『彪〜Age13〜 お姫様との大冒険1』 『無間邪術』編
プロローグ 『玉雲城』と彪
 ……ここは、『天地界(てんちかい)』。
 この宇宙を作った『天帝』の落胤を休ませるための、地球上にある特別な島。
 島には『天人』のほか、『巫覡(ふげき)』と『人間』が、修行のために住んでいる。
 このお話は、ひどく昔。この島の文明開化の結果生まれた国々の中の一つ、『玉雲国(ぎょくうんこく)』の城内で起こる話。
 主人公は『巫覡』と、『巫覡』の最高位を務める『斎姫(いつきひめ)』の、二人。
 その年の差、なんと十一。しかし、『『気』の相性度は抜群』の二人の、冒険が始まる。
 ……語っていこう。

白点(はくてん) 彪(ひゅう)は、玉雲城内にある占天省(せんてんしょう)の、自分の仕事部屋の文机で居眠りをしていたことに気がついて、
「いけない、またここで寝てしまった」
と、つぶやいた。
 占天省というのは、王宮の『巫覡』や占術師などを集めた省なのだが、各個人の修行のやり方が違うこともあり、一人ひとり別々の部屋が与えられている。その個室で、それぞれ、修行をしたり、『術』を磨いたりするわけだ。
 彪は、もとは庶民の出の、街の『巫覡』で、最近占天省に入省したばかりの、下っ端のはずなのだが、彼の『術使い』としての名が城下町じゅうに知られているため、わりと高待遇で占天省に迎えられ、こうして個室も与えられているのであった。
 しかし、どうも、個室というのは、他人の眼が気にならない分、気も緩む。夜中じゅう『術』の練丹に精を出そうとしても、うっかりすると、こうしてすぐに寝てしまうのだ。
 彪は部屋の窓脇に置いてある日時計を見て、
「ああ、もうすぐ朝参(ちょうさん)の時間だ。……だめだ、もう、みそぎする時間がない。みそぎは後にして、とりあえず、……着替えてこないと」
 と、一人でぶつぶつつぶやいた。
 彼はいったん、個室を出て、占天省の入っている宮殿、『宇天宮(うてんきゅう)』も出て、そのまま、王宮に常勤する単身者の男性の入るための寮である『清白宮(せいはくきゅう)』に向かった。
 『清白宮』に向かう道々、出会う王宮の同僚たちと散々会釈をかわす。……面倒だ。
 彼は、身分証明書を見せながら、『清白宮』に入り、自室に戻ると、まず占天省の人間であるという証の制服の単衣を脱いだ。
「あーあ」
 それを床に放り出して、伸びをしつつ、寝台に寝転がる。
 ……扇(せん)様は、『占天省に入れば、いろいろ利点がある』みたいなことを言っていたけれど。
 毎日、この馬鹿みたいな単衣を着て、時間に縛られて仕事をして、大人たちと社交辞令での付き合いをして……。
確かに、街にいたころと比べると、段違いにお金はもうかるし、その日の食事にも困らないうえに、こんないい個室まで与えられて。……その通り、『利点』だらけだ。……こんな状態で文句を言うってのも、それこそ馬鹿みたいだけれど。
「ああ、わずらわしい」
 彪はつぶやいた。
「……なんだって、こんなことになっちゃったんだろう……」
 それは、最近、この国の王になったばかりの『扇様』が、自分の臣下になるように、彪に命じてきたからなのだが。
今はこの国の王となってしまったので、その頻度は減ったが、彼の兄貴分の桐(とう) 扇賢(せんけん)は皇子時代に、よく街に遊びに来ていた。『奔放な皇子』として名が高かった彼は、王となってからは、この国を護るために必要な旅に出ることが多く、その時には、『術者』の力を持つ彪を必ず連れて行く。その扇賢が、彪を『宮廷巫覡』として、占天省に正式に迎え入れたい、と言ったのが、事の始まりだった。
扇様だけならともかく。……お姫様の頼みじゃあ、断りきれなかったんだよなあ。
こういってはなんだが、彼の中では、『扇様』の愛称で呼んでいる、兄貴分の扇賢と、彼の妻で、この国の『斎姫(『巫覡』の最高位)』、甦(そ) 暎蓮(えいれん)への態度の差が明確に分かたれていた。
それは当然だ。暎蓮はこの国の『宝』だし、彪の中では、彼女は、扇賢の執着度とはまるで違うが、それでも一応、『淡い初恋』の相手なのだから。
暎蓮は、扇賢が彪を占天省に誘った時、自分も、半ば懇願するようにして彼を占天省に迎えたがった。
その懇願に、彪は抗えず、一大決心をし、宮廷勤めをすることにしたのだ。
彪は、扇賢が彼女の『最大の鎧(と、彼は常々言っている)』であるのなら、自分は、暎蓮の『最大の術者』でありたくて、この任を引き受けたといってもよかった。しかし、庶民の出である彪にとって、宮廷勤めというのは、格式ばりすぎていて、なかなか面倒なことが多く、そのストレス解消に、というわけではないが、彼の休日は、街に出て、彼自身が街で暮らしていたころに着ていたような古臭い衣服に着替えて、庶民そのものに見えるぼさぼさ頭のままで、街の人たちの雑な葬式の手伝いをしたり、『口寄せ(死んだ人の魂を一時的に呼び戻すこと)』をやったりと、結構活気があるのだ。
しかし、城に戻ってくると、彼は、浴室で体を清浄にし、似合いもしない(と、本人は思っている)上質の、宮廷勤務者用の正服に着替え、髪を整え、占天省の制服をまとい、まるでもとから自分はこうだった、というように上品に振舞わなくてはいけない。しかも、その『上品な振る舞い』にも、ちゃんと教育者がいた。占天省に入る時に、研修を受けさせらせられたのだ。
「まったく、宮廷ってところは……」
 それらの経緯を、思い出しても面倒くささが先に立った彪は、一人、ぶつぶつ言ったが、ふと我に返り、自室の日時計を見て、それどころではないことに気が付いた。
「……支度、しなくちゃ」
 と、起き上がる。
プロローグ・パートU 『彪』についてと、『斎姫』について
昨夜着ていた占天省の単衣を床から取り上げ、簡単にたたむと、部屋の外に出す。部屋の扉のわきには、箱が置いてあり、中には、新しい単衣と、今日着る正服が、ちゃんとそろえられて入っている。……毎日が、こうなのだ。
 その箱を部屋に引っ張り込み、蓋をあけ、しわひとつなくたたまれた衣服一揃いを見た彼は、あらためてため息をつきつつ、朝参に向けて、ようやく、着替えだした。

 ……白点 彪という少年は、十三という歳にしては小柄で、裾にゆとりのある長ズボンの上から、長い衣を何枚も重ね着するという、宮廷勤務者用の正服を着ている時にはあまり気づかれないが、衣を脱ぐと、まだ子供らしく、余計な肉のついていない、やせた細い体をしていることに気が付かされる。  
 しかし、『巫覡』であるがゆえに、いわゆる『菜食者』ではあるのだが、それでも骨や筋肉などはしっかりしており、小柄である割には、肉体は意外に恵まれていて、頑丈なほうだ。
 濃い焦げ茶色の短い髪を、普段は後ろで一つにまとめ、象牙色の、きめの細かい肌をしている。顔の造作は、まだ愛嬌があり、かわいらしい。『大人になったら、かなりいい男になるに違いない』、と予想されることも多いのだが、しかし、現在まだ『子供』である今は、……彪本人にとっては、かなり不本意な言われようなのだが、暎蓮に言わせると、『上等なお人形さん』のようなのだ。
 彼は、温和な性格をしており、大抵の人間や動物から好かれる。それは、ここ、宮廷でも同じで、年若い彼をかわいがってくれる人は大勢いるのだった。
 ……もちろん、庶民の出で、後ろ盾がなく、かつ史上最年少で宮廷入りした彼に、蔑みや妬みの視線を送る者も、いなくはないが、彼には暎蓮や扇賢という精神的に大きな支えがいたし、彼自身が、そんな『馬鹿』に付き合っているほど暇な性格ではなかったため、彪はそんなことは毛ほども気にかけてはいなかった。

……それにしても。
 彼は、再び、思った。
ここにいて、本当にいいことが一つあるとすれば。
「お姫様と頻繁に会える、ってことだけだよなあ」
 彼は、また独り言を言った。
 お姫様……暎蓮は、『彪と自分の『気』の相性度は抜群だ』と言って、彼を占天省に誘ったのだった。それは、彪にとっては、いわば殺し文句のようなもので、それと、宮廷にいれば、彼女と会える確率も今までよりぐんと上がる、という打算も多少はあり、彼は、結局こうして、ここにいるのだった。
 彪は、頭を一振りして、考えるのをやめると、支度を済ませて、朝参に向かうべく、部屋を出た。

 ……朝参の後、いつものように、占天省の入っている『宇天宮』へと向かっていると、辺りを行き来する、ほかの宮廷勤務者たちに気付かれないように、近くの建物の物陰から、暎蓮が顔を出して、笑顔で彪を手招きしているのに気が付いた。
 暎蓮は、『斎姫』だが、夫である扇賢以外の男性と隔絶されている『雲天宮(うんてんきゅう)』に住んでいるため、城内の警備兵以外の、王宮勤めの人間の大半が出席する朝参には、基本、出ない。そのため、時々こうして、そっと『雲天宮』を出て、彪に会いに来る。
「……お姫様。おはようございます」
 彪は、急いで、彼女のほうへ向かった。自分も物陰に入り、小さな声で、あいさつする。
「おはようございます、彪様」
 暎蓮は、言った。
「午後の休憩の時に、『雲天宮』までいらしてくださいませんか。ご一緒に、お茶にしましょう」
「は、はい」
「ありがとうございます。……では、お待ちしていますね」
 暎蓮は、いつも着ている、薄いベージュ色の、『斎姫』専用の、体の線を隠す、丈の長い衣装の裾を踏まないように、衣服の腿の辺りを両手で持ち上げると、彼の顔を見、もう一度にこっとして、一礼してから、くるっと体の向きを変え、他人と会わないように気をつけつつ、小走りに『雲天宮』のほうへ戻っていった。
 『雲天宮』は、城の最奥部にあるので、城の奥へ行けば行くほど、宮殿の警備兵以外の人間に出会う確率は少なくなるのだ。その宮殿から、彪の勤める『宇天宮』近くまで来るというのは、彼女にとっては、大きな勇気が必要で、且つ冒険のようなものなのだが、それでも暎蓮は、彪に会いたいと思ってくれるらしく、こうして、他人の眼にふれるかも、という危険を冒してまでも、『雲天宮』から出てきてくれるのだった。
プロローグ・パートV 『暎蓮』
 ……暎蓮は、『天地界』じゅうの人間から、『傾国の斎姫』と噂されるほど美しく、また、実際、愛らしい顔の持ち主だ。睫毛が長く、大きな瞳。唇はふっくらとしているが、その形までもが完璧だ。だが、普通ならば、人にはそれぞれ好みというものがあるのだから、暎蓮の顔の造作を好まない場合もあるはずなのだが、彼女に限っては、『斎姫』という職業柄、他人にめったに顔をあらわにしないために、『美しい』という噂だけが先行しているということもあるうえ、実際、数少ない、彼女の顔を見たことがある者たちの中でも、彼女の顔の造作について、批判的な意見はほとんど耳にしない。どんな人間をも惹きつけるという、……なんとも不思議な魅力がある顔だちなのだ。
そして、黒くて柔らかそうな長い巻き毛を、いつも『斎姫』特有の形に結い上げており、それがまた彼女によく似合うのだった。
 身長も低く、体の線がわからない、『斎姫』専用の衣服越しに見ても、華奢な感じで、いってみれば、見た目からして、いわゆる『保護欲』を刺激する相手なのであった。
 そんな彼女は、時には、人間以外のものも惹きつけてしまうらしく、その事実に、彼女の夫である扇賢や、彼女を護るための『術者』である彪は、いつもやきもきさせられている。
彼女の性格は、育ちがいいせいか、穏やか且つ柔和で、いつも優しい微笑みを浮かべている。
『斎姫』という職業柄、『邪気』がなく、その『気』は誰よりも清浄だ。……そして。彼女は、夫である扇賢一筋に、愛を注いでいる。
だが、彪は、そんな彼女が一番好きなのだった。

 暎蓮は、彪のことを、まるで弟のように思っているらしく、扇賢以外の男子禁制である『雲天宮』にも特別に入れてくれるし、こうして、お茶に誘ってくれるのもしょっちゅうだ。
 彼女の趣味は、料理や菓子作りなどで、お茶の時間には、なにがしか自分で作った菓子の類を出してくれたり、手作りの食事に誘ってくれる時もあった。もちろん、そういう時は、扇賢はもちろん、扇賢の、もと・武術の師である美しい女性、『関(せき) 王音(おういん)』や、扇賢の僕(しもべ)であり、暎蓮に懸想している西方美男子である、『玉雲国』唯一の『騎士』を名乗る、『ウルブズ・トリッシュ・ナイト』といった、よく一緒に旅に出る主要メンバーである仲間たちも誘っているが、彪の中では、そんなことも宮廷勤めの合間での楽しみの一部ではあった。……たとえ、彼女が、彪のことを全く『男』として見ていないということがわかってはいても。
 それは、誰が見ても明らかなことで、以前など、暎蓮からは、よりによって人前で平然と、『一緒に入浴しよう』と誘われたことすら、あるのだ。
 そのことを思い出すと、彼は、照れで、今でもつい、顔を赤らめる。その時は、少年としては、恥ずかしさのあまり、必死に固辞したのだが、だからといって、断ったことを後悔するほど、彼はまだ男性として成熟してはいなかった。その、彼女の、度肝を抜かれるような提案には、……かなり、あせりはしたが。
……が、それはともかく。午後の休憩時間には、暎蓮に会えるのだと思うと、彼の足取りは、自然と軽くなった。すれ違う同僚たちとも、笑顔で会釈をかわせる。
(こういうことがあるから、仕事にも身が入るっていうものだよなあ)
彪はそう思いつつ、自分に割り当てられた個室に入り、文机の前に座った。
プロローグ・パートW 『術』についてと、『雲天宮』
彪は今、近頃は、この世界を狙う悪鬼や魔物と戦うことの多くなってきた、この国を護るという責任、というか、『使命』を持つ、『王』である、『天帝の御使(みつか)い』、『五彩の虎』の性(さが)を持つ兄貴分、扇賢を補助するために、『退魔』のための『術』をいくつか練丹しているところだった。
彼の場合、『術』の練り方は、文机の上で、自分なりに陣形を組み、それを紙に描いて、眺めてみる。その布陣の『力』の流れで、納得したら、立ち上がって、部屋の中で、それを今度は実際に発動させてみる。『聖気(せいき)(『巫覡』の持つ『気』のこと)』の込め方次第で、『術』の質は変わるので、陣形内の『気』の動きを確認しながら、ああでもない、こうでもない、と、様々な方法で、『術』自体の働きを確認してみるわけだ。

 ……そして、今日も。彼は、作りかけの布陣を、試しに発動させてみた。しかし、なんだか、その進捗度は芳しくなかった。彼の心情を現代の言葉で表すとするならば、……なんというか、『術』自体に、いまひとつ『インパクト』がないのだ。
「……方向性としては、間違っていないと思うんだけれど……。なんだか、あともう一工夫、欲しいところだよなあ……」
 何度か陣形を発動させてみて、彼はぶつぶつつぶやいた。
 その『一工夫』が、なんだかわからない。弱り果て、彼は、思わず床に寝転んだ。
天井を見つつ、考える。
「そうだ」
(お姫様なら、なにか助言をくれるかも)
 彼はそう思って、身を起こした。
 ……午後の休憩時間が、また楽しみになってきてしまった。

 その日の午後、休憩時間に、彪は『宇天宮』を出て、城の最奥部にある『雲天宮』へと向かった。
 門の前では、暎蓮が、ちゃんと彼を待っていてくれた。遠くから、一生懸命手を振っている。……彼は、うれしくなった。
「お待ちしていました、彪様。……どうぞ、お入りになってください」
 暎蓮が、笑顔で彼を迎える。その愛らしい微笑みに、相変わらず弱い彪が、顔を赤らめつつ、照れのあまりに、ぼそぼそと、
「失礼します……」
 と言って、もう顔見知りになった、門前の兵士にも、一応礼をして、門に近づく。

 『雲天宮』の門前を警護する兵士は、城内の兵士たちの中でも屈強で、且つ教養があり、しかも『雲天宮』に関連する機密事項を守れるという、特別に選りすぐられた、心身ともに優秀なメンバーたちだ。その彼らが、暎蓮を護るため、二十四時間交代で宮殿の警護についているのだ。
 ……暎蓮に促され、彪は、宮殿内に入り、まずは、沓を履いたまま、いくつもの部屋を通り抜けたり、外通路を歩いたりする。
 そして、宮殿内でも、女官や侍女といった、『雲天宮』勤務者以外では、暎蓮に近しい関係者だけしか入れない、土足では上がれない部屋のところまで来たところで、彪は、普段履いている革の沓を脱ぎ、上り口に上がらせてもらう。……宮殿内には、いつものように、外部から世俗の毒を持ち込まれないよう、清浄な『気』を保つための浄香の香りが満ちていた。
暎蓮の乳母(めのと)の山緑(さんろく)が奥から彼を迎えに出てきて、
「彪様、お務め、お疲れ様でございます。さ、どうぞ、奥の房へ」
 と言ってくれる。
「いつも、ありがとうございます」
 彪も、いつものように山緑に一礼して、あいさつを返す。
 彼はもはや、扇賢の次に、この宮殿の『顔』と言ってよかった。
プロローグ・パートX 『お姫様』との『お茶の時間』
 暎蓮は、廊下を歩きながら、彼女の後ろにいた彪の手を、楽しげにとり(ここでまた、彪はつい、顔を赤らめるのだった)、軽く引っ張って歩いた。そして、毎回彪を迎えている部屋である、『雲天宮』の、『応接の間』に彼を誘(いざな)った。……この『応接の間』は、彪以外には、たとえば、彼女の家族などがこの宮殿を訪れた時にも使う、『正客』のための、特別に豪華な部屋だ。彪は、この華麗な部屋に、初めて誘われた時は、緊張して言葉が出なかったものだった。庶民の出である自分を、ここまで厚遇してくれていいのだろうか、とも思っていたが、暎蓮は、そんなことは気にもせず、毎回、彼を大事な『正客』扱いで、この部屋に誘うのだった。

 『応接の間』には、もう座がしつらえられてあったが、暎蓮は気を遣って、上座下座を作らないようにしてくれてあった。……本来ならば、この国の『正妃』である彼女が上座に決まっているのだが。
「どうぞ、お好きな側へ、彪様」
 先に部屋に入った暎蓮が振り返り、彪を招じ入れ、座を手で示した。
「ありがとうございます」
 彪は、一礼して、片方の座に正座した。
 暎蓮も、卓をはさんだ彼の正面に座り、二人の座の横に置いてあった横長の棚を開け、そこから茶道具を取り出すと、彪のために、いい香りの茶を淹れてくれた。
 茶卓に茶器を置き、優雅な手つきで、それを彼に差し出しつつ、彼女は言う。
「今日は、この間、王音様に教わったお菓子を、作ってみたのです。彪様のお口にも、合うとよいのですが……」
「いや、そんな。もったいないことで……」
 彪は口ごもった。暎蓮に気を遣ってもらうなど、申し訳ない。
「まず、お茶を一服、どうぞ」
 彼女の勧めに、
「ありがとうございます。……いただきます」
 彪が一礼して、茶を一口飲んだ。
……宮廷に入る前は、こんな高級な茶は飲んだことがなかったが、それでも、暎蓮が淹れてくれたと思うだけで、どんな茶であろうとも、彼にとっては、『甘露』同然だ。
その『甘露』の茶を、口に含み、しみじみと味わい、ゆっくりと飲み込む間に、暎蓮が、今度は、宝物を見せるかのように、自分の後ろから、埃よけの布をかぶせた菓子盆を取り出した。盆から布を取り去り、言う。
「……その、王音様から教わったお菓子というのが、これなのですが」
 中身がよく見えるよう、彼の側に傾けられたその盆を覗き込んだ彪が、感嘆の声を上げる。
庶民の出の彪が、見たことのないような、かわいらしい菓子が、盆の中にきれいに並んで入っているのだ。
 彪は、暎蓮がこんなに上手に菓子を作れるということに、感心した。
「きれいだね」
 本心から、彼は褒めた。しかし、それに対する彼女の返答は、
「これ、王音様のお子様が、一番お好きなお菓子なんですって。どんなものか作り方をおうかがいしたら、とてもおいしそうだったので、ぜひ彪様にも召し上がっていただきたくて」
 ……であった。それを聞いて、彪は、ひっくり返りそうになった。
 王音の子といえば、まだ赤子で、味の好みもわかるかわからないかの境目ではないか。
 それと、もう十三にもなる自分とを、同一視して、この菓子を作ったのかと思うと、彪は思わず、苦笑せずにはいられなかった。
(お姫様は、俺よりも子供みたいだな)
 ちなみに、暎蓮の年齢は、彪とは十一違いの二十四歳。夫の扇賢はまだ十七歳で、彼よりも上の歳なのだが。世間から隔絶された生活を送っているせいか、純真だ。ついでに言うなら、『斎姫』というのは不老の力があるため、彼女の外見もまた若く、どう見ても、十四、五にしか見えないのだった。
プロローグ・パートY 不吉な、『天啓』
 彼のそんな思惑にも気づかないように、暎蓮は、茶道具を並べて置いてある、大きな盆の上に幾枚か重ねて置いてあった菓子皿を一枚出し、菓子用の取り箸を使い、おそらく、菓子の形が崩れないようにだろう、丁寧な仕草でゆっくりとその菓子を盆から皿に取りわけ、それを笑顔で彼に差し出した。
「……いかがですか?」
 と、言う。
 彪は、その菓子のできあがった経緯を考えると、半分ありがたく、半分仕方なく思いつつ、
「ありがとう、……いただきます」
 と言って、その菓子を手に取り、口に入れた。
 ……いかにも赤子が好きそうな、優しい味の、柔らかい菓子だった。どことなく、懐かしさを感じさせる香りもする。
「……おいしい」
 これは、本気で言った言葉だった。暎蓮は、それを聞いて、とてもうれしそうな顔をしてくれた。
「よろしければ、どうぞ、もっと、お召し上がりになってください」
「ありがとう」
 彼が、暎蓮に菓子皿を返そうとした、次の瞬間だった。
 突然、二人の背に、戦慄が走った。
 ……これは……。
 『天帝』からの声、『天啓』だ。『天啓』ではあるが、いつものものと違い、なにか、まがまがしいものが来るという予言だった。それは、『戦慄』という形をとって聴こえたことでもわかる。
 二人は、同時に、城内で、目の前に大きな『邪気』が現れる、という情景を、一瞬だけ視(み)ていた。
暎蓮が、鋭い声で言った。
「彪様。今の、ご覧になりましたか」
「うん。この城になにかが起こるっていう『天啓』だった。……明日。『邪気』を視たから、……たぶん、魔物?」
「あるいは、『邪霊』のようですね」
 しかし、『天啓』を受け終えた彼らの緊張は、一気にほぐれ、二人とも大きな吐息をつき、姿勢を崩した。
 暎蓮は、彪が驚くようなことを言った。
「……彪様。明日、私と、この城内を見回ってくださいませんか」
「ええ!?」
「私の役目には、『斎姫』として、このお城を護るということもあるのです。でも、こうして、私たち二人が同時に『天啓』を受けたということは、……彪様のお力も、お借りしないといけない、ということかもしれません」
「お、お姫様がなにもそんなことをしなくても、俺たち、占天省の人間に任せておけば……」
 暎蓮は首を振った。
「おそらく、この『天啓』は、私たちのほかには誰も視ていません。つまり、『天帝』様は、私たち二人を選んで、このお役目をくださったのだと思います。……どうか、お願いできませんか」
 彪は、言った。
「でも、危険があるかもしれないよ」
「私は普通の『斎姫』ではなく、『武力』を持たなければならない『斎姫』です。そして、この国を護るのが役目。その名に恥じないためにも、少々の危険は、覚悟の上です」
「じゃあ、扇様にも言って……」
「いいえ、これは私たち『巫覡』の仕事です。ご公務でお忙しい扇賢様を巻き込みたくはありません。私たち、二人だけで」
 暎蓮は、その美しい眼で、彪の眼を見た。もう一度、言う。
「お願い、できませんか」
 彪は、すぐには答えられなかった。
第一章 『お姫様』と彪
 次の日の午後、休憩時間に、彪は再び暎蓮の待つ『雲天宮』へと行くことになっていた。夕方、再び集合ということにはなっているのだが、暎蓮が、『それなら、明日もご一緒にお茶を』と言ったのだ。……今夜の作戦会議も兼ねて、というのが、彼女の言い分だったが、どう見てもそれは言い訳で、彼女が彪と一緒に過ごしたいからだということは、彪でなくとも明白だった。……彪は、またしても照れで顔を赤らめながらも、その気持ちがうれしく、結局その言に従うことにしたのであった。
部屋を出る時、ふと思い出して、制服の単衣の袖に、昨日から全く進捗していない『術』の陣形を描いた紙を、しまい込む。……忘れないで、今日こそ、お姫様から助言をもらわなきゃ。

