その、麦わら帽子
 平屋透ひらやとおるは、自分がその”黄昏の平原”に迷い込んでから、一体どれくらいの時間が経っているのかわからなかった。感覚的にはまだ一週間のような気もするし、果ては一ヶ月経っているような気もしていた。彼も最初のうちは、頭の隅っこで一つ、二つと淡々と日数を数えていたが、やがてはたと止めてしまっていた。それほどに、彼はこの場所が心地よく、元の世界へ帰らなければいけないという、焦燥感がなくなってしまっていたのだ。
 ――いや、きっと、そうじゃないんだ。僕は最初から、あんな世界にいたいとは思ってなかった。そう。僕はずっとこの場所を探してたんだ。
 透は思う。
 目の前に広がる、一面の草原の海。果ても無く続くそれは、空の朱色と歩調を合せるようにして赤く染まっている。淡く優しい風が草達を揺らし、そのざわつく様な音色が、透には心地よくて堪らない。そして、彼の隣には、一本の大きな樹と赤レンガで造られた、小さな家があり、家の三角屋根を上から隠すように伸びた緑樹の枝が、家の前にある小さな庭のような空間に、シンプルなブランコをぶら下げている。木の板を、二つのロープで吊った、本当にシンプルなブランコ。少し横長であり、大人二人が並んで座っても、何とか収まりそうだった。今は誰も乗っておらず、淡い風で遊ばれるようにゆらめくだけだ。
 ふと、レンガの家から、麦わら帽子と、白いワンピースに皮のサンダルという格好をした若い女性が出てくる。黄昏の中でもわかるほど、白く透き通った肌に、艶やかな長い黒髪。人形のように整った美しい顔立ちをしていた。しかし、ワンピースの袖から見える白すぎる肌は、人にしては不自然なまでに光沢を放っていた。そして、手首と肘関節、女性の見える関節すべてに、丸い球体のようなものがあった。彼女は人間ではなく、人形なのだ。顔だけが、人間そのものであり、最初に透が彼女を見たときも、手首に浮かぶその丸いものが認識できなかった。今でさえも、時々、ふっと違和感を感じることがある。肝心の彼女自身は、そんなことは関係ないと言わんばかりに堂々をしていて、透はそう思うたびに、裁縫の細い針が心臓に刺さったような、軽い罪悪感を感じた。
 彼女はやわらかな笑みを浮かべながら、透の方へと近づいてくる。風で帽子が飛ばないよう、片手は頭に添えていた。
「トオル。貴方は、いつも何処を見ているの?」
 そよ風のように優しい声だった。
 二周りも背が低い透を、彼女は見下ろす形となる。当たり前だ。透はまだ小学五年生になったばかりで、加えて、元々背が高い方じゃない。彼女の方も背が高めということもあって、その差は決定的な距離を生んでいた。と言っても、透は自分の生理上の限界は諦めていたし、劣等感というものもあまり感じていなかった。
「何でもないよ。ただ、綺麗だなって思ってただけ」
 透は嘘をついた。
「それより、古都子ことこさん。ほら、見て」
 そう言って、透が古都子と呼んだ女性に手を差し出して見せたのは、葉の色がそれぞれ違う四葉のクローバーだった。薄緑の茎から、赤、黄、青、緑と、不自然であるが、元々その色だったかのように葉に馴染むようにして自然に染まっていた。朱色の光を浴びているにも関わらず、それははっきりとした色合いを見せていた。透が古都子から教わった〈魔法〉を練習して、やっと先ほど成功した、ささやかな努力の結晶だった。もう、何百回も諦めかけたかわからない。
 古都子は四色のクローバーを受け取ると、眩しいものでも見るように目を細め、少しの間、それを愛おしげに眺めた。透は、思わず心臓の鼓動が少し早くなるのを感じた。
「トオル。よく出来てるわ。やっぱり、貴方には私が見込んだとおりに、生命に脈動する魔の力を操る才能がある。うん、ひとまず及第点よ」
 その言葉は透が一番に聞きたいものであった。普段はあまり子供染みたような行動をしない透でも、思わず、やったと小さく呟いて、顔をほころばせてしまっていた。
「じゃあ、次の課題にいきましょう。今度は、また少し難しくなるわ。それに、ちょっとだけ痛みも伴う。それでも大丈夫?」
「全然大丈夫だよ」
 透は即答していた。むしろ、もっともっと〈魔法〉を練習したかった。これほどまでに素敵な体験を前にして、好奇心と羨望を抑えている方が難しい。
 古都子は、透の返答を肯定するように優しげに微笑むと、
「でも、その前に一つお話をしましょう」
