原色の魔法、原型の魔剣
0.最終試験

 斬撃が閃いた。
「くぅっ!」
 双剣の太刀筋のあまりの速さに俺は呻く。まるで電光のようだった。俺はかろうじて木剣で受け止める。姿勢を崩しそうになって石畳の上で踏ん張る。
 相手も木剣。
 その打突を斬撃と表現するのは誤りなのかもしれない。しかし俺にとって骨まで斬られるような実感を確かに伴っていた。
 こいつは強い!
 俺は眼前の試合相手を睨む。ラケル・ジマーマン。二○○○人もの生徒たちが通う竜立(りゅうりつ)魔法学院ウルトにおいて、最強と目される女子生徒だった。俺の留学を認めてもらうための最終試験の相手としては、あまりにも運が悪い。
 ラケルは、花飾りの付いた鍔の広い帽子に、膝丈のマントをまとっていた。派手派手しい格好だが、実力は先ほどの斬撃で確認した通り。
 ラケルは五○センチほどの木剣を左右それぞれに構えている。二刀流だ。達人でなければ扱えない。それをラケルは難なく扱ってみせた。相当な技量と言える。俺は緊張を強めた。木剣を握る手が汗ばんでくるのを止められなかった。
 しかし勝たなければならない。そうでなければ、なんのために妹を連れ出して倭国(わこく)から出奔したのか、意味がなくなってしまう。すでに自分の最終試験を通過している妹に会わせる顔がない。
 俺は木立に囲まれた中庭で、ラケルに向かい合った。
 雪混じりの冷たい風が肌を刺す。
 一月。温順な気候で知られる帝国でも冬はやはり寒い。厚い雪雲に覆われて、昼間だと言うのに中庭は灰色がかっている。
 やや距離を置いてラケルは、余裕を感じさせる口調で語る。
「君、なかなかやるみたいだね。でも、いずれ世界一の剣豪になる私に勝てるかな?」
 ラケルの音質は、音域が上下することが少なく、透明感があり、可憐そのものと言う他にない。柔らかくしなやかな声だった。そんな声で挑発されると不思議と腹は立たない。ただ、強い自信が感じられた。
 だが、やるしかない。
 俺は精神を集中させるために歌を詠んだ。
「熟田津(にぎたつ)に、舟乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、いまはこぎ出でな」
 途端、世界が減速する。
 俺は、赤の魔法の中でも主観時間の加速という技を得意とする。客観時間は絶対的。しかし主観時間は流動的。魔術者の主観によっていかようにも変化する。主観時間が加速することによって、魔術者は世界の事象をゆったりと観測することができる。
 再びラケルの双剣が閃く。
 まずは左の木剣。
 木剣が風を切る音がいやに大きく聞こえた。恐怖心を煽る。しかし俺は斬撃の軌道を読むことに集中した。
 俺は木剣で受け止める。ラケルの右の木剣が続いて斬撃する。
 ラケルの意識が右の木剣に集中する一瞬。
 俺は攻撃を終えて注意の散漫になった左の木剣を巻き込む。鉛色の空にラケルの左の木剣が舞い上がった。
 ラケルが呆然とする。
「な……」
「俺の勝ちだ」
 俺はラケルの喉に木剣を突き付けていた。
 ラケルが悔しそうに下唇を噛む。
「く……!」
 石畳の上に木剣が落ちて軽やかな音を立てた。
「負けを認めろ。この状況はどうあっても覆らない」
「……」
 しばしの沈黙。
 自信過剰とも取れるラケルにとって、負けを認めることはかなりの抵抗を伴うらしい。
 そんなラケルに俺は言葉を掛けた。
「なあ、最強の技がなにか知っているか?」
「なにそれ? そんなの相手が反応できないくらい速い打ち込みに決まってるでしょ?」
 あまりにも直裁な回答だった。
 試合という短い時間ではあったが、俺はラケルの人となりが分かってきた。
 俺は木剣を下ろして苦笑する。
「違う。最強の技とは、自分を殺しに来た相手と友人になることだ、と俺が学ぶ武道では説いている。つまり俺が言いたいのは、俺と友人になろうってことなんだ」
「……」
 ラケルは木剣を奪われた時よりも唖然としていた。
 しかし、それも一瞬のこと。
「あはっ、あはは!」
 とラケルは大笑いを始めた。
 そんなに可笑しいことを言っただろうか、と俺は内心首を傾げる。
「君って面白いね! 私の負け!」
 ラケルは目尻の涙を指で拭いながら答えた。
「いいよ、友達になろう。私はラケル。ラケル・ジマーマン。君の名前を教えて」
「俺は名木沢(なぎさわ)ハル。ハルって呼んでくれ」
「綺麗な名前だね。響きが素敵だと思う。これからよろしくね、ハル?」
 そうして俺たちは友人になった。

1. 兄妹

 春。森も獣も目覚め始めた季節。
 道行く人々の足取りもどこか軽い。
 山高帽を被った紳士たちは規則正しい歩調で、日傘を差した女性たちは華やかさを競うような足取りで歩道を歩く。
 赤レンガを敷き詰めた車道には、最近になってメーターが導入された辻馬車が忙しなく行き交う。
 ウルト市の新市街は今日も生き生きと呼吸していた。
 絵本を開いたように色鮮やかな新市街を、俺は買ったばかりの乗り物で軽快に進んでいた。ペダルを両足でこいで車輪を回す。人々は、雑踏を縫うように走る俺の姿を物珍しそうな目で見る。この分なら妹はきっと驚いてくれるだろう。
 暖かな午後の日差しを受けて、家々の屋根に敷かれた赤いタイルや、窓ガラスが眩しいほどきらめいていた。たいていの家はレンガかモルタルでできているが、中には近年になって発明されたコンクリートという建材で作られた家もある。
 ウルト市は半世紀前に急速に大きくなったため、街並みには初々しさがある。
 新市街は旧市街と違って、道も、家と家の間隔も、広く造られてある。新市街は、旧市街に収まりきらなくなった市民を住まわせるために拡張された区画であり、そこで暮らす人々はモザイクのように多様だった。俺と共に竜立(りゅうりつ)魔法学院ウルトで魔法を学ぶ学友たちも多く住む。
 俺は今年の一月から下宿している雑貨店で停まった。レンガ造りの三階建て。一階が店舗で、二階から上が生活空間となる。
 俺は背負っていた刀の位置を直しながら店内に入る。
 倭国(わこく)で武道を嗜んでいた俺にとって、この刀はどうしても手放せない物で、種類としては打刀に属す。長さは一メートル弱。いわゆる定寸と呼ばれる長さだ。
 俺がドアを開けると来客を知らせる鐘が軽やかな音を立てた。
 店の中は手狭だった。所狭しに食器や小物などの商品が並べられている。棚と棚の間隔も狭い。俺は隙間を縫うように体を横向きにして店の奥にあるカウンターに向かう。
 カウンターでは、机に突っ伏して、俺がつい最近買ってやったガラス細工の猫の小物を撫でる着物姿の少女が店番をしていた。
 名木沢(なぎさわ)フユと言う。
 冬に生まれたからフユなのだが、兄である俺は春に生まれたからハルと名付けられたのだから、単純さではいい勝負。きっといつまでも勝負はつかないだろう。俺としては兄妹らしい名前で気に入っている。
 フユは俺と共に倭国から帝国に留学した。俺とは一歳違いの一六歳。カラスの濡れ羽色とでも言うべき艶やかな黒髪を腰まで伸ばしているのが特徴的な少女だ。休みの日にはこうして店番を任されていることが多い。
 フユが店番をするようになってから客足が急に伸びたと聞く。そのほとんどはフユが目当ての男性客らしかった。
 しかし、そうした男たちが現れてもおかしくないほど、フユは端正な容姿をしている。黙って座っていると人形かと見紛えるほど。そうした印象を強めるように、倭人でありながら白人のように肌が白い。
 背は高い方で一六五センチある。俺の身長が一八○センチだから、兄妹そろって背が高いことになる。長身痩躯で格好のつかない俺と違い、フユは華奢な手足の作りとは裏腹に、女性的な柔らかさも併せ持っている。
 フユは普段から着物姿で通し、今日は小紋という細かい模様が全体に施された衣装を身にまとっている。
 小紋は青色、帯は黒色。鮮やかな色の合わせ方だ。
 一方の俺は、帝国風の服装だった。ダックスカラーという襟の先が折れた立衿の白いシャツに灰色のカーディガンを合わせ、ポケットのたくさん付いたカーキ色のズボンを穿いている。見た目はさておき、動きやすくて気に入っている。
 店に入ったのが俺だと気付くと、フユは顔を上げ、顔にかかった長い黒髪をかき上げながら柔らかな微笑を浮かべる。
「兄様(あにさま)、お帰りなさい。なんだか嬉しそうですね」
 フユの声域はやや低い。落ち着いた声音は、ビロードの上を転がる琥珀のよう。
「ああ。ちょっとおまえに見せたい物があるんだ。表に来てくれ」
 俺は客がいないことをいいことにフユを表に連れ出す。
 今さっき乗ってきた乗り物をフユに見せる。
 その乗り物は特異な形をしている。
 方向を定めるためのハンドル。腰を乗せるためのサドル。車輪に動力を伝えるためのペダル。
 フユは不思議そうにそれを見詰める。どうやら初めて見たらしい。
 無理もないだろう。倭国にはこのような物はない。それどころか文明国である帝国でさえ珍しい物だった。
「兄様、これはいったいなんですか?」
「はは。頭のいいおまえにも知らないことがあるんだな。これは自転車って言うんだ。乗り物なんだぞ」
「乗り物? どうやって動かすんでしょう?」
「見ていろ。今、乗ってみる」
 俺は自転車に乗って路上で緩やかに一周した。
 フユは、大発明の最初の目撃者になったかのように、顔を輝かせる。
 もちろん自転車を発明したのは俺ではない。
「すごい! 兄様、すごいです!」
「だろう?」
「でも高くなかったですか?」
「悪い癖だな。フユ、おまえは金のことなんて心配しなくていいんだぞ」
 と自転車から降りた俺はフユの頭を撫でる。手入れの行き届いた髪がしっとりとした黒絹のような手触りを伝えてくる。
 フユは俺の手に身を委ねるように体の力を抜いて陶然と目を細めた。
「フユ。昼ご飯はもう済ませたか?」
「はい。先ほどいただきました」
「今日の体調はどうだ?」
「はい。平気です」
「じゃあ出かけよう。夫人には俺から話してくる」
 フユは店番の途中だったが、下宿の夫人に代わってもらうことにする。
 俺は刀を背負い直し、買ったばかりの自転車に二人乗りになり、花の香りが舞う春風を突っ切って出かけることにした。頬を撫でる風が心地良い。フユの着物に焚き込められた白檀(びゃくだん)の香りが鼻をくすぐった。
 白檀とは香木の一種で、広く愛好されている。倭国で暮らしていた頃からフユはこの香りを好んでいた。
 横向きに座ったフユが楽しげな声を出す。
「兄様! 風が気持ちいいです!」
「そうだろ! このまま街の外に行くぞ!」
「はい!」
 フユはさらに俺にしがみつく。細くしなやかな両腕が腰に絡み、量感のある柔らかな二つの膨らみが背中で押し潰される。
 そんな妹が可愛くて仕方なかった。
 見上げれば、晴れやかな青空が広がっている。鮮やかな原色で染め上げられた空が出かけようとする俺たちを迎えてくれるかのようだった。
 冬の間に溜まっていた澱がどこまでも晴れた空に溶けてゆくような感覚を覚える。
 俺たちは城門を過ぎ、市外へ出た。



 森を開いて作られた石畳の道路を、俺たちは自転車で進んでゆく。
 森の中は、甘く清涼な空気で満たされ、黒々と茂る針葉樹の上の方から野鳥のさえずりが聞こえてくる。木々の間を爽やかな風が吹き抜け、擦れた枝がざわめく。枝の動きに合わせて木漏れ日が瞬くように揺らめいている。
 冬は過ぎ、春が訪れ、木々はすっかり装いを改めていた。冬の間、ウルト市でずっと過ごしていたフユは、季節の移り変わりを実感する機会があまりなかっただろう。俺は、そんなフユに春色に染まった自然を見せたかった。自覚しているが、俺はいつもフユの思い出作りに奔走するところがあった。
 フユが白磁のような横顔を俺の背中に押し付けてくる感触があった。
「ありがとうございます……」
「急にどうした?」
「なんでもありません!」
 フユはいつもより元気な声を出す。
 妙な奴だ。
 俺は気にせずペダルをこぐ。
 森を抜けると、景色が一変し、広大なジャガイモ畑が広がった。
 帝国ではジャガイモは重要な食料としての位置を占めている。帝国の国土は、食物の栽培に適さない荒れ地が多いため、厳しい環境でも育つジャガイモはなくてはならない存在だ。
 畑では農夫たちが背を丸めて種芋の植え付けをしているところだった。
 きっと秋口になれば淡い紫色の花を咲かせるだろう。
 道の先に目をやれば、遥か彼方には山脈の青い稜線が見える。帝国でも最も高い山々の連なりで、主要な峰は四○○○から五○○○メートルと言う。
どこまでも妹を連れてゆきたい。
 そんな感慨を抱いた俺は、後ろのフユに呼びかけた。
「いつかあの山におまえと一緒に登ってみたいな!」
「兄様、自分で言っていて恥ずかしくなりませんか?」
 そんな可愛らしい憎まれ口をフユは叩く。
 牧草地に差しかかった。牛たちがもしゃもしゃと草を食んでいる。
 すでに一時間近く自転車をこいでいる。
 さすがに疲れを感じていた。背中がしっとりと汗ばんでいる。俺は自転車を停めてポケットから懐中時計を取り出す。すでに午後二時に近い。
 フユに小休止を提案する。
「ここで休んで行こう」
「お疲れですか?」
「まあな。少し疲れた」
 俺はフユの華奢な造りの手を引いて牧草地の柵を乗り越える。
 フユはたしなめるように尋ねてくる。
「兄様。人様の土地ですよ?」
「少しの間ならかまわないだろ」
「そうですね……少しの間なら……兄様はお疲れのようですし」
 それ以上、フユは俺を咎めなかった。
 ちょうど良く柵のすぐそばに一本の木が立っている。枝振りが見事で、緑のひさしが影を落とす。
 俺は、刀を置き、日陰にある草むらの上に寝転がった。草が肌をちくちくと刺激してきて気持ち良い。医者の手伝いという副業の疲れが出てきた。木漏れ日が目に優しく、そっと撫でるような柔らかな風によって牧草がなびく。汗ばんだ体に春風が気持ちいい。春先に萌え出る草の匂いはひどく懐かしさを覚える。
 春らしい麗らかな日和だった。
 牛たちは忘我の境地という体(てい)で草を食べ続けている。なにを考えているのか、うかがい知れない。あるいは、なにも考えていないのかもしれない、とも思う。
 空の高みでは風が強いのか、雲が離れては合わさり、集まっては散ってゆく。目まぐるしく形を変える雲海を見ているうちに、俺はうとうとしてきた。
 俺は懐中時計をフユに手渡す。
「少し寝る。三○分経ったら起こしてくれ」
 今は、心地良い眠気に身を任せたかった。
 まぶたが重い。
 俺は意識の手綱を放すように眠りに落ちた。
 それからどれほどの時が経ったか。
 さわさわとなにかが俺の首筋を刺激していた。
 加えて、甘く爽やかな香りが鼻をくすぐっている。それが白檀の香りだと気付いた時、俺は眠りから覚めていた。
 気が付くと、傍らに横向きになって眠るフユの姿があった。肌が触れ合うほど、吐息の甘さを感じるほど距離が近い。フユの髪が風になびき、俺の肩や首にかかっていた。髪に残った石鹸の匂いが優しい。
 フユの寝顔が間近にある。
 綺麗に生え揃ったまつげ、卵のような曲線を描く顔の輪郭、口紅を差していないにもかかわらず桜色に潤んだ唇、そして抜けるように白い肌。
 いつの間にか妹はとても綺麗になっていた。
 そのことが俺には嬉しい。
 フユは俺の懐中時計を大事そうに両手で握っていた。これでは時間が分からない。
 俺はフユを起こさないようにそっと上半身を起こし、大きく伸びをした。随分眠っていたような気がする。ここのところ忙しかったから、ゆっくり休むことができなかった。三○分経ったら起こせと言ったが、怒る気にはなれなかった。
 穏やかなフユの寝顔を見ながら時を過ごすことにする。
 春の陽気が気持ち良い。
 たまにはこんな時間の過ごし方も悪くない。
 思えば、帝国に渡ってからゆっくりした記憶がほとんどない。国費で留学した俺たちにはそれぞれ倭国から与えられた課題がある。卒業までにその課題を達成できなければ、学費は全額返納しなければならない。そんな事態になれば、逃げるように二人で故郷を飛び出た意味がなくなる。
 フユの方は順調らしかったが、俺は悪戦苦闘していた。俺の場合、特に難しい課題を選んだことも関係している。そうかと言って、達成しないわけにはいかなかった。
 妹のために。
 そんなことを考えていると、
「ん……」
 とフユが寝返りを打った。
 やがてフユがぼんやりとした表情で目尻を指で擦りながら上半身を起こす。
「フユ、おはよう。おまえも疲れていたのか?」
「おはようございます。疲れていたわけではありませんが、なんとなく子供の頃を思い出したんです」
「子供の頃?」
「子供の頃はよく一緒に寝ましたよね。なんだか懐かしくなって」
「そうだな」
 俺は、少し乱れたフユの髪を手で梳きながら答える。
 倭国には、男女七歳にして席を同じうせず、という言葉がある。
 しかし俺たちは七歳を過ぎてもよく身を寄せ合って寝ていた。両親の目が行き届いていれば、きっとそんなことはさせなかっただろう。それでも、互いの熱だけが俺たちにとって唯一の慰めだったと思う。
 俺たち兄妹は、両親や使用人たちから無視されるように、屋敷の離れで育った。
 俺は妾腹(めかけばら)。
 屋敷で働いていた使用人に父が手を付けたことで生まれた。母親は俺を産んだあと、すぐに暇を出されたらしい。俺には実母の記憶がなにひとつない。そのことを寂しいと思ったことはなかったが、心の欠落をいつも感じ、それを埋めるように武道や学問に打ち込んだ。
 フユは本腹(ほんばら)。
 しかしフユもまた、両親の希望に叶った子供ではなかった。
 両親に愛されることに条件が必要だとしたら、俺たちはその条件を満たしていなかったのかもしれない。
 今のフユは、倭国にいた頃のなにかを思い詰めているかのような影は失せ、年頃の少女らしい表情で笑うようになった。
 フユが俺の手を包み込むようにして懐中時計を返す。
「兄様はよく眠られましたか?」
「ああ、よく寝たよ」
 時間を確かめると、短針は午後二時を指していた。
 一時間も寝ていたのか。
 ちちち、と先ほどまでいなかった野鳥のさえずりが聞こえてくる。
「兄様は最近、頑張り過ぎていましたからね。たまにはのんびりすることも必要ですよ」
「そうは言ってもな。まだ式ができただけで、技としては未完成なんだ。課題達成には程遠い」
「……兄様は生き急ぎ過ぎです」
「その言い方はひどくないか?」
「兄様が頑張っているのは私のためだということは理解しています。でも私は、兄様にはもっと自分を大切にして欲しいんです」
 俺は少しフユに対して過保護に過ぎるのかもしれない。
 案じてくれるフユの気遣いが嬉しかった。
「分かったよ。しかし、自分を大切にするって言っても、なにをしたらいいのか分からないな」
「趣味を見つけてみては?」
「武道じゃ駄目か?」
 と俺は傍らに置いていた刀に目をやる。
 剣術者として、俺はそれなりの確信を持っていた。武道は単に戦いの技を磨くために学ぶものではない。むしろ戦いをいかに避けるかを第一とする。その教えに俺は深い共感を覚えてしまう。抱えていた空虚さを満たしてくれる気がしていた。
 他者と争わず、自然や宇宙の法則と和合すること。
 俺が学ぶ流派ではそう説く。
 体さばきや、技に入る感覚は、相手との一体感を伴う。それが和合するということだと俺は捉えている。
 しかし今、フユはこう語る。
「兄様が稽古をする姿を見るのは好きですが、少し不安にもなります。兄様がどこか遠くに行ってしまうんじゃないかって。兄様が学ぶ流派が高い精神性を求めているのは分かります。でも私は……もっと身近なところに目を向けて欲しいんです」
 フユは目を伏せて、両手をぎゅっと握り合わせて訴える。
 言いたいことがあるのに上手く伝えられない時、フユはそんな仕草をする。
 頑張っているつもりが、それがかえってフユに心配をかけていたのか。
 俺はフユの頬を優しく撫でる。
「ごめんな、心配かけて。これからはいい兄貴になるから」
「そんな……兄様は立派な兄です。昔も今も、それは変わりません」
「だといいけど」
 俺は苦笑しながら刀を取り、立ち上がった。
 フユに手を差し出す。
 俺の手を取ってフユも立つ。
 俺たちは帰路に着いた。