「……彪様!」
 『雲天宮』の門が見えてくると、いつもの『斎姫』専用の衣装をまとった暎蓮が、例によって笑顔で手を振って彼を待っていた。
 彪は、顔を赤らめつつも、それでも一応、言ってみた。
「お、お姫様。みだりに、宮殿の外に出ちゃ、だめだよ。誰かに顔を見られたら……」
「大丈夫です。……ここは、城の最奥部。この宮殿に関係のない方は、いらっしゃいませんし、警備の方々は、大半が、私が幼き頃からこの宮殿を護ってくださっている方々です。……皆様は、もはや『親戚のおじさま』たちのようなものなのです」
 彼らがそう言いあっていると、まさにその門前の兵士が、
「姫様。白点様のおっしゃる通りですよ。宮殿外の誰かにご玉顔を見られたらどうなさるのです。……それに、あなた様はこの国の『宝』である、『斎姫』様。わたくしたち兵士などと、『親戚同様』などとおっしゃってはいけません」
 と、口を出してきた。
 言葉の割には、彼女の様子がほほえましいのか、笑いを隠せないように言う兵士に、
「あら。だって、私が小さなころは、よくお庭で遊んでくださっていたではないですか。ご一緒に、お人形遊びや、おままごとなどで。……近ごろ、皆様は、あまり私と遊んでくださらないので、つまらないです」
 少しばかり拗ねたような口調で言う暎蓮に、
「姫様。ご自分のお立場をお忘れですか。あなた様は、もはや、『斎姫』様であるのと同時に、この国の『王妃』様なのですよ。警備兵などと遊ばせておくわけにはいきません」
 彼は、笑いをこらえた顔を崩さないまま、言った。
「お人形遊びは、もう、ご卒業ください」
 暎蓮は、がっかりしたような顔をした。
「お人形遊びも、おままごとも、あんなに楽しかったではないですか」
「今は、お人形の代わりに、白点様と楽しくお話されていらっしゃるでしょう」
 それを聞くと、暎蓮の顔が、輝いた。彪の片手を握り、彼を体ごと自分のそばに引っ張り、言う。
第二章 『お姫様』の『お気入り』
「そうなのです!……彪様は、とても、かわいらしいでしょう?まるで、上等なお人形さんのようだと、思われませんか?」
 そのあまりな言われように、愕然とする彪を尻目に、暎蓮は生き生きと言う。
「彪様は、見た目も愛らしいですが、それだけではなく、とても頼りになるお方なのですよ。私の知らないことをたくさんご存知で、いろいろと教えてくださるのです。……確かに、そうです。普通の『お人形遊び』より、彪様と過ごすほうが、ずっと楽しいのです!」
「それは、よかった」
 兵士は、それを聞いて、ついに、破顔した。
「山緑殿もおっしゃっておいででしたよ、白点様が宮廷にいらしてから、姫様はお元気になられたと。……しかし、姫様」
 兵士は、小さな声で、言った。
「くれぐれも、扇王様がやきもちを焼かれない程度になさいませ。扇王様は、こと、姫様のことになると、理性が吹き飛ぶようですから。ご兄弟分であられる、白点様がお相手では、なおさら、そのお立場がないでしょうからねえ……」
「あら」
 暎蓮は、それを聞いて、真っ赤な顔をした。
「わ、私、そんなつもりでは……」
「そうでなければ困りますよ。……白点様が」
 兵士はそう言って、笑いながら、暎蓮の後ろで、硬直したまま顔を真っ赤にしている彪に向けて、言った。
「……白点様。姫様は、これまで世間と隔絶されていた分、まだお心が幼くていらっしゃいます。どうか、あなた様がお持ちのお知恵で、姫様をお護りして差し上げて下さい。……扇王様とは別の面から」
「は、はい……」
 彪は、なんとか答えた。その彼に、兵士は、さらに言う。
「当分の間は、姫様のお好きな、おままごとやおはじき遊び、貝合わせなどにさんざんおつきあいさせられることになるでしょうが、どうか、御辛抱ください」
「ま、ままごと……」
 さすがに、彪が顔を引きつらせる。……暎蓮はさらに顔を真っ赤にして、兵士に向かって、叫ぶようにして言った。
「……もう!彪様にそんなことばかりおっしゃるなんて、お人が悪すぎます!」
 暎蓮は、頬を赤くしたまま、まじめな顔になり、言った。
「私は、もう、『人妻』です。そんな、『子供』ではありません」
「おや。お人形遊びからご卒業なさる御覚悟が、やっとできましたか?」
兵士の言葉に、暎蓮はあわてて、
「……今後は、お人形で遊ぶのは、彪様と扇賢様とだけにします」
「それはそれは。扇王様は、姫様と遊ぶのだけはお苦手なご様子で、さんざん逃げ回っていらっしゃるようですから。……となると、残された白点様も、大変なことになりますなあ」
「お願いです、私から、彪様だけは、取り上げないでください!」
 暎蓮が、真剣に懇願する。その様子を見て、兵士は大笑いした。そして、彪に向けて、
「……白点様。と、いうわけですから、今後とも、姫様のお相手をよろしくお願いいたします」
 と言った。彪が、真っ赤な顔で、どうにか、
「……は、はい……」
 と、返事をする。
 暎蓮がそれを聞いて、ほっと息をついた。
第三章 『温かい気持ち』と、恐怖の『お遊び』
 兵士は、そんな暎蓮をからかうのをやめると、楽しげに笑い、しかし、言った。
「しかし、本当ですね。姫様は昔と比べて、ずいぶんと明るくなられた。それもこれも、扇王様と御結婚され、白点様がいらしてくださったからこそ。わたくしどもは、本当に良かったと、思っているのですよ」
 彪は、悟った。
(この、『雲天宮』の警備の方々は、きっとみんな、お姫様のことが、まるで自分の子供みたいに、かわいくて仕方がないんだ……)
 彪の心は、温かくなった。
 彼は、言った。
「お姫様のことは、俺……私も、出来る限りお護りします。……扇様……じゃなくて、扇王様の補助として」
 それを聞いた兵士は、にっこりと笑って、言った。
「ありがとうございます、白点様。姫様を、これからもよろしくお願いいたします」
 彪は、しっかりとうなずいた。
「はい」
 暎蓮が、彼の手をもう一度握る。その顔が、うれしそうだ。
「……それでは、私たちは、そろそろまいります。……もう、彪様に、私のことで、妙なことをおっしゃらないでくださいね!」
 暎蓮は、文句を言っているようだが、それにしてはご機嫌な顔で、彪の手を引き、兵士に一礼して、彼を連れて門内に入っていった。
 彪が門内に進みながら、兵士を振り向くと、彼も振り返って、優しく彪に向かって微笑んでいた。……お互い、気持ちが通じ合ったかのように、うなずき合う。
 彪は、暎蓮が皆から愛されていることを感じて、再び、うれしさで心が満ちていた。

「……彪様、今日は、なにをして遊びましょうか」
「えっ!?」
 『応接の間』内で、卓をはさんで向かい合って座し、暎蓮は、例によって、彼のために茶を淹れながら、言うのだった。
「あ、遊び?」
「はい。今日は、ご一緒に、午後のお茶を楽しみながら、『お遊び』をしようと思っていたのですよ」
 暎蓮が、急須のふたを押さえながら、楽しげに言う。
「お、お姫様。……今日は、『作戦会議』だって、言ってなかった?」
 どもる彪の言葉に、暎蓮は、そこで初めて、我に返ったようだった。顔を赤らめる。
「あら」
 しかし、気を取り直したように、茶を淹れつづけながら、再び、彼女は、言う。
「ですが、まだお時間は充分にあります。もちろん、『作戦会議』も大事ですが、それは楽しく遊んでからでも……」
 彪は脱力した。
「お姫様……」
 暎蓮は、その彪の様子を見て、ふくれっ面になった。
「少しくらい、私と遊ぶお時間を作ってくださっても、よいではないですか。……『作戦会議』は、あとで、ちゃんと、やりますから!」
 ふくれていてもかわいらしい暎蓮の姿に、彪は、……負けた。
 一つ、ため息をつくと、彼は暎蓮に向かって、笑ってみせた。
「なにをして遊ぶ?……お姫様」
 暎蓮の表情が、再び輝いた。
「実は、彪様とご一緒に遊ぼうと思って、以前からずっと、紙で『着せ替え人形』と、そのお衣装を作っておいたのです!」
「……き、『着せ替え人形』?」
第四章 『楽しげな暎蓮』と、『心の底から参っている彪』
 その言葉に、『女児の遊び』の雰囲気を感じ、微妙な年齢である少年の自分には、なんともいやな予感がした彪が、問い返している間に、暎蓮は立ち上がり、部屋の隅の棚の上に置いてあった木箱を取り出してきた。
 彪と、卓をはさんで、再び向かい合って座し、卓の上に乗せたその木箱のふたを、両手で持ち上げ、箱を開ける。
 ……中に入っていたのは、おそらく暎蓮の手書きだろう、意外に上手い絵で描いてあるかわいらしい女児の、現代でいう、肌着に近い、『薄物』をまとった立ち姿の切り取った紙人形と、同じくかわいらしい男児の薄物をまとった立ち姿の紙の人形に、薄物だけの姿の人形の上に着せるための、やはり紙で作った、さまざまな形の衣服の絵の数々だった。
 紙でできた衣装には、ちゃんと、色筆(いろひつ)(この世界では、色ペンに当たる)で、仔細に色彩や紋様がつけられている。
彪は、それを見ただけでも腰が引けたが、その男児の絵の顔が、どことなく自分に似ている事実に、もっと慄然とした。
……俺の顔は、漫画にしやすい顔なんだろうか。
これは、明らかに、自分と一緒に遊ぶために作った紙人形だ。……再び、彪の顔が引きつる。
 暎蓮は、彼のその様子には全く気付かず、その紙人形と衣服の数々を箱から出しながら、楽しげに言った。
「……はい、これは『彪様』です。こちらは、私、『暎蓮』。……昨夜、『彪様』用のお衣装もたくさん作っておきましたので、どんなものでも着せ替え放題ですよ」
「き、『着せ替え』っていうのは、文字通り、こ、この人形の服を、着せ替えて遊ぶわけ?」
 単衣の袖で、こめかみを伝う汗をぬぐいながら、彪は問い返した。
「そうです!このお人形のお衣装を、場面や場所によって取り替えつつ、『彪様』と『暎蓮』が、ご一緒に、遊ぶのです」
 そう言って、暎蓮は、彼の手に『彪様』人形を押し付けた。……彪は、その人形を思わず受け取ったが、すでに、心の底から、……参っていた。
 しかし、自分とは真逆に、心の底から楽しげな暎蓮の姿を見ると、『もう、勘弁してくれ』とも言えず、仕方なく、言った。
「えーと、じゃあ。……どれを着せればいいの、俺は、この人形に?」
「『人形』ではなく、『彪様』です」
「……『彪』に」
 彼は、ぼそぼそと、言い直した。
「まずは、新しいおうちにお引越しをするところから始めましょう。……そうですね、お引越しは、おそらく『汚れるお仕事』でしょうから、ひとまず、この『雲天宮・特別整備班』の方々の『作業着』をお召しになってください」
「わ、わかった」
 庶民の出の彼にとっては、この、木箱の中に用意された、紙でできた貴族たちの衣装の中では異色である、この『作業着』が一番抵抗なく着せられるものかもしれなかった。
 彪は、暎蓮から、
「この木箱の中のお衣装の半分が、『彪様』用のものですから、場面によって、ご自分のお好みのものをお選びになって、お召替えを」
 と、指図を受け、再び、
「わ、わかった」
 と言った。作業着の端が、フックのように折り曲げられており、それを紙人形の肩に引っ掛けると、衣装が装着できるというわけだ。
「……着せたよ」
 彪が言うと、暎蓮は、うなずき、言った。
「では、私は、この、侍女の方のお衣装が、お引越しには、動きやすそうですので、これを着せます」
「う、うん」
 暎蓮は、なにを考えているのか、姿勢を正し、厳かな手つきで、まじめに『暎蓮』人形に侍女の衣装を着せかけた。
「それでは、お引越しです」
「どうすればいいの?」
 彪の問いに、彼女はにっこりして、木箱一式を持ち、立ち上がった。
第五章 『遊戯室』と、かすかな暎蓮の寂しさ
「ここからは、『遊戯室』で、お遊び開始です。お引越しも、そこで始めましょう。……とにかく、まいりましょう、彪様」
「『遊戯室』?」
「私がここ『雲天宮』に住み始めたのは、二歳の時からですから……」
 彼女は、部屋を出ようとしながら、彪を振り返った。彪も、『彪様』人形を持ったまま、あわてて立ち上がる。
 彼女は廊下に出て、歩き出しながら、言った。
「子供のころから、遊び相手は山緑一人でしたので、山緑がお仕事の間、一人で遊ぶ時もつまらなくないよう、先代のこの国の王様である『一王(いちおう)』様からのお許しを得て、この宮殿内に、私の父である『清河大臣(せいがのだいじん)』が、一人遊びをするための設備のある部屋……つまり、『遊戯室』を、もうけてくれたのです」
 彼女につづいて歩きながら、彪は、彼女のその言を聞いた。
「……さびしかった?」
 彼女の小さな背中から、どことなく沈んだものを感じた彪は、問うてみた。
「……『一人』というものは、よい時もありますが、大好きな方々が増えてくるようになると、それだけさびしくも感じられる時もあるものです。ですから、子供のころの私には、大好きな山緑が、そばにいてくれて、よかったのですが。……でも。山緑は、私の乳母でもありますが、この宮殿に勤務なさる方々の責任者というお仕事がありましたから、そういつも一緒にはいてもらえず。私は、子供のころに、一人で時を過ごすことも、多かったのです」
「じゃあ、今は、山緑さんもいるし、それから、扇様もいてくれて、よかったね」
 暎蓮は、振り返り、彪に向かって微笑んで見せた。
「はい。そして、私には、彪様もいてくださっています」
 彪は、顔を赤らめ、目を伏せた。
「お、俺なんか……」
「いいえ。……初めて彪様とお会いした時から、思っていたのです。『彪様と私の『気』の相性度は、抜群だ』と」
 暎蓮は、照れている彪の手を取って、彼と手をつなぎ、今度は並んで歩いた。
「そして、それは、決して間違いではなかったのです」
 彼女は、そう言うと、彼に向かってにっこりし、……そして、ある房の前で足を止めた。
「ここが、『遊戯室』です」
 彪は、その入り口を見た。大きな扉の中央に、札がかかっており、その札には、『天地文字(てんちもじ)』で、……もしかすると、山緑が作ってくれたものかもしれないが、『えいれんのあそびば』とカラフルな布地でアップリケがついていた。 
 彪は、思わず笑った。
「ずいぶん、かわいいね」
「子供の時からのものですから……」
 暎蓮は、さすがに照れたように、言った。
「さあ、中に入りましょう」
 彼女はそう言って、彪のために扉を開けてくれた。中を覗き込んでみると、……思ったより、ずいぶん、広い部屋だ。……彪は、思った。
 中には、今も体の小さな彼女や、彪ぐらいの子供なら、まだ遊べそうな、滑り台や、鞦韆(しゅうせん)(ブランコ)など、遊具の類がたくさん並んでおり、そのほかにも、人形遊び用だろう、リアルな家のミニチュア模型や、積木やブロックなど、それから、女児の好きそうな、人形、動物のぬいぐるみなど、おもちゃの数々が置いてあった。
(……確かに、かわいいけど……)
 彪は、まだ小さかった彼女が、この広い部屋で一人で遊んでいたことを考えると、少し胸が痛くなった。……お姫様は、はたから見れば、恵まれた、貴族の『お姫様』だけど、……俺たち『庶民』と同じ気持ちを味わうこともある、『一人』の時もあったんだ。
 そう思った彼は、腹を決め、暎蓮に付き合うことにした。
彪は、笑顔を作り、暎蓮に向かって、言った。
「それで、『引っ越し』は、どこにするの?」
 それを聞いた暎蓮が、うれしそうに答えた。
「はい。……あの、おうちの模型がいいかと思います。ご一緒に、家具を運び入れましょう」
 二人は、紙人形を片手に、家のミニチュアのところまで歩いていき、その周りに置いてあった、おもちゃにしては精巧な家具の数々を、選びだした。
 彪は、暎蓮が楽しそうな姿を見て、自分もうれしかった。……これで、少しは、さびしかった思い出が、消えるといいけれど……。
第六章 純朴なやり取り
 暎蓮を喜ばせるためとはいえ、彪は慣れない女児の遊びに疲れ切ったが、彼らは結局、休憩時間いっぱいを使い切って、『遊戯室』で遊んでしまった。