 それだけ言うと、古都子は徐に大きな樹からぶら下るブランコの方へと歩き出した。ささやかな風で、彼女の黒髪が絹のように動き、地面に落ちた濃い影が、従者のように付き従う。徹は心が浮き立つのを感じた。黄昏の終わり時になると、古都子はそれが習慣とでも言わんばかりに、徹にある物語を語って聞かせてくれた。樹の下にあるブランコはいわばステージと観客席のようなもので、透は古都子と一緒にブランコに座りながら、真剣に、時には息を呑みながら隣にいる彼女の物語に聞き入るのだ。
 古都子が話すのは、決まって一人の男の話だった。それは、〈キメラの男〉という、人でありながら、生まれついた魔性の強さ故に、異形として生きることを強制された存在で、彼の顔は人間、獅子、山羊、蛇、を織り交ぜたような、この世のものとは思えないほどの奇形だった。顔は固く青緑をした皮で覆われ、舌は細く二つに割れており、太く大きな鼻と土色をした乾いた髪は獅子のそれであり、白く尖った耳に、黒一点の眠そうな切れ目の瞳、口周りは白い髭が生え、その口も小山のように前へと盛り上がっていた。身体のみはまったくの人間と変わらなかったが、しかし、それが男の顔の異形さをより醜悪なものへと際立たせていた。〈キメラの男〉の顔を見た者は、一様に畏怖と嫌悪に支配され、そこに世界の汚点を見出した。彼は生まれた瞬間から魔の者として、親から殺されかけるが、同時に生まれ持った魔性の力により、逆に両親を殺し、住んでいた村ごと滅ぼしてしまう。それは彼の意思とは関係なく、赤子ながらの防衛本能が働いただけであった。その後、その場に現れた魔法使いによって赤子の彼は拾われ、数十年の間、人間と同じように秩序の中で育てられた。その間に、内なる魔性を操る術も、人間として全うに生きる信条も学んでいたが、やはり、周りの人間が彼を見る目は変わらなかった。異形、世界から生まれた排泄物。表面では平静を装っていても、彼には周りの人間の瞳の奥に宿る侮蔑の感情を読み取ることができた。気付けば、彼は顔の前面までも包むように深々としたフードを被り、黒い影の中に素顔を隠すようになっていた。唯一、〈キメラの男〉を人として接してくれたのは、育ての親である年老いた魔法使いだけだったが、数年して魔法使いはこの世を去ってしまう。彼は一人になり、一層に人目を避ける為に、人里を離れて深い山奥で暮らすようになる。だが、育ての親から人の尊さを教わっていた彼は、その魔性の力を駆使して、義賊として人助けをするようになった。憎悪の感情を向けられても、彼は人間が好きだったのだ。義族として人助けをする〈キメラの男〉は、やがて人から尊敬の念を受けるようになる。しかし、それも顔を隠してればこその話だった。それでも、彼は自らの孤独が徐々に満たされるのを感じていた。そして、〈キメラの男〉が人間として、一人の女性に恋をするのは時間の問題であり、その衝動はとても押さえ込めるものではなかった。長い黒髪をもつ、美しい貴族の女性だった。彼女の浮かべる微笑は、彼にとって太陽と同等に感じられるほど眩しかった。〈キメラの男〉の素顔を知らない女性は、彼の積極的な求愛に対して、最初は戸惑いを見せていたものの、じょじょに好意を向けるようになっていた。だが、それも瞬く間に悲劇へと変わる。〈キメラの男〉は最後の求愛と肯定の返事の後に、彼女へとその醜悪な素顔を見せた。しかし、彼女の反応は彼が期待していたものではなかった。化け物、私を騙していたのねと、憎悪の叫びを受け、再び殺されそうになった〈キメラの男〉は激情にかられて彼女を殺してしまう。二度の過ちにより、自身にも、人間にも絶望した彼は、それまで暮らしていた山奥を離れ、世界を放浪することにした。
 ここまでが、透が古都子から聞いた話の顛末である。不思議なことに、古都子が話をする度に、透の頭の中ではそれがまるで映像で浮かび上がっているように克明なイメージとして思い描けた。音も、匂いですらも漂ってきそうなほどだった。何より、古都子の口調には聞く者を引き込むような吸引力があり、瞬く間に透はその〈キメラの男〉の話に夢中になった。透にとって、魔法の訓練の次にお話が楽しみとなっていた。いつもは話の間、透は質問などを一切に挟まず、黙々と聞き役に徹するという形式となっていた。むしろ、そんなことをしたら、物語を汚してしまうとすら、透は思っていた。
 古都子の後を続いて、透はブランコへと腰掛ける。花のような、優しくて良い香りが透の鼻孔をくすぐる。それは、古都子の黒髪から漂ってきているようだった。わかっていながらも、透はその匂いを感じる度に、古都子の隣にくる度に、身が少しだけ強張った。
 透が座るのを微笑みながら確認すると、古都子は静かに言葉を紡ぎ始める。
「じゃあ、今日は〈キメラの男〉が、旅の途中でとある王国に辿りついたところから。その国の王は、〈キメラの男〉と正反対に世界の美しさ、清純さを集めたような容姿をしていて――」
 
 
