採血スクリーニングの中で、腫瘍マーカーである、CEA・TPAなどの測定では、正常値をはるか超えた数値が検出された。 初診担当医は彼の主治医でもあったが自分の直感に満足し、直ちに腹部エコー検査、胃部X線、注腸X線検査などを指示した。消化管の検査は、口の方からと、肛門の方から行なわれた。 まず石本は、緊張に身を強ばらせながらレントゲン撮影台に張り付いた。数年前、人間ドッグで一度経験したが、その不快さは今もって脳裏に刻まれている。 検査技師は、白墨を溶かしたようなジュースの入ったコップを手渡し、鉛ガラスで遮られた部屋に戻ると、 「一口飲んでください」との指示した。 恐る恐る口にしてみたが、既に吐き気に襲われた。不潔な違和感が全身に染み渡って飲むことが出来ない。 「飲んでください!」 叱責に似た口調だった。無理強いに、目をつむり、鼻を摘んで流し込んだ。技師は窓の中からその仕種をじっと見ている。 「はい、今度は全部飲み込んで!」 更に強い口調の技師に、ある種の怒りが感じられた。 「早く!」 技師の苛立ちは、撮影技術上の問題を抱えていたのも事実だが、患者の余りにも無様な態度に業を煮やしたのが本音だった。(このとき患者の膝頭が震えていたのだ) がぶりと一口、恐怖を飲み込んだ。更に飲み、残りを一気に喉に流し込んだ。口の回りはバリュウムだらけで、白くなった。目を釣り上げ、歯を食いしばった面は何とも奇妙であった。 彼は、内部から突き上げられるかのような恐怖のために胸を鳩のように反らせた。この無様は、会社の部長としての権威も、人間としての尊敬の念も、ことごとく失い兼ねない様態にあった。 このときの表情はただそれだけのことで済んだが、後日、先にレンズの付いた細い管を、肛門から送り込まれたときは、かってない狼狽ぶりを発揮し、関係者の顰蹙を買ったのだった。これは彼の全人格を疑うに足りる出来事と言っていい。 つまり二日後のことである。 食餌を止められ、下剤を投与された。強烈な便意を感じトイレに突っ走しると、慣れない和風便器にしゃがみ込んだ。排泄物は、血液の交じった粘液だった。それがぽたぽたとこぼれ落ちた。彼は、始めて自分の便に血が交じっていることに気がついた。 今まで、彼の家では、脱臭装置が働く洗浄器、乾燥器付きの洋便器だったから、排便すれば、すぐ汚物を流し去った。彼が自分の汚物を観察するなどとということはまるで習慣になかった。彼にとって、不潔で、悪臭のあるものは許されなかった。香り高い食物でも、消化吸収され、酸化され、やがて、おのれの体内に、残滓として腐敗し、蓄積されているなどということは、彼の思考の範疇になかったのだ。 粘血便を見たときちょっと気になって、しばらくの間尻を上げ、覗き込むように様子を窺っていたが、何やら妖しげな妄想が沸き上がってきて、千佳子の生理のことなど想像し妙な気分になってうっとりした。 腸の中を空にして、いよいよ検査が始まった。最初、看護婦に、後ろの方に丸い穴の開いた検査衣を着せられたとき、妙な照れ笑いをしながら、 「これ女性用じゃない、何するときには便利だよね」 などと、くだらん冗談をいって、若い彼女の顰蹙をかった。診察台横たわり、後ろにゼリーを塗られ、挿入され始めたときは、一瞬、性的倒錯に陥って、恍惚となったが、管が次第に奥へと進むにつれて苦痛がともなった。やがて下腹部を突き上げる鈍痛に、つい、年不相応なキイーという感じの甲高い悲鳴を張り上げた。 「頑張って」 看護婦は彼を励ましたが、先の冗談が、彼女の癇に障っていたのだろう、その言葉は虚ろに響いた。しばらくすると、管の、手前の方でカメラを操作していた若い検査医の頬に緊張を表わす引き吊りが走った。 「あっ!イレウスだ」 辺りをはばかり、小さく呟いた。 レンズはそこで突っかかり、進むのに逡巡した。だが医師は遮二無二進ませようとしたため、ついに彼は胸を鋭く突き刺されでもしたかのように、 「ううっ、止めてくれ!」と、声を絞り上げた。だがレンズは、先を急がねばならなかった。この狭窄はどこまで続いているか、検査医は、この巨大な腫瘍は学会報告ものとばかりに興奮し、目を皿のようにして覗き込んだ。だから調べる方も、調べられる方も額に油汗を掻いて苦闘した。 やがてレンズは横行結腸から上行結腸の曲り角にたどり着いたが、そこで再び逡巡した。