かすれた音でラヂオが。
 かすれた音でラヂオが流れている。曲名はわからない。男が叫ぶようにジャズを奏でていた。ナレーションが入るが、僕はそのDJの説明に耳を貸さない。何故なら、ラヂオで出会った音楽は、一期一会、もう追わない方が楽で美しいからだ。それは僕の信念と言っていい。だから僕は、曲名をメモしたくないし、CDショップにも走ったりしない。もう慣れている。
 僕は、この男―大分前に録音されたに違いなく、すでにこの世を去っているかもしれないジャズのミュージシャン―の魂の叫びを、運転の片手間に聞き流す。それでいい。そう、それでいいんだ。舞い上がる砂埃は助けを求める民衆のようにバスの窓を叩いている。しかしまだ、かすかに先は見えるのだ。何にも縛られずに、前へ進みたい。
 前へ。前へ前へ。





 スタックが斜め後ろの席で、お得意の大袈裟なため息をついた。この男をバスに乗せてから、まだ二日しか経過していないが、もうこれで何度目になるかわからない。こんなに頻繁にため息をつく男だと知っていたら、初めからきちんと数えていたのに。
 (損したかもな)なんて思ったりもする。僕は一人で空想する事は好きだし、運転する事自体も好きだ。だから時間は持て余したりはしない。でも、何故か。僕はそういうくだらない暇つぶしも、好きなのだ。
 先ほどのジャズがいつの間にか歌声からトランペットのソロに変わっていた。トランペットから出る高音が悲しく明るく切なく響いている。時折ヒステリックに滑ったような音を出していたが、この演奏者はどんな感情を込めて楽器を吹いているのだろうか? しかし僕は深く考えない。僕には僕なりの聴き方があるのだから。
「俺はよ」
 スタックが微かに訛りのある英語で話しかけてきた。
「昔、トランペットが大好きだった」
 頭の後ろで手を組み遠い目をしている。僕はスタックがどうしてトランペットが好きじゃなくなったかの話―多分この流れからはそうなるだろうと思った―には興味が無かったし、何よりラヂオの局を変えてくれと頼まれるのが嫌だったので、しばらくの間無言でいた。
 ガタガタとバスは揺れながら進んでいる。街はまだまだ向こう側にあるのだろう。何も確認は出来ない。いや―砂と、いかにも砂漠らしい植物がちらほらと見える。カラリと晴れた空も見える。何もないなんて事はないのだ、そう思う。
 ガソリンの臭いが僕の鼻に気だるくまとわりついていた。


「僕は好きだぜ」
 しばらくして、僕がそう呟くように言った時も、彼は同じ姿勢で外を見ていた。小鳥が落としていった一枚の羽根のように軽い間を置いたあと、ゆっくりと彼は話し始めた。
「俺だって好きさ」
 渋い声で、彼は自嘲気味に笑う。
「昔、お袋におもちゃのトランペットを買って欲しいと頼んだことがあった。だがウチは貧乏でね、相手にもしてもらえなかった」
 そうかと言うように頷いてみせる。もぞ、と彼が姿勢を正す。
「俺の住んでいた地域はみんなそんなもんだった。俺も普段は何にも思っていなかった」
 ふう、とため息をつく。またかとも思ったが僕は無言のまま彼の話に耳を傾けていた。
「どうしてあんなにトランペットが欲しかったのかわからない。他にも楽器はあるのにな。執着していた。それで俺は思ったんだ。金持ちになりたいってな。そうすれば買える」
「そりゃそうだな。僕だってそう思うに違いない」
「そうだろ? 俺は勉強した。バーで働きながら大学に入って、卒業した。企業に就職して転職を繰り返し、ようやく生活に余裕が出来た。そして念願のトランペットを買ったよ。おもちゃなんかじゃない、正真正銘のトランペットをな」
「よかったじゃないか」
「ところがだ」
 スタックはそこで一度言葉を区切り、苦笑いを浮かべた。肩をすくめるジェスチャーをして、こう続けた。
「練習しないんだ、全然。それどころか触りもしない」と。
 どうしてだい? と続けるのが礼儀だったかもしれない。ぐいぐいと質問を続けるのは、ここアメリカでの人付き合いに必要な行為だ。それは既にバスに乗せてやったことのある数人のアメリカ人から十分に学んだことだった。
 しかし僕は質問しない。わかるからだ。彼は、時期を見誤ってしまったのだ―。理性的に。それがわかるからこそ、悲しくて、僕から話題を掘り下げることはしなかった。それに、野暮であろうとも思った。スタックは肌の色こそ完全に黒人ではあるが、落ち着いた目で物事を見極めようと努める、どことなく日本人に感覚が近い、なかなかの好人物であった。だから、彼にもわかると僕は踏んだ。僕が彼を、彼のミスを、理解しつつ黙っているということを。
 またしばらく沈黙が続いた。ゆっくり話していたため、もう窓の外は暗くなり始めている。とうにトランペットの曲は終わっている。今はニュースが流れていた。僕と関係ない地域の、僕と関係のない話題。もちろん聞き流す。僕はこんな風に時間を過ごすのが好きだった。
 無言のまま一時間は走っただろうか。
 砂漠の夜は、暗く寒い。まだ夕方だったが、僕は車を停めた。一日中運転していたせいで凝り固まった首や肩を回し、ストレッチをした。
 スタックも立ち上がって伸びをしている。
 バスの後ろに積んである大量の缶詰からいくつか選んで、スタックにも渡した。さすがに鯖の煮込みはまずいと思ってアメリカ人にはコンビーフを渡すようにしている。完全に誤算だったと今さら思っている。何故なら、日本からは肉と魚を半分ずつしか持ってきていないため、必然的に僕は魚ばかり食べることになるからだ。まあ、生臭い人間とは思われたくないから、よく歯を磨くようになったくらいしか変わりはないが。