 透の母親は、彼が小学二年生に進級したてのころ、事後で亡くなっていた。ちょっとした魔が差したような、幾つものタイミングの悪さで起こった交通事故だった。透の母親を引いたトラックの運転者は、普段からそんな事故を起こすような運転はしたことがなく、周囲からは安全すぎる、慎重すぎるとすら認識されているほどだった。一方、透の母親も、普段は歩行者側の信号が青になる前に、車側の信号が赤になったからと言って道路を渡るなんて、ささやかな危険を冒すようなことをする人間ではなかった。しかし、運転手はその日に限って、普段は止まるはずの黄色から赤に切り替わるぎりぎりのタイミングで、交差点へと進んでしまった。さらに、透の母親は普段から、絶対に道路を走って横断したことのないのに、飛び出すようにして、あたかも道路に身を投げるようにして、駆け出していたのだ。まるで、人間の裏側で働いている、集合無意識がその交通事故を引き起こそうとせんばかりに、彼女らの深層心理が導かれたかのようだった。透は、その場にいたわけではない。何時ものように、学校へ通い、人生で最初の始業式という退屈の中で、軽い睡魔の誘いと戦っている最中だった。透は、自分の母親が何を急いで、その日に道路を駆け出したのかは未だに知ることでもなかったし、何故そうなったかも理解できなかった。母の亡骸を目の前にしても、その前で苦悶の表情を浮かべる父の顔を見ても、何か別の世界で起こったことのような、傍観的な感覚があった。しかし、次の日の朝、本来なら居るべき場所に母がいなく、台所も、母が大事にしていた庭も、愛用していた調理道具も、日課のように見ていたニュース番組を映す液晶テレビも、主を失ったようにしんと静まり返っている。その様子を見て、透は初めて自分の大切だった家族が消失したのを理解した。認識した。実感した。そうして彼は、生まれて初めて崩れ落ちるように大泣きをした。悲しみというの、こうも突然にやってきて、人生というのは無慈悲にも、大切な存在との別れを突きつけるのだと、何て不条理な世界だろうと、子供ながらに思った。
 それから透は、人との間で距離を測るようになった。赤の他人の距離、見知ってはいるがそれほど親しくもない距離、クラスメイトだが友達というほど仲がよいわけでもなく、かといって無下に振舞うわけでもない距離、突然目の前からいなくなってしまったら、再び大きな悲しみの中に突き落とされるだろう距離。心の中で、丁寧に、あたかも大工が材料の寸法を調べるよう精密に、彼は接する人たちとの距離を測定し、ある一定のラインを超えないよう、時には近づき、時には後ろに下がるようにしてそれを守ってきた。当たり障りのない人間関係。お互いに、いても居なくてもかまなわないような、代替可能な間柄。それは、父親とて例外でなかった。透の父は、傷心した息子のことを放っておくような、冷たい親ではなかったが、一体自分がどうしたらいいのかわからず、さらには大切な伴侶がいなくなってもいて、果てしなく途方に暮れているようであった。二人の間には、どこか溝のような線が生まれていた。加えて、透の父は生きていく為に、再び仕事という役目に戻らなければならない。当然のことながら、透は家でも外でも一人で行動することが多くなっていた。物理的にも、精神的にも。だが、それについて薄情だとか、冷たいだとは思ったことはなかった。むしろ、父も自分と同じように傷心しているのだと思うと、やるせない気持ちにならざるおえなかった。
 そして、透が小学五年生になったある春の日のこと。すでに周囲との距離を保つことが、血肉のように日常として定着していた。透は学校から帰る途中だった。空も周囲の風景もすでに朱色に染まっていた。透が通うのは八王子市立の元八王子小学校で、学校からは高尾街道沿いを歩いて数十分したところの、元八王子二丁目のT信号から住宅街に伸びる道へと曲がり、またそこから数分歩いた距離にあった。途中、大きく湾曲したような坂道を上り、小さな神社を通り越す。その途中の中には、住宅街の端から円形に突き出たような形の小さな公園も含まれていた。ちょっとした丘の上にあって、開けているので景色は割りとよく、申し訳程度の滑り台に、プラスチックで出来たような無機質なベンチが二つと、水飲み場が一つ。手入れが行き届いているのか、住宅街の中にある公園にしては、随分と綺麗な状態だった。かと言って、透はいつもその傍を通り過ぎるだけで、これまで足を踏み入れたことすらない。しかし、その日はどうしてだか、その公園を前にして、ぴたりと足を止めていた。透はどこか公園の様子に違和感のようなものを感じ取っていた。