「……楽しかったですね、彪様」
 日時計を見て、休憩時間が終わりに近いことを知り、名残惜しそうに、おもちゃの数々を片付けだした暎蓮は、言った。
「もうお時間だなんて、残念です」
彪は、疲れを顔に出さないようにしつつも、笑って見せた。
「……お姫様が、楽しかったなら、よかったよ」
「ありがとうございます。……あら。でも。結局、『作戦会議』はできませんでしたね」
 いかに精神的に子供の暎蓮でも、さすがにまずいと思ったのか、彼女は少しあわてて、言った。
「もう、しょうがないよ。あとは、夜、本番の時、『出たとこ勝負』で、決着をつけよう」
「そうですね……。申し訳ありません、彪様」
「気にしないでいいよ。……俺も、楽しかったから」
 彪は、多少苦しいと思いつつ、それでもなんとか、言った。そして、話を改めた。
「だけど、今日の夜のこと、本当に扇様に言わなくてもいいの?」
「扇賢様は、きっとご公務でお疲れでしょうから……」
 暎蓮が本当に彪と二人だけで今回の仕事をしようとしていることに、彪は改めて気を引き締めた。
(本当は、こんな遊びをしている場合じゃなかった気がするけれど。……まあ、仕方がないか)
 ……あらかた、おもちゃの類を片付けたところで、二人は一度、居間に戻った。
「じゃあ、俺はそろそろ『宇天宮』に戻るよ。……仕事もしないとね」
「はい。……では、ご門までお見送りします」
「わざわざそんなこと、いいよ。……また、夕方にはすぐに会えるんだから」
 暎蓮は、彼に向かって、優しく微笑んだ。
「……それでも、私は、お見送りしたいのです」
 彪は、その彼女の発言と微笑みに、また照れで顔を赤らめた。……だが、それ以上断り切れず、結局二人は門まで一緒に行った。
「それでは、お仕事、頑張ってください、彪様」
「ありがとう。……お姫様も、修行、頑張って」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃ、仕事が終わったら、また」
「はい。お待ちしております」
 彼らは、微笑み合い、別れた。……暎蓮は、彪の姿が見えなくなるまで、門の中から、彼の姿を見送っていた。それに対して、彪は、何度も振り返り、彼女に手を振った。
 その二人の純な姿は、誰が見ても、とても微笑ましかった。
第七章 『巫覡』の仕事
その日の夕方、『宇天宮』での通常業務を終えた彪は、『清白宮』には戻らず、占天省の単衣を身に着けたまま『雲天宮』へと向かっていた。……暎蓮を、迎えに行くのだ。
 彼は、危険のありそうなこの仕事を暎蓮にさせてもいいものか、実はまだ迷っていた。危険は、自分だけならまだなんとかなるが、暎蓮を巻き込むとなると、話は別なのだ。
(『天啓』を見ちゃった以上、『なにか』があるのは間違いがないわけだけれど、本当に、その『なにか』があったら、なんとしてでも、俺がお姫様を護らないと)
 彪は緊張していた。
(扇様にも内緒の仕事じゃあ、俺の責任も重い。絶対に、お姫様を第一優先にしなきゃ)
 『雲天宮』門前へ行くと、門の中から、動きやすいようにだろう、いつものベージュ色の『斎姫』の衣装ではなく、短衣の上から、占天省の紋の入った袴と、彪と同じ、占天省の制服である単衣を身に着けた暎蓮が、顔を出すところだった。……髪だけが、いつもの『斎姫』の結いあげられ方だが。
「……お姫様!」
 驚いた彪が言うと、彼女は、彼にうなずいてみせて、門衛の兵士に、
「少し、出てきます。すぐに戻ります」
 と言った。
兵士は、休憩時間に会った人物とは別の人間だったが、彪はもう彼とも顔見知りだ。彼は、彪と一緒なら安全だろうと判断したのか、一礼して暎蓮たちを見送った。
 暎蓮が、彪と並んで、歩き出す。
「占天省の人間に化けたの?」
彪が、驚いたまま言うと、暎蓮は、
「別の宮殿ではありますが、『雲天宮』も一応、組織上は占天省の管轄ですから。……まあ、この単衣を着ていたとしても、この髪では、わかる方になら、私が『斎姫』であることなどは、すぐにおわかりになるのでしょうけれど」
「なにも知らなければ、立派に占天省の一員だけどね。……ところで、お姫様。もし、お姫様が『雲天宮』にいない間に扇様が来たら、どうするの?」
 彪が問いかけると、
「今夜は、宴があるそうなので、いらっしゃらないと思います。そして、宴があるからこそ、今夜、このお城に『妖異』が現れるのだと思うのです」
「宴にはたくさんの人が集まる。その『気』を狙いに来るってことかな」
「そうかもしれませんし、そうではなく、宴で手薄になったお城のどこかを狙って、ということかもしれません。……この辺り、『天帝』様もはっきりとお知らせくださらなかったので、どこでなにがあるかわからないのですが」
「そうだね」
 彪はうなずいた。
「昨日視た『天啓』では、私は、『邪気』に、なにか、深い『情念』のようなものを感じたのですが、彪様はいかがでした?」
 暎蓮が、彪に問いかけてきた。
「うん……。なんていうか、『気』が、ねっとりとしていたような気がする」
「ええ。そこは私もそう思いました。……ですから、この感じは、私は、『女性』の『念』ではないかと思っているのです」
「『女の情念』?」
 暎蓮が、彪の、大人ぶった紋切り型の口調に、くすくすと笑った。
「……まるで、大人の方向けの物語の題名のようですね。……ですが、そうかもしれません」
「でも、城には、全体を覆う、俺たち占天省の人間の作った『簡易結界』があるはずだよ。簡単には『邪念』は入れないはずだけど」
「ですが、お城には、いろいろな方がいろいろな用事でお出入りします。『結界』も、簡易なものでないと、お城にお出入りできない方もいらっしゃいますから。ですから、このように、お城の『隙』をついて、『妖異』が現れることもあるのです。……まだ私が生まれる前にも、そして、子供のころにも、そこをついて、このお城に『妖異』が現れた例は、いくらでもあるらしいのです」
「そうなんだ……」
「ですから」
 暎蓮は、前を向いたまま、つづけた。
「それらを逃さず、滅する、あるいは、天上に開放して差し上げるのが、……私たち、『巫覡』の仕事なのです」
「『天帝』様の声を聴いて、予言したり、『術』を磨く以外にも。……こういうのも、俺たちの仕事なんだね」
「そうです」
 暎蓮は、彼を振り向いて、微笑んだ。彼らの目線は、今はまだ、暎蓮のほうが少し高いが、もうすぐ同じ身長になるだろう。
「……たくさんの方が集まり、たくさんの『念』が集まるのが『城』というものです。考えてみれば、これほど『妖異』と近しい場所は、ないかもしれません」
暎蓮は、そう言って、空を見上げた。
「……夕刻です。そろそろ、私たち『巫覡』の時間です」
 彼らは、そろって、昏くなってきた空を見上げ、一番星を見つけて、呼吸を整えた。
第八章 城内の探索と、暎蓮と彪
 彪と暎蓮は、広い城の中で、『怪しい』と踏んだところを、片っ端から歩くことにした。
「……たかが、城の中と思っていましたが。こうして歩いてみると、結構な広さがあるものなのですね」
 暎蓮が、ゆっくりした足取りで、言う。日頃歩き慣れていない彼女には、精いっぱいのスピードなのだろう。
 彪はそんな彼女の歩幅に合わせて歩きながら、
「うん。俺も、『清白宮』から城外に出る時に使う『才明門(さいめいもん)』まで歩く時は、あまりの遠さに、途中で休憩したくなるよ。……だから、貴族や王族の方々はみんな馬車や輿を使って移動するんだよね」
 と言った。
「そういえば、私の父である、『清河大臣』も、我が『雲天宮』に来る時は、いつも馬車を使って門前まで来ていましたが。……城内の各施設がこれほど離れているのでは、無理もないことだったのですね。結婚する前までは、これほど城内が広いとは思っていなかったので、いつも、どうしてわざわざ城の中でまで馬車で移動するのか、疑問に思っていたのです」
 暎蓮の言葉に、
「ああ、……お姫様は、子供のころから結婚するまで、ほとんど『雲天宮』から出たことがなかったって言っていたものね」
 と、彪は答えた。
「そうなのです。『雲天宮』だけでも、私一人には広すぎると思うくらいだったのですが。物心ついてから、城の外に出たことがあった時は、結婚前の扇賢様との旅の時と、彪様と初めてお会いした時の『月沃国(げつよくこく)』への旅、それから、ナイト様のお国であられた、『砂養国(さようこく)』へだけです。ですから、その度に、城の中を見ながら馬車で移動するのも刺激的だったのですが、城外の街は、もっと、刺激的でした」
 暎蓮の感想に、彪はうなずいた。
「そうだろうね。……『雲天宮』は静かだし、『気』も清浄で、きれいな庭も、森も林も大きな池や滝まであるんだものね。それに、裏手にはもっと大きな山もあるし。それが、雑多で、いろんな質の『気』もたくさんある街や、違う風景や様式の、外国へまで行ったりしたら。……驚くのもわかるよ」
「ええ。……本来ならば、あの宮殿内だけが、一生、私の世界じゅうのようなものなはずでしたのにね。これが『天帝』様の『ご意志』であったのでしょうが、……いざ、自分の身の上を振り返ってみると、なんとも不思議なものに思えます」
暎蓮はそう言って、複雑な表情で、彪に微笑んで見せた。……その彼女の顔を見た彪は、尋ねてみた。
「その『天帝』様の『ご意志』は、お姫様にとっては、苦しいものだったの?」
「いいえ。……苦しくはありません」
 暎蓮は、すぐにはっきりと答えた。
「『天帝』様は、きっと、私にも、『外地』での知識が必要だから、と、あのようなご経験の機会をくださったのだろうとは思います。ですが、私は『雲天宮』だけの世界で過ごして、すでに二十二年も経っています。……そこから突然、外に出されても、『斎姫』としても、そして、『甦 暎蓮』個人としても、なにをどうすればいいのかが、わからなくて」
彪は、彼女に、一生懸命言った。
「でも、否定的な気持ちじゃないなら、それは、いいことだったんだよ。……扇様と結婚したことで、きっとお姫様の『世界』は、もっと、ずっと広がるもの。お姫様は『斎姫』としても、お姫様自身としてでも、たくさんできることがあるのに違いないよ。だって、あの、扇様と結婚したんだから。……扇様の中には、俺たちがまだ知らないような、『天地界』じゅうのいろいろなことがらが、信じられないほどたくさん、詰まっているんだよ。それを知ることができれば……。……思うんだけど、『外地』には、きっと、お姫様が好きになれるものが、たくさんあるよ。……そりゃあ……嫌いなものもあるだろうとは思うけれど。だけど、いざ、本当に『外地』に出たら、そういうものからは、扇様や王音姐さんやナイトさんに、……俺だって、お姫様のことを、必ず、護るようにするから。……それが、お姫様の周りにいる、俺たちみんなの『使命』でもあるんだと、俺は、思っているよ。それが『天帝』様の『ご意志』で、その結果が、お姫様が、みんなと一緒に旅に出るようになったことなんだよ、きっと」
「……そうですね。これからは、それが普通のことになるのかもしれません。……皆様との旅は、まだこれからも、たくさんあるのでしょうね」
 彪は、うなずいた。
「うん。……ここまでくるのに、時間はかかったかもしれないけど。……お姫様は、これから、きっと、もっと自由になるんだよ。『扇様』っていう大きな『翼』を得てさ。そして、『天地界』じゅうの空を、自分の意志で、自由自在に、飛びつづけるんだ」
「自由に、空を、飛ぶ……」
 暎蓮は、それを想像するように、胸に両手を当て、上を向いて、瞳を伏せた。……そして、やがて、目を開け、言った。
「……ありがとうございます、彪様。……彪様がそうおっしゃってくださると、本当にそうなるように思えます」
暎蓮は、彪の言葉を聞いて、やっといつものように優しく微笑んでくれた。彪は、ほっとした。
「私の『翼』になってくださる方は、きっと、扇賢様だけではないのでしょうね」
 暎蓮の言葉に、
「え?」
 彪が訊き返すと、
「きっと、彪様も、私が飛ぶお力になってくださる方なのです」
 彪は、真っ赤になった。しかし、それでもなんとか、彼は、言った。
「……お、俺に、なにができるかはわからないけれど、お姫様が『自由に飛ぶ』ためなら。どんなことだって、……手伝うよ」
「ありがとうございます」
 暎蓮は、微笑んだ。優しい手つきで、彼の手に自分の手を添える。
「もし、このお城から出ることがなければ、彪様と出会うことはできなかった……。それを思うと、私は、本当に、彪様に出会え、こうしてご一緒に過ごせることがうれしく、そのことが、……なににも代えられない、とても大切な『宝物』のように思えるのです」
「お姫様……」
片手を、彼女の優しい力で握られ、彪の胸の鼓動は高まった。
……しかし、その時だ。
第九章 彪の『気概』と、暎蓮
「おい、そこのお前」
ちょうど通りかかった宮殿の門前で、彪は門衛の兵士から、高圧的な口調で声をかけられた。門の両脇に置いてある石灯籠からの明かりが届かず、彪と暎蓮の姿は、影になっていたらしい。……兵士は、影から出てきた彪に向かって、言った。
「もう夜だぞ。お前らみたいな子供が、こんなところで、なにをしているんだ。……誰の子供だ?お前の父親の役職の名前は」
……彪は、舌打ちした。……今晩、これで三度目だ。
男性にあまり免疫のない暎蓮が、おびえた様子で後ろに下がる、その前に、立ちはだかるようにし、彪は、懐から身分証明書を出して、兵士に示した。
「……占天省の『巫覡』の白点です。公務で、城内を見回っています」
彪の差し出す身分証明書を見た兵士が、表情を一変させた。
「じゃあ、史上最年少で宮廷入りした、占天省の方っていうのは、もしや、あなた様で……?」
「ええ、まあ。……たぶん、そうだと思いますが」
彪は、そっけなく答えた。毎回同じ質問をされ、同じ反応を見せられるので、多少飽きてきたのだ。自分の父親の官位を訊く前に、こちらは占天省の紋の入った単衣をまとっているのだ、それくらい推察しろ、と彼はひそかに思っていた。
「ご公務でしたか。……失礼しました。ですが、もう夜です。お気を付けください。そちらの、お嬢様も」
「ありがとうございます。……では」
彪はそれでも、兵士に一礼して、暎蓮を促し、踵を返した。
「まったく……」
歩きながら、つい、言う。
「どの宮殿の前にも、警護の兵士がいて、いろいろうるさいことを言ってくるけど、お姫様、大丈夫?……気分が悪くない?」
「私は大丈夫です。……それは……、もちろん、殿方は、少し、苦手ですが。こうして、彪様が護ってくださいますし。……それより、彪様こそ、占天省の単衣をまとっていらっしゃるのに、その都度、誰何されて、大変ですね。……占天省に、いえ、宮廷の組織に入省したのは、彪様が史上最年少ですから、どうしても、城内では目立つのですね」
「そんな俺と、不老のお姫様が、こんな時間に一緒に歩いているんだから、無理ないのかなあ。……確かに俺は、まだ子供だし、誰か官位のある人に、城まで連れて来られたその子供だって思われるのは、仕方がないことだけれど、……俺としては、『俺』という人間は、『宮廷巫覡』として、毎日堂々と城内を歩いているんだから、いい加減、見慣れてほしいものだけどね。……まあ、お姫様にまでとばっちりがいかないだけ、ましだけれど」
「こんなはずではなかったのですが。……ごめんなさいね、彪様」
「お姫様が気にすることじゃないよ。あれがあの人たちの仕事なんだろうからね、まあ、……いい気分ではないけれど、仕方がないよね」
 暎蓮は、それを聞いて、微笑んでくれた。
 ……いくら歩いても、『妖異』はなかなか現れないので、二人は、時間稼ぎに、歩きながらいろいろと雑談をした。
 暎蓮は、彪が話す、街の中の出来事や、彪が休日は街でどんな仕事をして働いているのかを、楽しそうに聞いていた。
「……こんな話、つまらなくない?」
 彪が、途中で言ったが、暎蓮は首を横に振った。
「いいえ。とても楽しいです。私の知らない世界の話ですから。……私の毎日は、同じ宮殿の中での、同じことの繰り返しですから、彪様のご生活のようなお話が、少し、夢の世界の物語のようにも感じるのです」
「俺にしてみれば、王宮での生活のほうが、ずっと夢みたいだけどね」
 暎蓮は、その言葉の意味を察したらしく、はっと、口を押えた。
「……ごめんなさい、私、なにも知らないのに」
 彪は、笑った。
「気にしないでいいよ。……俺たちは、きっと、お互いが夢の中の住人同士なんだね」
 それを聞いた暎蓮は、少しさびしげな顔をした。
「……そんなことをおっしゃらないでください。私にとって、彪様は、今を生きる上での大切なお力になってくださる方なのですから」
「……お姫様」
 彪は、思わず顔を伏せた。夕闇で、見えないだろうとは思ったが、赤くなっていく自分の顔を見せるわけにはいかなかった。
 しかし、次の瞬間、彼らはそろって顔を上げた。……なにか、気配を感じる。
 場所は、城内を真正面からとらえると、西側の一角。
第十章 『邪念』と『時限式呪詛』
「お姫様、ここは……」
「『清白宮』、ですね」
 建物についている紋を見て、暎蓮が言った。
 先にも述べたが、『清白宮』は、王宮勤めの単身者の、男性用の寮である宮殿だった。
「なんで、こんなところに。昨日、俺、なにも気づかなかったけれどなあ」
 彪が言う。
「怪しい動きは、たった今、降り立ったようですよ。昨日、彪様がなにもお気づきじゃなかったのも、無理はありません。それと……」
「うん。あっちへ移動していくね」
 彪が指さす方向は、東側にある女性単身者用の寮である宮殿の、『湖白宮(こはくきゅう)』だった。『清白宮』と『湖白宮』は、城に常勤している者たちのための寮であるため、歩いて移動する者たちが楽なように、この広い城内の中でも、割合、他の重要施設と近い場所に、少し離れて向かい合うように建っている。
「『清白宮』の気配は、建物の内部には入っていないようです。外側の一部だけ。そして、移動していく気配は……」
「『湖白宮』の裏側に行った」
 暎蓮は、言った。
「彪様、『湖白宮』の裏側に、行ってみましょう」
「うん」
 二人は、少し急ぎ足になって、『湖白宮』裏側に向かった。
 宮殿の裏側に行くと、城内のあちこちにある石燈籠の数もさすがに減るからだろう、その光も届きにくくなり、建物の後ろ側はうす暗かった。
彪がその中で、大きな影に気付き、上を向いて、おもわず声を上げた。そして、言う。
「すごく、大きな木があるね。この馬鹿でかい『湖白宮』の建物以上の大きさだよ。……この木のこと、お姫様、知っていた?」
「いえ、ここにはめったに来ないので、全く知りませんでした。……ここで育って、何十年、あるいは数百年かもしれませんが、とにかく、だいぶ経っている木のようですね。……もう、かなりの老木のようです」
「まだ、微かに生きている『精(じん)』を感じるけどね。……でも、もう、ほとんど、朽ちかけている」
 『精』とは、自然物の持つ『気』の一種のことだ。
「『湖白宮』を建てる時にも、この木はわざわざ残しておいたのかもしれませんね、これだけ立派に育つと、伐るのがもったいないくらいでしょうから」
 暎蓮は、そう言いながら、その木の下に足を進めると、彪を手招きした。
「彪様」
 彼女のもとへ近づいた彪が顔をしかめた。
「……糸みたいに細いけれど、強烈な『邪気』を感じる」
「ここに、なにかが埋まっているのに反応しているようです。……一度、ここを浄化してから、掘り返してみましょう」
 二人は、そろって、しゃがみ込むと、木の根もとに片手をかざし、それぞれ、そこに、ふう、と、息を吹きかけた。
 二人の手が、暗い中、光を放つ。
 ……二人がかりで『聖気』を送り込んでいるのに、その『邪気』は衰える様子がなかった。
なかなか浄化作業が進まないのに対して、
「これは、相当、凝り固まっているな……」
 との彪の言に、暎蓮もうなずく。
「おそらく、何十年越し、ですね」
「そんなのが、なんで今さら、現れたんだと思う?」
「なにか、この日、この時間に『妖異』が現れるというような、時間設定をしてある『術』なのかもしれません。この中になにが埋まっているのかがわかれば、もう少し、手掛かりが得られるのですが」
 その時、雲が流れ、月明りが彼らを照らした。二人が手をかざしている木の根もとにも、その光が降り注ぐ。その光に当てられた木の根に、突如、大きな音ともに、ひびが入った。
 次の瞬間、強い『邪気』がそこから一気に漏れてきた。彪は、一瞬で強い『結界術』を発動し、暎蓮を後ろにかばった。
「お姫様、大丈夫!?」
「ありがとうございます、大丈夫です。彪様は?」
「なんともないよ」
 暎蓮は、ひびの入った木の根を見下ろしながら、
「発動設定は、この木が朽ちていき、葉が落ちて、ちょうど、この根に月明かりが当たる時、ということだったようですね」
 と、言った。
「本当だ、もうこの木の『精』が、完全に消えていった」
暎蓮は、うなずき、そのまま、彼に、
「ただの浄化では無理そうですね。おそらくこれは、『呪詛』です。しかも、『時限式』の」
 と言った。
「『時限式呪詛』?」
 彪の問いかけに、暎蓮は、再びうなずいて、言った。
「先ほどの『邪気』の動き方から考えると。この根もとの下に、なにか、『清白宮』に、かつていらした方を『呪詛』するものが埋められているようなのです」
「どうすればいいのかな?」
 民間の『巫覡』であった彪には、『呪詛』の経験があまりない。それどころか、そういった仕事は、あからさまに避けていたのだった。
第十一章 『呪詛』と『口寄せ』
 しかし、暎蓮は宮廷の『巫覡』だ。戦があった時は、前線に出て、相手の兵士たちを、その眼で『呪詛』するという役目がある。まだ実戦に出たことはないが、『呪詛』の訓練だけは、経験があった。それゆえに、彼女は、『呪詛』に関しては、彪よりも詳しい。
「彪様。ここに、『入(い)らずの布陣』を張ってみてくださいませんか。その中で、この『なにか』、を掘り起こしましょう。……その上で、浄化するか、滅するか、考えませんか」
「わかった。……発(はつ)!」
 彼は、目の前で両手を合わせ、自分と暎蓮、木の根を取り巻く形で、『入らずの布陣』を張った。
 『入らずの布陣』は彼の得意技で、『邪気』を遮断する効果や、『邪霊』を閉じ込めるなど、様々な使い方ができる、『結界術』を応用した布陣だ。
 木の根もとからの『邪気』が、『入らずの布陣』の浄化効果で、苦しいのだろう、暴れているのが見える。彪は、しゃがみ込んで、言った。
「ちょうど、ここに、手ごろな大きさの石が落ちてるよ」
「それを使って、掘り起こすわけですね」
「うん。……俺がやるから、お姫様は待ってて」
「私もやります!」
「いや、でも」
「これは、私のお仕事でもあるのです。……大丈夫です」
「うーん……。……じゃあ、……無理しないでね」
「はい。ありがとうございます」
 二人は、手に『聖気』を集め、『邪気』を遮断しながら石を持ち、時間はかかったが、木の根もとを掘り起こした。
「……壺だ」
 土の中から出てきたそれを見て、彪が言った。
「この中に、なにか『呪詛』のもとになるものが、入っているわけですね」
 暎蓮が、地面に石を置き、手についた土を払いながら言った。
「どうすればいい?」
「先ほどから、頭の中に、この『呪詛』を行った方の『念』のようなものが、わんわん響いてきます」
「ああ、この気持ちの悪さは、それだったのか。……この壺、開けるわけにはいかないね。恐ろしいことになりそうだ」
「話を早くするためには、この『呪詛』のもとになった方を呼ぶことですね。この類の『呪詛』を行う方は、大抵、もうこの世にはいらっしゃいません。……彪様。『口寄せ』をお願いできますか。私だと、経験があまりないので、時間がかかりそうです」
 『口寄せ』とは、死んだ人の魂を一時的に呼び戻す技のことだ。
『斎姫』である暎蓮にも、できないことはないのだが、どちらかというと、今度は、街での仕事で慣れている彪のほうが得意分野だ。
「うん。わかった。……じゃ、始めるよ」
 彪は、『入らずの布陣』を張ったまま、目を閉じた。『邪念』の中から、『呪者』の意識を探り出す。
 ……年数がたっているわりには、『時限式呪詛』が発動したからだろうか、すぐに『呪者』の意識が捉えられた。一度捉えると、それに呼応するように、どんどん意識が大きくなるのを感じる。……強い『邪念』だ。
「捉えた。……さすが『呪者』だ、すごい『邪念』だよ」
「やはり、そうですか。……では、お願いいたします」
「うん」
 彪が目を開ける。二人は顔を上げた。
 中空に、青白い顔をした女の上半身が浮かび上がっている。玉雲城の女官の衣装を着てはいるが、髪型が、女官の、結い上げられた長い髪ではなく、なんだか、素人が切ったような、整えられていない短髪だった。しかも、まだそれほど年を取った女ではないのに、その髪は真っ白だった。
「あなた様は、どなたですか」
 暎蓮が、言った。
『私は、かつて、この『湖白宮』に住んでいた、『瀬(せ) 羅羅(らら)』……』
「なぜ、どなたかを『呪詛』しているのですか」
『憎かったから。『合(あい) 前五(ぜんご)』が』
「その、『合』様とは?」
『今から三十年前、私と愛を誓いあっていた男』
「その方が、どうして憎いのですか」
『『合』は、私を、『世界中を敵に回しても、お前を一番愛する』と約束したのに、『浅南国(せんなんこく)』に留学した途端、私を忘れて、違う女のもとに走った。しかも、『巫覡』の身でありながら!』
『浅南国』とは、かつては『昏天国(こんてんこく)』と呼ばれていた、現在の『玉雲国』相手に反乱を起こしていた隣国だが、皇子時代の扇賢がそれを押さえ、今は『玉雲国』と統合されている、もう存在しない国だ。
「いや、『巫覡』なら、恋はご法度のはずでしょう……」
 彪が、少年としては恥ずかしいのだろう、小さい声で、言いにくそうに、ぼそぼそと言った。
 『巫覡』は、結婚するとその力を失うのが常だった。だから、恋も、本来は禁じられているはずなのだが。
第十二章 暎蓮に関する謎と、羅羅の身の上話
 余談だが、暎蓮は『斎姫』という『巫覡』の最高位だが、結婚している。だが、彼女は、結婚前、『結婚しても『斎姫』としての能力を失わない』、という『天啓』を視ていた。それが、相手が、『天帝の御使い』、『五彩の虎』という性を持った男、扇賢だからなのかどうかは、まだ謎のままだが。

 それはともかく、羅羅は、遠くを見るような瞳になって、言った。
『そう……。だから、私たちの恋は、あくまでも秘められた、清廉なものだった。私は、当時、『玉水宮(ぎょくすいきゅう)』に仕える女官だったが、『合』が『巫覡』だったから、結婚はあきらめて、『合』が仕官するのをただ見つめているだけのつもりだった。『合』が私を愛してくれていると思えば、そんなことはどうでもよかったんだ。だけど、あいつは……』
 羅羅は、唇を噛んで、叫んだ。
『『巫覡』の身である上、それを捨て、ほかの女と、結婚した。私のことを、すっかり忘れて!』
 羅羅はつづけた。
『『浅南国』からの留学を終えた『合』は、今度は文官としての身分で、『昏天国』に戻ってきた。そして、なに食わぬ顔で、この城の施設の一つである『桃木宮(とうぼくきゅう)(城に仕官する文官たちが何家族か合同で住まう宮殿)』で、『浅南国』から連れてきた妻とともに住みだしたんだ。その日から、私の存在を、すべて無視してね。……私は、すべての事情を知り、激情を押さえられなかった。なにがしかの言い訳を作り、『合』の妻を呼び出し、ここで、殺した』
「それでは、この壺の中身は……」
『私の、髪さ』
 羅羅は、凄味のある顔で、笑ってみせた。
『女官の髪は、長いからね。……それに、私の髪は、『お前の髪は、どの女のものより美しい』と、『合』によく言われていたんだ。だから、そのあてつけをも込めて、この髪で、『合』の妻を縊り殺し、髪を切って壺に入れ、封じておいたのさ。もし、三十年ほどもたっても、まだ、『合』が私を思い出さなかったなら、これを使って、必ず、『呪詛』して殺してやろうと』
「先ほど、『清白宮』にも『邪気』を当てたのは、『合』様の存在を確かめるためですか」
『その通りさ。あの男の妻の死体は、『清白宮』のかつてのあの男の部屋の外に埋めたからね。……『合』は、結婚して『桃木宮』に住んではいたが、『清白宮』にも自分の仕事道具を置いて、独身の時同様に、部屋を使っていたんだ。そこは、死体を埋めるのにちょうどいい場所だったんだよ。だからさ。それに、『桃木宮』は、所帯を持った文官の家族たちが、任期ごとに、入れ代わり立ち代わり入る宮殿だ。私の恨みとはまるで関係のない、その人たちを巻き込もうとまでは、さすがの私にもできなかったのさ』
「だけど、今まで、『清白宮』の外に、死体が埋まっているなんて気配、感じなかったけどなあ」
 彪が、また言った。
『それはそうさ。私は、妻を殺したその後処理を、『仙士(せんし)(民間の、『気』を使った『術』で、客の様々な要望に応える生業をしている者)』に託したからね。いかに、坊やが『巫覡』であったとしても、あの場所に最初から関心が向かない、死体の『気配』を絶つという『術』の波動を受けつづけていれば、なにも感じないさ』
 それを聞いた彪が、苦々しげに、言った。
「……『仙士』の『術』とはね。俺も、まだまだ修行が足りないな。……それで?羅羅さんは、これからどうしようと思っているの?」
『決まっているさ。『合』が生きている以上、私の復讐はつづく。……今から、『呪詛』の力で、あの妻の遺体をよみがえらせるのさ。そして、あの男をその妻に殺させる。あいつの魂を、『滅界(めっかい)』に落とすためにね』
「ですが、あなた様も、もうお亡くなりになっているでしょう」
 暎蓮が口をはさんだ。羅羅は、言った。
『あいつの妻を殺した後、自分が情けなくなって、女官をやめ、故郷に戻り、入水したのさ。だが、『罪』を犯したせいか、死んでも魂はどこにも行けず、今日、『呪詛』が発動するまで、ずっとこの世界のあちこちをさまよっていた。……それというのも、みんなあいつのせいじゃないか。だから、こうして、戻ってきたんだ』
第十三章 白髪の『怨念』
「その御髪(おぐし)の色も、その方が憎いとお思いになった結果ですか」
『そうさ……私の髪は、泣いているうちに、どんどん色あせていったんだ。あいつへの愛も薄れていくのと同時にね』
「ですが。霊体の身で、そんなお力を振り絞れば、あなた様のほうだって、ただではすみませんよ」
 羅羅は、やけになったかのように笑った。
『……『巫覡』さん。あんたはもとから結婚しない身だろうから、この気持ちがわからないのさ。慕っていた男に、裏切られたことの悔しさがね』
 暎蓮は、それには答えず、彪を見た。
「……彪様、『清白宮』に『合』様という方は、本当に、まだいらっしゃるのですか」
「苗字が『合』さん、は、何人かいるけれど、どれがその人かまでは……。それに大体、今も単身者なのかなあ」
『ああ。『合』は、『清白宮』にいるよ。あいつの気配を、感じたもの』
 羅羅が鋭く言った。
「そうですか。……それでは、今から、三人で、『合』様にお会いしに行きましょう」
 暎蓮の言に、ほかの二人は驚いた。
『あ、『合』に会わせてくれるのかい?』
 羅羅の言葉に、
「そうでなくては、羅羅様もお気が済まないでしょう。そして、奥様を殺された側の『合』様にも、ご言い分はあるかもしれません」
 暎蓮は、そう言うと、彪に向かって、
「……彪様、一度『口寄せ』を解いてください。それから、『入らずの布陣』も。『合』様にお会いできたところで、もう一度、羅羅様をお呼びしましょう」
 彪は、暎蓮の意外に大胆なところに、ぽかんとしていたが、あわてて、
「う、うん、わかった」
と言い、今度は羅羅に、
「……羅羅さん、それじゃ、いったん俺から離れて」
 と言って、口寄せを解いた。羅羅が姿を消す。