 自転車が軽快に道路を進む。
 しかし不意に、
「兄様、止まってください」
 とフユが声を上げた。
 俺はブレーキをかける。
「どうした?」
「エーテルが揺らいでいます。なにか魔法が使われたのかもしれません」
「なんだって?」
 俺は精神を集中させてエーテルの揺らぎを知覚しようとする。
 エーテルとは、無色透明な状態で世界を浮遊する物質のことだ。通常は目に見えない。しかし、魔法が使われることによってエーテルは波打ち、その揺らぎが知覚できるようになる。フユは特にそういった感覚に敏だった。
 そのフユが言うのだから確かなことだろう。
 わずかだが違和感があった。心のすみに爪を立てられたような、落ち着かない感覚。空間を漂うエーテルがかすかに揺れ動いていることが俺にも分かった。池に小石を投げ入れた時にできる小さな波のように、エーテルの揺らぎが俺に伝わってくる。確かになんらかの魔法が使われたのは間違いなさそうだ。
 俺は後ろのフユに相談した。
「気になるな。少し寄り道していいか?」
「ええ、私も気になります」
 波の源をたどりながら進んでゆくと、道路から外れることになった。この先には確か小さな村があるはず。
 舗装されておらず、土がむき出しになった道には、自転車は適さない。
 やむなく俺たちは自転車を置いて先を行くことにする。
 フユは慎ましやかに裾を押さえながら自転車を降りた。
「フユ、どの属性の魔法が使われたのか分かるか?」
「いえ……まだ距離があるからでしょうか。属性までは分かりません」
 魔法は三原色に大別できる。青、赤、緑のいずれかに魔法は属す。
 帝国では全人口の一割ほどが魔法の素質を持つと言う。魔法教育も盛んで、若者たちは己の才能を開花させるために切磋琢磨している。高度な魔法教育を行うことで知られる帝国には多くの留学生が見られる。俺たちもそうだ。未来を拓くため、竜立魔法学院ウルトの門を叩いた。
 魔法の素質を持つ者と、持たない者。
 その差がいったいなにに由来するのか、はっきりしたことは分かっていない。しかし帝国の国教では、過去世で善い行いした者ほど現世で高い素質を持つという考えを展開する。だから聖職者たちの説法は、未来世で魔術者になりたければ現世で善い行いを心掛けること、と続く。魔術者であることは出世の早道だ。そのため、聖職者たちの説法にも説得力があるように思う。
 俺はフユを連れ、柔らかな地面の感触を靴底で感じながら歩いてゆく。
 やがて慎ましやかな村が見えてきた。
 激しく流れる川に丸太を組み上げただけの荒っぽい作りの橋が架かっている。川の水はひどく濁っており、どれくらい深いのか分からない。川の幅は二○メートルほどある。
 橋はかなりの高さで落ちれば命に係わるだろう。
 俺は、
「フユ、滑ると思うから気をつけろよ」
 とフユの手を取って橋を渡った。
 村に建つ家々はどれも大きくないため、聖堂の尖塔がいやに目立つ。十字路の中心点に家々が集う。十字路の中心点には広場があり、聖堂が面している。広場だけは石畳が敷かれてある。
 人口は二○○人くらいだろうか。
 道行く人々の服装は、清潔そうではあるが、継ぎ接ぎが目立つ。生活水準は都市部に比べて高くなさそうだった。しかし、倭人である俺たちに気さくに挨拶をしてくれるのは嬉しい。
 それにしても長閑な光景だった。
 俺は拍子抜けする。
 もしかするとエーテルの揺らぎを感じ取ったのは俺たちの勘違いだったのだろうか。第一、魔法によって波打つエーテルの揺らぎは遠くなるほど微弱になる。この小さな村にそれほど強力な魔術者がいるとは考えにくかった。
 とりあえず俺は広場に置かれていたベンチに腰を下ろし、刀を立て掛けた。
拳一つ分の距離を開けてフユも俺の隣に座る。
 広場では若い女性と幼い少女が遊んでいる。二人の髪はどちらも茶褐色で、どことなく顔立ちも似ている。もしかすると母子だろうか。少女はシャボン玉を飛ばしている。陽光を受けてきらめくシャボン玉が、そよそよという風に乗って空に飛び立ってゆくのを見て、少女は嬉しそうに目を細める。
 やがてシャボン液が尽きた少女は次の関心を俺たちに向けたように、物怖じせずこちらに歩み寄ってきた。
 一○歳にも満たないと思しき少女は開口一番、
「お姉ちゃん、髪、綺麗。触っていい?」
 とフユに尋ねてくる。
 フユは戸惑った様子を見せながらも笑顔でうなずいた。
「いいよ。でも、引っ張らないでね」
「わー、さらさらー。いい匂いー」
 少女ははしゃぎながらフユの髪の匂いまで嗅ぎ始める。
 フユは苦笑い。
 母親らしき若い女性もこちらに寄ってきて、
「こら! 女の人の髪を触っちゃ駄目!」
 と少女を叱る。
 少女は顔全体で不満を露わにする。
「えー、お姉ちゃんはいいって言ったよー」
「ごめんなさいね。この子、外国人が珍しいみたい」
「いえ、いいんです」
 とフユは髪を手で整えながら答える。
 少女は女性のスカートの裾を引いて催促する。
「お母さん、シャボン玉!」
「今日はもう駄目。また明日ね」
「うーうー」
 少女は妙な体操をするように体全体で不満を表す。
 女性はなだめるのに一生懸命だ。
 見兼ねたのか、フユが懐から懐紙を取り出し、膝の上でなにやら折り始めた。
 折り紙か。
 おそらく折り紙を初めて見る少女は、なにをしているのか興味深そうに目を注ぐ。
 やがてフユの手によってカエルが折り上がる。
 しかし、それで終わりではなかった。
 フユは、
「我袖は、しほひに見えぬ、おきの石の、人こそしらね、かはくまもなし」
 と歌いながらカエルに息を吹きかける。
 するとカエルは命を与えられ、フユの掌から飛び上がり、ぴょこぴょこと石畳の上を飛び跳ね始めた。
 フユによる青の魔法だ。
 青の魔法には、水、植物、動物、生命などの技が含まれる。無機物に仮初の命を与える技もある。
 基礎的な技ではあるが、少女にとっては初めて見る魔法だったらしい。
 目を輝かせて歩調を合わせてカエルと一緒に歩き始める。
 女性はフユにすまなそうに言う。
「ごめんなさいね、助かったわ」
「かまいませんよ」とフユは少女の姿を微笑ましそうに眺める。
「貴方たち、学院の学生さん?」
 俺たちはうなずく。
「やっぱり。学院は留学生を受け入れているって聞くものね」
 女性と話していると、少女が俺たちのもとにやってくる。
 どうやらカエルにかかっていた魔法が解けてしまったらしい。通常、魔法は一分から一○分ほどしか効果がない。
 動かなくなってしまったカエルを、少女は悲しそうに見ていた。
 今にも泣き出しそうだ。
「カエルさん、死んじゃったの?」
「疲れたからお休みしてるの」とフユは少女の頭を撫でて慰めた。「今度、カエルさんを元気にしてあげる魔法をかけてあげる。それまで休ませてあげてね」
 フユの言葉は嘘ではないだろう。
 永続的な効果を持つ魔法をかけるには入念な準備が要る。
 少女はフユに確かめる。
「ほんとに?」
「本当だよ」
 その言葉に、少女は満面の笑みを浮かべる。
 そこに花が咲いたよう。
 しかし、フユが突然口元を押さえたことで空気が一変する。
 俺は身を乗り出して尋ねる。
「どうした? 気分が悪いのか?」
「……エーテルが……また揺らぎ始めています」
 知覚が過敏な者はエーテルの波に酔うということがある。
 それはつまり、それほど強い振動が起きているということ。
 やがて俺にもその揺らぎが伝わってきた。
 刀を取って俺は立ち上がる。
 その時、魚が水面から飛び上がるように、広場の石畳からなにかが現れた。飛び出した石畳には穴がない。これは魔法? しかし、こんな魔法は見たことも聞いたこともない。
 それは、大きさは一メートルほど。
 それは、異様かつ異質な外見をしていた。形容するならば、数多の口の集合体。口が開くと、乱雑に並んだ歯が見える。その奥には無明の空間が広がっている。
 それは、互いを食らいながら体積を増してゆく。食べられることによって体積が減る。一方、食べることによって体積が増す。減る量と増える量を比べた時、何故か増える量の方が勝っていた。しかし、そのようなことがあり得るのか。
 俺は狂人の悪夢に迷い込んだような感覚を覚えた。
 いったいどこから悪夢は始まっていたのだろう。
 口という口から、世も人も呪う怨嗟の声が漏れ出す。まるで、みずからがこの世にいてはならない存在であることを知っているかのように。
 それは、あっと言う間に人の背丈を上回る肉塊へと成長した。
 生温かい内臓を裏返したような体表を波打たせながら、肉塊が呆然と立つ村人の一人に這い寄る。その痕には、ナメクジが這ったような生臭そうな体液を残す。
 その村人は怯えたように後退るが、肉塊は鈍重そうな見た目とは裏腹に進む速度が速い。
 他の村人たちは悲鳴を上げて逃げてゆく。
 平常が非常に切り替わる瞬間だった。
 肉塊の口の一つが大きく口を開ける。
 肉塊の歯と歯の間に頭を挟みこまれた。
「助けて! 助けて!」
 頭を挟みこまれたまま村人が悲鳴を上げる。
 しかし村人たちは自分のことで精一杯。誰も助けようとしない。
 俺たちも。
 べぎっ、と音を立てて頭蓋骨が噛み砕かれた。
 そのあと、長い舌が村人の胴体に絡みつき、ゆっくりと飲み込んでゆく。
 全てを飲み込むと、餅を噛み切るように咀嚼し始める。口元から赤黒い血が溢れ出す。
 呆然としていた俺は、ようやく我に返り、フユたちに叫んだ。
「逃げるぞ!」
 青ざめた顔でフユがうなずく。
 フユは少女の手を引っ張る。
 俺とフユは、女性と少女とともに道を走った。
 次々と聞こえてくる村人たちの断末魔が耳に残る。俺は無力だった。武道を学んできたと言うのになにもできない。くそ! この刀はなんのためにあるんだ!
 俺たちは民家と民家の間にある路地に逃げ込んだ。
「フユ……あの女の子……」
「え? あの子ならここに――」
 ここにいたのは少女の腕だけだった。フユの手を握った腕を残して、少女は食い千切られていた。
 フユは、
「あの子が! あの子が手を離してくれない!」
 と半狂乱になって叫ぶ。
 少女の手はフユをがっちりと握って離さない。あるいは、俺たちにはそう思えてしまうだけなのか。
 俺はフユの指を一本一本解いてやった。
 ようやく手が自由になると、フユは俺にしがみ付く。普段からは考えられないほど強い力で。
「なんなんですか! あの怪物は!」
「フユ! 落ち着け!」
 そうなだめる俺の声も上ずっていた。
「あの子を探しましょう! 私、あの子に約束したんです! カエルに魔法をかけてあげるって!」
 フユは完全に我を失っていた。
 やがてフユは苦しげに胸を押さえる。
「兄様……っ……胸が、苦し、い……」
 発作か。
 こんな時に発作が起こるなんて。
 俺はフユの背中をさすってやった。
「フユ! ゆっくり呼吸しろ!」
 フユは地面に膝を着く。俺に抱き着いたまま意識を失っていた。
 そんな矢先、路地の先に肉塊が地面を這い寄る不気味な音がした。
 ここは袋小路。
 出口を肉塊に塞がれたら終わりだ。そうかと言って、フユを抱えたまま逃げ切れるか。俺はまだ左手に刀を携えている。しかし、あの肉塊に刀が通じるとは思えなかった。対抗する手段はない。このままでは逃走する手段さえ失ってしまう。
 俺は苦しげに息をする妹の顔を見る。
 なんとしても妹を守らなければいけない。
 正直に言えば怖い。
 武道は習ってきた。一人前になったつもりだった。しかし、あのような怪物と出くわしたのは初めてのことだったし、そもそも武道とは人を相手にするものだ。あんな肉塊を想定した剣技などはない。俺にはなにも打つ手がなかった。
 がくがくと震える膝。
 しかし、妹の温もりが心を奮い立たせる。俺が妹を守らなくて誰が守るのか。
 恐怖を乗り越えて、俺はフユを残して路地の角に走り出した。
「化け物! こっちだ! 来い!」
 俺の声に反応して肉塊が進み出る。次の狙いを俺に定めたようだ。
 肉塊が水溜まりを越えると、じゅう、と肉塊の一部が火傷を負ったように蒸発する。
 俺はできるだけ肉塊を妹から遠ざけようと走りに走った。恐怖のあまり、ともすれば足がもつれる。しかし、転んだら終わりだ。懸命に走ることに努める。
 途中、民家から小銃を持った村人が飛び出してきた。
「化け物!」
 その村人が小銃を撃つ。
 銃弾が肉塊を貫通する。しかし、その穴はすぐに肉によって塞がれてしまった。
 まったく効いていない。
「逃げろ!」
 と俺が村人に向けて叫ぶ。
 肉塊の標的が変わった。けれども、村人は小銃を持って呆然としたまま。
「逃げるんだ!」
 俺の叫びも空しく、肉塊は村人に迫る。
 村人がようやく逃げようと後ろを向いて走り始める。しかし、恐怖のためか足をもつれさせ、地面に転んだ。
 転んだ村人の足を肉塊が咥える。
「助けてくれ!」
 何度となく聞いた叫び。
 しかし俺にはどうすることもできない。
 腰まで飲み込んだところで、肉塊は村人を食い千切った。内臓が地面にまき散らされる。下半身を咀嚼し終えた肉塊は、ぬらりという質感の長い舌で、内臓を絡め取る。そのまま上半身も飲み込んだ。
 肉塊が肉をたるませながら村人を咀嚼する。
 再び標的を俺に定めると、締まりのない肉を波打たせながら前進を再開する。
 また水溜まりで肉塊が蒸気を放った。
 まさか――。
 俺は一縷の希望を見出した。
 確信はない。
 それでも今はそこに賭けてみるしかなかった。
 残った体力を振り絞り、食い散らかされた村人たちの一部を乗り越え、俺は橋に向けて走る。
 橋に着いて後ろを振り返ると、すぐ近くまで肉塊が迫っていた。迷っている時間はない。
 風向きが変わり、俺のもとに腐臭が漂ってくる。それは、絶え間なく新生と腐敗を繰り返す肉塊の臭いだった。
 肉塊が橋の真ん中にいる俺を目指して橋に進み出る。
 肉塊はすでに数メートルを超える巨体になっていた。その重みに耐えかねて橋が傾ぐ。
 俺は心を鎮めるために歌を詠んだ。
「熟田津(にぎたつ)に、舟乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、いまはこぎ出でな」
 時間が、世界が、事象が、ゆっくりと流れてゆくのを感じた。
 俺の属性は赤。
 赤の魔法には精神を扱う技がある。全体的に他者の精神を操る技が目立つが、自己の精神状態を高める技もあった。俺は主観時間を加速させる技に秀でていた。
 時間は、客観的な時間と、主観的な時間に分かれる。
 客観時間は絶対的。主観時間は流動的。主観時間は人間の心の在り方次第でどうにでも変化する。主観時間が加速すれば、事象はゆっくりと流れてゆき、人は事物をゆったりと捉えることができる。
 肉塊が橋を進む挙動が俺の心にはゆっくりと映る。
 脈打つようにうねる体表。大きな口を開けて襲いかかる動作。口の中で粘つく唾液。その全てを緩慢に俺は捉えていた。
 ぎりぎりの間合いを見極め、橋の真ん中からロープをつかんだまま俺は横に跳んだ。
 釣られて肉塊も身を乗り出す。
 同時に橋が崩れた。
 たるんだ肉塊が、ぶよぶよとうねりながら、何本もの丸太と共に橋から落ちて行った。
 大きな水柱が立つ。
 ロープをつかんで落下を逃れた俺の眼下で、肉塊が大量の蒸気を発しながら川の中で悶えていた。ひどい臭いだ。胃がひっくり返りそうな腐臭に耐えながら俺は肉塊の最期を見詰める。
 やはり肉塊の弱点は水だった。
 フユが意識を失わなければ楽に倒せた相手だったのかもしれない。しかし、そのことでフユを責めようとは思わない。フユはまだ一六。あんな事件に遭遇するのは初めてだ。それは俺も同じことだったが、兄貴として妹を守らなければならない以上、初めてだとは言っていられなかった。
 肉塊が完全に溶けるのを見届けてから俺はロープを手繰って登り始める。
 フユが心配だった。発作は一時的なものがほとんどで、すぐに意識を回復させるのが大半だったが、俺はやはりフユが目覚めた時にそばにいてやりたかった。
 その時、俺のつかむロープが音を立てるように切れた。
 一瞬の浮遊感。
――フユ。
 脳裏に妹の顔が浮かぶ。
 俺は急流に飲まれた。
 春先の冷たい川の水が俺を圧倒する。
 肺を水が満たし、意識が遠のいてゆく中、俺は確かに若い女性の声を聞いた。
「貴方はまだ死んではいけない」
 その瞬間、川の水が分かつ。
 幅二○メートルの川がせき止められたのだ。
 薄目を開けるとフユが疲労し切った足取りで川底を歩いて、こちらに近寄ってきた。発作のあとはひどく疲労しているのが常だった。大丈夫だろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えていた。
 そして、再び川の水が流れ始める。
 俺が意識を完全に回復させると、目に涙を溜めたフユの顔が間近にあった。
 びしょ濡れになった俺は川原に寝かされていた。
 ここは賽の河原だろうか。
 俺は死んだのか?
 そして――。
「フユ? おまえも死んだのか?」
「馬鹿なことを言わないでください。でも良かった。兄様を失ったら私……!」
 フユは泣き顔で俺の胸に縋り付く。
「おまえが助けてくれたんだな」
 おそらく青の魔法で水を操ったのだろう。
 しかし、川の水を操るのは相当な労力だったはず。助かったのが奇跡のように思えた。
 そう、俺は助かった。
 それが分かると急に脱力していった。
 初めての実戦で俺は心身共に疲れ果てていた。あんな化け物を相手に生き残ったことが俺には信じられない。
 ただ、妹の体温だけが生きている実感を与えてくれた。



 数日後、俺は校長室に呼び出されていた。
 鋭い西日の差す渡り廊下を俺は歩く。
 途中、先生や生徒たちが俺を見つけては声をかけてくる。
 あの事件以来、俺はすっかり有名人になっていた。あの事件の体験談を聞かせるよう、よくせがまれている。しかし俺はなかなか上手く話せなかった。あの母子を助けられなかったことが心に重く圧し掛かっていた。
 学院には、教室棟、教員棟、植物園、射撃場、校庭、図書館などがあり、渡り廊下で結ばれている。赤レンガで組み上げられた学院の外観は、貴族の住む城館のよう。
 校長室は教員棟の最上階にある。
 大会議室に隣接する形で位置している。
 俺はまだ入ったことがない。
「失礼します」
 ノックして俺は入室する。
 校長は、西日の差す窓辺でタバコを吸っているところだった。女性がタバコをたしなむとは珍しいが、校長の場合とても絵になっていた。細い指が紙巻のタバコに絡みつき、桜色の唇から長い溜め息のように紫煙が吐き出される。
 校長の名前は、ハンナ・アーレントと言う。
 外見は二○代半ばのように見えてしまうが、学院が半世紀前に創立された当初から関わっているという話から考えても、実年齢は相当と思われる。
 校長の属性は青。
 その中でも校長は老化停止の技に秀で、貴族などの富裕層に顧客が多いと聞く。老化停止の技は一週間しか効果がないと言う。若さを保とうと思うなら定期的に魔法をかけてもらう必要がある。そんな大金を美容のために費やせるのは富裕層だけだろう。
 学院の運営資金の大半は、校長によって賄われているという話は大げさではあるまい。
 長く伸ばした銀髪をシニヨンにまとめ、理知的な光を湛えた碧眼には赤い縁のメガネをかけた姿は、一枚の絵のように様になっている。服装は男性的なスーツ姿だが、膝丈のタイトスカートからのぞくほっそりとした足は隠しきれない艶を放っていた。男子生徒たちが熱を上げるのもうなずけるものがある。
 校長はまだ半ば残っていたタバコを未練なく揉み消し、
「ハルさん、いらっしゃい。そこにかけて」
 と俺にソファを勧める。
 校長室は、品の良い調度品で統一されてあった。木製の机は赤みを帯びた光沢を放ち、応接用のソファにはおそらく机と同じ高級木材が使われている。
 俺たちは対面に座る。
 俺は呼び出された件について尋ねる。
「用件というのはなんでしょう?」
「まずは無事でなにより、ということね。話は警手から聞いたわ。あの怪物と戦って生き残ったのは見事としか言い様がない。貴方のおかげで村の被害も拡大せずに済んだわけだし、私は鼻が高い」
 まるで見ていたように校長は言葉を紡ぐ。
 そのことに、ややあって俺は気付いた。
「校長? それはどういう意味ですか?」
「その質問に答えるには、あれを見てもらうのが早いでしょうね」
 と校長は立ち上がって、クローゼットから大きな箱を取り出し、ソファの前のテーブルに置いた。
 大きさは三○センチメートルほど。
 その箱を見た瞬間、俺の背筋を怖気が走った。
 冬の墓場を暴いたような冷気を放っている。いったいこれはなんなのか。
 箱の内側には、無数の歯型がついていた。がりがり、という木をかじる幻聴が聞こえてくる気がした。
「これはね、あの村の近くで発見されたものなの。あの怪物を封印していたのだけど、何者かが封印を魔法でこじ開けたのでしょうね」
 またしても校長は断定的な口調で話す。
 俺は疑問を表さずにはいられなかった。
「まるで見てきたように話すんですね」
「そうよ。だって、あの怪物をこの箱に封印したのは私なんだから」
「え?」
「もう随分昔の話。生き物を合成して新種を生み出したのは良かったけど、扱いに困って私のところに相談が来たの。それで私は封印を施して、学院の倉庫に保管してあったのだけど、つい最近になって誰かが盗み出してしまった。警手には届けてはいたけれど、後手に回ってしまったわね」
「どうしてそんな危険なものを放置したんですか! 川にでも沈めればよかったでしょう!」
 気が付けば俺は叫んでいた。
 あまりにも校長の対応は無責任なように思われた。
 俺の強い視線を受けて校長が目を伏せる。
「そうね、貴方の言う通り。今回の事件は私の甘さが招いてしまったのだと思う。この怪物を生み出すにあたっての苦労を知っていただけに、無に帰すことができなかったの。いつか怪物を安全に扱う技を見つけてみせる、という言葉を信じたのだけど」
 それは魔法に人生を捧げた者にしか分からない心情なのかもしれない。
 俺はまだ、そんな心の在り様を理解するには子供だということだろうか。
 俺は自分の声が厳しいものになっているのを自覚したが、どうしようもなかった。
「それで、どうして村が襲われなければいけなかったんですか?」
 校長の話が本当だとすれば、倉庫から箱を盗み出した犯人が村に怪物を解き放ったことになる。
 いったい誰が? 何のために?
 疑問は尽きなかった。
 校長は一つ一つ、俺の疑問を解き明かす。
「あの村に最近になって脅迫する者が現れた。黒の導師と名乗る人物は、多額の金銭を要求したそう。もちろん、村人たちは相手にしなかった。怪物――正確には合成獣と言うのだけど、あの怪物を放ったのは、その意趣返しなのかもしれない」
「そんな理由で……!」
 そんな理由で人々を蹂躙したのか。
 俺は憤りを隠せなかった。
 あの母子とのやり取りがまざまざと脳裏に蘇る。ただ平穏な暮らしを送っていただけの人たちだった。あんな風に死ななければいけない理由など、どこにもない。
 硬く拳を握り締めた俺の手に、ハンナのひんやりとした手が重なった。
「その怒りを大切にしなさい。怒るべき時に怒れない人は、いざという時に役に立たないから」
 そう言って校長は柔らかな微笑を浮かべる。
 次いで校長は、黒の導師と名乗る人物について言及する。
「黒の導師というのはね、近年、帝国のあちこちで活動する秘密結社の首領なの。厳重な警備を敷いた学院の倉庫からこの箱を盗み出したところから見て、学院内部にも協力者ないし本人がいるのかもしれない。貴方も気をつけて」
「誰が盗んだのか分からないんですか?」
「まだね。でも私は決して許さない。いずれ見つけ出して、然るべき罰を下す。それが私なりの責任の取り方」
 そう語る校長の表情には固い決意が見て取れた。
 それは俺も同じ。
 黒の導師――俺の敵だ。

2. 竜立魔法学院ウルト

 早朝。まだ朝露の乾いていない時刻。
 まだ誰にも汚されていない朝の清涼な空気が甘い。
 俺は庭先に立って日課の素振りを行っていた。素振りは朝夕に一○○○本ずつ。観葉植物が植えられた庭は手狭な印象だが、木刀を振るう空間的余裕は確保されていた。
 一○○本を越えたあたりから体が火照り、上半身裸になった肌が汗ばんでくる。
「五○○!」
 汗が額から垂れてくる。
「六○○!」
 俺はこの間の事件を思い出していた。合成獣という肉塊に村が襲われたという忌まわしい出来事。かろうじて合成獣を退治することができたが、俺は合成獣に遭遇した当初、恐怖で体が強張るのを感じた。危うく妹を死なせてしまうところだった。
 まだまだ修行が足りない。
「七○○!」
 俺は心を無にして木刀を振るい続ける。
「八○○!」
 木刀が風を切る速度はますます鋭くなってゆく。
「九○○!」
 あと少し。
「一○○○!」
 終わった。
 大きく息を吐いて俺は心地よい疲労感を味わう。汗がぽたぽたと地面に落ちる。
 タオルを取ろうとテラスに向かうと、フユがテラスに立ってこちらを見ていた。どことなく上気した顔でタオルを差し出す。まるでなにかに見惚れていたかのような。しかし、俺が木刀を振るっていた以外、庭に別段変わったことはない。
 そんな表情を不審に思った俺はタオルを受け取って尋ねる。
「なにか珍しいものでも見ていたのか?」
「い、いえ……なんでもありません……」
 フユの受け答えには明らかに動揺が見て取れた。
 まあ、いいか。
 追及することでもない。
 俺は体を拭きながら自分の痩身に内心、溜め息をつく。身長は高いが、まだまだ体重が足りない。もっと食べた方がいいだろうか。
「なあ、フユ。弁当の量を増やしてくれないか」
「足りないでしょうか?」
「いや、足りないわけじゃないんだが、もっと太りたいと思ってさ」
「兄様は今くらいがちょうどいいんですよ。細身かもしれませんが、しなやかに筋肉がついていて、私は好きです」
「そうかな」
「そうですよ」
 フユは自信を持って答える。悪い気はしなかった。
 俺は話題に上った弁当について気になってしまった。
「今日の弁当はなんなんだ?」
「兄様、意地汚いですよ。お昼まで楽しみにしていてください」
「む。そう言われると余計気になるな」
「駄目です。教えません」
 と言って、フユはそっぽを向く。
 本気で怒っているわけではないことは俺には容易に察せられる。
 フユには困った癖がある。かまって欲しい時、機嫌を損ねた振りをするのだ。そんな可愛らしい欠点を見せる度に、俺はフユの髪を撫でてやる。黒絹のようにしっとりした手触りが手に伝わってくる。フユは気持ち良さそうに溜め息を漏らす。そんな息づかいと感触を楽しみながら、俺は何度もフユの髪を梳いてやった。
 しばらくそうしていると、夫人がテラスにやってきて、朝食ができたことを告げた。
 一言付け加える。
「貴方たちって本当に仲がいいのね。でも、ちょっと心配になるわ」
「心配?」と俺は夫人の言葉を測りかねた。「仲がいいと、どうして心配になるんでしょうか?」
「年頃の兄妹がいつまでも仲がいいのはちょっとね」
 その言葉に、俺は夫人がなにを心配しているのか見当が付いた。しかし、あまりにも的外れな心配ではないだろうか。
「大丈夫です。心配するようなことはありませんから。なあフユ」
「え、ええ。そうですね?」
「フユ。疑問文になってるぞ」
 帝国に渡って一年になると言うのに、フユはまだ帝国公用語に慣れていないのだろうか。
 俺たちが食堂に向かうと、すでに主人がテーブルに着いて待っていた。
 挨拶を交わし、朝食にする。
 朝食は、バターを添えた黒パン、サラダ、ソーセージ。温かい物はコーヒーだけ。と言って、この朝食が他の家庭に比べて質素というわけではない。帝国では朝夕は簡単に済ませ、その分だけ昼に凝った物を食す。固い黒パンの歯ごたえにも俺は慣れてしまった。
 主人は目尻の皴をますます深めながら俺たちを眺める。
「子供たちも独り立ちしてしまって寂しい思いがあったんだが、ハルさんたちが来てくれたおかげでまた家が賑やかになったよ」
「いえ、そんな。お二人にはいつもお世話になっています」
「二人は学院を出たらなんになりたいんだい?」
「俺は医者になろうと思っています」
 と俺は即答した。
 俺の答えはずっと昔に決定されている。
 しかし、
「私は……」
 とフユは黙り込んでしまった。
 主人がとりなすように微笑む。
「頭のいいフユさんでも将来のことはまだ決まっていなんだね。ゆっくり考えればいい。時間はたくさんあるのだからね」
 そう主人は言ってくれた。
 夫妻はフユの体のことを知らない。ただ、気遣いはきっとフユに伝わっただろう。こんな風に人との触れ合いを増やしてゆけば、きっとフユの人生は彩りの鮮やかなものになるに違いない。
 食事を終え、支度を整えた俺たちは荷物を持って学院に出かけた。