二人の苦闘はここで最高調に達し、ドクターの脂汗がぽたぽた落ちた。看護婦は彼の脂汗を拭くのと、暴れる廻る患者を押さえるの右往左往した。ただならぬ悲鳴とドクターの慌て振りに応援の看護婦が駆けつけてきて、 「頑張って!頑張って!」 と、励ましたが、虚々しく響くばかりで、レンズはそのまま頑として進もうとはしなかった。 これ以上続けると結腸を損傷する。ドクターは方針を変え、上行結腸から盲腸までを注腸造影検査に変更した。管は引き抜かれ、後、替わりの管は白墨状の液体を彼の腹部に送り込んだ。 全てが終わったときの、ドクターの表情は極めて深刻だった。彼のカメラが、S状結腸に出来た、希に見るボールマンV型、ステージWの、末期ガンの像を捕えたからだった。日をおいて、検査は更に続けられた。 どこかに転移していないかどうか、根治手術が可能かどうかなど判定するため、CT、MRI、エコー、血管造影、骨シンチグラムなど、これに関して無知な彼が好むと好まざるに関わらず、それらの検査は機械的に順序立てられて行なわれた。これは絶対的だった。 全ての資料が整ったとき、外科医を中心に、主治医の他、麻酔医、検査医、助手、看護婦長などが集められ術式の討議が行なわれた。 結論は、ステーヂWの進行ガンで、既に肝臓への転移はあるが、取り敢えず結腸の大部分と浸潤している腹壁の一部を切除して、抗ガン剤と放射線療法を併用する治療方針を決めた。これでとりあえずの症状は改善される。だが、余命は半年以内と考えられた。 手術の日取りも決定したが、配偶者および本人への説明と同意は、もちろん初診のときの主治医が行なった。まず康子が呼ばれた。 「正直に言いまして、深刻な状態です。最大の努力はいたしますが、確実な保障はありません。今、必要なことはあなたのご主人への励ましです」 主治医は、意識的に穏やかな表情を保ちながらゆっくり言葉を繋いだ。彼は、度々病室で彼女とも面談し、人柄も分かっていたので、直接的な言い方をした。 康子の方も、彼の病態をを医学書などで調べており、ただごとでないと予感していたから、呼ばれたこと事態が既に悪い結果と観念した。 「……どれぐらいの命なのでしょうか」 顔は青ざめ、唇を震わした。康子の鋭い眼差しはドクターを圧倒するほどだったが、彼女は、目に見えて前途に対する不安と恐怖の色を濃くしていった。 来るべきものが来たという思いは、夫の余命と自分のこれからの人生をどう生きるかという命題を孕んでいたが、一方、夫の死はあくまで夫の死であり、自分自身の死とは全く無関係だった。 というのも、医師は、彼女の勇気にも関わらず、半年以内と確定して言わなかったからだ。医師が彼の余命を明確にしないのは、死というものをぼんやりさせて、康子の意識に留めさせない配慮をしたに他ならない。死の時期をぼんやりさせるのは、社会の健全化という命題に繋げ、禁句としているからだろう。 「それは分かりません。手術をしてから後、出来るだけの治療を続けます」 彼は康子に希望を持たせ、手術の同意書にサインを求めた。 「ご主人へは私から申し上げますが、本人の動揺が少なくなるよう協力してください」 康子は膝に手をおいて頭を下げたが、落ち着かない不安が傷口の血のように滲み出るかのような思いに捕らわれ、頭を上げることが出来なかった。 だが石本本人への説明は、極めて穏やかに、それがあたかも何でもないかのように、ほんのちょっとしたポリープでも取り除くかのような、至極簡単なものに終始した。 「それで、どうしても手術は必要でしょうか?」 自分の病態がいま、どの程度深刻な立場にあるかという認識がまるでなかったから、手術という言葉すら、恐怖に近かった。毛布の下の膝頭が、がたがた震えているのを医師は観察した。 康子は医師に対しそれが恥ずかしかった。 「それはしなくてはいけませんね。でも何も心配いりませんよ。桃源郷にいるようなうちに終わってしまいますよ」 桃源郷というドクターの言葉が効を奏した。彼は、一瞬目を閉じ、思いをどこかへ巡らせた。 手術室から帰った彼は、口の中に気道確保のための、まるで串刺しされた魚のように、太い筒っぽを口に銜えさせられ、尖った顎を天上めがけて突き上げていた。 その異様さに、康子は一瞬たじろいたが、横目に見ながら彼に付き添った。