騎士と魔女
 
 最果ての森の奥には、魔女が住んでいる。

 昔、そんな話を聞いた覚えがあった。今までそんな事信じて来なかったし信じようとも思ってこなかった。だが、その話を今思い出したのはその「最果ての森」に居るからだろうか。
 森の中を歩いていた。獣の息遣いも、鳥の声も、虫の羽音も聞こえてこない。静寂の森と呼ぶに相応しい程に森はとても静かだった。だが草木は確かに息をしている。鬱蒼としてはいるが、木々の間から日は零れ落ちている。
 草木が生きて、生き物が死んでいる森。そこまで考えて、まさかと足を止める。とんでもない森に入ったのではと全身から汗が噴き出した。
 生来の臆病者の心臓が動悸を早くし始めた。足が動かない。もしも、恐ろしい魔物が居たらどうする? 恐ろしい植物が居たら?
 
 恐ろしい――――魔女が居たら?

「あら?」
「、!」
 涼やかな甘さを持った声が耳に入り込み、びくりと体を震わせてそちらを見た。くりくりとした丸い黒瞳と目があった。体の線の見えないゆったりとした服に髪の量の多い黒髪をゆるく三つ編みにしている。
 その姿に拍子抜けし、ぱちくりと目を瞬かせていた。
「こんなところにご客人なんて、何年振りかしら」
 おっとりとした口調で、『彼女』はそう言って笑っていた。手には籠を持っており、山菜や木の実が籠一杯に詰めてあった。
「……こ、この森に人は住んでいないはずです。貴殿、何者……だ?」
 震える臆病な心を精一杯勇気で満たしてそう問いかけた。『彼女』は一瞬不思議そうな表情をした後、拍子抜ける程おおらかな笑みを作っていた。
「聞いたことないかしら? 私、」
 恥ずかしそうに掌を頬に当て、彼女は告げる。

「魔女なんです」

 キラキラとした童女のような笑みに、彼は言葉を失っていた。



「びっくりした……どうして逃げるんです? 別に取って食べようなんて思ってませんよぅ……」
「なら……離すんだ。いや離して下さい」
「いえ、別にそんなご謙遜ならずともよろしいですよ……?」
 苦笑する自称魔女に、彼は若干泣きそうな声でそんな事を懇願していた。自称魔女の女はそんな声を聞いてさらに苦笑を強めている。
 彼は全身を銀色の甲冑で包んでいた。声からして男性であると特定できるが、それ以外の彼の要素は殆ど甲冑に包まれていて分からない。上等な甲冑姿から何らかの騎士であることは想像に難くないだろう。
 そんな甲冑の体は、現在大樹から伸びる蔦によって吊るされていた。無残にも腹回りに巻きつかれ、枝から垂れ下がっている。
「突然逃げるんですもの。びっくりしたんですよ」
「魔女というのは、逃げると人間を蔦で捕まえると……」
「久しぶりにお話出来る人に巡り会えたんですから蔦位使いますよ〜」
「………………」
 無言の甲冑騎士に、ニコニコ笑顔のままの魔女。
「………………」
「………………」
 しばしの沈黙。沈黙に耐えかねたのか、魔女が口を開く。
「とはいえ、怯えさせるつもりはなかったんです。ただ、初対面の人に突然逃げられてちょっとショックで……」
 ううう、と肩を震わせる魔女に、オロオロし始める甲冑騎士。そんな甲冑騎士に、魔女は温和そうな表情を浮かべて声を掛ける。
「じゃぁお詫びに……私の話し相手になってくれますか?」
「……分かりました」
 渋々と承諾する声に、パァッと表情を輝かせる魔女。ニコニコした笑顔で彼女は騎士を地面へと降ろし、蔦を解いた。
「………………?」
「どうかしましたか?」
「いえ、いつもなら、皆さんこのタイミングでダッシュで逃げてしまうので」
「……逃げてよかったので?」
「いえ、逃げられると凄くショックなので止めていただきたいです」
 そんな事を泣き顔で言われては何も言えなくなる、とでも言う風に甲冑の騎士は肩を落としていた。
「……大丈夫です。逃げませんよ」
「ありがとうございます! どうぞ、私の家までお越し下さい。お茶でもお出ししますわ」
 笑う魔女に、甲冑の騎士は大人しく首肯した。
 魔女は本当に嬉しそうに笑っていた。その様子はまるで、町娘のようなそんな柔らかい雰囲気があった。
 これが、彼と彼女の初めての出会いだった。



「まず、自己紹介からしましょうか。私、ヘレナと申します。騎士様は?」
「あ、」
「あ?」
 不思議そうな表情で顔を覗きこんでくるヘレナと名乗った魔女に、言葉が詰まる騎士。数瞬間を開けて、改めて騎士は顔を上げた。
「あ……アル、と申します」
「そう。アル様と仰るのね。でもアル様、テーブルに着いたのだから素顔は晒してくださっても良いのではなくて?」
「……そうですね。失礼致しました」
 家に着いた瞬間、殺される事も想像していた。殺されたとしても自分は文句が言えないと肩を落としていたのだが、普通にテーブルに招待されティーカップと茶菓子を差し出されただけだった。そしてヘレナに言われるがままに兜を脱ぐ。
 さらさらとした金髪がこぼれ落ちた。兜を被っていたせいか、髪の毛には少々癖が着いてしまっていたが柔らかく流れる蜂蜜色は明らかに貴族階級によく見られる髪色だった。容姿は美形に類するだろう。気品の感じられる目鼻立ちをしているがその蒼い瞳だけは自信無さ気に揺らめいていた。アルと名乗った騎士の容姿に、ヘレナは一瞬目を見開くもすぐ口元に柔らかい笑みを浮かべていた。
「アル様は……貴族階級の方なのですか?」
「……えぇ、そうですね。ですが、そんなものは建前でしかありません。私は」
「『私は』とはどういう意味ですか? その甲冑は、一定の階級を持っている者しか着る事の出来ない甲冑だと記憶していましたが……違いましたでしょうか?」
「いいえ。よく知っていますね」
「ふふふ、少し記憶は古いけれど。貴方の国にはしばらく居たものですから」
「………………」
「貴方の国はカストゥール王国でしょう? 国章を見れば分かりますわ」
「……そういう意味でしたか」
「私が何か魔法を使って特定したとでも? まぁ酷い。今のところここで魔法なんて使っていないのに」
 ぷすっと子供のように頬を膨らませるヘレナに、頬を綻ばせる騎士。その騎士の様子に、ヘレナはまた童子の様に表情を笑みに変えていた。
 よく笑う女性だ。魔女という恐ろしい力を持つとは到底思えない程に。
 騎士は家の中を見回した。
 家、というよりも小屋と言う表現が一番適切かもしれない。大きさとしてはその程度である。一人で住むにはその程度で十分だったのだろう。少なくとも、家の規模や彼女の様子からして一人暮らしであることは容易に予想が出来た。家の中は雑多で、不思議な液体の入った小瓶、壁一面が本棚にされ壁を埋め尽くす分厚い本達、床に無造作に詰まれた本、読みかけで開かれたままにされた本、瓶の中には不思議な色を放つ鉱石が入れられている。物としては本が圧倒的に多かった。綺麗に整理整頓された様子は無く、床に飲みかけのティーカップが置いてあったり何に使うのかは分からない絵筆が転がっていたりした。絵を書くためのキャンバスも絵の具も見当たらないのに絵筆だけ転がっているのだ。
「?」
「何か面白い物でも見つけました?」
「……えぇ、そうですね。この部屋を漁れば面白い物は沢山見つかるでしょうね」
「魔女の家だからですか?」
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。得てして、他人の部屋というものは面白い物が多く感じるものです」
「……そういうものですか?」
 キョトンとした様子のヘレナ。騎士は苦笑するだけだ。ヘレナは物が煩雑としている自室を眺め、苦笑を浮かべる。
「もう少し片付ければ良かったですね。生来、あまり整理整頓出来る体質ではないのか、片付かないのですよ」
「魔女ともあろうお方なら魔法で片付けるのかと思いましたが」
「………………」
 騎士の言葉に、ヘレナははたと動きを止めていた。そしてまたキラキラした瞳で騎士を見る。
「なるほどその手がありましたね!」
「気が付いてなかったのですか……」
「片付けは人の手でやるものだという妙な固定概念があったものですから……今度からは自分で片付けてみますね」
 新たな指摘にウキウキした様子のヘレナ。騎士はそんな純粋な姿を見てこれが本当に噂に聞く魔女なのか疑問に思うほどだった。
「あ、そういえば」
 ふと思い出したようにヘレナが口を開いた。純真な瞳で騎士を見つめてくる。
「アル様は、どうしてこのような森の中に?」
「……あぁ、そのことですか」
「はい。良ければお聞かせ願えないでしょうか。『最果ての森』になどほとんどの人間が出入りしないものですから」
 ふふふ、と笑いながらヘレナはティーカップに角砂糖を入れている。ティースプーンでくるくるとかき混ぜ、紅茶を飲んでいた。その動作を黙って見つめている騎士に、ヘレナは不思議そうな目を向けてきた。
「どうかなさいました?」
「私は……」
 絞りだすように、騎士が口を開いた。ヘレナはティーカップを置いて騎士の次の言葉に耳を傾ける。
「私は、逃げてきたのです」
「……逃げた?」
「……えぇ。私は、戦争から逃げた。ただの臆病者です」
 恐怖で体が震えるのか、騎士は小刻みに体を震わせていた。自らの両手を見つめ、それが異形でもあるかのように恐怖を露わにしている。
 そういえば、この騎士は腰に剣を帯刀していない。ヘレナはそれに気が付き、唖然とした様子で騎士に視線を注いでいた。
「今日は、私の初陣で……私は初めて人を切りました。人を……斬り殺しました……」
 涙声で訴える騎士は両手で顔を覆い、俯いてしまっている。ヘレナは立ち上がり、騎士の傍に寄り添うとその背中をそっと撫でる。
「……貴方は、確かに臆病者ですね」
 撫でられた背中の温もりは暖かで。騎士はしばらく嗚咽と共にその温もりに身を委ねていた。