傍目には、今朝となんらおかしいところはない。しいて言うなら、夕日が透の後ろにある小さな山に阻まれているので、薄暗くて、普段よりは寂しい風景となっているということだけだ。勘違いだと思い、透は一度公園を素通りした。だが、足が一歩一歩、公園から離れていく度に、先ほど感じた違和感が気になってくる。数歩も離れぬ内に、透は再び足を止めていた。小さな溜息をつく。どうせ家に帰っても誰が待っているわけもない。それに、ただ公園に立ち寄るだけだ、損することなんて何もないじゃないか、と自分に言い聞かせながら、透は結局公園の前にUターンしていた。念の為に、入り口にある、コの字を逆さにして地面へ差したような鉄のポールへ手をかけながら、公園の中をざっと見回すと、そのままポールを跨ぐようにして、中に入った。
 だが、透の目の前に広がっていたのは、つい今しがたまで見えていた影のある公園の風景ではなく、黄昏に染まった、どこまでも続くような広大な草原だった。淡く優しい風が、青臭い匂いと、草がすれるような音を運び、空はどこか霞むように白んでいて、とても現実の風景とは思えなかった。透は、一瞬、自分の頭がどうかしてしまったのだと思った。もしくは、夢を見ているのだと。ふいに、透は後ろで何かの気配を感じ、恐る恐る振り返っていた。そこに立っていたのは、透の予想に反して、白いワンピースを着た妙齢の女性だった。長い黒髪と鍔の広い麦わら帽子に、ぞっとするほどの美しい顔立ち、しかし、それよりも透の目を引いたのが、手首足首にある球体間接だった。それが、命の無い、無機物な人形に備わっている特長であり、目の前の女性に決してあってはならないものだった。彼女は、透のことを肯定するかのように、優しげに微笑む。よく見ると、女性の後ろには大きな樹と、その根元に寄り添うように建つ赤レンガの小屋があった。
 状況のすべてが理解の範疇を越え、ただ目をパチクリとさせている透に、彼女は静かに近づき、言った。
「こんにちは。どうやら、君は他の世界から引き込まれてしまったみたいね。私の名前は古都子。人形の魔女よ。君の名前は?」
 それが、透が古都子と出会い、この”黄昏の平原”へと迷い込んでしまった経緯だった。前触れも、予兆も何もない。まるで赤子が生れ落ちるような出来事だった。


 とにかく、透が最初に愕然としてしまったのは、元の世界へ戻る方法がまったくないという、古都子の一言だった。彼女は透のような異世界からきた人間に遭遇するのは、これで初めてだという。それならば、どうして開口一番に自分が他の世界からきたのかわかっていたのかと透は頭の中で思ったが、言葉に出さなかった。それよりも、彼は自分がこれからどうなってしまうのかという問題の方が重要だったのだ。帰る家もなく、これまで順応してきた日常もない。あるのは場違いのように背中にしょっているランドセルと、行き場の無いその身と心だけだ。唯一の幸運は、そんな透を古都子が快く保護者となってくれたところだろう。だが、透は目の前にいる美しい人間そっくりの顔を持ち合わせた人形に対して、深くは無いまでも一種の警戒心というものを感じていた。同時に、他人と接する時と同じように丹念に距離を測っていた。魔女だと、古都子が言ったことを透は思い出す。立場を見ても、状況を見ても、いつ彼女が手のひらを返して、透に襲い掛かってくるかわかったものではない。見たところ、黄昏の平原には透と古都子しか人が(古都子は人でないが)いないようだし、周囲も、それこそ平原の奥には深い森だけしか確認できない。少年と美しい魔女。もし、これが童話だったら、寝ている間に竈に放り込まれ、煮込まれた末に食べられてしまってもおかしくない。実際、透は過去にそんな童話を読んだことがあったし、元々、魔女という非現実な存在に対して、心地よい印象は持ち合わせていなかったのだ。
 それから、数日間は緊張感のある日々を過ごしていた。赤レンガの小屋の中は、見た目通りに童話の世界をそのまま切取ったような内装となっていた。いくつもの皺のような線がある、少し煤けた木目の床に、花の形をしたガラスのランプ、丸くカールしたような足をもつ流線型のテーブル、壁にはすべて本棚があり、触ったら崩れてしまいそうなほど古びた厚い本が、擦り切れた文字をこちらに見せて一面に収まっていた。大きな竈こそなかったものの、レンガで組まれた台所には、飴色をした丸っこい鍋が一つだけあった。だが、そこにはベットも無ければ、トイレもお風呂場も見当たらなかった。古都子は人形なので、寝る必要もなければ、トイレにいく必要もない(髪だけは花からとった油ですいてはいたが)。