 完全に日が暮れてくると、窓の隙間からも寒さが忍び込んでくる。しかし砂漠の中でガソリンが足りなくなると完全にお手上げのため、暖房はつけないようにしていた。
 毛布をとり、寝床を準備する。ラヂオからはバッハが流れていた。時計を見るとまだ九時だったが、最近は眠くなるのが早くなってきた気がする。生活の習慣とは恐ろしいものだ。
 スタックが無言で僕を見つめている。
「なあムラタ、お前はどうだった」
「うん?」
「一番欲しい時に、トランペットを手に入れることが出来たか?」
 無視をしようと思った訳ではなかったが、返事が出来なかった。スタックは質問をしておきながら、寝返りを打って毛布の中で小さく縮こまっていた。
 バスの天井を見る。僕は。手に入れたんだ―このバスを。
 それからしばらく考えに沈んでいたはずではある。僕は、過去という暗くじめっとした湖に飛び込んだまま―底に向かって泳いでいるままで、いつの間にか眠りについていた。記憶の水はゆっくりと僕に絡まり、その独特の粘り気で鼻や口を閉じこめてくるのだった。気がつくと息を吐くことも出来なくなっていた。手足を動かすことも出来ず、遂には沈んだり浮かんだりすることも許されずに僕はその場で漂う。


 朝になって、スタックが起こしてくれた。顔の表面で、乾いた汗がひりひりとしている。
「……おはよう」
「ああ、おはよう。顔色が悪いが大丈夫か?」
 目をこすり立ち上がる。なるほど、世界が歪んで見える。とりあえずは大丈夫だというような仕草を少し見せてからミネラルウォーターを飲んだ。
「少し寝汗をかき過ぎたみたいだ。シャワーを浴びてくるよ」
「そうか、その間俺が運転していてもいいが、どうする?」
 スタックを十分信用に足る人物だと思っている僕は、バスのキーを彼にパスした。そして、よろしく、と言ってからバスの後ろに特別に作らせたシャワー室へと向かった。
 シャワーの水が温まるのを手で確認しながらため息をつく。スタックの癖が感染したようだ。


 スタックを拾ってやったのは一つ前に通った街だった。車が盗まれ、駐車場の前で警察と話している黒人に思わず僕が声をかけた―それだけの話である。彼の目的地まで行くのに少し遠回りをするという条件付きで、彼は僕のバスの乗客になった。

 バスの振動に合わせて、シャワーの水が揺れる。髪を洗いながら僕は昨日の夢に想いをはせた。
 過去に戻れるなら、僕は戻るのだろうか。そうだとしたら、いつに? 僕にはまだ、なんとも言えない。真剣に考え始めてしまったらいつしか老人になってしまう気がする。(そうか、そうなのかもしれない)僕は一人で口元を歪ませた。老人になり死にゆく時、ようやく見えるのかもしれない。僕の戻るべき場所が。僕の本当の過ちが、いつ起こされたのかが―。


 車が曲がり、僕も少しよろけ、現実に引き戻された。考えてみれば、運転中にシャワーを浴びるのは初めての事だった。今までは誰にも鍵を渡さなかったのだから。
 スタックはいい人間だ。彼が子供の時にトランペットを得る事が出来ていればよかったのに、と思う。彼ならきっと何かを成せたのではないか。

 僕は。

 タイミングよく「トランペット」を手に入れたはずの僕は、いくら練習してもラヂオの向こうの人間にはなれなかった。
 トランペットは娯楽だ。トランペットは芸術だ。トランペットは友達。自己表現。競争の道具。社会への文化的反抗。そんなの僕は知らない。ただ心が、吹いてみたいと僕に囁いていた、そんな気がしただけなんだ。
 吹いて楽しもうとすら、考えてはいなかった。いけなかった。無だった。
 だからなのか。
 僕の旅はマイナスから始まる。


 乾いている。シャワーで水を体一杯に浴びたはずなのに、皮膚は潤わない。カサカサとした状態のまま、表面に水がつく。まるで受け入れようとはしない。水はついていても、湿ってはいないのだ。
 砂漠に入ったあとは、ほとんどの人が水のありがたさを知るだろう。その点僕の旅は水が溢れている方だと思う。それでも皮膚は乾く。一度水を忘れた皮膚は、そこに水があろうとも気がつくことが出来ないのかもしれない。
 僕はどうだろう。幸せがそこまでやってきた時に、ちゃんと気がつくことが出来るのだろうか。

 体を拭いてシャワールームから出るとスタックが振り向いた。
「見えるか?」
「何が」
「街がだよ」
 目を細めて凝視すると、確かに小さな黒い塊が見える。
「ああ……見えた」
 意外に早く着いた、と僕は思った。あの街に着けば、次に目指すのはスタックの目的地ということになる。
 僕はスタックに運転を任せたままで、バスの座席を倒して出来る簡易的な長いソファに横たわった。



 さして間もなく、車は止まった。ここらによくあるような、さびれた街だった。砂埃が家や店の壁に幾層もの跡を残している。夜になったら少しは活気でも出てくるのだろうが、カウボーイが闊歩していそうな雰囲気すらあるその中通りは、何とかコンクリートで舗装されている程度の粗末なものだった。道ばたには寂しげに植物が植えられていた。
しかし、いくらさびれているとはいえ、街なだけあって車通りも激しくなってきたため、スタックは手頃な駐車場に停車していた。
「天井をガラス張りにすればよかった」
 体を起こしながら僕は呟いた。
「……そうか?」
「ああ」
 鞄の中から適当にドル札を掴んで財布に突っ込んだ。
「だってさ、折角の空が見えないんじゃ勿体ないだろう?」
 そうか、とスタックは合点のいった表情を浮かべた。そして首を振る。
「やっぱりムラタは砂漠の人間じゃないな」
「どうしてだい?」
「そんな事をしたら車内に日差しの熱がたまって死んでしまうよ」
 スタックがバスを降りる。僕もそれに続きながら、つい苦笑した。
 ―確かにそうだ。日差しのスポットライトは僕を照らさず焼き殺すのだ。
 僕の乾いた死体を見下ろして、世間知らずと呼びたければ呼んでいい。砂漠に来るまでは誰も砂漠を理解は出来ないのだ。


 ジリジリと、舗装された道路が熱を帯びている。スタックにはミネラルウォーターの調達をお願いして、僕は食料を探すことにした。

 この空に浮かんでいるのはレモンか、ビールか。やはり身体は脳に水分を要求しているのかもしれない。どうしても、太陽の黄色を表現しようとすると、瑞々しさのあるものが浮かんでくる。
 とにかく、その無責任なほどの鮮やかなイエローは、踊り狂ったように降り注いでいる。
 そして人や車がすれ違う。光って見えるのはただの反射のはずなのだけれども、やはり、輝いて見えてしまうのは、何故だろうか。乾燥しているから? それとも何かエネルギッシュさを僕の肌が感じているのだろうか?
 ガタガタと、安いエンジンを積んだ車が砂に汚れて街を横切っていく。何も考えないで、その様子を立ち止って見続けていたくなったりする。いや、一旦は本当に立ち止った。しかし暑さに耐えきれずすぐさままた歩き始める。人間なんて現金なものだ。