「落ち着きましたか?」
「……はい。申し訳ありません。お見苦しい所をお見せいたしました。騎士ともあろうものが人に涙を見せてしまい……」
「ふふ、大丈夫です。人は、脆いものですから」
 席に戻ったヘレナが笑みを讃えて騎士を見つめている。騎士はその笑みに笑みを返そうとするも、涙で突っ張った頬は笑みを形つくってくれそうに無い。
「ただ、一つ質問があるのですアル様。お答え願えるでしょうか?」
「……え、えぇ。私でお答えできる事であればお答えします」
 躊躇いがちに答えれば、その返答に満足したのかヘレナは微笑んで唇を開く。
「先ほど、『戦争』と言っていました。私は失礼ながら森に身を置いている身です。国の流行に疎いもので……失礼でなければ、戦争に事についてお聞かせ願いたいと思いまして」
「……今回の戦争の事、ですか」
 騎士は渋い表情を見せ眉間に皺を寄せるもため息と共に口を開いた。
「魔女殿は、ニヴァシュの山というのはご存知でしょうか」
「……存じております」
 少しだけヘレナの表情が硬くなるも、頷いている。騎士はそんなヘレナを気にせず言葉を続けた。
「近年……そうですね。二年程前でしたでしょうか。ニヴァシュの山にてある鉱石が発見されたんです」
「鉱石?」
「はい。これです」
 そう言って、騎士は懐から一つの石を取り出した。真紅に染まった石だった。血の様に赤いその石に、ヘレナの視線も険しくなる。
「……この石が、何か?」
「この鉱石は『エーテル』と言いまして。二年程前から発見されはじめたのです。この鉱石がかなり特殊で」
「特殊とは?」
「はい。この鉱石を媒体に、我々は魔法が使用出来るようになったのです。そう、貴殿のように」
「……魔法が?」
 訝しむヘレナ。騎士は石に集中し、掌の上に炎を出現させてみせた。
「手っ取り早く魔法を見せるにはこのように炎を顕現させる、というのが一番だったので行なってみましたが、他にも出来る事は多いです。小規模ですが風を起こしたり、水を発生させたり。この鉱石のおかげで国民の生活はとても豊かになりました。ですが、豊かさの代償の様に戦争は起きました」
「……その鉱石……『エーテル』の争奪戦ですね。当然の帰結、ではありますが」
「正確には、『エーテルの鉱山』の争奪戦です。今、ニヴァシュの山は隣国に狙われている」
「この鉱石を売るという手段もあったでしょう」
「ですが、これは使いようによっては人を傷つける道具に成り果てる。そうなれば……我が国はあっという間に制圧されるのが落ちでしょう。同盟を結ぼうにも、狙ってくるのは国だけとは限らない。明確な平和はまだ遠い」
「……その『エーテル』が、戦争のきっかけだったのですね」
「……はい」
 項垂れる騎士に、ヘレナは思案するようにテーブルに肘を着いた。真剣な眼差しで思案するヘレナに、騎士は気が付いたように声を掛ける。
「そうだ……魔女殿の力で、戦争をなんとかする事はできませんか?」
「申し訳ありませんが、それは無理です。私は普通の人間の世界に不干渉を決め込む為にここに居るので」
 ヘレナの発言に肩を落とす騎士。よほど期待したのだろう。本当に落ち込んでしまっている。戦争を憂いている。いや、人を殺すことが最早トラウマになっているのかもしれない。
「騎士様は……戦争はお嫌いですか?」
「戦争が好きな人など居ませんよ……いや、居ない。居ないと……信じています」
「……お優しいのですね……」
「優しさなんてものではありません……ただ……臆病なだけです」
 悲しく笑う騎士に、ヘレナは微笑み返す。ヘレナはすっくと立ち上がると騎士に手を差し出してきた。
「今日はお話ありがとうございました。もう日も暮れてしまいますし、森の入口までお送り致しましょう」
「……なんと、ありがとうございます」
 呆気無く、生還を許された騎士。魔女と握手を交わす。
 窓の外から夕暮れの光が差し込んできていた。
 魔女の性急な帰還を促す言葉に、騎士は何の疑問を持つことも無く帰路に付いて行くのだった。



 カストゥール王国は北にニヴァシュ山、南に通称『最果ての森』と呼ばれる森を持つ騎士国家だった。騎士であり王でもあるモルド・カストゥスは頂きに『エーテル』を戴いた王冠を被り玉座に深く座していた。巨大な城は齢数百年に渡り、その威厳な様相をまるでモルド王の着こむ甲冑のように構えていた。
「ルキウス! ルキウスは居らんのか!」
 モルド王の叫び声が玉座の間から響いてくる。カツカツカツと金属的な足音を鳴らしながら、金髪の青年が玉座の間へとやって来た。甲冑に身を包んでいるが、その肩には貴族の象徴である赤いマントが付けられている。やってきた青年は玉座の王と目を合わす事も無く玉座の前で跪いた。
「申し訳ありません父上。書斎に居りましたもので」
「遅い。貴様はいつも遅い。呼ばれた理由は分かっておるな」
「……はい」
 頭を垂れるルキウスなる青年に、モルド王は怒りに満ちた瞳を向けている。
「敵将を討ち取った後、勝鬨を上げる中森へ逃げたそうだな?」
「………………」
「何故逃げる!? お前は騎士だろう! 我がカストゥスの騎士にして騎士王の息子だぞ! 何故そのような愚行を犯した!? ルキウス!!」
「……ち、父上それは……」
「パーシヴァルは父に反抗し、グリフレットは弟であるお前に剣の腕で負け、腕前だけは一番のお前は一番の臆病者! お前達は父を愚弄しているのか!? ルキウス。騎士としてお前は恥を知れ!!」
「………………」
 モルド王の叱責に、王子ルキウス・カストゥスは頭を垂れ王の怒りが静まるのを静かに待つだけだった。そんな息子の様子に納得した様子は無く、モルド王はギリと奥歯を噛みそれ以上の言葉を紡ぐ事は無かった。
「……もう良い下がれルキウス。お前達三兄弟に何かを期待した私がバカだったのかもしれぬ」
「………………申し訳ございませんでした。父上」
 ルキウスは王に一礼をし、玉座の間から王と一度も視線を交わす事無く出て行った。
 その後ろ姿を疲れたように見送り、モルド王は深い溜息を吐く他無かった。



「ルキウス」
「……グリフレット兄さん」
 茶髪に甲冑を着込んだ男性がルキウスの元へと歩いてくる。眉間に皺を寄せ、髭を生やした男性はルキウスの元へとやってくるなりその横面を引っ叩いた。
「、!」
「逃げたそうだな、ルキウス」
「………………兄さん、」
「お前に……騎士としての誇りは無いのか!? お前が将として、騎士として初めての陣。しかも見事敵将の首を討ち取った後に逃げる等お前は一体何を考えているんだ!!」
「……申し訳、ございませんでした……」
「謝って済む問題か! 私はお前に隊を預け、初めて将の座を譲ったというのになんだその体たらくは!」
「兄さん、私は……」
「言い訳等聞きたくはない!!」
 また横面を強かに打たれ、地面に倒れ込むルキウス。そんなルキウスを容赦なく踏みつける。
「お前に負けた事がまず間違いなのだ……私がお前より弱い等あり得ない!」
「………………止めて下さい、兄さん」
「ルキウス。そうだルキウス。私がお前より劣っている等あっていい事ではない!!」
「止めて下さい兄さん!」
 蹴りつけてくる足を掴み押し返すルキウスに、男性の体が大きく傾いだ。倒れかける男性の体を支えたのは背後からやって来てた金髪の男性だった。
「何をしているんだ。グリフレット、ルキウス」
「兄上……」
「パーシヴァル兄さん……」
 眼鏡を掛けた知的な印象を受ける男性は、深い溜息を吐き弟達を見ている。
「グリフレット。王族ともあろう者がこのような場所で何をしている。ルキウスがしたことは確かに褒められた事ではない。だがグリフレット。ここでお前がそんな事をしてもお前の株が下がるだけだぞ」
「………………」
 舌打ちと共に茶髪の男性が歩み去っていく。その後ろ姿を見送り、ルキウスは兄を押し返した手を見下ろした。
「……はぁ。お前は、人を殺すのがそんなに怖かったのか?」
「……はい。人を殺す感覚は、きっと一生慣れないと思います。そして、慣れたいとも思えない。パーシヴァル兄さん。私は、何か間違えているのでしょうか」
「お前のその臆病な性格は確かに少々難点だが、その感想は人としては正解なのだろう。だが、今は戦乱の世なのだ。そんな事を言っている場合ではない。騎士団の隊長になったのだろう。役目は果たしなさい」
「………………」
 長兄の言葉にルキウスは肩を落とし、小さく頷くだけだった。長兄は小さく笑うとルキウスへ手を伸ばす。
「!?」
 驚くルキウスを無視し、その柔らかな髪をくしゃくしゃとするように頭を撫でると手を離した。
「私はもう剣を持たない。私の自分勝手な都合でお前達に任せてばかりで済まない」
「パーシヴァル兄さん。母上の事は、」
「ルキウス。グリフレットを怒らないでやってくれ。あれは、まだ気が動転しているんだ。お前がすぐに私達を抜いていってしまったから。そうだ。まだペレアス卿と戦った傷も癒えてないんじゃないか? しっかり部屋で休むんだぞ」
 長兄はそれだけ言い残すと踵を返して去っていってしまった。ルキウスは自らの両手を見下ろし、深い溜息を吐いた。
 臆病な心はずっと逃げたいと叫んでいたのに。この手はあっさりと敵将の首を討ち取っていた。その事実に何かとてつもない恐怖を感じて無我夢中で逃げたのを思い出す。そして、あの森に入ったのも。
 敵将ペレアス。あの男との戦いは一瞬だった。首を切り落とすのを難しいとも感じなかった。そんな自分が恐ろしく感じた。
「いっその事負傷していれば良かったんですが……残念な事に恐ろしい程無傷なのは、何故なのでしょうね」
 今回の戦は負けるだろうと思われていた戦だった。敵将ペレアスは単騎で多くの同胞を葬った猛者。そんな猛者相手に初陣の将。恐らく兄としてはペレアス将軍にルキウスを殺してもらう手はずだったのだろう。ルキウスが無傷でその猛者を討ち取る事等誰も想像していなかったに違い無い。
 いとも簡単に人が殺してしまえる自分に最も恐怖しているとルキウスはまだ気がついていなかった。



「貴方は、どうお考えですか」
 黒い魔女が問う。
 暗闇は答える術を持たず、答える気配も無い。魔女は暗闇に笑い掛け、眠るように吐息を漏らした。
「貴方の大事な国を、私は……手に掛けなければならないのです」
 暗闇は答えない。魔女の視線は笑みを浮かべているも見上げた虚空から笑みが返される事は無かった。
 小さく、暗闇に問い掛ける。
「お許し下さい。でもきっと大丈夫だと思うのです。それに……そろそろ、私もそちらに行きたいです……殿下」
 小さく零れ落ちた言葉は暗闇に吸い込まれていった。
 暗闇は暗闇しかなく。答える術も答えを持つ者も彼女の望むものも存在していない。全くの虚無である。それでも、魔女の瞳は暗闇に笑みを投げかけていた。