 学院は旧市街の一角に建つ。
 旧市街は長い歴史を持ち、石造りの古い街並みが美しい。石畳でできた路は迷路のように複雑に入り組んでいる。なんでも戦争の時に敵を迷わせる意図があったのだとか。
 建物の高さも新市街より高い場合が多い。心なしか空が狭い気がする。
 路はひどく狭い。荷馬車が通り過ぎる時などは俺とフユは壁際に背中をくっ付けるようにして道を譲る必要があった。
 石畳の固い感触を靴底で感じつつ、道行く人々と挨拶を交わしながら歩いて行く。途中、花飾りを付けた赤い帽子を被るクラスメイトの女子の後姿が目に入った。帽子と同色のマントは膝丈。いつもながら派手な格好だ。彼女の足運びはきびきびとしていて見ていて心地よい。
 フユは手を振って声をかける。
「ラケルさーん」
 ラケル・ジマーマン。歳は俺と同じ一七歳。俺やフユと同じく学院の高等科に通っている。
 留学するための最終試験で対決して以来、俺たちはラケルと友人になっていた。不慣れな帝国での生活にラケルの助言はありがたかった。
 ラケルは、癖のないセミロングの金髪と、夏の海を思わせる碧眼を持つ。全体的に細身で、革製の胸当てをしているにせよ、女性らしい起伏はほとんど目立たない。ただラケルは、生命力が内側から溢れるように、溌剌とした印象があって魅力的だと思う。
 フユが静かに咲く百合だとすれば、ラケルは太陽の下で花開く向日葵のよう。どちらも美しいことには変わりないが、受ける印象はまるで違う。男子生徒の間では、高嶺の花として見られているフユよりも、男友達のような感覚で話せるラケルの方に人気が集まっていると聞く。ラケルの竹を割ったようなさっぱりとした性格も大きく関係しているだろう。
 身長は一六○センチと言ったところで、フユより少し低い。
 ラケルはいつも膝丈のマントと鍔の広い帽子を忘れず、腰のベルトには五○センチほどの長さの小剣を二本吊っている。珍しいことにラケルは二刀流なのだ。その実力はすでに俺は知っている。
 ラケルは足を止めて振り返ると、手を振って応える。何故かその手にかじりかけのリンゴがある。
「ハルー、フユ―、おはよー」
 音の高さが上下することの少ない透明感のある声が返ってきた。柔らかくしなやかな声は、可憐と言う他にない。
 俺はラケルのところまで進むと、リンゴについて尋ねた。
「ラケル。そのリンゴは?」
「ああ、これ? 実は寝坊しちゃってさ。朝ご飯、食べられなかったんだ」
 それでも食べることは忘れないというのがラケルらしかった。ラケルはほっそりとした外見とは裏腹に男子以上に食べるのだ。食い意地が張っているとも言う。
 俺たちは学院に向けて並んで歩き出す。
 俺の右隣を歩くラケルがリンゴを食べ終えた。しかし満腹していないのかラケルはフユの持っているバスケットに目を付けた。
「フユー? それってお弁当だよねー?」
「あげませんよ」
 すげなく答えつつ、フユはバスケットをラケルとは反対側の手に持ち替える。
「ちょっとだけ分けてあげようっていう優しさはないの?」
「ラケルさんのちょっとだけは信用できません」
「ケチー」
 まるっきり子供だ。
 ラケルという大きな子供は攻め口を変えることを思い付いたらしい。
 今度は俺に頼み込んできた。
「お願い! ハルからも頼んで! ハルの頼みならきっと!」
「ラケル。寝坊したおまえが悪い」
「ハルー、ちょっとは優しい言葉に言い換えてよー。愛がないよー、愛が」
「愛なんてないぞ」
 友情ならあるが。
「言われちゃったー。ハルの愛は妹が独占してるのかー」
 ラケルは大げさに天を仰いで嘆く。
 道行く人がちらりと俺たちを見た気がした。今の言葉を聞いて誤解していなければいいが。
「なんでそうなる」
「だってさ、ハルって妹しか眼中にないじゃない」
 暴言と言っていい。俺を社会的に殺す気か。
「甚だ心外だな」
「そうかなー」
「当り前だ。俺だって男としてそれなりに女子に興味はある」
「じゃあ、どんな子がいいの?」
「そうだな」
 しばし俺は黙考する。
 隣を歩くフユとラケルが興味深げに俺の様子を見ていた。
 俺は考えをまとめながら答える。
「長い黒髪で、細身で、家庭的な女の子がいいな」
 フユとラケルは、
「……」
「……」
 それぞれ沈黙する。フユは顔を赤らめて。ラケルは苦い顔で。
 言い終わってから気付いた。俺が挙げた特徴はフユとぴったり一致する。まずい、なにか弁解しないと。
 ラケルがマントを翻しながら呆れた声を出す。
「それってフユのことじゃない。あのね、いくら可愛いって言っても妹に手を出しちゃいけないんだよ?」
 やはり、そう言われてしまうか。
「誰がそんなことをするか。今のはフユのことじゃない。倭国では一般的な女性像だ」
「そうなの?」
「当り前だ」
「ふーん。でも、君たちを見ていると心配になるなあ」
 そう言えば今朝、夫人も似たようなことを言っていた気がする。しかし、まったくの言いがかりと言っていい。俺はあくまで妹としてフユを大事にしているだけで、やましい気持ちはまったくない。どうしてそれを理解してもらえないのだろう。
 内心の苛立ちを隠して俺は答える。
「安心しろ、ラケル。おまえの心配しているようなことは絶対にありえないから」
 ふとフユの気まずそうな表情が目に入った。
 もしかするとフユは誤解しているのかもしれない。妹に欲情する兄、という誤解はフユにだけはして欲しくない。
「フユ。ラケルの冗談を本気にするなよ」
「……そうですよね。でも、ちょっとびっくりしてしまいました」
 フユはすぐ明るい表情に戻る。少し残念そうな、そんな感情が見て取れたような気がしたが、放っておくことにした。
 フユには兄想いを少しこじらせたところがあるのは俺も知っている。俺たち兄妹は幼い頃からずっと一緒だった。そのためにフユはそういう風に育ってしまったのだろう。しかし時間が全て解決してくれると思う。その時間は残されているはず。
 やがて学院に着いた。いくつもの棟を渡り廊下で連結した建物群だ。
 階段を上って、途中ですれ違った先生や生徒たちと挨拶を交わして教室に向かう。
 クラスメイトたちのざわめきに満ちた教室に着いた。クラスメイトたちは一○代ではあるが、微妙に年齢が異なる。学院は他の学校とは違い、特に何歳になったら自動的に入学してくるというわけではない。学院の自由な校風に惹かれて帝国全土から、時には外国から、生徒たちが集まってくる。
 教室はいつになく騒がしい。もうすぐ先生が来るだろうに、自分の席に着かず、友人たちと熱っぽく話し込んでいる。
 一体何事かと思っているとクラスメイトのエーリヒ・メンデルゾーンが話しかけてきた。
「ハル君、聞いた?」
 エーリヒは今年で一五歳だと言う。
 ジャケット、細いタイ、丈の短いスラックス。白いシャツ以外は黒で統一してある。
 エーリヒは学院屈指の美少女という声が高い。亜麻色の髪は耳を隠す程度の短さ。身長が一六○センチと少ししかないため、新緑のような色合いの瞳は上目づかい気味になっている。潤んだ瞳が愛らしい。体つきも華奢で、腰などは六○センチもないだろう。
 声も可憐で、繊細で澄み切ったような響きを持つ。非常に柔軟で、明るい響きがあり、敏捷性に富んだ声と言える。美しく柔らかな声の性質に、思わず聞き惚れてしまいそうになる。
 学院屈指の美少女という声にもうなずけるものがある。
 だが男だ。
 そう、エーリヒは男なのだ。エーリヒは俺やフユに遅れて学院に編入した。エーリヒが男だと分かってからも懸想する男子生徒は後を絶たなかった。エーリヒは女より女の子らしいと言える。俺はそんなエーリヒの貞操が心配になることがある。杞憂であると思いたいが、エーリヒの美少女っぷりを見ていると、いつか不安が的中しそうで怖い。
 エーリヒは俺の心中を知らない無垢な様子で続ける。
「今日はユーグ先生が剣術の試合をしてくれるんだって。みんな、その話題で持ち切りだよ」
「ユーグ先生が!」
 と声を上げたのはラケルだった。
 ユーグ・フォン・アイヒベルガー。もともとは貴族だったらしい。座学でも分かりやすい授業だと生徒たちに好評だったが、最も羨望されているのは剣術の腕前だった。ユーグから剣を学ぶために学院に入った生徒は一人や二人ではない。ラケルもその一人だった。
 ラケルは期待に目を輝かせる。
「私! 絶対、ユーグ先生に勝ってみせる! そのために学院に入ったんだから!」
 俺も、私も、とクラスメイトたちがラケルの言葉に呼応した。
 ラケルは威勢良く宣言する。
「私は世界一の剣豪になる!」



 今日最初の授業は射撃の授業だった。
 射撃場は石壁に囲まれた細長い場所だ。二五メートル、五○メートル、一○○メートル、二○○メートル、三○○メートルごとに射撃位置が異なり、教師の監督のもと射撃を行う。
 授業内容は次々と射出される陶器の的を撃ち抜くというもの。
 授業はエーリヒの独壇場になった。
 陶器でできた的が機械によって射出される。
 鼓膜を揺さぶる銃声が射撃場に響く。
 その的を銃弾が撃ち砕いた。
「おお!」
 と生徒たちがどよめく。
 エーリヒは銃を使う。ブルームハンドルという自動拳銃だ。回転式の拳銃は古くからあるが、自動式というのは珍しい。長さは三○センチを超える。エーリヒはそんな拳銃に銃床を付け、肩に押し当てるようにして次々と標的を射抜く。
 エーリヒは普段、大人しい性格ではあるが、銃を持つと人が変わったようになる。
「この世で狩りほどの楽しみが他にあろうか?」
 と詠唱しながら射撃に集中する姿はうかつに声をかけづらいものがある。鬼気迫る、とは今のエーリヒのような顔を言うのだろう。目を細め、標的を一点に見詰める。
 今度は、標的が一○個同時に射出される。
 まるで鳥が一斉に飛び立ったかのよう。
 エーリヒは素早く再装填。ブルームハンドルは拳銃でありながら一○発という装弾数を誇る。その装弾数は小銃よりも多い。エーリヒはその利点を生かして全ての的を撃ち抜いた。一秒で三連射という驚異的な速射だった。
 教師も生徒も唖然とする。
 皆、感嘆の声もない。
 俺は拍手でエーリヒの技を称える。皆、我に返ったように俺に倣った。当のエーリヒは照れ臭そうに笑っていた。うん、いつものエーリヒだ。こっちの方が見ていて落ち着く。
 他の生徒たちはエーテル塊を撃ち出して的を狙う。
 エーテル塊とは、大気中に漂うエーテルを成形したものを指す。体内に蓄えられた魔力の量に応じてエーテル塊は大きさを増し、場合によっては攻城兵器として用いられる。
 しかし生徒たちの放つエーテル塊はテニスボール程度。個人としては平均的な大きさだ。
 フユはさっぱり命中させることができないでいた。エーテル塊の大きさは他の生徒より大きいが、如何せん的の動きについていくことができない。フユは、頭は良いものの、運動に関してはお世辞にも優秀とは言えない。
 これは補習に付き合ってやる必要があるな。
 俺は、やれやれと思いながら自分の番を待った。



 射撃の次はようやくユーグ先生の授業だった。芝生の植えられた第二グラウンドの一角で一人ずつユーグ先生と対戦することになる。
 学院には二つグラウンドが用意されている。基礎体力を養うために、生徒たちにはスポーツが推奨され、放課後も残ってクラブ活動に勤しむ生徒たちが多い。さすがに全生徒二○○○人が集うことは滅多にないが、それでも多くの生徒たちが汗を流す姿は、見ていて気持ちの良いものがある。
 俺たち生徒が集合した頃、僧服のような黒衣をまとったユーグ先生がやってきた。歳の頃は四○歳前後。肩甲骨あたりまで黒髪を長く伸ばし、顎には薄く髭を生やしている。と言って、だらしない印象はない。むしろ精悍という感がある。
 ユーグ先生の低い声が校庭に響き渡った。
「これより授業を行う」
 低く、華やかな色気のある声に何人かの女子生徒が陶然とする。
 そこにラケルの軽やかな声が伸びるように響いた。
「ユーグ先生! 私が貴方を倒します!」
「いいだろう。来い」
 一番手はラケルになった。
 ラケルとユーグ先生が向かい合う。手に持つのは木剣。勝敗は体のどこかに寸止めされたら決着する。実戦ではない。それでもラケルがいつになく緊張しているのが見て取れた。ラケルらしくない。あれでは余計な力がかかっていつもの実力を出せないだろう。
 対するユーグ先生はあくまで自然体。どこにも隙を見出せない、というのが剣術者としての俺の感想だった。
 芝生の上に座った生徒たちが息をのむ気配が伝わってくる。
 俺の傍らに座るフユが心配そうに尋ねてくる。
「兄様。どちらが勝つでしょうか?」
「ラケルの実力は高い。しかし、余計な力が入っている。あれではせっかくの身体能力を活かせないだろう」
「ではユーグ先生が勝つと?」
「それはやってみなければ分からない。ラケルは速度と手数で圧倒する剣術者だ。あるいは、ラケルが勝つかもしれない」
 そこでエーリヒが割って入る。
「でもでも。あのラケルだよ。きっと大丈夫だよ」
 ラケルは実学において常に一位を保っている。持久力にこそ欠けるが、瞬発力にかけては右に出る者はいない。
 俺は期待を込めてエーリヒに答える。
「そうだな。ラケルならきっとやってくれる」
 試合が始まった。
 その瞬間、ラケルが地を蹴った。一呼吸に五メートルの距離を詰める。
 ラケルが先手を取った。あるいは、ユーグ先生が譲ったと見るべきか。
 五○センチほどの木剣を二刀閃かせてラケルは攻めた。
 一方の剣が下段を攻めたかと思うと、もう一方の剣は上段を攻める。二刀流の優位を活かして巧みに攻撃を散らす。そんなラケルの攻撃を、ユーグ先生は一本だけの剣でしのいでゆく。
 俺たち生徒は息を飲んで攻防を見守った。
 まだユーグ先生は攻撃に転じていない。守りに徹している。
「兄様。ユーグ先生はどういうつもりなんでしょうか? 守ってばかりでは勝てないと思うのですが」
「おそらく待っているんだろう」
「待つ?」とフユは小首をかしげて疑問を表す。
「ラケルは血気盛んな性格だ。いずれ焦れてくる。そこでラケルが防御を捨てて勝負に出ればユーグ先生が勝つ。ラケルが自分を抑えられれば勝負はまだ分からない」
 ユーグ先生の防御は完璧で、ラケルはなかなか突破できない。
 じれったくなるような攻防が続く。生徒たちは盛んに声援を飛ばす。
「ラケル! ラケル!」
 ラケルは人気者だった。俺も声を出す。
「ラケル! 落ち着いてユーグ先生を見ろ! まだ焦る時じゃない!」
 しかし俺の懸念は現実化した。
 ラケルが防御を捨てて全力で攻めたのだ。
「さあ祝杯をあげよう! さあ祝杯をあげよう! この心地よきひとときに! 一、二、三、それ!」
 閃くような六連撃。袈裟懸け、逆袈裟、胴、逆胴、小手、面。一息の間に剣戟が繰り出される。
 だがユーグ先生も精神を集中させる。
「荒野に咲く一輪の小花、その名はエリカ。幾千万の蜜蜂たち、熱あげて群れなすエリカ。小蜂らの求めるはその甘き心と馥郁(ふくいく)たる香。荒野に咲く一輪の小花、その名はエリカ」
 重力から解き放たれたような軽やかさでユーグ先生はラケルの攻撃をかわす。一体どのような魔法なのか。俺には見当もつかなかった。
 奥の手を出して疲れ切ったラケルに今度はユーグ先生の猛攻が襲う。二刀をもってさえ受け切れない速度で繰り出される連続攻撃。ラケルはさばき切れない。あっと言う間にユーグ先生の木剣がラケルの喉元に突き付けられた。
「ま、参りました……」
 ラケルが悔しげに降参する。
 観戦していた生徒たちが一斉に声を上げる。改めてユーグ先生の実力を見せつけられて、皆興奮していた。俺もそうだ。こんなにすごい先生が俺たちのために時間を割いてくれるのだ。一つでも多く、ユーグ先生から学び取りたい。
勝利したユーグ先生は淡々とした声音でラケルを諭す。
「剣術の基本は争いを避けること。今のおまえでは無駄な争いに飛び込んで、いつか命を落とす。まず自制することを学べ」
「はい!」
 負けたのに清々しい様子でラケルは返事をした。
 ラケルは帽子の角度を直すと、妙にさっぱりした表情で、見守っていた俺たちのもとに戻った。
 フユがラケルを労う。
「ラケルさん、お疲れ様でした」
「やっぱりユーグ先生は強かったよ。あー、もう悔しいなあ」
「その割に妙にさっぱりした様子だが」
 と俺はそう指摘する。
 くるり、とラケルは体を一回転させた。
 赤いマントが舞った。
 いつもの朗らかな笑みを浮かべてラケルは俺の言葉にうなずいた。
「まあね。私、もう強くなったって思ってた。私が一番強いんだって。でも、それは驕りだね。私なんてまだまだ。でも、これからもっと強くなって、世界一の剣豪になるんだから」
「その意気だよ、ラケルさん。ラケルさんならいつかユーグ先生に勝てる」
 とエーリヒがみずからの拳をぎゅっと握ってラケルを一生懸命に励ました。
 エーリヒもフユと同じく見学組だった。小柄なエーリヒには剣をあつかうだけの筋力はない。エーリヒの得意分野は射撃。その技の冴えは先ほど改めて見た。
 フユが心配そうに俺に話しかけた。
「兄様。私たちではユーグ先生にはかなわないのでしょうか?」
「方法はある。ただ、それができる生徒は少ないだろうな」
「方法?」とフユはまた小首をかしげる。
「それはおまえにも秘密だ」
「兄様、教えてください。私に隠し事なんて兄様らしくありません。兄様のいいところは正直なところです。私にはなんでも話して欲しいです」
 とフユは俺に体を寄せて迫った。
 俺は困惑しながらフユのほおを撫でた。フユは陶然として俺に身を任せる。フユのぷにっとした頬の感触が心地良く、俺はしばしフユを撫で続ける。本当に可愛い奴。いつかフユが結婚する日が来るだろうが、それまでは傍にいて欲しい。
 ラケルが苦笑いを浮かべながら指摘する。
「こら。兄妹でいい雰囲気を出すな」
「いや、これは、その……」
 と俺はフユから手を離す。
 気が付くと、周囲の生徒たちは白けた顔で俺とフユを見ていた。まるで、俺たち兄妹と、その他の間に温度差があるような。しまった、人前でやり過ぎた。フユが喜んでくれるので、ついついスキンシップが行き過ぎてしまう。
 ラケルは手の打ちようがないという顔になった。
「兄妹がみんな、君たちみたいなことをしていたら世の中おかしくなっちゃうよ。その辺、自覚してる?」
「……気を付けるよ」
 そんな俺たちを尻目に試合が順調に消化されてゆく。どの生徒もユーグ先生にはかなわなかった。
 試合後の生徒たちから仄かに汗の匂いが漂ってくる。疲れ果てている子もいる。それなのに連戦を続けるユーグ先生に疲れは見えない。不動にして不敗。そんなユーグ先生を一敗地にまみれさせるのは――。
 やがて俺の番が来た。
「フユ。行ってくる」
「はい。兄様、がんばってください。私は兄様が勝つことを確信しています」
 とフユは花が咲いたような笑顔で俺を送り出した。
 芝生の感触を靴底で感じながら俺はユーグ先生が向かい合う。
 ユーグ先生が口の端をわずかに上げる。
「ハル。おまえとは一度、手合わせをしたいと思っていた」
「俺とですか?」
「実戦となれば、おまえはラケルを上回る。その真価を見せてみろ」
 試合開始。
 俺は木剣を中段にかまえて、剣先でユーグ先生の出方を探った。
 今まで先手を取られていたユーグ先生が疾風のような鋭さを見せて俺に襲いかかる。ユーグ先生の剣が俺の喉元に迫る。
 錯覚を覚える。剣が伸びるような突きだった。
 かろうじて俺は剣で受けた。
 ユーグ先生の攻勢は続く。多段攻撃だ。電光のような速さで突きが連続してくり出される。俺は防戦一方に追い込まれた。
 追い詰められた俺は、尻餅を着くように体の力を抜いて後ろに倒れ込み、その力を利用して一気に後ろに下がった。
 汗ばんできた掌で木剣を握り直す。
「兄様! 頑張って!」
 不意に俺を応援するフユの声が耳に入った。もしかすると今まで耳に入らなかっただけで、ずっと声援を送り続けていたのだろうか。その気持ちに応えてやりたい。
 勝負はここから。
「熟田津に、舟乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、いまはこぎ出でな」
 奥の手である主観時間の加速という技を使う。
 途端、世界がゆったり流れてゆく。
 あれほど速かったユーグ先生の突きが鈍く見える。余裕を持ってかわすと、反撃に出た。全身の体重をかけた斬撃を見舞う。下段を攻めて注意をそらせ、上段から一気に振り下ろす。しかしユーグ先生はお見通しだった。常に俺の一歩先を行くかのよう。
 ユーグ先生は落ち着いて俺の攻撃を受ける。連続攻撃をかけて、いくら揺さぶろうとユーグ先生は動じない。やはり俺にもユーグの防御を突破するのは難しいらしかった。主観時間を加速させてもユーグ先生には追いつけない。そうかと言って手数で攻めても突破できないのはラケルとの試合で判明している。
 ならば、あの手しかない。
 そう思った。
 再び間合いを取る。
 呼吸を整える。吸い込まれたエーテルが血流に乗って全身を駆け巡ってゆく。エーテルの利用法はなにも射撃だけではない。身体能力を強化することもできる。今日のエーテル密度は良好。すぐさま全身の隅々にエーテルが行き渡った。
 行ける!
「やぁあっ!」
 気合の声ともに上段から剣を振り下ろした。易々とユーグ先生が俺の剣を受ける。だが――。
 木剣が木剣を切り落とした。
 剣術を極めた者だけができる技だった。そう言う俺も、一○回試して一○回とも成功するわけではない。今回は運が良かった。
 俺は勝利を確信した。
 しかし、
「荒野に咲く一輪の小花、その名はエリカ。幾千万の蜜蜂たち、熱あげて群れなすエリカ。小蜂らの求めるはその甘き心と馥郁(ふくいく)たる香。荒野に咲く一輪の小花、その名はエリカ」
 ユーグ先生の詠唱が響いた。ユーグ先生はまだ勝負を諦めてはいなかったのか。
 電光石火と言うべき速さでユーグ先生は残った木剣で打ち掛かった。目にも止まらぬ片手打ち。その剣の勢いは今までの中で最も速い。俺は反応できなかった。いつも以上に鋭いユーグ先生の眼光が俺を捕えていた。
 まさか殺す気か。
 ぴたり、とユーグ先生の木剣が俺の額の間際で止まる。一瞬、殺されるのではないかと思った。それほどの気迫だった。俺はようやくこれが試合であることを思い出す。
 勝負あった。
 俺の負けだった。毛穴という毛穴から汗が噴き出てくる。
 あれほど騒めいていた生徒たちは声もなかった。グラウンドは静まり返っている。一同、ユーグ先生の手並みに度肝を抜かれているらしい。俺自身そうだった。相対して初めて分かることがある。俺とユーグ先生の差は圧倒的だった。
 かろうじて声が出た。頭を下げる。
「参りました」
「剣を破壊するのはいい。だが、そこで気を抜いてしまうのは間違いだ。相手を殺すまで油断するな」
 と、諭すユーグ先生の言葉はもっともだとは思う。
 俺はまだ人を殺したことがない。罪を背負う覚悟はできていると俺自身は思っているのだが、甘さが残っているのかもしれない。ユーグ先生はどうだろうか。ユーグ先生の剣には迷いがなかった。
 俺は妹たちのもとに戻った。
 妹のフユが笑顔をかける。
「兄様。お疲れ様でした。惜しかったですね」
「応援ありがとう。あと一歩だったよ。だが、その一歩が果てしなく遠い」
 それは俺の実感だった。
 フユが俺をまっすぐに見詰めて励ました。
「そんなことはありません。兄様ならすぐにユーグ先生に追いつけます。私の自慢の兄なんですから」
「そうだな。おまえに失望されないように励むよ」
「失望なんて。兄様はいつも頑張っています。それは私が一番知っています」
「そうかな」
「そうです」
 俺たちはしばし見詰め合った。
 それだけで気持ちが通じ合うような気がする。
「おーい。私たちの存在を忘れるなー」
 ラケルの言葉でようやく俺たちは見詰め合うのをやめた。



 昼食の時間になった。
 俺たち四人はカフェテリアに向かう。
 カフェテリアは、採光を考えた開放的な造りで、そこかしこにあるガラス窓から柔らかな日差しが差し込んでくる。
 学院には、中等科および高等科に属する二○○○人もの生徒たちがいる。育ち盛りの生徒たちが一斉に食べ物を求めて押し寄せるのだ。昼時になると、カフェテリアは戦場のような殺人的混雑を見せる。
 怒声、奇声、嬌声。
 多種多様な叫びがカフェテリアに充満する。俺は二人分のコーヒーを求めてカウンターに並んだ。毎度のことながらカウンターまでの道のりは嫌になるほど遠い。押し合い、圧し合い、列は蛇のようにくねる。体育の授業のあとにシャワーを浴びずにカフェテリアに直行したと男子生徒も多く、むせ返るような臭いが鼻を突く。
 時折、列に横入りする生徒に対して後ろの生徒から怒号が飛ぶ。それでも改めない生徒には鉄拳が飛ぶ。たちまちケンカになった。周囲の生徒たちが囃し立てる。まるでお祭りのようだが、こんなことは日常茶飯事。俺は巻き込まれないように距離を取りながら自分の番を待った。
 俺はコーヒーを買うと、零さないように気を付けながら密集する生徒たちから抜け出した。まだケンカが続いていた。いい加減にしないと先生を呼ばれて昼食どころではなくなるだろうに。
 テーブルを確保するために先に行っていたフユと無事合流する。
 俺は砂糖とミルクを入れた方のコーヒーをフユに渡して席に着く。しばらくしてラケルとエーリヒがやってくる。
 ラケルは大皿にアウフラウフという料理を乗せていた。あまりの量に男子生徒でさえなかなか頼まない一品だった。興味を持った近くの席の生徒が一口盗もうとするのをラケルは噛み付くように威嚇しながら自分の食事を守る。ラケルから食べ物を盗もうというのは、勇敢を通り越して無謀と言いっていい。あとでどんな制裁を受けるやら。
 アウフラウフとは、色々な野菜を肉やパスタなどで積み重ね、上からホワイトソースをかけてオーブンで焼いたものを言う。その名前の由来は、「ふくれ上がった」という意味だが、まさにそんな表現がぴったりな圧巻な料理だった。
 それをラケルはいつもぺろりと平らげる。細い体のどこに入るのだろう、と俺たちはささやき合っていた。
 エーリヒと言えば、オランデーズソースをかけた白アスパラガスとジャガイモ。オランデーズソースとは、バターとレモン果汁を、卵黄を使用して乳化させ、塩とコショウで風味付けしたソースのことを言う。
 ラケルは不思議そうに尋ねる。
「いつも思うんだけどさ、エーリヒってそれで足りるの?」
「ラケルさんみたいにたくさん食べるのは無理だよ。僕はこれで十分」
「大きくなれないよ?」
「……」
 と、エーリヒはちらりと俺を見る。
「どうした、エーリヒ」
「う、ううん。なんでもないよ」
 ははーん、とラケルは分かったように笑った。
「エーリヒってば、気になるんでしょ? やっぱりハルのことが好きなんだ」
 ごほっ、と俺は飲みかけたコーヒーを噴いた。
 エーリヒは慌てて訂正を求める。
「そ、そんなわけないよ! ただ僕はハル君って背が高くていいなあって思っただけで」
「その憧れが第一歩なんだよー」
 なにを言っているやら。
 四人そろったところで食事を始める。がやがやとしたカフェテリアでのいつも通りの面子。
 フユはバスケットから今日の弁当を並べ始める。
 カボチャのヨーグルトサラダ。レーズンも加えてある。帝国で栽培されるカボチャは、果肉は粉質で食感はホクホクとして甘みが強い。黒い斑点はコショウを利かせている証。酒の飲めない俺には実感できないが、酒の席での前菜に最適な一品の一つという話を聞く。彩りも美しい。
 ザワークラフトを挟んだサンドイッチ。ザワークラフトとはキャベツの漬物のこと。白ワインと塩を加えて漬け込まれた。帝国で育つキャベツは、キャベツ頭という言葉が生まれたほど固いので、漬物にして柔らかくする方法が考案された。酢は使っていないが、乳酸菌などによる発酵のおかげで酸っぱい味わいになっている。
 香辛料を混ぜ込んだソーセージ。
 それがバスケットの中身だった。いつもながら美味しそうだ。帝国では醤油や味噌が貴重品で、俺の収入ではなかなか手を出せない。しかしフユは、今ではすっかり帝国の食文化に慣れ、毎日美味しい弁当を作ってくれる。
 ラケルがふざけた口調で言い出す。
「フユって、きっといいお嫁さんになるよねー。いいなあ、私も家に一人フユが欲しい。そうすれば美味しい料理が食べ放題じゃない」
「冗談はよしてください……」
 とフユは困り顔。
 対するラケルは愉快そうに笑う。
「あはは。安心して。可愛い女の子は愛でる対象であって、それ以上の意味はないから。でも、フユがその気なら考えないでもないよ?」
「冗談に聞こえません……」
 フユは困り果てていた。
 そろそろ助けてやるか。
 ところがラケルがこんなことを言い出す。
「それともフユ。誰か好きな人でもいるの?」
 もう少し様子を見るか。
「いますけど……言わないと駄目ですか……?」
 そんなフユの言葉に、周囲の男子生徒たちが一斉に食事の手を止めた。この一角だけ静寂の帳が下りたよう。学院で五本の指に入るだろう美少女が二人、恋の話題に花を咲かせようとしているのだ。男なら聞かずにはいられないだろう。
 ラケルが執拗に尋ねる。
「言いなよー。誰も聞いてないって」
 いや、聞いてる。
「いいです。言いません。どうせ叶わない恋ですから……」
「ふーん。ま、予想通りの答えだね。やっぱりフユってそうなんだ」
 ラケルは訳知り顔で俺を見る。
 フユの好きな男と言うのは……。まさか、そんなはずがない。
 俺は食事に集中した。