 それから少しして、馬鹿みたいに大きな駐車場を構えた、小さなスーパーマーケットを見つけた。車も停まっていない広大な「空き地」に囲まれた建物は、まるで海に浮かぶ小さな無人島だった。
 早くクーラーに当たりたい僕にとってその広さは煩わしいだけである。やっとドアに手を掛けた瞬間、吹き飛ぶような冷気が僕を出迎えてくれ、安心した。さすがにこんなに小さな店もクーラーは入っているようだ。
 蜂の巣を思い出させるほどびっしりと正確に商品が詰め込まれている棚から缶詰をいくつか放り込む。熱帯雨林のように天井高く鬱蒼と続くそれのバランスを崩すのは、何だか勿体ない気がしてしまったが、仕方のない事だ。
 レジへ行くと、モグラみたいな顔をした店主が僕を睨んで座っていた。本人は睨んでいるという自覚はないようにも見える。いや、睨んでいるとも言えないかもしれない。敵意があるのは確かだ、と感じる。……警戒? ああ、そうか。僕は日本人だ。こんなに日差しに囲まれていても、肌がイエローな人間は珍しいかい?
 レジに商品の入ったカゴを置き、財布を取り出すと、急に店主の表情が和らいだ。
「なんでぇ、本当の客かよぅ」
 錆びた金網に石を包んで振り回した、そんな雑音めいた声ではあったが、それでも安堵感は伝わってくる。
「アンタぁ、ここの人間じゃあねぇな?」
 僕はそうだと頷いた。それにしても聞きにくい英語だ。
「ここら一帯は」
 店主は僕が安全な人間とわかった途端に態度が大きくなった。ゴツゴツとした人差し指を挑発的に立てて、話しを続ける。
「アブねぇやつがゴロゴロしていやがる」
 (なんだ、そんな事か)と拍子抜けした。砂漠なんてどこも同じだ。どこに行ってもこう言われる。一応お礼を言ってスーパーマーケットを後にした。


 その店主が言っていたことが本当だったと知るのは僕がバスに戻ってからの事だった。

 スタックがバスのタイヤに寄りかかって僕を待っていた。様子がおかしい。隣に見知らぬ少女が立っている。駆け寄ると、彼は血を流していた。
「どうしたんだ?」
「やられちまってなあ」
 へへ、と力なく彼が笑った。


 聞いた話を要約すると、スタックが水を買って帰る途中に、絡まれているこの少女を見つけ、助けようとしたところ男たちに殴られた、だがこれで済んだだけでもよかった、とのことだった。
 助けられた、「須藤」と名乗る女性はまだ震えている。少女と言ったが、年齢を聞くともう大学生とのことだった。身長が低いせいか、それとも子供っぽい服を着ているせいなのか、高校生にも見える。大学の休暇を利用してきたと言うので連れはどこかと聞くと、いないらしい。
 スタックの勧めでバスに乗せることにした。ああ。またひとり、乗客が増えた。


 意外に度胸のある人物だったようで、数時間もしない内に須藤は落ち着きを取り戻した。僕が彼女なら、あと3日は震え続けるだろう。バスはもう街を離れてゆったりと進んでいた。スタックはうしろの方で横になっている。
「本当にありがとうございました」
 須藤は僕に頭を下げた。
「いえいえ」
「村田さんは、ずっとこちらに?」
「……こちらとは?」
「あ、すみません。ずっとアメリカにいらっしゃるんですか? 久々に話すとやっぱり日本語は難しいなあ」
 そう言って彼女は笑った。僕は返答をゆっくりと考えているうちに質問自体に興味が薄れてきて、無言で運転することに集中し始めていた。
 ラヂオからは孤独なジャズが流れていた。ドラムが淡々とリズムを刻む中、シンガーの声だけが自由奔放に響く。まるで、大空を羽ばたくコンドルのように。
 日も暮れてきた。あんなに輝いていた太陽も今は空を妖しく赤や紫に染めるだけだ。
「わあ、綺麗」
 須藤が空を見上げて歓声を上げる。
「こんな綺麗な空、日本なんかじゃ見れませんよねぇ。東京なんて、空が汚れちゃってもう」
 スタックが苦笑いを浮かべながら、溜め息をついて起き上がる。
「ムラタ。彼女、何を話しているんだい? 俺は日本語は全くわからないからね」
「他愛もない話さ」
 ふふ、と笑いながら返事をする。須藤も拙い英語で会話に混ざってくる。
「起こしてしまいましたか? ごめんなさい」
「いや、いいんだ」
 スタックが大きな手を振る。そして湿布を慎重に剥がしながら続けた。
「日本語にも興味があるしね。ムラタにはもう言ったが、スシは大好物だ」
 アリガト、と唯一知っているらしい日本語を意味無く口にして、またスタックは無言に戻った。空を眺めている。首を傾げながら須藤が日本語で僕に尋ねた。
「あの、本当に大丈夫ですかね?」
「なにが?」
「機嫌を損ねちゃったんじゃないかって。だって、溜め息ついてたじゃないですか」
「ああ、大丈夫だよ。それはただの癖みたいなものだから」
「そうなんですか。よかったです。ほら、日本人ってアメリカの文化とかよく知らないから、私、失礼なことしちゃったのかって」
「そんなことはないよ。それより、湿布をとるのを手伝ってあげてくれないかな?」
 そうですね、と言いながら彼女は後ろの方へと歩いて行った。
 ようやく静かにジャズを聴けると思ったら、いつの間にかラヂオはブルースを流していた。それはそれで、程良い哀愁を漂わせている。(うん、いい。調子が戻ってきた)僕は機嫌よくハンドルをきった。
 スタックの目的地までもうあと少しだ。そこで彼女も置いてくればいい。そうすればまた静寂と共にドライブ出来るのだ。