「ルキウス殿下」
「………………」
 起床早々に部屋に訪れた顔馴染みの言葉に無言で不満そうな視線を送るルキウス。やって来たルキウスより少し年上の青年騎士はその視線に苦笑を浮かべるだけだ。ルキウスお付きの侍女もその様子に苦笑しているだけだった。
「そんな顔しないで下さいルキウス殿下。本日ですが、陛下の命によって、城から出る際は私が付き従わせて頂きます」
「要らない」
「要ります。ダメです。殿下……そんな我儘を言わないで下さい」
「そもそも、私は今日主だった仕事も無いよ。一日剣の稽古だ」
「あ、じゃぁ城から出る予定はないんですね?」
「あったら何だと言うんだい?」
 少々棘のある物言いでルキウスが問えば、青年騎士は嬉しそうにうんうんと頷いている。
「いえ、今日は城下にて新しく王国騎士団に入る者達の試験がある日でしたので。殿下に出掛ける予定が無ければ自分も心置きなく試験官というものを全う出来ると思いまして」
「……王国騎士団」
 青年騎士は嬉しそうに意気揚々とルキウスの部屋から出て行こうとするも、ルキウスがその肩を掴み青年騎士の歩みを妨げる。
「アグロヴァル卿」
「……ダメです殿下」
「王国騎士団の将軍は現在私です」
「グリフレット殿下に戻ったでしょうその権限は……」
「それでも私も王国騎士団に身を置いている身です」
「……はぁ。ルキウス殿下」
 アグロヴァル卿と呼ばれた青年騎士は疲れた様にルキウスに目を向ける。ルキウスの目が異様に輝いているのを見て青年騎士は肩を落とした。
「陛下に叱られても自分は知りませんよ」
「大丈夫です。君が一緒と知れば父上も何も言いません。そうでしょう? アグロヴァル卿」
「……そうですが……あぁもう。その呼び方止めてくださいよ殿下ー」
 情けない声を出す青年騎士。ルキウスは満足気に頷き口元を笑みの形に変えた。
「さぁ新しき仲間を見に行こうじゃないか。というわけでニーナ、行ってくるよ」
「引っ張らないで下さい殿下。馬車を用意しますから」
「いってらっしゃいませ、殿下」
 青年騎士の腕を引っ張るようにして歩くルキウスに苦笑するしかない青年騎士。ニーナと呼ばれた侍女はスカートの裾を掴みゆっくりとお辞儀をしてルキウスを送り出す。
「さぁ行くぞ、アル」



「本日は、王国騎士団選定試験にお集まり頂き真に感謝致します」
 試験監督であるアルの演説が闘技場に響き渡る。
 王国騎士団の選定は闘技場にて行われる。今回の実施試験は純粋に強さのみを求めたものである。この試験の後に残った者達が騎士としての品位等と問う学術試験への道を開く事となる。
 アルの演説が高らかに響く中、今回試験を受ける者達の視線は明らかにアルではなく背後の人間に注がれていた。カストゥール王国第三王位継承権を持つルキウス・カストゥスが控えているからであろう。ルキウス自身は自らに視線が集中していることを承知しているものの気に留めた様子も無い。
「おいあれが……」
「王国騎士団最強のルキウス殿下……」
「でも、この前の戦では逃げたって聞いたぞ?」
 ざわざわと囁かれるルキウスの話題。アルが咳払い一つすればそれは簡単に拡散され空気中に散っていった。気を取り直してアルが試験の概要を説明するために書簡を取り出した。
「では、これより試験を開始する……!?」
 闘技場の奥から絶叫が響いてきたのはその瞬間だった。
 アルが何事かと背後を振り返れば、闘技場で飼われている牙が異常に大きくなったサーベルタイガーと呼ばれる魔物の虎が唸り声を上げながらゆっくりと闘技場に出てきた所だった。今日は剣奴との戦いも予定されてはいない。恐らく、担当者の不手際によって勝手に出てきてしまったのだろう。
「殿下! 危険ですお逃げ下さい!」
 アルの怒声が飛ぶ。サーベルタイガーの目の前には遮る物はなく。一直線にルキウスの元へと駆け寄れるような場所だ。サーベルタイガーの目標がルキウスへと定められたのを見て、アルが剣を抜き演説台から飛び降りる。
「殿下!」
 サーベルタイガーがルキウスへ肉薄する。ルキウスも腰に下げた剣を抜きサーベルタイガーから目を離さない。アルが駆け寄るも、ほぼ同時にサーベルタイガーも飛び出してきた。巨大な口を開け、ルキウスに襲いかかるサーベルタイガー。ルキウスもサーベルタイガーの動きに合わせ、持っていた剣を後へ『引いた』。
「――――――ッ!」
「、!」
 声にならない悲鳴が響いた。それが、誰のものだったのかアルには分からない。だが、ルキウスに噛み付くという直前で動きを止めたサーベルタイガーに目を見開くしか無かった。
「……重いな」
 そう呟くとルキウスはぐ、とサーベルタイガーの額を押した。サーベルタイガーの長い両牙の間にルキウスの腕が突き刺さるようにして入っていた。サーベルタイガーの口の中に入ったルキウスの腕。サーベルタイガーの口からは止めどなく血が流れていた。ずるり、という音と共にルキウスがサーベルタイガーの口の中から腕を抜いた。その手には剣が握られ、サーベルタイガーの唾液以外に変わった様子は見られない。代わりに、腕を抜かれたサーベルタイガーが呆気無く闘技場の地面に沈んでいく。
 ルキウスは突っ込んでくるサーベルタイガーの口の中に躊躇うこと無く剣を深く突き刺したのだ。動揺した様子も無く、ルキウスは突撃をモロに受け止めた肩の様子を確かめている。外傷という外傷は見られない。肩口もおかしな様子は見られなかった。
「……で、殿下?」
「アルか。この可哀想な子を地面に埋めてあげてくれ。すまないな、こんな所で死なせてしまって」
 躊躇いもなく命を奪っておきながら、ルキウスは本当に悲しそうな目でサーベルタイガーの頭を撫でていた。そんな様子に周囲は唖然とし沈黙が降りるもアルは我に帰りルキウスの元へと駆け寄るのだった。



「本当に心配したんですからね」
「でも無事だったんだからいいじゃないか」
 馬車に揺られ、王宮への帰路へと着いたルキウスとアル。ルキウスの肩には包帯が巻かれているが、これはあくまでに『一応』という事であり、外傷も無ければルキウス自体特に異変を感じているわけではない。アルはへらへらと笑う自らの主人に溜息が出る。
 馬車の中、相対するようにして座った二人は闘技場から帰ってくる途中である。乱入してきたサーベルタイガーは闘技場を運営する数人を食い殺しており、試験運営のスタッフも足りていないということで試験が中止になり呆気無く返されてしまったのだ。闘技場では今でも事後処理で大忙しの有様になっていることだろう。これからは魔物用の檻がこれまた厳重なものへ変換する為の国王への願書も出てくるはずだ。闘技場はしばらく使い物にならないだろう。
「それにしても、殿下はどうしてそこまで躊躇いも無くモノを殺せるのでしょうね……サーベルタイガーもペレアス将軍もそうですけど。表情に一切の焦りとか恐怖とかがありません。その豪胆さは称賛に値しますよ」
「……褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒め言葉ですよ?」
 キョトンとするアルに、ルキウスは返答もせず馬車の窓から外に目をやった。唐突に、馬車がその動きを止める。アルが何事かと窓から顔を出し、御者の男に声を掛ける。
「どうした?」
「いえ、正門に誰かが居るらしく……今開けて貰います」
「誰か?」
 アルが小首を傾げながらその体を馬車の中に収める。程なくして正門が開き、馬車が動き出す。窓の外をぼんやりと眺めるルキウスはアルや御者の事を無視するだけだ。
 ふと、ルキウスの視界に『誰か』が食い込んできた。
 窓の外、正門に立つ衛兵と話をする黒髪の女性。
「……、! 馬車を止めてくれ!」
 ルキウスが御者に指示を下すと、御者は驚いた様子で馬たちの歩みを止めさせた。アルも驚いたようにルキウスを見る。馬車は正門を少し通り過ぎた所で停車した。ルキウスは躊躇いも無く馬車から降りると正門へと歩いて戻っていく。
「ルキウス殿下!?」
 アルも慌てて馬車から降りるとルキウスの後を追う。ルキウスの目は衛兵と話し込む女性を捉えている。ツカツカと衛兵と女性の元へと歩いて行くと、衛兵が驚いた様子でルキウスを見る。そして、話し込んでいた女性はキョトンとした様子でルキウスを見上げているだけだった。
 ルキウスは恭しく頭を下げ、地に膝を着くと女性の手を取った。
「あら……貴方様は!」
「はい。お久しぶりです」
 突然膝を着いたルキウスに驚くのは衛兵である。アルもルキウスの背後で唖然としたように足を止めている。唯一手を取られた女性は相変わらずの童女のような笑みでルキウスとの再会を喜んでいた。
「はい、お久しぶりです。騎士様」
「はい。魔女殿」
 