変わり果てた夫の容貌が哀れでならなかった。目を固く閉じて青白く、棒鱈の干物のような顔は、薄く髭が伸びていて痛々しい。 康子は、その筒っぽが、無気味で許せぬほど気に入らなかった。引き抜いてしまいたい衝動に駆られたが、それは麻酔が覚めるまでということだった。 彼の寝顔を見ながら、人間は、生物で、生殖を終えて死んでいく生物だとつくづく思ったが、これからの自分が、孤独と倦怠のなかで生きる屍として老いていくのかと思うと、身震いして、吐き気に似た嫌悪感が、胸の中をかすめていくのを意識した。 夜半、麻酔が覚める頃を見計らって、医師が病室を訪れた。 「石本さん。いかがですか」 肩を揺さぶるようにして、覚醒させると、首の下に腕を回し、銜えていたパイプを引き抜いた。すると、彼の顔は蘇った。目をうっすら明けて、辺りを窺った。 「あなた!大丈夫」 輝きを失った眼が虚ろに漂った。 医師は緊急時のボタンを確認した上出て行ったが、その夜、康子は夫の呻き声で一睡もしなかった。 まるで獣が雌を求めて咆哮するかのような、罪人が責め苦にあうかのような、死神に抵抗するかのような、そのように、彼女の心の底を揺さぶる響きであった。 翌朝、康子は、雑用などを家政婦に依頼するよう手続きをした。長く連れ添った夫に対する愛情ですら、おのれの肉体の責め苦には、影を潜めてしまった。 手術後、一週間ほど経過したが、症状は、はかばかしくなかった。 彼は、夜半に起きては、度々嘔吐した。オレンジ色した栄養剤入りの点滴だけなのだが、どうしたことか、緑色の膵液を大量に吐き出すのだった。 「おえっ、おえっ」と、言って苦しんだ。顎を突き出し、目に涙を浮かべながら背を丸めて嘔吐した。吐物は、まるで噴水のように吹き出で辺りに飛び散った。これは目も当てられないものだった。看護婦と家政婦は、その清掃に追われながら交代に彼の背中をさすり、 「大丈夫ですよ。大丈夫」と励ました。 ひとしきり納まったかに見えて、看護婦が立去ろうとしたとき、再び、大きく、おえっと、吠えるような声を出し、ベッドから身を乗り出すと、どっと再び、大量の液体を噴出させた。 彼の嘔吐は止まらなかった。吐き止めの注射が何本も打たれたが、それでも嘔吐は止まらなかった。余りの激しさに、ショックを恐れた医師は、鼻孔から胃の中に管を入れようとしたが、拒絶が激しく、ベッドの上で、のたうちうち廻って苦しんだ。やむなく看護婦が頭を押さえつけ、家政婦が脚を押さえ込んだ。 押さえた脚は、皮付き骨に脛毛が生えているようだった。康子はたじろいで、部屋の隅に身を縮めた。医師も患者の堪え性のない態度にうんざりしたが、放っておく訳にもいかず根気よく何度も何度も試みた。やっと管は、後鼻腔から咽頭部を通過して食道に入った。 管の末端は、ガラスの壺に入れられて、そこに胃液がぽたぽた落ちた。 康子は安堵と、不安の入り混じった不思議な、困惑した気持ちに落ち入った。夜通し鳴る胃液の音は、康子の心を穿つかのように、病室の天上にこだまして絶えることはなかった。 翌朝、詳しく調べられた結果、腸の一時的な癒着が原因だった。その措置が施されると、嘘のように楽になって彼は平静を取り戻すことが出来たのだった。 日を追う毎に回復の兆しが見えてきた。 やがて、抜糸も済み、入浴も許された。食事も普通に採るようになった。 だが肝臓に巣くったガン細胞が、いつ毒牙を剥き出すか、それは、誰の予断も許さなかった。 病室の窓外は春の日に輝いて目映いばかりである。大小のビルが群立し、その谷間を車がまるで蟻のように行き来していた。また、空の下の方には、はるか遠い中央アルプスの山波が霞んでみえた。 人々は、この大自然の中に、文化を築き、その恩恵を受けながら、更に新しい文化を築いている。 だが、この過程で発生する、汚いもの、不潔なもの、醜悪、混沌、不統一、未整理は、生きていくための必須条件として処理されねばならなかった。 管理された環境は誰が見ても心地よかった。家庭内はもちろんのこと、街路もオフイスも、主張先のホテルや休暇のときのレジャー施設も、それらはすべて消毒され、バイキンのいないよう清潔に保たれていた。 だが、いつのまにか、許し難い、老、病、苦という醜悪が、巷に溢れ始めているのに気がついた。 これらの処理に人々は困惑し、知恵を絞らねばならなかった。