 全てを吸い込むほどの闇が徐々に広がり、やがて砂漠を包みこんだ。そして僕は運転をやめ、食事をとることに決めた。
 ここ何時間か、スタックは礼儀正しく、須藤の出すたどたどしく突拍子もない英語の質問の数々に丁寧に答えていた。家族構成、年齢、好きな色、好きな食べ物、好きな動物。本当にたくさんの問いに、さすがのスタックも疲れが見えている。
「―好きな車のメーカー? ううん、そうだなあ。トヨタも素晴らしい会社だと思うよ。君は?」
「私は、古き良きアメ車が好きですね。あまり詳しくはないですが」
 背後から僕が声をかける。
「そろそろ、英語の授業もやめにしてご飯にしないかい?」
「あ、すみませんでした! ご飯はどこで食べるんですか?」
「缶詰だよ。口に合わないかもしれないけど。ごめんね」
「いえいえ! 大丈夫です!」
 そして立ちあがって、缶詰の山へと向かっていった。
 礼儀は正しい子だよな、しつこいのに目を瞑れば、と苦笑しながら小声でスタッグが囁いてきた。二人で溜め息をつく。


「お二人の小さい頃の夢は何でしたか?」
 鯖缶を食べながら、須藤が聞いてきた。それにしてもよく話す子だ。まあ、子とは言っても年齢自体はそれほど変わらないのだが。
「難しいな」
 そう言ってスタックは間を置く。
「俺のところは貧乏な街だったからな、そんなに将来がどうって言える程には余裕が無かった」
「……そうでしたか、すみません」
「何が?」
「え、いや、悪い事を聞いてしまったかな、と」
「ああ。そんなのは気にしなくていいよ。別に辛くは無かった。ううむ……そうだ、パン屋はやってみたいと思ったかな。あとは自転車屋とか、画家も興味はあった」
「そうでしたか。絵、うまそうですもんね。何となくのイメージですけど。村田さんは何でしたか?」
「僕? ……どうだろうな」
 すぐには答えなかった。そしてしばらく沈黙が続いた。外に溢れていた闇が、バスの中にも入り込んでくる。それを気にしないようにしながら、僕は今日買ったいかにも安物なパイナップルの缶詰に手を伸ばす。
「私には、長い間、通訳か外交官になるという夢がありました」
 須藤が口を開く。
「でも、受験で失敗しちゃって。英語学科に進学できなかったので、今は武者修行中です」
 須藤はそうやって舌を出したあと、また僕に話を戻した。
「村田さんも、本当は何かあったんですよね? 小学校の卒業アルバムにはちゃんと書いてるはずです」
「小学校ねぇ」
 ううん、と唸って見せる。
 彼女の予想通り、確かにはっきりと記憶している。クラスの他の生徒にも同じような事を書いている人がいた。多分どこの学校にもいる答えだ。だが僕は親に怒られた。もっとまともなことを書くべきだったと。
 タイミング良く、スタックが鯖に興味を示したのでその話は流れた。
 ……実は。僕は小学校の時書いた夢を実現している。
 だから、満足しているはずなのだ。
 満足するべきなのだ。

 それから一時間くらいゆるりと話していたが、有益な情報と言ったらアメリカ人にも鯖の煮つけが大好きな人間もいるということくらいだった。
 須藤にブランケットを渡し、後ろで寝るよう頼む。
 おやすみ、とスタックが言って横になった時、そして彼女がバスの後部に歩き始めた時、僕は日本語を使った。
「僕は、お金持ちって書いた」
「え?」
「小学校の卒業アルバムにそう書いてこっぴどく叱られた」
 須藤が何かを言う前に、僕はおやすみと口にした。
 スタックはいかにも愉快そうな顔で口を歪めていた。
「ムラタ、俺には日本語のスキルは無いが、言った事は大体わかるぜ」
 須藤に聞かれないためか、小声で言ってきたので、僕も小声で応じる。
「本当かい? そりゃあ参ったな」
「どうせつまらない夢だろう。手にしてから絶望するような」
「そう思うかい?」
「ああ」
 じっと僕の目を覗き込みながら、スタックは言った。
「最初はバスの運転手かとも思ったが、どうやら違うらしい」
「そうだね、違うよ」
「それじゃあ英語でも言うだろうからな。だから、どうせ、金持ちになりたいとか、そんなところだろう」
 にやりと笑う僕を手で制し、彼は首を振った。
「答えなくていい。うまい言葉の表現が見つからないが、何というか、俺はわざわざ真実を突きつめたくて聞いたわけじゃないからな」
 僕は小さく噴き出した。
「相棒、それはヤボっていうんだ。日本ではね」


 翌朝、僕はボサノバで目を覚ました。いい目覚めだ。今日でスタックとは最後になる。須藤とも。そして僕はまた一人で砂と戯れる。自分の決めた自由の中で。
 人里は極力避けてきたが、今日は思い切り人の群れに突っ込まなくてはいけない。人々はその地に様々な思いを乗せて赴くのだろう。スタックはただの仕事らしいが、それでもやはり大胆な気持ちになるのではないだろうか。それだけの不思議な魅力を持っているところらしい。
 ほら、薄らと見えてきた。

 ―ラスベガスだ。


「わあ、あんなにいきなり現れるものなんですね!」
 感激だなあ、と言う須藤にスタックが頷く。
「俺はもう見慣れちゃいるが、初めてだと圧巻だろうなあ。日本には、こういった夢と野望の詰まった土地はあるのかい?」
「そんなの無いに決まってるじゃないですか。ただの面白みのない島国ですよ、あそこは」
 須藤はそう苦笑いした。しかし、スタックはまたスシの話をし始め、日本をフォローし始めていた。お互いが相手の国ばかりに憧れを持っているという奇妙な光景だった。そして、醤油の作り方を教えてくれと頼まれて日本人が二人して困惑したところで、街の一番端に到着した。
 少し進むと、スタックがここまででいいと合図した。バスから降りると共に強烈なインパクトが襲いかかってくる。
 幼稚園児の描いた花畑のような甘ったるさのある香水の匂い、そして日焼け止めの匂い、いかにも身体に悪そうな油の匂い、チョコレート、アイス、キャラメル、そしてポップコーン。
 耳には同様に、雑音が飛び込んでくる。下品な笑い声、興奮した足音と叫び、スロットの回る音も聞こえる。その眉を顰めたくなるような喧騒の向こう側に耳を澄ませると、かすかにトランペットが聞こえた。今にも消えそうな弱々しい音で。いや、もしかしたら僕の空耳だったのかもしれない。ここには雑音しか、存在しないのかもしれない。