 午後最初の授業は歴史だった。
 満腹になった俺は眠かった。油断すると、うつらうつらしていることに気付く。見れば、幾人かのクラスメイトも同じだった。舟を漕いでいる者さえいる。ラケルなどは、机に突っ伏して堂々と寝入っている。そりゃあ、あれだけの量を食べれば眠くもなるだろう。
 開け放たれた窓から春風が舞い込み、カーテンを揺らす。爽やかな花の香りが鼻をくすぐった。
 そんな中、教師に指名されたフユが、立って歴史の教科書を音読していた。細い柳のように立つフユの着物姿は、夢見心地の俺にも眩しかった。
 教室にフユの落ち着いた深い声が流れる。
「……原型の魔剣とは、世界を生み出す創世の剣、世界を維持する調和の剣、そして世界を終焉に導く終幕の剣の三本がある。一世紀ごとに行われる調和の剣と終幕の剣の戦いの如何で世界の命運が決定される。三番目に創世された世界である第三紀は一九世紀も終わりを迎えようとしている。世紀の決戦は近い。これを読んでいる諸君は是が非でも世界を終わらせないために奮闘してもらいたい……」
 そんなことを言われても俺には実感が湧かない。今はとにかく眠かった。午後の授業はどうしてこう眠いのだろう。国費で留学した身でありながら居眠りするのはどうかと思わないでもないが、眠いものは眠い。
 俺は眠気を耐えながらフユの音読を聞いていた。
 そんな風に午後の時間は過ぎて行った。
 ようやく放課後になった。クラスメイトたちが元気よく教室を飛び出してゆく。
 俺は大欠伸をしながら背伸びする。
「ハル君、眠そうだったね。大丈夫?」
 エーリヒがとことこと俺の席に歩み寄った。
「ああ、なんとか乗り切った。でも全然、授業の内容が頭に入らなかったよ」
「私もー」
 とラケルが同意する。
 俺はつい苦笑してしまった。
「ラケル。おまえは完全に寝ていただろう」
「昼寝の時間を作らないのが悪いの!」
 斬新な発想だ。
 俺も眠かったが、そんな発想には至らなかった。さすがラケルと言うべきか。
 フユが俺たちのところにやってきて優しく微笑む。
「ラケルさん、あとでノートを写しますか?」
「ほんと? ありがとう、フユ! 大好き! 嫁にしたい!」
「嫁にしたいと言われても……」
 とフユは苦笑いを浮かべている。
 俺たちは図書館に移動することにした。
 一人、エーリヒは用があるということで別れた。
 白塗りの壁が特徴的な二階建ての図書館に入ると、カビっぽい本の匂いが俺たちを包んだ。俺はここによく本を借りに来るが、在学中に蔵書を全て読み切る自信はない。
 図書館はすでに多くの生徒たちが利用していた。雑談を交わす生徒はいない。皆、読者や勉強に集中しているらしい。タイル張りの床を歩く靴音や咳払いの音さえ、やけに大きく聞こえる。本のページをめくる音がそこかしこから聞こえてきそうだった。
 俺は、フユとラケルから離れ、棚を巡った。医学書を収める区画で足が止まった。
『結石と魔石(ませき)についての概説』
 というタイトルの本を見つけた。
 革表紙の厚い本だった。思わず手に取る。
 魔石とは結石の一種で、人体内部に石ができてしまう病気のことだ。魔石には大量の魔力を蓄積できることで知られているが、これは人間にしか生まれない。大規模な魔法を使うために、人々はこぞって魔石を求め、時には生きた人間を殺して取り出すほどだった。今ではそのようなことはなくなったと思いたい。
 俺はその本を持ってフユの隣に座った。フユと言えば、栄養学の本を読んでいた。きっと料理の勉強のためだろう。対面の席に座るラケルはフユのノートを写す最中だった。随分筆圧が高そうだ。ぎりぎりと鉛筆で文字を刻むように書いている。
 俺は本を読むことにした。
 すぐに内容に没頭する。時間を忘れた。
「……ハル。ハルってば」
 と言うラケルの可憐な声で我に返った。
 俺は本から顔を上げる。
「どうした?」
「終わったよ。帰ろ」
「分かった。ちょっと待ってくれ。この本を借りてくる」
 貸出許可をもらって、俺は三人で帰ることにした。
 時刻はすでに夕暮れになっていた。日の沈みゆく空が鮮やかに映る。
 校門に続く並木道を三人で歩く。
「あー、今日も一日疲れたなー」
 と、マントをひらひらと揺らしながら感想を漏らすラケルに、俺はすかさず言ってやった。
「おまえは午後、ずっと寝ていただろう。そんな調子で試験は大丈夫なのか?」
「私はまだ本気を出してないだけ! 明日、二倍頑張る!」
 そこでフユがさりげなく指摘する。
「この前も似たようなことを言ってませんでしたか?」
「うう!」とラケルが針で胸を刺されたように前屈みになる。「さりげなく毒を吐くフユって怖い子!」
「なにを今さら……。日々の積み重ねが大事なんですよ。兄様を見てください。毎日、読書を欠かしません」
 自慢げにフユは胸を張る。
 そう言えば、とラケルは話題を俺に向ける。
「さっきなんの本を借りたの? 随分真剣に読んでたけど。そんなに面白い本?」
「あれは……『結石と魔石についての概説』という本だ。面白いわけじゃない」
「ハルって真面目ー」
 けらけらとラケルは笑う。
 俺はつい声が尖る。
「うるさいな」
「なんでそんな本を借りたの? そう言えばハルって医者になりたいんだっけ?」
「たまたま目に入ったから読んでいただけだ。借りたのは……途中で読むのを止めるのが嫌っていうだけでだな……」
「ふーん。ま、いっか」
 ラケルはそれ以上、追及してこなかった。
 勉強の苦手なラケルだが、頭が悪いわけでは決してなく、勘の鋭いところがある。相手の踏み込んで欲しくない領域はきちんとわきまえている。
 そのあと、俺たちはとりとめのない話をしながら歩いた。
 話しながら俺は『結石と魔石についての概説』について思い出していた。
 その本にも、魔石を宿す者は二○歳まで生きられないと書いてあった。臓器に癒着した魔石を体内から安全に取り出すのは至難だとも。
 至難だって? そんなことは昔から分かっている。
 しかし俺は、俺は――。
 フユ。
 おまえは必ず俺が助けてみせる。

3. 鬼

 今日は一時間目をつぶして全校集会が開かれることになった。集会は礼拝堂で行われた。窓という窓にはめ込まれたステンドグラスから色鮮やかな光が差し込み、荘厳な雰囲気を演出している。そんな礼拝堂に入ると、特に信仰心のない俺でさえ、厳粛な気持ちになるのだった。
 俺は長椅子に座って校長の登壇を待った。
 俺の隣に座ったラケルが肘を突っついてくる。
「ねえ、ハル。校長先生はなにを話すのかな」
「さあ、なんだろうな。さっぱり分からない」
「もう、頼りにならないなあ」
 ラケルから、オレンジにも似た甘い芳香が漂ってくる。フユの白檀とはまた違う良い香りだ。
 しばらくして校長のハンナ・アーレントが壇上に上がった。
 ハンナの歩みに合わせて、短いタイトスカートに包まれた細長い足がちらちらのぞく。眩しいほど白かった。男子生徒たちの間から溜め息が漏れる。まだ一○代の男子生徒にはあまりにも刺激が強いのではないか。もっとも、俺にはさほど刺激的と言うわけでもなかった。いつも隣にフユがいるせいだろうか。
 校長はまだ若い女性に見える。外見だけを言うなら二○代と言ったところ。ところが、半世紀前の学院創立にも立ち会ったというのだから相当な年齢のはずだった。
 校長は背が高く、一七○センチに近い。にもかかわらず腰は細く、六○センチもないだろう。最も男子生徒たちの目を惹くのは豊満の胸かもしれない。そんなハンナは、スーツという飾り気のない服装でありながら、抑えきれない色気を漂わせていた。
 銀髪碧眼で、長く伸ばした髪は後ろでまとめている。
 赤く縁取りされた眼鏡をかけた理知的な目が生徒たちを見渡した。
「みなさん、おはようございます」
 校長は魔法によって声を拡大していた。二○○○人もの生徒たちが集う礼拝堂に校長の声が響き渡った。表情豊かで、抒情的な落ち着いた声。教育者として適した声なのかもしれない。
 校長はウルト市で起きている事件について触れた。
 若い女性が次々と失踪するという事件。被害者は主に娼婦だった。真相はまだ分かっていない。
「女子生徒のみなさんはくれぐれも夜は出歩かないでください。また、事件を自分たちで解決しようとも思わないでください。みなさんは私にとってなによりも大切な存在なのですから、一人も欠けて欲しくありません」
 そんな言葉で全校集会は終わった。



 その週末のこと。
 酒豪のラケルに付き合っていたら、夜はすっかり更けていた。校長から夜歩きはするな、と釘を刺されていたことは覚えていたが、酒が好きなフユやラケルに合わせていたら、どうしても遅くなってしまう。まあ、俺やエーリヒが送っていけば問題はないだろう。
 それにしても、酒の席で酒が飲めない俺はどうしても寂しい思いがある。しかし、ビール一杯で吐いてしまう体質はどうしようもなかった。
 俺たち四人は新市街で最近評判のレストランで夕食を取った。レストランでの食事は美味しかった。さすが評判になっただけはあると思う。
 頬を撫でる夜風が心地良い。
「ちょっと食べ過ぎちゃったかなあ」
 ラケルがぽっこり膨らんだ腹を擦りながら感想を漏らす。そんな腹も日が変わればすっかり引っ込んでいるのだから不思議でならない。
「それに飲み過ぎだ。二日酔いにならないのか? いくら明日が日曜とは言え」
 と俺は苦言を呈す。
 ラケルは自分自身に太鼓判を押す。
「大丈夫! 私のアルコールへの耐性は大したものなの!」
 確かに発音はしっかりしている。足取りも確か。
 しかしフユの場合はと言うと、これがどうも足取りがおぼつかない。フユはホットビールという砂糖とシナモンを黒ビールに加えたものを盛んにお代わりしていた。ラケルに合わせて飲んでいたら潰れてしまうぞ、と何度も注意したが、フユは聞かなかった。
 一五歳なのでまだ酒の飲めないエーリヒはずっと俺と同じく牛乳を頼んでいた。それでも場の雰囲気を楽しんでいたようで、なにより。
 そのエーリヒがフユの不審な様子に気付いた。
「フユさん? どうしたの?」
 その言葉に、俺もフユが足を止めていることに気付く。
「どうした、フユ? 気分が悪いのか?」
 まさか吐くのか?
 俺が歩み寄って様子をうかがうと、
「いえ。兄様……エーテルが揺らいでいます」
 そうフユは意外なことを告げた。
 こんな街中で魔法を使ったのか? 一体誰が?
「あちらです」
 とフユは細い路地を指差す。そこには街灯の明かりの届かない無明の領域が息を潜めるように続いている。夢見るように深い闇が淀む。この路地の先にはこの世とは違う場所に続いているのではないか、という埒もない懸念が生まれる。
 さて、どうしたものか。
 このまま捨て置くのはまずいと思う。魔法を学ぶ者としては、魔法の乱用は戒めなければならない。そうかと言って、危険かもしれない状況に妹を連れてゆくわけにはいかないだろう。
 仕方ない。
「フユ、おまえはエーリヒとここで待て。エーリヒ、フユを見ていてくれ。俺はラケルと一緒に様子を見てくる。ラケル、行けるか?」
「もちろん!」
 そう答えてラケルはマントを翻す。腰のベルトに吊った二本の小剣がのぞく。
 俺は背負っていた刀の位置を直しながら先頭を進む。ラケルが後ろに続く。曲がりくねった路地を進んでいくうちに闇に目が慣れてくる。石畳でできた路地は、細く、両腕を伸ばしたら両手が付いてしまうほど。
 こつこつ、という石畳を叩く足音だけが路地に響く。
 エーテルの揺らぎは俺にも知覚できるほど強まっていった。
 五分ほど歩くと、突き当りにたどり着いた。そこでは、二人組の男たちが子供らしき小柄な人物に覆い被さってなにかしていた。子供らしき人物は口の押えられて声も出せないらしい。
 その行為の意味にすぐに気付いた。
「やめろ!」
 と俺は叫んでいた。
 俺たちの存在に気付いた男たちは立ち上がって睨み付ける。
「なんだ、てめえら?」
 男の一人は斜視。もう一人は顔に刀傷。どちらもひどい人相だ。男たちの衣服に乱れはなかった。かろうじて間に合ったか。
 二人組は俺たちを値踏みする。いや、俺たちと言うよりラケルに対して、と言うべきかもしれない。
「お、けっこう別嬪じゃねえか」
「ガキ、その嬢ちゃんを置いてどっか行きな。でねえと、痛い目に遭うぞ」
 俺は男たちを手で制した。
「待て。戦う気はない。その子を渡してくれたら大人しく帰る」
 俺の言葉に、男たちは嫌らしく笑った。
「ひひ。こいつ、ビビってやがる」
「剣を持ってても使う度胸もねえんだろ。大人しく帰んな」
 どうしたものか。
 ラケルを置いて逃げ帰るなどという選択肢は初めからない。そうかと言って説得は難しいようだった。
 俺が迷っているとラケルが口を開いた。
「悪いけど私、面食いなんだ。君たちみたいな人の相手なんかしてあげない。君たちはどこかで自慰でもしててよ」
 こいつ、初めから説得する気がないのか。
 ラケルの言葉に男たちは頭に血が上ったらしい。懐から短剣を抜く。薄明かりの中で短剣が鈍く光った。
 ラケルが前を向いたまま俺を諭した。
「ハル。こいつらに言葉は通じないよ。やるしかない」
 ラケルの言葉が終わった瞬間、斜視の男が俺に短剣を突いてきた。俺は体をひねってかわすと、その腕を捻じり上げた。短剣が石畳の上に落ちて乾いた音を立てる。
 それを見たラケルが動いた。
 ラケルは緑の魔法で壁に足を付けて刀傷の男の頭上から蹴りを見舞った。後頭部を強く打たれて刀傷の男は気を失った。
 マントをはためかせて着地したラケルは短剣を取り上げて、得意げに語る。
「ま、こんな奴ら、剣を使うまでもないよね」
 ラケルの動きには酔いは感じられなかった。さすがラケルと言うべきか。
 俺は斜視の男を縛り上げた。これで良し。
 とりあえず男たちに乱暴されかかっていた子供の様子を見る。服を半分脱がされていた子供は女の子で、一二歳ほどだった。驚くほど整った顔立ちをしている。この男たちに襲われたのもうなずける。
 子供は服を整えながら訴える。
「探して! お母さんを探して!」
 そう訴える子供は額に小さな角があった。
 鬼だ。
 鬼とは、第三紀が創世された時に人とは別に創造された種族のこと。人が自然を拓く者だとすれば、鬼は自然と共に歩む者と言える。しかし人の文明が進むに連れて、人と鬼の力は開いてゆき、今では二等市民として帝国で冷遇されている。
 二等市民は権利が著しく制限された市民のことを指す。住居や仕事にも色々と不自由を強いられると聞く。
 俺は子供の話を聞くことにした。
「お母さん? 君のお母さんがどうしたんだ?」
 子供は目を潤ませながら切々と言葉を紡ぐ。
「お母さんが仕事に出かけたきり帰ってこないの。それで私、お母さんを探しに出かけたんだけど、この人たちがお母さんの居場所を知っているって言うからついてきたんだけど、いきなり……」
 事情はだいたい呑み込めた。
 まだ幼い子供に欲情した男たちはここに連れ込んで欲望をぶちまけようとしたのだろう。この子供の心の悲鳴がエーテルを震わせたのかもしれない、と一瞬思った。
 とりあえず場所を変えることにする。
 フユとエーリヒと合流して、ラケルの部屋で事情を聴く。
 子供はジゼルと名乗った。
ラケルの部屋に入ると、甘い匂いが鼻をくすぐった。部屋は手狭だが、小奇麗に片付いてあって、意外な印象だった。ラケルのことだから部屋の中はぐちゃぐちゃにしていると思っていた。可愛らしいぬいぐるみや小物などがあちこちに置かれ、女の子らしい印象を強めていた。
 ラケルが気恥ずかしそうに俺を注意する。
「ハル。あんまりじろじろ見ないでよ」
「すまない」
 俺はジゼルの話に集中することにする。
 ジゼルの母親も鬼だと言う。まともな仕事のない母親は夜の街で体を売って日々の糧を得ていた。そんな暮らしに母親が疲れていたのかどうかは分からない。しかしジゼルにとって母親だけが全てだった。母親のいない生活など考えられない。
 話の最後にジゼルは訴えた。
「お金は持ってない。けど、なんでもする。だからお母さんを探して」
 どうする、と俺は他の三人に目配せする。
 三人はうなずいてみせた。
 俺はジゼルを安心させるために力強く答える。
「分かった。探してやる。だから安心しろ」
「ほんと?」
 ジゼルの顔が喜色に染まる。
 こうして俺たちは事件を勝手に捜査することになった。



 次の日の日曜日、俺たちはジゼルと名乗った子供の案内で、新市街の盛り場近くにある集合住宅に来ていた。
 俺たち四人は、ジゼルの母親と親しいと言う娼婦を訪ねた。
 その娼婦は、モルタルの白い外壁を持つ集合住宅の一室に住んでいた。
 ノックすることしばし、キャミソールという下着姿の女性がドアを開けた。
「ジゼルじゃない。どうしたの?」
 歳の頃は三十前後。いかにも眠たげな半眼の瞳は鳶色。波打つようなロングヘアは亜麻色。キャミソールという薄着が肉感的な肉体をくっきりと浮かび上がらせている。もう昼近いと言うのに今起きたばかり、という顔だった。
 ジゼルが事情を話す。
「この人たち、お母さんを探してくれるって。お話、聞かせて」
 快く、というわけではなかったが、女性は俺たちを部屋に入れてくれた。部屋にはタバコの臭いが充満していた。
 俺たち四人を室内に案内した女性はタバコとマッチを取り出す。
 が、それを俺は制した。
「すみません。妹の体に障るので今は控えてもらえませんか?」
 女性は露骨に眉をひそめる。
 俺は前言を丁寧な口調で詫びる。
「気に障ったのなら謝ります。しかし、妹は普通の体ではないので」
「ふーん」と女性は不機嫌な顔を一変させて興味深げに俺たち兄妹を見る。「妹ね。恋人かと思ったわ」
「違います」
 と俺は訂正を求めた。何故か俺たちはよく恋人に間違われる。仲が良いせいだろうか。いまだ恋人同士と思われることに慣れないのか、フユは恥ずかしげにうつむいてしまった。
 そんな初々しい反応を見せるフユに、女性は一層興味が深まったという表情で舐めるように観察する。
「貴方、いいわ。黒い髪に、白い肌、細い体……きっといい客がつく」
 女性の手がフユの髪に伸びる。
 俺はかばうように妹と女性の間に立つ。
「これまでも、これからも、妹は俺が面倒を見ます」
「そう。残念ね」
 と女性はあっさり手を引っ込めた。
 そんなやりとりを見ていたラケルとエーリヒが言葉を交わす。
「ハル君って、すごくかっこいいよね」
「それが問題だよ。これじゃ、いつまで経ってもフユが兄離れできないよ」
 そう言ってラケルは深いため息をついた。
 女性が椅子に腰かけた。
「で? あたしに聞きたいことってなに?」
「ジゼルの母親のことです」
 と一同を代表して俺が問う。
「失踪直前の状況を教えてもらえませんか?」
「あたしもたいしたこと知らないわよ。あの子とはそんなにしょっちゅう会うわけじゃなかったし」
「知っている範囲でかまいません」
「あの子は立ちで仕事をしていたから、直前まで一緒にいたのは客でしょ?」
「立ち?」
 と俺は聞いた。
 女性が説明する。ジゼルの母親のように娼館に属さず、街角に立って商売をすることを立ちと言うらしい。
 俺は疑問を呈す。
「何故、あの子の母親はそんな危ない商売をしていたのでしょうか。娼館に属した方が安全だと思いますが」
「娼婦の間にも差別はあるのよ。特にあの子は器量が良かったから、なおさらね。だから立ちで仕事をするしかなかったのね。あたしは、円と十字の紋章が入った馬車にだけは乗るなって忠告しておいたけど」
「円と十字?」
 と俺は疑問を口にした。
 すると、エーリヒがさも当然のように説明した。
「円十字って言うんだ。終幕の剣に属する人たちの紋章だよ」
「そうなのか。よく知ってるな」
 俺は本心から感心した。エーリヒは思わぬところで博識を見せる。
 それはそうと、何故終幕の剣に属する連中が関係しているのだろう。俺には見当もつかなかった。
 その疑問は置いておくとして、何故円十字の馬車に乗ってはいけないのだろう。
「円十字の馬車には乗るな? どういう意味ですか?」
「娼婦たちの間でね、こういう噂があるの。円と十字の馬車に乗せられると帰ってこれないって」
 俺たち五人は顔を見合わせた。
 重要な手がかりを聞いたと思う。
 だが問題は、どのようにして円十字の馬車と遭遇するか。
 ラケルが唐突に声を上げた。
「私にいい方法がある!」
 と言うラケルは何故かエーリヒを凝視していた。
 エーリヒに災難が降りかからなければいいが、と俺は思った。
 そのあと俺たちは、ラケルの先導で服飾店に直行した。俺とジゼルだけが店の前で待たされた。待つこと三○分ほど。
 ラケルたちが出てきた。
「お待たせ、ハル」
 フユとラケルはどこかで見たような女の子を連れていた。ショートヘアの亜麻色の髪。ほっそりとした体つき。俺を見上げる不安そうな鳶色の瞳。丈の短いキャミソールドレスが良く似合っている。胸はまったくないが、それがかえって背徳的な色気を醸し出していた。
 まさか……。
「まさか……エーリヒ、なのか……?」
「ハル君……やっぱり変かな?」
 やはりエーリヒだった。
 似合い過ぎている。女よりもずっと。変な気分になってくる。
 エーヒリは涙目で俺に尋ねる。
「ねえ、やっぱり変?」
「いや、よく似合ってる……」
 俺は生唾を飲み込んだ。
 ジゼルは、
「エーリヒちゃん、きれー」
 と言いながらはしゃいでいる。子供は無邪気でいい。一方、俺はとても無邪気な気分にはなれなかった。
 動揺する俺を見てラケルは得意げに語った。
「ハル、どうかな? この子は?」
 おまえが元凶か。
 俺は返答に困った。
「……ラケル、一体どういうつもりだ?」
「これで釣りをするの」
「釣り?」
「この格好でエーリヒを夜歩きさせれば犯人が釣れるでしょ?」
 そういうことか。しかし考えが単純過ぎないか。
 そもそも何故、ラケル自身が着ないのか疑問だった。
「ラケル。おまえが着ればいいんじゃないのか?」
「女の子に危険な役目を押し付けるつもり?」
 それはそうかもしれないが。
「エーリヒで大丈夫なのか?」
「大丈夫! 完璧だよ!」
 ラケルは根拠の怪しい太鼓判を押す。
 余計に心配になった。