「……お姫様、本当に大丈夫なの?」
 彪と暎蓮は、彪が両手に『聖気』を集め、羅羅の髪の入った壺からの『邪気』を受けないように持ち、二人そろって『清白宮』まで戻りながら、話した。
「なにがですか?」
 彪の問いに、暎蓮が答える。
「羅羅さんと『合』さんを会わせてさ。あの調子じゃ、羅羅さん、その場で『合』さんをとり殺しかねないよ。『合』さんの奥さんをよみがえらせるとかなんとか、物騒なことも言ってたし」
「……羅羅様は、『合』様をお慕いしていたからこそ、お怒りなのでしょう。ですが、奥様を殺された『合』様だって、頭にきていると思います。この二つの『怒り』の力は、相当なもののはず。いっそ、それ同士をぶつけ合い、霧散化させたほうが、却って収まるのが早いかもしれない、と踏んだのですが」
「それは無理じゃない?だって、『合』さんは、恨みの気持ちを持ってはいても、もと『巫覡』で、今は普通の人間なんでしょう。もし恨んでいたとしても、それを『力』に変えるための素質が、もうないはずだよ」
「そうでしょうか」
暎蓮は、城内のあちこちに立っている、石燈籠の前で、立ち止まり、彪を見た。
「羅羅様のお話を聞いた限りでは、『清白宮』の外には、埋められた『合』様の奥様のご遺体があるとのことでした。でも、『仙士』の方に後を託した……すなわち、ご遺体からの『気配』が漏れないように『術』をかけていただいた、とはいっても、それはご遺体が埋められた後のこと。その前、殺された直後に、奥様の魂自体が『恨み』を放ち、その『邪念』で、『合』様に憑りついていたら、どうなると思われますか」
「羅羅さんにじゃなく、『合』さんに?つまり、遺体が埋められる前に、『合』さんは奥さんに憑りつかれて、その奥さんの『邪念』の力で、今はもう、『合』さん自体にも羅羅さんを『呪詛』できる能力があるかもしれないってこと?」
「はい。羅羅様ではなく、『合』様に憑りついたのは、おそらく、『合』様を使った、羅羅様への復讐のため。……ありえなくはない、気がしているのですが」
「そうだなあ。……たとえば、街で、『仙士』を名乗る者は、結構、いかがわしい人たちが多いんだ。大した『術』も使えないのに、お金のためなら、なんでもするような人もいる。……もしかすると、もう『合』さんの奥さんが『合』さんに憑りついた後に、それがわかっていても、羅羅さんにはそのことを言わずに、そのまま遺体を埋めて、その後、遺体の『気配』を消す『術』を行って、羅羅さんからお金をもらったってこともありえるのかもしれない」
彪は、壺を持ったまま、両腕を組んで、そう言った。
第十四章 彪の疑問と、暎蓮の推測
「だけど、羅羅さんは、どうして、あそこに遺体を埋めたのかなあ?いくら『合』さんを『呪詛』するためでも、遺体の気配を消して、その当人の『合』さんが、平然としているんじゃあ、『呪詛』の意味がないんじゃないかと思うんだけど……」
「それはたぶん、羅羅様の、女性としての『優しさ』だと思います」
「え?」
「『三十年』の『猶予』という期間を作ったのは、その間に、もしかしたら、『合』様がご自分のなさったことを悔いてくださるかもしれない、と、望みをおかけになったからではないでしょうか。あるいは、羅羅様は、その間に『合』様が、いっそ、『天行者(てんぎょうじゃ)(『巫覡』の力は持っていないが、『天帝』を信仰して修行に精を出す人のこと)』にでもなっていてくださったら、その時点で、『呪詛』は取りやめるおつもりだったのかもしれません」
「じゃあ、その『合』さんが、今も変わらず、ここにいることで、羅羅さんは、『合』さんがなにも悔いていない、ということを感じて、怒っているわけだね」
「そうではないでしょうか。ですが、羅羅様は、もはや魂だけの身。この世をさまよっていたとはいえ、『時限式の呪詛』が発動する、今日、この時にならないと、あの方は、この場所に連れ戻されなかったわけです。……たまたま、私たちがその時間に羅羅様を呼んでしまった、ということもありますが。魂だけの身とはいえ、三十年たって、もう一度裏切られたという気持ちは、はかりきれません。……羅羅様は今、おそらく、それこそ、刺し違え、ご自分もろともであっても、『合』様を『滅界』に落とされるお覚悟でいらっしゃると思います。そして、三十年もの時間をかけて膨らんだ、『合』様と奥様の『恨み』。これは、『羅羅様』という物理的対象者がいない今も、やり切れないまま、想像もつかないほどまで大きくなっている可能性があります。だから、もしかすると、『合』様は、羅羅様の居場所を探り当て、『滅界』どころか、『地獄界』にまで落とす『呪詛』を、かけるおつもりで、ここまで過ごされてきたのではないかと思うのです」
「で、でも、それぐらい大きな恨みを持つ人がいたら、それが外ににじみ出ないわけがないよ。同じ『清白宮』に住む、俺たち占天省のほかの『巫覡』にだって、わからないわけがないと思うんだけど」
「……もしかすると、なにかしらの方法で、その恨みを、周りの方には隠す『術(すべ)』を、手にしているのかもしれない、とも思うのですが。たとえば、強い、『意志』の力で恨みを抑え込んでいる、などですが、……これも、どうも……。普通の精神力の方には、なかなかできることではないでしょうね。そこが、わからないところです」
「あるいは、『合』さんは、奥さんを殺したのが羅羅さんだって知らなくて、羅羅さんに対して、恨みの気持ちは持っていないって可能性も、あるんじゃない?」
「そうですね。……ですから、これは、あくまで、『合』様が、奥様の霊体に憑りつかれていた場合、という仮説に基づいて、の話になってしまうわけですが」
暎蓮は、顎に手を当てた。彪が、改めて、言う。
「もっと言うと、もし、『合』さんが、憑りつかれていて、羅羅さんを恨んでいたってことが事実だったとしても、そんな大きな二つの『邪念』をぶつけ合わせたりしたら、その力がはじけて、城じゅうに被害が及ぶんじゃないの」
 暎蓮は、微笑んで、彪を見た。
「そのために、彪様がいらっしゃるのではないですか」
「え?」
 彪が戸惑う。
「彪様の『入らずの布陣』は、強力な『結界術』であると同時に、『邪念』、『邪霊』を漏らさず集め、逃さない効果もあるわけです。もし本当に、霧散させるのなら、城内に影響のないように、もちろん、その中で行います」
「あ、ああ……」
 暎蓮が、まさかそこまで自分を頼ってくれているとは思わなかったので、彪は少しどぎまぎした。
 暎蓮が再び、ゆっくり歩きだしながら、言う。
「……それにしても。やはり、腑に落ちないと思いませんか、彪様」
「なんのこと?」
 彼女の後を追いかけて、小走りになりながら、彪が答える。
「羅羅様のお話です。三十年前の『時限式呪詛』は、そういう設定だったのですから、今、発動したのも、納得がいきますが、『清白宮』の外に『合』様の奥様のご遺体を埋めたのも、その『気配』を絶つ『術』を施したのも、どこかの『仙士』様。時間が経ちすぎている割には、妙に、『術』がしっかりしている、というか……」
「うん。それは俺もおかしいと思っていたんだ。……普通なら、三十年も経っていたら、もう『術』が崩壊していて、『気配』が漏れ始めてもいいはずだ。だけど、『清白宮』では、遺体の『気配』なんて、今でも感じられないくらいだもの。なにか、変だよね」
「その『仙士』様という方、よほどの手練れだったのでしょうか。それとも……」
 彼らはそこで、『清白宮』前にたどり着いた。二人そろって、立ち止まる。
第十五章 『合 前五』との面会
「『合』さんの下の名前って、なんだっけ、お姫様」
 『清白宮』の門から少し離れた、入り口から見て少し斜め前の位置で立ち止まり、彪は暎蓮を振り向き、尋ねた。
 暎蓮が、少し目を細め、思い出す努力をしてから、
「確か、……『前五』様と」
 と答える。
「……『前五』さん、ね。……じゃあ、俺、受付で、部屋番号を見てくるよ」
「はい。……お願いします」
 彪は、門前兵士に身分証明書を見せると、門を抜け、宮殿の入り口の中に入っていった。暎蓮が、門前から少し離れた場所で、門の中の宮殿入り口を見守る。
 ……ほどなく、彪が出てきた。暎蓮が、彼に駆け寄る。
「……いかがでした?」
「部屋の札には、確かにあったよ、『合 前五』って人の名前が。一階の部屋みたいだったから、羅羅さんが言っていた通り、そのすぐ外に遺体を埋める、なんてことも考え付いたんだろうね」
「そうですね。……なるほど、やはり、ここに『合』様という方は、確かにいらっしゃるわけですか……」
 暎蓮が、少し思案するような顔をした。その彼女に、彪が言う。
「俺、『合』さんを呼んでこようか?」
 暎蓮は、うなずいた。
「ええ。お願いします。……でも、その前に。……一度、私たちも現場を見てみましょう」
『合』の妻の遺体の埋まっている場所のことらしかった。
「うん。それが先だね」
 『清白宮』の裏手に行くと、先ほど『邪気』が流れた場所に、もうほとんど感じないほど微かにではあるが、その痕跡が残っていた。
「たぶん、ここだ」
 彪は、すでに草が生え、湿った印象の地面の土の一部を目で示して、言った。
「と、いうと、……このお部屋が、『合』様のお部屋というわけですね」
 暎蓮が、カーテンを掛けられ、中が見えなくなっている部屋の窓を指さした。一階の、……ちょうど、裏庭に面した、角部屋だ。
「明かりがついてる。『合』さんは、今、部屋にいるんだ」
 カーテンの隙間から光がさしているのを見て、彪が言う。
「ええ」
暎蓮は、彪に、窓を示して、言った。
「……それでは、申し訳ありません、彪様。もう一度、お願いできますか」
 日頃『雲天宮』で、男性と隔絶された生活を送っているため、男性との接触が苦手な暎蓮が、申し訳なさそうに、彪に頼む。頼られた彪は、二つ返事で、
「わかった。でも、この窓越しでいいの?」
 と言った。暎蓮が、また、なにか考えながら、言葉を紡ぐ。
「占天省所属である彪様からのお呼び出しでは、受付の交換台を通してでは、警戒して出てこない場合があるかもしれません。ここからのお呼び出しでも、……仕方ありませんね」
「受付を通すとなると、名乗る時、怪しまれないように、所属名を出さないわけにはいかないからなあ。嘘を言うわけにもいかないし。……じゃあ、なんて、言う?」
「……そうですね。『『麗水宮』からの要請だ』とおっしゃってください。いきなり『占天省だ』と言ってしまうと、やはり警戒するかもしれませんから」
「王様直属の宮殿である、『麗水宮』からなら、もっと驚くんじゃない?ついでに言うなら、俺たち、この単衣を着ているんだから、すぐに正体が丸わかりになる危険もあるけど。……でも、まあ、意外性がある分、少なくとも『雲天宮』を名乗るよりかはましなのかなあ。……よし」
 彪は、手を伸ばして、『合』の部屋の窓を叩いた。二度叩き、少し間を開けて、もう一度叩くと、窓が開いた。
 片手でカーテンをよけ、窓から顔を出したのは、五十がらみの男だった。彪を見て、
「なんだ、君は?」
 と言う。
「白点 彪と申します。……『麗水宮』からの使いの者です。こちらへ」
「『麗水宮』の使い?なんで、私に『麗水宮』から……」
 『合』は、首をかしげたが、ふと、彪のまとっている占天省の制服に目をとめた。
「君、その単衣は」
 『合』が言いかけたところで、その言葉を止めるように、彪の後ろから暎蓮が進み出た。
第十六章 『羅羅』と『合』の邂逅
暎蓮も、どうにか、『巫覡』の一端として、勇気を出したらしい。
「ごきげんよう、『合』様。……あなた様にお会いしたいというお方をお連れしてきています。どうぞこちらへ」
「……その占天省のお衣装と、御髪(おぐし)!あなた様はもしや」
 もと『巫覡』の『合』が、暎蓮の髪の結い方に覚えがあるように、驚きの声を上げる。暎蓮は、それを制するように、言った。
「ええ、まあ。ですが、今はわたくしのことより、あなた様のことです。お部屋から出られないのであれば、せめてもう少し窓際においでください」
「恐れながら、おうかがいしますが、……私に誰が会いたいというのです?なぜ、こんな形で?」
「事情は、すぐにわかります。……でも、その前に。……こちらからも、お訊きしたいことが、あります」
「私に?……なんでしょう」
「……なぜ、三十年前に、『瀬 羅羅』様を、裏切り、他の女性のもとへ走ったのか、です」
『合』は、顔をしかめた。
「なぜ、そんなことを?」
「調査上の機密事項です。お答えください」
 暎蓮は、畳み掛けた。その彼女の言葉に、『合』は、苦い顔で、仕方なさそうに、言った。
「……男というものは、一人ではいられないものなのです。特に、私は『巫覡』だったとはいえ、若かった。……一人でいるのは、耐えられなかったのです」
「この国に残されていた、羅羅様のお気持ちは、お考えにならなかったのですか」
「別の国で暮らすことに懸命になっていた私には、そこまで考えが及びませんでした。すがるものが必要だったのです。それが、新しい妻でした」
暎蓮は、顔から表情を消して、言った。
「御事情は、それだけですか」
「それが、事実です」
 暎蓮には、羅羅が怒る気持ちを想像することができた。もし、自分が同じ目に遭ったら。しかも、相手の言い分がこれでは……。
「なるほど。……これは……。……擁護の余地は、ないようですね。……では、『合』様。あなた様にお会いしていただきたいお方と、ご面会を。……彪様。お願いします」
「うん」
 彪が目を閉じ、もう一度羅羅を呼び出す。今度は、慣れたせいか、気配がすぐにつかめ、魂を捉えられた。
「……いくよ」
「お願いします」
 彪が息を吸い込み、吐き出す。
……中空に、先ほどの瀬 羅羅の顔が浮かび上がる。
 『合』の顔つきが変わった。
「…………やはり、お前か、羅羅!」
『『合』!ようやっとお前に会えたね!』
 羅羅が、怒りのあまり、青ざめた顔で叫んだ。霊体のはずなのに、その額に青筋が浮かんでいる。
「先ほどなにかを感じた気がしたんだ!あれはやはり、お前の『気』だったのか」
『へえ?あれに気付いていたのかい。……ならば話は早い!』
「!」
 彪が持っていた、羅羅の髪の入った壺がいきなり派手に割れ、壺の破片が下に散らばった。その場に一気に、濃度の濃い『邪気』が広がる。
彪は、仰天して、とっさに暎蓮と自分を囲う形で、『結界術』を張って壁を作った。
壺の破片の中から羅羅の白く色あせた長い髪が流れ出、その髪はまるで蛇のようにうねった。それが、次の瞬間には、鋭いとげのようになって飛び、『合』に向かう。
 羅羅の霊体が窓から部屋に飛び込み、その、『合』の妻を殺すために切ったという、短かい髪も、長く伸び、まるで網のごとく姿を変えて『合』を捕えようとした。
第十七章 『羅羅』対『合』
 『合』は、懐から、柄の部分になにか『符』のようなものが貼ってある短刀を取り出すと、それで素早く、自分を捕えようとする、羅羅の、網のように形を変えた髪を切り裂いた。それを見た羅羅が、歯噛みする。
「羅羅さんの『気』に気付いていた?」
 彪が、『合』の台詞に驚いて、叫んだ。……もう『巫覡』ではない彼が。……それに、あの短刀。なにか、外部から、『力』が与えられている。
「まさか」
 彪が言っている間にも、
「……この、悪鬼め!」
 『合』の顔も、先ほどとは違って、魔に憑かれた顔になる。その背後に、暗い表情の、鬼のような顔をした女が浮かび上がった。
 ……暎蓮は、その彼女を見て、眉根を寄せた。……なにかが、おかしい。
「……やっぱり!……憑りつかれてる!」
彪が言い、それはその通りなので、暎蓮もそこにはうなずく。
『合』は、羅羅の『邪霊』から伸びる長い髪の攻撃を、今度は跳躍して、さかさまになり、天井に着地する形で、よけた。そのまままた、飛び降りて、部屋の床に着地する。……確かに、普通の人間にはできない動きだった。
羅羅が、歯を食いしばり、その口から牙が伸びる。彼女の手の爪も、長く伸び、羅羅はそれで、また『合』を襲った。『合』がそれを片手を出して、自分の持つ『邪気』を、まるで盾のようにし、防御する。その『気』の使い方は、『結界術』にも似ていた。
「……な、なんだ!?あれ……!」
 それらを見た彪が、さすがに声を上げる。……あの『気』の使い方。常の人間にはできないことだ。
「あの盾みたいなの。……『結界術』に近いけど、『邪念』でできている。もと『巫覡』であったとしても、あの『気』の使い方。……普通だったら思いつくはずはない」
「『合』様のあの動きもです。……不自然すぎます。……これはもしかして」
 暎蓮がそう言っている間にも、激しい霊波同士がぶつかり合い、その衝撃で、部屋が派手に揺れた。
彪があわてて、今度は、『清白宮』自体と、中にいるほかの人たちを護るため、外にいる自分たちと、『合』の部屋だけを囲む形で、『入らずの布陣』を敷きながら、隣に立つ暎蓮に、言う。
「やっぱり、お姫様の読み通りだったね」
「……いえ、そうではないかもしれません」
「え?どういうこと?」
「『合』様には、どこか外から、力が働いています」
 彪が、はっとした。
「あの短刀の、『符』……」
「ええ」
「……『合』さんが、自分で作り上げた『符』?奥さんに憑りつかれている、その『怨念』の『力』かな?」
 暎蓮がそれに答える前に、『合』は、今度は口から羅羅の魂に向かって自分も『邪気』を吐いた。羅羅が、長い髪で、自らの身を包み、繭のような形をとってそれを遮断する。
 ……戦いに、一瞬の間があった。
 その時、二人は、同時に同じことを叫んだ。
「『この三十年、お前のことを忘れたことなどなかったよ!』」
 羅羅が、
『私を裏切っておいて、よくそんなことが言えたものだね。……おとなしく、『滅界』に落ちな!』
「お前こそ、私の妻をよくも殺したな!おかげで私は、三十年前からずっと、妻の亡霊に悩まされつづけて生きてきたんだ。……この女も、お前と同じくらい執念深くて、毎夜毎夜『恨みを晴らせ』と言ってきて、もう、たまらなかったよ。『恨みを晴らさないのなら、お前もとり殺す』とまで言ってきて……。街の『仙士』に頼んで、妻の『念』を少しずつ自分に取り込むことで、なんとかここまで生きながらえてきたがな。お前の『邪霊』を滅せれば、私の中から妻の念も消え、今度こそようやく安楽が来る。さあ、今すぐ、『地獄界』へ行け!」
「お姫様!『仙士』って……。……じゃあ、ここまで『恨み』を隠し通せていたことも、あの短刀の『符』も、そして、羅羅さんの最初の『気』に気付いていたことも」
 彪が、改めて驚いた顔で言う。暎蓮も、やや、顔を厳しくして、うなずいた。
第十八章 『合』の能力とは
「『合』様のお力の一つには、亡くなられた奥様からの恨みの『念』を自分に取り込む形の、『怨念』の内包もあったようですが。……どうやら、このお二人、お互いに、『仙士』の方に、お相手を『呪詛』するお力をいただいていたようですね。……同じ『仙士』様にかどうかはわかりませんが」
「……『仙士』は、街にはたくさんいるし、普通なら、同じ人だとは考えられないけどね」
 まだ呆然とつぶやいている彪の言葉に、暎蓮は、うなずきつつ、つづけた。
「ええ。……『術』がほどけにくかったのは、羅羅様の『呪詛』のものは、あらかじめ、『三十年間』という『時限式』の技を施されていたからかもしれませんが、『合』様のお持ちだった、ご自分の持つ『邪念』を隠すものと、奥様の遺体の『気配』を隠すほうのものは、この三十年間の間、数度にわたって、同じ効果のある『術』を、『仙士』様から施されていたからかもしれませんね」
そう言っている間にも、羅羅と『合』の戦いはつづいていた。羅羅の長い髪が、『入らずの布陣』内を跋扈し、『合』が、持っていた短刀に『邪気』を集め、その髪を切り裂き、その刃で羅羅を襲う。
「『合』様は、『仙士』様からの力のおかげで、すでに、常の人間としての能力を越えた『妖物』に近くなっていますし、羅羅様は、魂だけとはいえ、これだけの『怨念』の持ち主。……これは。やはり、お互いの力でしばらく削り合っていただかないと、滅するのも浄化するのも、難しそうですね」
 そう言っていた暎蓮の足元に、『合』が口から吹いた流れ弾の『邪気』の塊が飛んでくる。彪は、あわててそれを、片手に『聖気』を集めて、防いだ。彼女の体を、下がらせる。
 その時、羅羅が、信じられないことをやろうとした。
『お前の妻の体を、呼び起こしてやる!』
 羅羅は叫ぶと、窓から部屋の外に飛び出し、土中に埋められた妻の遺体の場所に向かって行き、『合』を振り返って、にやりと笑った。
彼女が、自らの『怨念』を、埋められた遺体に込めて、妻をよみがえらせようと、霊体である両手を地面にかざす。
彪が、はっとした。叫ぶ。
「だめだ、羅羅さん!……離れて!」
しかし、彪の叫びは遅かった。次の瞬間、羅羅の霊体は、いきなり、土の表面で『邪気』でできた網のようなものに捕えられた。……これも、なにかの『術』の力が働いているのだ。
「『合』、貴様……!……これも、『仙士』の『術』かい!」
「お前の魂を捕え、『地獄界』に落とすためさ」
 『合』はそう言って、高笑いした。
 羅羅が、土中に引きずり込まれつつ、髪を振り乱しながら、『合』をにらみつける。
「今度は、私の番だ。これから、お前の魂を妻の遺体に入れて、よみがえらせる。そして、この短刀でおまえを妻ごともう一度殺し、今度こそ、『地獄界』に落としてやる。……そこの『巫覡』たちも。事情を知られたからには、邪魔だ。ついでに殺す」
「そんなこったろうと、思ったよ!」
 彪が、眉間にしわを寄せて、毒づいた。
 暎蓮も、
「やはり、そのおつもりでしたか」
 と、言う。
 そう言っている間に、羅羅の霊体は『術』に絡み取られ、どんどん、遺体の埋まっている土中に引きずり込まれていく。
「まずい、魂なしで、遺体をよみがえらせれば、魔物になってよみがえる可能性が高いけれど、奥さんの遺体に羅羅さんの魂を入れてよみがえらせて、その体をあの短刀で刺したりしたら、それこそ『符』の力で、羅羅さんの魂は滅されてしまう!」
 彪が、立ちすくんだ。
「『合』さんは、それを狙っていたんだ!」
『入らずの布陣』内で、地鳴りがし始めた。
「……遺体が、よみがえる……!」
 彪と暎蓮は、寄り添ったまま、土中を見つめた。
第十九章 『合』の本性
 やがて、土が、盛り上がり始め、動き出した。
『合』が高笑いして、
「こいつを殺せれば、私の勝ちだ!」
 と、叫んだ。
「……『合』さん、あんた……!」
 『合』のあまりに驚かされる行動に、彪が愕然として、つぶやいた。
「……彪様!」
遺体がよみがえるところなど初めて見るのだろう、恐ろしくなったのか、暎蓮が、彪に身を寄せる。その彼女の動きに、我に返った彪は、暎蓮の肩に手をかけ、うなずいてみせた。
「大丈夫、お姫様。……お姫様のことだけは、必ず、俺が、護るから」
 それを聞いた暎蓮は、瞳を潤ませた。……彼女もまた、しっかりと、うなずく。
 土が崩れる音に、二人は再び振り向いた。
 土がはじけ、辺りに飛び散る。
そして、そこから。黒い塊が、地上に出てきた。……人間の、片腕だった。
 もう片方の手先も、地上に出てきて、二本の手は、土を押しのけ、また、払い、遺体の肉体自体が、地上に出て来ようとしていた。
「彪様……」
「うん」
 彪は、暎蓮に握られた手を、握り返した。
 土の中から、もう変色した皮膚を持った、腐って崩れかかった衣服をまとった、女の姿が、起き上がろうとしていた。その首には、かつて羅羅の髪で縊り殺された痕だろう、黒いあざがある。
 三十年前に死んだわりには、保存状態が良すぎる死体だった。やはり、『仙士』の『術』の力に違いなかった。
「私は……」
 女は、かすれ声で言った。まだ、声もよく出ないようだった。
「お前は、羅羅だろう」
 『合』にそう言われて、女は、我に返ったように、つぶやいた。
「私は、『瀬 羅羅』……。なのに、この体は」
「恨みを、晴らさせてもらうぞ」
 『合』は、そう言って、短刀を構えた。
『合』は、自分の背後にいる妻にも言った。
「……お前も、それで、もう、いいな?」
 そこで、信じられないことに、初めて、『合』に憑りついていた妻が、口を開いた。
『冗談じゃ、ないわ。……あなた。私が、知らないとでも、思っているの?』
 一同は、『合』の妻を一斉に見た。
『……あなた……。確か、『羅羅』さん、と言ったわね』
 妻は、自分の肉体に入った羅羅を見て、言った。
『確かに私はあなたに殺されそうになったけれど。私は、まだあの時、死んではいなかった。気を失っていたところを、街の『仙士』にここまで運ばれて……。どうなることかと思ったわ。その時、この男は、あなたの頼んだ『仙士』と取引して、私をその『仙士』に殺させて、そのうえで、ここに私を埋め、私の死体の『気配』がここから漏れない『術』をかけさせたのよ。だけど、一瞬早く、私は、この男になんとか憑りつくことができた。私が恨みを晴らしたいのはむしろ、……この男のほうにだわ』
「同じ『仙士』様が。……なんてことを……」
 暎蓮が、袖で口を覆った。
 妻は、つづけた。
『この男は、私と結婚したけれど、それは単なる気まぐれにすぎなかった。すぐに、私にも飽きて、鬱陶しがっていたわ。あれやこれやと言い訳を作り、女遊びも、散々していたしね。……つまり、口先だけの、本当は、情のない男なのよ。そこの『巫覡』様のおっしゃっていた通り、私が死んだその後も、街の『仙士』に頼みつづけて、自分が私にとり殺されないように、と、自分が私に憑りつかれていることが他人にわからないように、『術』が解ける前に、何度も重ねて同じ『術』をかけさせつづけていた。機会があれば、すぐにでも、憑りついた私のことも滅したいと思っていたくせに、なにかあったら、すべてを羅羅さんのせいにしようとして、長い間、羅羅さんを恨みつづけるふりをしていた。……ひどい人!』
「じゃあ、奥さんが『合』さんに憑りついたのは、『合』さんに、羅羅さんへの恨みを晴らさせるためじゃなくて、最初から、『合』さんを恨んで、『合』さんをとり殺すつもりでのことだったのか!」
 それで、ようやく、数々の疑問点に合点がいった。彪は、『合』に向けて、言った。
「……羅羅さんへの『呪詛』も。ただの演技だったのか!?」
それに対して、『合』は、言った。
「『呪詛』は演技じゃないよ。……こんなしつこい女。たとえ、霊体だけでも、邪魔だ。ましてや、私を恨んで、『呪詛』をかけていたなんて、考えただけでも鬱陶しい。私を恨んで死んだのはわかっていたから、滅せるものなら、滅したいと、ずっと、思いつづけていたのさ。それがたまたま、『呪詛』という形を取っただけだ」
それを聞いた彪は、眉間にしわを寄せた。……彼は、強く『合』に言い放った。
「『合』さん。……あんた、羅羅さんと、奥さんに、謝れよ!」
「なに!?」
 子供である彪に、叱咤されるとは思わなかったのだろう、『合』が怒りの形相になる。しかし、彪は、そんな『合』の表情など歯牙にもかけずに、言い切った。
「もとはと言えば、あんたが悪いから、羅羅さんも奥さんも、苦しんで死んだんだぞ!」
「坊や……」
 変色した肉体に入ったまま、土の中で座っていた羅羅が、彪の意外な言葉に、声を詰まらせた。
当の『合』は、今度は言い訳するように、叫んだ。
「わ、私だって、こんな女たちは願い下げだったんだ!もっと若く、美しく、従順な……そう、そこの『斎姫』のように!そんな女だったら」
「……あんた!」
 彪が、本格的に怒りの表情になった。暎蓮も同様のようだった。
 その時、ずるり、と音を立てそうな勢いで、妻は、『合』の体から離れた。『合』の目の前に浮かんだ妻の霊体は、言った。
『……あなた。もはや、なにも言わないわ。……死んで!』
 妻の額から、角が生えた。顔が、鬼に豹変する。
 妻は、部屋の外にいた、自分の肉体内の羅羅に言った。
『羅羅さん。……あなたの力も、少しお借りするわ。私も、もう、魂の力があまり残されていないの』
「えっ」
 羅羅が、戸惑ったかのように声を上げた。
 次の瞬間、妻は、羅羅に素早く向かい、自らの肉体に飛び込んだ。一つの体の中で、二つの魂が、強引に一体化される。妻の肉体の中から、羅羅の悲鳴が聞こえた。
「ええ!?」
 今、目の前で起きた現象に、驚きのあまり、彪と暎蓮が、思わず叫んだ。
第二十章 『鬼』対『合』
 妻と羅羅の、一体化した魂を宿した肉体は、天に向かい、すさまじい咆哮を上げた。空気が震える。その額に角が生え、口からは大きな牙が伸び、彼女は『般若』以上に恐ろしい顔をした『鬼』と化した。
……肉体は、立ち上がり、彼女たちは、上空を向いていた顔を、部屋の中、窓から見える、彼女たちの正面にいる『合』に向けた。そして、走り出した。土を蹴散らし、轟音とともに、彼女たちは『合』に向かった。
 妻と羅羅の魂を宿した、もと遺体は、『合』へ向かっての直線コースには障害となっていた『清白宮』の外壁を、自らの『邪気』の衝撃でぶち破り、そのまま部屋に走り込んだ。
 ……羅羅の能力だろう、肉体の、すでに乾ききってぱさついた髪が、それでも長く伸び、とげとなって『合』を襲う。
 『合』は、『合』で、容赦なく、彼女たち二人を滅そうと、『符』の貼ってある短刀で攻撃を開始した。
 『合』の突きは、一度だけで、まるで連撃を繰り出したかのように、数度にわたって妻と羅羅を襲うのだ。……これも、あの『符』の力に違いなかった。
 二人対一人の、『怨念』と『邪念』は、激しくぶつかり合った。その衝撃で、『入らずの布陣』内の地面が、激しく揺れる。
「ひゅ……彪様!」
 その揺れに耐えられない暎蓮が、彪にすがる。その彼女を支えながら、彪は、自分たちの周りにとばっちりが来ないよう、『入らずの布陣』の中で、自分たちの周りにもう一重、『結界術』を強化して張った。
 二対一の戦いはつづいている。
 『結界術』の中で、暎蓮が彪に言った。
「彪様、……私。もはや、『合』様は仕方ありませんが。……羅羅様と奥様は、お助けしたいのです。こんなの、……お気の毒です!」
「うん。でも、どうするのが一番いいのかな」
『布陣』の中、部屋の中に戻ったり、外に出たりしながら戦っている二人の様子を見ていると、……両者とも、満身創痍だ。
 羅羅と妻の肉体は、すでにやつれた姿で、何度も切られた髪も中途半端な長さになっているし、肉体も、『術』の残りが切れてきたらしく、肉の変色が進み、体が崩れ始めてきた。『合』のほうは、喉には髪が巻き付いた痕のあざがあり、その影響だろう、口から血を流し、頭部には、鬼となった羅羅と妻の能力、『長爪』で引き裂かれた跡があり、まとめてあった髪は乱れ、ここもまた流血している。
 その様子を見ていた彪と暎蓮に、『合』は唐突に顔を向けた。
「……『斎姫』!小童!お前たち、『巫覡』なら、さっさとこの女たちをなんとかしたらどうだ!」
 『合』が、礼儀もなにもかなぐり捨てた顔で叫ぶと、妻のほうは、
『そうはさせないわ!……滅されるのはあなたが先よ!』
 と叫び、突然やみくもに、両手を振り回した。その手から、崩れた肉と腐った体液が飛び散り、それは『合』の目に当たった。……『合』は、目つぶしを食らった状態になり、彼は声を上げ、袖で目をこすった。
 そこに、すでに骨も見えかかっている妻と羅羅の肉体が躍りかかる。
 しかし、『合』は、片袖で目をぬぐいながら、なんとか薄目を開け、時間稼ぎにだろう、大きく口を開け、妻と羅羅の肉体に向かって、カッと音をたてながら、大きな『邪気』の塊を吹いた。
 妻と羅羅の肉体は、それにまともにぶつかった。その勢いで、彼女たちの肉体は後ろに吹き飛び、体の肉は、さらに崩れ、びちゃっと気味の悪い音を立てて、あちこちにその破片は飛び散った。その肉体から、妻と羅羅の魂が弾き飛ばされるように外に出る。魂を失い、空になった、ほとんど骨と化した肉体が、地面に崩れ落ち、動かなくなり、それまで一体化していた女たちの魂が、衝撃で妻と羅羅の二つの魂に再び分かたれた。
 その情景の無残さに、暎蓮が思わず目をそむけ、彪は、
「……もうよせ、『合』さん、奥さん!こんな戦いは……不毛なだけだ!」
 と、叫んだ。羅羅の魂は、すでに力が尽きかけているようで、ただの人魂と化し、空中をふらふらと漂っている。
第二十一章 『怨念』の『迷宮』
しかし、妻のほうは、まだやる気があるらしく、なんとか、生前の彼女の姿の霊体に戻ると、
『邪魔しないで!……お願いよ、……もう少しだけ、時間をちょうだい!私が、この男を『滅界』に落とすまで!』
と、彪に叫び返し、再び、霊体だけのまま、鬼の形相となり、『合』をにらみつけた。
『合』が、『符』を貼った短刀を構え、言う。
「肉体ごと滅されてくれれば、もう少し要領よく『地獄界』に落としてやれたものを……。私の、手落ちだな」
 まだ余裕があるのか、彼女に向かって嗤う『合』に、妻が挑んだ。
『まだよ。まだ私はあなたを滅せるわ』
「そんな弱った霊体だけで、どうしようっていうんだ?……残念だが、もう情けをかけるのは終わりだ。今までの分、それこそ地獄を見せて、あの世に落としてやる。……二度と、私の目の前にその姿を現せないように」
 その言葉に、妻も、嗤いを返した。
『あなた……私が、なんの策もなく、あなたに向かっていったと思っているの?』
「なに?」
『あなたが街の『仙士』に力をもらったように、私には、三十年かけて作り上げた、『怨念』の『迷宮』があるわ。……今から、そこへ、あなたを落としてあげる』
 妻は、つづけた。
『……きっと、『これなら、『地獄界』に落とされたほうがまだましだった』、と思うと思うわよ。しかも……永遠に、それは、つづく。……そうするために、私は今まで、あなたの力を、少しずつ少しずつ、削いでいっていたのよ!』
 妻の魂が、両手を上げた。その彼女の魂自身の『力』を発するようにか、大きく叫び声を上げる。彼女の霊体の胸から、黒い雲のようなものが流れ出した。それはどんどん流れ、なにかを形作ってゆく。『怨念』の具現化したものだろう。
 ……空気の震えとともに、彪の『入らずの布陣』内に、妻の『怨念』が作り上げていく、新たな空間が現れ始めた。……暗黒色の、正方形の空間だ。
「……あの中に、『迷宮』が……!?」
 彪が、暎蓮を後ろにかばいながら、言った。彪の背中にすがっていた暎蓮が、彼の肩越しにその情景を見て、
「……『怨念』……『邪気』を、こんなふうに具現化された方を見るのは、初めてです……!」
 と、驚きを隠しきれないように言った。彪は、それに答えた。
「おそらく、羅羅さんと一度一体化したことで、『仙士』の力の残りが奥さんのほうにも回ったんだ。……あれは、間違いない、『術』を使える者の、技だよ」
 短刀片手に、突っ立ってその空間を見ていた『合』は、声を上げて笑った。
「お前の言う、『迷宮』とは、こんなものか?……私も、なめられたものだな!」
『なめているかどうかは、自分で味わってみれば、わかるわ』
 妻の魂が、霊体の片手を上げ、暗黒の空間をさした。
 その途端、『入らずの布陣』内で、強い風が吹き、その風の力によって、『合』の体が、その空間に引っぱられる。『合』は体に力を込め、うなり声をあげながらなんとか抵抗したが、空間の吸引力は強く、彼の体を空間内に、もらさず引きずり込んだ。空間内に、『合』の姿が消える。
「…………!」
 それを見た彪と暎蓮は、寄り添ったまま、息を呑んだ。
 妻が、こらえきれないのだろう、鬼の顔をしたまま、笑いだした。その声が、どんどん大きくなる。彼女は、勝利を確信したのだろう、……満足のあまりに、その魂は、『昇天』は無理でも、そのまま霧散しかねない勢いであった。それを見て、彪と暎蓮はさらに戦慄した。
 ……少しの間があった。空間が、おそらく口を閉じたのだろう、風が収まり、辺りが静かになる。
 しかし、次の瞬間、箱型の空間の中から、背筋が寒くなるような、断末魔の叫びが、絶え間なく聞こえ始めた。
 声は、幾度も幾度も繰り返される。裏返り、変わり果ててはいるが、それは間違いなく、……『合』の声だった。
 中で、なにが起こっているのだろう。
「……彪様!」
 暎蓮が、その声に、耐えられないように顔を伏せ、後ろから彪の肩にしがみついた。彪が、その彼女の手に自分の手を添え、
「大丈夫。……お姫様、耳をふさいでいて!」
 と言って、振り向き、彼女の耳に両手を当てた。暎蓮が、目をつぶりながら、自分の耳を覆う彼の手の上から、自らの手を重ねる。
 しかし、さしもの彪も、この『合』の叫び声に、そら寒くなり、自分も耳をふさぎたくなった。
第二十二章 『合』の復活
 ……笑っていた妻が、やっと言葉を発した。
『『女』というものを、もの扱いした『罰』よ。……これで、終わりよ!』
 ……しばらくたって、空間からの『合』の声が、微かにしか聞こえなくなった。
『私の『迷宮』内に、完全に落ちたわね……』
 妻は、小さくつぶやいた。
『……この『迷宮』の空間の中、生きたまま、永遠に迷い、苦しみつづけなさい、『合 前五』……』
妻が、『合』の声がほぼ聞こえなくなったところで、ふう、と息を吐き、暗黒の空間を空中に消そうとした。……だが、その時。
空間内から、なにかを叩くような音がし始めた。最初は小さい音だったそれは、次第に大きさを増してきた。どん、どん、と規則的なリズムで、音はつづく。
 妻も、そして、彪と暎蓮も、その異変に、顔を上げた。
 音はどんどん大きくなっていった。それと同時に、『迷宮』の空間が、きしみ、揺らぎ始める。
「この音、まさか……」
 彪が、信じられないという顔で、言った。
 空間内から、なにかを叩き壊すような音が、幾度もした。そして、次第に、かすかに聞こえていた『合』の声も、完全に聞こえなくなっていく。
「彪様、これは」
 暎蓮も、耳から手を離し、目を見開いている。
『まさか……!?』
 妻が、つぶやき、消しかけていた暗黒の正方形の空間を、じっと見つめる。……音は、さらに大きくなり、ついに、空間自体の表面に、ひびが入った。
『まさか、そんなことが!』
 妻が、呆然としたように言った。……次の瞬間。
 空間が、大きな音を立てて、内側から破壊され、それは木端微塵に吹き飛んだ。
 彪は、その風圧を喰らう前に、とっさに片手をあげて『結界術』を幾重にも重ね、暎蓮と自分を護った。同時に、もう片手の人差し指で、力なく漂っていた羅羅の魂も呼び寄せ、彼女の魂も『結界』内に入れる。
 風が静まるのと同時に、空間のあった場所から、『合』の顔が見えた。
 しかし、顔の、しかも、半分だけだ。辺りには、彼の顔のもう半分や、手足、衣服をまとったままの胴体などが、ばらばらになり、空中を漂っている。
 そのばらばらになった『合』の顔がにたりと笑った。漂っている、宙に浮かんだ片手には、相変わらず『符』を貼った短刀を握ったままだ。
 あの空間の中でなにがあったのかはわからないが、彼は、……生きていたのだ。しかも、体がこれだけばらばらにされているのにもかかわらず。
 『迷宮』内で、永遠に苦しむとは聞いていたが、彼の今のこの状態は、やはり常軌を逸している。
『……なんですって!?』
 それまで鬼の顔をしていた妻が、『空間』の破裂の時の風圧を防ぐべく、力を使ったからか、『気力』をそがれたようで、もとの人間の女の魂の顔に戻って、愕然として、言う。
 縦に割られたような半分だけの顔で、『合』は、笑ったまま、言った。
「やはり、……この程度のものか、お前の力は」
 ばらばらになっていた『合』の体が、パズルのように組み立てられ始めた。……衣服をまとったままの胴体に、腕や脚が戻りはじめ、もとの人型に戻り始める。
 妻がくうっと悔しげな声を上げた。
『……どういうことなの!』
「彪様、おかしいです!」
 暎蓮が、鋭く言った。
「……あの技。いくら、『仙士』様からの『力』を与えられているからとはいえ、これまで常の人間だった方に、こんなことができるわけがありません。……そして、『合』様の『気』が、今までと違ったものに、変化してきています!」
 彪も、その言葉に、感覚を研ぎ澄ませて、『合』の『気』を探った。
「……本当だ!なにか、『邪』な力が、どんどん流れ込んでいる!」
「はい。……ですが、力の出所が、わかりません!」