このとき、老いた個人の特殊性は無視されて、老いにおける健康の普遍性が必要だった。その為には、たとえそれに多少の後ろめたさを感じていても、思いやりとか、労わり、あるいは孝養などという倫理の枠をはめ込んで、痴呆とか寝たきりは勿論のこと、よぼよぼ、独りきりなどは、施設に入れたり、色々工夫して格好をつけねばならなかった。 個の病や欠陥が、自我の発見や思想の広がりに繋がるほど心優しい時代社会ではないのだ。 病院の建物は真珠色のタイルで装われ、春の光を浴びて玉虫色に輝いた。前庭に植えられた草花も競うように咲き乱れている。ここを訪れる人々はそれを見て、心が和み、ほっとする。 しかし、この中の、隠された一部の空間は、病人を抱える人々の、困惑の処理場でもあった。困惑が例え極値に到達しても、葬儀屋というものが、この病院と完全密着して、彼らの困惑を解消してくれる。 入れられた患者も、見舞う人々も、病室から、眼下の花壇を、ぼんやり見下ろしていると、生きていることが、このタイルの色のように玉虫色に見えて、何が何んだか分からなくなってしまうのだった。 康子は、今、ここから、自分の体が同心円に描かれた花の輪の中心に吸い込まれていけば、暗い地の下の穴を通り抜け、やがて、眩いばかりの光の空間に迷い込むだろうと想像した。 石本は、今となっても、〈ちかこ〉のあるビルの方角へと目を移していた。漠然と一筋の熱い想いが自分の体の廻りを取り巻いているのを意識して、傍らの康子の肩を抱えてベッドにいざなった。 彼女はとっさに身構え、ドアーの方に目をやった。 「いけませんよ。ほら、誰か来ますよ」 だがその言葉は無視されて、否応もなく押し倒された。裾がはだけたまま、上半身は身動きできず、両脚だけが、虚しく揺れ動いた。 病気上がりとは思えない、それでも、昆虫のように、節くれた細い腕は、すさまじいばかりの力を発揮した。 「いけませんったら!」 家政婦はもういないにしても、いつ看護婦が入ってくるか分からない状況下で、無神経にも昂ぶる夫に、彼女は目を剥いて、ほとほと困惑した。 だが抑圧された彼の肉塊が、一時的とはいえ回復し、突然狂ったように震い立ち、彼自身ですら思いも寄らない逞しさを、自ら再生させたのであった。 肉塊は荒れ狂い、いつのまにか、康子すら性への妄執に引き摺り込み、この場の危機感を鈍らせた。 揉み合ううち、康子は、最早、誰が入ってこようと、かまうもんか、という開き直った気持ちに導かれてしまったのだった。 彼女の抵抗が俄に退くと、彼の手は、母の手ように優しくなった。 やがて、康子を裸にして、抱き寄せながら、束の間の、恍惚への耽溺の中で、彼は、ふと、 「死、……死などはありえない」 と、呟くような独言を言った。 それは、彼の無意識の囁きで、死が一年先であれ、三年先であれ、今という瞬間の生を濃密に意識せざるを得ない状況を、自ら造り出したものといっていいかも知れなかった。それとも、それは、人間の、どれだけ年齢を重ねようとも、死に瀕しようとも、性欲と妄執から開放されることのない性なのだろうか。 二人が共に自我を喪失した直後、康子は、いつ扉が開けられるか分からない緊張が蘇り、ベットの端に起きあがったが、傍らの痩せ衰えた夫が愛おしくてならなかった。 バー〈ちかこ〉は、相変わらず、一流企業の部課長らと、ここに働くバイトの女子大生たちの間でやりとりされる奇妙な造語混じりの会話や、沸き上がる嬌笑で賑わっていた。 総務課長の飯島は、あの夜から数日後、石本から、彼の再就職先の内定話を聞いていたが、千佳子には決して言わないよう、厳重に口止めされていた。しかし、 「昨日正式に決まったよ。取締役とはいかないまでも本社との掛け橋だから、まず丁重な扱いだね」 と、赤黒い顔の、獅子鼻を膨らませ、何食わぬ顔で、彼女に言ってのけた。 「よかったじゃない。それで、その後の彼、どうなの?……もう駄目なの?」 カウンターに、いつもの水割りを差し出して、千佳子は、やけに醒めた言い方をする。 「まず駄目だな」 一口、飲んで、煙草に火を付けた。分別有りげだが、自分とは、全く無関係という顔つきである。まもなくやってくる石本の死は、おのれの死には、決して繋がらない。もともと、生の過程で、おのれが死に向かって生きているという自覚を持つ人間など希有だからだ。 