その熱
 街の喧騒(けんそう)が遠い。
 森の中、現代から隠れるようにひっそりと建つ洋館は、赤レンガで組まれた外壁には緑のツタが這い、どこか人々に忘れ去られたような雰囲気を持つ。
 その洋館に今、ピアノの調べが流れいた。
 柔らかな午後の日差しが差し込む音楽室で、ユウキという少年が一人グランドピアノに向かっていた。顔立ちの整った少年で、少し線が細く、まだ大人になりかけていない印象を見る者に与える。
 眠りを誘うゆったりとした調子の曲だった。それでいて、和音の中に巧みに不協和音が交わることによって、眠られそうで眠られない曲になっている。例えれば、それは午睡のよう。眠りに落ちる直前のような心地よい感覚を聴く者に与える。
 音楽室に一人の女性が入ってきた。外見は二十歳前後。名前はサヨイと言う。黒いワンピースに白いブラウスを合わせ、両腕には二の腕まである黒い長手袋をはめていた。背中までまっすぐに伸ばされた黒髪は黒漆のようにつややかで、瞳は夜の湖面を想起させるように青かった。小宵(さよい)という名前通り、夜を連想させる容姿をしている。全体として、細身でありながら女性らしい柔らかさを併せ持っていた。
 ユウキの姿を認めると、サヨイは壁際から椅子を持ってくる。
 サヨイは、両腕の長手袋を外し、ユウキの右隣に座ると、顔にかかった髪をかきあげた。
「ユウキ。いっしょに弾きましょう」
「いつもの?」
「いつもの」とサヨイは鈴を転がしたような軽やかな声音で答える。
 ピアノ連弾。モーツアルト作曲、四手(よんしゅ)のためのピアノソナタ。
 鍵盤の上を四つの手が楽しげに踊る。
 軽快な曲だった。右側に座ったサヨイが高音部を、左側に座ったユウキが低音部と長音ペダルを担当する。サヨイの弾むような高音は主旋律を奏で、それをユウキの弾く低音が補う。二人には楽譜は不要だった。どちらとも、すでに手が覚えている。ユウキとサヨイは演奏しながら、時に視線を合わせ、時に笑顔を交わした。二人の気持ちが通じ合う。
 至福の時間だった。

 第一楽章が終わった。
 およそ八分間の演奏はユウキにとって最も大切な時間の一つだった。二人の意思が一つに重なったような感覚とでも言えばいいだろうか。
 鍵盤の上に置かれていたサヨイの手にためらいがちにユウキの手が重なった。
 戸惑ったようにサヨイはユウキの手から逃れて席を立つ。そのまま何も言わずに部屋を出ていこうとするサヨイの細い体を、ユウキは後ろから抱きしめた。
 ユウキはもう十四歳。
 十年前は、この子はちゃんと大きくなれるだろうかと周囲を心配させるほど細かった。それが今はゆっくりではあるが確実に大きくなったのだと、抱きしめられたサヨイには分かった。
 サヨイは自分を見つめるユウキの視線に気づかなかったわけではない。気づいていながら気づかないふりをしていた。サヨイは怖かった。自分を想うユウキではなく、いつかユウキを受け入れてしまいそうな自分自身が。
 ややあってサヨイは小さな声で、
「……離して」
 とユウキを拒絶した。
 ユウキがためらいがちにサヨイを離す。
 ゆっくりと二人は向き合った。
 二つの視線が重なる。
 ユウキは真剣な眼差しで。サヨイは苦しげな眼差しで。
「私は貴方の母親なのよ。母親に恋をしてはいけないの」
「そんなこと分かってるよ! でも僕は!」
 ユウキは最後まで言わせてもらえなかった。
 ほおに軽い衝撃。
 サヨイが初めてユウキに手をあげた。
 ユウキが顔を上げた時、サヨイはまるで自分がほおを叩かれたような顔をしていた。
「叩いたりしてごめんなさい。でも分かって。私は貴方の想いには応えられない」
 サヨイの口調は半ば自分に言い聞かせるようだった。

 その夜、ユウキとサヨイは休むことにする。
 昼の出来事をやはり忘れられないのか、サヨイは伏せ目がちにユウキに約束することを求めた。
「約束して。何もしないって」
「うん……約束するよ」
 絹の天蓋(てんがい)付きベッドでいつものように二人は手を握って眠った。
 ユウキの熱をサヨイは分けてもらう。
 それは、自動人形であるサヨイにとって生きるために必要なこと。
 自動人形は人の温もりから離れては生きていけない。

 ユウキは夢を見た。
 あれは実の母を亡くしたばかりの頃。父が人形師から一体の自動人形を買ってきた。母の代わりにしろ、と父は言った。それがサヨイだった。
 サヨイは、膝を折って目線を合わせると、幼いユウキに微笑みかけた。
「よろしくね、ユウキ」
 あの頃からサヨイは美しいまま。
 ユウキにとって、初めて出会った物が最高の者となった瞬間だった。

 身支度を整えたサヨイはベッドの端に腰かけ、身を折るようにして、眠っているユウキの顔をのぞき込む。
 ベッドがぎしりと鳴った。
「愛してるわ。でも貴方はこれ以上、私といっしょにいてはいけない」
 この恋は自分たちを狂わせてしまうから。
 そんな独白がサヨイの口から漏れた。
 サヨイは、右腕の長手袋を外すと、ユウキの唇を指先でなぞる。
 そしてサヨイは、彼女の心を構成する楽譜に反する行動をとった。
 そっと唇に唇を重ねた。
「サヨイ?」
 その瞬間、ユウキは目を覚ました。
 ユウキの意識はまだ夢と現をさまよっている。
 それなのに唇の感触だけは鮮明だった。
 サヨイはユウキの髪を二度三度と優しく撫でる。
「眠りなさい」
 ユウキは何故か、また眠くなった。
 再びユウキが目を覚ました時、サヨイの姿はどこにもなかった。
 寝室はもちろん、書庫、音楽室、応接間、客室のいずれにも。
 別れを感じてユウキは叫ぶ。
「サヨイ!」
 呼ぶ声はあれども答える声はない。
 時刻は明け方だった。
 空の端が白い。
 ユウキは唇にまだサヨイの熱が残っているかのような錯覚を覚えていた。サヨイは自動人形。熱などないはずなのに。
 けれどユウキは、錯覚であってもいいから、その熱をいつまでも心の中にとどめておきたかった。
 不意にピアノの高音が鳴った。
「サヨイ?」
 ユウキは音楽室に走った。
 そこにサヨイの姿はなかった。代わりに、どこからか迷い込んできた猫が鍵盤の上で戯れるように遊んでいた。その猫は、夜を連想させるように黒かった。
 黒猫は、抱き上げようとしたユウキの手から逃れ、椅子に移動すると、何を思ったか前足で顔を撫でた。まるで長い髪をかきあげるように。
 黒猫がまた鍵盤の上に飛び乗る。
 ユウキは黒猫の奏でる高音に合わせるように即興でピアノを弾き始めた。
クジラ
2013年03月25日(月) 16時56分41秒 公開
■この作品の著作権はクジラさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
練習用の短編です。

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No.1  尾方  評価:30点  ■2013-04-22 22:53  ID:wxwaeJFv2JA
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感想です。
禁断の母子モノか! と思いきや、お得意の……でしたか。
ラノベ的に雰囲気は良いと思うんですが、どうにも、特に前半、文章てらい過ぎでしょう。技巧を懲らそうというのは良いんですがあざとさを感じさせてしまうと逆効果です。
もう少し狂おしい背徳観を醸せると良かったのになと思いました。
総レス数 1  合計 30

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