 驚く事が二つあった。
 まず一つはスタックがベガスの中堅ホテルのオーナーだったという事。だからゆっくりしていても大丈夫だったのかとこちらは妙に納得は出来た。
 しかし。二つ目は理解出来なかった。
 須藤がラスベガスで降車しなかったのだ。
「だって私は観光目的じゃないので」
 というのが彼女の主張だった。もしよければ、バスに残して下さい、と言う彼女の願いを、僕は渋々受け入れた。
 僕がラスベガスの空気が苦手だということ、それに長くいるとスタックとの別れが寂しくなってしまうということ。その二つの理由で僕らは足早に街を出た。スタックの分だけ軽くなったバスは、無表情にコンクリートの道を走り続ける。

「村田さんは夢が叶ったんですよね?」
 突如須藤が声を発した。僕が困った顔をすると、勝手に話を続けた。
「だって、すごいじゃないですか? このバス、日本で普通に業務用で使われているやつですよね。通学とかに使うやつっていうか。それなのに、奥にシャワー室とトイレまで作っちゃうなんて」
 話題の風向きが僕の望まない方へ向かっている気がして、僕はあえて無言を続けた。
「それに、こんなに長くお仕事を休んでいいなんて、凄すぎですよ! 社長か何かじゃなくちゃ、とてもじゃないけれど実現不可能な旅です。絶対に。ああ、羨ましいなあ」
「そんなことはない」
 僕は反射的に、自分でも驚くほどにはっきりとした口調で否定した。一瞬彼女も怯んだようだったが、すぐに疑問をぶつけてきた。
「じゃあ、お仕事はなにをなさっているんですか?」
 遂に聞かれてしまったか、と僕は思った。彼女はスタックに英語よりもデリカシーを教わるべきだったのではないだろうか。
「僕は働いていない」
 バスを減速させながら告白した。
「僕は働いた事がない。就職できなかったんだ」
「じゃあ何で……?」
「宝くじだよ」
 スタックの後遺症の溜め息がまたもや漏れる。
「当選したんだ。無職の時に。三億円」
 隣で息を飲む音がした。



 僕が大学を卒業してから七年が過ぎたくらいの頃だった。
 いつまで経ってもとあるハードルを超えられない僕を見限って、疎遠になる友人はどんどんと増えていた。僕は焦った。それはそれは焦っていた。しかし意地と執着が僕にずるずると巻きついてくるせいで、そのハードルからうまく逃げる事すら出来ずにいた。
 喫茶店で勉強をした帰り道にたまたま見つけた宝くじ売り場でたまたま買った宝くじがたまたま大当たりだった。
 紙くずを銀行に持っていくと、店員が大量の紙くずをくれた。それだけのことなのである。僕は何もしていなかった。
 しかし周りは違った。軽率に当選を自慢した僕にも原因はあったのであろうが、まるで津波が小島を飲みこむかのような凄まじいスピードで噂は広まった。あとはハイエナもライオンも関係なく僕のおこぼれをもらうべく襲いかかってきたのだった。
 僕は怖かった。
 僕は信じたくなかった。
 しかし事実だった。
 僕は、彼らの獲物でしかなかった。就職なんて必要もなくなった僕は急いでその場から逃げ出した。その、煩わしく辛いだけの無機質な人間関係と打算の渦から。


「でも、なんで砂漠なんですか?」
 そう須藤が首を傾げた。
「僕にもわからない。ただ、気がつくとアメリカ行きのチケットを買っていた。人が、人との繋がりが、嫌いになってしまったのかもしれない。砂と孤独の中で自分を見つめ直したかったんだろう。それには砂漠が一番だ」
「そうなんですか。でも、私やスタックさんを親切に受け入れてくれたじゃないですか。まだきっと、人を好きになる事ができますよ」
 そう言う彼女の顔を、僕は見たくなかった。それが本心でも社交辞令でも慰めでも、どんな意味が込められていたって関係は無い。
 何故なら僕は多分、本当に「繋がり」が嫌いになってしまっているのだから。だから彼女の言葉は僕にはなんの効力もありはしない。

 ニュースが流れている。僕はそれに懸命に耳を傾けて、現実から逃げようとした。しかし須藤は僕の心をえぐり取る作業を休んではくれなかった。
「それで、村田さんの言う高いハードルってなんだったんですか?」
「それは」
 肺に濃厚なバターのような気だるさが溜まっているのは、ガソリンの匂いのせいか。それとも僕が結局超える事の無かったハードルが液化して僕の体内に入り込んでしまったからなのか。
「……司法試験だよ」
「おお、弁護士ですか?」
「違う。裁判官さ」
「へえ、どうしてあえて裁判官なんですか?」
「さあね。ただ、司法に携われば金持ちになれる、そういうイメージが中高生のころにあったからかもしれない。まあ本当に儲かるはずの弁護士という職種は、どうしてか好かなかったから裁判官を志望していたけれど」
 僕は自嘲気味に笑った。ああ。あの頃の憂鬱が未だに僕を取り込もうとやってきた。わざわざ砂漠にまで憑いてくることなんてないのに。重たい色をした紫が、空気中をどろどろと漂っている。
 なんだか苦しい気分になったが、何が一番悲しくてこうなっているのかわからなかった。長い間続いた司法浪人なのか、みんなの薄情さなのか、普通の人生に終止符を打ったことなのか、それとも。
 沈黙の間、かすれた音で流れてくるニュースは無意味な情報を僕に送り続けていた。音楽だったらよかったのに。一本調子で男は原稿を読み上げている。与えられたものをそのままに。彼にもまた、自由はない。
「果たしてそうでしょうか?」
「ん?」
 完全に一人の世界に入り込もうとしていた僕は、会話が続いた事に驚いた。
「果たして、ただお金が欲しいだけの人が何年間も道を逸れずに司法試験を受け続けることが出来るのでしょうか?」
 ふと、目が合った。そして須藤はにっこりと笑った。
「きっと村田さんは、すごく裁判官になりたかったんですよ。今もまだ夢を捨てきれないんじゃないですか? だから裁くと砂漠とでイメージが繋がっただけだったりして」
 綺麗事ばかりを話す人間ではある。そしてこれはくだらない冗談でしかない。だが、今の僕の心に響くには十分なほど、不思議な説得力がある台詞だった。
 そうなのだ。僕はいつしか大富豪ではなく、司法の道を真剣に志すようになっていた。僕が一番悲しいのは司法試験に合格することが出来なかった、自分なのだ。