他人の死は客観であるが、自分自身の死は思惟の対象にはなりえないのだ。 「でもお気の毒だわ」 「だからさあ、元気なうち見舞っておかないと。死んじまってからでは目覚めが悪いだろう。で君どうする」 「そりゃあ、お世話になったもの」 「おれ二、三日のうち行ってくるわ」 「一緒に連れてってぇ」 「ばか、疑われるじゃないか」 「それもそうね」 「……ま、時間ずらせばいいけど」 飯島は、ふと何か思案でもあったのか、見舞いの日の同行に同意した。千佳子が一緒に、というのは、石本の妻との対面の気まずさを飯島にカバーしてもらいたいのだろうが、石本の立場でいえば、自分は邪魔な存在だ。 だがそれより何より、彼女とは久しぶりだから、ついでに、という気があった。 「じゃ、そうしてよ」 彼の、ついでに、という思いは、千佳子にとっても同じ思いだった。 二人の会話は石本が同席していたときとはうって変わって馴れ馴れしい。だが、彼女は、余程のことがない限り、十分と同じ相で話し続けることはしない。相手によって、つい伸びてしまうことが有っても、必ず誰かが呼びに来てしまう。このときもそうだ。ミニの女子大生が、笑顔を浮かべ、丁寧な挨拶を飯島にした。 「いらっしゃいませ」 「よう、美沙ちゃん、相変わらず可愛いねぇ」 飯島は品のない口元を歪め、彼女の身体を舐め回すようにして言った。 「ありがとうございます」 落ち着いて潤んだ声を出す。ここの娘たちの立ち振舞、言葉づかいの品の良さは、千佳子のセールスポイントだった。 「ママ、山和証券の森さんがお呼びです」 千佳子は、そう、と言って、ちらりと飯島の眼を覗いた。飯島はそれを軽く受け流し、腕時計を見た。 「四、五日うちには退院する予定だ」 頬が削げ落ち、目の窪んだ顔を斜め上に向け、見舞いに来た飯島に虚勢を張った。 飯島は、おやっ、と思った。人事部長からの情報では、石本は再起不能で、退院などあり得ない、と聞いていたからだ。だが、 実際、ここの主治医は、患者に残された時間が、最も有効に使われるには、病院での些細な治療のための入院生活を続けさせるよりも、在宅で過ごさせることの方が、もしかしたら、彼が死の予感と引き換えに、自己完結に繋げるのではないかと、密かに期待していたのだった。(実際は、彼の場合、無理とは思ったが) 「そうですか。よかったですね」 そうは言ったが、一瞬の疑惑はたちまち氷解した。退院というのは一時退院なのだ。どす黒い窶れ切ったこの顔で、退院など出来るわけがない。 一時退院は、患者の心がどうであれ(幸いなことに、ここの主治医は石本に思いやってくれたが)見苦しくない限界をさ迷う間だけに限る。だが純粋に科学の立場をとる医師は、見苦しくなるまでの過程を、病院内でつぶさに観察するため、退院を許可することはない。 やがて腹水で苦悶が表情に現れたり、肝性脳症で、うわごとを言い、訳の分からないことを行って暴れ回ったりする。この過程にいたる体内の変化を、彼らは患者の肉体から定量的に測定したいのだ。 「ところで、あそこは相変わらずか」 造り付けの流し台でコーヒーの準備をしている康子を意識して、声を落とした。 「何も変わったこと有りませんよ」 「ところで、君の再就職に付いての話、彼女に漏らしていないだろうな」 「当たり前ですよ。引き換え券でしょう?」 「いや、現金前払いだ」 「分かってますよ。これで逃げられたら、たまりませんからねえ」 飯島は、彼の、少なくとも悲痛な部分が、おそらく喜劇に化けるのではないか、そう思うと慄然として身が竦む思いだった。 「それでですね。今日の二時ごろお見舞えに来させるようにしておいたのですよ」 飯島は、キッチンの方に気を配りながら、更に声を落とした。石本は、おう、そうか、と窪んだまなこを見張ったが、咄嗟に壁時計を見た。既に一時半を廻っているではないか。いきなり、 「おーい、康子、ちょっと家まで行ってくれないか、机の引き出しに入っている会社の書類が見たいのだ。今、飯島君に渡す必要のないものだが気になるのでね」 康子は、やつれた笑顔で、飯島に、ご心配掛けましてと挨拶をした。 コーヒーを接待し終わると、康子は、 「じゃ、あなた、行ってきますね。……ごゆっくり」 康子は、飯島の、人の心の内を覗き込むような嫌らしい目を避けるようにして、慌てて出ていった。