月を見る者
森は眠らない。
 そんな戯言すら信じてしまいそうなほどに、夜の森は喧騒に包まれていた。
 虫、鳥、その他の動物……あるいは森そのもの。あらゆる方向から、生きとし生ける全ての息遣いが、研ぎ澄まされた私の神経を叩く。
 森は人を生かし、同時に命を狙っていると父から聞かされたことがある。その意味が、近頃ようやくわかってきたような気がする。
 ……父は、もういない。
 私はただ一人、ひたすらに進んだ。前へ前へ、『月を見る者』に会いたいが為に。


 無造作に生え茂ったタケヤシをかいくぐった頃には、私の体は傷だらけ。
 それでも『月を見る者』を発見できた喜びと安堵は、全身を包む痛みと疲労を瞬時にして忘れさせた。
 黒くたなびく髪、同じく吸い込まれるような漆黒の瞳。私が持つような青い髪、真紅の瞳とは明らかに異なるその容貌。まるで森の深遠に溶け込むようで、星々のきらめきを一身に吸い込むようで……。
 彼はいつものように月を眺めていた。か細い体を大地に根ざすが如くしっかり立たせ、どこか物悲しげな表情で……星々の海を仰いでいた。
「こんばんは」
 私はゆっくりと歩み寄りつつ、ひそやかに声をかけた。
 呼応するように彼は振り向く。私が近づくのにいつから気づいていたろうか、それはわからない。でもその動きは迷い無く、驚きも無く、私の来訪を予見していたかのよう。
「こんばんは」
 にこやかな返答。涼やかな風が私の火照った頬を撫でた。
「一緒に食べない?」
 私は手にした麻の袋を差し出した。中にはパンと干し肉と、苦労して手に入れた肝油のヌガーが入っている。
「いらないよ。それは君が食べることだね」
 私も、その答えを予見していた。ここに通いだしてから、彼が食べ物を受け取ったことは一度も無い。
「あなたはずっと、何も食べずただそこに立っているだけ。これまでも、きっとこれからも。それは幸せなことなのかしら」
「僕はここに立ち、月を眺めているだけで人生の充足を感じられる。それはとても幸せなことだ。そうは思わないかね」
 この場所は、私が小さい頃によく遊んだ森の広場。
 私はここが本当に好きだった。月が一番綺麗に見える場所だったから。
 隣にはいつも、父がいた。それなのに……。
 戦いが父を奪い去った。彼はにこやかに家を出て行った。健康な男が皆そうなるように、国のため兵として徴用されていったのだ。
 父の出兵後、奉公に出された先で、私は彼の訃報を受け取った。
「私もずっと、幸せに浸っていたかった」
 吐き捨てるように、私は言った。図らずともその言葉には怒気が含まれた。
 戦いは私から幸せを奪った。ただ一人の家族の死、どうしようもない現実との邂逅。大いなる流れに放り込まれ、日々の糧を得るため必死に生きる毎日。
 そして、戦火は再び迫りくる。隣国がこの国に攻め入るのは時間の問題だと、人々は囁きあった。私のような平民の耳にすらその噂が届く現状、情勢が逼迫しているのは明らかだった。
 もし本当にそうなったら? 身よりも無く一人で生きる私はどうなる? 誰が私を助けてくれる? 
 私は『月を見る者』の隣に座り込んだ。彼は微動だにしない。ひょろ長な体型も相まって、まるで小さな木陰に座った気分。
「いらないなら、全部食べちゃうよ」
「どうぞお食べなさい。僕には必要の無いことだ」
 お言葉に甘えて。とばかりにまず、パンにかじりついた。硬くてパサパサ。味もほとんどしない。
 パンを噛みながら、干し肉を食いちぎった。
 うんざりするほど強い塩気が、味の無いパンとうまい事調和しする。一噛みごとに旨みが滲み出し、するりと胃に収まった。
 次いで肝油のヌガーを一かじり。栄養の塊というだけあり、実に『効きそう』な味がした。身体的拒否反応を押さえ込み、私はどうにかそれを飲み込んだ。
 以上のセンテンスを繰り返し、持ち込んだ食料は全て私のお腹に収まった。
「いやはや、毎夜のことながら良い食べっぷり」
『月を見る者』は見るべき月から目を離し、お腹を押さえる私をジロジロ見やる。
 これは毎夜の繰り返しだ。実際のところ私は彼が『食べない』ことを理解してるし、その理由も知っている。
 実質、自分用のお弁当としてこれらの食料を持ち込んでいるわけだ。そもそも、他人に施しを出来るほどの余裕は私には無い。
「……月、一緒に見てもいい?」
 デリカシーの無い彼のからかいをかわし、私は空を見上げた。
「もちろん、どうぞ」
 今宵は満月。運よく、雲ひとつ無い晴天だ。
 月明かりはやわらかく広場を照らす。その青白い光は、暴力的な日中の日差しに反し、優しくて、なんとなく冷たい輝きを地表に落としている。
 私は満月が好きだ。煌々と夜空に浮かぶ様を見ていると、辛い現実を忘れさせてくれる。大地に生きる者にとって等しく遠い、どんなに手を伸ばしても決して届かない、白銀の宝球。
「『月を見る者』……あなたに名前は無いの?」
 ぼんやりと空を眺めつつ、私は呟いた。
「僕に名前はない。必要とも思わない。君はどう思う、レミ」
「あなたがそう思うなら、きっとそうなんだろうね」
「僕は月を見るために生まれてきた。ただ、それだけだ」
 月明かりに照らされた彼の横顔は、どこか寂しげだった。ただ月を見上げるだけで終わる人生、それは本当に幸せなのか。
 私も彼も、望まぬ人生を送っている点では同じではないのか。
 私は彼から、何を受け取ったというのか。
 彼に対し、私は何をしてあげられるのだろうか。
 思案に暮れた末、私は立ち上がり、彼を見上げた。
「私と共に……でしょう?」
 彼の顔をそっと寄せ、口付けを交わした。
 その味はほろ苦く、交わされる感情はどこか哀しく。
「今夜はずっと一緒に過ごそう。こうやって過ごせる夜がいつまで続くかわからないから、せめて今だけは……」
 そう囁くと、か細い指が、私の髪に優しく添えられた。
「君は今、幸せなのかい」
 黒く潤んだ瞳が、私をじっと見据える。
 私はこみ上げてくる涙を抑えながら、応えた。
「うん、とっても」