 その日はそれ以降会話がなかった。彼女にしては珍しく、おとなしくバスに身を委ねていた。僕は黙って運転を続けた。頑なに。あてもなく。
 外はどこまでも砂で、でもその砂は自由に飛び回る事が出来ていて、何だか何よりも自由なものに見えてしまうのだ。僕はいつしか、目を細めて一粒一粒を見極めようとしていた。だけど、見つからなかった。砂の世界から抜け出せすことの出来た砂は。どんなに開放的に天まで突き抜けようと、いつかは他の砂と共に地面に吸い込まれていく――。

 次の日の昼になってようやく僕が口を開いた。
「君の言う通りかもしれない。僕は、人々を救えるならば救いたかった」
 須藤が嬉しそうに僕を見る。
「でも僕は、人々に裏切られ、傷ついたんだろうね。親友も何もないさ、あの時は。さあ、この話はここまででやめにしようぜ」
 おもむろに地図を引っ張り出す。
「次の街はどこがいい?」
 彼女は残りの一カ月の内出来るだけ長くこのバスにいたいと主張した。そして。
「あとはですね、観光客で溢れていないような街がいいですね。英語をたくさん使いたいので」
 そんな街は、ラスベガスより東にはたくさんある。どうやらこれまでと同じくぶらぶらと走って行けそうだ。



 三日間は何事もなく時が過ぎた。
 須藤は、英語が上手な僕をしきりに羨ましがっていたが、悪い気はしなかった。彼女は長い間自分の話ばかりしていた。
 ずっとアメリカに来たかったこと。母親が英会話スクールの講師だということ。大学生になって田舎から上京して東京の喧騒にうんざりしたということ。ラスベガスのような夢が溢れた賑やかさとそれは違うということ。今までこんなに長い間家族以外の男性とは一緒にいたことがないということ。
「私って女としての魅力に欠けていますかねえ」
 溜め息をつきながら須藤は言った。
「いや、そんなことはないんじゃないかな?」
「そうですかねえ?」
 正直、僕には義務感が湧いてきていた。世間をよく知らないこの女性を、無事に大学に戻してあげたい。普通の場所で普通の人間と恋に落ちるべきだ、と。はしゃぎたい時期なのかもしれない。だが、憧れで人を好きになっても報われはしない。それは言葉ではうまく伝えられないだろう。とにかく、この一カ月だけは。英語学習に集中して欲しかった。
「そうだよ、だから大学に戻ったらたくさん恋をしたらいい」
「ふうん……」
 不満が残ったような声で彼女は肘をついていた。


 そのまま。進んでいけばいい。バスの運転に集中していこう。ジャズに。トランペットに。
 ガタガタと、無機質な道を歩んでいく。


 五つ目の街を過ぎた頃だった。
 夜、いつものように僕はバスの運転席の近くで毛布にくるまった。しかし、なんだかいつもの感じではなかった。背後に、気配を感じる。僕は、はたと動くのをやめた。無言で、そこにいる「女性」は僕を見つめている。僕は振り向こうかとも思ったが、やめた。溜め息もつかない。ひっそりと、動かずに「女性」が去るのを待っていた。
どれくらいの間かはわからない。張りつめた空気が身動きをとらない僕の首に手をかけているかのようだった。


 「女性」は、溜め息をついて、バスの後ろに消えた。

 これでいい。


 次の日の朝早くに、少し大きな街についた。僕は、なるべくいつもと同じように須藤に接していた。
 そして僕たちは別々に買い出しに向かった。スタックとのこれはうまくいっていたのだが、これがまずかった。


「すみません、いつも絡まれちゃって」
 重い荷物を引っ提げてバスに戻った僕に、須藤が苦笑いして頭を下げた。
「何かあったの? 大丈夫かい?」
「ええ、何とか無事でした。彼が助けてくれたので」
 いかにもアメリカ人、という雰囲気の金髪男が彼女の横に立っていた。デレクと名乗るその男は、今時珍しいほど、カウボーイそのものの格好をしていた。甘いマスクの保安官、といったところだろうか。真っ黒に汚れたギターケースを背負いながら、彼はにやりと笑った。
「オイ、日本人よ。甘過ぎるぞ。この界隈はアブねえやつがゴロゴロしてるんだ。女の子を一人で歩かせちゃ、いいカモだぜ」
 聞きなれたフレーズに僕が答える前に、須藤が深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい。私達の考えが甘かったの」
「いやいや、お嬢さんが謝ることじゃねえぜ」
 謝るのは僕だとでも言いたげに、彼はジッと僕を見据えた。
「そう言えば、お二人さんはメキシコの方に向かってるのかい?」
「ああ、まあ一応ね」
「じゃあ俺と目的地は一緒だ。なあ、俺もこのデカイ車に乗せちゃもらえねえかなあ? 礼儀正しいんだろ? 日本人はよ」
 僕が悩む時間も与えずに、須藤が勝手にイエスと言った。オフコースと。
 なんだか、嫌な予感がする。
 乗客はまた一人増えた。僕の望まない方向に、人間関係という名の触手が伸びていく。



 デレクは大雑把ではあるが、案外と好人物ではあった。人当たりがいい。言い換えるとお喋りなやつだった。後ろで須藤と二人、ずっと話しこんでいる。
「俺はイラクで地獄を見てきた。あそこには何もない……恐怖と絶望以外はね」
「怖いですねえ」
「そんなもんじゃ済まねえ。あそこで俺の親友も命を落とした。悪夢のような土地さ」
 僕はつい口を出す。日本語で。
「でもアメリカが仕掛けた戦争だ。何人のイラク人を惨殺したと思っているんだ、こいつは」
 須藤が非難めいた目で僕を睨む。
「そんなこと言ったって、デレクには関係ないじゃないですか。ただ、彼はアメリカの平和を守るために尽力しただけですよ?」
 おいおい、と言いたくなるが、堪えた。
 砂漠と言っても、ここらは車通りも激しいし、確かに柄の悪い人間が多い。デレクは一応、ここらの人間だし、用心棒として役に立つだろう。そう言い聞かせた。