帰るまでに、たっぷり一時間余りある。石本は、安堵と同時に、心臓が激しく鼓動し始めるのを自覚した。 彼は、飯島が、康子の後を追うように帰って行っくと、急いで見舞い品に貰った、真新しいガウンを箱から取り出し、着替えて化粧室に入った。 窪んだ頬は毎日見慣れているから自分では余り気がつかない。もう一度、電気剃刀を当て、白髪交じりの髪を櫛でなでながら、青白い顔を左右に振って見た。 ソフアーにゆったり掛け、煙草を銜え、新聞を広げたが、記事の中身など、どうでもいい。挫折した彼女とのプランの復活だけが脳裏をかけ巡った。 十分もすると、扉が小さくノックされた。 一瞬、緊張の引き吊りが彼の頬骨を掠めた。 「……はい、どうぞ」 遠慮気味に、そっと、扉が半ば開いて、白い頬がちょっと覗いた。滑り込むように入って来て、 「お久しぶりでございます」 小振りな花籠を抱えて、深々と頭を下げた。短めの、黒のタイトスカートに薄紫色の花柄のブラウスだった。しなやかに伸びた白い脚にちらりと目をやり、 「やあ、しばらく。さ、さぁ、どうぞ」 ためらいがちに腰掛けた彼女の、丸くて真白い膝頭の眩しさに、思わず生唾を飲み込んで、 「いやあ、四、五日の内には退院するよ」 千佳子は、病室に入る前に、近くの喫茶店で飯島と合っていたから、特に疑問をも持つこともなかった。 「よかったわ、また来ていただけるもの」 まるで妖気が漂うかのような風貌に戸惑いながら、強ばる表情を慌てて笑顔に作り直した。だが千佳子の不用意なお世辞が、石本の心を躍らせた。 「この間のプランの件だけどさあ……」 彼の妄執が、粘着テープのように彼女の心に張り付いた。身震いするほどの嫌悪を感じたが、 「あれから、ずっとお待ちしてたのよぉ」 どこまでも感情を押し殺し、更に表情をアップした。 「まだ決めてないけどさあ、退院したらすぐにでもと、あれから、ずっと君の好みを考えていたんだよ」 粘っこく、縋り付くような言い方をした。 「うれしいわ」 彼女の白い表情は、やや強ばってはいたが、この言葉が残酷だったのか、それとも救いだったのか、回復することのない彼の身体は小刻みに震えた。 時間は、まだ十分と経っていなかったが、彼女が逃げ出すための、もっとも適切な言葉は、難なく口から滑り出た。 「こうしていると奥様に誤解されますわ」 彼の未練は線香の煙のように糸を引いて切れなかったが、千佳子は、さりげなく立ち上がり、扉のノブに手をかけると、首を傾げてにっこり微笑んだ。 「……じゃね」 彼女の閉じた扉は、石本の思いを、いきなり断ち切るようなものだった。 彼は、どこまでも続くどろどろした欲望の河の中で、喘ぎ、溺れながら、死という暗い海に向けて押し流されているのにまだ気づかない。既に萎縮した味噌では、自己の思考と行動の客観視が出来ないのだ。 千佳子は病院を出ると、彼のやつれ切って死相の浮かんだ残像を掻き消すかのように、春の空を見上げた。 飯島が待っている喫茶店は、そこから歩いて五、六分のところだ。ブラウスの袖をちょっとずらして、白く滑らかな腕に巻かれた、プラチナの時計を見た。まだ二時半にもなっていない。 「ばかに早かったじゃないか」 ボックスの片隅に小柄な身体を沈め、短い首をもたげていた。飲みさしのコーヒーが置いてある。 「だって話すことなんかないんもの」 「それもそうだ。だけど、きわどかったよ。彼、現金の前払いだ、と言い切ったぜ。執念だねえ。全く」 身震いするような振りをして残忍な笑いを浮かべた。 「石本さん、病気にならなかったら、あたし売られていたかもよ」 上目使いにちらりと見た。 「……まさか」 飯島の、客引き上手がきっかけとなり、とうの昔から出来ていた。バー〔ちかこ〕が今現在成り立っているのは、彼の優れた外交的手腕と言っていい。千佳子はその代償を自分の身体で支払っているのだ。 飯島の下品な口元と年の開きは、彼女の美貌と若さ、それに知性と、何ら因果関係はなかった。 「……じゃ行くか」 「今日はどこ?」 「プリンスホテルの703号室」 千佳子は、バッグからコンパクトを取り出すと、白い顎を少し上げ、ルージュを引き直した。 「じゃ、おれ先に行っているから」 「七、まる、三ね」 彼の目を覗き込むようにして念を押した。飯島は立ち上がってレジまで来ると、係の少女に親指を後ろの千佳子の方に向け、そのまま扉を押して出ていった。 