「ルキウス殿下だったのですか!? まぁ……では先日は数々のご無礼お許し下さい」
「いえ、頭を下げないで下さい。偽名を名乗った私が悪いのです」
「いいえ。殿下という立場であれば逆に必定というもの。お気になさらないで下さい」
 ヘレナの言葉に苦笑するしかないルキウス。その背後を、緊張した面持ちでアルが付き従っている。ヘレナという『魔女』に少なからず恐怖しているのだろうとルキウスは思った。
「それで……魔女殿は王宮に何の御用でしたでしょうか?」
「あ、そうだわ大事な事なのに」
 ぽん、と手を叩くヘレナ。大事な事をあっさりと忘れてしまう辺り相変わらずのほほんとした性格のようだ。
「陛下にお目通りをお願いしたいのです」
 にこやかに告げたその言葉に、ルキウスとアルの動きが止まった。数瞬の間を開けて、アルが焦ったように口を開く。
「ま、待ってくれ! 貴方は魔女だろう! 陛下と謁見を希望とは一体……」
「陛下に一つお話がありまして」
 ヘレナはアルにそう返事をすると、ルキウスの目を真正面から見た。その口元は相変わらず微笑んだままだ。
「殿下。陛下にお目通りをお願い出来ませんでしょうか。もしかしたらこの国を左右させる重要な事柄なのです」
「……ですが、陛下が許可を出すとは考えにくいのです」
「それはどういう意味でしょうか?」
「陛下は魔女等存在しないと断言していた覚えがあります。貴方の事も魔女と信じてくれるかどうか怪しい……それに、話を聞いてくれても信用してくれるかどうか……」
 ルキウスの言葉に、ヘレナはキョトンとした表情を浮かべるも一瞬だけ悲しい瞳をしてすぐにルキウスに笑いかけた。
「……そう、ですか。分かりました。では、せめて忠告文としてこれを陛下に御献上願えないでしょうか」
 ヘレナは懐から一つの書簡を取り出しルキウスに渡した。ルキウスは不思議そうな瞳で所管を見下ろした後、ヘレナを見る。
「これは?」
「今回私が訪問してお話をしようとした内容が書き留められています。出来れば口頭でお話をしたかったのですが、それも叶いそうにありませんのでせめてもの。念の為したためて来てよかったですわ」
 ふふ、と笑うヘレナ。ルキウスはその笑みに申し訳なさそうに眉を潜めた。
「……なんだか申し訳ありません、魔女殿」
「いえ、気にしないでください。あ、その書簡ですが必ず陛下にお渡し下さい」
 ふわり、と魔女が笑う。
「勝手に燃やしたりしないで下さいね。私……魔女なので」
 まるで聖女の微笑みのような笑みを浮かべながら、自らが死神であると宣言する魔女に、ルキウスとアルは先程とは違う意味で動けなかった。



「………………」
 モルド王は息子から渡された書簡に目を通し、忌々しげに表情を歪めていた。
「何が……平和的解決を望む、だ」
 馬鹿馬鹿しいとでも言うようにモルド王は書簡を捨てるように床に落とした。玉座の肘掛けに肘を付け、頭の支えとすると気怠げに次男を呼び寄せるように官僚に言い与える。
 程なくして現れた次男のグリフレットは恭しくモルド王の目の前で膝を着いた。
「御呼びでしょうか」
「仕事だ」
 簡潔な言葉でモルド王はグリフレットに司令を与えた。

「最果ての森へ行き、自らを魔女と語る詐欺師の女を打首にしろ」

 至極簡単に、モルド王はそう言い捨てた。



 ルキウスは王宮の書庫へとやって来ていた。古ぼけた本の匂いには未だ慣れない事に溜息を吐きながら、ルキウスは書庫の中を歩きまわる。目ぼしい資料を書庫の隅に設置された小さなテーブルの上に置き、椅子に座って資料をめくる。
「……国の文献に魔女は……これか」
 蝋燭の小さな灯りで文字をたぐりながら文字の列に目線を這わせていく。
 見つけた文献は、約100年ほど前に書かれたと思しき本だった。カストゥール王国の西暦でほぼ100年前。国に起きた大きな戦いについて纏められている。
「……赤い竜?」
 文献の資料はこうだった。
 大昔から恐怖の対象として君臨していた赤い竜。その体は真紅の鱗に包まれ、炎を吐き、巨大な体躯で全てを蹂躙したのだという。いくつかの村が壊滅に追い込まれ、滅ぼされた。
「100年前、魔女と赤い竜が死闘を繰り広げた……それが、ニヴァシュの山」
 文献では唐突に魔女と赤い竜が死闘を繰り広げたと記載されていた。原因は不明である。どこを読んでも記載されていない。ニヴァシュ山にて赤い竜は倒れ、魔女は多くの血を流しながらも生きながらえたという。その血は山全体を紅く染めて尚垂れ流し続けられた。だが、魔女は虫の息ながらも生き続けていたという。
「……山を染める程の、血……」
 ルキウスは蝋燭の灯りが心もとないと気づき、灯りを増やすために懐にしまっておいたエーテルを取り出して光を灯した。光を灯した瞬間、ハッとなってエーテルを凝視する。血の様に赤い結晶は光を放つのみだ。ルキウスが下した命令を忠実に再現している。ルキウスはゆっくりとエーテルを掌で包み込んだ。
「……100年の歳月を掛けて血が結晶化した……ということなんだろうか。でもそうでもなければ、こんな石が出来上がる事も、こんな所業が出来る事も説明が付かない」
 これは、魔女の一部と言う事か。
 ルキウスは包み込んだエーテルを胸に抱いてみる。温かみも特には感じない。ただ光を放ち続けるのみだ。
「………………」
「ルキウス殿下?」
 不意に、ルキウスは背後から声を掛けられた。燭台とトレーを持った侍女のニーナが不思議そうな表情でルキウスを見ている。
「なんだ……ニーナか。びっくりした」
「スコーンと紅茶をお持ちいたしました。ご休憩をされるかと思いまして」
「ありがとう。置いておいてくれ。ありがたく食べさせてもらうよ」
 柔らかく笑うと、ニーナは微笑みテーブルの上にスコーンとティーカップ、ティーポットを置いた。ティーカップに紅茶を注ぐとルキウスが胸に抱いているエーテルを見る。
「それ……どうかなさったんですか?」
「え? あ、あぁ……温度とかあるのかと思って。ただの石だったよ」
「そうですか……お寒いのでしたら、何か羽織る物でもお持ちいたしましょうか?」
「紅茶があれば大丈夫だよ」
 笑うルキウスに安心したのか微笑むニーナ。その笑みを眩しそうに見つめるルキウス。お互いに微笑み合っている事に気が付いたのか、ニーナが頬を真っ赤に染めて慌てたように目を逸らした。
「え? ニーナ?」
「き、気にしないでくださいまし……」
 手に持っていた銀色のトレーで顔を隠すニーナに不思議そうな表情のルキウス。ルキウスが興味本位で見つめていると、ニーナは恐る恐ると言った様子で時たまトレーをずらしてルキウスの様子を伺ってくる。その様子にルキウスは吹き出してしまった。
「ふっ……ニーナは可愛いなぁ」
 ははは、と笑うルキウス。ニーナはルキウスの言葉にまたもや顔を赤くし、本格的にトレーの影に隠れてしまう。いたずら心が湧いたルキウスは立ち上がるとニーナのトレーを取り上げる。
「おや可愛い」
「で、ででで殿下ぁっ!」
 顔が真っ赤になり目尻に涙すら浮かんでいる。ニーナは両手で赤くなった顔を隠すも掌と頬の間に割りこむようにルキウスの手がニーナの頬に触れた。
「ふぇ、」
「ははは、ニーナの頬はもちもちしてて気持ちがいいな」
 軽快に笑うルキウス。ニーナはルキウスの両手によって両頬を捉えられている為動けないが、自然とまっすぐルキウスを見る羽目になる。耳まで真っ赤になるのだがルキウスは気にしない。
「で、殿下……お戯れは、」
「君、顔が赤くなりすぎじゃないかい? 熱でもあるんじゃ……」
 流石に顔が真っ赤になっているニーナ。ルキウスは心配した様子で頬を掴んだまま額を合わせた。頬は熱いが額はそうでもない。ルキウスはひとまず安心したように胸を撫で下ろすかのように息を吐き、そして現在の状況に気がつくのだ。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………で、殿下?」
「うわぁぁぁっ!」
 顔が近過ぎた。まるで恋人同士のようにじゃれあっていたことにようやく気が付いたルキウスは慌てた様子でニーナから手を放した。次はルキウスの顔が真っ赤になる番だった。
「いや、あの……す、すまない! その……変なつもりでやったわけじゃなくて……いやあのなんていうか」
 あたふたと弁解するルキウス。ニーナは呆気に取られたようにルキウスを眺めているも、その焦り具合にくすりと笑った。
「あの……すいませんでした」
「ふふ、殿下ったら今凄く可愛いですよ」
「な、! あ……あー……それは、報復か何かかい?」
「そんなつもりはありませんけど……あ、でも殿下も可愛いと言われると恥ずかしいんですか?」
 くすくす笑うニーナ。居心地が悪そうにルキウスは顔を赤くしている。
「幼少期散々言われたからぜ、全然恥ずかしくないよ」
「ふふふ、そんな事言って……顔が赤いですよ殿下」
「報復のつもりかいニーナ……」
「はい」
 至極嬉しそうに、ニーナは笑う。ルキウスは罰が悪そうに視線を逸らす事しか出来なかった。



 最果ての森には、魔女が住んでいる。
 その伝承を信じている者はこの国に一体どの程度存在しているのだろうか。詐欺師と呼ばれた自称魔女を討伐するため兵が集められ小さな隊が出来ていた。グリフレット率いるその小隊にはアルの姿もある。
 王国騎士団の甲冑に身を包み、魔女が住むとされる最果ての森へと小隊はやって来ていた。グリフレットに続き、森の中へと足を踏み入れる小隊。
 生き物の声がしない静かな森だった。だが、今森の中は殺気が満ち溢れている。小隊で集められた面々は意味も分からない恐怖と戦いながら森を進んでいく。木の陰から誰かが見ているような。そんな錯覚に陥るような森だった。
「グリフレット殿下。本当にここに魔女なんて住んでいるのですか?」
「分からん。だが調べてみない事には何も分からんからな。進むぞ」
 グリフレットが引き連れた小隊は森の中を進んでいく。木漏れ日すら木の間から届いていない。そんな森の中、グリフレット達はある小屋の前に辿り着いた。
「これは……」
「この森に人は住んでいないはずだ……これが魔女の巣か?」
「あら、お客様ですか?」
 涼やかな甘さをたたえた声に、グリフレット小隊が驚いた様に一斉に声のした方を見た。黒い髪を柔らかく三つ編みにした女性が柔らかな笑みをたたえながら小屋の裏手から姿を表した。
「何か御用でしょうか?」
 微笑みながら女性がグリフレットに問いかける。グリフレットは胸を張ると要件を口にするため唇を開いた。
「魔女を自称する女だな?」
「……そのような事を言われましても。事実魔女なのでどうとも……」
「我が国の国王を惑わせる詐欺師め! 陛下の命により、お前の首を打ち首とする」
「あらあらまぁまぁ」
 少し驚いたように口を開く女性。だが、それ以上驚くような事は無く。困りましたねぇと呑気な反応を返すだけだった。
「大人しく王宮まで来るか、それとも今この場で斬られたいか」
「ルキウス殿下は、この事をご存知なので?」
「ルキウスだと? 奴が知る訳無いだろう」
「あらそれは残念。だって、貴方では私を殺す事等出来ないでしょう? 可哀想に。この国で私を殺す事等ルキウス殿下しか居ないというのに連れてこないだなんて。陛下も浅はかになりましたね」
 ふふふ、と笑う女性。グリフレットは剣を振り上げる。
「ふざけたことを抜かすな! 私があんな奴に劣る訳が無い! 断じて無いのだ!!」
 叫びながら、グリフレットの剣が振り下ろされる。女性は冷ややかな目でその剣を眺めているだけだ。
「……全く、人間というものは」
 女性は剣が完全に振り下ろされる直前、掌を握りしめた。