 暎蓮が、『力』の大元を探そうと、辺りを見回すが、彼女にも彪にもそれは感知できなかった。
第二十三章 『仙士』の『邪術』
 『合』が、再び短刀を構えた。『邪気』は、その短刀に張られた『符』から大きく発されている。それを感じ取った彪は、叫んだ。
「……この『邪気』は、あの『符』を『合』さんに渡した、『仙士』の力の残りを『合』さんの『邪念』で増幅した結果か!」
「『仙士』様の力の残りは、やはり、あの短刀の『符』から発されているもののようですが。……その、力の『残り』だけでも、これだけの『妖力』を発することが出来るものなのですか」
 暎蓮が、彪に尋ねた。
「よほど大きな『力』……『気』を持った人じゃないと無理だよ。……俺も、こんなに簡易で、しかもこれほど強い力を発する『仙士』の技は初めて見た」
 彪が、呆然としたまま、言う。
「……たかが、『仙士』に。これだけの『気』と、『技』を持てる者がいるのか……!?」
暎蓮が、少し間を空けて、まじめな顔で言った。
「とにかく、彪様。『合』様は、すでに『邪』。私たちは、『巫覡』として、あの方を滅するお役目があります。それを完遂しないことには、羅羅様も、奥様も、救われません!」
「うん」
 暎蓮の言葉に、彪も、顔を厳しくして、うなずいた。
「お姫様、……羅羅さんの魂を」
「はい」
 暎蓮が、力をほとんど失いかけている羅羅の魂に、自らの『聖気』を送り込み、彼女の魂に少しだけ『気力』を戻させてから、自分の単衣の袖の中に彼女の人魂をそっとしまった。
 ……一方、その間にも、妻と『合』の戦いはつづいていた。とはいえ、妻は劣勢だった。
 『合』は、短刀での、連続する突きを、妻に向けて繰り出し、妻は霊体ならではのスピードでそれを避ける。その合間に、彼女も何度も『合』に向けて、『長爪』を向けるのだが、その長い爪は、『合』の短刀の力によって、斬り飛ばされてしまうのだ。妻が、その度に、歯噛みしながら後ろに下がり、斬られた爪を再び長く伸ばす。
「お姫様、おかしい。『合』さんから、……『人気(じんき)(すべての人間が持っている『気』のこと)』がどんどん抜けていくのを感じない?」
「……今、私もそう思っていました。と、いうことは、今まで感じていた、『合』様の『人気』。これはもしや、『作られた』ものなのでは………」
「『合』さんのあの肉体も、もしかして」
 と、しゃべっている二人の『結界術』の壁に、妻の猛攻から逃れようとして地面から壁へと跳んだ『合』の体が、誤って、激突した。彪が、瞬間的に『聖気』を手に込め、『結界術』を強化して、暎蓮を護る。
 『合』の体が、『結界術』の壁にぶち当たったが、その肉体が発した音は、肉に衝撃を与えた時のような、鈍い音ではなく、からん、からん、という、硬くて軽い音だった。彼はそのまま、『結界術』の壁から素早く離れ、再び妻へと攻撃を開始し始めた。
「……お姫様、今の音!」
 彪が言った。暎蓮も、顔を厳しくして、うなずく。
 暎蓮がはっとして、言った。
「彪様!『合』様のあのお背中の……」
 見ると、『合』の背中に、細かいひびが入っているのが見えた。
「こりゃあ……」
 彪がつぶやき、眉間にしわを寄せた。
「彪様」
 暎蓮に、彪は言った。
「お姫様は、この『結界』の中にいて。……確かめる」
「……で……ですが……」
 心配そうに言う彼女に、彪は笑って見せた。
「大丈夫」
 彼はそう言うと、暎蓮の周りに『結界術』を張ったまま、自身は外に出て、『合』の動きを探った。
第二十四章 『無間邪術』の始まり
『合』の部屋の壁の、空いた空間から、部屋の中へ入り、そっと『合』に近づく。
 彪は、妻と戦っており、こちらの動きに気が付いていない『合』に向かい、いきなり指をさし、
「……不動!」
 と、彼の『術』の一つである『言(こと)の葉(は)』による『縛術(ばくじゅつ)』をかけた。
 『合』が彪を振り向こうとする。しかし、『合』の体は、『縛術』によって、動けなくなっていた。そこに、妻が躍りかかり、『長爪』で『合』の体を袈裟懸けに切り裂いた。
『……やったわ!』
 ほくそ笑む妻の目の前で、『合』の体は力なくくずおれたが、その時の音は、またしても、あの、からん、からん、という軽い音だった。
 倒れた『合』の体から、またあの不愉快な笑い声が聞こえた。
「この体は、もはや使えないか。……仕方がない。取り替えよう」
 『合』の体から、『邪念』が抜けていく。
「!」
 彪は、その言葉に、なにかを感じて、顔を上げた。
 『合』の体から抜けていった『邪念』が、どこかに流れ込もうとしている。
 ……部屋の戸棚の観音開きの扉が、ぎい、と、勝手に開いた。
 彪と妻、部屋の外の暎蓮は、三人とも驚きで目を見張った。
 ……戸棚の中には、無数の木彫りの人形が並んでいたのだ。
『これは……!』
 妻が、叫んだ。
 ……そういうことか。今までの彼から、『人気』が感じられなかったのも無理はない。
『合』の本体は、ここにはいない。今まで、『仙士』の『術』を使って、自分の『邪念』を増幅させ、それをこの木彫りの人形に送り込み、一時的に『合 前五』を具現化させていたのだ。……これでは、妻の、三十年かけて作り上げた『怨念』による『迷宮』に送り込まれても、ダメージがないわけだ。
 『合』の体から抜けた『邪念』は、次の人形に入り込んだ。人形は、カタカタと揺れ、次第に大きさを増し、顔つきが変わり、……もとの、宮廷勤務者の正服を着た、新しい『合   前五』が出来上がった。
「さあ。……第二幕を、始めようか」
 『合』はそう言って、『邪念』が抜けた、今までの自分の体だった、ひびが入って、もとの木彫りに戻った人形と、それがまとっていた、あちこちが破れて汚れた正服を、片足で無造作にのけた。足を踏みしめ、片手にまたあの短刀を握る。
『ど……どうすれば、滅せるの、この男を!?』
 妻は、霊体にもかかわらず、動揺を隠しきれないのか、髪を振り乱して、彪に尋ねた。
「いくらこの人を滅しようとしても、ここにこれだけの数の『体』があるんじゃあ、終わりはないよ。本体を探して、とどめを刺さないと……」
 彪の言葉に、妻は、
『その、本体っていうのは!?』
 と、叫んだが、彪はそれに答える前に、『聖気』を手に集めて、霊体に直接触れる形で、妻の体を突き飛ばした。
 それまで、妻の霊体があった空間に、『合』の持つ短刀の刃が伸びていたのだ。彪と妻がしゃべっている間に、体を取り換えたことで、うまく『縛術』から逃れたらしい。それに気が付いた妻が、
「……『巫覡』様!」
 と、思わず叫ぶ。彪は、彼女の前に『結界術』を張ると、
「奥さん、そのまま、下がって!……お姫様のところまで。俺の『結界』内にいて!」
『でも……』
 妻が言うが、彪は、
「余計な禍根を残すわけにはいかない。……この男は、俺が仕留める。『巫覡』の名にかけて」
 と、言い切り、問答無用で、彼女の霊体を彼の後ろ、暎蓮のところまで下がらせた。暎蓮が、一時的に彪の『結界』に穴をあける形で、彼女を中に迎え入れる。
 それを確認すると、彪は、再び前を向いた。正面には『合』がいて、鼻持ちならない顔で、笑いながら彼を見ている。
「お前みたいな小童に、私を倒すことができるかな?」
 彪も、笑った。言う。
「……無理でも、やるよ。俺ははっきり言って、あんたみたいなやつが、気に入らないからね。もとのあんたがどういう人間だったのか知らないけれど、『巫覡』であった事実があったこと自体、奇跡に聞こえるくらいだよ」
「ほう。言ってくれるな。……まあ、いい。死ぬ前の置き土産ということで、許してやろう」
「果たして、そうなるかな?」
 彪も、『合』の口調に似せた言い方で、言い返した。それを聞いた『合』の顔が、険しくなる。
……二人は、睨み合った。お互い、じりじりと近づく。
第二十五章 『彪』対『合』
 ……先に動いたのは、『合』のほうだった。手にしていた短刀で、鋭く彪を突きにかかる。
 例によって、一撃で連撃になるその刃の攻撃を、彪は、自分の全身を自らの『聖気』で包むようにして、撥ね飛ばし、防いだ。しかし、その攻撃は囮だったらしい、『合』は先ほど妻に対して行ったのと同じように、口から『邪気』の塊を吐き出し、それで彪の顔面を襲った。
 しかし、彪も『巫覡』の一人だ。その大きな『邪気』の塊を、『巫覡』の持つ『眼力(がんりき)』で、力を込めてはじき飛ばした。彪から離れた『邪気』が、じゅう、と音を立てて、霧散する。
 それを見ると、『合』は、くくく、と声を上げて笑った。
「なるほど、なかなかやるな。お前も、子供とはいえ、『巫覡』を名乗るのは伊達ではないわけか。……だが。……『巫覡』の弱点、というものを知っているか?」
 『合』はつづけた。
「私はもと『巫覡』。それだけに、普段から鍛えられていない、『浄化』に特化した、肉体的に軟弱であるという『巫覡』特有の弱点は、よく知っている。ましてや、お前は、まだ子供。いかに『聖気』が強くても、肉体面での『力技』において、大人の男である私にかなうと思うか?」
 彪は、それには答えなかった。……ただ、体が自然に、『攻撃』と『防御』の両方に備えた構えをとる。
「……答えを返さないところを見ると、その辺がまるでわかっていなかったようだな。……いいか」
 『合』は、彪に向かって、表情を凄ませた。
「私には、お前の『聖気』など、簡単に打ち破るための『力』がすでに備えられている。お前が私に勝てる要因など、なに一つないのだ。……そうだな、では訊いてやろう」
『合』は、下卑た笑いを浮かべて、彪に問うた。
「降参するか、私に弑されるか、どちらを選ぶ。それと、……そちらの『斎姫』も。抵抗をやめて、私に傅く気はあるか?」
 『合』は、自らの穢れた望みが実現するのを想像してか、うっとりと言った。
「お前と一緒に、手を取り合って、この都を出よう。……もと『浅南国』であった地に、私所有の土地がある。そこに、長年この城に仕えて貯めた財をもって、お前に似合う、大きく、壮麗な屋敷を建てよう。……なに、その後の金のことは心配するな、私のこの無数の体が、勝手に、『妖力』をもってして、私たちが仲睦まじく暮らすための財を成してくれる」
 『合』は、閉じていた眼を開けて、暎蓮に向けて、言った。
「そして、お前を、毎日、毎日、今にも増して美しく飾り立て、限りない贅を尽くさせてやる、そう、今の生活に負けぬほど。……どうだ?」
 暎蓮が、その穢れた視線に、思わず後ずさるのを見た彪は、力の限り、叫んだ。
「……この、下衆!」
「『下衆』?」
 『合』は訊き返し、笑った。
「小童。……『巫覡』で、しかも子供のお前にはわかるまいが、『男』とは、常に『野望』を持つ生き物だ。その望みを穢れていると思うほうが間違っている。……所詮、『巫覡』など、男であることを捨てた存在だ。……『天帝』の声を聴く?それを王に進言したところで、私たちになんの利益があるというんだ?……私は『巫覡』である前に『男』だった。『頂点に立ちたい』という望みを持つのは、自然なことではないのか?」
「……これで、あんたが、もと『巫覡』だったっていうのが、さらに怪しく思えてきたよ。大体、『男』であることと、俺たち『巫覡』が自分たちの『使命』を果たすこととをつなげて考えようっていうのが、あんたのいかれた思考だ。……もっと言わせてもらえば、『頂点に立ちたい』のはあんたの勝手だが、俺たち『巫覡』は利益があるから『天帝』様の声を聴くんじゃない。それを自分の誇りと思うから、『使命』を果たしているんだ。……都から出たいなら出ればいいが、お姫様まで巻き込むな。たった一人で、とっとと消えろ」
「小童。……雑言が過ぎるぞ」
 『合』の顔が、険しくなった。短刀を構える。
「その口、今すぐに塞いでやる」
 『合』はそう言いざまに、彪に向かって、短刀を構え、突っ込んできた。しかし、彪は、その前に、自分の懐から、数枚の料紙を取り出していた。彪が、空中に料紙を広げるように並べながら、『縛術』をかける。
「……壁(へき)!」
 料紙は空中にとどまり、硬い壁となって、『合』の刃を跳ね飛ばした。連撃となるはずの『合』の刃は、『合』が一撃目にしか力を込めていなかったからだろう、次の数度の突きは、力を損ない、『合』の手から短刀が落ちた。衝撃で、手首を痛めたのか、『合』が舌打ちする。
「不動!」
 彪が再び『合』に『縛術』をかけるが、一瞬早く、『合』の『邪念』は手首を痛めた体から抜け、新しい人形に移った。再び、構成された『合』が立ち上がり、笑う。短刀を拾いあげ、
「もう、いい加減、飽きてきたぞ。ひと思いにお前を殺せれば、これで私のすべての望みがかなうわけだな。……では、さっさと片付けてしまうか」
 『合』の手にしていた短刀に貼られた『符』から、『邪気』が漏れ出てくる。再び、『合』は彪に躍りかかった。彪は、反射的に、体を開く格好で、第一撃目をなんとかかわし、自分の真横に短刀の刃があることを目視したのと同時に、それまで『壁』として使っていた料紙の向きを変え、刃に向かってそれを振り下ろしながら、
「斬(ざん)!」
 と、『言の葉』をかけた。
「……なに!?」
 『合』が、叫んだ。
 彪は、『合』が突きだしてきた短刀の刃を、柄の根元から、料紙を使って、叩き斬ってしまったのだ。刃が地面に落ち、回転しながら彼らから離れる。
 『合』は、これは予想できていなかったのだろう、愕然として自分の手元を見た。
 しかし、それも一瞬のことで、彼は、すぐに、歯ぎしりをしながら、手の中に残された、『邪気』を発する『符』の貼られている、短刀の柄を彪に向かって力いっぱい投げつけてきた。彪は、もう一度、料紙を『壁』にして、防いだ。『壁』にぶち当たった柄が、彪の『聖気』によって、燃え上がり、黒煙をあげながら、下に落ちる。
 その時だ。
第二十六章 『術』の流れと暎蓮の『決意』
「彪様!……後ろです!」
 暎蓮の声が聞こえた。
 彪は、はっとして振り返ろうとしたが、その時にはもう、彪の後ろ首は、新たな『合』の体に捕えられていた。
「!?」
 彪は、必死で目を開けた。……前にも、『合』がいる?……いや。
自分の周りに、だんだん、『合 前五』が増えていっている。横目で見ると、棚に詰まっていたはずの、あの大量の木彫りの人形が、ほぼなくなっていた。
(これだけの数の人形に、自分の『邪気』を分散させているのに、『妖力』が衰えていない……!?)
 どういうことだ、と彼が思った瞬間、彼の首は、後ろから摑まれている手によって、締め上げられ、持ち上げられた。彪の軽い体が持ち上がる。
彪は、息を詰まらせ、もがいた。
「彪様!」
 後ろの『結界』内から、暎蓮が出て来ようとするのを、彼は無理に首を振り向かせ、かすれた声で、
「……来ちゃ、だめだ……!」
 と、止めた。彼の言葉は、ほとんど通じなかっただろうが、暎蓮が、彼の表情を見て、びくりとしたように動きを止める。
 彪の目の前に立っていた、短刀を手にしている『合』が、言う。
「そうだな。『斎姫』にも訊いてみようか。……私とともに、来るか?私に傅くと約束すれば、この小童も生かしておいてやってもいいぞ。……だが、断るなら話は別だ。その時は、この小童もろとも、お前も、殺す」
 暎蓮は、すぐには答えなかった。そして、言った。
「彪様!」
 彪は、無理に振り向こうとしているために、斜めになった顔で、それでもなんとか、彼女に向かって、にやっと笑ってみせた。
「…………」
 暎蓮は、それを見て、……微笑んだ。言う。
「『合』様」
「なんだね」
「残念ですが。あなた様は、思い違いをしていらっしゃいます。『力』で『人間(ひと)』は動かせません。それは、殿方であろうと、女性であろうと、同じことです。……そして、また、『巫覡』も」
 暎蓮は、はっきりと言った。
「私たち『巫覡』は、そのお役目に誇りを持ち、『天帝』様に仕えています。そこには、利害など関係はありません。ただ、ただ、我欲を消し、『天帝』様のお声に耳を傾ける……。それこそが、私たちの『使命』の完遂なのです」
 暎蓮は、懐から、『破邪の懐剣』を取り出した。その刃を抜きつつ、言う。
「私たちを、見損なわないでください。私たちは、たとえ、あなた様と刺し違えてでも、あなた様のその『邪欲』を消し去ります。たとえ私を殺したとしても、彪様があなた様を滅します。その逆も。……今、あなた様は、彪様のお命を握っていらっしゃるとお思いのようですが、……もし、彪様になにかなさったら」
 暎蓮は、強い目で、『合』に言い放った。
「その時は、私があなた様を許しません。そのようなことになったら、私が、今すぐに、私の力のすべてを使ってでも、あなた様を滅して差し上げます。……その事実を、よく、お踏まえになって、ご行動なさって下さい」
「なに……!?」
 彪の正面にいた『合』が、暎蓮の入っている『結界』に近づこうとして、彪の周りを取り囲んでいた無数の『合』の人形の群れを割った。その動きに押され、彪の足が、地面に届く。
彪は、その瞬間を、逃さなかった。懐から、護身用の『符』を摑みだすと、後ろ手で、彼の首を握っていた『合』の一人の胴体に向けて、それを思いきりひっぱたくように貼りつけた。手で、その『符』を押さえながら、『言の葉』をかける。
「……散(さん)!」
 彪の首を摑んでいた『合』の一人が、彪の『符』の力で、木端微塵に霧散した。
 息苦しさからは逃れたが、思わず彪の膝が崩れる。その彼の体めがけて、無数のなにかが飛んできた。
「!?」
 彪が、反射的に床を転がり、そのなにかから逃れた。転がりついでに、周りにいた『合』たちの脚にぶつかってやり、彼らも倒してやる。
 彪の体にぶつかり、もんどりうって倒れてくる『合』たちの硬く軽い体の隙間から、彪は、ぷはっと息を吐きながら、顔を出した。そこへ、また『合』の一人が、なにかを投げつけてくる。彪は、反射的に顔の前に片手を出し、『結界術』で壁を作った。その壁に、どどど、と重い音を立ててなにかが突き刺さる感触がする。
 彪は、刺さっているそれを見て、はっとした。
 ……『邪気』を宿した、楊枝のような木片だった。しかし、それを見ている間にも、倒れていた『合』人形たちが起き上がり、彼に迫ってくる。
第二十七章 『推察』と『反撃』
 彪は、懐から数枚の攻撃用の『符』を取り出すと、辺り一面に向かって、撒いた。『合』人形たちが、一斉に、上から落ちてくるその『符』を見上げる。その瞬間に、彪は、印を結び、
「……破(は)!」
 と『術』を起動した。
 『符』が光を放ち、破裂する。それと同時に、彼の周りにいた『合』人形たちが、ほとんど破裂して吹き飛び、辺りにその破片が飛び散った。
 彪は、それと並行する形で、走った。自分が張った、暎蓮の周りにある『結界』内に、頭から飛び込む。その彼の体は、勢いがありすぎて、地面で一回転した。
「彪様、ご無事ですか!」
 一回転して立ち上がる前、しゃがみ込む形の姿勢の彪の横に、暎蓮もかがみこむ。
「……大丈夫!」
 彪は、そう言って、立ち上がった。
「お姫様、『合』さんは、あの人の実体を探さないと滅せない、『気』を広げよう」
「はい!」
 そこへ、妻が口をはさんだ。
『あの男の本物が、どこにあるかを感じ取ればいいのね?』
「そうなんだ。だけど、すぐ近くにいるはずだ」
『どうして?』
「奥さんが気付いたかどうかはわからないけれど、俺たち『巫覡』の感覚では、『合』さんが、多数の木彫りの人形に『邪気』を吹き込んで、あれだけの数の『合 前五』を起動させていたのに、その『気』が薄まらなかったのに気付いた。つまり、本体はこの近くにいて、……おそらく、また『仙士』からもらった『術』だと思うけれど、それを使って、『気』を絶え間なく人形たちに注ぎ込んでいるからかもしれないってことだよ」
 彪は、つづけた。
「だけど」
 そう言っている間にも、最後に残った『合』の人形が、彼らの『結界』に近づいてくる。
「……ここには、俺の張った、『入らずの布陣』が構成されている。『結界術』の応用である、この布陣の外からじゃあ、『気』を送り込むなんて真似は、出来ないはずなんだ。つまり……」
 『結界術』の外から、『合』が、また『邪気』まみれの硬い楊枝を数十本も投げつけてきた。彪は、暎蓮と妻を後ろにかばい、片手で『結界術』を強化しながら、言った。
「普通に考えれば、『合』さんの本体は」
 彪は、『結界』越しに、迫ってくる『合』に、懐から、護身用の、彼の『聖気』が練り込まれた鋲を一掴み出して、投げた。
「……この、『入らずの布陣』内に、いるはずなんだ!」
 彪の鋲は、相手に『邪気』があれば、肉体を持っていようがいまいが通じる武器だ。
『合』が、鋲が当たった箇所から、黒煙をあげ、痛みにのけぞりつつも、片手で再び『邪気』を宿した楊枝を摑めるだけ懐から出し、投げつけてくる。
 ……重い……!
彪は、それを、『結界術』を三重にして、なんとか防いだ。『合』は、大きく口を開け、叫びながら、彪の張った『結界術』の壁に、かみついてきた。その口から、牙が伸び、長い舌からは涎が飛び散る。
彪は、顔をしかめながら、かみつかれた衝撃で歪みつつある『結界術』の壁を強化するべく、自らの手に、ふう、と息を吹きかけた。彼の手が、光を放つ。
『合』は、残っていた楊枝すべてだろう、それを片手につかみ出すと、手から『邪気』を込めて、それを大きめな木片に変えた。先のとがった、……杭のようなものだ。
『合』は、声をあげながら、彪の『結界術』に向かって、それを突き込んできた。『結界術』の一重目、二重目が、それによって崩される。 
三重目に届く前に、彪は、自らの腕に『聖気』を集め、その杭の切っ先を止めた。……言ってやる。
「『合』さん、……あんた、さっき、言ったな、俺が子供だから、大人の男の『力技』にはかなわないって」
「それが、事実だ!」
 そう叫んだ『合』は、もう一度、彼に向けて杭を突き込んできた。彪は、今度は、それを、利き手である右手の拳に『聖気』を込め、受け止めた。
「……たった今、思い知るんだな、それが間違いだってことを!」
 彪は、言いながら、強い力で、拳ごと杭を突き返し、『結界』を抜けて、『合』の目の前に、勢いよく出た。
 そして、懐から攻撃用の『符』を一枚取り出すと、それを手にして、よろめいて腰を落としていた『合』の左頬を、その手で思い切り張ってやった。
 まず、力のない子供の彪の手で頬を張られたはずなのに、その、意外なほどの痛みと力に、『合』は声を上げた。
 彪は、つづいて、素早く、印を結んだ。
「……焦(しょう)!」
 『言の葉』で『術』を起動すると、『合』の頬に貼りついていた『符』が、黒煙をあげだした。……『符』が、『合』の頬もろとも、熱をもち、焦げはじめたのだ。
 ……『合』は、地面を転がり、のたうちながら、頬から『符』を引っぺがそうとした。頬からは、どんどん煙が上がる。『符』は、はがれないままだ。『合』は、叫び声をあげた。
 それを見下ろす彪は、言い放った。
「……俺は、『術使い』だ。『力技』なんて、『術』さえ使えれば、すぐにあんたに追いつく。……ついでに言うなら。『巫覡』を、なめるな」
「く、くそ!……まだだ!」
第二十八章 攻防
 『合』の『邪念』は、その体から抜け、戸棚の中に入っていた長持の中に飛び込んだ。『合』の黒煙を上げつづける体が、『邪念』が抜けたことで、くずおれる。
「まさか、あの中には」
 暎蓮が、彪の『結界』内で、両手で羅羅と妻をかばいながら、つぶやいた。
 ……長持のふたが、内側から持ち上げられ、そこから出てきたのは、……等身大の木の人形だった。その胸には、『符』が貼ってあり、その『符』を通して、人形の体に、『合』の『邪念』が染み渡ってゆき、徐々に、再び、新しい『合 前五』が出来上がる。
 長持の中から出てきて、部屋の床を踏みしめた、新しい『合』は、笑った。
「この体は、これまでのものとは違う、最新式の『術』を施した、最強の体だ!……『巫覡』!これで、今度こそ、お前を殺してやる!」
 今度の『合』は、今までの身分は文官だったというのに、腰に刀を差していた。……おもむろに、それを抜く。刀身には、『邪念』を象るように、黒い炎が取り巻いていた。
 『合』は、その黒い炎の威力を確認するかのように、刀身を顔に近づけ、舌を長く伸ばし、刃を舐め上げた。その顔が、にたりと笑う。……彪の顔が、厳しくなった。
 『合』は、言った。
「……先ほども言ったが、『浄化』に特化した『巫覡』の体は、鍛えられていない分、軟弱だ。……だが私は、『巫覡』であった時から、『男』であることを忘れまいと、『剣技』で体を鍛えてきた。この技をもってすれば、お前ごとき、斬り殺すなど、造作もないことだ」
 『合』は、言いざまに、彪に向かって、刀を振り上げ、突っ込んできた。
 彪は、『巫覡』だ。『術』で『力技』こそ補えるが、これまで肉体面を鍛えるための指南は受けていないので、『武術』全般には疎い。しかも、まだ子供で、体も小さく、それだけ間合いも狭い。……となると、『力技』も含めた、『術』を使うしか、勝つ方法はない。しかも、『知恵』も使って。
 彪の目の前で、『合』が刀を振りかぶる前に、彪は、懐から扇を出した。それを閉じたまま、自らの『聖気』を込め、『言の葉』で、『術』を起動する。
「……強(ごう)!」
 起動した『術』の力で、閉じられた扇が鉄よりも固くなり、『強力(ごうりき)』を発する。その『強力』で受けられた『合』の刀が、はじかれた。しかし、『合』は、すぐに至近距離から今度は彪の顔面に、突きを見舞ってきた。
「……彪様!」
 後ろから暎蓮の声がして、次の瞬間、『合』の体が後ろに吹き飛ばされた。
 ……暎蓮の得意技、『遠距離結界術』によって、彪と『合』の間に『壁』ができ、『合』の体が吹き飛ばされたのだ。
「ありがとう、お姫様!」
 彪は、後ろに向かって叫んだ。そうしている間にも、『合』は再び立ち上がり、顔を険しくして、再び走り込んでくる。
 彪は、『合』の部屋の中を見渡した。部屋の隅の流しの中に、水を張った桶があるのを見つけると、今度は扇を開いた。近づいてくる『合』に向かい、再び、『言の葉』で、『術』を起動させる。
 開いた扇で『合』を扇(あお)ぎながら、彼は叫んだ。
「嵐(らん)!」
 彪の『言の葉』に合わせ、『合』の周りにだけ、強力な風が吹き、彼を取り囲む。そして、『術』の効果で、流しの中にある桶の中の水が、風に呼ばれ、それはあたかも雨粒のようになって、強風とともに『合』を襲った。大粒の水のしずくで、目を開けていられず、『合』は袖で目を覆った。
 一方、暎蓮は、彪の『結界術』の中で、まだふらついている羅羅の人魂と、『合』の妻の霊体に言った。
「彪様の『結界』の内側に、私の『結界』も張って、二重構造にしておきます。……危険ですから、お二人とも、この中にいらしてください」
 妻が、言う。
『そ、そんな、……では、『斎姫』様は……!?』
 暎蓮は、地面に『破邪の懐剣』の切っ先を突きたて、『結界』を二重にした。
「私は、『巫覡』の一人として、『合』様という『邪』を滅さなくてはなりません。それは、私たちの『使命』です。そして、それが、『天帝』様の『ご意志』なのです。……お二人とも」
 暎蓮は、二人に向かって優しく微笑んだ。
「……よく、ここまで、頑張られましたね。今まで、おつらかったでしょうね。でも、ご安心ください。お苦しみになるのは、今日で最後です。……この『命(めい)』を果たしたら、すぐに、お楽にして差し上げます。それをここで、お待ちになっていてください」
『……『斎姫』様!』
 妻と羅羅が、声をそろえて叫ぶ。暎蓮は、振り返り、再び彼女らに向けて微笑んでみせると、『結界』を抜けていった。
第二十九章 『最新版・現代邪術』
 一方、彪は、『合』の長刀による斬撃をかわすべく、右手に料紙で作った『壁』を持って『合』の攻撃を防ぎ、左手では、閉じた扇の『強力』を使って、それを打撃武器として使い、どうにかしのいでいた。……だが、二人の身長差があまりにもあるせいで、上からの攻撃をされつづけている彪は、確かに『力技』では、分が悪かった。しかし、彼は、頭の巡りがいいほうだ。……『術』を、『知恵』もしぼって使い分け、なんとか互角の領域まで持ち込んでいた。
 『合』の上からの斬撃を、料紙の『壁』で受け止め、彪は、その手に力を込めつつ、『合』のすねを思いきり蹴飛ばした。
 足払いにこそならなかったが、もとが木彫りの人形だからだろうか、『合』の膝関節に響いたらしく、『合』は声を上げて、後ろに向かってよろめいた。彪が、その瞬間を逃さず、腰が下がって、彼の目線近くまで降りてきた『合』の右肩に、思い切り扇の一撃を浴びせた。
 彪の持つ、物理的力と、『術』による『強力』の効果で、『合』の右肩から、鎖骨近くにかけて、バキッと大きな音がし、その場所がへこんだのが衣服越しでもわかった。『合』が声を上げ、彼の右腕がぶらりと下がる。……しかし、それでも刀を手から離さないのには、もはや『諦めが悪い』を通り越して、大した根性すら感じた。……そう、彪が思った次の瞬間、『合』は、驚くべきことをした。
 刀を左手に持ち替え、今負った右肩の傷に、その刃を突き刺したのだ。……刀から出る『邪念』の黒い炎が、彼の傷にしみこみ、体が修復されていく。
「…………!」
 その様子に、それを見ていた彪も、彼の後ろから駆けてきた暎蓮も、目を見張った。
 体を修復した『合』は、右肩から刀身を引き抜いた。再び、右手に刀を持ち直す。
 彪は、『合』に向かって、言った。
「なるほど。……その、ここまでの間にあんたが使った『邪術』の数々が、『現代の最新邪術』ってわけか。近頃の『仙士』も、だいぶ『術』を研究するようになったんだな。だが、あんたに力を与えたやつは、どうやら『邪術』専門家らしいが」
「『邪術』であろうとなんであろうと、勝てればいいのさ。『敵は、倒す』。これが、人間の本能だろう?たとえそれは、『巫覡』だって同じだろう。今さら驚くことじゃない」
「……まったく、気に入らない男だな。自分の理屈を正当化するために、どれほど『人間』という存在を穢すつもりだ?……羅羅さん」
 彪は、前を向いたまま、後ろの『結界』内にいる羅羅に向かって、声をかけた。
「あんた、つくづく、この男と結婚しなくてよかったと思うよ。まあ、その後が、悪かったけれど。……奥さんも。こんな男に見初められなければ、その後の人生違っていたかもしれないのにね」
 『合』が、その彪の言葉にハッと息を吐いた。
「私がこの女たちを見初めた?……馬鹿馬鹿しい!誰が、こんな、美しくもなければ、従順でもない、私をないがしろにするような女たちなどを見初めるものか。この女たちが、勝手に私に付きまとってきたんだ。近づいてきたから、少し優しくしてやったら、勝手に、『自分に気がある』と勘違いしてね。いっそ、『鏡を見ろ』と、何度言ってやろうかと思ったよ」
 吐き捨てられたその言葉に、霊体である羅羅と妻は、……肉体がないにもかかわらず、蒼ざめた。
 彪の後ろに立っていた暎蓮も、表情を硬くした。
「……不動!」
 彪は、もはや言うことなどなくなり、その代わり、『言の葉』に本気の怒りを乗せて、『術』を起動させた。『合』が『縛術』で動けなくなる。しかし、『合』はなんと、それに抗い、持っていた刀の『邪気』の炎で、『縛術』を切り裂いた。『合』は、彪をせせら笑うように、言った。
「無駄だよ。お前の力じゃ、私は倒せない。この体さえあれば。……そして、『斎姫』。私のもとへ来い。たとえ『斎姫』としての力を失ったとしても、お前はそれを差し引いたとて美しい。あんな女たちの魂など、さっさと『地獄界』に落とし、私とともに」
 『合』が言い終わらないうちに、彪は『合』に向けて、懐から一掴みの鋲を取り出し、投げつけると、その効果で悶絶する『合』から暎蓮を護るように、離させた。自分の後ろに彼女を下がらせる。
「……彪様。……この方、私も、……いやです」
 暎蓮は硬い表情で、途切れ途切れにだが、はっきりと言った。
彼女は、懐から、『破邪の弩(ボウガン)』を取り出した。
「これで、……滅します」
「うん。だけど、その前に、この布陣内にいるはずの『合』本体を見つけないと」
第三十章 危機的状況と、暎蓮の反撃
 『合』が体を修復している間、彼らは話した。
「ともかく、この人、人形にだけでもこれだけの『邪念』を詰め込めるってことは、もう、本体を見つけても、滅する以外に手はないね」
「はい」
 『邪霊』や『邪念』に憑りつかれた人間は、その時間が短ければ、『巫覡』の力を持ってすれば、それを切り離すことが可能なのだが、時間が経ちすぎていると、もう肉体と癒着してしまい、切り離せなくなる。そうすると、その『邪気』を消すためには、肉体ごと滅するほかなくなる。しかし、それができるのは、やはり『巫覡』だけだ。
「この人形が、この方の最後の切り札ということは、これを壊してしまえば、『合』様の『邪念』は本物の肉体にお戻りにならざるを得ないわけです。ですから、まず、目の前にいる、この『合』様人形を、壊してしまいましょう」
「その行き先を感じ取れれば、本体にたどり着くってわけだね」
「その通りです」
 その次の瞬間、彪は殺気を感じて、反射的に暎蓮の片手を引いた。彼女の軽い体が、引っ張られ、彪の胸に倒れ込む。
 ……今まで、彪たちがいた場所に『合』が刀での突きを繰り出していたのだ。『合』は彪たちに突きをかわされ、今度は刀を横に向けて切り払ってきた。彪は、その第二撃を、暎蓮を抱きしめたまま、仰向けに倒れ、自身の体の下に、『結界術』でクッションを敷いて、体を強打するのを防ぎつつ、かわした。
「お姫様、ごめんね!……少しの間、我慢して!」
 彪は、そう言うと、暎蓮の返事も待たずに、『合』人形のかけらで彼女が怪我をしないよう、『結界術』で暎蓮と自分をまるごと包み、彼女を抱きしめた格好のままで、地面を数回転して、『合』から離れた。そのまま、仰向いている自分の胸に懸命にしがみついている暎蓮を支え、立ちあがらせると、つづいて自分は、しゃがんだまま、彼女の手を引き、後ろに下がらせる。
「彪様!」
 彼の後ろで、暎蓮が叫ぶ。
 『合』が歩いてきて、立ち上がりかけている彪を、袈裟懸けに斬ろうとしてきたのだ。
 彪は、それこそ武術の動きの見よう見まねで、体を斜めに反転させて、それをよけた。……なんとか、それはうまくいったようで、彪本人は無事だったが、『合』の持つ刀の切っ先が、彪のまとう占天省の単衣の袖に引っかかり、袖が破れた。そこから、昼間から入れっぱなしだった『術』の陣形を描いた設計図が落ちた。……しかし、そんなものに構っている暇はない。なんとか、せめて暎蓮から離れようと、体の向きを変えようとした瞬間、再び『合』が、真横に刀を突きだす形で、彼の動きを封じた。彪は、二度、同じ攻撃が通じるだろうか、と思いつつ、だめもとで、再び扇での『強力』を使って、『合』の、『邪念』の炎をまとう刀身を叩き折ろうとしてみた。しかし、今度の『合』の刀身は、よほど『邪念』を込めているのであろう、先ほどよりもはるかに重かった。
彪は、その『力技』に、歯を食いしばりながら、必死に片手で懐を探ると、もう一枚『符』を取り出し、『合』の刀身に、手を怪我しないように『聖気』を集めてから、その『符』を、力を込めて、貼りつけた。
「……断(だん)!」
 『言の葉』により、『術』が起動され、『合』の刀の刀身が、『符』を貼りつけた箇所から、音をさせてひびが入り、次の瞬間、見事に断ち折れた。
「なんだと!?」
 さすがの『合』も、驚いたようだった。折れた刀身を愕然と見ている。その間に、暎蓮は彪に駆け寄った。
「彪様、小型の『入らずの布陣』を!」
「うん!……発!」
 『入らずの布陣』は、彪と暎蓮だけを取り囲む形で、発動した。……暎蓮が、彪の肩に手をかけて、言う。
「これで、『合』様はもうご自分のお体を修復することはできません。……彪様。『合』様は強敵です。ご一緒に、攻撃しましょう」
「うん。……俺が、やつの注意を引くから、お姫様は、その瞬間を狙って」
「わかりました」
 二人は、真剣な顔で、うなずき合った。そうこうしている間に、半ばやけになったような『合』が、それでもこちらを攻撃せんと、手を伸ばし、そこから『邪気』の塊を『入らずの布陣』の壁に向けて、連続で放射してくる。そのしつこい攻撃に、彪は顔をしかめながらも、こちらは『入らずの布陣』内から、『聖気』の塊を、連続で手から放射して、『合』に対抗する。
 ……こうなってくると、お互いがお互いの『気』の塊を、迎撃しあっているような状態になってきた。しかし、その伯仲した状態に我慢が出来なくなってきたらしい『合』は、落ちていた刀の刀身を素手でつかみ、それで『入らずの布陣』に斬りかかってきた。
 彪は、とっさに、三回腕を上げて、前面の壁を三重にし、強化した。それと同時に、『合』を指さし、
「……不動!不動!不動!」
 と、三重に『縛術』をかけた。『合』の動きが一瞬止まるが、『合』はにたりと笑うと、いきなり奇声を発した。長く、高く響くそれは、すでに狂人のそれに近く、彪と暎蓮は耳を塞いだ。『合』の声からは、『妖力』が感じられた。
それに気づいた彪が、はっとして目を見張った。
「『縛術』が……!」
 『合』の奇声で、彪の『縛術』が崩れかかってきたのだ。彪が驚きで、思わず声を失った。しかし、その隙に、『合』が、『邪眼』の力を使って、『入らずの布陣』も壊そうとする。
「……彪様!」
 暎蓮が彪の肩に手を置いた。彼の前に出ようとする。我に返った彪が、
「お姫様!?」
 と声を上げると、暎蓮は、彪に向かって、優しく微笑んで見せた。
「私の後ろにいらしてください。……少しの間」
「えっ……な、なにをするの?」
 彼女は彪の問いには構わず、彼の前に出、彼から自分の顔が見えない位置に立つと、『入らずの布陣』内から、『合』と対峙した。
 『合』が進んで来ようとして、彼女の顔を見た。……そして、次の瞬間。
 彼は、大声を発した。しかもその声は、恐怖が混ざった声だった。
(なんだ!?……お姫様は、なにを……)
 『合』が恐怖におののいた顔でのたうちまわるのを見て、暎蓮はゆっくりと彪を振り返った。その顔は、いつもの穏やかな彼女の顔だった。
「お姫様、なにを……」
 彪の言葉に、暎蓮は、言った。
「『呪詛』をなさった方には、『呪詛』返し、です」
「『呪詛』返し?」
 暎蓮は、こくりとうなずいた。
「私は宮廷の『巫覡』です。『呪詛』の訓練は今まで何度もしてきました。実戦で使うのは、これが初めてですが。……羅羅様と奥様と御一緒に『結界』内にいるうちに、あの方々の悲しみと、背負わされてきた『呪詛』の大きさを感じ取ることができたのです。だから、その想いを、この眼で『合』様にお返しした、ただそれだけのことです」
「『眼力』……?」
「はい。その一つです。……でも、この技を行うところは、彪様にはご覧になっていただきたくなかったので、私の後ろに下がっていただきました」
 そう言っている間にも、『合』は目を押さえ、よろめいていたが、再び体勢を立て直し、今度は、先ほどと同様に、奇声を上げながら、体ごと『入らずの布陣』に体当たりしてきた。奇声の『妖力』と、『合』が布陣の『壁』にぶつかるその勢いに、『入らずの布陣』がきしみ、揺れる。
第三十一章 『合』の最後の手段
彪が、顔を険しくして、全身から『聖気』を発し、布陣の構成に力を込めるが、『合』は、何度も何度も同じところに体当たりしてきた。
 そのうち、『合』の肩の部分が、折れたのだろう、片腕がだらりと下がった。しかし、彼は、奇声と涎を振りまきながら、同じ攻撃を幾度もしてきた。
「……お姫様、このままで。時期が来たら」
「はい!」
 彪の後ろで、暎蓮が真剣にうなずく。
 『入らずの布陣』の壁に、ひびが入った。……二人は、ごくりと喉を鳴らした。
(『結界』が、破られる……!)
 次の瞬間、彪は叫んだ。
「……狙って!」
「はい!」
 『入らずの布陣』の壁が破られ、至近距離で『合』の顔が笑った瞬間、暎蓮は、彪の肩越しに、弩を発射した。
 『破邪の矢』は、まっすぐ、『合』の眉間に向けて飛び、そこに突き刺さった。