 それからエーリヒは、夜目にも鮮やかな白いキャミソールドレスで女装して夜の街を歩くことになった。
 女の格好をしたエーリヒは普段よりずっと目立つ。男女問わず、人の目を引いた。
 俺、フユ、ラケル、そしてジゼルの四人はそんなエーリヒを少し離れた場所から見守っていた。
 エーリヒの人気にはすごいものがあった。街を一ブロック横切るだけで一○人には声をかけられる始末。皆、エーリヒが男だとは思っていないことだろう。そう思うと、俺は男たちが少し哀れになった。
 しかし今のところ、円十字の紋章が入った馬車に出くわしてはいない。一体いつになったら現れるのか。発案者であるラケルが焦れていることに俺は気づいていた。そもそもラケルは釣りには向いていない性格だった。
 俺はラケルをなだめる。
「焦るな、ラケル。これはおまえが言い出したことだぞ。少しは我慢しろ」
「うー。そうだけど」
 ラケルは唸りながら答える。
 このやり取りももう何度目か。
「兄様、また男が声をかけてきました」
 とフユが俺たちに声で割って入った。
 見れば、エーリヒに身なりの良い男が話しかけていた。貴族だろうか。そう思わせる空気をまとっていた。山高帽、マント、ステッキと、紳士に必要な装いはそろっており、振る舞いは堂に入ったものだった。遠目でははっきりとは分からないが、それほど歳はとっていないようだ。おそらく三○代だろう。
 さて、この男は当たりか外れか。
 男はステッキを鳴らしてエーリヒを連れて歩き出す。男は歩きながら盛んにエーリヒに密着する。エーリヒはきっと抵抗するわけにもいかないのだろう。なすがままだった。
 やがて男の足が城門の傍で止まった。黒い馬車が待っていた。
 目の良いラケルが小さく声を上げる。
「見て。あの紋章。円十字だよ」
「本当か」
 と俺は応じる。
 確かに馬車のドアに円十字の紋章が入っていた。ようやく当たりか。
「行くぞ!」
 俺とラケルは、フユとジゼルを残し、物陰から飛び出した。
 突然現れた俺たちを前にしても、その男は落ち着いていた。不自然なほど落ち着き払った男の目は、深い闇を湛えた洞穴のように思われた。この状況では、男の浮かべた笑顔がかえって不気味だ。場にそぐわない笑みは、時と場合によっては、好戦的とさえ映るもの。しかし俺は、無暗に戦端を開こうとは思わない。
 俺はじりじり間合いを詰めながら問うた。
「話が聞きたい」
「……」
 男は答えなかった。
 代わりに魔法を使った。乳白色の霧が俺の視界を覆う。隣に立っていたラケルの姿さえ見えない。大気中を漂うエーテルを霧に変えたのだ。この技は、赤青緑のいずれの属性でも使える。これだけでは男の属性を断定することはできない。
 やがて霧の奥から馬のいななきが聞こえてきた。
「待て!」
 俺は走り出そうとするが、濃い霧のせいで距離感がつかめない。
 おまけに、
「痛っ! ハル、ちゃんと周りを見てよ!」
 とラケルにぶつかってしまう始末。
 がらがら、と馬車の車輪が石畳の上を転がる音が遠ざかっていった。
「我袖は、しほひに見えぬ、おきの石の、人こそしらね、かはくまもなし」
 そんなフユの涼しげな声が耳に入った。
 急速に霧が晴れていった。
 フユによって魔法が解除されたのだ。しかし時すでに遅し。馬車は消えてしまっていた。
「逃がしたか!」
 男の、逃げる時の慣れた動き。
 犯人である可能性が高かった。
 しかしフユはまだ諦めていないかのように言った。
「まだ諦めてはいけませんよ、兄様」
「フユ? どういうことだ?」
「エーリヒさん、ちょっと失礼します」
 そう言うとフユはエーリヒの体をあちこち触り始めた。
 エーリヒは、
「ちょっと! やだ、フユさん! くすぐったいよ!」
 と身をよじらせる。
 なにをやっているんだ? でも、フユが女の子の格好をしたエーリヒの体を撫でていると、何故かいけない気分になってくる。いかん、と思って俺は目を逸らした。
 やがてフユが説明を始めた。
「髪の毛が付いていました。これがあれば、あの男の居所が分かります」
「そういうことか」
 ようやく俺は納得した。
 いつも肌身離さず傍に置いている物や、血液、毛髪などは、その人物と強く結びついている。その線を魔法で追うことができるのだ。ただし、毛髪に関していえば抜け落ちてから時間が経つと追跡は難しくなる。そのあたりがこの技の使いどころが難しい理由だ。
 でも、とエーリヒが口を開いた。
「その前にこの服を脱ぎたいよ。すーすーしてて落ち着かないし、女の子の服を着てるなんて恥ずかしい」
「そうだった」
 と俺は荷物からエーリヒの服と銃を渡した。
 エーリヒは急いでドレスを脱いで着替え始める。
「ハル!」とラケルは鋭い声を出す。「君は見ちゃ駄目!」
「……分かった」
 男同士なのだから気にすることもないだろう、と俺は思ったが、あえてラケルに従った。
 女のように華奢なエーリヒの裸を見たら、その趣味のない自分でさえ変な気分になってしまいそうだった。フユの前でそんな醜態はさらせない。
「ところでジゼル。おまえはラケルの部屋に戻れ」
「嫌。私もお母さんを探しに行く」
 ジゼルは頑として首を縦に振らなかった。
 どうしたものかとフユたちを見ると、
「兄様、連れて行ってあげましょうよ」
「そうだよ、ハル君」とエーリヒがフユに同意する。「僕たちで守ってあげればいい」
「じゃあ決まり!」
 とラケルが決定を下す。俺の意見は聞かないのか?
 そのあと俺たち五人は、フユを先頭に歩き出した。
 先ほどの言葉通り、フユには逃亡した男の行き先が分かっているらしかった。
 だが森に入ったあたりで雨が降ってきた。
 春とは言え、夜は冷える。体を濡らせば急激に体温を奪われてしまうだろう。俺たちはここで追跡を断念し、運良く見つけた小屋で寝ることにした。手入れが行き届いているらしく、寝起きするための最低限の物はそろっている。
 まずは濡れた体をタオルでふく。
 ラケルたちは長い髪を丁寧にふいていた。ところがラケルはそれでも帽子を取らなかった。それどころか俺は、ラケルが帽子を取った姿を一度も見たことがない。
 俺はさすがに声をかけた。
「ラケル。帽子を取ったらどうだ?」
「みんな……驚かない? 変に思わない? 友達でいてくれる?」
「当たり前だろう」
 と俺は当然のこととして答えた。
 フユとエーリヒの答えも同じだった。ジゼルは不思議そうな顔をしていた。
 ラケルは深呼吸すると、ためらいがちに帽子を取った。
 小さな突起物があらわになる。角だった。
「私、鬼なんだよ」
 外では雨の勢いが増したらしく、激しく屋根を叩く。
 誰もなにも言わなかった。
 今まで帽子を取らなかったのは角を隠すためだったのか。鬼であっても学院に入学することは可能だが、教師や生徒の中には差別感情を持つ者もいるだろう。ラケルはそれを恐れたのかもしれない。
 しかし俺にはラケルに言うことがあった。
「馬鹿だな」
「なにそれ? 馬鹿ってひどくない?」
「俺たちがそんなことを気にすると思っていたのか。おまえが何者であれ、俺たちの友人であることは変わらない。絶対に、だ」
 そんな俺の言葉にラケルの目はたちまち潤む。
 フユとアルがうんうんとうなずく。
「ラケルお姉ちゃんも鬼だったんだね。私やお母さんと同じなんだ……」
 とジゼルは語りながらラケルの手を握った。子供なりになにかを察したのかもしれない。
 とうとうラケルは堪え切れなくなったように泣き出した。透明度の高い水滴が優しい雨粒のように頬を伝い、床に零れ落ちる。
 つい俺は苦笑した。
「しかし、俺はてっきり頭が禿げているのかと思ったぞ」
「馬鹿っ!」
 ラケルは泣きながら俺の脛を蹴った。
 俺たちはそれぞれ毛布にくるまって床で寝ることにした。さすがに五人も横になると小屋の中は手狭になった。身を寄せ合って眠る。
 だが、俺がうとうととしてきた頃、フユがそっと声をかけてきた。
「兄様。なんだか子供の頃を思い出しますね。あの頃はよくこうして一緒に寝ましたよね」
 そう言ってフユは俺の胸に頭を乗せた。
「兄様の匂いだ……」
 フユは嬉しそうな呟きが雨音に混じって聞こえる。
 白檀の甘く爽やかな匂いが一層強まった。フユの長い髪の毛先がちくちくと肌を刺激するのが心地良い。量感のあるフユの胸が押し潰され、その柔らかさが伝わってきた。一心に慕ってくれる妹の体温が愛おしい。
 この温もりを守ってやりたい。俺は強くそう思った。



 小鳥のさえずりで目が覚めた時、俺はフユを抱き締めていた。俺の腕の中でフユが幸せそうに寝息を立てている。
 フユを起こさないように体を起こすと、すでに起きていたラケルに小言を言われた。
「いくら狭いからって抱き合うことないじゃない」
「いや、これは寝ている間にたまたまそうなっただけでだな……」
「仲がいいにも限度ってものがあるよ」
 やはり起きていたジゼルが俺に純粋な問いをぶつける。
「ハルお兄ちゃんとフユお姉ちゃんは恋人同士なの?」
「いや、兄妹だよ」
「兄妹はそういうことはしちゃいけないんだよ」
「……」
 俺は返す言葉がなかった。
 二人きりの兄妹であるせいか、俺たちは異母兄妹にもかかわらず幼い頃から仲が良かった。しかし、それもいつか卒業する時が来るのかもしれない。
 話しているうちにフユとエーリヒも起き出した。
 小屋を使わせてもらったお礼として銅貨をいくらか置き、俺たちは追跡を再開した。朝になると雨はすっかり上がっていた。
 森の草花が昨夜の雨に濡れたまま、きらきらと輝いている。
 やがて昼頃、森の中から白い大理石を組み上げた屋敷が現れた。こんな場所があるとは知らなかった。塀に囲まれた屋敷は三階建てで、左右に広がるように棟が続いている。石畳が敷かれた庭には噴水が設けられ、涼しげな雰囲気を醸し出す。
 俺はフユに念のため確認した。
「フユ。ここで間違いないか?」
「はい。あの男はここにいます」
「フユお姉ちゃん、ここにお母さんがいるの?」
 そんなジゼルの問いにフユは優しく答える。
「まだ分からない。それを確かめに行くの」
 俺たちは男を問い質そうと、正門から敷地内に入った。
 しかし直後、地面が盛り上がるように二メートルほどの巨人たちが現れて、俺たちの行く手を遮った。両手にそれぞれ太い棍棒を握り締めている。猿のような醜い顔が俺たちを睨む。
 俺は驚きの余り声を出す。
「なんだ、こいつら? どこから出てきた?」
 しかも異様なことに巨人たちは頭が二つあった。医学の発展によって、体とは脳によって操られていると分かっている。しかし頭が二つある場合、どうやって首から下を統御していると言うのだろう。俺にはまったく見当がつかなかった。
 双頭巨人とでも言うべき怪物たちの体臭を風が運ぶ。ひどい臭いだった。風呂に入る習慣がないのか、腰布をまとっただけの体は垢だらけ。
 エーリヒが銃をかまえながら俺に教えてくれる。
「地面から現れたのは、おそらく黒の魔法を使ったんだよ」
「黒の魔法?」
 と俺は思わず双頭巨人から視線を転じてエーリヒを見てしまった。
 魔法は三原色に分類されるんじゃなかったのか。
 エーリヒが意外な博識を見せる。
「終幕の剣に属する者たちだけが使える魔法だよ」
 じゃあ、こいつらは世界を終わらせようと画策しているのか。一体なんのために? 大体こいつらは一体なんなんだ? こんな生き物、見たことがない。
その疑問に双頭巨人たちは答えてくれなかった。棍棒を振り上げて問答無用に襲ってくる。その数、一○匹。
 対する俺たちは五人。しかも、そのうちジゼルという子供が一人。あまりにも不利だ。
「ハル! フユとジゼルをお願い!」
 そう叫んで真っ先に先陣を切ったのはラケルだ。棍棒が空を切って石畳を砕く。棍棒をかわしたラケルは双頭巨人の腕を駆け上った。
 風をはらんでマントが翻り、陽光を浴びた双剣が閃く。
 ラケルの双剣が同時に双頭巨人の首を切り裂いた。絶命した双頭巨人が派手な音を立てて倒れ伏す。
 エーリヒが双頭巨人の頭を撃つ。双頭を銃弾で貫かれて双頭巨人がまたも倒れる。双頭巨人が噴水に倒れ込み、派手な水飛沫が上がる。
 ラケルとエーリヒは次々と双頭巨人を倒してゆく。
 しかし俺は十分に動けなかった。後ろのフユとジゼルをかばうだけで手一杯だった。フユとジゼルを連れてくるべきではなかった。俺は自分の判断を後悔した。話を聞くだけと思っていた俺が甘かったのか。まさか問答無用で怪物たちに襲われるとは。
 フユとジゼルを守る俺は、三匹の双頭巨人に囲まれた。
 背後のジゼルが俺のシャツを強くつかむ。
「ハルお兄ちゃん……」
 ジゼルの声は震えていた。おそらく恐怖によるものだろう。正直に言うと俺も怖い。シャツをつかむジゼルを咎める余裕もなかった。
 退路はない。背後には白い塀。
 俺は背負っていた刀を抜く。だが威嚇にもならなかった。双頭巨人たちはフユを見ていやらしく笑う。フユが捕まったらなにをされるか容易に想像できる笑みだった。
 そんなことはさせるものか!
「熟田津(にぎたつ)に、舟乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、いまはこぎ出でな」
 意識が切り替わる。
 みずからを奮い立たせるために大上段に刀をかまえて正面の双頭巨人に斬りかかる。石畳を踏み締めて双頭巨人の脛を切り裂く。耳障りな叫び声を上げて双頭巨人が倒れた。肉を斬る嫌な手応えが伝わってくる。生き物を斬るのはこれが初めて。
 怖気がする。
 脛を斬られた双頭巨人は倒れながらも、まだ戦意を失っていない。みずからの流す血に酔ったように手足をばたつかせて石畳を叩く。その度に石畳が割れる。もはや殺さなければ止まらないのかもしれない。しかし戦いを避ける方法はどこかにあったんじゃないか?
 その迷いが精神集中を乱した。
 主観時間が正常化してしまった。まずい。
 背中を汗が伝う。
「兄様! 危ない!」
 残る二匹の双頭巨人が左右から俺を挟み込んできた。呼吸を合わせたかのような四連撃が風を切り裂く。主観時間さえ加速していれば、余裕を持ってかわせただろう。
 足払いを飛び上がってかわす。
 体が浮かび上がって無防備になる。そこを突かれた。棍棒が唸りを上げて俺の腹にめり込んだ。
 一瞬の意識の空白。
「あ、ぐ!」
 丸太が当たったかのような衝撃をまともに受けて、俺は石畳の上を転がった。受け身さえ取れない。
 胃液が逆流する。
「ごほっ!」
 咳き込むように胃液を吐き出す。痛みのせいで精神を再び集中させることができない。立ち上がることさえ困難だった。
 二匹の双頭巨人が近付いてくる。
 ここまでなのか? フユを残して?
 棍棒が振り上げられる。
 その時、フユが俺に抱き着いて、身を呈してかばった。
 なにかを決断した悲痛な表情を、フユは俺に見せる。言い様のない不安が俺を襲った。
「フユ……?」
「降参します! なんでもしますから兄様を殺さないで!」
 そんな声を聞いた双頭巨人たちが攻撃の手を止める。
 フユを舐めるように見ながら、にたりと笑う。
「駄目だ……フユ、逃げろ……!」
 しかしフユは逃げなかった。
「兄様、生きてください」
 フユは俺の頬に軽くキスした。
 俺を安心させるためか、微笑みながらフユが立ち上がる。しかしフユの表情は、まるで半分泣いているかのようだった。フユが双頭巨人たちの前に進み出る。その歩みはひどく鈍かった。フユが迷っているのが分かる。それでもフユは逃げなかった。妹の勇敢な姿がかえって痛々しい。
 一匹の双頭巨人が屈み込み、両方の頭でフユの首筋から顔にかけて赤黒い舌で舐め上げる。
「っ!」
 とフユは必死で耐えているらしい。
 あんなに大事にしていた妹が怪物に汚されてゆく。俺の中で衝動が煮え立つ。これは、怒りだ。俺は初めて、生き物を自分の手で殺したいと思っている。この衝動に身を任せるのが怖い。しかし、このままではフユが――。
 その時、一陣の疾風が舞うようにラケルが駆け付けた。魔法によって塀を駆け上り、双頭巨人の頭上から剣戟を見舞う。
 赤いマントが翻った。
 屈み込んでいた双頭巨人の首を二つ同時にラケルが切り落とした。鮮血がフユを濡らす。
 着地したラケルは、返り血を浴びるより早く動き、もう一匹の双頭巨人に挑む。
「さあ祝杯をあげよう! さあ祝杯をあげよう! この心地よきひとときに! 一、二、三、それ!」
 閃くような六連撃が舞い終えたあと、その双頭巨人も倒されていた。
 見れば、他の双頭巨人たちも倒されている。エーリヒが周囲を警戒しているところだった。ラケルどころか、エーリヒの顔にも迷いは見られなかった。
フユもそうだ。自分の身を捧げても俺を守ろうとしてくれた。
 俺だけが覚悟が決まっていなかった。
「ハル」
 こちらを振り返ることなく、ラケルが俺を叱った。
「情けないよ。殺す覚悟もないで戦場に立たないで」
「……すまない」
「フユになにをされてもハルは戦わないの?」
「それは……」
 俺は最後まで言えなかった。
 倒されたはずの双頭巨人たちが起き上がったのだ。首を落とされた双頭巨人も新しい首が生えていた。
 エーリヒが俺たちに駆け寄る。
「あれは合成獣だよ」
 合成獣? どこかで聞いたような。
「体のどこかに魔石が埋め込まれているんだ。それを破壊されない限り、魔石に蓄えられた魔力が尽きるまで活動を続ける」
 そんな怪物をどうやって倒すんだ?
 仕方ないなー、とラケルが帽子を俺に渡した。鬼の証である角が露わになる。
「お気に入りの帽子だから、なくしちゃ駄目だよ」
「どうする気だ?」
「まあ見てて」
 両手をぽきぽき鳴らしながらラケルは悠然と双頭巨人たちへ向けて歩みを進める。
 やがてラケルの体に異変が起こった。
 肉が裂ける。
 骨が砕ける。
 そして、それらが再構成される音。周囲に風を起こしながらラケルの細い体が膨張する。天を衝くような巨体になった。身長は目測で五メートルを超える。ラケルの変化を間の前で見ても信じられなかった。しかし、セミロングの金髪は間違いなくラケルのもの。
 ラケルが叫ぶ。
「あ、が、あぁああ!」
 鼓膜が振るえるほどの叫びだった。明らかに双頭巨人たちは怯んでいる。
 エーリヒが驚いた様子で呟く。
「悪鬼……」
「悪鬼?」
「血の濃い鬼しかなることはできない鬼の形態だよ」
 そんなことが可能なのか。鬼が人に恐れられる理由がようやく分かった。
 ラケルが一歩進むたびに石畳が派手な音を立てて割れる。
 悪鬼と言う形態になったラケルの力は凄まじかった。身長差を生かして次々と双頭巨人を屠り、止めに踏みつける。全身を砕かれて、双頭巨人たちは生命を絶たれてゆく。
 双頭巨人たちはもう二度と立たなかった。
 一つの戦いを終えて、ラケルは元の人間に戻った。
 服を失ったラケルは、無事だったマントを体に巻き付け、俺を睨む。
「ちょっとハル! 見ないでよ!」
「見てない」
 ちらちらと見える白い太ももが眩しいとは思ったが。
「いいや見た! 私の目は誤魔化せないんだから!」
 自意識過剰にもほどがある。
 ラケルをなだめながら俺たちは次の行動を話し合った。悪鬼となって体力を消耗したラケルは戦力外。直接的な戦闘能力を持っていないフユも同様。
 となると答えは一つ。
 決意した俺はエーリヒに頼んだ。
「エーリヒ。フユたちを頼む。俺はあの男に会ってくる」
「多分、戦いになるよ。ハル君、それでも大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
 そう答えて俺はラケルに向き直った。
「さっきは見苦しいところを見せたな」
「今度は私たちで助けられないよ?」
「あの子の母親を助けてあげないとな。そうだろう?」
 とラケルに預かっていた帽子をかぶせる。
 そしてフユに礼を言う。
「さっきはありがとう。おまえのおかげで助かった」
「いえ……。それより兄様、ケガはしていませんか?」
「大丈夫だ」
 最後にジゼルに向き直る。
「君のお母さんを見つけてあげるからな。ここでみんなと待っているんだぞ」
「うん!」
 このままみんなで逃げるという選択肢もあるだろう。しかし、世界を滅ぼそうという連中をそのままにはできない。なにより、ここで覚悟を決めなければいけない、という予感がある。このまま逃げれば、俺はずっと戦う覚悟を決めることができないだろう。どこに逃げようとも、世界が滅べば意味がない。
 まずは相手の正体だけでも確かめなくては。
 俺は屋敷の扉を開けた。
 天窓から午後の日差しが差し込む。エントランスは柱が何本もある造りになっていた。その柱の一つから、あの男が進み出た。黒の大理石の上をこつこつと靴音が立つ。
 男は行儀良く礼服を着ていた。顔立ちは貴公子のように整っている。しかし、その目は言い様もなく暗かった。まるで生命を解体することに慣れているかのような、そんな眼差しだった。やはり、この男が犯人なのか。
 男は、歓迎の意を示すようにおおげさに両手を広げる。
「ようこそ」
 男の様子はあくまでにこやか。しかし俺は友好的な気分にはなれなかった。
「俺たちは話を聞きに来ただけだ。あの怪物たちはおまえが差し向けたのか? 一体あの怪物はなんだ? おまえは娼婦たちを連れ去った犯人なのか? 答えろ」
 次々と疑問が溢れてくる。
 その一つ一つに馬鹿丁寧に男は答えた。
「合成獣たちはこの屋敷を警備していたんだ。侵入した者は殺せと命じてある。あの合成獣たちはね、連れ去った娼婦たちが産んだんだよ。合成獣は人工子宮によって生み出される。だけど、その人工子宮が不足していてね。仕方なく彼女たちに協力してもらったんだよ」
 男の得意げな口調からは、罪悪感というものを微塵も感じられなかった。
 協力、と男は語った。つまり娼婦たちにあの怪物たちを出産させたということか。
「おまえは……」
 気付けば俺は刀を抜いていた。鮮やかに鞘を走る音がエントランスに響いた。
「おまえはそれでも人間か!」
 話を聞くだけのつもりだった。
 しかし男の言葉は許容できるものではない。先ほど湧き上がった衝動が再び俺の中で渦巻いていた。
 この怒りは正当だと思う。
 ところが男は微笑んでみせる。
「人間だとも。進んで悪を為す種族は人間だけだ。その意味で僕は正しく人間と言える」
「詭弁だ!」
 と俺は刀の切っ先を一○メートルほど離れた男に突き付ける。ぎらり、と刀身が光を返す。
 それでも男は余裕のある態度を崩さない。
「詭弁なものか。君はまだ人を殺したことがないんだね。内臓の温かさや匂いを知れば君もきっと分かる。あの鮮やかな血をまた咲かせてみたいとね。それに君は、原型の魔剣――調和の剣に選ばれているわけだし」
 訳の分からないことを男は言った。
「なんだって?」
「君は調和の剣に世界を託されたんだよ。僕ら終幕の剣に属する者たちにはそれが分かる。何故なら僕らは殺し合う定めだからね。でも、一つだけ戦わずに済む道がある。僕と共に黒の導師に仕えよう。そうすれば世界は戦わずして創世される。どうだい? 素敵だろう?」
「俺が世界を託されたって?」
 かろうじて俺はそれだけ言えた。
 こいつはなにを言っているんだ? 頭がおかしいのか?
 滔々と男は語る。
「君が何故選ばれたのかは分からない。でも一九世紀ももう終わりに近い。一世紀ごとに原型の魔剣の戦いが起きるのは知っているだろう?」
 それは知っている。歴史の授業で習った。しかし、その戦いの当事者が俺だということにどうしても納得がいかない。
 俺は平凡な人間だ。さっきだって、妹が危機に瀕したのになにもできなかった。
 それでも――。
「僕は幸福だ。母を蘇らせるために魔法を学んでいた僕の願いを、終幕の剣は叶えてくれると約束した。そのためだったら何人でも人を殺す。そして新世界で母子仲良く暮らすのさ」
――この男の言葉にうなずくことはできない。
「おまえを拘束する。大人しく警手まで同行すれば危害は加えない」
「そうか、残念だよ」
 と、男は懐から短剣を取り出した。陽光を浴びて一五センチほどの刀身が鈍く光る。
 互いに呼吸を探りながら距離を詰めてゆく。
 狙うのは短剣。
 先に仕掛けたのは男だった。短剣の切っ先が俺の胸元に迫る。それを受け流す。
 鋼が火花となってエントランスに散った。
 違和感。
 短剣にしてはあまりにも重い手応えがあった。
「なに?」
 思わず驚きの声が漏れた。打刀と打ち合わせたというのに短剣は折れなかった。
「どういうことだ……?」
 俺の疑問に男は馬鹿にするように答えた。
「これが黒の魔法。物質を操作するのさ。理論上、この短剣を破壊できる武器はない」
 そして次の一撃を放つ。
 速い!
 短剣の定石は、手数で相手を圧倒すること。その定石通り、男の攻撃に俺は追随できなかった。短剣が閃いたと思った時には切り裂かれている。一つ一つの傷は浅い。しかし、いずれ出血多量で死に至るだろう。
 覚悟を決めるしかない。
 俺は距離を取って歌を詠んだ。
「熟田津(にぎたつ)に、舟乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、いまはこぎ出でな」
 途端、男の動きが緩やかになった。あれほど速かった短剣の動きがはっきりと見える。攻撃から攻撃に移る一瞬の緩みを見逃さず、俺は男の右手首を切り落とした。骨を断つ嫌な感触が手に伝わった。
 これが人を斬るということか。
 男が子供のように悲鳴を上げる。
「手が! 手が!」
 右手と短剣を失った男はようやく戦意を失った。
 俺は刀を鞘に納める。
「おまえは殺さない。然るべき報いを受けろ」
 それから俺は男を縛り上げ、簡単に手当てしてやると、囚われた娼婦たちを探した。幸いにして、ジゼルの母親もいた。
 母親たちを連れて屋敷から出る。
「お母さん!」
 とジゼルが母親に飛び付いた。
「お母さん! お母さん!」
 ジゼルは何度も母を呼ぶ。
 緊張の糸が切れたのか、ジゼルは母親にすがり付き、声を上げて泣いた。
 そんなジゼルを母親は愛おしそうに強く抱き締める。
「ごめんね、ジゼル。心配かけて」
 母親の目にも涙が光っていた。
 命をかけた甲斐があった、と俺は強く思った。これで母親が死んでいたら、俺はジゼルになんと顔向けしたらいいか分からない。
 母子は長い間、抱き合っていた。
 ラケルがもらい泣きしているのが印象的だった。同じ鬼だけに感じるものがあったのかもしれない。
 俺たちはウルト市に戻る。
 その途中、帽子とマントだけという格好のラケルは何度も、
「ちょっとハル! 見ないでよ! 変態!」
 と顔を真っ赤にして俺を罵った。
 恥ずかしいのは分かるが、言い過ぎじゃないか。
 少し腹の立った俺は言い返してやった。
「おまえの格好こそ、高度な変態のようだぞ」
「そう言う方が変態なの! この変態!」
 火に油を注いでしまった。
 数日後、学院のカフェテリアで働くジゼルの母親の姿があった。エーリヒが紹介してあげたらしい。若い女性従業員は学院のカフェテリアでは珍しい。しかも美人。ジゼルの母親の人気はたいしたものだった。
 ようやく母子が穏やかに暮らす環境が整った。