ただ、それでも何故か食べ物は必要らしく、透はそれが不思議でしょうがなかった。しかし、透にはベットもトイレも必要なものなので、トイレは外で、ベットは魔法によって新しいものを作ってもらった(但し、トイレに関しては、大か小により小屋からある程度はなれる必要があり、尚且つ地面に穴を掘らなければいけなかった。透はこれが顔から火がでるほど恥ずかしく、のちに無理を言って、小屋の隣に電話ボックスのようなトイレを作ってもらった。当然ながら水洗式ではなく、穴式のものだったが、その穴は地底まで続いてるのではないかと思えるくらいに深いものだった)。食べ物に関しては、毎日ほぼ煮込み料理とパンばかりだった。だからと言って、透に不満があるわけでなく、むしろ驚くほど美味しいものばかりで、一日の数少ない楽しみとなっていた。そして、魔法の訓練と〈キメラの男〉のお話。だんだんと、透の中にあった警戒心は息を潜めていったが、絶対に越えてはいけない距離へは足を踏み入れることはなかった。
 一週間ほどの時が過ぎた。その日、透はようやく白い花の花びらを一枚、微かな紅色に変色させることに成功した。透は嬉しかった。しかし、すぐに言い知れない不安と気持ち悪さが心に浮き上がるのを感じた。空は何時ものように黄昏であり、細くて濃い影が、彼の足元から麺棒で転がしたように伸びていた。傍のブランコでは、古都子が腰掛けながら厚い本を読んでいる。
 自分は今、現実世界では決してありえないようなことをしてしまっている。それは日常を踏みにじる行為であり、別の世界へと足を踏み入れるものであった。これ以上、このラインを超えてはいけない。直感的に、本能的に、透はそう思った。もう一歩踏み入れたら最後、”元の日常へと戻れなくなってしまう”。途端、元の世界のことや、学校のこと、家のこと、父のこと、死んでしまった母のことを思い出した。それらは、透に今の自分の状況を客観視させるのに十分な要素だった。僕はこのまま、ずっとこの黄昏の平原で生きていかないといけないのだろうか。透は焦燥感に襲われていた。
 はたと、手に持っていた花が地面へと落ちる。
「どうしたの? トオル?」
 古都子が不思議そうな顔でこちらを見る。すぐに本を閉じて、脇にそれを置くと、透の傍へと近づいてくる。思わず、透は足を一歩だけ後ろへ引いていた。それを見た古都子は、その場で立ち止まった。目を細め、どこか悲しげな顔をして、古都子は言った。
「……君は何を怖がっているの?」
 すべてを見透かされているような言葉だった。
「ぼ、僕は何も怖がってなんかないよ。ただ、魔法がうまくいったから驚いただけで……」
 自分の身を守るようにして、透の口からは自動的にそんな言い訳が飛び出していた。だが、その口調は、自分でも情けないほどに震えていた。心の内を悟らせてはいけない。これ以上、距離を詰められるようなことを許してはいけない。そうすれば、またきっと”別れ”が訪れてしまう。しかし、そんな透の防壁を突き崩すようにして、彼女の艶やかな唇が動く。
「失うのが怖いのね? 他者と物事に深く関わらないようにして、君は自分を守っているんだわ。深く関われば関わるほど、離別してしまった時の反動が大きくなるから」
「う……ち……ちが……」
 それ以上、透は言葉を発することができなかった。
「でもね。いい? トオル」
 古都子は颯爽と透の目の前に立つ。どこか険しい表情だった。怒っているようにも、呆れているようにも見える。初めて見る顔だった。
「反動がないってことは、関わった時の楽しみも、嬉しさも、愛おしさも、怒りも、悲しみも、感情が何にも起こらないっていうことなの。確かに、そうして距離をとれば、自分は傷つかないだろうし、相手も傷つけることもなくなるかもしれない。でもそれは生きていると呼べるのかしら。感情が動かなくなってしまったら、それこそ死人グール同然だわ。人間であり、人間ですらない。君はそんな状態でいることが、全うな人間だと本当に思っているの?」
「そ……れは……」
 古都子の言っていることも態度も、小学五年生の子供に向けるようなものではなく、それこそ対等な大人を相手するようだった。だが、透には彼女の言っている意味がわかったし、その言葉によって、今まで積み上げてきたアイデンティティが大きな衝撃と共に崩れるのを感じていた。これまで、透にここまで進撃に、真剣に近づいてきた大人はいなかったし、クラスメイトにも存在しなかった。いや、透はそれですら自分から遠ざけていたのだ。
