不在の魔女 |
あれはいつ頃のことであったか。私の住むマンションの向かい側に、それは古い瓦屋根の家屋が建っていた。五階建てマンションのうちの三階を根城とする我が家からは、習字の墨を十分に磨らなかったような、ちょっと灰色に近しい黒の瓦しか見ることは出来なかった。 しかも三階という実に中途半端な高さのせいなのか、その屋根の全貌を見とめることもできず、瓦屋根の頂上より向こう側は、結局一度としてみることはなかった。 でも洗濯物を干すためにベランダに出ればその屋根に自然と目がいくし、雪が積もった日などは真っ白になった瓦屋根めがけて小さな雪球をなげつけ、弟と二人、どちらがたくさん飛んだかなどと競ったりもした。 そして、マンション1階の駐車場兼駐輪場に降りていけば、私にとって、その瓦屋根の家は単なるオンボロの家ではなくなった。駐車場からみるその家は、気味が悪いのである。薄気味悪さの原因は、長年の汚れを幾重にもためこんでしまったうす暗い壁と、壁全体に絡みついた蔦である。 幼いころはそんな不気味な様をみて、あれは魔女の家なのだと勝手に自分で決め付けて一人で怖がったり、怖いもの見たさで壁のそばまで近寄っていったりしたこともあった気がする。 気がする? 違うな。 そう、確かにあったのだ。そんなことが。 いつであったかはっきりとはしないけれど、幼い私はマンションの駐車場にまでせり出してきたその蔦を引っこ抜いて家に持ち帰り、鍋で煎じて魔女の薬を作るんだと騒いだこともあったか。 これが自分ではない、だれか別の人の思い出話であれば、私はほほえましく思うのかもしれない。だけれどそれが自分自身のことだから、ほほえもうとしても、どうにも眉がさがってしまうのだ。おっかないのをこらえ、なんとか手に入れた蔦を鍋にいれ、それを満足げに抱えた私は、それを火にかけてグツグツさせるのだから台所を使わせろと、せがんだはずだ。しつこくせがまれた母だとか、その様子を側で見ていたのであろう弟に、あの時のことを思い出されるのは出来ればご遠慮願いたい。だけどその一方で、誰も知らない、誰も入り込めない私だけの領域には、何時までも留めておきたいとも思うのだけど。 でもまあ、多分、隣の家の壁がきれいに消失した今となっては、もうあの時の私の滑稽な珍騒動など誰かが思い出すことはないだろう。 そう、壁はなくなったのだ。瓦屋根は消えてしまったのだ。 わが根城であるマンション三階のベランダに洗濯物を干すときに見えるのは、見事に雑草ジャングルになった空き地となってしまったのだ。 結局、私は瓦屋根に住む魔女の姿を見たことは、一度としてなかった。 かつての私の逞しい想像力により、魔女が住みつき、その家の棚には色とりどりの蛍光色の液体で満たされた瓶が並べられ、壁には箒、天井の四隅には蜘蛛の巣が張られ、魔女の僕の蝙蝠や猫が徘徊するまでになっていたあの家は、ある日突然屋根を引き剥がされた。魔女の薬の重要な材料である蔦の絡みついた壁も、打ち壊された。 そして呆気なく、私たちの前にその全貌をあらわにした。 その建物はごく普通の人間の生活していた匂いを感じた。風呂場があったのであろうか、タイルの残骸までが最後には晒されていた。 自分のお気に入りの秘密にいきなり穴をあけられたようで、私の心はかすかに曇った。 しかしすぐに大人の私は肩をすくめて嗤う。だいたい瓦屋根の家に魔女が住んでいると思う発想自体がおかしすぎるんだよね、と。私はすでに十代を終えた大人の身になっていたのだから。でも、そんな大人になった私だけど、ひとつの淡い期待を持ってみた。 ふん、魔女の家をこんなにした報いは絶対あるんだから、と。 思ってみて、それこそ、こんな進歩のない自分の思考回路を誰かに見透かされてやしないかと、即座に頭の中を換気した。 その後、見事な雑草ジャングルとなっていった魔女の家の跡地は、夏の日差しが緩むころ、すっきりした更地に戻された。どうも買い手が見つかったらしい。そして我が家と同じようなマンションが建つらしいことがそのうちわかった。しかも、三階の我が家など軽々追いこしてしまうような高さになるそうだ。 近隣住民説明会に参加した母親がもらってきた完成予想図を見て、私は眉をひそめた。そこにあったのは近代的で洋風なマンションで、1階の小さな庭の芝生にはおしゃれな木々が植えられ、最上階である五階には巨大なガラス窓まで取り付けられるらしい。それが今の若い人にとても受けがいいそうだ。 魔女の家の薄汚い壁も、雨に打たれ続けて色褪せてしまったような墨色の瓦も、家を覆うようなちょっと気味の悪い蔦も、そこに入り込む隙間はないだろう。 あの異様でいて一種の夢物語的な空間の余韻は一欠けらも蘇りはしないのだ。 ――魔女よ、怒れ もしかしたら、そんなことも思ったかも知らない。 恥ずかしくて、あえて記憶など辿って確認することなどしないけれど。 十月頃には始まるといっていた工事は、なかなか始まらなかった。 そして十一月の中ごろであったか、ひとつの話しが耳に届いた。 マンションを建てようとしていた会社の社長が捕まったらしい。なんでも税金関係の不正な知識を、客に手ほどきしていたそうなのだ。だから自業自得といえばそうであるが、それを聞いた私はニヤリとした。 ――魔女、万歳 |