『合』の人形である体に刺さった『破邪の矢』から、暎蓮の『聖気』がしみだし、彼の体が七色に光る。全身に『聖気』が行き渡ったところで、その体から、『邪念』が焼かれ、黒煙とともに、『合』の『邪念』は離れていった。
『ま、まさか……!』
 『合』の『邪念』は、最後の体を失って、すでにただの煙のような姿で、それでも愕然とした声を発した。そのまま、今度は、すでに荒れ放題の自室の、寝台に向かって、空中を飛ぶ。彪と暎蓮も、『入らずの布陣』を解除して、それを追った。
 寝台の下の、横長の引き出し部分の前で、『合』の『邪念』は止まった。
「……そこか!」
 『合』が、引き出しに入ろうとしているのに追いついた彪は、扇を開き、『聖気』を込めたその風で、『合』の『邪念』を吹き飛ばした。その間に、寝台のカバーをめくる。
「『封印』……!」
 暎蓮も、追いついて、それを見た。引き出し部分の上部を、荒縄に『符』を貼りつけた、『封印の術』が覆っていた。
「ご自身のお体も、封印なさって、保存しておかれたのですね」
『ま、待て!……私に触るな!』
 『合』の『邪念』が再び彪に向かうが、彪は、気合を込めて、
「……うるさい!」
 と、怒鳴った。その気迫に、『合』の『邪念』が再びはじき飛ばされる。……彪は、そのまま、懐から、小刀を取り出して、荒縄を切断した。『封印』を解いて、引き出しを引っ張り出す。
『こ、この体に戻れさえすれば!私はまだ……』
 『合』の『邪念』を放っておいて、彪と暎蓮が見たものは、眠っているような姿の『合 前五』の体だった。……しかし、この体は、まだ若そうだった。おそらく、『封印の術』を、何年も昔にかけさせたのだろう。だが……。
「変色している」
彪は、言った。……よく見ると、一見保存状態がよく見える体だが、皮膚が変色し、体の下には生きた無数の虫がたかり、寝台の引き出しの底は、すでに朽ち果てて、『合』の体から出る体液が染みたからだろう、底が半分抜け、床にも大きなしみができ、それにたかったあとの、たくさんの虫の死骸までもが残っていた。
『ば、馬鹿な!』
 『合』は、自分が見たものが信じられないと言ったように、叫んだ。
『……こ、この『無間邪術(むげんじゃじゅつ)』……!……つ、使い捨ての体と!この生身の本体さえあれば、私は、永遠に生きられ、そうすれば、妻も羅羅も『地獄界』へと落とせるから、と、あの『仙士』が言ったはずなのに!……どうしてだ!』
「そんな都合のいい話を、金なしで『仙士』が言ってくるわけがないだろう。……あんた、その『仙士』に、いくら払ったんだか知らないが、相当な無駄金を使ったようだな」
 彪は、冷ややかに言い放った。
『馬鹿な!』
『合』は再び叫んだ。
『人間一人が、一生分暮らしていけるほどの金を、この三十年間、毎月払いつづけてきたんだぞ!』
「だから、言っただろう。あんたは、その『仙士』に、一杯喰わされたんだよ」
『これは、本当に、私の体なのか!?私は、もう、この体には戻れないのか……!?』
「戻れるわけがないだろう。この体がすでに死んでいることくらい、あんたも見ればわかるはずだ。……ついでに言うなら、魂なしで、死体をよみがえらせようとしたら、魔物になるって、その『仙士』に言われなかったか?……この体にはもう、あんたの魂が入っていないんだ。今のあんたは、魂の残りかすみたいなものだよ」
『そ、それじゃあ、私が生き返ることは』
「この腐りかけた死体がもとに戻るわけがないだろう。……できたとしても、それこそ、あんたの命と引き換えに、だよ」
 吐き捨てる彪に、
『い、いや!まだ、……わからん!』
 『合』は叫ぶと、勢いよく『合』本体の体に飛び込んだ。
「!」
 彪と暎蓮は目の前で起こる信じられない光景に、目を見張った。……死体が、『合』の邪念をしみこませ、じわじわと動き出したのだ。しかし、二人は、胸のところで組まれていた『合』の両腕がほどかれだした時、合点がいった。
 『合』の胸に、『符』が貼られていたのだ。『合』の『邪念』……魂の残りかすが、そこにしみこみ、『符』の力が増幅され、死体が動いているのに違いなかった。
第三十二章 『仙士』の、『合』の使用目的
「……これも、『仙士』の『術』か!」
 彪は、起き上がる死体の前で、暎蓮を自分の後ろに下がらせて、自身も後ずさりしながら、言った。暎蓮も、言う。
「どうやら、これが、本当に、最後の『現代の最新邪術』のようですね」
 広げられた引き出しの中で、死体の下にたかっていた虫たちが散りだし、『合』の本体は、ゆっくりと半身を起こした。彼が寝ていたあとには、大きなしみが広がっている。
『……どうだ。……生き返れた。生き返れたぞ!』
 勝ち誇ったように、『合』は、叫ぶと、両手を上げた。そのまま、足を動かし、引き出しの外に出てくる。彼が歩みを進めるたびに、腐った体液で、部屋の中の床に、濡れて、引きずられた痕が残った。
 『合』は、まず、彪に、全身から『邪気』を放つ風を浴びせてきた。彪が、片手を上げ、『結界術』を張り、暎蓮を護りつつ、言う。
「……なるほどね。……しっかし。街の『仙士』の『術』も、侮れないってことがよーくわかったよ。……まったく!」
 彪は、言いざま、片手を出して、『合』に向かって、自分の『聖気』を塊にしたものを、次々に、位置を変えてぶつけてやった。
 『聖気』がぶつかった箇所から、黒煙が上がって、『合』の肉体が少しずつ崩れる。だが、それでも、『合』は、笑っていた。
「彪様、……この方、すでに……」
 暎蓮が、彼の肩につかまり、彼とともに後ろに下がりながら、言う。
「うん。普通の精神状態じゃ、ない」
 彪は、床から、先ほどまで自分が使っていた『邪気』を込めた杭を取り上げて、迫ってくる『合』の姿を見ながら、暎蓮に言った。
「……お姫様。『合』は、実験体にされたのかもしれない」
「実験体?」 
 暎蓮が、後ろから彪の顔を覗き込む。彪も、『結界術』を強化しながら、彼女に顔を向けて、うなずいた。
「……『合』に渡された『邪術』の多くは、『現代式』だ。この『邪術』を考案した『仙士』は、『合』を使って、『邪術』の練られ具合を確認して、しかも三十年にわたって、『合』からお金までとってた。この事実を踏まえると、……俺は、『合』は、悪い『仙士』に『使い捨て』の実験体にされたんじゃないかと思う」
 暎蓮が、単衣の袖を口に当てて、絶句した。……そして、声を絞り出す。
「……なんてことを……」
「まあ、だからって『合』に同情するべきかどうかは別の問題だけれどね。この男も、相当ひどいやつだったらしいから」
 そう言いながら、彪は、杭を使って彼の『結界』を破ってこようとする『合』に向けて、時間稼ぎに、開いた扇で『破邪の風』を送った。……しかし、実体を持っている『合』には、その攻撃は、体の表面を少し焼かれた程度の痛みにしか感じられなかったらしく、彼は全身から黒煙を上げつつ、再び彪と暎蓮に迫った。その顔が、狂気を宿した笑みを浮かべている。
 ……それはともかく、まずい。長丁場の戦いで、自分の『聖気』も残り少なくなってきたのだ。
相手の力は、さすが『仙士』から何度も力を受けているだけに、しぶとい。
しかし、彼は、暎蓮をおびえさせないように、軽口をたたいた。
「あーあ、この部屋、こんなになっちゃって。……あとで、俺が修復するしか、ないんだろうなあ。こんなことになるなら、最初から、部屋の外に出てもらって戦えばよかったよ」
思わず半分くらいは本音の愚痴が出る。
「彪様」
 暎蓮に向かって振り返り、笑ってみせる。
「大丈夫だよ、お姫様」
 暎蓮は、彪に微笑んだ。
「はい。大丈夫です。……私には、彪様がついていてくださるのですから」
 それを聞いた彪が、思わず顔を真っ赤にする。……だが、彼はすぐに、まじめな顔になって、『合』に向かい、言った。
「……正気を失くしたあんたに今さら言っても仕方がないことだけれど。一応、言わせてもらう」
 『合』が、杭を振り上げようとしていた手を止めて、彪を見る。
「……まったく、あんた、聞けば聞くほど、本当に、恨みつらみばかりで、しかも、なんでも人のせい。さっきも言ったけれど、はっきり言って、気に入らない。……だから。……その『邪念』、……悪いけど、滅させてもらう」
「黙れ、小童が!」
 笑っているのか、怒っているのかわからない不気味な声音で、『合』は叫んだ。
 暎蓮に、彪は耳打ちした。
「俺が、もう一度、『縛術』をかけて、やつの動きを封じてみるから、お姫様は、弩でその瞬間を狙って」
 うなずきかけた暎蓮が、はっとしたように言った。
「……まずいです、彪様!」
「え?」
「……『破邪の矢』は、先ほど使ってしまいました」
第三十三章 『破邪の矢』が、ない!
「ええ?……じゃ、他の矢は!?」
「……普通ならば、棒状のものであれば、握ればなんでも『破邪の矢』に変わるのですが……」
 暎蓮はあせったように、辺りを見回した。先ほど使った『破邪の矢』は、部屋の隅、かなり遠くだ。……あれを取りに行っている暇はない。
 それ以外に使えそうなものは……。
 必死になって探すが、辺り一面、『合』人形のかけらで床が埋め尽くされ、棒状のものなど見つかりそうにない。
 暎蓮は、『結界術』と残り少ない鋲で、『合』の攻撃をなんとかさばいている彪の背中に向かって、心底悔しそうに、叫んだ。
「……不覚です!いつもこれ一本で片が付いていたので……。代用品が、ありません!」
 さすがに彪が、
「……なんてこった!」
 と、わめいた。
 彪はとにかく、自身の『結界』の『壁』ぎりぎり前まで出ると、
「……不動!不動!不動!」
 と、もう一度『合』に『縛術』をかけてみた。
 しかし、その寸前、『合』は、高笑いしながら、その場で跳躍し、彪の『縛術』をかわすと、天井に向けて膝と手をつき、逆さから彪を見た。その口からは涎が、全身からは腐りかけた体液が飛び散っている。
 『合』は、そこからまた跳んだ。彪の『結界』の上部から、振り上げた杭を突き下ろしてくる。彪は、両手を上に挙げ、『結界術』の壁を作り、それを防ごうとしたが、『合』は床に着地しながら、その勢いを借りて、杭の先で、彪の前の『壁』を切り裂いた。
 ……まずい!
 自分の『聖気』が尽きかけているのを感じた彪は、さすがにあせった。なんとか、もう一度『結界術』を発動しようとするが、『合』の狙いは、今度は、彪ではなく、暎蓮のほうだった。
 『合』は、彪の斜め後ろにいた暎蓮に向かって、口から大きな『邪気』の塊を吹いてきた。しかし、彪が、瞬間的に彼女と『合』の間に割り込み、自らの肉体と、とっさにどうにか張った、『結界術』の壁で、『邪気』の塊を、防いだ。勢いが強かったため、物理的攻撃にもなったその『邪気』のせいで、『結界術』越しでも彪の体は打撃を受けたように、後ろに吹き飛んだが、体に自分で力を加え、反転させて、後ろにいる暎蓮に自分の体がぶつからないようにした。そのまま地面を滑り、転がる。
「……彪様!」
 暎蓮が、自分をかばって地べたに転がった彪を振り向いて、青ざめる。
「…………!」
 彪は、人形のかけらだらけの床に、仰向けに転がって、げほっと咳を漏らした。肉体的な痛みもあったが、それ以上に『邪気』に当てられた気持ち悪さのほうが大きい。片手を胴体に当てて、自分の『聖気』で自身を癒す。
 『合』が、彪にとどめを刺すように、杭を手に近づいてくる。暎蓮は、それを阻もうと、彼らの間に立ち、徒手空拳のまま、なんとか、『結界術』を張ろうとした。
 しかし、そこで、『合』は、狂気に満ちた顔で、にたりと笑った。その視線は、誰が見ても穢れていた。暎蓮は、それを感じ、ぞくりとした。
 ……『斎姫』という、『巫覡』の最高位ではあっても、彼女は、『術使い』のような実戦的な戦いには、まだそれほど慣れてはいなかった。彼女の背筋が、寒くなる。
 彪が、這うようにして、暎蓮に近づき、彼女の手を引き、自分の後ろに下がらせた。
「……彪様!お体が……!」
 暎蓮が、彪に手を引かれたことで、我に返り、苦しげな彼の顔を見て、目に涙を浮かべた。その彼女を安心させるように、彪は笑ってみせた。
「……だ、大丈夫。それより、……『合』に近づいちゃ、だめだ。あいつはおそらく、今度は、……お姫様を手にしたいんだ」
 彪はよろめく体を支えながら立ち上がり、言った。
「……『斎姫』。お前は、私が、もらう」
耳が汚れそうな『合』の言葉など、聞こうともせず、彪は、もう一度、
「不動!」
と『縛術』をかけた。『合』の視線が彪からそれ、暎蓮に向いていたことで、今度は『合』に完全に『縛術』がかかり、『合』が、動けなくなる。『合』は、わめき声を上げながら、動かない体で、暴れようとした。
「……お姫様、大丈夫?」
 暎蓮は、『合』の言葉に、表情を硬くしていたが、なんとかうなずいた。
「この間に、なにか棒状のものを!」
「は、はい!」
 二人は、辺り一面『邪気』だらけの部屋の中を探ろうとしたが、次の瞬間、『合』が、胸を大きく膨らませ、『邪気』の塊を二人に向けて吹き出してきた。
 まさか、これほどの『邪気』がまだ残っていたなんて。彪は、目を見張った。
 ……標的の『邪気』の大きさを、読み違えたか!
第三十四章 『必ず、お姫様を、護る』、と、『合体技』、発動
 彪は、とっさに、暎蓮をしゃがませ、その上から覆いかぶさった。……残されている『聖気』の量は、そう多くはない。これは、やつを倒すために使わないと……!
 彪の背中に、『邪気』の塊がぶつかり、その強い不快感に、彼は息を詰まらせた。
「彪様!」
 暎蓮が、彼の腕の中で、彼を助けようと、身動きしようとするが、彪は、両腕に力を込めて、彼女を抑え込み、動かさせずに、その場で護った。
 『邪気』の発する靄の中から、『合』が、近づいてくる。……嗤いながら。
 彪は、吐き気をこらえながら、再び、後ろを振り向いた。
……俺だけの力じゃ、こいつを止めることは無理なのか?……だけど。
たとえ、こいつと刺し違えてでも、お姫様だけは護らないと……!
彪は、唇をかんだ。
 その、あせる彼の背に、暎蓮が手を当てる。……彼の体を、『神気(しんき)(『天帝』からの加護を強く受けているという『気』のこと)』を送り込んで、浄化してくれているのだ。
 『神気』の力で、彼の体が次第に楽になり、また、失われかけていた自分の『聖気』も、徐々に補填されてくる。
 思わず振り返ると、暎蓮は涙を浮かべた瞳で、彪を見つめていた。その彼女に、しっかりとうなずいてみせる。
 ……絶対に、護る。この人を。
 彼は、そう、心の中で固く誓うと、立ち上がった。暎蓮に、言う。
「……ありがとう、お姫様!」
 再び、『合』のほうを向いて、彼は、表情を厳しくした。
とにかく、暎蓮の身を護るべく、再び前に出ようとした彪に、彼女が、突然、言った。
「彪様、お下がりください!」
「え?」
 彪は仰天して彼女の顔を見た。彼女の顔が、輝いている。
「代用品ありです!」
「ええ?」
「これです!この『布陣』をお敷きになってください、お早く!」
 暎蓮が示していたのは、先ほど彪が袖から落とした『退魔法』の布陣の設計図の一つだった。
「だ、だけど、それはまだ未完成で」
「いいのです、お早く!」
「う、……うん!」
 二人は、近づこうとする『合』から逃げるように、無駄だと知りつつ、『結界術』の壁を張りながら素早く後ろに下がった。
 ある程度下がったところで、彪は、呼吸を整え、自分と暎蓮を取り囲む形で、顔の前で両手を合わせ、未完成のままの『退魔法』の布陣を発動させた。
「……発!」
 地面に陣形が敷かれ、光を放って浮かび上がる。
 その『聖気』を伴った光に、『合』が少なからず、まぶしそうに片手で顔を押さえ、反応した。
暎蓮は、その隙に、彪のまん前、陣形の真ん中に立った。もう一度、『弩』を取り出し、構える。
「彪様。……私の『矢』になってください」
「えっ」
 暎蓮は、彪に笑顔を向けた。
「私の右手に手を添えてください。……陣形を、外側の、あの始めから、渦巻くように、力を乗せて。『聖気』を、私の『気』に合わせて乗せて。そして、発射口に集中させてください。……お早く!」
「は、はい!」
 彪は、あわてて、彼女に寄り添い、暎蓮の右手に自分の右手を乗せた。言われたとおり、まず陣形全体に、自分の『聖気』を乗せ、陣形に描いてある、様々な方向性を向いた『力』を一つにまとめながら、ゆっくりと渦巻くように『聖気』を中心部まで動かした。  
その力が、自分の右手に集約され、暎蓮の持つ『神気』と、重なり、溶けあう。
「…………!」
 彪が、かつて感じたことのない質の、そして、かつて感じたことのないほどの力が体にみなぎるのを感じた。その力は、彪の『聖気』と暎蓮の『神気』の完全に一体化した状態で、丸い、大きな光の塊となって、この世界に具現化された。
「な、なんだ、その『力』は……!?」
 『合』が、その彼らの具現化された力からの光を浴びただけで、苦しそうに、後ろに下がった。『合』の肉体が、少しずつ朽ちてゆく。
 部屋の外に張られた『結界術』の中にいる羅羅と妻が、その光の浄化作用だろう、照らされていくうちに、彼女たちからも『邪気』が少しずつ抜けていく気配を感じた。
「これは……!?」
 彪が、叫んだ。信じられないような、大きな『力』だった。
暎蓮が、微笑む。
「……これが、私たちの『武力』です。これを、矢の代わりに、撃ち出します!」
 光の塊は、暎蓮の持つ『弩』にしみこんでいった。『弩』が七色に輝く。
「これなら、外しません。…………準備、完了です!」
 暎蓮が、彪に言った。
「彪様。引き金を。……私と一緒に」
 彪が、表情を引き締めて、うなずいた。彼女の右手の上から、自分も手を乗せ、一緒に引き金に指をかける。
 二人は、声を合わせた。
「三、二、一」
「いきます!」
 二人は、同時に、引き金にかけた指に力を込めて、引いた。
 『弩』の発射口から、七色に輝く大きな力の塊が、矢となって発射された。
 彪と暎蓮は、その衝撃に、後ろに吹き飛んだ。彪が、とっさに、彼女の体が地面に叩きつけられないように、彼女を受け止め、クッション代わりになる。
 彪と暎蓮では、身長は暎蓮のほうが高いが、彼女は細いので、体重は彪のほうが多いだろう。どちらにしても、もとから頑丈なうえ、成長期である彪にとっては、大した衝撃ではなかった。
 しかし、暎蓮は、女性として、恥ずかしかったらしく、すぐに転がるように彪の上からどいた。そして、体を起こす彪に向かい、顔を真っ赤にして、
「ひゅ、彪様、ごめんなさい!重かったでしょう」
 と叫んだ。
 彪はにやっと笑って、
「いや、ぜんぜん」
と言ったが、すぐに我に返り、前を向いて、
「……そんなことより、やつは!?」
 と言った。暎蓮も、座ったまま、振り返る。
崩れ落ちていく、彪の張った『結界術』の壁の向こうで、『合』の肉体が、崩れ、肉は落ち、骨もばらばらになって、地面に向かい、音を立てて落下していくところだった。
彪と暎蓮の『力』を具現化させた『矢』は、『仙士』の『邪術』である『符』を、見事に貫いたらしかった。
『合』は、あの奇声を、長く、長くあげて消えてゆき、残されていた『邪念』もすべてが霧散してゆく。『合』の奇声は、ぞっとするほどいつまでも彪たちの耳に残った。
……だが。
「……滅せた……」
「はい。……私たち、『巫覡』の『武力』で……」
 暎蓮は、そう言って、彪に向かって、いつものように優しく微笑んだ。彼も、笑顔を返し、答える。
「うん」
彪が立ち上がり、暎蓮に手を貸して、彼女も立たせた。
……戦いは、終わったのだ。
第三十五章 女たちの最期
彪は、人形たちの瓦礫の中、辺りを見回して、額に浮いた汗を、破れた袖で拭いながら、言った。
「……さて。残っているのは、羅羅さんと奥さんだけど。どうする?お姫様」
彪と暎蓮の『結界』内に残っていた羅羅と妻の二人からは、『邪気』もかなり抜けていたが、『気力』もかなり抜けていた。二人の霊体は、どうにか映像として浮かび上がっていたが、彼女たちは、もはや口をきく力もないようだった。
ただ、彼女たちは、その目だけを動かして、『結界』内に入ってくる彪と暎蓮を見ていた。
 暎蓮が、その彼女たちに、そっと、声をかける。
「羅羅様。それに、奥様。『合』様は、この世から滅されました。……もう、復讐は、終わりにしませんか」
「あれだけ木端微塵にしちゃったからね。もう、『合』がよみがえることなんて、ないと思うよ」
 彪も言う。
「どなたかを憎むという、苦行はもう終えて、お楽に、なりませんか」
暎蓮が、彼女たちにもう一度、優しく言った。……羅羅が、小さく口を動かす。
暎蓮が彪を見ると、彪がうなずき、羅羅の顔の前で手のひらを少し動かした。
……これで、彼女が言葉を発しやすくなる。
『……これだけの、『邪気』を持っていたうえに、これだけの、私の『罪』……。『楽になる』といっても、どうせ、私も、滅するというつもりなんだろう』
 羅羅は、『気力』のない声で言った。
『私は、それでも構うものか。自分の手ではやれなかったけれど、あの男の最期は見られたわけだからね』
暎蓮は、答えた。
「……無理に、ご自分を貶めようとなさることはありません。『合』様を滅したのは、私たち『巫覡』です。そして、それは、あの方が、すでに『邪』におなりになってしまわれていたから、という事情があればこそ。そこに、羅羅様や奥様が関与なさるご必要は、ないのです」
 暎蓮は、つづけた。
「滅されるか、天上に開放されるか。……それは、あなた様がた次第です。復讐心をお捨てになり、清浄な『気』を取り戻し、天上に開放されたいとおっしゃるのであれば、もちろん、お手伝いは、します。ですが、『邪心』を強く持ったままでいたいとおっしゃるのなら、……残念ですが、ここで滅されるか、『合』様のお望みであったように、『地獄界』へ堕ちていただくしか、ありませんが」
 暎蓮は微笑んだ。
「……人間(ひと)は、誰でも、『邪心』を持つ生き物です。それは、ここ、『聖域』である『天地界』の住人であったとしても、人間である以上、逃れることなどは、できません。……ですが、その『邪心』に囚われることを良しとするか、ご自分の中で、自らの『邪心』を征伐しようと、律するお気持ちをお持ちになるかどうかで、魂の行ける場所は、変わってくるのです。……ですから。もう一度、おうかがいします。……お二人とも。『復讐』は、もう、おやめになりませんか」
「俺も、それをお勧めするよ。なんたって、恨みの対象の『合』は、もう、それこそ、いなくなっちゃったんだしさ」
 彪が、暎蓮の隣で、彼女の言葉を後押しした。
 ……羅羅と妻は、思いがけないことを言われたようで、黙り込んだ。
 その彼女らに、さらに暎蓮は、言った。
「天上に開放されれば、生まれ変わり、新しい人生に歩みだすこともできます。……いかがですか」
 羅羅は、しばらく黙っていたが、やがて、投げやりに、言った。
『……あの男の望むようにだけは、なりたくないね』
「では、『復讐心』をお捨てになりますか」
『捨てられるのかい?こんな私が……』
 暎蓮は、微笑んだ。
「……もう、あなた様からは、先ほどまでのような『邪心』や『怨念』は、ほとんど抜けていらっしゃいます。……本当は、ご自分でも、それにお気づきなのでしょう?……それに。そのために、私たち『巫覡』は、いるのです。……ねえ、彪様?」
 暎蓮は、横にいた彪に顔を向け、笑ってみせた。彪も、笑顔を作る。
「うん」
 暎蓮たちの言葉に、羅羅の霊体が、胸を突かれたような顔をした。
 暎蓮は、妻のほうにも声をかけた。
「奥様は、どうされたいですか」
『……私は、長いこと、ずいぶん大きな『邪念』を持ちつづけてしまったわ。もはや、この気持ちからは、自分を切り離せない。そして、また、私は、決して消えることのない『罪』も背負っている。そのことは、決して忘れてはいけないこと。『斎姫』様がおっしゃっていたような、『『邪念』を自らで『征伐』する』ということが、私には、できなかったのよ』
「ですが、羅羅様ご同様、あなた様からも『邪心』は抜けてきていますよ。……私たち『巫覡』には感じられるのですが、あなた様も羅羅様も、本当はとても御心がお優しく、白い方です。ですが、それがあったため、今回このような事態にまで発展してしまった……。あなた様がたに『合』様とのご縁があったのは、悲しいかな、『天帝』様の『ご意志』であったはずですが、それでも、今ならまだ、次の、新しい人生をやり直すことはできます。……どうか、もう一度、お考えになっていただけませんか」
妻は、弱々しかったが、暎蓮に向かって、微笑んで見せた。
『……いいえ。私は……。もう、すべてが、遅いの。そして、もう、生まれ変わりも、したくない。だから、せめて、あなたがたの手で、私を、滅して』
「本当に、それでよろしいのですか」
暎蓮は、言いつのった。
「……お子様のもとへ、いらっしゃれなくても。あなた様のお子様は、今、天上にいらっしゃいます。罪のなかったお子様は、今、天上で、生まれ変わる準備をなさっているのです。天上に行ければ、あなた様がたは、再びまた、相見えることもできるかもしれません。それなのに、そのお子様のもとへいらっしゃれなくても、本当に、よろしいのですか」
「子供?」
 彪が、驚いた顔で言った。……なんの話だ?
暎蓮が、彪に言う。
「奥様には、『合』様との間に、まだ小さな、赤ちゃんが、いらしたのです。……ですが……」
 妻が暎蓮の言葉を引き継いで、言った。
『『合』という男に絶望した私は、『合』との間にできて、生まれてすぐの子供を、この手で殺して、大河に流してしまったの。子供が、『合』に似ているんじゃないかと思うと、憎らしくて、……恐ろしくて。本当は、私が、あの子を、『合』のような子にしないために、母として、護らなくてはいけなかったはずなのにね。本当に……。……これじゃ、羅羅さんのしたことを、責めるわけにはいかないわよね』
 そう言いながら、妻は、力なく、笑った。
 彪は、驚いた。……お姫様は、そこまでわかっていたのか。
『だから。殺してしまった、罪のないあの子へ詫びるためにも。ここで滅されるのが、私にとっての、唯一の、救いなの……』
 それを聞いた暎蓮の顔が、つらそうになった。……しかし、彼女も、『斎姫』だ。『巫覡』の一人としての『使命』は、全うしなくてはいけなかった。
「……そうですか……」
暎蓮は、やっとのことで、言った。彼女は、言いながら、隣に立っていた彪の片手を、握った。……その、彼女の気持ちに寄り添うべく、彪は、暎蓮に握られた手を、硬く握り返した。 
その彼の手の力加減を確認したところで、彼女は、息をつき、言った。
「……わかりました。では。せめて、お名前だけでも、教えていただけませんか。私たち『巫覡』たちの記憶に、とどめるためにも」
 彪は、暎蓮の横顔を見つめた。
 ……ここまでやるのが、『斎姫』の……いや、俺たち『巫覡』の仕事なのか。
 妻は、言った。
『私の名は、塊(かい) 紗織(しゃおり)……』
「紗織様。ありがとうございます。……忘れません」
 暎蓮は、彼女に、一礼した。
そして、彼女は、彪を振り向いた。
「……彪様」
「……うん」
 紗織の魂を、この世界から、滅する時が来たのだ。
 二人は、両手で、紗織の霊体に手をかざし、声を合わせた。
「……決(けつ)!」
 彪の手から、『聖気』が注がれ、暎蓮の手からは、せめてもの手向けだろう、『神気』が注がれる。
紗織の瞳が、閉じられた。……その霊体が、次第に霧状になり、消えていく。紗織は、最後に、一瞬だが、彪と暎蓮に微笑んだような気がした。紗織の霊体が、その場から、完全に消えた。……彼女は、この世界と決別したのだ。
 妻が消えていく様子を、横からじっと見ていた羅羅が、言った。
『私のせいだけど。……あの人も、気の毒な人だったね……』
 彪と暎蓮は、その彼女の言葉を聞いて、今度は羅羅に向き直った。
「それがおわかりになるあなた様になら、必ず望みはあります。……では、羅羅様。始めましょうか。……彪様」
「わかった」
 彪が、羅羅の霊体の額に手を当て、暎蓮は、羅羅の胸に手を当てる。
 二人は、再び、声をそろえた。
「……浄(じょう)!」
 二人の手から、『聖気』が発され、それが羅羅の中に送り込まれていく。
羅羅の場合は、彼女の魂を天上に開放する、という、一般の『巫覡』のやる儀式で充分間に合うことなので、暎蓮も『神気』は使わず、普通の『巫覡』同様に、『聖気』を使う。  ……その清い『力』に押し出される格好で、羅羅の霊体から、残されていた『邪気』が抜けて、上空に上っていく。霊体を包み、また、中を流れてゆく『聖気』の動きが心地よいのだろう、羅羅が、その力を自ら受けるように、次第に、顔を上向け、目を閉じる。白かった彼女の髪が、だんだんと長く伸びて、色も黒く変わってゆく。豊かで、艶のある、美しい髪だ。
彼女の顔つきも、それまでのやつれ、荒んだものから、穏やかで、微笑みをたたえたものに変わっていった。
 羅羅の中から『邪気』がすべて抜けて、『聖気』が満ち、彼女の『気』が清浄に戻ったところで、彪と暎蓮は、彼女からそっと手を離した。
『……ありがとうございました』
 羅羅が、彪と暎蓮に一礼し、言った。もう、あの蓮っ葉な言葉遣いではなく、もと女官らしい、品のあるものに戻っていた。
「……羅羅様。あなた様は、もう、充分お苦しみになりました。もう、『罪』は、消えたのです。……それから。……あなた様には、来世で、あなた様に最もふさわしい、素晴らしい殿方との出会いがあります。そして、その方と手を取り合うことで、今度こそ、本当にお幸せになれます。ですから、今は、どうか、それを、お待ちになってください。……少しの間だけ、天上で」
『『幸せ』に……?……こんな私が、本当に、そんなふうになってもよろしいのでしょうか、『斎姫』様』
 羅羅が、驚いた顔をした。
 暎蓮は、微笑むと、言った。
「はい。先ほども申しあげたとおり、あなた様の『罪』は、もう、消えたのです。そして、この『予見』は、ただの慰めではありません。たった今、……そう、『天啓』があったのです。……これは、『天帝』様の『ご意志』です。どうか、お信じになってください」
 彪は、いつもの暎蓮の口癖の様を見て、やっと、この件が終わったことを感じ、自分も微笑んだ。そして、言った。
「……羅羅さん。大丈夫だよ。お姫様の『天啓』は、百発百中なんだ。それに。……俺も今、同じ『天啓』を見たからね」
『お二人とも……』
 羅羅が、声を詰まらせた。両の瞳からは、美しい涙が流れている。
「さあ。……お行きになってください。そして、……いずれまた。どこか、別の場所で、お会いしましょう。その時を、楽しみに待っております」
「さようなら、羅羅さん。……来世は、お元気で、幸せにね」
 二人は、羅羅に別れを言うと、彼女に向かって、両手を伸ばした。声をそろえ、
「……昇(しょう)!」
と、『聖気』を使って、彼女を天上へ送り出した。
 羅羅の姿が、消えていく。その羅羅の表情は、初めて見る、彼女の曇りのない笑顔だった。
『お二人とも、お元気で。ありがとう……』
 羅羅の最後の言葉は、尻切れだったが、……彪と暎蓮には、充分、響いた言葉だった。
第三十六章 終わってみれば
 彪が、両手を上げて、伸びをした。すべてが終わった合図のようなものだった。
「あーあ」
「大変な夜でしたね、彪様」
「本当にね。……でも、お姫様が無事でよかったよ。俺、それだけが心配だったんだ」
「私は絶対、大丈夫です。先ほども申しあげましたけれど、彪様がご一緒にいてくださったのですから」
 彪は、それを聞いて、照れのあまり再び真っ赤になり、それをごまかすべく、あわてて辺りを見渡して、言った。
「『清白宮』の一角が、ひどく壊れちゃったけど、この『入らずの布陣』を解く前に、修復しないと、まずいね。『修復』の『術』を使うには、今の俺たちには『気』が足りない。どうすればいいかな?」
「『群玉山脈(ぐんぎょくさんみゃく)』の木々から、『精(じん)』を借りたらどうだ?」
「ああ、それはいいね……って」
 いい提案だ、と軽くうなずきかけていた彪の動きが、止まった。……今の声は。 
彪と暎蓮は、ぎょっとして、その声がしたほうを見た。
「…………扇様!」
 冠に、王としての正服姿の扇賢が、『入らずの布陣』の中に、立っていた。彪たちのほうに、瓦礫やら人形の破片やらを、足でのけながら、向かってくる。彼の後ろには、やはり盛装した王音、同じく、西方風の衣服ではあるが、盛装したナイトが立っている。
 どうやら、三人とも、宴の途中で抜けてきたらしかった。しかし、三人とも、ちゃんといつものように、手には愛刀を持っている。
 その三人の突然の登場に、度胆を抜かれた彪は、あせるあまり、どもりながら、言った。
「……さ、三人とも、い、いつから、この布陣の中に!」
「お前がこの布陣を張った時からだよ」
 扇賢が、正服の大きな両袖を邪魔そうにまくり上げ、両腕を組んで、言った。
「扇賢様、ずっと、ご覧になっていたのですか」
 暎蓮が、呆然としたように、言った。扇賢が、鼻の頭をかく。
「まあな。お前たちが、二人だけで、どこまでやれるか、見ておきたかったんだ」
「……扇様!」
 彪が、怒りと恥ずかしさで、顔を真っ赤にして、叫んだ。
「そこにいたなら、なんでお姫様を護ってくれなかったんだよ!俺一人じゃ、危うかったの、見ててわかってただろう!?」
「……彪。私とナイト様は、何度も手を出そうとしたのよ。だけど、扇賢様が、それをお止めになったの。『彪なら絶対、暎蓮を護りきってくれるはずだ』、って、おっしゃってね」
 王音が、彪をなだめるように、言った。……彪は、その言葉に少なからず、驚いた。
 いつもはあれだけ、他の男から暎蓮を遠ざけようとしている扇賢が、自分のことをそれだけ買ってくれていたなんて。
「扇様……」
 彪は、口ごもった。なんといえばいいのか、わからなかった。
 ナイトが、言う。
「ですが、まあ、結果は出せたではないですか、彪殿。あなた様は、無事、暎蓮姫をお護り出来て、『敵』も倒せ、『巫覡』としてのお仕事まで完遂できたのですから」
「でも、それは、俺一人の力じゃなくて、お姫様がいたから……」
「だからな、彪」
 扇賢が、少し困ったように、笑った。
「俺は、自分を暎蓮の最大の『鎧』だと自負しているが、『巫覡』としての力はない。こういった事件の時には、俺では役に立てないんだよ。この手のことがあった時に、暎蓮を護る力になってくれるのは、お前じゃないと、無理なんだ。だから、まあ、言ってみれば、お前の『力試し』をさせてもらったわけだ」
「扇賢様のそのご意向はわかりました。……ですが。じゃあ、扇賢様は私たちの、この件を、いつからご存じだったのです」
 暎蓮が、そう言いながら、飛んでいって『合』人形の眉間に刺さりっぱなしだった『破邪の矢』を握ると、いきなり、それこそ『力技』でそれを引き抜いた。矢を持って、彪たちのところまで戻ってくる。……いかに彼女でも、さすがに、少し怒ったような声だった。 その大きな瞳で、扇賢を見つめる。
 その彼女の迫力ある仕草と、声音、そして強い視線に、今度は扇賢が、どもりながら、言った。
「い、いや、き、昨日、たまたまお前の顔を見に、『雲天宮』に行ったら、応接の間で、お前たちがこの件について話をしていたから、つい……」
「『つい』、『立ち聞き』していたというわけですか」
 暎蓮の迫力に、扇賢がもごもごと、言う。
「……いや……。お前たちが、あまりにもいつも一緒にいるから、……なんというか……」
「……扇様!」
 彪が、あきれたように言った。
 ようは、扇賢は、まだ子供である自分と暎蓮の仲が良すぎることに、少しばかりやきもちを焼いていたらしいのだ。……そんなわけがないのに。
「……馬鹿馬鹿しい!」
 彪は、扇賢に向かって吐き捨てながらも、少しだけ心が弾んでいた。
 扇賢は、半分ばつが悪そうに、しかし、仕切り直すように、言った。
「そ、それはともかく、だ。無事に敵を滅せたし、彪と暎蓮の新しい技もできた。『巫覡』としての仕事も完遂できて、この一件は完了だ。めでたいじゃないか。……ああ、いいから、もう、お前たち、早いところ、ここを修復しろ。彪、お前も布陣を張りっぱなしで、気力がもたなくなるぞ。その前になんとかしろ」
「ああ、はいはい……」
 彪は、投げやりに言うと、手で印を結び、『入らずの布陣』越しに、城の周りにある『群玉山脈』の森の木々から、『精』を集めた。隣で、暎蓮も同じことをして、『精』を集める。……『精』とは、自然物の持つ『気』の一種だ。
 修復に必要な、大体の量が集まったところで、二人は、『清白宮』に向かって、手をかざし、その『精』を発した。
「修(しゅう)!」
 『言の葉』で術を起動すると、森の木々の『気』の力で、徐々に、壊れていた建物が修復されてきた。
 それを見ている、マイペースなナイトが、のんびりと、
「『巫覡』の方のお力というのは、便利なものなのですね」
 などと言っている。
 『清白宮』が完全に修復されたところで、暎蓮は息をつき、彪が、
「それじゃ、布陣を解くよ」
 と、言った。
「ああ」
 扇賢が答え、彪が布陣を解く。これで、外界と遮断された空間は消え去った。修復された部屋には、もう、『合』という男が住んでいたあとは、なかった。……そして。宮廷にいた人たちの記憶からも、『合』の記憶はもう消えているだろう。
「ところでな、彪」
「なに?扇様」
 扇賢が、小柄な彪を見下ろして、言う。
「お前、見ていたところ、俺の許可を得ずに、散々暎蓮に触っていたな」
「なっ!」
 思いもかけない扇賢の言葉に、彪はあせった。
(……そう言われれば、女の人と、あんなに接触したのは、初めてだ。……だけど……)
「……で、でも、あ、あれは……!」
 彪が、真っ赤になって、口ごもった。それは事実だが、別に不埒な気持ちで触れたわけではない。仕方がないではないか。だが、しかし。……やはり、やってしまったのは確かだ。
 真っ赤な顔のまま、頭の中がぐるぐると混沌の状態に陥っている彪の様子を見て、
「扇賢様。彪様は、私を護ってくださろうとして」
 暎蓮が、必死に言ったが、
「いいや、これは、『罪』だ」
 扇賢は、にやにやしながら、言った。その顔は、いかにも人の悪い笑いを浮かべており、楽しそうだった。
「『罰』を与えるから、覚悟しておけ」
「ええ?」
「扇賢様!」
 暎蓮が、必死に扇賢の袖を引くが、扇賢はもはや、その考えを改める気はないらしく、両手を頭の後ろで組み、上を向いた。
 その様子に、彪が、がっくりと肩を落とす。しかも、その時、彼のおなかが、ぐーっと鳴った。その音に、一同は、そろって、彪を見た。
 恥ずかしさも手伝い、彼が腹部を両手で押さえ、再び顔を赤くする。
「腹が減ったのか」
 扇賢が言い、一同が、笑う。
「それは、そうです。夕方からずっと、働きづめだったんですもの。……私も、空腹です」
 暎蓮も、笑いながら、言った。
「俺たちもだ。宴を途中で抜けたから、ろくに食ってない。……暎蓮」
「はい」
 暎蓮は、笑顔で扇賢にうなずいた。
「皆様、『麗水宮(れいすいきゅう)』の『貴賓の間』へどうぞ。なにか、お夜食を、作ります」
「それでしたら、暎蓮様、わたくしもお手伝いいたしますわ」
 王音も、笑いながら言う。
「王音様、いつもありがとうございます」
 二人の女性は、顔を見合わせて、笑いあった。それを合図に、一同は、『麗水宮』へ向けて、歩き出した。
 歩きながら、今度は彪が扇賢に問う。
「でも扇様、宴のほうはいいの?」
 扇賢は、目の前に垂れる幾本もの鎖が邪魔なのか、その鎖が垂れている冠を外すべく、顎の下の紐をほどきながら答えた。
「本当は、戻ろうと思っていたんだが、気が変わった。宴で出る飯より、暎蓮の手料理のほうがうまいしな。……それに、宴ももう後半だ。大半の連中が酔っぱらっているだろうから、俺たちがいるかいないかなんて、わかりやしないさ。大体、俺は常に御帳台(みちょうだい)の中だしな。なおさら、いるかどうかなんてわからんだろう」
「ふうん」
「しかし、お前、俺の言ったことを忘れてやしないだろうな。『罰』は必ず与えるからな」
 彪が大きくため息をつく。
「……もう、勘弁してくれよ……」
 彪は、心底情けなさそうな顔をして、言った。一同が、それを聞いて、また笑う。