 人懐っこい笑顔で、缶詰の変更をいつも頼んでくるのにも慣れた。いびきがうるさいのも仕方あるまい。
 しかし、許せない事があった。デレクのギターだ。
 勝手にラヂオを切って、バスの中で演奏を始める。いつも同じような曲しか弾かない彼に、うんざりし始めた。

 ある日の夜、デレクがシャワーを浴びている最中に僕は遂に口にした。
「デレクには気をつけた方がいいぜ」
「何がですか?」
 ムッとした表情を浮かべる。最近はいつもこうだ。
「あいつは恋愛やそういう事では信頼できないタイプだと思う。何となく、わかるんだ」
「何ですか、それ。デレクは優しくていい人です。村田さん、アメリカがお嫌いなんですか? 嫌いならなんでわざわざここにいるんですか?」
 ―もう何を話しても無駄かもしれない、そう痛感して、僕は彼女を心の中で見捨ててしまった。盲目的な須藤は、僕が何を言っても人間嫌いと言って片づけてしまうのだろう。


 時間は止まらない。僕の孤高を守る砦の崩壊も止まらない。そしてバスも進み続けた。そうして着いた新たな街で、僕はガソリン、デレクが水、須藤が食糧を手に入れる事にした。須藤を一人で買い物に行かせたくは無かったが、その方が効率が良いと二人は主張した。
 僕はすぐに用を済ませてバスで待っていた。そして、集合時間をかなりオーバーして帰ってきた須藤とデレクを見て、自分の義務感は無駄だったと確信した。
「御馳走さん」
 僕の耳元で上機嫌に囁いたデレクを、僕はまたバスに乗せた。ここで降ろす理由を話すのも煩わしくなっていた。
 そうするともう僕のバスの崩れるスピードはさらに上がっていくことになった。どこまでも止まらなくなりそうなほどに。そしてその瓦礫の上には新たな人間模様が作り上げられていくのだ。僕の死体は地面の深くに眠らされている。
 デレクと須藤はいつも二人で後ろの席に座り、楽しそうにお喋りをしていた。
 そこにはジャズの欠片もない。
 須藤は壊れた「トランペット」を掲げて嬉しそうにしている。僕が大金を得た時のように。僕の勝利の幻想は、友の裏切りと薄情さによって結末を迎えた。
 彼女のトランペットがどうなろうと、僕はどうしようもない。
 僕自身もまだ闇の中なのだから。
 無力な僕はただ無心でバスのハンドルをきっていた。

 デレクの目的地まではもうほとんど距離が無い。須藤はバスに残るのか。それともデレクと一緒に降りるのか。降りて欲しい、僕は心から思った。当たり前だ。
 もう、どうでもよくなっていた。何故、繋がりから逃げたくても、また新たなしがらみが出来てしまうのだろう。僕は逃げたい。僕は一人になりたい。
 ―僕は。



 終わりは呆気なく訪れた。

 みすぼらしい小さな町に着いた。今にも砂に埋もれそうな場所。家畜の臭いに、強い風。太陽は砂埃で隠れていた。
「おい、どうする?」
 デレクが僕に尋ねた。
「どうも治安の悪そうな町だぜ。この車を奪われかねないんじゃないか?」
「そうだな……じゃあ僕と須藤さんで買い出しに行って、デレクには留守を守ってもらう、これでいいかい?」
「おう、任せときな。ただ、スドーが危ない目にあっちゃあ俺が許さねえぜ?」
「わかってる。一緒に回ることにするよ」
 気をつけて行ってきな、と、デレクは須藤の額にキスをして言った。
 須藤は買い物の間中、デレクの優しさについて無駄な話をしていた。彼は良い人間だということはわかっている。バスを盗まないということもわかっている。だから留守も任せた。
 しかし、僕は本当の意味では彼を信じてはいない。彼もまた、薄情な人間なのだ。もう僕は誰も信じたくはない。あと少しでこの煩わしさ、そしてこの陰気な砂漠から逃げ出せる。僕は西側の砂漠が好きなのだ。何がメキシコだ。
 僕の苛立ちが彼女に伝わらないのも嫌だ。貧乏ゆすりがしたくなる。
 嫌だ。
 嫌だ。
 本当に嫌だ。

 一通りの買い物を済ませて僕らはバスに戻った。そして僕の車の異変に気がつく。
 バスの中からは知らない女の叫び声がしていた。相手はもちろん―。
 僕と同じく須藤も一瞬立ち止った。驚いて目を見開いたままバスから漏れる音を聞いていた。まるでその女の声は、壊れたトランペットの音色だった。下品に吹き飛ぶその声の原因を確認しようと、須藤が走りドアを開けていた。
 悲鳴。
 須藤の悲鳴。知らない女の悲鳴。デレクの大声。
 どこにもない。
 どこにもないのだ、僕が自由に落ち着ける場所は。バスすら支配出来なかった。



 気がつくとバスに背を向けて走っていた。
 先が見えないような汚い褐色の砂漠。岩がゴツゴツと行く手を阻んだが、それでも僕は走り続けた。
 こうすれば自由になれるかもしれない。
 いや、なるんだ。
 そうしているうちに、砂が足に纏わりついてきた。そして手にも。顔にも。
 僕は立ち止り、項垂れた。


 輪廻転生、そんな言葉が頭に浮かんだ。もしかしたら、今死んでもまた、僕は自由になれず人や砂や金に縛られ溺れ死ぬのかもしれない。いつまでも、この苦しみの輪の中で。出来る事なら戻りたい、そう思ったのは、少年時代ではなかった。宝くじをみんなに自慢する前でもない。それは――。


 砂に埋もれたまま、意識が薄れていく。僕は死ぬのかもしれない。縛られもがき苦しんだままに。



 何者かが僕の肩を掴んだ。そして抱きかかえる。大声で叫んでいるようだ。しかし僕にはもう聞き取ろうとする気力も残ってはいない。



 戻りたい。







 かすれた音でラヂオが流れている。曲名はわからない。男が叫ぶようにジャズを奏でていた。ナレーションが入るが、僕はそのDJの説明に耳を貸さない。何故なら、ラヂオで出会った音楽は、一期一会、もう追わない方が楽で美しいからだ。それは僕の信念と言っていい。だから僕は、曲名をメモしたくないし、CDショップにも走ったりしない。もう慣れている。
 僕は、この男―大分前に録音されたに違いなく、すでにこの世を去っているかもしれないジャズのミュージシャン―の魂の叫びを、運転の片手間に聞き流す。それでいい。そう、それでいいんだ。