「生きるっていうことは、自分も傷つくし、時には相手も傷つけてしまうっていうことなの。でも、それは水を飲まないと、物を食べないと生きていけないのと同じように、影となってくっついてくるものよ。だから……お願い、生きることを放棄しないで」
 古都子は優しく透を抱きしめていた。花の香りと、無機質な硬い感触。だが、それはどこか暖かく感じられた。耳から聴こえる微かに揺れる吐息。
 泣いている。透にはそれがわかった。
「傷つくのは嫌なことかもしれない。怖いかもしれない。でも、それでいいのよ。それが生きている証なのだから。君は、人と深く関わってもいいの。笑って、怒って、楽しんで、泣いて、恋をして、そうして別れがきて、また出会う。その繰り返し。その循環が、私にはすごく綺麗で、美しく思える。……だから、トオルも泣いていいのよ」
 まるでその言葉がひとつのスイッチだったかのように、透は泣き出していた。母がいなくなってしまった時のように、わんわんと泣き散らしていた。
  
 
 透が、自分がどれだけこの黄昏の平原にいるか分からなくなった頃(透自身は、恐らく一、二ヶ月くらいだろうと思っている)。魔法の訓練は順調すぎるほどに進み、ちょっとした物体なら触らずとも宙へ飛ばすことはできるようになっており、中空から小さな炎や、雷とはいかないまでも軽い電流くらいは起こせるようになっていて、彼は、すでに人との距離を測ることも止めていた。そんなことは、もう必要ないのだと思った。毎日が楽しくて仕方がなく、元の世界に帰ることも忘れていた。古都子は透にとって、この世界で唯一、大切な存在となっていた。彼女と暮らしていれば、何も怖いものなどないと思えるほどに。
 あくる日、古都子は唐突に言った。
「トオル、ちょっと外へ行きましょう」
「え……?」
 透はその時、目の前にあるポトフを、厳密にいうとその具であるほろほろに砕いたジャガイモの破片を一心に口の中へと運んでいる最中だった。その手はぴたりと止まり、白く立ち上る湯気の向こう側にある彼女に対して、唖然とした表情を浮かべていた。一瞬、何を言われたのかまったく理解できなかったのだ。外はすでに宵闇になっていて、透の正面にある小さな格子窓からでもそれが確認できる。加えて、今は食事の真っ最中だ。外に出る理由はどこにもない。 なんの説明もないまま、古都子は椅子から立ち上がって、壁にかけられていた麦わら帽子を手にすると、そのまま一人で家から出て行ってしまった。透は慌てて中空に止めていたそれを口の中に入れると、大きな音を鳴り散らして自分も家の外へと飛び出した。
 辺りは思ったより暗くなく、空からの月光でほんのりと光を帯びていた。古都子は家の少し先、透から見れば正面にある草地の上に立っていた。月の淡い光の中にぼんやりと佇む彼女の姿は、幻想的なまでに美しく、子供である透でも見惚れずにはいられなかった。その顔はしばらく遠くにある平原の先を見ていたが、やがてふっと透の方へと向き直る。
「君は、もう元の世界へ帰る為の準備が整っているわ。今すぐにでも、この黄昏の平原から離れなさい」
 夢から覚めるような言葉だった。
「え……元の世界には帰れないんじゃ……」
 透は頭の中が軽い混乱状態になる。
 唐突であり、何の前触れもない。
「ええ。それは、あの時のままのトオルならという意味だったの。まさか私も、君に魔法の素質がこれほどまで備わってるとは思わなかった。それだけ、世界に脈動する魔力を操れるのなら、この平原を越えて、霧の森を越え、その先にある洞窟に辿り着けるわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 僕はもう元の世界になんて帰りたくないよ! 古都子さんと……ずっとここに居たいんだっ……!!」
 透は自分の感情を抑えられなかった。元の世界に戻ったとしても、自分にこれまで通りの日常に戻っていける自信もなかった。
「そんなのってないよ! せっかく、せっかく僕は……僕は……っ!」
 大切なものを見つけられたのに、と。
 子供のような我侭なのだと、自分でも思っていた。それでも、二度も同じように、その両手からそれが零れ落ちていくのを、どうしても許すことができなかった。張り裂けそうなまでの苦しみが、透の心を襲っていた。こんなことなら、距離を測り続けていればよかったと、透は思った。しかし、そうしなければ、大切なものをその手に取ることはできなかった。あれほどまでに幸福な時間の中で過ごすことはできなかった。それも、透にはわかっていた。
 古都子は寂しげに、悲しげに微笑む。
「〈キメラの男〉の話をしましょう。これが、彼の最後のお話よ」
 静かに言葉を紡ぎ始めた。その口調はこれまでと違い、物語を語るというより、何かにむかって独白しているようだった。