 ……その彼らの後姿を、暗がりから、そっと見ている人物がいた。
その人物は、
「……なるほど。あの『無間(むげん)邪術』を破るとは、思った以上の腕だ。……面白い」
と言うと、
「あの『二人』には、重要な『役目』がある。……さて。……どこまで、『期待』に応えてくれるかな……?」
と言い、喉の奥で、くくっと低い笑い声を残すと、もう一度、彼らの後姿に目を当て、その直後に、一瞬にして、姿を消した。
エピローグ 嬉しい『罰』
 次の日の朝参に出席した者たちは、少なからず驚いた。
……御帳台が、二つある。
 それはつまり、一つはこの国の王である扇賢のもの。……もう一つは。
 この国の『正妃』で、だが、『斎姫』であるがゆえに普段は朝参に参加しない、暎蓮のものであることがわかったからだった。
もちろん、暎蓮のほうの御帳台はやや小さいし、御簾も上げられなかったが、扇賢のほうの御帳台の御簾は、途中で上がることになった。
出席者たちは驚きを隠しきれないままで、それでも朝参はいつも通り進んだ。
その日の議題が出そろい、朝参もそろそろ終わるか、という時、扇賢の声がした。
「ここで、異動命令を出す。重大な『罪』を犯したために、異動を余儀なくすることとなった。……これは、いわば、『罰』だ」
その言葉を聞いた、朝参に参加していた殿上人たちは、ざわめいた。……『国王』から、ここまではっきり、『重大な罪』と『罰』と言われた者は初めてだった。
 果たして、どんな『罪』で、『罰』なのか?
朝参に参加していた面々は、それぞれ、自分の身になにか覚えがあるだろうかと、必死に記憶を探り、取り乱して、『朝参の間』は、にわかに騒がしくなった。
 彪は、なんだか、いやな予感がした。
 この、『罪』と『罰』って、もしかして……。
 考えている彪だったが、その彼のもとへ、扇賢の声が、朗々と響いた。
「……白点 彪!」
 まだ若いうえに、占天省に入ったばかりの下っ端なので、群衆の後ろのほうに座していた彪を、貴族たちが一斉に振り返った。……史上最年少で宮廷に入ったため、彼の存在は、たとえ下っ端であろうとも、どこにいても目立つのだ。
 彪は、その人々の視線の圧力に負けて、一瞬戸惑ったが、あわてて、平伏した。
「は、はい!」
 彼は、あせって返事をした。
 ……いつもは『扇様』呼ばわりだが、今は公務の最中だ、臣下の礼を取らないといけない。
 平伏したまま、上目づかいに扇賢の御帳台を見ると、ちょうど、前に垂らしてあった御簾が、女官の手によってからげられるところだった。
 御帳台の中には、鎖のたくさん垂れ下がった冠をかぶり、何重にも衣を重ねてある、動きにくそうな正服を着て、見た目だけは『いち国王』そのものの姿の扇賢の姿が収まっていた。
(なにを言われるのだろう)
 彪は、硬直したまま、彼の言葉を待った。
 その彪を見て、扇賢は、にやりと笑った。……『いち国王』というには、やや不敵すぎる、笑い顔だった。
「……汝(なんじ)には、『占天省・開発部』から、『雲天宮・斎姫補佐官』の任に異動してもらう。今後は、『雲天宮』への常勤と、『占天省』と『雲天宮』を行き来し、その連絡役となって、この二組織を連携させ、我が国の『巫覡』の最高位である『斎姫』を補佐することを命ずる!」
 彪は、驚いて、平伏していた状態から、思わず体を起こし、背筋を伸ばしてしまった。
 ……お姫様の『補佐』?……俺が……?
 扇賢は、今度はまじめな顔になり、言った。
「お前の役目は、『術』を開発し、それを使い、『斎姫』を専門に護ることだ。……この処遇が、お前の犯した『重大な罪』への『罰』だ。わかったな」
 彪は、ぽかんとしていたが、周りのどよめきに、はっと我に返り、
「……は、はい!……ぜ……全力をもって、その任に当たらせていただきます!」
と、言って、再び平伏した。
「扇王(せんおう)(扇賢の公式での名)様。……この異動のどこが『罰』に当たるのでしょう」
 これは、左遷というより、むしろ、昇進だ。
臣下の一人が、不思議そうに言ったが、扇賢は、もう、いつものように面倒くさそうに、
「いいんだよ。これが一番、こいつには効くんだ。……いろいろあってな」
 と、だけ、言った。
 扇賢が変わった男であることを知っている臣下たちは、それを聞いて、みんななぜだかはわからないままに、それでもなんとなく納得したようだった。
 朝から混乱を極めた朝参は、やがて終わった。
 