 夢の中で、幼い私が無邪気に駆け回っている。父も一緒だ……。
 父は騒々しく駆け回る私をよそに、広場の真ん中に種を植えている。
『レミ! おいで』
『うん?』
 トコトコと駆け寄る私。
『ここから見るお月様はとってもきれいだね』
『うん! とっても!』
 父の手に抱かれながら、穢れを知らない紅い瞳が夜空を見上げる。
『レミ。もしかしたら、もしかしたらだよ? こうやって、一緒に月を見れなくなったりしたら……どう思う?』
『……そんなのやだ!』
 父はしばし沈黙した。固く結ばれた口は、己の未来を予見しているように見える。
『レミ。僕はもうじき、いなくなる』
『……なんで?』
『なんでも。でも、代わりはここにいる』
 父は、埋め直した土を指差した。
『なにこれ』
『月を見る者』
『なにそれ』
『月を見る者……さ』
『わけわかんない!』
 幼い私はそうして、父のこぼす涙にも気づかず、食って掛かった。
『レミ!』
『うん?』
『もしかしたら……この先、辛いことがたくさん、たくさんあるかもしれない。でも、お月様のきれいさだけは、忘れてはいけないよ』
『……うん』
 二人は寄り添いあい、いつまでも月を眺めて……。



 目を開けると、眩い陽光が私を包んでいた。いつしか月は去り、代わりにきらめく朝日が昇り出ていた。
 傍らでは『月を見る者』が眠りに落ちていた。私はその幹を、広がる緑葉を見やり、硬い表皮をそっと撫でる。
「お互い、大きくなったね」
 あれから10年。実に立派に育ったものだ。細く、頼りなくも見えるけど、彼はしっかりと大地に根ざし、息づいている。
「行ってくるよ」
 私は手を振り、歩き始めた。
 これからどんな困難が待ち受けようと、私は大丈夫。
 だって、共に月を見る者がいるのだから。
火桜
2017年03月21日(火) 22時45分27秒 公開
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No.1  青山天音  評価:40点  ■2017-06-28 23:52  ID:/fncIzBLVeM
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火桜様
拝読させていただきました。
僭越ながら感想を書かせていただきます。

一読して、とても不思議な世界観が表現されていると思いました。
一枚の絵画をその背景にあるモデルを知らずにだただた眺めているような感覚に陥りました。

青い髪に真紅の瞳という、レミの人間離れした容貌。
「月」や「麻」などがあることから地球上の話とも思えるのだけど、もしかしたら違うのか?
一体なぜ、何を相手にしているのかもわからない戦争という状況。
なによりも、植物とも動物ともつかない「月を見るもの」の存在。
(父親が「種」を植えたとあるのでやはり植物なのでしょうか…?)

いずれにせよ、具体的な説明がないところが、世界の輪郭をふんわりとさせて、想像の余地を含んだ幻想的な雰囲気を醸し出していると思いました。

ただ唯一、主人公のレミは生の人間らしい感覚を持っていて(食事のシーンはとても興味深かったです)、彼女をとっかかりにして私なりに作品を読み通すことができました。
全体に悲しい空気に包まれている中で、「月を見る者」の周りに漂う、時を超越したような穏やかで安らいだ雰囲気が素敵だなと思いました。

書き散らしてしまい申し訳ありません。
ご参考になれば幸いです。
総レス数 1  合計 40

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