 アグロヴァル卿は血の雨が降り注ぐ場所で呆然としていた。何が起こったのか。アグロヴァル卿本人にでさえ分からない。ただ、彼以外の騎士が全員内側から爆発して血と内臓をばら撒いたという事実だけは逃れようも無くそこに横たわっていた。
「……え?」
「御機嫌よう。この前会いましたね」
 にこやかに微笑む魔女。その体も血の雨によって赤く染まってしまっている。そして、その手にはグリフレット殿下の生首が抱えられていた。
「え……あ?」
「この人は劣等感でも抱いていたのかしら。赤い竜の騎士に叶うはずなど無いのに可哀想に。あ、そうだ貴方」
 童女に笑いながら、魔女はアグロヴァル卿の元へと歩いて行く。アグロヴァル卿の体は動かない。
「手を出してもらえますか?」
「う、ぁ……」
「出してもらえますか?」
 恐怖で体が竦む。震える右手がゆっくりと差し出されると、魔女はその右手を掴んだ。ビクリと体が痙攣する。何をされるのか。圧倒的過ぎる力を見せつけられ、アグロヴァル卿の頭は真っ白に染まっていた。魔女はアグロヴァル卿の右手に何かを包ませるとその手を両手で包みアグロヴァル卿に笑いかける。いつの間にか、グリフレットの生首は魔女の足元に転がっていた。
「これ、ルキウス殿下にお渡し下さい。大事なものです。あぁ、そうだ」
 アグロヴァル卿の両頬を手で包み込み、瞳を覗きこむ魔女。
「駆けっこをしませんか? ゴールはカストゥール王国の王宮です。私は王様に会いに行きます。この人の首を持っていった方がいいですか? 貴方は先に到着して私の来訪を王様に伝えて下さい。私が先に着いたら、貴方の命は私が貰いますね」
 歌うように。囀るように。笑った。その深遠なる黒瞳にアグロヴァル卿は吸い込まれそうになる。魔女はその目を閉じ、アグロヴァル卿の唇に自らのそれを重ねるとまた笑った。
「さぁ、スタートですよ。始めましょう」
 ふふふ、と笑った。魔女が両頬から手を放すと、アグロヴァル卿は弾かれたように元きた道を逆走し始める。その背中が見えなくなるまで見送り、魔女は足元の生首を拾い上げるとその背中を追うように歩きはじめた。



 王宮に叫び声が響き渡った。泣き叫ぶようなアグロヴァル卿の声。玉座の間まで強行すると、アグロヴァル卿は玉座の間の赤いカーペットの上に倒れ伏した。
「ま、まに……まにあ、」
「どうした!? グリフレットはどうした!?」
 近くに居たパーシヴァルがアグロヴァル卿に駆け寄り問い詰める。国を横断するかのような距離を走りきったアグロヴァル卿の体は疲労困憊であり会話等出来る状態ではない。
「まじょ……まじょが、魔女が……!」
「あらあら約束通り私より先にゴールしましたね。偉いですよ」
 アグロヴァル卿の背後の空間から、生首が玉座の間へと放り投げられてきた。それがグリフレットだと分かるやいなや、玉座の間に戦慄が走る。
 一つも息を切らす事無く。魔女がアグロヴァル卿の後から玉座の間へと入ってきた。衛兵が魔女の足を止める為に殺到するも、魔女が拳を握る度に人が内側から爆発していく。モルド王への障害が無くなり、魔女は笑いながらゆっくりと玉座へと歩いて行った。
「待て!」
 パーシヴァルが魔女と王の間に割り込んだ。その手には剣が握られているが、その剣先は明らかに震えていた。
「止めろ。何が目的だ」
「私は世界の摂理を捻じ曲げようとする人間を粛清しに来ただけです。邪魔をしなければ貴方は生きている事が出来ますが……引く気は無いようですね」
 魔女は剣先を掴み、パーシヴァルに迫る。パーシヴァルの瞳は見開かれていた。
「……綺麗な青色ですね。弟さんとそっくりです」
 ニコリと笑うと、魔女はパーシヴァルの横面を強かに叩いた。本来女性から平手を食らえば大の大人は精神的に傷を負う事はあるだろうが、そのまま体を浮かせられ壁に叩きつけられる等誰も考えなかっただろう。壁に叩きつけられたパーシヴァルはずるずると床に沈んでいく。魔女はゆっくりと歩いて行き、玉座に座るモルド王の頭を鷲掴みにした。
「待ってくれ!」
 玉座の間に叫び声が響いた。魔女はチラリ、と視線だけ玉座の間の入り口へと向けた。入り口で倒れ伏したアグロヴァル卿を抱き、ルキウスが信じられないといった瞳で魔女を見つめている。
「あら、御機嫌よう騎士様」
「魔女殿……どうして、どうしてこんな事を」
「簡単な事です。世界の摂理として、魔法を会得していいのは私だけ。私以外のモノが魔法を使う事はこの世界のルールに違反します。だから、なんでしたっけ? その私の血が凝固したもの……エーテルでしたか? それを破棄していただきたいと最初に陛下に申し上げたのですが……受け入れられず。しかも私を殺そうと。詐欺師呼ばわりまでされました。最初からこの手段で出る事も可能でしたのよ? 陛下。私は一度チャンスを差し上げました。それを無為にしたのは他でも無い貴方達。私は一応、人間的、平和的解決を望んだのですが……陛下はそれでは足りないようでしたので」
 頭を鷲掴みにしている魔女の手に力が入ったのか、モルド王が苦痛の声を上げる。
「や、止めろ……」
「あら、これを望んだのは貴方でしょう? 貴方は一国の主として知っていたはずです。どのような形であれ魔法を会得すれば私に殺されてしまうと」
「き、貴様……」
「最初に書簡を送ったでしょう? どうしてその時に条件を呑まなかったのですか? それとも女一人どうという事も無いと言う事でしたでしょうか。残念でしたね。私は魔女ですよ。貴方達と一緒にして貰っては困ります」
 ふふ、と魔女が笑った。
「では、さようなら陛下」
「待ってくれ!!」
 またもや待ったが掛かる。魔女はまたかといった表情でルキウスに振り向いた。
「赤い竜の騎士よ……今の貴方ではまだ私を殺せません」
「何を言って……」
「赤い竜の騎士ですよ。貴方はようやく生まれた赤い竜の騎士」
「赤い竜……そうだ! 貴方は100年前、赤い竜と死闘を繰り広げたそうですね。ニヴァシュの山で。貴方はなぜ……赤い竜と死闘等……」
 魔女の頬がぴくりと動いた。
「その話は……陛下がお亡くなりになった後でもじっくりできますね」
「な、ま、魔女殿! 貴方は……えと、何者なんだ!」
 どうにか話題を逸らし、国王の命という興味を逸らさなければならない。それ以降も必死にルキウスが問いかけるも魔女はのらりくらりと躱すだけだ。その手はしっかりとモルド王の頭を掴んだまま。
「……え、と……」
「話は終わりですか?」
「ま、待ってくれ!」
「騎士様」
 魔女はルキウスを見る。その瞳には、悲しそうな光が宿っている事に気が付き、ルキウスは声を失くした。
「貴方は、本当に臆病者ですね」
 パチン、と。乾いた音を立てて魔女の指が鳴った。その瞬間、床に崩れていたパーシヴァルの体がみるみる内に干からびていく。ルキウスが目を見開いてしぼんでいく兄の姿を凝視する。
「パーシヴァル……兄さん?」
 小さくその名を口にする。そして、玉座の間に華麗な赤い華が散った。パーシヴァルから目線を玉座へと戻すルキウス。
 玉座に座っていたはずの陛下の首が、無かった。その代わり、玉座を中心として華のように赤い花弁が待っている。魔女は真っ赤に染まった自らの手を数瞬眺め、くるりと体の向きを変えて玉座の間の出口へと歩いて行く。
 呆然とするルキウスの横を通り過ぎていく魔女。ルキウスは力が抜けたようにただ見ることしか出来なかった。
「にいさ……ちちうえ?」
「……殿下」
 ルキウスが抱いていたアグロヴァル卿が口を開く。アグロヴァル卿の右手が上がる。ルキウスはその右手を握りしめた。
「アル……? アル!?」
「殿下……殿下は、本当に……お優しい……方だ」
 弱々しい声でアグロヴァル卿……アルは唇を震わせる。ルキウスは瞳から涙をこぼしていた。
「泣かないで、下さい。自分は……貴方に会えて……本当に、」
 ぴきぴきぴき、と音がする。アルの体が足元から石になっていた。ルキウスが首を横に振る。だが、その願いは聞き入れられなかった。
「……よかっ……た、」
 アルの体が全身石に変わったのはそんな瞬間だった。ルキウスが少し力を入れると、アルの体は見事に粉々に砕け散り、原型すらわからなくなってしまった。
「あ……あぁ、あ……」
 アルの亡骸を前に、ルキウスの体は震えていた。アルの体が砕けてできた砂の中から小さな袋が出てきた。ルキウスはそれを無我夢中で掴む。
「あ……うわ……あ、」
 喉が張り裂けんばかりに、ルキウスは絶叫した。どす黒い何かで、ルキウスの心が染まっていく。
 最早何も考えるなと、心も叫んでいた。
 気がつけば、ルキウスは腰の剣を抜き放ち魔女の後を追っていた。
 