香咲ふう
2011年01月10日(月) 21時47分21秒 公開 ■この作品の著作権は香咲ふうさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.8 香咲ふう 評価:--点 ■2011-01-14 21:52 ID:aNf544Ntfvo | |||||
>桜井隆弘さん 色々と参考になるアドバイスをありがとうございます(*ノωノ まだまだ書きあげるのが精いっぱいで、話の膨らまし方など、 どうしてたらもっと良くなるのかわからず、手をこまねいていたため、 具体的なご意見をいただけて嬉しいです。 詩も読んでくださっていたのですか! ドキっとしていただけたようで、嬉しい限りです(笑) |
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No.7 桜井隆弘 評価:20点 ■2011-01-13 00:19 ID:kDCQnIbv2M2 | |||||
香咲さんは、詩板によく投稿されているんですよね。 『時間という迷宮』は、僕も読んでドキッとした一人であることをここに記させていただきます(笑) 情景描写や、思い出話などはとても上手くて、見習いたいなと思いました。 一方で、オチがインパクトにやや欠けたように感じました。 成人して、魔女を信じることを恥ずかしいことだと思いながらも、心の奥底ではまだ信じている主人公―― 子どもと大人の境界線に位置する不安定な描写が上手いなと思ったんですが、ここは思い切って「子ども」の心理を強く残しておいた方が、オチがより際立った気がします。 尺的にも、「怒れ」後の工事の件を、主人公の心理を絡めてもう少し長くした方が、「万歳」が生きたのではないかなと感じました。 思い出されるのをご遠慮願いたいことは僕もたくさんあって、共感しながら読めました。 ド素人が偉そうなこと書いてすいません……。 |
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No.6 香咲ふう 評価:--点 ■2011-01-12 21:24 ID:aNf544Ntfvo | |||||
>みーたんさん 感想だけでなく、誤字指摘までありがとうございます。 じつは濁音嫌いの傾向があり、時々こういうのやるんですw 妄想ですか!(笑)その一言に爆笑させていただきました(`▽`* >zooey さん 読んでいただいただけでなく、感想まで残していただきありがとうございます。根っこがどうも幼いようで、このようなまとめ方になってしまいましたが、気持ちよかったと言っていただけてホッとしております。 こちらこそ、色々と読ませてくださいませ(^▽^* >naikiさん 丁寧な感想をありがとうございます。 なんだか弱点ポイントを見透かされているかのような、コメントでちょっとドキリとしました(笑) 長めの小説は書いたことがないのです。そして登場人物の性格をきちんと描き出すということが不得手でして…。 途中のどこかで一点に強く印象付けられるエピソードを作る、ですね。これを含めて今度から少しずつでも成長していかれたらと思いました。 色々と参考になるご意見をありがとうございました。 >新地さん 感想をありがとうございます! ご指摘の点、たしかにその通りです。実はこの小説の大筋は私が数年前に書いたもので、その時の私が、“現在の私”として描かれています。それを数年後の私が加筆修正を一部加えた結果おかしな部分が生じたのだと思われます。 直していてもあれ、時間感覚がおかしい?と自分でも一瞬思い、一部目立ったところは修正したのですが、結果的に小手先の修正となってしまったようです。。鋭いご指摘をありがとうございました。 >HONET さん 感想をありがとうございます。 時間があいまいになるという話、ご指摘ありがとうございます。。本当にお返しする言葉もないくらいです。もともとの話を数年前に書き、それを今の私が加筆修正し、その修正がお粗末だったためだと思われます。。以後よくよく気をつけていきたいと思います。 魔女をもう少し強い存在にすると確かに物語全体が、もっと読ませる内容になりそうです。ただ今の私にそれをする筆力と発想が不足しているため、もう少し精進したとき、読みなおし書き直しをしたいなあと感じました。色々と励みになる丁寧な感想をありがとうございました! |
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No.5 HONET 評価:30点 ■2011-01-12 10:28 ID:WxZVLZ.IGNs | |||||