「世界を余すことなく放浪した彼は、それでも自分に恐れることなく接してくれる相手がいないことに嘆き、絶望していた。でも、彼は思いついた。もし、そんな人間がこの世にいなければ、自分自身の手で創生すればいいと。そして彼は長い年月をかけて、一体の魂が宿った人形を作ることに成功した。彼女は身体こそ人形そのものだったけど、顔も感情も、艶やかで美しい髪も、まったく人間の女性と相違なかった。そうして、作り出した人形と共に〈キメラの男〉は幸福な時間を謳歌した。作り出された彼女は、彼の素顔を見ても恐れることなく、むしろその醜さを愛していた。ただの形だった自分に、命を吹き込んでくれたことを感謝していた。〈キメラの男〉も初めて、自分がこれほど深く人を愛せることを、これほど相手から愛されるということを知った。でもね。ある日、彼は唐突に彼女を失うことが恐ろしくなったの。その瞬間が訪れたら、自分はきっと死よりも苦しい悲しみに囚われるかもしれないと。〈キメラの男〉は彼女を呪われた平原へと縛りつけ、何処かへ旅立ったまま、ずっと彼女の前に姿を現すことなかった。……彼女は、それでも〈キメラの男〉が戻ってくるのを信じて、ずっと平原で一人待ち続けた。だけど、とうとう彼は姿を現すことはなかった。……これで〈キメラの男〉のお話はおしまいよ」
 そう言って物語を締めくくった古都子の顔は、にっこりと微笑んでいた。まるで、その話には続きがあって、後に〈キメラの男〉と彼女が出会えたのを知っているかのように。
「君には帰るべき場所があって、待っている人がいるはずよ。それを忘れないで」
 何も言葉が浮かばなかった。
 しかし、透は自分がどうすればいいのか、それだけが克明に心の中で定まっていた。 
「……僕は元の世界に帰るよ」
 透はしっかりとした口調で言っていた。
 古都子は嬉しそうに頷くと、
「ええ。それが君とって一番いい選択だわ。私の力で、平原の果てまでは送ってあげられる。あと――」
 透の前にやってきて、徐に自分の被っていた麦わら帽子を被せた。女性物だったからか、透でもその帽子はぴったりと頭にはまった。被る瞬間、太陽を浴びた小麦の匂いと、微かな花の匂いがした。
「この麦わら帽子を絶対に外さないこと。いい?」
「うん。この麦わら帽子は絶対に外さない」
 透は頭の中に書き込むようにして、古都子の言葉を繰り返した。
「霧の森に入ったら、金色のジャッカルに気をつけて。ジャッカルは火を見たら怯えるから、絶えず火を灯し続けること」
「うん。霧の森に入ったら、金色ジャッカルに気をつける。火をずっとつけておく」
「そう。それでいいわ。後はその麦わら帽子が君を導いてくれる」
 古都子は満足げな顔をすると、ふいに身を屈めて、透の体を抱きしめた。前よりも力強く、その感触を全身に刻み込むように、じっと抱きしめていた。透は古都子の体が以前よりも暖かく感じ、鼓動すら聞こえてきそうだった。
「さようなら。あの人の次に愛しいトオル」
 透の耳元で、擦り切れるように微かな古都子の言葉が響く。 
 その瞬間、古都子の唇が透の頬に触れ、彼の体からはそれまで全身で感じていた硬い感触な消えた。代わりに、全身には浮遊感を受け、周囲の景色は一面の灰色へと変わっていた。
 透は静かに泣いていた。
 声も出さず、嗚咽もなく、ただ頬から止め処なく雫が流れて落ちていった。何かを堪えるように、目を閉じながら。
 やがて、周囲の景色が新緑へと変わった。
 全身の浮遊感が消え、足元には確かな感触が伝わる。
 透は、深い森と果てのない平原の間に立っていた。
 その視界には、鬱蒼とした、しかし奥にはうっすらと白いもやがかかったような森が見える。
 彼は平原の方へと振り返っていた。
 その地平線には、大きな樹も、赤レンガの小屋も、白い人影も見えない。ただ、そこにあるのは、深海のように青黒い夜空と、その中にぽっかりと浮かぶ、一滴の涙のように煌く、丸い大きな満月だけだった。
八幡南
2013年10月08日(火) 22時46分02秒 公開
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■作者からのメッセージ
 昔、かなり短く書いていたものを、奮起して書き直した作品です。つたない文章ゆえ、所々に至らぬ点があると思いますが、どうかご指摘いただけると幸いです。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  八幡南  評価:0点  ■2013-10-16 22:38  ID:S6SCLCl937.