4. 創立者祭

 いつもの早朝のこと。
 五月も半ば。
 スズランの芳香が強く香る庭先で、俺は日課の素振りに励んでいた。
「五○○!」
 しっとりと汗ばんでくる。いつもなら無心で木刀を振るっていることだろう。しかし今はどうしても忘れられないことがあった。
 俺は先日、ある男の手首を切り落とした。殺したわけではない。しかし人を斬ったことには変わりがない。肉を斬り、骨を断つ感触が今もまざまざと蘇る。
 怖かった。
 殺し殺される覚悟を決めたはずだった。それでもやはり実際に人を斬ってみると、後悔の念が沸き起こる。
 話し合いで解決する道はまだ残されていたんじゃないか?
 そう思ってしまう。あの時は怒りで冷静に考えられなかった。しかし怒りが冷めてみると、自分のしたことの重さを自覚せざるを得ない。
 いつしか木刀を振るう手が止まっていた。
 俺はこれからも戦えるだろうか。分からない。答えが欲しかった。
 その時、さく、と草を踏む音が背後から聞こえた。振り返ろうとした時には背後から抱き着かれていた。華奢な作りの腕が俺の腰に絡みつく。仄かな白檀の香りが鼻をくすぐった。
 フユ?
「兄様……」
 落ち着いた深い声。やはりフユだった。
 フユは俺の背中にぴったりと頬をくっ付けて、慰めるように言葉を紡ぐ。
「もっと……フユを、頼ってください」
 その声を聞くと不思議と心が落ち着いた。
 しかし兄貴としての体面もある。
「頼れって言われても……。妹に頼る兄貴って情けなくないか?」
「たまには情けないところも見せてください。フユはどんな兄様もお慕いしています」
「そう言われてもな……」
「私では、お役に立てませんか?」
 俺の腰に回っていた腕に力がこもる。
 俺はフユの腕に手を添えた。
「そんなことはない。おまえはいつだって俺にとって支えだったんだ」
 そうだ。
 俺はこいつを守ってやらなければいけない。そのためには原型の魔剣とやらに選ばれたことも受け入れる必要がある。俺にとっては世界を守ることも妹を守ることも同義だった。誰よりも妹の幸せを願っている。
 それはずっと変わらない。
 ふと俺は汗を拭いていないことに気付いた。
「フユ。着物が汗で汚れるぞ」
 しかしフユは離れようとしない。
 むしろ体をさらに密着させた。柔らかな二つの膨らみが俺の背中に押し潰される。さらには愛おしげに何度も頬擦りする。
「いいんです。兄様の汗なら」
 そういうものだろうか。戸惑う気持ちと嬉しい気持ちがないまぜになって俺は言葉が出なかった。
 一体この感情はなんのだろう。
 考えても答えは出なかった。



 その日の放課後、俺は校長室を訪ねた。用事があると言うフユを先に帰らせる。
 ノックすると、
「どうぞ」
 という耳に心地良い声音が返ってきた。入室すると、いつものように校長は窓辺でタバコを吸っていた。ガラス窓から鋭い西日が差し込む。校長はいつもなにを見ているのだろう?
 校長、と俺は何気なく尋ねてみた。
「一体なにを見ているんですか?」
「生徒たちよ」
 校長の答えは淀みなかった。まるで質問される前に回答を持っていたかのように。
「ここからだと下校する生徒たちの姿がよく見えるの。ハルさん、貴方も見てみる?」
 その言葉に従って俺は校長の隣に立つ。
 校舎から正門までまっすぐに伸びる並木道が確かによく見えた。生徒たちがふざけ合いながら下校してゆく。談笑する声が聞こえてくるかのようだった。しかし何故、校長はこの光景を眺めていたのだろう。
 ふと校長に目をやれば、彼女は目を細めて我が子を見るように幸せそうに微笑んでいた。
「私は子供を産んだことがない。これからもない。でも私には大切な生徒たちがいる。生徒たちは私たちの子供のようなもの。学院を卒業して社会に羽ばたいてゆく子供たちを見るのは私たちのなによりの幸福なの」
 校長の言葉には深い愛情が込められていた。
 しかし俺には引っかかる箇所があった。私たち? 何故、複数形?
「校長。私たち、とはどういう意味でしょうか?」
「私とウルト。私たち、とはそういう意味よ」
 そうか、そういう意味か。俺は納得した。ウルト氏を含む竜は中性種だ。子供を作ることはできない。そんな竜であるウルト氏と、人である校長にとって、学校を運営することは特別な意味があるのかもしれない。俺は二人の幸せを願わずにはいられなかった。
 ところで、と校長はタバコの火を消しながら尋ねてくる。
「用件はなに? なにか私に用事があるんでしょう?」
 そうだった。
 俺は切り出した。
「先日、俺たちが捕えた男から言われたことがあるんです。俺が原型の魔剣である調和の剣に選ばれたと。そのことで校長にうかがいたいことがあります。男が言ったことは真実だと思いますか?」
 すると校長は、
「座りましょう。長い話になるから」
 とソファを勧めた。
 対面に座りながら俺は校長に疑問をぶつける。
「俺の刀は最近になって打たれたものです。原型の魔剣のような最古の存在ではありません」
「ハルさん。貴方、原型の魔剣のことを何も知らないのね。いい? 原型の魔剣というのは、刀剣に宿る意志のようなもの。例え、その刀剣が折れてしまったとしても、別の刀剣に意思は移る。そうやって何千年も存在してきたのよ。世界の行く末を決めるために」
「世界の行く末、ですか?」
「そう。調和の剣を持つ者と、終幕の剣を持つ者。一世紀ごとに行われる両者の戦いがいずれに傾くかによって、世界の命運が決まるの。おそらく黒の導師は終幕の剣を持っている。つまり、貴方が黒の導師に敗れれば、この世界は滅びる」
「世界が、滅ぶ……」
 やはりそういうことなのか。重い責任を負わされたと改めて思った。
 それにしても分からないことがある。
「どうして俺が調和の剣に選ばれたのでしょうか? 選ばれる理由が思い当たりません」
「理由は私にも分からない。でも、選ばれたからにはきっと理由がある。貴方に世界を託すに値する理由が」
 と校長は眼鏡を細い指で押し上げた。
「貴方の前任者たちも世界を託されて、きっと悩んだと思う。でも考えてみて。これまで第三紀が一九世紀も続いてきたということを。こんなに世界が長く続いた例はないとウルトは言うわ。確かに世界には問題が多い。それでも守っていかなければいけないの。終幕の剣は世界に絶望した者を誘惑して味方に引き入れる。その甘言に乗ってはいけない」
 校長の言いたいことは分かる。
 しかし俺は――。
「俺は、平凡な人間です」
「そうかもしれない」
 校長は身を乗り出し、俺の腕に手を触れた。
「平凡であっていい。平凡な人間がこれまで世界を守ってきたという事実に価値があるの。私はそう思う」
「平凡な人間が、世界を守ってきた……」
 校長の言葉が、腕に触れた手の温もりが、俺の心に染み込んできた。今朝の決意がまざまざと蘇る。妹のために世界を守ろうと決意した気持ちに嘘はない。
 俺は決意を風化させないために言葉に換えた。
「約束します。必ず世界を守ってみせます」
 その言葉に校長が微笑んだ。母が子に見せるような優しげな笑みだった。
「ありがとう。その言葉を聞けて嬉しい」
 俺は礼を言って校長室を後にした。



 荷物を取りに教室に寄ると、女子生徒が一人、教室に手持無沙汰な様子で佇んでいた。
 ラケルだった。
「ラケル? どうしたんだ、こんな時間まで?」
「待ってたんだよ」
 ラケルの口調にはいつもの歯切れの良さがなかった。
「誰を?」
「君を待ってたの!」
 何故か怒られた。よく分からない奴。
「なにか俺に用があったのか?」
「うん、まあね……」
 やはり歯切れが悪い。
「帰りながら話そう? 途中まで同じ道だし」
「分かった」
 俺はラケルを連れて下校した。並木道を並んで歩く。遠くからグラウンドで運動する生徒たちの声が聞こえる。熱心なことだ。医者の手伝いという副業さえなければ俺もなにかやりたいのだが、今のところはそんな時間はなさそうだった。
 日の沈みゆく空色が鮮やかだった。俺は空を眺めながら無言で歩く。いつもは多弁なラケルも珍しく黙っている。俺たちは言葉もなく歩いた。隣を歩くラケルが緊張しているのが伝わってくる。今日のラケルはなんだか様子がおかしい。
 街灯が夜の準備を始める。赤の魔法による光源は、人々の生活に欠かせないものになっている。オレンジ色の明かりは温かみを感じさせる。魔法による明かりには、魔術者の心情が反映される。どの街灯も美しい色合いばかり。明かりを見れば街の生活の一端が垣間見える、というのは俺の持論だった。
 分かれ道である公園に差しかかった頃。
 ねえ、とようやくラケルが口を開いた。
「二人だけで帰るの、初めてだよね……?」
「ああ、そう言えばそうだな」
「なにを話せばいいか分からないね」
 ラケルがうつむきながらぽつりぽつりと言葉を漏らす。
 俺は思ったままのことを言う。
「無理に話す必要もないだろう。俺は退屈じゃないぞ」
「でもフユと一緒の時はハルってよくしゃべるよね」
「兄妹だからな。お互い、相手のことはよく分かってるし」
 ふとラケルが話題を変えた。
「今日はどうしてフユと一緒に帰らなかったの? 毎日、登下校は一緒じゃない」
「ああ、フユの奴はミシンを夫人に習いたいそうだ。俺のシャツを縫うんだと」
 この五月には創立者祭という学院の行事がある。創立者であるウルト氏の誕生日を祝う催しだった。学院で最も力を入れている行事の一つらしいが、今年になって留学した俺やフユはまだ参加したことがない。その創立者祭に俺が着てゆくシャツを縫うんだとフユは張り切っていた。
 やっぱり、とラケルが物思いに耽った顔で呟く。
「フユって兄想いだよね。きっと誰よりもハルのことを分かってるんだよね」
「まあ二人きりの兄妹だからな」
「……そうだね」
 俺たちは足を止めた。
「じゃあ俺はこっちだから。また明日な」
 そう言って背を向けた。
 そんな俺の背中にラケルが声をかけた。
「待って」
「ん?」
 と俺は振り返った。いつになく真剣な眼差しをしたラケルが訴える。
「もう少しだけ話をしていい?」
「いいけど。話す機会ならたくさんあったじゃないか」
 俺たちは公園のベンチに座ることにした。頬を撫でる涼しい風が心地良かった。
 もう暗くなり始めたというのに、公園では子供たちがまだ遊んでいる。それぞれの母親らしき女性がやってきては、一人また一人と子供たちの数が減ってゆく。それでも名残惜しそうに一人だけ残る子供がいた。
 ようやくラケルが口を開いた。
「私もあの子みたいに遅い時間まで遊んでいたんだよ」
「子供の頃から元気だったんだな」
「そうじゃないよ。自分一人、先に帰ったら友達に嫌われそうで、それで言い出せなくて最後まで残っちゃったんだよ。私、鬼だからそのことでいつか嫌われるんじゃないかって、ずっと怖かったんだ」
 意外な一面だった。ラケルは差別など意に介さず強烈な自己を主張して生きてきたように思っていた。
 しかし実際には違ったのか。
「だから、あの時は嬉しかった。ハルが私が鬼でも友達でいてくれるって言ってくれた時、ようやく自分の居場所が見つかった気がしたんだ。私、世界一の剣豪になりたいって思っていたけど、それって強くなれば自分の居場所が見つかると思ったからなんだ。強ければみんなに必要とされるって思ってた。でも私の居場所はすごく近くにあったんだね」
 ラケルが俺に目を合わせる。
 瞳が揺らいでいる。しかし言の葉は確かに気持ちを運ぶ。
「私の居場所は、ハルの隣なのかもしれない」
 そこまで言われたら俺でも気付く。
 ラケルが言いたかったのは――。
 しかし俺はこう答えるしかない。
「すまない」
「……なんで?」
 ラケルの浮かべる表情は、フユが買い集めるガラス細工のように脆いように思われた。
 そんなラケルが俺の核心を静かに突く。
「フユがいるから……?」
「あいつに恋人ができるまでは、傍で支えてやりたいんだ。あいつを一番に考えてやりたい。恋人を作ったら、それができなくなりそうで、怖い」
「そんなこと言ってたらフユがいつまでもハルから離れられないよ。だって、フユが好きなのは……」
 ラケルは最後まで言わなかった。
 もしかしたら、と今まで思わなかったわけではない。けれど気付かない振りをしていた。妹は少し兄想いをこじらせただけ。そう思おうとしてきた。しかし俺たち兄妹の絆が深まるにつれて、俺たちの関係は危ういものになってゆくのかもしれない。それでも俺はフユを突き放せなかった。
 俺は帝国に留学を決めた経緯を語ることにした。少しでも俺たち兄妹のことを分かってもらいたかった。
「一年前、フユに結婚の話が来たんだ」
 相手は華族。所用があって俺たちの住む屋敷を訪れた時にフユを見初めたらしい。しかし、この時フユはまだ一五歳。しかも相手の華族は五○代だった。祖父と孫娘ほどに歳が離れている。
「……俺は大反対したよ。でも親父は聞く耳を持たなかった。だから俺は帝国に国費留学する話に飛び付いたんだ。帝国でフユの可能性を活かしたいと思った。だから結婚式の前夜、フユを屋敷から連れ出した」
 その話を聞いて、ラケルがぽつりと感想を漏らす。
「まるで、駆け落ちみたいだね……」
 そうなのかもしれない。
 唐突に屋敷を出ようと告げた時、フユは一瞬も迷わずに俺についてきた。俺は嬉しかった。妹が可愛くて仕方がなかった。けれど、そんな俺の振る舞いがフユを惑わせてしまったのだろうか。そう言われたとしたら、おそらく反論はできない。それでもフユにとって頼れる肉親は今も昔も俺だけなのだ。守ってやらなければならない。
 ラケルは、
「もう帰るね」
 とベンチから立ち上がった。
 いつものようなきびきびした足取りで歩き出す。そんな空元気に俺はかける言葉がなかった。どんな言葉も相応しくないように思われた。
 俺はラケルの気持ちを裏切った。それでも俺は、自分の気持ちに正直でいたかった。



 その夜はなかなか寝付けなかった。今にも壊れてしまいそうなラケルの表情が頭から離れない。俺は選択を間違えてしまったのだろうか。フユを自立させるためのせっかくの機会を失ってしまったのではないか。
 時計を見れば、午前二時を指している。
 水を飲もうと、三階の自室から二階に降りる。暗い二階に降りると、かたかたという機械音が立っていた。裁縫室だ。ドアの隙間から明かりが漏れている。
 こんな時間に誰だろう。
 裁縫室のドアを開けると、糊の匂いのする小さな部屋の中で、フユがミシンのペダルを足で踏みながら作業していた。俺のシャツを縫っていることは確認しなくても分かる。
 俺はフユの背中に呼びかけた。
「フユ? まだ起きていたのか?」
 フユがペダルを踏む足を止めて振り返る。
「兄様、起きていらしたんですか?」
「なんだか寝付けなくてな。それよりフユ。おまえももう休め」
「はい……でも、もう少しだけ」
「駄目だ。寝ろ」
「本当にもう少しだけですから」
 なかなかフユは言うことを聞かなかった。こんな時フユは頑なだ。
 仕方なく俺の方が折れることにした。
「もう少しだけだぞ」
「はい。もう少しだけ」
 そう答えてフユはまたミシンに向かう。裁縫室を出た俺は、水を飲んでから自室に戻った。
 数日後、フユは熱を出した。やはり夜遅くまで起きていたことが原因だろう。しかし俺のシャツを縫うために頑張っていたことを知っているだけに、俺は怒れなかった。
 俺は様子を見にフユの部屋を訪ねる。中に入ると、女の子の甘い匂いが鼻をくすぐる。俺が買ってやったり自分で買い求めたガラス細工の小物や、フユが自分で作ったペーパークラフトが棚を飾っている。広さは俺の部屋と同じと聞いているが、小奇麗にまとまっているせいか、俺の部屋より広く感じられた。
 ごほごほ、とフユはベッドに横たわったまま苦しそうに咳をする。
 フユは目に見えて辛そうだった。
「ごめんなさい……私が兄様の言い付けを守らなかったから……」
「今はそんなことを気にするな。風邪を治すことだけ考えろ」
「はい……」
「薬は自分で飲めそうか?」
「はい……大丈夫です……」
 そう答えるフユは見るからに無理をしていた。自分も学院を休むべきか、と俺は思案を巡らせる。
 そんな俺の考えを読んだようにフユは気丈に告げる。
「兄様は……登校してください……」
「いや、俺も休むよ。おまえを放っておけないからな」
 と俺はフユの頭を撫でてやる。フユは目を閉じて俺の手に身を任せるのだった。
 それから二日間、俺は付きっ切りでフユを看病した。
最初は喉が腫れて水も喉に通らないほどだったが、二日目には俺の作ったオートミールを美味しそうに食べるまで回復した。
 フユがオートミールを食べ終わったのを見計らい、俺はフユに肌襦袢を脱ぐように言った。
「フユ。服を脱げ」
「え? え?」
 フユは肌襦袢の前をぎゅっと合わせたまま固まってしまった。
「体を拭いてやる。汗でべとべとしていて気持ち悪いだろう」
「でも……自分でできます……」
 フユは顔を赤らめて視線を泳がす。
 俺はつい苦笑した。
「風邪を引いている時くらい甘えていいんだぞ?」
「背中、だけなら……」
 フユはベッドの上で俺に背中を向け、まごまごと帯を解くと、肌襦袢を脱いでゆく。
 桜色の下着姿になる。
 静脈が透けるほどに白い肌が露わになった。長い黒髪の隙間からのぞくうなじも、細い両肩も、肉付きの薄い背筋も、くびれた柳腰も、女性として完成された美しさを持っていた。まだ熱があるせいか、肌は薄桃色に染まっている。
 不意にラケルの言葉が蘇る――だって、フユが好きなのは……。
 駄目だ。考えるな。
 俺は少し目を閉じて妄想を打ち消す。
「熱かったら言えよ」
 俺は熱湯を絞ったタオルでフユの背中を拭いてゆく。
 フユの唇から吐息が漏れる。
「ん……」
 気持ち良さそうだ。
 滑らかな肌の上を熱いタオルが這う。
 髪をどかせてうなじを拭いてやると、
「んぅ……っ……」
 という可愛らしい声が漏れた。
 ぴんと逸らされた背筋をなぞるように俺は下に向かう。
「ぁ……はぁっ……」
 部屋の中にフユの溜め息のような声だけが立つ。
 俺は無言だった。こんな時、妹にどんな言葉を掛けていいか、俺には分からない。
 やがて俺は終わった。
 俺は肌襦袢の着替えを手伝ってやる。ふとフユの手が触れた。
 フユが顔を向ける。
 潤んだ瞳が愛らしかった。そして、なにかをねだるような顔。
 俺はたまらず顔を背けた。
 ベッドがきしむ。
 ベッドの上で向き直ったフユが優しく俺の頬を撫でる。男のものとは作りの違う細い指が這う。
 ぞくぞく、という正体不明の感覚が俺の背中を駆け上がった。
 俺は恐ろしくなり、フユの手から逃れるように立ち上がる。
「もう横になれ。今は静養が必要だ」
 早口にそう告げて俺はフユの部屋を出た。
 心臓を締め付けられるような感覚が俺を捕えていた。



 創立者祭の朝が来た。フユの風邪はとっくに治り、俺のシャツを縫い上げていた。
 俺は自室で、そのシャツに袖を通す。
 着替えたあと、フユの部屋を訪ねる。
 フユも着替え終わり、今は髪を櫛で梳いているところだった。
「俺がやる。その方が早い」
 俺はフユの背中に回り、滝のように流れる黒髪を櫛で梳かし始める。フユの愛用の品で、贅沢を好まないフユにしては珍しく高価なものだ。高級木材であるツゲを用いている。木目が細かく、艶のある色合いが美しい。しかも堅くて粘り気がある。
 ツゲの櫛はフユによると、髪を傷めず、毛根に心地よい刺激を与えてくれるのだと言う。確かに俺が髪を梳かしてやっていると、時折フユは気持ちよさそうな溜め息を漏らすのだった。
 フユの腰まで伸ばした髪は、癖がなくまっすぐで、手入れが行き届いている。
 俺が手に触れるとしっとりとした手触りが伝わってくる。
「よし、終わった。これでいいか?」
「はい。とても良いです。やっぱり兄様は髪を扱うのが上手ですね」
 とフユは姿見で確認しながら答える。
 やがて創立者祭の開始を告げる鐘が鳴り始めた。
 俺たちは並んで歩きながら学院へ向かう。道行く人々はいつもより多かった。創立者祭は学院のみならずウルト市全体にとってのお祭りなのだ。浮き立つような街の息づかいを感じながら俺たちは歩いた。
 開会式は学院の礼拝堂で行われた。中等科および高等科の二○○○人にも及ぶ生徒たちや、教職員が一堂に会する。いつもより熱気がこもっているように思う。
 校長のハンナが壇上に立つ。
「ウルト氏からの礼文が届きました」
 と校長は礼文を読み上げる。
「みなさん、私の誕生日のために今年も創立者祭を開いていただき、本当にありがとうございます。私は、創立者祭に参加することはできませんが、いつもみなさんを見守っています。竜である私には子供を為すことができませんが、その代わりみなさんという宝物を得ることができました。それは身に過ぎた幸福だと思っています。今日一日は勉学を忘れ、いつも以上に青春を楽しんでください――以上がウルト氏からの礼文です」
 格式張らない素朴な文章だった。
 校長が礼文を読み終わると、満場から拍手が沸き起こった。
 上級生たちや教職員たちの反応を見るに、どうやら毎年ウルト氏はこのような礼文を送ってくるようだ。俺は、ウルト氏の人となりの一端が見えたような気がした。ウルト氏は、大衆を心服させるような特殊な魅力は持ち合わせてはいないが、親しみやすい性格を持ち、皆に愛されているのかもしれない。
 俺はそんな人物像を描いた。
 開会式が終わり、俺とフユは人波の中、ラケルとエーリヒを見つけた。
 ラケルもエーリヒも、いつもと同じような服装をしている。
「おまえたち、その格好でいいのか?」
「私はいつもおしゃれしてるからいいの」とラケルは平坦な胸を張る。
「僕も変に着飾るのは苦手だから」
 エーリヒもラケルと同じようなことを言う。
 その後、第一および第二グラウンドで行われる出し物を見に行った。
 それぞれのグラウンドで一時間ごとに違う出し物が催される。幻影による妙技、剣による演武、植物の歩行など、いずれも魔法を取り入れたものばかり。
校庭の周りには学生のみならず市民も大勢集まっている。そんな観客たちを目当てに露店も開かれ、混雑に拍車をかけていた。ソーセージを焼く香ばしい匂いが漂っている。
 ラケルはまだ昼まで時間があるというのにあちこちの露店で食べ物を買っている。細身ながらラケルは相変わらずの大食振りを見せた。
 見兼ねたのかフユがラケルをたしなめる。
「ラケルさん。そんなに買っていたら、お金がなくなってしまいますよ」
「いいじゃない。私のお金なんだから。フユってもしかしてケチ?」
「ケチじゃありません。倹約家と言ってください」
 とフユは拗ねてみせた。
 俺たち兄妹は裕福な家に生まれたが、両親から冷遇されてきたこともあり、あまり金銭的に恵まれていなかった。そんな暮らしがフユの性格に影響を与えたのかもしれない。
 露店を全て制覇するとラケルが提案した。
「ねえ、魔石を見に行こうよ」
 学院には創立時にウルト氏から贈られた魔石が保管されている。帝国でも最大級の魔力貯蔵量を持つと言う。
 その魔石は生徒の間では、学院にではなく、校長個人に贈られたという見方が有力だった。
 中性種である竜は人と結ばれることはない。それでもウルト氏と校長は深い絆で結ばれているのかもしれないと思うことがある。校長から聞かされた言葉の端々にそれはうかがえる。
 ウルト氏を含む竜たちは存在として不老不死に近い。その精神は不滅。しかしながら、その肉体は不滅ではなく、時とともに滅する。そこで竜たちは肉体が限界に達するたびに新しい肉体を用意し、初めからやり直す。
 ウルト氏もまた、それを繰り返してきたことだろう。すでに二度、世界を滅ぼして。
 竜たちは終幕の剣に属す。
 竜たちに与えられた役割は新しい世界の創世の前に古い世界を滅ぼすこと。そのためだけに竜たちは存在する。だから、竜たちはいずれ滅ぼす定めにある人という種族に関心を持たない。ただ一体、ウルト氏をのぞいて。
 ウルト氏は現在の校長であるハンナ・アーレントと出会ったことで人に対する見方を変えたと聞く。
 ウルト氏が校長と共に学院を創立したのは、この世界を正しい方向に進めるべく人材を育成するため。学院から羽ばたいた生徒たちは各方面で活躍している。今のところウルト氏の願い通り、世界は滅んでいない。
 そのウルト氏が校長に贈ったという魔石を、ラケルが見たいというのは分からないではない。しかし俺は気が進まなかった。フユには見せたくないという思いの方が好奇心より強い。
 俺は懐中時計を取り出した。
「すまない。演目の打合せをフユとしたいんだ。魔石は二人で見に行ってくれ」
「えー、しょうがないなあ」
 そうぼやいてラケルはエーリヒと共に展示室に向かう。
 ラケルとのやり取りはもういつも通りになっていた。想いを告げられたことは、フユにさえ黙っていた。四人の関係を壊したくなかった。
 ふと、フユが俺の袖を引っ張った。
「ん? どうした?」
「私に遠慮しなくてもいいのに……」
 フユはおそらく魔石のことを言っているのだろう。
 俺はフユの気持ちを和らげようと笑みを浮かべる。
「そんなこと気にするな。おまえの気持ちを考えれば当然だ。それより演目の打合せをしよう」
 俺たちの演目の内容は、魔法による共演だった。
 グラウンドの端で入念に打ち合わせをしているうちに俺たちの演目の番になった。
「ハル! フユ! 頑張って!」
 いつの間にか戻っていたラケルが応援を飛ばす。
 その声を背に俺たちはグラウンドを進む。そよ風が芝生の上を走る。
 アナウンスを担当する女子生徒が元気よく俺たちを観客に紹介する。
「倭国から留学してきた名木沢兄妹です! みなさん、盛大な拍手を!」
 ぱちぱち、とグラウンドを囲む観衆が一斉に拍手する。まだ午前中だと言うのにすでに酔っている者もちらほらと見受けられた。そういった客は酔っているだけあって調子が良かった。
 こういう場に慣れていないせいか、フユが緊張しているのがはっきりと分かった。
 俺は小声で言ってやる。
「フユ。おまえはいつも通りやればいい」
「はい……」
 グラウンドの中央に立ったフユは朗々と詠唱する。
「我袖は、しほひに見えぬ、おきの石の、人こそしらね、かはくまもなし」
 空中に直径一○メートルを超える水の球体が浮かび上がった。観客たちの間から歓声が上がる。
 このくらいはフユにとって朝飯前。本番はここから。
 球体はシャボン玉のように表面を揺らめかせる。
 変化する。
 変形する。
 変態する。
 水の球体は全長一五メートルほどの義竜(ぎりゅう)となった。義竜とは魔法によって生み出された竜の紛い物を指す。大きさは魔術者の魔力に比例する。一五メートル級の義竜を見るのは、おそらく観客たちにとって初めてのことだろう。
 凶悪な咢、波打つ体表、うねる胴体は、見る者を圧倒する。観客たちは声もなかった。
 丸太のように太い胴体が観客たちをかすめるように飛行する。水飛沫が激しく舞う。迫力満点だ。
 悲鳴が上がる。
 やがて水でできた義竜が俺に向かってくる。これも演出の一つ。
 俺は背中に背負った刀を抜く。
「熟田津(にぎたつ)に、舟乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、いまはこぎ出でな」
 ゆっくりと流れる時の中で、俺は式の始点を読み、技の終点を見定める。
 魔法は膨大な式によって構成される。それらを全て読み取って初めて理解したと言える。俺がこれから試みるのは魔法消去と呼ばれる技だ。三原色のいずれにも当てはまりながら使い手の限られた秘奥中の秘奥。俺が倭国から与えられた卒業課題。
 義竜が突然、暴れるようにのた打ち回る。演出にはなかった動きだ。フユの奴、どういうつもりなんだ。
 義竜の咢が大きく開かれ、俺を食らおうとする。
 しかし俺は主観時間を加速しているおかげで落ち着いていた。刀を大上段に構え、一気に義竜の顔面に振り下ろした。
 義竜を構成していた魔力が、雲のように散り、霞のように消える。
 乳白色の霧が晴れた時、義竜は掻き消えていた。
 アナウンスが自慢げに語る。
「今の技が魔法消去です! 当学院でも使い手は名木沢ハル一人!」
 ぽかんとしていた観衆から爆発的な歓呼が湧いた。誰もが初めて見るであろう魔法に度肝を抜かれているようだった。だが俺が魔法消去を卒業課題として選んだのは、なにも人々の注目を集めたいからではない。
 観衆の中にラケルとエーリヒがいた。俺に向かって手を振っている。
 軽く手を上げて応えながら俺はフユに視線を移す。
 グラウンドの端に下がっていたフユが、
「兄様……」
 と小さく呟いて、糸の切れた人形のように体をふらつかせる。
 俺はフユに走り寄る。
 フユが倒れ込む。かろうじて抱き留めた。見れば、フユは顔面蒼白だった。発作の前兆だ。巨大な義竜を生み出した反動で発作を招いたのか。先ほど義竜が暴れ出したのはフユの演出ではなく、本当に暴走していたのかもしれない。
 肝が冷える思いがした。
 もしかすると死んでいたかも。いや、それより今はフユの体のことだ。
「フユ。ゆっくり呼吸しろ」
 しかし返事はない。
 俺はフユの脇と膝に腕を差し入れ、抱き起した。そのまま保健室へ向かう。俺たちの様子を観客たちは不思議そうに眺めていた。