 『陽天宮(ようてんきゅう)(朝参など、臣下一同を集めた催しを行う宮殿のこと)』、『朝参の間』で、皆が解散した後、彪は取り残され、座したままぽかんとしていた。
 残っていた王音と、ナイトが、彼に近づいてくる。
「……いい『罰』ね、彪」
 王音が、笑いながら彼に言う。ナイトは、
「彪殿。……いくらご同僚のあなた様でも、むやみに暎蓮姫に触れるのだけは、わたくしが許しませんよ」
 と、憮然として、言った。
 これが、扇様からの『罰』……。
 彪は、困惑していた。
 昨日、あれほどお姫様を護ることにてこずったのを見ていたはずなのに。それでも、俺を、お姫様の近くにおいてくれるのか……?
「……彪様!」
 ほかの臣下がいなくなるのを、待ちかねていたように、小さいほうの御帳台から、暎蓮が飛び出してきた。いつもの『斎姫』専用の衣装を着て、その裾を踏まないように持ち上げながら、一生懸命走って、彪のもとに来る。その顔は、輝くばかりの笑顔だった。
「お姫様……」
 暎蓮が、彪に飛びつくようにして、彼の前に座り込む。彪は、暎蓮の顔を見ても、まだぼんやりしていた。
その彼の両手を、暎蓮は取った。
「うれしいです、彪様。……これからは、いつでもご一緒にいられるのですね」
「え?」
「彪様の今後のご役職は、『雲天宮・斎姫補佐官』ですから。今後は、彪様も、『雲天宮』でお仕事をなさるのですよ。これからはずっと、ご一緒に、いろいろなことができるようになるのです。……私、もう、これからが、楽しみで!」
 暎蓮が彼の手を握ったまま、叫ぶように言うと、彼女の後ろから、扇賢が、こちらに歩いて来ながら、動きにくい正服を一枚、二枚と脱ぎつつ、言った。
「おい、暎蓮。これは、『罰』なんだぞ。そう、うれしそうな顔をするな。それから、お前たち、……くっつきすぎだ」
「あら」
 暎蓮は、顔を赤らめて、あわてて彪の手を離した。彪も、我に返って、赤面する。
 彼女が後ろを振り返って、扇賢に言う。
「でも、こんな素敵な『罰』は、ほかにはありません。……さすがは、扇賢様です!ありがとうございます」
「だから、これは、『罰』だよ。……礼を言われるのは筋違いだ」
 扇賢は、憮然として、言った。
「おい、彪」
 彪は、かしこまった。
「は、はい」
 扇賢は、彼に向けて言った。
「これからは、この城に現れた『妖異』は、すべてお前と暎蓮の責任で、なんとかしろ。お前たち『雲天宮』の者の役目には、この『城』自体を守ることもあるんだからな。……暎蓮も、いいな。ただし、お前は、まだ弱い。無理はするなよ。なにかあったら、すぐに俺たちにも言え」
 王音、ナイトのことも含めて言っているようだった。
 暎蓮は、座り込んだまま、扇賢を振り向き、輝くばかりの表情で、言った。
「私なら、大丈夫です、……だって、これからは、いつでもお近くに彪様がいてくださるのですもの。それに、今回は、新しい、私たちの『術』も生み出せましたし。……やはり、私と彪様の『気』の相性度は、抜群です」
 彪は、暎蓮のその言葉を、顔を赤くしたままうつむいて聞いていた。……顔が、上げられない。
 しかし、それを聞いた扇賢は、心底情けなさそうな顔をした。……そして、言う。
「……暎蓮。お前……、彪と俺と、いったいどっちと結婚したんだ?」
 今度は、それを聞いた暎蓮が、真っ赤になった。彪も、さらに赤くなって、下を向く。
「そ、それは、もちろん……」
 彼女は回らぬ舌で、口ごもり、扇賢は、がっくりと肩を落として、ため息をついた。それを見た王音、ナイトが、楽しげに笑う。彪も、やっと、落ち着いてきて、表情を緩めた。
……これからは、お姫様と一緒にいられる時間が増えるんだ。
それは、おそらく、生涯を『巫覡』として過ごすであろう、『恋』とは無縁でいなくてはならない自分への、扇賢からの、『男』としての優しさだった。
彼は、目を伏せて、彼に感謝した。……それから、『天帝』にも。
「……ほら。いつまで座っているんだ、お前たち。……行くぞ」
 扇賢の言葉に、彪と暎蓮は、あわてて立ちあがった。
一同は、そろって、『朝参の間』を出て、ぞろぞろと、広い廊下を歩きだした。
その時、暎蓮が、隣を歩いていた彪に話しかけてきた。
「彪様」
「なに?お姫様」
 暎蓮は、並んで歩く彼の片手をとり、硬く握った。
 そして彼女は、彼にしか聞こえないような小さな声で、だが、はっきりと言った。
「また、二人で、ご一緒に、冒険しましょうね」
 彼は、その言葉に、心臓を矢で刺されたかのようなショックを受け、頭と顔が熱くなった。思わず、顔を伏せそうになる。
 しかし、その寸前に、彼が見たものは、いつもと変わらず、彼に向けて優しく微笑む、暎蓮の顔だった。
 彪は、やっとのことで、うなずいた。
「……うん」
 彼もまた、彼女にだけ聞こえるような、小さな声で返事をした。
そのまま、赤い顔を隠すように下を向き、彪は、うれしさのあまり、笑顔になった。
(終)
淳虎
2019年06月11日(火) 14時51分55秒 公開
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No.2  淳虎  評価:--点  ■2019-06-19 20:16  ID:ug0hktLZ7QM
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ナカトノ マイ様
お読みくださってありがとうございます。扇賢がお気に召してくださったとのことで、うれしいです、ありがとうございます!
彪の冒険は、まだ少し続きますが、このシリーズは、扇賢が主役のお話もあるので(実は彼が本筋の主人公なのです)、いずれそちらも公開できたらな、と思います。その際には、お気が向かれましたら、ぜひ軽くお目を通していただけたら、うれしく思います。
ともかく、ご感想をありがとうございました。本当にうれしかったです!
No.1  ナカトノ マイ  評価:30点  ■2019-06-17 15:23  ID:FLHCVOVt6M.
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少年マンガを読んだ時のようなワクワク感が良かったです。
扇賢が好きです。
総レス数 2  合計 30

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