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>白星様
お読みいただき、ありがとうございます。
ご指摘の通り、物語のリズムがうまくとれていないのだと思います。
文章表現にも、かなりの間違いなどがあり、誤字もありと、反省すべき点がかなりあります。
そんな中、肯定的なご感想をいただき、まことに嬉しい限りでございます。
あと、文章が固まりすぎなのは、どうにかしなければと思っています。
最後まで作品にお付き合いいただき、再度お礼を申します。
ありがとうございました。
No.3  白星奏夜  評価:30点  ■2013-10-14 21:00  ID:pzR0LjkSUhs
PASS 編集 削除
白星、と申します。こんばんは、拝読させて頂きました。

草原の中にある、家とブランコ、素敵な情景だと思いました。その中で、二人が触れ合う様子はすっと想像できて、涼やかな気分になれました。

内容に関してですが、全体を通して淡々としているような印象を受けました。私もあまり上手く言えないのですが、物語的な盛り上がりが感じ取れないまま、終わりに向かうようなそんな感じでしょうか。
古都子さん、というキャラクターが醸し出す雰囲気が既にどこか淡々としているので、そう感じるのかもしれません。
キメラの男と彼女が再会したのかどうなのか、暗示はされているように思いますが、その結果を少し分かるように描写して、その結末を受けて最後の二人の決断に絡ませてくる。そんな感じになると、起伏ができるようにも感じました。麦わら帽子も配置の仕方によって、もっと印象的な伏線にできるような気もしました。

誤字だと思うのですが、事後で亡くなっていた、の部分は事故で、ですし、やるせない気持ちにならざるおえなかった、の部分はならざるを得なかった、だと思います。
細かいところですが、文章が固まりすぎて読み辛く感じるところがあるようにも私は感じたので、改行できるところはされた方が良いかもしれません。

ごちゃごちゃと思うがままに書き連ねて、申し訳ありません。ファンタジーの要素を入れつつ大切なことに気付く、という話しが大好きなので、思わず。

素敵なファンタジー、ありがとうございました。ではでは〜!

No.2  八幡南  評価:0点  ■2013-10-11 22:21  ID:nyv4PhU4HKM
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お読みいただきありがとうございます。

感想が分からないといわれたことが初めてですので、若干の戸惑いを感じていますが、もしかすると、悪い部分というのが一見にはわからないほどにややこしいところに、それこそ蔓延してしまった伝染病の発生もとを突き止めるような、難しい形となって潜んでいるのかもしれません。自分で書いておきながら、何とも性質の悪いものを作ってしまったという思いです。
現実的さと非現実的さが釣り合わないと、ご指摘されて初めて気付きました。あまりにもその切り替わりと言いますか、境目というのが薄くて、違和感というものを感じさせてしまったのかもしれません。改めて、創作することの難しさを実感いたしました。

ご感想(ご感想がわからないというだけでも、十分に大きな感想でした)と、最後まで作品にお付き合いいただき、再度、お礼を言わせていただきます。
どうもありがとうございました。

No.1  坂倉圭一  評価:30点  ■2013-10-11 19:06  ID:VXAdgm2cKp6
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読ませていただきました。

少しおかしな表現ですが、どう感想を述べたらいいのか分からないというのが、僕の読んでみての感想です。
普通なら、ひと通り読みおえると、ここが悪いのかな、といったところが思い浮かび、それを指摘させていただくのですが、正直、本当に分からないのです。
もしかしたら少年の「現実的」な苦悩や生き辛さの描写の密度と、あまりに現実離れした「非現実的」な魔法等の組み合わせが、上手くかみ合っていないんじゃないか、という漠然とした感想がないでもありませんが、作者さんはそのことに挑戦されたわけですから、それはそれで良いのだと思います。曖昧な表現で申し訳ありませんが、そんなところでしょうか。

お話自体は、退屈せずに最後まで読めました。
ありがとうございました。
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