 ゆっくりと。王宮に住む人間の恐怖を刺激するように魔女は歩いていた。異様に大きく響く魔女の靴音に、物陰に隠れる者達がびくびくと面白いように反応するのをことさら楽しんでいるように見えた。宮殿から正門へと続く巨大な階段をゆっくりと一段一段踏みしめるように魔女は降りていく。ふと、背後が騒がしいことに気が付きその歩みを止めた。
「お止めください殿下!!」
「貴方様まで失ってしまったら我が国は……!!」
「どけ」
 どす黒い怒りが背後で燃えているのが分かった。ゆっくりと振り向けば、そこには怒りに身を焦がす臆病者の騎士が一人。
「あら騎士様。臆病は治ったのですか?」
「……!!」
 言葉など不要とばかりに、騎士は石段を蹴り大上段から剣を振り下ろす。だが、見えない障壁で魔女にまで剣は届かない。
「言ったでしょう? 今の貴方では私を殺すこと等出来ない、と」
 魔女が手を振るえば、呆気無く騎士の体が石段に叩きつけられる。騎士はすぐさま立ち上がり、怒りに満ちた瞳で魔女を睨みつけた。
「今の貴方では私を殺せない。ですが……私に貴方を殺す理由も無い」
 魔女はそう呟いた。他の侍女や騎士達に羽交い絞めにされ、身動きが取れない騎士は魔女に噛み付こうとしている。魔女の呟きを聞いた者は居ない。魔女の指先が騎士に向いた。騎士の動きを止めていた者達の喉から引き攣るような悲鳴が上がり騎士を拘束する手が緩められる。
「お、お止め下さい!!」
 一人の侍女が、皆を守るように両手を拡げて魔女の前に立ちふさがった。魔女は少し驚いた様な表情で侍女を見る。
「あら……貴女は?」
「私は……ただの侍女です。ですが……この国に唯一残った宝を持ち去ることはどうか……どうか……お考え直し下さい……!」
 身を焦がすような恐怖がその身を支配しているだろう。だが、侍女は勇気を振り絞って魔女の前に立ちふさがった。震える声で。震える足で。震える指先で。震える体で、小さな体を懸命に大きく見せながら目の前の化け物から騎士を守る為、彼女は魔女の前に立ちふさがる。魔女の指先、いや視線一つで消滅することすら可能であること等百も承知のはずだ。それでも、国の宝とも言われた騎士を守るため、彼女はそこに存在していた。
 チラリ、と魔女は侍女の肩越しに騎士を見る。騎士の瞳は先程の怒りとは違い、焦りに似た色をしていた。
「止めろ……止めてくれニーナ!!」
「ダメです! ルキウス殿下はそれ以上前に出てはいけません! ここは……ここは私がお守り致します!」
 魔女は、小さく笑った。
「貴女は……勇気ある人ですね」
 おもむろに魔女の手が伸びる。ビクリと震える侍女の頬に触れ、魔女は微笑んだ。侍女の背後で騎士が叫んでいるが魔女は気にした様子も無い。
「何……を?」
「私は貴女が気に入りました」
 魔女の唇が侍女のそれと重ねられた。その瞬間、侍女の体から力が抜けたように石段に体が沈んでいく。
「何をした……ニーナに何をした!!?」
「貴方には勿体無い程の勇気をお持ちですわ。騎士様、彼女貰いますね」
 ニッコリと笑った魔女。騎士が自らを束縛する者たちをなぎ払い侍女の元へと駆け寄る。が、その前に魔女が腕を振るい、魔女と侍女の姿が一瞬に消え去ってしまった。騎士は手を伸ばすもそこには何も無い。虚空しか残らない場所に、騎士は崩れ落ちる。
 臆病者の騎士は泣き崩れるしか無かった。握りしめたのは親友が持っていた小さな袋。それ以外の自ら人間である事の証明と言える全てを、騎士は失っていた。



「……う?」
 侍女のニーナが意識を取り戻したのは、窓から木漏れ日が注ぐ小さな小屋だった。申し訳程度に敷かれた布の上に横たわっていたらしい。ニーナはガンガンとする頭を抑え、ゆっくりと立ち上がった。
「あら、お目覚めですか?」
「!」
 ビクッと体を震わせ、ニーナが振り返る。柔らかな笑みを浮かべた黒い髪の女性が居た。丁度外から戻ってきたらしく、その手には籠が抱えられ、籠の中には木の実やキノコ、山菜等と言った物が大量に収められていた。
「え……あ、え?」
「申し訳ありません。そんな粗末な場所で……今紅茶を淹れますのでどうぞテーブルに着いて下さい」
 やんわりとした言葉。お湯を沸かし、茶会の準備を始める女性。ニーナは唖然とした様子でそれを見ているだけだった。
「どうされました? 床がお気に入りなんですか?」
「え?」
「どうぞ、お座り下さい」
 微笑む女性。ニーナはそんな彼女に見覚えが『無い』様な気がした。誰だろうか。意識を失う前に出会った女性と容姿は似ているがとても同一人物には思えない。
 催促されるままにテーブルに着き、ニーナはぼんやりと女性を眺めていた。
 どこからどう見ても、あの時見た『魔女』だった。だが、纏っている空気は魔女と言うよりも町娘のそれに近い。
 紅茶や茶菓子等がテーブルに並べられ、本格的に茶会の様相を呈してきた。
「砂糖もミルクもあります。レモンの方がよろしいですか?」
「み、ミルクを頂きます……」
「はい、どうぞ」
 微笑みながら差し出されたミルクを紅茶に入れ、ニーナは紅茶を一口含んだ。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
「……って、紅茶に何か細工とかしてないですよね……?」
「命を奪うつもりなら既に奪っていますよ」
「あ……そ、そうか……」
 彼女の言葉に納得したのか頷くニーナ。ニーナはティーカップを掌で包み込み、紅茶の中を覗きこむ。
「あ、そうだ……まだ自己紹介をしていませんでしたね。私の名前は、ヘレナと申します」
「わ、私……は、ニーナ、です」
 魔女ヘレナがにこやかにそう告げれば、ニーナも釣られて名前を告げた。
「あ、あの……一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「はい。なんでしょう」
「私を……どうして殺さなかったんですか?」
「必要が無かったからです。それに、元々ルキウス殿下を殺すつもりは毛頭ありませんでした」
「え?」
「私の狙いはあくまで国王陛下のみでした。それでも、目の前に立ちふさがる方々が居りましたので仕方なしに……それに、ルキウス殿下を殺す事等私には出来ません」
 微笑むヘレナに、ニーナは呆気に取られていた。あんな圧倒的な力を持った魔女が殺せないとは、どういうことだろうか。
 ヘレナはニーナの考えでも読み取ったのかクスリと笑い、唇を開いた。
「ニーナ様」
 名を呼ばれ、ニーナがヘレナを見上げた。魔女の瞳は悲しそうに揺らいでいるのを見て、ニーナは言葉を失っていた。
「昔話を、聞いてくれませんか?」



「大昔……この世界は魔法で満ち溢れていました。魔法使い、という魔法を使って様々な事象を起こす者達が職業として成り立っていた時代です。世界は、平和とは程遠く。物凄く大きな戦争が起きていました」
「戦争……ですか?」
 ニーナの言葉に、ヘレナは微笑みながら頷いた。テーブルに視線を落とし、ヘレナは昔を懐かしむように唇を震わせている。
「その大きな戦争で……恐らく世界の七割の人間は死に絶えたと聞きます。その戦争は、魔法の研究が引き起こした戦争でした。人を生き返させる事が出来るとしたら、ニーナ様はどうされますか?」
「えっ……そう、ですね。亡くなった父を、生き返してもらうでしょうか」
「そうですね。もう一度会いたい方を蘇らせたい。その思いが、戦争を引き起こした引き金でした」
 悲しそうに目を伏せ、ヘレナは続けた。
「人を蘇生させる魔法は、決して戦争を引き起こそうと思って始まったものではありませんでした。寧ろ、世界が良くなるだろうと思って研究は進められていたんです。でも……それは禁忌でしかなかった。どうして禁忌とされたのか。私はあの時初めて思い知りました。私達人間は、人が手を出してはいけない領域に手を伸ばしてしまったのだと」
 まるで、その場で居合わせていたかのような口調だった。ニーナはそれが嘘とも思えず、事実なのだろうと理解してしまった。この魔女は、その大きな昔から生きているのだと。
「その時代には、まだ神が存在していました。戦争によって多くの人間が死に絶えました。ですから、神はそれを憂い魔法を封印することに決めたのです。そして、その魔法の封印の依り代として、私が選ばれた。私以外の人間が魔法を使用することを固く禁じ、私は人間であることを禁じられた」
「どうして……貴方が選ばれたのですか?」
「私が……研究の発案者だったからです」
 ヘレナは、唖然とするニーナに微笑みかけるだけだ。
「だから、これは私の罪。ヒトが魔法に手を触れる事を私は固く禁じた。それによって人命が失われるのだとしても、それによって更に多く失われる事を考えれば……四の五の言っている余裕はありませんでした」
 故に、相手が国王であろうと容赦はしなかった。いや、国王だからこそヘレナはあの暴挙に乗り出したのかもしれない。国王としての影響力の高さを考えて。
「私がヒトだった当時、恋を……していたんです」
「え?」
「当時、私がお仕えしていた国……カストゥール王国の第三王子……アルトリウス殿下という方でした。彼は、剣の腕はそこそこで。騎士として戦場に立つような人でした。戦場で殿下が亡くなったという報告を聞いた時、私は息が止まって死んでしまうかと思いました」
「……それで、人を蘇らせる研究を?」
「ふふ、馬鹿な女でしょう? 彼が居なくなることを……受け入れる事も出来なかった」
 自嘲気味に笑うヘレナ。
「私が人を蘇らせる研究をしている理由を神が知った時、神はあろうことか殿下を蘇らせてくださいました」
「えっ?」
「ですが蘇った殿下は……人の姿をしていませんでした」
 遠い目をしたヘレナの心境はニーナには窺い知れない。運命を呪っているのだろうか。未だに後悔しているのだろうか。ニーナには問いただすことも出来なかった。
「殿下の姿はウェルシュと言う名の赤い竜でした。神が差し向けた、私を唯一殺せる存在。赤い竜の力によって、私が死に、世界から魔法を失くす。それが神の計画でした。でも赤い竜は私を殺そうとはしなかった。寧ろ王国に散らばる村を襲撃したりし始めたのです。赤い竜は……ウェルシュには、既に理性等無かった」
 彼女の瞳から、表情が消えた。
「理性を無くし、国から恐れられたウェルシュは、次第に国から疎まれる存在となった。その時です。私と彼が、ニヴァシュの山にて死闘をする羽目になったのは」
 ヘレナの瞳には表情がない。それが、感情を抑えている為だとニーナは気が付いた。
「国からの要請で、私はウェルシュと戦うことになりました。ここで私が死ねば、全ては終わる。でも私が死んだ場合、ウェルシュはどうなるのだろうと思ったら、分からなくなりました。気がつけば私は……ウェルシュを自らの手で殺していたんです。おかしいですよね。蘇ることを望み、蘇らせることを考えて戦争まで起こしたのに。蘇った彼を、私は自分の手で止めを刺したんです。その代わり、私はウェルシュの爪を胸に受けて大きな怪我を負いました。ニヴァシュの山で絶え間なく流れる私の血はいつしか小川から河へと変貌していたのに、私の体は死を知ることはありませんでした。ウェルシュが亡くなったことで、ウェルシュの爪はその力を失い、結果私を殺す事が出来なかったんです。そのまま私が死ぬことが出来ていれば……もっと事態は違っていたでしょう」
 固唾を飲んでニーナは次の言葉を待った。
「その時流れた血がニヴァシュの山に染みこみ、恐らく貴方方の持つエーテルが出来上がった。採掘されるようになったのは最近と言って居ましたね。恐らく、結晶化が進んだのでしょう。この100年の歳月によって」
 冷えた紅茶を眺めながら、ヘレナはぽつりとそう言った。ニーナは言葉を失い、唇を噛んだ。
「あ、あの……」
「はい、なんでしょうか?」
「その……大きな戦争なんですが。私の記憶ではそんな大きな戦争があった事を記憶していません。それに……赤い竜だって、」
「消しましたから。人間の記憶から、書物等の記録から、全てを」
「……え?」
「人間が覚えていなくても良いことだと私が判断して消しました。私の魔法の影響を受けない赤い竜の騎士……ルキウス殿下は簡単にその記憶を思い出してしまったようですけれど」
 断言するヘレナ。ニーナはまたもや呆気に取られてしまった。ヘレナはまた微笑んでいた。
「愚かでしょう? 私」
「……でも、分からないでも、ないのです」
「………………」
「私だって……ルキウス殿下を失ったら、何をするか……」
 呟くほど、小さな声だった。ヘレナは冷えた紅茶を一口含み、また唇を開く。
「ルキウス殿下は……私を唯一殺せる存在なのです」
「えっ?」
「赤い竜が居なくなってしまっては、私を殺せる存在が居なくなってしまう。だから神は、アルトリウス殿下と同じ出自の人間に赤い竜と同じ力を備えさせて生み出した。でも、今の彼では私を殺せない。だから、私は私を殺せるよう彼にあれを渡したんです」
「ま、待って下さい! それじゃ、貴方は……!」
 焦るニーナ。そんな彼女にヘレナは、笑いかけるだけだった。
 ニーナの中でそれはあり得ないという思いが駆け巡るが、魔女はそれを否定して来ない。寧ろ肯定するように微笑むだけだった。ニーナは脱力したように椅子に深く腰掛ける。
「……どうして、そんな……」
「絵を描きたいんです」
「え?」
「約束したんです。アルトリウス殿下と。絵の描き合いをしようって」
 遠い瞳でそう呟いたヘレナに、ニーナは黙り込んだ。
 小屋の中に沈黙が舞い降りる。静寂の中、まだ片付けられていなかった絵筆がぽつんと寂しそうに床に転がっていた。