読みましたので感想を。 エッセイ、と仰っておりますが、なるほど確かに淡々とした描き方ではあるのかもしれません。しかしそれが不思議と心地よく感じられる作品だったように思います。 主人公の「私」について、ややつかみづらいところはあったのですが(思い出であるのか、今であるのかの時間軸が、ややぼやけている箇所が見受けられたように感じました)、これについてはそれを直したから面白くなるかというと、別の話ですので、頭の片隅までに。 あくまで、魔女が「私」の想像にすぎない存在として描かれているからこそ、最後のそれでも存在するのではないかという引きが活きていると思うのですが(タイトルもそのため合っている感があるのですが)、反面想像に過ぎない存在として描かれているためにどうしても魔女が弱く見える、という難点もあるように感じます。 バランスがよく、好みではあるのですが、もう少し魔女の存在が確かなものとなってくるのであれば、また話も変わってくるのかな、などと考えたりしました。 感想のみで失礼いたします。ありがとうございました。 |
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No.4 新地 評価:30点 ■2011-01-12 02:30 ID:py5g4zrHdBA | |||||
面白かったです。ああ、こういうことってあるな、という感じがしました。 先に気になったことから先に言いますが、最後まで読んでみて、あえて思い出として語られている理由が分かりませんでした。(おそらく、建て直しが中止になってから随分たったあとの、思い出話ですよね?)妄想が恥ずかしいと思うのが今の私なのか、当時の私なのかも、思い出として語られているために少し分かりづらくなっていると思います。 それは別として、思い出が語り部のなかに、こんなふうに残っているんだな、というのが感じられて、読んでいて面白かったです。 |
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No.3 naiki 評価:30点 ■2011-01-11 23:31 ID:c.P6HFmsIFo | |||||
ただの妄想、と片づけてしまえるような考えを、語り手たる主人公が自身で否定しつつ、それでいて心の奥では強固なまでに信じている……という、相反する思考のバランスの取り方が良かったと思います。。 魔女の家という考えに対する執着、魔女に対する憧れの奥に何かが隠されていそうな気配など主人公の内面や、実際に魔女が存在していたかどうか、いろいろ想像できる余地があるのも面白かったです。 ……などと思う一方で、真逆のことを書いてしまうのですが。主人公の思考についてもっと読みたかったな、とも考えてしまいました。魔女の家への執着の度合いを示す言動であったり、子供の「私」と大人な「私」のせめぎ合いであるとか、心の変遷がもっと書かれていれば、結末がもっと活きるのではないかと思えたのですね。積み重ねた末で『――魔女よ、怒れ』とくれば、かなりぐっと来るのではないかと。(もっとも、これは私の好みでしかないのですけども……) 魔女についての言及はもっとあっても良かったように思えましたね。魔女の家にまつわる逸話を織り交ぜるなど、間接的に良いので、その存在についてもっとほのめかしてあると、これもまた結末に活かせるように思えます。 個人的には、もう少し長さと重さを持った形で、この物語を読んでみたかったところです。 が、軽妙さを失わない書き方も素敵だと思うので、途中のどこかで一点に強く印象付けられるエピソードを作るとか、語り手の性格にもっと特徴づけがあれば、が読後の余韻も強まるのではないかなあ、と。なんとも歯切れの悪い書き方で申し訳ないですが……。 ともかくも私好みの作風で、楽しむことができました。 |
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No.2 zooey 評価:40点 ■2011-01-11 20:35 ID:qEFXZgFwvsc | |||||
初めまして、感想書かせていただきます。 とても良かったです。 最後まですらすらと読めました。 文章が丁寧だから、読みやすいんでしょうね。 子供のころのちょっとわくわくする思い出が伝わってきました。 成長した後に、自分の信じていたものが崩れてしまうのは悲しいし、 そういう喪失感を描く作品は好きなのですが、 この作品は、そういう喪失感が最後で覆される感じがして、気持ちよかったです。 また、ほかの作品も読ませていただきますね。 ありがとうございました。 |
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No.1 みーたん 評価:40点 ■2011-01-11 19:24 ID:j6mwoV7KTlw | |||||
何というエッセイ、と思いながら読んでしまいました。すいません。 何と言ってもテンポでしょうか。 やはりエッセイ調なのかつっかえさせる言葉がなくて、ありのままの主人公の気持ちと回想がさぁぁっと伝わってきました。 その分、頭のなかで勝手に魔女を作ってしまったことは言うまでもありませんw 物語終盤の、 >その建物はごく普通の人間の生活していた匂いがした。 のところなんですが、 >ごく普通の人間【が】生活していた匂いがした。 のミスですか? そこだけが、あれぇぇってなりましたw いやはや楽しませていただきました。 存分に妄想したいと思います。 |
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