それから十日ほどして、主治医は石本を一時退院させるため、経過観察のための腫瘍マーカーや肝機能を調べるトランスアミナーゼなどのチェックを行なった。 ところが、数値はいずれも予想をはるかに超え極めて高値を示していた。これではあと一月もすれば腹水が溜まり始め、苦痛を取り除く対処療法が必要だ。そればかりではない、肝性脳症を引き起し、訳の分からぬうわ言を言い、暴れ出すことになるだろう。 当然、退院は見送られることになった。 「やはり今のところちょっと無理ですね」 既に顔色は土色と化し、目玉だけが異様に輝き始めた石本を診察室に呼んでそう伝えた。症状が激変したのか、今や無気力となった彼は、ただ医師の指示に従い、黙って項垂れるばかりであった。医師は、この病の当然の帰結として、彼の容態を冷静な眼差しで観察した。 だが石本自身は、肉体の衰えの自覚はあったが、それが死への予知に繋がるというものではなかった。 死について何一つ考えることのなかった彼は、ただ漠然、孤独感と寂寥感に心を奪われていた。 その頃、多くの見舞い客が訪れていた。嫁いでいた娘夫婦一家を初め、親族、会社関係の多くの人々から見舞いを受け激励の言葉は数知れなかった。だがそれらの言動は、彼がおのれの現状を認識し、おのれを見つめ直し、今、尚、生きていることの意義を、たとえそれが僅かな期間であっても、考えようとする動機づけには、一つとしてならなかった。 なぜなら、人の死を、自分の死に結びつけていない、いかなる感動的な激励の言葉もパフォーマンスも、それ自体、蝉の抜け殻のように虚しいものだったからだ。 人々は、自らはあたかも死を免れたものであるかのように死を排除して、排除することによって生の意味も定かにならぬまま、ひたすらレジャーに狂奔し、鹿騒ぎをし、何しろ楽しくありさえすればそれで良かった。また、TVという一部のマスコミが、バカタレントを駆り出して、毎夜のようにそれを煽り立てた。ときには、大学教授や著名人までぐるにして引き込んだ。 死が見えにくくなった社会では、死を目前にしても、死を認めることは難しい。まして、彼らの無意識が、おのれの死を認めないのだから仕方がない。これは永遠に持続する未決定の状態なのだ。 自分の生存を続ける見通しが断切られたときに起きる死への抵抗は、猛り狂い、そして生への執着と、激しい生への欲求となる。だがこういった生命の飢餓状態は、今のこの社会ではありえない。 石本は、べッドに横たわり、ぼんやり過去を回想して時をつぶす日が多くなった。だがそれすら、記憶の底に沈んで時々陽炎のように揺らぐのみであった。 土色の肌の、かさかさに乾いてこけた表情に、目玉だけが異様に生きていた。ときどき目玉は斜め上に向き、窓越しの霞んだ空をじっと見上げていた。 もう、彼があの空を取り戻すことなどありはしない。目を閉じる。もうろうと、千佳子との約束が守れなかったことの慚愧が心を蝕んだ。 薄闇の中に浮かぶ、千佳子の顔には、もはや怒りは消えて、つれなさを恨む切なさのみが溢れていた。 ふと、再び見開いて、悲しそうな眼差しが宙を迷い康子の姿を捉えた。じっと彼女の動きを追う。 やがて、何かを訴えるかのように康子の目を捉えた。彼女は不安な表情で首を傾げ、 「何か飲物でも欲しいの?」 虚ろな眼がじっと彼女を見つめた。そこには、まさに死にかけた老いぼれ犬の目のような、絶望的な孤独感が漂っていた。 「……ぶ、ど、う、酒を」 聞き取れないほど弱々しく言う。康子は僅かばかりを水で割って持っていくと、彼を抱きかかえ、唇に浸してやった。最早飲み干す力はなかった。だが彼は、その僅かばかりのアルコールの香りに、再び儚い夢をぼんやりと見た。 彼の衰弱の自覚は、今もって、生への永続を諦めさせはしても、喪失を知覚させたりはしない。むしろある種代行として、永遠の衰弱を妄執させているに過ぎなかった。そこに、最後まで死を考えることのない、老いて朽ち果てようとする凄惨な現実があった。 「……もういい?」 抱えた彼を戻そうとしたとき、骨のと皮ばかりの、あたかもミイーラーのような干からびた手が、いきなり伸びて康子の胸を鷲掴みにした。 唐突に、痛みが彼女の胸を突き上げた。 一瞬、とびたつような恐ろしさが込み上げ、ぎょっとして夫を見下ろした。