「ルキウス殿下はどうだ?」
「どうもこうもありません。まるで抜け殻です。目の前で父王、兄殿下、アグロヴァル卿を殺され、止めとばかりに心を許していた少女まで連れて行かれてしまいましたから。最初は狂ったように暴れていましたが、今は抜け殻のように動かなくなってしまいました」
「食事等は摂っているのか?」
「食べさせようと試みていますが、魔女が居なくなってからこの二日ほとんど物を口にしていません」
 部屋の外で、ルキウスを気遣う会話が聞こえてくる。確かにここの所何も食べていない。だが、体は衰えた様子も無い。ふと、右手が何かを握り締めている事に気が付いた。見てみると、アルが持っていた小さな小袋だった。中には何が入っているのだろう。口を開け、袋を逆さまにして振ってみる。すると、ゴトンという重い音と共に小袋の中から長剣が『落ちてきた』。
「……え?」
 燃えるような赤い刀身を持つ長剣だった。柄は黄金である。ルキウスは呆気に取られ、小袋の中を覗きこんでみる。特に対して変わった所は見られない。赤い剣を持ってみれば、初めて持ったというのに何故か既に何十年も手にしていたかのような手に馴染む感覚があった。それと同時に、何故か猛烈に懐かしい気分にもなる。まるで、旧知の仲にでも出会ったかのような。昔の自分を見つけたような。ルキウスは思わず笑ってしまった。そして、同時にその瞳からは涙がこぼれていた。
「あぁ……あぁ魔女殿……貴方は本当に、酷いお方だ。アルの遺品等では無かったということですか。酷いな。本当に酷いな」
 床に赤い剣を突き刺し、その剣の前で『騎士』のように片膝を着き頭を垂れる。
「……赤い竜の騎士。そんな使命等私には関係無い」
 ルキウスは言葉を吐き捨てる。
「古の使命等関係無い。これで貴方が殺せるのなら……私は復讐の為に剣を取る」
 床から剣を抜き放つ。
 復讐の為、そして大切なものを取り戻すためにルキウスは剣を携え部屋から出て行った。
 ルキウスの出現に官僚達は驚いたような表情であった。そんな彼らを無視し、ルキウスは宣言する。
「戦いの準備をせよ。私の甲冑を持ってきなさい」
「た、戦いの準備ですと……!? 殿下、いったい何を考えて……」
 あわてふためく官僚達を前に、ルキウスは確固たる意思を持った声で言うのだった。
「魔女を討つ」



 ルキウスは単身で最果ての森へとやって来ていた。森の入り口に立つと、初めて魔女と出会った日を思い出す。それほど昔ではないはずなのに懐かしいとすら感じた。森の入り口付近は荒野と化している。この荒野にて、ルキウスはペレアス卿を亡き者にした。
 単身で乗り込むと話した際、官僚達には断固として拒否された。無理もない。あんな化け物相手に次の国王になるべき人物が単身で向かおうと言うのだ。反対されるに決まっている。それでもルキウスは強行した。すべての反対を押しきり、復讐を遂げるためにやって来た。そして奪われたものを取り返すために。愚かだ。ルキウス自身もそれは理解している。自らが恐ろしいほど愚かだと。それでもルキウスは甲冑に身を包み、赤い剣を携えて魔女のもとへやって来た。
 ルキウスは森へと一歩進み出た。だが、また足を止めていた。背後に気配があることを察知し体ごと振り向く。
「……ニーナ、」
 奪われた少女が立っていた。そして、そのすぐそばに魔女も。
「ご機嫌よう、騎士様」
「る、ルキウス殿下……!」
「ニーナ! 魔女よ、彼女を離せ」
 ルキウスが怒気を含んだ声でそう言うと、魔女は少し悲しそうな目をしつつも頷いた。
「そのように怒らずとも、彼女はお返しいたしますわ。用は済みましたので」
「用、だと?」
「殿方にはとても言えることではありませんわ」
 ふふふ、と笑う魔女。ルキウスは腹立たしげに赤い剣を抜き放つ。
「どういう意味だ! 何をした!?」
「そのように怒鳴っては、ニーナ様が怯えてしまいますわ」
 ぽん、と魔女がニーナの背中を押した。ニーナは躊躇いがちに魔女に振り返った後、ルキウスのもとへと走ってくる。
「殿下!」
「ニーナ!」
 ルキウスは駆け寄ってきたニーナを力一杯抱き締めた。ニーナもそれに答えるかのように抱き返す。
「ニーナ……ニーナ、」
「……殿下」
 涙を流してニーナの無事を喜ぶルキウス。そんなルキウスを見て、ニーナの目尻にも嬉し涙が浮かんでくる。
「私のような侍女にまで……本当に、殿下はお優しい方です……」
「ニーナは家族同然だ。当然だろう?」
 抱き合う二人に、魔女はなにもしてこない。不振に思ったルキウスが魔女を睨み付けた。
「まぁ怖い。微笑ましく見ていただけですのに」
「父を、兄達を、友を殺した存在を、私は到底許すことなどできない! 魔女ヘレナよ! 私は……貴方を討つ!」
 剣を掲げ、ルキウスは魔女を睨む。魔女はそんなルキウスを微笑ましく見つめるだけだ。
「復讐に身を投じて戦いに来たのですか?」
「なら、父上や兄さん達……アルを返してくれ! 私は……」
「そう……浅はかで大変愚かな考えですね」
「ッ!」
 ルキウスは踏み込んでいた。上段から魔女を斜めに切り裂く。魔女は血を流しながら大きく後退していた。
「仕損じたか」
「良い太刀筋ですね……見えませんでしたよ」
 傷を抑え、魔女は地面に踞る。ルキウスが止めを指すためにまた踏み込んだ。
「待ってください、殿下!」
 ルキウスと魔女の間に割り込むようにニーナが立ち塞がった。まるでこの前の逆である。ルキウスは驚きつつその剣を下ろした。
「退くんだニーナ……魔女を許すわけにはいかない」
「そうですよ、ニーナ様。私は殺されるために、」
「そんな話ではありません」
 悲しそうな目でニーナは二人の言葉を遮った。
「殿下。復讐で剣を取るのはお止めください」
「ニーナまでそんなことを……!」
「復讐は何も生みません。恨んでもいい、憎んでもいいです。でも、復讐を理由に剣を取るのはお止めください!」
 泣きながら、ニーナは訴える。ルキウスの胸に顔を埋めながら、ニーナは言葉を吐き出していた。
「復讐は……何も生みません。復讐で人を殺しても、貴方は後で後悔するだけです! そうやって、また一人で何かを背負うのは止めてください!」
「、! ニーナ、」
「貴方は優しい方です。きっとこの方を復讐で殺したら後悔して、泣いてしまう。そんなのは……そんな姿は、見たくないのです」
 涙ながらに訴えるニーナに、たじろくルキウス。いつしか、その手から剣がこぼれ落ちていた。
「あ、」
「ひっく……殿下、私は……貴方にお仕えした時からずっと……お慕い申しておりました」
「え?」
 ルキウスは何を言われたのか分からず、不思議そうな瞳でニーナを見た。
「そう、その顔です。気が付いていなかったでしょう? そんな、いつものルキウス殿下を私は……ずっとお慕いしていました。貴方に怒りは似合いません。だからどうか……どうか、怒りを沈めて下さい。復讐等で剣を取らないで下さい」
「……ニーナ、!」
 唐突に、ルキウスが動いた。ニーナを守るように。ニーナの背後から飛来した何かをとっさに剣を拾い上げ弾き返す。そして、ニーナに指先を向ける魔女へルキウスは走った。
「殿下!」
 ニーナの声を無視し、魔女へと肉薄する。魔女はふわりと空中へと浮かび上がるもルキウスは地面を蹴り魔女を追う。魔女へと剣を突き立てるようにルキウスが剣を降ろす。魔女を覆う障壁が突き立てられる剣を遮った。だが、赤い刀身は障壁へぶつかるとガラスを割るように障壁を突き破る。
「っ!」
 魔女は危険を察知して風を巻き起こしルキウスの体を吹き飛ばした。吹き飛ばされたルキウスは地面に叩きつけられる直前で体勢を立て直し左手の盾を構える。その瞬間にルキウスを追撃していた魔女の炎弾が盾に直撃して霧散していた。
 ニーナはハラハラとした面持ちで二人の戦闘を見つめる事しか出来ない。
「殿下……ヘレナ……さん……」
 祈るように胸の前で手を組み、ニーナはその戦いを見守っていた。
 繰り返し出される炎弾を避け、盾で受け止めつつルキウスは徐々に魔女との距離を詰めていく。魔女はそんな騎士に向かって油断なく炎弾を放ちつつ心中で苦笑した。
「人身爆破は赤い竜の抗魔力もあると効かないものですね……」
 握っては開き、握っては開きを何度も繰り返している左手は虚空を握っているだけだった。あんなにも多くの人間を殺した爆砕の魔法はルキウスに一切効いていない。恐らくルキウスとしては誰かに手を握られている程度の感触しか無いだろう。本当は心臓を掌握し心臓を爆弾として起爆して人体ごと爆砕する魔法なのだがいかんせん魔法に対しての抵抗力が無いモノに対しては絶大な力を発揮するが魔法に対しての抵抗力が高いルキウスにはそもそも効かない。その為直接攻撃に切り替えざるを得ないとして炎弾での攻撃を行なっているのだが、その攻撃ですら易々と攻略してくる辺り、
「流石は赤い竜の騎士、と言ったところですか」
 苦笑せざるを得ない。魔女は爆砕を諦めて騎士の足元から竜巻を巻き起こした。
「!?」
「殿下っ!」
 上空に巻き上げられるルキウスに短い悲鳴を上げるニーナ。ルキウスはされるがままに巻き上げられるだけだ。鋭い風に切り刻まれるのでは無いだろうかとハラハラしながらニーナが見上げているが、ルキウスの断末魔は聞こえてこない。
「えっ?」
 明らかに、魔女が動揺した声を上げた。ニーナはその声に反応して魔女を見る。魔女は驚愕に目を見開き巻き上げられたルキウスを見上げているだけだ。
 竜巻は既にルキウスが見えなくなるほど高く巻き上げている。それでも、魔女は騎士を見上げた。信じられないと言った表情で。
「そんな……風を、」
「ヘレナさん……?」
「風を、”蹴る”だなんて……!」
 魔女の悲鳴じみた声が上がる。
 確かに、この戦は負けるつもりで魔女は挑んだ。でもただで負ける気は無かった。しっかりと戦うことが騎士への礼儀だと彼女は”殿下”から学んでいる。故に手を抜く気も無かった。本格的に殺すつもりで殺意はあったのだ。それでも、それだけは考えていなかった。
 飛来するは騎士。いや、飛来ではない。あれは単純な落下だ。視野に入って認識した時には既に遅かった。
 上空から落下する騎士は垂直に立てた剣の切っ先を下げ、一直線に魔女目掛けて落ちてくる。
 轟音と共に地面に叩きつけられた魔女。彼女の体の中心部には見事に赤い刀身が突き刺さっていた。
「、殿下……?」
 少女が声を掛けるも騎士は剣の柄から手を離そうとはしない。剣によって地面に縫い付けられた魔女が血を吐きながら笑った。
「貴方は……本当に……臆病なのです、ね」
「………………私、は」
「私は、貴方の……仇、なのですよ……どうして、」
 どうして、と魔女は繰り返していた。少女は騎士の元へと走った。騎士の背中は小刻みに震えている。落下の衝撃は騎士にも大きなダメージを与えていた。証拠に彼の脚甲が砕かれてしまっていたのだ。だが傍に寄る前に少女はその脚を止めていた。
「殿下……」
「どうして……どうして私は、!」
 声を荒げる騎士に、魔女は尚も笑っていた。
「臆病……いい、え……こふ、貴方は本当に、お優しい方」
 微笑む魔女。頬に触れようとした手が滑り落ち、魔女は事切れた。少女はゆっくりと騎士の元へと歩いて行き騎士の傍に寄り添った。程なくして、魔女の体が砂となり風に舞い散っていった。騎士が持っていた剣もゆっくりと刀身から燃えていき、ゆっくりと灰になっていく。
「私は……私、は」
「殿下」
 騎士は少女を無我夢中で掻き抱いた。溢れるものを止めようとするように。少女はそれに応えるだけだ。
「殿下。貴方の作る国はきっとお優しい。とても優しい国になるでしょう。えぇ、きっと」
 子供をあやすように背中を撫でる少女。騎士は何かを抑えこむように少女を抱きしめる。母に縋る怯えた少年のようだ。仇敵を倒したというのに騎士の瞳からは何かが溢れていた。