 フユの様態が落ち着いた頃、ラケルとエーリヒが保健室にやってきた。
 俺は、ベッドのかたわらの椅子の上から立ち上がり、消毒液の匂いのする保健室に二人を入れた。
 ラケルとエーリヒは、白いベッドで眠るフユを心配そうに眺める。
 泣きそうな顔でラケルが尋ねる。
「フユ、どうしちゃったの?」
 こうなっては隠しようがないかもしれない。いや、友人の間で隠し事をしていた俺たちが間違っていたのかもしれない、とも思う。
 俺はフユの体に隠された秘密を明かすことにした。
 時折、寝息を漏らすフユの様子を見ながら告げる。
「フユの体には魔石が宿っているんだ」
 結石の一種である魔石は、フユの体の中で日々肥大し、時に発作を起こして苦しめる。他の患者と同じく、フユもまた二○歳まで生きられないと医師に告げられていた。どの医学書を読んでも内臓と癒着した魔石を摘出するのは困難であると書かれてあった。
 しかし俺は魔法消去という技に一縷の望みを賭けていた。魔法消去によって魔石を分解すれば、危険な手術を行うことなく、フユの命を助けることができる。
 ラケルが途切れ途切れに言葉を漏らす。
「ようやく、分かったよ……ハル、君がフユのためにいつも一生懸命なのは、そういうことだったんだね……」
「このことは内密に頼む」
 魔石の蓄える魔力を狙って誰が襲いかかってくるか分からない。魔石を宿す者との肉体的接触は、魔力を一時的に供与する方法として知られる。早い話が性行為だ。魔石を宿す若い女性は、かつては高値で売られたと言う。フユをそんな目に遭わせるわけにはいかなかった。
 ラケルは涙目でうなずく。
「分かってるよ。このことは誰にも言わない」
 でも、とラケルは涙声で続ける。
「せっかく友達になれたと思ったのに、二○歳まで生きられないんでしょ? そんなのってないよ」
 そんなラケルの手を俺は無言で握る。ラケルは俺の胸に顔を埋めて泣き始めた。
 それまで黙っていたエーリヒがためらいがちに口を開く。
「ハル君が魔法消去に熱心なのは、やっぱりフユさんのため?」
「ああ、そうだ」
 もはや隠すことでもないので俺は素直にうなずく。
 そうしていると保健室にまた入る者がいた。長い黒髪、顎髭。ユーグ先生だった。
 言い渡すようにユーグ先生が厳かな声で告げる。
「ハルと話がある。すまないが、席を外してくれ」
 俺とユーグ先生、そして眠ったままのフユの三人が保健室に残された。
 一体なんの用だろう。
「ユーグ先生、お話とはなんでしょうか?」
 ユーグ先生は心の奥を見抜くような鋭い眼差しで答える。
「ハル。おまえの妹は魔石を宿しているな?」
 質問の形式をとった確認だった。
 俺はなんと答えるべきか迷う。しかし逡巡する俺の様子でユーグ先生は悟ったらしい。
「やはりそうか。おまえが誰よりも必死に励むのは妹を救うためか?」
 真摯に心配する眼差しだった。
 ユーグ先生にも打ち明けるべきだと思った。
「そうです」
「魔石の治療法はいまだ確立されていない。それどころか魔石を宿すと知られただけでなにをされるか分かったものではない。おまえが今まで隠していたのもうなずける。これまでよく妹を守ってきたな」
「いえ。当然のことですから」と俺は短く答えた。「このことは内密にお願いします」
「分かっている。家族を守ろうとするおまえの気持ちは俺にも分かる」
 俺はユーグ先生の指に指輪が光るのを確認した。
「ユーグ先生は結婚されていたんですか?」
「昔はな。俺の妻と娘は鬼だった。それでも俺たちは幸せだった。生活は苦しかったが、娘の成長がなによりも嬉しかった。だが、それも鬼狩りによって奪われた」
 鬼狩り。
 科学の発達によって迷信であると判明したが、昔は伝染病が流行ると鬼の仕業と思われることがしばしばあったと聞く。迷信に狂った人々は鬼狩りと称して鬼を迫害した。処刑される鬼も大勢いたらしい。しかし、まさか現代になっても鬼狩りが続いていたとは思わなかった。
 それはそれとして俺には分からないことがあった。
 ユーグ先生は一体なにを言おうとしているのだろう?
 意外なことをユーグ先生は尋ねた。
「ハル。おまえは世界を敵に回しても妹を救おうと思うか?」
 世界を敵に回しても?
 唐突な問いだった。しかし俺の答えはずっと昔から決まっている。
「それはできません。きっとこいつが悲しみますから」
 妹のためになんでもしてやりたい。それは嘘偽りのない俺の本心だ。しかし俺が全てを投げ打って妹を守ろうとすれば、妹はおそらく俺に考え直すように迫るだろう。フユはそういう奴だ。自分のために俺が犠牲になることをよしとしない。
 ユーグ先生は俺の肩に大きな手を乗せた。ぐっとつかむ。
「そうか。その言葉を覚えておくぞ。いずれもう一度、同じ質問をする時が来るだろう。それまで励め」
 それだけ告げると、ユーグ先生は立ち去った。
 一体なんの用だったのか、最後まで分からなかった。しかし俺の心は何故かざわついていた。



 日が暮れてしばらく経った頃、フユが目を覚ました。
 フユは上半身を起こし、着物の前を合わせながら周囲を見渡す。
「ここは保健室……?」
 不安そうに俺を見る。
 俺は妹の少し乱れた髪を撫でてやりながら答えてやった。
「そうだ。おまえは発作を起こしたんだ。覚えていないか?」
「ぼんやりと、なら……」
 俺は懐中時計を見た。午後七時が近い。
「歩けるか?」
「ゆっくりなら歩けそうです」
「じゃあ行こう。おまえに見せたいものがある」
 俺はフユを保健室から連れ出して学院の敷地内に立つ時計塔を目指した。
 四面に文字盤を設置した小塔は、学院の中心部に立つ。石造りの素朴な建築物だ。
 中に入ると、淡い照明が点いていた。俺はフユの手を取って、その体調を慮りながらゆっくりと螺旋階段を上ってゆく。
 最上階のテラスに着いた。
 ウルト市の夜景がよく見えた。色取り取りの鮮やかな明かりが揺れるように輝いている。
「わあ! 綺麗!」
 と声を上げてフユは俺の背中にぴったりくっ付いた。白檀の香りが、量感のある二つの膨らみの柔らかさが感じられた。一心に慕ってくる妹が可愛くて仕方なかった。
 俺は空を見上げた。雲もなく、月もない。絶好の条件だった。
「兄様は夜景を見せたかったんですか?」
 俺は懐中時計を見た。午後七時ぴったり。そろそろだ。
「もうすぐ分かる」
 その時、しゅるしゅるという音が遠くから聞こえてきた。
 夜空に光が閃いて花が咲く。遅れて、どーんという乾いた音が耳に届く。
「花火!」
 耳元でフユの嬉しそうな声が響く。
 間に合って良かった。
「創立者祭の最後は花火で締めるんだ。おまえにこれを見せたかった」
 俺たちは無言で打ち上げ花火に見入った。
 星が球状に飛散する割物。蜂が巣から飛び立つようにランダムに星が飛んでゆくポカ物。花火師の望んだ形に星が飛散する型物。あるいは、これらを複数利用した仕掛花火。
 ぱちぱちと火花が散るごとに様々な形の花が咲く。空をキャンバスに見立てて、花火師たちが創意工夫を競う。
 柳のように尾を引きながら流れ落ちる花火を見たあとだった。俺はフユの様子が気になって後ろに顔を向けた。
 どきっとした。
 フユは空ではなく俺を見ていた。
 目が合う。こんなに近距離で見詰め合うのはいつ以来だろう。
 フユはなにかを期待するかのような顔をしていた。俺はなんと言っていいか分からなかった。ただ、俺の中の熱が暴れ出すかのように上昇してゆくのを感じた。
 フユが目を閉じて顎を上げる。
 胸が高鳴る。フユがなにをして欲しいか、俺はようやく理解した。
 俺はフユに向き直り、唇に唇を近づける。主観時間を加速していないはずなのに時間がひどくゆっくり流れてゆくのがもどかしかった。
 やがて俺たちの距離がゼロになる。
 人肌の温もり。信じられないほど柔らかな感触。理性が遠ざかってゆくのを感じた。俺はフユの細い腰に腕を回す。
 しばらくして俺は一旦フユから唇を離す。しかし、それは息継ぎに過ぎない。
 今度は舌を入れた。
「んんっ?」
 びくっ、とフユの体が強張る。それも一瞬のこと。すぐにフユの体から力が抜ける。フユは完全に俺に身を任せていた。
 侵入してきた俺の舌にフユはぎこちなく応じる。
「んっ……ん、んんっ……」
 初めてみたいだ。いや、俺がそう思いたいだけなのか。
 唇から漏れる吐息さえも悩ましい。フユの唾液の甘さがますます俺を狂わせる。花火の音が聞こえるが、もうどうでも良かった。俺たちは魔法にかかったように互いが兄妹であることを忘れて求め合う。
 俺はフユの胸に手を伸ばした。
 やはり大きい。体の線が隠れる着物を普段から着ているせいで目立たないが、フユの胸はかなり豊かだった。何度か揉んで弾力を楽しんだあと、いよいよとばかりに着物の合わせから手を差し入れる。
 その時だった。
 フユは震えていた。
「っ!」
 それで俺の理性が蘇った。フユから身を引きはがす。
 唇と唇の間に透明な橋が架かった。その橋はとても儚くて、星明りの下、きらきらと輝いて消えていった。
 フユはびっくりしたような顔をしていた。多分、俺も似たような顔をしていると思う。
 正気に返った俺は後悔していた。俺は妹に口づけをしてしまったのだ。しかも恋人同士が交わすような情熱的な口づけを。
 罪悪感が俺を滅多打ちにする。フユの顔を見ていられなかった。
 たまらず顔を背ける。
 すると、フユの手が伸びてきて、俺の頬に優しく触れた。そうだ、逃げてはいけない。ここで逃げるのはあまりにも卑怯だ。
 俺はフユの手を両手で握り、フユの顔をのぞき込んだ。
 フユはなにも言おうとしない。
 俺はやっとのことで一言だけ言えた。
「もう帰ろうか」
「……」
 沈黙が辛かった。
 俺は続く言葉が出てこなかった。
 心臓を刺されるような痛々しい沈黙にもう耐えられなくなった頃、フユは小さな声で答えた。
「……はい」
 いつの間にか花火は終わっていた。
 下宿への帰り道。
 俺たちは普通の兄妹として会話をした。
 フユは何度も、
「今日は楽しかったですね」
 と本当に楽しそうに語っていた。
 しかし俺たちはキスのことには一度も触れなかった。
 そんな風に創立者祭は終わった。
 後日、俺は校長から魔石が盗み出されたことを聞かされた。警備を担当していた警手たち数人が殺されたと言う。現場にはわざわざ円十字の紋章が血で描かれていたらしい。
 黒の導師たちの行いであることは明らかだった。
 魔の手がいよいよ迫っていることを実感して、俺は暗然とした気持ちになった。

5.俺は世界の嘆きを受け止める

 妹に口づけをした。それも恋人同士が交わすような情熱的な口づけを。
 早朝。
 俺は日課である素振りをせずに公園に来ていた。
 まだ誰にも汚されていないかのような清涼な空気が瑞々しく肺を満たす。ベンチの背もたれに体重をかけ、白みかけた空を見上げる。太陽が昇るとともに、空というキャンバスでは夜が朝に浸食されてゆく。
一人になって考えたかった。
 自分は妹のことをどう思っているのだろう。妹は自分をどう思っているのだろう。
 俺はあの時、フユに口づけをするのが自然であるかのような感覚に囚われていた。フユの着物に焚き込められた柑橘系の香りが、背中に押し当てられたフユの胸の柔らかさが、俺の心から平常心を奪った。そして兄であるはずの俺を見つめる熱っぽい眼差しは、兄妹以上の触れ合いを求めているように思われた。
 事実、フユは一切抵抗しなかった。あるいは、それは単なる自分の思い込みに過ぎず、仲の良い兄に迫られてつい唇を許してしまっただけなのかもしれない、とも思う。
 そのことを問うてしまえば簡単なことなのかもしれない。
 しかし聞けなかった。
 聞いてしまえば自分たちの関係は決定的に変わってしまうような気がして恐ろしい。禁忌に触れることはこれほど恐ろしいものだったのか。
 俺はフユに幸せになってもらいたかった。だがフユの幸せとはなんだろう。もしフユの願う幸せが自分にとって受け入れがたいものだったとしたら、自分はその願いとどう向き合えば良いのか――。
「ハル君?」
 不意に声をかけられた。
 目を転じれば、エーリヒが立っていた。こんなに近寄られるまで人の気配に気が付かなかったなんて。それほど俺は思考に埋没していたと言うことか。
 エーリヒは無邪気に笑って問う。
「こんなところでなにをしてるの?」
「少し考え事をしたくてな。おまえこそどうしたんだ、こんな早くに」
「座っていい?」
 とエーリヒは断ってから俺の隣に座った。
 僕はね、とエーリヒは語り出す。
「朝の景色が好きなんだ。特に空がいい。ここで空を見ていると、世界は愛されているんだって実感できる。創世の剣は世界を創世する時、必ず不和の種をまくらしいけど、それは人に不和を乗り越えて欲しいからだと思う。人に乗り越えられない障害は創世の剣は与えない。だって、こんなにも美しい世界を作ってくれたんだから。人には可能性がある。それは互いを愛し合い、想い合うということ。ハル君やフユさんみたいにね」
 こんなに多弁なエーリヒを初めて見た。
 それに話の内容。まるで俺たち兄妹の今の状況を見抜いているかのような気がした。エーリヒになら話して良い気がする。
 なあ、と俺は顔を正面に向けたまま話し出した。
「フユに口づけをしてしまったんだ。俺はこれからどうすればいいと思う?」
 俺はあの夜のことを話した。
 妹を大切に思っていること。一心に慕ってくる妹が可愛くてつい口づけをしてしまったこと。全てを包み隠さずに打ち明けた。
 エーリヒは静かに言葉を返した。
「フユさんはハル君のことが好きなんだよ。お兄さんとしてではなく、一人の男性として見ているんだ。そのことは傍目からでも分かる。ハル君も気付いていたんじゃない?」
「それは……」
 気付いていたが、気付かない振りをしていたのかもしれない。俺は自分にさえ嘘をついて、妹の気持ちから目を背けていた。
「それなのにキスなんかされたらフユさんは気持ちを抑えられなくなってしまうよ。このままだと大変なことになるかも。そうなる前にフユさんとは離れた方がいいと思う」
「それはできない。俺はあいつの病気を治してやるって誓ったんだ。それまでは傍にいてやりたい」
 自分でもどっちつかずな選択だと思う。
 けれど俺は、フユを守ってやりたかった。
 エーリヒが質問を変えた。
「ハル君はフユさんのことをどう思ってるの?」
「……大切な妹だ」
 これまではそう思っていた。しかし今はどうなのか。俺は自分の気持ちが分からなかった。
 そうじゃないよ、とエーリヒが思わぬことを言った。
「ハル君の本当の気持ちを聞いてるんだよ。ハル君は素直な気持ちでフユさんに応えてあげたらいいんだよ。それがきっと二人にとって最良の結果につながる」
 俺の素直な気持ち。
 兄様、と慕ってくれるフユが可愛くて仕方がない。ずっと傍に置いておきたい。けれど、それは許されるのか。俺たちは兄妹だ。結婚できない。それなのに俺と関係を持ってしまってフユは幸せなのか。いつか後悔するんじゃないのか。
 あいつには幸せになってもらいたい。
「駄目だ。そんなことは許されない。俺ではあいつを幸せにすることはできない」
 俺にはそう答えるしかなかった。



 数日後、黒の導師を巡る状況は急転した。拠点が判明したと言うのだ。
 俺はフユやラケルと一緒に校長室でその話を聞いた。校長の他にエーリヒが同席していた。
 校長は改まった口調になった。
「ハルさん。今、貴方にウルト氏を紹介するわ」
「紹介するって、どこですか?」
「ここにいるわ」
「ここに?」
 俺は校長室を見渡す。俺、フユ、校長、そしてエーリヒしかいない。
「校長。意味が分かりません」
 そんな疑問にエーリヒが答えた。
「ハンナ、僕から説明する。ハル君、フユさん、ラケルさん。今まで黙っていてごめん。僕がウルトなんだ」
「は?」
 俺はその意味を了解するのに時間がかかった。この内気な少年が竜だって?
「ハル君。僕は人を滅ぼす定めにある竜なんだよ。それでも友達でいてくれる?」
「……本当なのか?」
「本当だよ。ハル君、信じてくれる?」
 エーリヒの顔は真剣だった。友人がこんな顔を見せたら、どんなとんでもないことを告げられても信じるしかない。
「信じるよ、エーリヒ」
「私も信じるよ」とラケルがエーリヒの頭をぐりぐり撫でながら答える。「そんな顔されたら信じるしかないでしょ」
「私もエーリヒさんの言葉を信じます」
 とフユもうなずく。
「ありがとう、みんな。それでね。ハル君には僕と一緒に黒の導師の拠点を攻略して欲しいんだ。僕もできる限りの援護をする。だから黒の導師を倒して」
「分かった」
 俺がそう答えると、「私も一緒に連れて行ってください」とフユが言い出す。
 とても聞き入れられる頼みではなかった。
「駄目だ、フユ。おまえには留守番を頼む」
「足手まといにはなりません。だから兄様、私を連れて行ってください。私の魔法はきっと兄様たちのお役に立ちます」
 どうしたものか、と考えていると、ラケルが取り成した。
「ハル。連れて行ってあげなよ。きっとフユにもできることがある。それに世界の命運がかかっている大事な戦いなんだよ。フユにとっても無関係じゃない」
「そうだよ」とエーリヒもラケルに同意した。「フユさんの魔法は局面によっては重要になるよ」
 ラケルもエーリヒもフユを連れていくことに賛成らしい。そこまで言われたら仕方がない。
 俺は渋々フユに向き直った。
「フユ。危ないと思ったらすぐに逃げるんだ。約束できるか?」
「はい!」
 フユは嬉しそうにうなずいた。
 そして俺たち四人は、その日のうちに二○人の警手たちと共に古城にあると言う黒の導師の拠点に赴いた。
 古城に着いた頃、すっかり日は傾いていた。夜風が涼しい。
 古城は、長い間放置されていたせいか朽ちかけて、苔生した橋や城壁が人々から忘れ去られた印象を強めていた。
 俺たち四人は別働隊として地下水道から古城への侵入を試みた。水の中で呼吸できるフユの魔法は侵入には役に立った。服が渇く時間も惜しんで俺たちは城内へと進む。城全体に這う蔓は地下水道にまで浸食していた。
 その途上、薄暗い地下水道で待ち受ける人影があった。闇に溶けるように、その人影は近づくまで視認できなかった。
 僧服のような白黒の衣装、手に下げた抜身の軍刀、そして顔の上半分を覆う仮面。顎には髭が生えている。男でありながら、その黒髪は長い。立ち振る舞いには一切隙がないところから見て手練れだろう。この人物はまさか――。
「おまえが黒の導師か?」
「……」
 その人物は答えなかった。答える代わりに強烈な突きを俺に放った。
「く!」
 剣が伸びるような突き。俺はかろうじて避けた。
 この剣筋は見たことがある。
「ユーグ先生?」
 その人物は距離を取って、仮面を外す。見知った顔が晒された。
「やはり剣を偽ることはできないか。ハル、お前の言う通り、俺が黒の導師だ」
 よく通る艶のある声が地下水道の水音に混じって聞こえた。
 ユーグ先生だった。
 俺たち四人は、
「……」
「……」
「……」
「……」
 と言葉もなく、その場に立ち尽くした。厳しくも優しかったユーグ先生。まさか、そのユーグ先生が黒の導師だったなんて。
 俺はかろうじて一言だけ言えた。
「ユーグ先生、どうしてですか?」
「終幕の剣は妻子を蘇らせてくれると約束した。俺はそのために世界を滅ぼす。おまえたちにもこちらに転属してもらいたい。おまえたちにも叶えたい願いはあるだろう」
 その時、それまで沈黙していたラケルが双剣を抜き放ってユーグ先生に挑みかかった。
「裏切ったな!」
 打ち合わされた鋼が火花として薄暗い地下水道に散華する。
 ラケルの猛攻をユーグ先生は全て受け流した。まるで、学院での試合の再演だった。ラケルではユーグ先生には敵わない。しかもラケルは我を失っていた。二本の小剣をめちゃくちゃに振り回している。
「信じていたのに! 憧れていたのに!」
 ユーグ先生は、
「未熟者」
 と呟いて反撃に出た。
 ユーグ先生の突きがラケルの胸に吸い込まれた。
 鮮血を咲かせてラケルは地下水道に倒れ伏した。水が大量の血で染まる。
 そしてユーグ先生はなにかを起動させる。
 その瞬間、はっきりとしたエーテルの揺らぎが感じ取れた。おそらく魔石だ。盗み出されたと言う魔石を使っているのだ。
 ユーグ先生は、
「荒野に咲く一輪の小花、その名はエリカ。幾千万の蜜蜂たち、熱あげて群れなすエリカ。小蜂らの求めるはその甘き心と馥郁(ふくいく)たる香。荒野に咲く一輪の小花、その名はエリカ」
 と詠唱して軍刀を振るった。
 その周囲をなにかが渦巻く。音もなく、匂いもなく、色もないというのに、俺たちを圧迫する威圧感が確かにある。
 エーテルだ。
 エーテルが奔流となってユーグ先生の周囲に流れ込んでいる。
 地下水道の間を吹き抜ける風が枝を揺らし、にじむような明かりの下で風が踊る光景は、夢のようであり幻のようでもある。
 変化が加速する。
 無色透明であるはずのエーテルが色づく。
 無色が有色に、無形が有形に、ユーグ先生の周囲を黒く染めゆく。
 不意に風が止む。
 エーテルがユーグ先生の軍刀に収束していた。刀身にまとわりつく闇は、数多の蛇となって、腹をうねらせながら地面に落ちる。
 ぞ、ぞぞ、ぞぞぞぞぞ。
 蛇たちは、不気味な音を立てて地を這い、周囲の蔓に絡みつく。蛇たちのあまりの数に地下水道の内壁はすぐに見えなくなる。
 頭上から舞い落ちる無数の蔓。
 見れば、黒い蛇が絡みついた蔓に異変が起きていた。
 枯れる。
 朽ちる。
 崩れる。
 形あるものが無に還ってゆく。
 全てがゼロになる。
 ユーグ先生が無造作に軍刀を振るう。蛇の群れが収束し、奔流となって俺たちに雪崩れ込んだ。
「兄様!」
 とフユが俺に抱き着いてきた。
 俺たち兄妹は地下水道に倒れ込む。そのまま俺たち兄妹は水流に流されていった。