抗議というよりも、恐怖のあまり叫び出したいような衝動に駆り立てられた。 そのときふと、澱んだ彼の目がしょぼしょぼとしばたいた。何かを哀訴しているのだろうか。 抱きかかえられたまま、その眼に涙が滲んで、窪んだ頬を伝わって落ちた。落ちた涙が康子の袖を濡らした。すると、小波でも引くかのようにその恐怖は消え、自分でも不思議なほど落ち着いてきた。掴まれたまま、彼女に奇妙なときが過ぎていった。 だが、その行為を持続させるだけの力は既に失われていた。弱々しくその手が脱落してしまうと、彼女の胸に、まだ微かな痛みが残っていた。 「……やすこ」 掠れた小さな声で呼びかけた。 「何?あなた」 「おれ、…おまえを、……あいして……」 聞き取れないほど弱々しく言いかけて口を閉じた。 「……分かっているわ」 康子は、ふと思い出したように、乳房の痛みを感じたが、その疼きが次第に薄らいでいくと、突然、理由のない不安に襲われた。 消え去ろうとしていくこの痛みが、追いかけて行きたいほど、愛しく思えてならなかった。 病院は、相変わらず、善意ではあるが、極めて高い能率主義と、少なくとも外見的には患者にとって心から優しい肉体の修理工場として、日夜忙殺されていた。 だが、治療の打ち切られた死も日常茶飯亊であり、瀕死の病人も、医療従事者にとっては、物であり実験台でしかなかった。 死に携わった医師も、看護婦も介護士も、単に一個の人間の肉体の処理が終わっただけのことであって、次に待っている死をさ迷う患者のために常に備えていなければならなかった。 石本も、彼らに待たれているその一人であった。 霧のように広がる不安が、抗いがたい一つの想念に固まるのを意識して、康子は、この病院の狭間で、独り途方に暮れる日々を過ごしていた。 この先、彼女は、安らかな晩年を犠牲にしても、人生の底から何を掴むことが出来るだろう。 石本は、この四、五日、昏睡状態が続いて、死んだ。腹水で満たされた腹部は、あたかも妊娠しているかのようだった。口を真一文字に結び、顎を突き出した、どす黒い死顔は無惨だった。 だが、霊安室に運び込まれてのち、葬儀屋が来てからの、彼の死顔は、いつのまにか、穏やかに、幸福感に満ちあふれているかのように、まるで微笑んでいるかのように変わっていた。 (完) |
田尻晋
2011年02月03日(木) 15時18分58秒 公開 ■この作品の著作権は田尻晋さんにあります。無断転載は禁止です。 |
|
この作品の感想をお寄せください。 | |||||
---|---|---|---|---|---|
No.2 田尻晋 評価:--点 ■2011-02-14 15:51 ID:CUDIGjRHC3k | |||||
OZさん! 細かく私の心的描写を読んでいただき誠にありがとうござました。心より感謝したしますと同時に、あなた様に敬意を表したいと思います。 |
|||||
No.1 OZ 評価:50点 ■2011-02-13 21:08 ID:4MvGQJq3VCA | |||||
素晴らしいです。冒頭から最後まで一息もつかずに読みました。 理知的な文章で、客観的に現代社会の死というものを最後まで 見据える胆力にうなりました。言葉がでません。 50点評価性のこの感想版が残念で仕方がありません。100点です。 いえ、私ごときが点をつけるのは失礼でしょう。 >個の病や欠陥が、自我の発見や思想の広がりに繋がるほど心優しい時代社会ではないのだ。 主題となっている己の死、現代社会における死の受け止められ方に加えて、 小島信夫の抱擁家族をうかがわせるような夫婦関係の危うさと重要さを 描いている点もこの作品を魅力的にしている要素だと思います。 苦しみぬいて死んだ石本の死に顔が穏やかであったことは、妻との繋がり という唯一強固な救いの証拠であったと受け取りましたが、 ここに至るまでの石本の心の揺れや生理的な欲求が、男のもの悲しさを 切々と伝えます。会社組織や医療機関のかかえる生々しさも 圧倒的な現実をつきつけ、自分自身の未来を想像せざるをえませんでした。 非常に良い作品を読ませていただきました。 ありがとうございます。 |
|||||
総レス数 2 合計 50点 |
E-Mail(任意) | |
メッセージ | |
評価(必須) | 削除用パス Cookie |