 スタックが起き上がり、溜め息をついた。
「そろそろ運転を変わろうじゃないか」
 新聞を畳んでかごに入れる。
「それに、勉強もしなきゃだめだろう?」
 僕は笑顔で頷き交代し、後部座席に寝転がった。ボロボロになった六法全書。ボロボロになったノート。僕はにやにやと笑って呟いた。
「繋がり、か。このバスが目印になったお陰で生きていけるとはね」
「ん? 何か言ったか?」
 スタックが振り向く。前を向いて運転してくれと頼みながら、僕は尋ねた。
「なあ、なんで僕を探しに来てくれたんだい?」
 ふふ、と彼は笑う。
「そいつぁあ聞くだけヤボだろう」
ころんぶす
2011年02月01日(火) 00時09分26秒 公開
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■作者からのメッセージ
雰囲気と読みやすさを重視しました。

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No.4  鮎鹿ほたる  評価:30点  ■2011-03-07 17:10  ID:O7X3g8TBQcs
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こんにちは。
雰囲気や読みやすさは感じられました。
ただ、ちょっと内容が薄めだったかな・・・でも、これはそういう作品なので文句言ってもしょうがないですね。
私としてはいっぺん、ころんぶすさんの濃いやつをガツンと読んでみたいと思いました。
No.3  zooey  評価:40点  ■2011-02-06 23:30  ID:qEFXZgFwvsc
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読ませていただきました。
あと、作品にご感想もいただきまして、ありがとうございます。

とても素敵な作品だと思います。
個性的でいて、フッとイメージが浮かんでくるような、心地よい比喩表現が多くて
作品の雰囲気を出していたと思います。

主人公の孤独を求める心と、その裏返しの人恋しさが、
良く伝わってくる一方で、そのねじれた部分がユーモラスに感じました(私はですが(笑))

キャラクターも、それぞれがいい味を出していました。
それぞれの個性を持っているけど、
作品の中だから成立するような「偽物っぽさ」がなく、
リアリティのある個性だったように思います。
表現が難しいんですが、
ただの「典型像」でないというか、偽善的でないというか……。とりあえず、好みの描き方でした。

ラストも、良かったと思うのですが、(とくに最後のセリフがいいと思いました)
HALさんが書かれているように、ちょっとわかりにくかったです。
それがなければ、「50点!」っ書きたかったんですけど、
厳しめで40で(^^)

きっと、また読ませてただくと思うので、よろしくお願いします。
No.2  ころんぶす  評価:0点  ■2011-02-06 00:50  ID:OLsPAB8ZK6w
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HAL様

ご感想ありがとうございます。
HAL様には前回の作品にもコメントをいただけましたよね。本当にありがとうございます。感謝しきれません。

素敵な空気、ぐいぐい引き込まれて、と、思わずジャンプしてしまいそうになるくらい嬉しい評価をいただけて嬉しいです。
ラストは、そうですね、かなり説明不足になりました。シリアスな映画などでつかわれるような、途切れ途切れのコマを送っていくような手法を試みて、失敗しちゃった感じです。
スタックのその後について、もう少し匂わせるような会話なり場面なりがあっても良かったですよね。

「女性」は、須藤さんが自分に自信?のない女性なので、自己確認というか自分の中では惚れたと思いこんで主人公に迫ろうとして、思い直すシーン。
もしくは、逆に、須藤さんを襲いたい性欲を、なんとか抑えようとしている(バスの後方で寝ている須藤さんの女性の部分を感じている)シーン。

二つの読みとり方が出来るように試みたのですが…こちらも失敗っぽいですね。欲張らないように気をつけます。

大変参考になるご意見、有り難くこれからの作品に活かさせていただきたいと思います。ほんとうに、ありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。
No.1  HAL  評価:40点  ■2011-02-02 20:18  ID:s4cYP.plTQ2
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 拝読しました。

 雰囲気、読みやすさを重視されたというだけあって、とても素敵な空気のある文章で、ぐいぐい引き込まれて読みました。主人公のふりきろうとしてふりきれない寂しさが、みずから孤独を選んでおきながらその孤独に押しつぶされそうになっている感じが、胸にせまってきて。

 すごく面白くて、夢中で読んでいたのですが、終盤までの面白さにくらべて、ラストがなんていうか、あっけない感じがしました。あっけない、というとニュアンスが違うかなあ。省略、空白が、ちょっと大きすぎる感じがします。
 結末をあまりくどくどと書かずに、読み手の想像にたくすのもいいと思うし、そのあたりの加減はひとによって好みのわかれるところだと思うのですが。ラストシーンで主人公がひとり砂漠に向かって走りだしたあと、いったい何がどうなったのか、そこを想像するだけの手がかりが、わたしにとっては少なすぎたという感じです。
 メキシコ(かその近くのどこか)に停めたバスから走り出した主人公を、スタックが見つけて、命を救った……のかな? でも、スタックはラスベガスで降りたはずなのに、どうして。まさか、延々と追いかけてきたの? それにしても、主人公がいる地域が、スタックにはどうしてわかったんだろう。バスがめだつっていっても、そんなピンポイントでいまどのあたりにいるかわかるものかな。「こんなバスを見なかったか」って延々と聞き込みしてまわったとか? そしてタイムリーに追いついたってこと??? ……という感じでした。

 あと「女性」はけっきょくなんだったんでしょう? だれかの幻覚(または亡霊)と思ったのですが、読み方がおかしかったでしょうか。正体は、明確に描かれる必要はないのかもしれませんが、もうすこし正体の片鱗なりと、ほのめかしてほしかった気がします。……といいつつ、大事なキーワードをわたしが読み落としていたらごめんなさい……(汗)

 読解力の不足ゆえか、その二点、疑問が残ってしまったのですが、ともかく、読んでいてすごく面白かったです。面白い、といういい方が適切でなければ、つよく惹きつけられる、引力のある小説でした。

 拙い感想、それから自分の拙い筆は思い切り棚に上げた好き勝手な発言、たいへん失礼しました。素敵な小説を読ませていただいて、ありがとうございました!
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