「兄様……兄様……っ……」
 フユの声で起こされると、俺は長椅子に寝かされていた。
 俺は上半身を起こす。
「俺は……一体……?」
「エーリヒさんが助けてくれたんですよ」
 とフユがにじり寄った。
 フユによれば、エーリヒがユーグ先生のエーテル塊を押し留めてくれたらしい。さすが竜と言うべきか。
 フユは俺の頬に手を当てて尋ねる。
「どこか具合の悪いところはありませんか?」
「大丈夫だ」
 見れば、俺たちは城の地下にある聖堂にいるらしかった。長椅子がいくつも並べられ、正面には調和の剣の刻印が飾られている。遠くから水音が聞こえてくる。地下水道は遠くないはずだった。
 ふと俺は水に濡れたままのフユの着物が目に入った。水に濡れて体の線がはっきりと浮かび上がっている。髪もまだ濡れていて、カラスの濡れ羽色と言った風情が一層際立っていた。
「っ!」
 とてもではないが、直視できない。俺はたまらず目を逸らした。
 ふとフユの手が俺の頬に優しく触れた。
「兄様……フユを、ちゃんと見てください……」
 つられてフユを見る。
 濡れて体の線が浮かび上がった着物、潤んだ瞳、そして濡れたような桜色の唇。
 フユは美しくなったと思う。最近は特に女性らしさを増してきた。だが妹だ。それだけは俺にとって変わらない。そのはずなのに、どうして妹から目が離せないのか。
 フユは淡々と言葉を連ねる。
「ユーグ先生は魔石を利用して強力なエーテル塊を撃ちました。それに対抗する手段は二つしかありません」
 そこでフユは言葉を切る。
 そして切なそうな表情で訴えた。
「兄様……フユを、殺してください」
「な……なにを言っているんだ? そんなことができるわけないだろう?」
 たった一人の大切な妹を殺せるはずがない。確かにフユの体に宿る魔石を取り出すことができれば戦況は一変するだろう。しかし、そんなことはできない。
 フユは、長椅子に座った俺にしな垂れるように訴えかけた。
「じゃあ……フユを、愛してください」
 愛する?
 その意味が浸透するまで時間がかかった。確かに魔石に蓄積された魔力を分けてもらうには性交渉が必要だ。しかし、だからと言って妹を抱けるわけがない。
「馬鹿なことを言うな」
「世界が滅んでもいいんですか?」
「それは……今は分からないが、きっと方法はあるはずだ。ユーグ先生のエーテル塊に対抗する手段はきっとある」
 そう答えながら、俺はその方法を見出せずにいた。
 しばらく俺は黙考していたが、やはり答えは出なかった。
 不意に、
「兄様は……私では、お気に召しませんか……?」
 とフユが涙目で言ってきた。
 どきっとした。
 内心の動揺をひた隠して俺は答える。
「気に入るとか、気に入らないとか、そういう問題じゃない」
「じゃあ、どうして……?」
「どうしてって……」
 俺は狼狽する。どうしてフユが泣いているのか、まったく分からなかった。けれど、放っておけるはずがない。
 俺はフユの手を握ってやった。
 できるだけ優しい声音で俺は尋ねる。
「フユ? どうしたんだ?」
「フユはずっと兄様の重荷なんですよね……?」
「そんなことはない。おまえがいてくれたから俺は今日までがんばることができたんだ。だから泣くな」
「このままじゃいけないって、ずっと思っていました。いつか離れなければいけないって、兄妹なんだから諦めないといけないって、ずっと考えていました。でも、できません……フユはずっと兄様の傍にいたいです……」
 フユはうつむいたまま泣きながら悲痛な声で訴える。
 拒もうと思っていた気持ちが揺らぐ。
 それでも、俺はかろうじて常識的な答えを返した。
「おまえは俺以外の誰かと幸せになるべきなんだ」
「二○歳まで生きられないのに?」
「それは……」
 俺は言葉に詰まった。
 確かにフユは二○歳まで生きられないと宣告されている。だとしたら、好きな男と結ばれるのがフユの幸せなんじゃないか。
「どうせ二○歳まで生きられないのであれば、好きな人と一緒にいたいです」
「これからきっと俺より好きな相手ができる」
「できません!」とフユは涙声で叫んだ。「どうして分かってくださらないんですか! フユは兄様の傍にいるから幸せなんです! 他の男の人と一緒にいても幸せにはなれないんです!」
 フユが顔を上げた。
 怖いくらい真剣な眼差しで俺を見る。
「一度だけ! 一度だけでいいんです! 一生に一度のお願いですから!」
「……駄目だ」
「どうして……?」とフユは今にも壊れてしまいそうな顔になった。「いつだって、私のわがままを聞いてくれたのに……」
「それだけは駄目なんだ。分かってくれ」
 俺は立ち上がり、薄暗い聖堂内を手繰ってドアを開けようとする。
 その途中で、フユが背中に抱きついてきた。
 柔らかい二つのふくらみが背中で押しつぶされ、細くしなやかな両腕が腰や胸に巻きつく。
 俺は心が騒ぐのを実感した。
 こんなにも自分を慕ってくる妹を、どうして拒まなければいけないのか。俺は次第に分からなくなっていった。
 自分が妹を幸せにしてはいけないのだろうか。
 今はただ、妹の体温が愛おしい。
 その体温が俺の理性を奪ってゆく。
「今だけは……私が妹だということを忘れてください……私も貴方が兄だということを忘れますから……だから、お願い」
 俺はフユに抱きつかれたまま向き直った。
 妹を抱きしめて、俺はささやくような声で確認する。
「本当に俺でいいのか? 後悔しないな?」
 フユの手が俺の背中に伸びて服を力一杯つかむ。
 フユははっきりとした声で答えた。
「後悔するはずありません。だって……ずっと、この時を待っていたんですから……」
 俺は一旦フユと離れて顔をのぞき込んだ。
 フユはまた泣き出しそうな顔をしていた。すがるような目で俺を見上げている。
 そんな妹を見て、俺の心が定まった。
 俺たち兄妹はそっと唇を重ねる。
 俺たちは聖堂内で、互いが兄と妹であることを忘れたかのように求め合う。帝国の国教では兄妹が結ばれることは当然ながら認められていない。そんなことは知ったことか。俺は妹が愛おしい。その気持ちに正直でありたかった。
 今度は、魔法は解けなかった。



 夢に沈んでいた俺の意識が現に浮かぶ。
 気がつくと、俺は長椅子に横たわっていた。
 見れば、俺の脇に肌襦袢を着たフユが上半身を起こして、じっと見つめていた。潤んだ目が愛らしい。
 フユが熱を吐き出すようにささやく。
「兄様……私たち、これで恋人同士になったんですよね……?」
 フユは、一度だけでいい、とお願いしていた。それは本当の気持ちだろう。しかし今は違う気持ちがフユの中を占めていることは容易に察することができた。
 俺は手を伸ばしてフユの髪を撫でる。
「当り前だろう? もうおまえに苦しい思いはさせないからな」
「はい……大事にしてくださいね」
 フユは幸せそうに微笑み、俺の唇に軽く口づけをした。
 俺も幸せを感じた。
 俺たちは地下水道をさかのぼって城内に侵入した。エントランスホールにたどり着くと、多数の合成獣が待ち受けていた。
 天窓から朝陽が差し込む中、ユーグ先生が歩み出る。
「ハル。覚悟は決まったか?」
「ユーグ先生。本当に世界を滅ぼすつもりですか? 考えを変えることはできませんか? 今ならまだ間に合います」
「俺たちは似た者同士だな。俺は妻子のため、おまえは妹のために生きている。実際のところ世界の行く末などに興味はない。そんな俺たちに世界の命運が託されたのだから滑稽だ。だが今となっては演ずるべき役割をただ果たすべきか」
 と、埃っぽい空気の中、ユーグ先生は軍刀を抜いた。
 殺せ、殺せ、と合成獣たちが合唱する。
「では始めるか」
 ユーグ先生の軍刀にエーテルが収束する。エーテル塊を撃つ構え。
 俺も刀を抜いてエーテル塊を撃つ。
 光が弾けた。
 欠片となって世界に散らばるエーテルが収束する。人が着色する以前の色が無色。そんな無色から万色が生まれる。視界全体にまばゆい光がきらめく。一瞬ごとに色が変わる様はまさに万華鏡。
 エーテル塊は魔術者の心を映す。魔術者の色が世界を染める。まさか自分の魔法でこんな美しい世界が広がるとは、俺は思ってもみなかった。それはきっと、とても素直な気持ちでフユという一人の女性のことを想っているから。
暴力的でもなく、かと言って虚無的でもなく、圧倒的な光の濁流がユーグ先生の放ったエーテル塊とせめぎ合う。
 俺は拮抗するエーテル塊の合間に走り寄った。
 精神を集中させる。
「熟田津(にぎたつ)に、舟乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、いまはこぎ出でな」
 精神が加速する。
 世界が減速する。
 極限までゆったりと流れる時間の中で、俺はユーグ先生の式を読んだ。
 ユーグ先生の思考が流れてくる。
 妻を殺された。
 娘を殺された。
 なにが悪かったと言うのだろう。
 なにを間違えたと言うのだろう。
 なにも悪くないはず。
 そうだ、自分たちはなにも悪くない。
 悪いのは、世界だ。
「違う! 貴方の間違いは過去に囚われて今を生きようとしなかったことだ! 俺たちは生きている! だったら前を向くべきなんだ!」
 俺は叫んでユーグ先生のエーテル塊を切り裂いた。
 魔法消去が発動する。
 エーテル塊が雲散霧消した。乳白色の霧となって世界に拡散する。その霧の中、俺はユーグ先生の気配を探った。強い魔力を感じる。それはユーグ先生が盗み出した魔石の放つ魔力だ。
「やぁああっ!」
 霧の中、気配だけで斬った。
 確かな手応え。
 やがて霧が晴れた時、傍らにユーグ先生が倒れていた。
 石畳の上に大量の血が流れている。かろうじて息があるようだ。
 止めを刺してやろう。
 俺は刀を振り上げた。
 その時、
「兄様っ! 駄目です!」
 とフユが俺に抱き着いてきた。
「フユ?」
「殺しては駄目です!」
「こいつは殺されて当然のことをした」
 そうだ、ユーグ先生は世界を滅ぼそうとして多くの人命を奪ってきた。その罪は重い。みずからの命で償わなければならないほど。
 それでもフユは俺から離れようとしなかった。
「例えそれでも! 私は兄様に人を殺して欲しくありません! 兄様は優しい方です! きっと人の命を奪う重さに耐えられません! 絶対に後悔します! 私には分かるんです!」
 フユは俺にすがり付いて、離そうとしない。
 そうか、俺のことを俺以上に分かってくれているのか。
 俺は刀を納めた。
 原型の魔剣を巡る戦いは、ここに終息した。



 それから一週間ほど経った頃。
 俺たち兄妹は入院中のラケルを見舞うため病院を訪れた。
 病院は新市街に建っている。これまで病院とは、感染症患者や精神病患者を隔離する意味合いが強かったが、最近では二○人程度を一つの看護単位として手厚い看護や治療を受けられる施設も見られる。
 ラケルの運び込まれた病院もその一つだ。
 一見して教会のよう。荘厳な雰囲気の建築物だ。
 しかしラケルのベッドは空だった。シーツも取り換えられて、まるで新たな患者を待つかのよう。
 まさかラケルは――。
 俺は近くの看護婦に尋ねた。声に動揺が少し表れていたかもしれない。
「ラケルという患者がいたはずですが……?」
「ラケルさんは……」
 その看護婦は言いよどむ。
 まさか予感は当たっていたのか?
 フユが俺のシャツを強くつかんだ。
 やがて看護婦が言いにくそうに伝えた。
「ラケルさんは、元気過ぎるので退院してもらいます」
「は? じゃあ今どこに?」
「今は中庭で剣の稽古をしています」
 フユを連れて中庭に出ると、確かにラケルが木剣を振るっていた。
「おまえ……ケガは大丈夫なのか?」
 と俺は思わず尋ねてしまう。
 振り返ったラケルは唇を尖らせる。
「だって、こんなところにいたら体がなまっちゃうよ」
 いつも通りのラケルだった。
 これなら退院しても問題はないだろう。
 話しているうちにエーリヒも見舞いにやってきた。エーリヒ――ウルト氏は、今も学院の生徒だ。黒の導師の正体を探るために生徒に扮していたのだが、意外と居心地がいいことに気付いたらしい。創立者が一生徒であるなど、他の学校ではないことだろう。それはそれで学院らしいとも思う。
「兄様……」
 とフユが俺のシャツを引っ張った。
「ん?」
「そろそろ時間では?」
 俺は懐中時計を見る。
 もう列車が出発する時刻だ。
「すまん、ラケル、エーリヒ。行ってくる」
 俺たち兄妹は挨拶もそこそこに駅に向かった。
 ホームに機関車が身を横たえている。かろうじて間に合ったか。
 警手たちに囲まれて手錠をかけられた人物が護送されるところだった。
「ユーグ先生……」
 ユーグ先生は堂々とした態度だった。とても犯罪者とは思えない。むしろ警手たちを従えているかのようだ。
 死刑になるのは分かっているはずなのに。
「ハル。最後におまえに会えて良かった。これからも励め」
 励め。
 それはユーグ先生の口癖だった。黒の導師として生きた過去と決別し、最後には教師である自分の姿を取り戻したのかもしれない。この姿こそ、ユーグ先生の本当の姿なのだろう。
 殺さなくて良かった、と改めて思う。
 やがて列車が出発する。景気よく蒸気を吐き出しながら列車が去ってゆく。それを見送ってから、俺たちはホームに一人の女性が立っていることに気付いた。
 胸甲騎兵のような勇ましい格好の女性は、俺たちをじっと見ている。
 その非現実的な女性の正体に俺は察しがついた。
「貴方が調和の剣か?」
「そう」
 とうなずく声に俺は聞き覚えがあった。川に落ちた時、「貴方はまだ死んではいけない」という声がしたのを覚えている。あれは、調和の剣の声だったのか。
「貴方はよくやった」と調和の剣は淡々とした声音で俺を労う。「これで世界は永らえる」
「一つ聞きたい。どうして俺を選んだ?」
「愛を知らずに生まれ、それでも愛を与えて生きる貴方こそ、私を扱うに相応しい」
 と調和の剣は憂いを帯びた口調で答える。
「でも貴方たちの試練は始まったばかり。この世界では兄妹が愛し合うことは認められていない」
 そんな調和の剣の言葉に、俺の傍らに立つフユがぎゅっと袖をつかんできた。
「それでも俺たちは生きてゆく。そう決めたんだ。後悔はない」
 その言葉に調和の剣は初めて笑みを見せた。
 不意に駅舎から鳥たちが大きな音を立てて羽ばたいていった。そこに注意が逸れた一瞬のうちに調和の剣は姿を消していた。
 俺は傍らのフユを促す。
「行こうか?」
「はい……兄様、一緒に生きましょう」
 俺たちは手を繋いで歩き出す。自然に指が絡まった。
 俺たちは並んで歩いてゆく。
 これまでも。
 これからも。
 いつまでも。


クジラ
2013年08月21日(水) 00時47分57秒 公開
■この作品の著作権はクジラさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
投稿用の作品です。

互いを想い合うあまり一線を越えてしまう兄妹を描きたかったです。
この長編では三人称だった前作と違い、慣れない一人称で書いています。
その方が読者が感情移入できると思ったからです。
近親相姦をテーマとする作品特有の切なさを感じてもらえたら嬉しいです。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  クジラ  評価:--点  ■2013-08-30 18:30  ID:52PnvSC7.hs
PASS 編集 削除
>陣家さん

これほど長い小説を読んでいただき、ありがとうございます。

中途半端ですか……。
妹萌えの人には受けると思って書いたのですが、
あまりに想定した読者層が狭過ぎて、
また出版できる程度に抑えたこともあって、
中途半端に映るのかもしれません。

この作品は一九世紀末のドイツをモデルにした世界観となっています。
近代ドイツですから兄妹婚は認めらていませんし、
兄妹の出身国でも同様です。
背徳感は十分出ていると思うんですよね。
むしろ近代の方が悪感情が強いと思いました。
そう言う理由から近代となっています。
それと、
大正ロマン的な世界で兄妹が思いを募らせてゆく物語が書きたかった、
というのが最も強い動機です。

異母兄妹にしたのは、
両親から冷遇されたがために兄妹は互いを心の支えにしていった、
という動機づけのためです。
この動機こそ重要な部分で、
そこが曖昧だと説得力が弱くなると思いました。

妹の設定ですが、正統派の要素を押さえていると思っています。
病弱と言う設定がベタとのことですが、
これは魔石という設定を活かすうえで必要だった部分です。

兄のガールフレンドは設定しておきましたが、
妹がやきもきする描写は入れてなかったですね。
これはうっかりしていました。
投稿する時は加筆しておこうと思います。

世界が闇に包まれる、なんて書いた覚えはないのですが……。
誤読のないようにもう少し加筆した方がいいかもしれませんね。

批評ありがとうございました。
No.1  陣家  評価:40点  ■2013-08-30 04:58  ID:ghosfM10uOI
PASS 編集 削除
拝読しました
手間暇掛かった力作ですよね。
かなり推敲、校正に時間を掛けた後が伺えます。
非常に完成度の高い作品であると思いました。
しかし、感想レスは付きにくい作品なのかもしれませんね。
長いというのもあるでしょうけど、まあ、テーマがテーマですからね。
読者を選んでしまうのも仕様がないのでしょう。
かくいう自分も特に妹萌えというわけでもないのですが、きらいと言うわけでもありません。
それで、読了した感想なんですが……、うーん、なんとなく中途半端な印象を受けました。
実を言うと、自分もそのうち妹萌えな物を一つ書いてみたいなあ、という希望は持っていました。
それで、妹萌えについて若干研究していた時期があったわけです。
なので、まことに浅薄な試みかもしれませんが、本作を読むにあたって、世に言う妹萌えとなった自分を想像しながら、
世の中に数多ある妹モノとの訴求ポイントを比較してみたいと思います。

まず、背景、舞台はラノベ系ファンタジーということになるのかなの思いました。
でも、これは多分妹モノとしては減点対象だろうと思われます。
妹モノにとって最大に重要なファクター、背徳感が薄れる方向になりがちですからね。
現代では兄妹婚を認めている国はありませんが、(スウェーデンのみ半血の兄弟姉妹の婚姻を認めています)
過去に遡れば、聖書や神話の時代から世界中の国で合法だった時代もありました。
本作の場合には一応兄妹婚が禁じられていることや、男女七歳にして〜のような儒教的道徳観が存在する世界として書かれていますので、一応現代に準ずる道徳観が存在する世界と言うことになっています。
なので、とりあえず反社会的な行いであるとの枷があることは登場人物も認識している訳ですから、インセストタブーからくる背徳感はそこそこといったところでしょうか。
漫画を例にとって恐縮ですが、例えばジョージ秋山のピンクのカーテンのように、真っ正面から近親相姦の問題に向き合った作品もあります。しかし、ここまでやってしまうとさすがに妹萌えなどと言っていられないかもしれませんが、大家に学ぶべきところは大きいと思います。

次に、異母兄弟であるという点。
古代日本でもかつては異母兄弟婚を合法としていた時期もありました。
ですので、時代背景次第では特に非道徳なイメージが薄れる設定となってしまいます。
ただし、義妹というわけではないので、これについてもそこそこといった印象でした。
しかし、物語の早い段階で異母兄弟であるということを読者に明かしたのは良心的だと思いました。
コアな妹ファンはここで離脱する機会を与えてくれるわけですから。
物語の終盤で義妹であることを明かすパターンは俗に義妹落ちとも言われます。
現在ではどうもこの義妹落ちというのはもっとも忌み嫌われる傾向にあるようです。
もちろん、コアな妹萌えな方にはということですが。
つまり、百歩譲って義妹ということであれば、あらかじめ明確にしておくのが、妹モノの仁義とも言えるらしいです。
ライトノベル作品、お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ、や、俺の妹がこんなに可愛いわけがないのPSPゲーム版の桐乃ルートエンドなどではこれだった(原作は違います)ため、評価は低いようです。
特に最後の最後まで実妹設定で通しておいて、ラストで苦し紛れに義妹とするのは、実妹詐欺と呼ばれ、ゲームディスクをたたき割られたり、破り捨てられるほど激怒するユーザもいるなどということが、まことしやかに伝えられています。

妹の容姿、性格。
正統派なのは黒髪ロングに、しっかりもので従順、普通に兄を慕っている、なんてとこでしょう。
兄に対する呼称は兄さんが一番人気のようです。
まあ、没個性と言えばそうなのですが、現実的なお話展開にするならば正解かもしれません。
御作でもほぼこれに近い妹像ですが、病弱という設定まで与えたのはちょっとベタかもと思いました。

次に日常描写。
これも背徳感の演出には欠かせないものです。
なぜならばまずは異性である前に、家族であるというのが何より大きなファクターであるからです。
例えば生き別れになっていた妹が突然現れるというパターンは大きな減点設定です。
あくまで、妹として、兄として、家族として大事という前提条件がなければ葛藤も生まれず、そこに畏怖も生まれないからです。
また、よくある設定ですが、両親がすでに他界している。またはそろって海外に出張中などというのも安易な設定と見なされます。
で、御作ですが、丁寧に日常描写をされているので、なかなか良いと思いました。
ただ、妹に対して一人称で少女と言うのはマイナスだと思います。それは家族の目線ではありませんから。

兄の彼女。
必須とまでは言いませんが、重要な設定です。
なにより、兄が男として魅力がなければ、兄に憧れる妹の気持ちに信憑性がなくなりますし、もてないが故に妹に手を出す兄という、美しくない構図を連想させてしまいかねません。
それと、妹モノでかなり重要な要素、妹のヤキモチという、最高に美味なシチュエーションを創り出すためにも欠かせない存在だとも言えます。
しかし、あまりやりすぎてハーレム状態にしてしまうと、それはそれで反感を買いますので案配は難しいところです。
御作でもちゃんと魅力的なガールフレンドを登場させているところは、わかってらっしゃるなと感じましたが、妹がやきもきする描写があればなお良かったです。

妹の彼氏。
これについては兄の彼女に比べても、かなり難易度の高いギミックです。
作品として性描写の有り無しにより、扱いはかなり変わるポイントです。
なんとなれば、いわゆる処女原理主義の読者に対しては最高のマイナスポイントですし、肉体関係の有無でも扱いはかなり変化するからです。
しかし、世の中にはNTR属性というものまで存在するわけですから、うまく使えば最高にせつない作劇を生み出す可能性を持っています。
もちろん、ボーイフレンドレベルでやんわりと匂わせる程度にして、兄の気持ちを高ぶらせる小道具に使うという手もありますが、簡単ではないでしょう。
しかし、こちらも妹として世間体や常識を弁えた上で、それでも兄が……とくることでリアリティのある人物像にできるというメリットもあります。
いわゆる、お人形さん的なうすっぺらさを回避できますから。

どちらにしても、上の二つの要素は兄のへたれな姿や、葛藤する描写で読者の共感を生みやすいので、うまく生かしたいところです。

性描写。
2004年、ソフ倫の倫理規定が緩和されて以来、成人用ソフトなどではもはや当たり前という感が定着していますが(1999年の規定では義理であればOKだった)、あまりに安易なのはいただけないです。
体の関係、一線を越える言い訳としてよくあるのは、兄のヘタレを矯正するため、とか、ファンタジー系だと魔王を封印するため、とかは非常に多いのですが、所詮はタブーを破らせるためのきっかけなので、スケールを大きくし過ぎると言い訳臭が強くなってしまいます。
ここは兄の決意に大きく関わる部分なので受け身にすれば確かに言い訳はつきますが、兄の責任感という大事な要素を損ねてしまいます。
御作では世界が闇に包まれるかどうかを天秤に掛けていますが、闇に包まれたらどうなるのかは分からずじまいなのでやや引っかかります。
あと、蛇足かもしれませんが成人用ゲームでは、中で出すかどうかというのも争点となります。
絵空事なんだからいいんじゃないの、と言ってしまえばそれまでですが、やはりリアリティということを考えれば、避妊しない兄は評価が低くなると言えます。
現実的に考えれば、後先考えずに欲望のままに行動していると見えてしまいますから。

変態。
近親相姦モノでは、特に劇中で主人公が自身を指して変態認定するセリフがよく出てきます。
妹好きの変態。
キモい俺たち。などなど。
確かに作者としては書きたくなるし、それは登場人物自身に自覚があるという表現でも入れたくなるのですが、これはやりすぎると興ざめになります。
妹を愛するのは変態だから?
病気だから?
違うでしょう、誰に否定されても諦められない強い気持ちがあるからのはずです。
特に妹エンドさせるつもりならやりすぎないようにしないとダメです。

親バレ、周りバレ。
近親相姦モノとしては、ある意味ステータスシンボルとも言える要素です。
これをうまく物語に取り入れている妹モノは非常に少ないですが、それであればこそ、ここに踏み込んだ作品はさらなる高みへと作品を押し上げます。
いちゃこらして、めでたしめでたし…… ん?
で? この後は? という、現実的なところに全く目をそむけたお話が胸に響かないのは当然と言えます。
社会的に許されない行為、親を激怒させ信頼を裏切る行為、さらに言えば、妹の将来、幸せな家庭を持ち、子供に恵まれるという未来。それらをすべて台無しにしても妹を幸せにするという決意をどれだけ読者にアピールし、納得させるかが妹モノの真価だと思うのです。
また、二人の関係を知ってもあっさり祝福しちゃう友だちや親などは安易の極みだと思います。
まあ、結局はお兄ちゃんの戦いはこれからだ! ってかんじで終わるのがほとんどですけどね。

なんかちょっと長くなりすぎた気もしますので、この辺にしておきます。
ファンタジーなんだからそんなもんライトに終わらせときゃいいじゃん。
という意見もあるでしょうし、そういう趣向の人もいるとは思います。
しかし、そこはファンタジーをバカにするんじゃない! と声を大にして言いたいところです。

といったところで、特に妹萌えというわけでもない自分が書いた意見ですので、真の妹萌えの方から見れば笑止なことを言っているかもしれませんが、そこはクジラさんの意見を伺わせてください。
とても有意義な意見交換になると思います。

それでは一旦これにて。
総レス数 2  合計 40

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除