 カストゥール王国の各地で、異常なことが起きたという報告が上がっていた。曰く、使用していた『エーテル』が溶け出して赤い液体になった、と。液体と化したそれには既になんの効力も無くなっていたと言う。ある場所では明かりがわりに使用している最中に光が消え、赤い液体が降ってきた。ある場所では調理用の火を着けようとしたところ液体になって使えなくなってしまった。そして、玉座の間の片隅に落ちていたモルド王の王冠はエーテルが溶け出し、まるで王冠が泣いているように見えたと言う。王冠はしばらく使用されていなかった由緒正しき蒼い宝玉が埋め込まれた王冠が使用されることになった。そして戦争の種として存在していたエーテルが失くなった途端、戦争は唐突に終了した。完全に平和になったとは思えないが、少なくとも戦争の無い時代はカストゥール王国に訪れていた。
 魔女に関しては恨んでもいる。憎んでもいる。あのとき泣いた理由はいまだに分からない。こうして王位を継いだ今でもルキウスには分からなかった。
「父上、お呼びでしょうか」
 趣味の絵画に勤しんでいる最中、呼びつけていた息子が姿を表した。
「おお、来たか」
 王は筆を水に浸しながら息子を出迎える。息子は呼びつけられた理由が思い付かないのか、恐々とした様子で王を見ていた。
「記憶を継ぐのが人と言うものだ」
「え?」
「お前も良い年になったからな。昔話をしようと思ったんだ。座りなさい」
 でもこれは、彼の復讐だった。
「さて、昔々」
 人に、記憶していなくても良い記憶など存在しないことを証明する為に。

「最果ての森の奥には、魔女が住んでいた」
雨漏そら
2013年08月09日(金) 20時39分06秒 公開
■この作品の著作権は雨漏そらさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初投稿になります。
こういった所に投稿するのは初めてなのでとても緊張しています。お手柔らかにお願い致します……。
最後まで読んでくださった方には感謝しても仕切れないです。ありがとうございました。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  ピンキー  評価:0点  ■2014-05-20 21:02  ID:nRE0X.ACetE
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とりあえず序盤文章の気になったところだけ。

:涼やかな甘さを持った声が耳に入り込み、びくりと体を震わせてそちらを見た。
 そちらとはどこ? 後ろなのか横なのか。声の方向がわからない。

:手には籠を持っており、山菜や木の実が籠一杯に詰めてあった。
 『籠』が二重に書かれている。「山菜や木の実が一杯に詰めてあった。」の
  ほうがいいかも。

:キラキラとした童女のような笑みに、彼は言葉を失っていた。
  魔女の描写の際に身長や体の大きさなどがなかったため、魔女の歳がわからない。(童女のよう〜ならば、実際は高校生くらいの年齢?)
 
:自称魔女の女はそんな声を聞いてさらに苦笑を強めている。
 「魔女」と「女」の二重表現。「自称魔女」だけでよい。

:声からして男性であると特定できるが
 「男の声」という情報に加えて声の特徴を書くと、男の印象が更にわかりやすくなる。

:それ以外の彼の要素は殆ど甲冑に包まれていて分からない
 背丈の描写があるといいかも。それか声の特徴をここに入れるか。

:上等な甲冑姿から何らかの騎士であることは想像に難くないだろう。
 何らかの騎士、と言われてもわからない。名のある騎士や、お金持ちの騎士などの具体的な描写がほしい。

:無残にも腹回りに巻きつかれ、枝から垂れ下がっている。
 「無残」という言葉はこの情景からは合わせにくい。
 前の文に合わせると、
 『そんな甲冑の体は、大樹から伸びる蔦が腹回りに巻きつき、枝から吊り下げられている。』
 これだとすっきり?

:「久しぶりにお話出来る人に巡り会えたんですから蔦位使いますよ〜」
 「位」を「くらい」とひらがなにすると漢字が連続せずに読みやすい。

:ううう、と肩を震わせる魔女に、オロオロし始める甲冑騎士。
 蔦につかまっているのにオロオロ? うろたえる〜とかの表現がいいかも。

:そんな甲冑騎士に、魔女は温和そうな表情を浮かべて声を掛ける。
 同じ段落内で変わり身が早すぎる。途中にカットをはさんでは?

他にも脱字や、視点の急な切り替えなどがあるが割愛。

残りは後ほど時間があれば。
No.3  白星奏夜  評価:30点  ■2013-09-12 17:32  ID:dbLoPNFyZTM
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こんにちは、白星と言います。拝読させて頂きました。

魔女のキャラが良かったです。見た目や物腰の裏に、深い内面がある。というのは、何か惹かれてしまいますよね!

読んでいてちょっと思ったことがあるので、書かせて下さい。偽名のくだりなんですが、なくても良いかな、と感じました。一瞬、誰が誰やら判然としなくなる印象を受けました。重大な伏線であれば、残す必要がありますが(もし伏線でしたらごめんなさい)

あと、エーテルがなくなった後のくだりももう少し知りたかったです。戦争はなくなったものの、頼っていた資源を失えば国中が大混乱となり、新たな火種を生みそうな気もするのです。

と、余計なことを書きました。お気を悪くされたら、すみません。
丁寧に描写をされていて、私もきちんとしないとなあと反省させられました。ではではっ!
No.2  雨漏そら  評価:--点  ■2013-08-11 01:39  ID:WAtH2opLO8M
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ざわちゅーさん

感想ありがとうございます!
魔女の描写は一番楽しんで書いていたのでそう言っていただけて嬉しいです。
文章の長さに関しては長いのか短いのか自分で良く分かっていなかったのでそう指摘して頂けて嬉しいです。ありがとうございます。
No.1  ざわちゅー  評価:30点  ■2013-08-10 23:01  ID:akYfucQkqCc
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作品、読ませていただきました、魔女の乙女心と簡単に殺人をするドライさが面白かったです

全体的に細かく描写してあってよく雰囲気を伝えてくるのですが、ちょっと文章が長くなりがちな気がします
総レス数 4  合計 60

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